死直前の救いについて


側近奉仕者の寄稿 「すっかり浄めつくされて」

「私の前の家内は、昭和二十七年二月帰幽しましたが、

亡くなる前は大浄化で、ある日、明主様に御守護お願いをいたしましたところ、

「すぐに連れて来るように」とおっしゃられて、家内を連れておうかがいしました。

明主様は、長時間ご浄霊下さいました。

それから二週間、ずっと毎日お忙しいご日常を割いて、ご浄霊して下さいましたが、家内は二月九日に亡くなりました。

二月七日のことです。どうもよくならないので、「きょうは十分浄霊をしてやる」とおっしゃって、

一時間ご浄霊して休息という具合に、朝から四回されました。

亡くなる二日前ですから、家内は食欲は全然なく、「フウフウ」と荒い息をしていました。

明主様は、ご自分の昼食の中からエビのコキールを、「これをあげなさい」とおっしゃられ、ご自分の召上がるものを、死に近い家内に下さったのです。

家内は大変感激して、「おいしい、おいしい」と言って全部いただき、食欲の全然ない家内がすっかり食べて、涙を流しながら感激しました。

四回目のご浄霊を終えられた時、明主様は、「これで浄めるだけのことは浄めた。もう浄め残っているところはない。すっかり浄め尽くしたから、これ以上はしない。

帰って静かに御神書を拝読してやりなさい。そして、あとは神様にお任せしなさい」とおっしゃいました。

家内は「世界中で私ほど倖せな者はない」と何度も繰返し、感謝しながら霊界へ帰ったのです。」




明主様御垂示 「死直前の救い」 (昭和24年8月)

信者の質問
「死の二、三日前あるいは数日くらい前に招かれて御浄霊いたします場合、肉体は救えなくても霊を救うにはどうすれば最もよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「浄霊ですよ、浄霊すればいいんです。

それから、善言讃詞と御讃歌ね、あれを上げるんですよ。

そうすると霊界へ行って非常にいいですよ。

地獄に行くべき人が八衢(やちまた)になったり、八衢のが天国に行けたりして、たいへんな救いになりますよ。」




明主様御垂示 「天国から鶴が迎えに来た事例」 (昭和24年12月25日)

信者の質問
「浄霊をうけて死亡した信者の最後の言葉に、鶴が沢山遊んでいて、その鶴が迎えているからそこへ参りますと言って息を引取りました。

いかなるところへ行ったのでしょうか。また霊は救われていましょうか。御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「天国へ行ったのである。天国から鶴が迎えに来た。

浄霊のために、霊が向上したのである。」




体験談 祖父は安らかな永眠をさせていただきました (地上天国 2号 昭和24年3月1日発行)

日本五六七教会専信会 NN(20・男性)

「私は近眼でしたが光明如来様に救われてよりはその偉大なる力を初めて知る事が出来、御利益の有難さに深く深く感謝し、宮崎県ST教導所にで入信致し爾来数多くの御利益によりまして幸福な日々を過す事が出来るようになりました。

九月一日でした。私の祖父は病床について約一ケ年になりますが、数日前より苦しみ始め御飯が通らないと聞き早速浄霊させていただきました。

第二回目の時からあれ程苦しみに苦しんでいたのがいかにも心地よげに「スヤスヤ」と眠り始めましたので、皆大喜びでしたが、数日後予期はしていましたが終に永眠致しました。

その間は何の苦しい様子もなく笑いさえ漂わせつつ静かな永眠でした。

先生方のいわれる通り光明如来様の御光によって魂の救われる様を目の前に見せていただき、偉大なる御力を痛切に感じさせていただきました。

この上は皆様方と協力し光明如来様の御仕事、光明世界の建設に出来得る限りお手伝いさせていただきたいと思っています。」




体験談 入会後感謝の感想 (地上天国 4号 昭和24年5月25日発行)

日本観音教長生会 SS(男性)

「顧みれば戦争だけなわの頃、丁度昭和十九年春、徴用先名古屋から平素胃腸が弱かったため疲労と衰弱とで帰宅の余儀なかった長男は私にとっては四人の子供の内でたった一人の男の子で一日も早く健康体にして国家のために御奉公させたいとの一念で、

本村医井上医師の診察を受け胃腸疾患でしかも肋膜も侵されて、一家は暗黒の空気の中にあれやこれやと看護に余念がなかったが益々病勢は亢進し医師を代えても病名は変らなかった。

昭和二十年五月農繁期に入る頃とうとう病床に伏して医師から絶対安静をいい渡されました。

その年の八月中旬喀血するようになり、私は最早絶望の感にうたれました。

当時は父は持病のシャク、妻はルイレキそれからそれへと医者に親しむようになり、世の無情と貧苦に喘ぐ身となりました。

丁度その年の十月初旬頃近所のK某が、観音教とてあらたかなお蔭をいただける所が富士町市場にあるとの由、本人の希望に任せ先生の御浄霊をお願いお教えの道を実行いたしましたところ日一日と快方に趣いて参りました。

早速その月の二十六日に教修をいただきましたが、その後めきめきと血色はよくなり、体重は増し別に栄養もやらず農業にいそしむようになりました。

その喜びの内に平素病弱な妻も続いて父も教修をいただきました。

しかし私は父として喜びの内にも元より宗教の嫌いな愚人ですからどうしても馬鹿々々しく思えて仕様がなかった。

私は病気がよくなる時期が来たから全快したんだと一にも二にも御教が正しいとは納得出来ませんでした。

しかし平素長男曰く「御浄霊を受けて死亡したものは、死体が必ず死後数時間体温が下らぬ」との事で、私は半信半疑でおりました。

ところが昭和二十一年一月初旬から私の父は持病のシャクから腎臓病併発病床に伏し、私は医者を勧めたが長男もまた病の父もこのお教えにすがり、多忙の内にも朝に夕にまた苦しい時には寝食を忘れて妻と共に浄霊に専念看病してくれました、その年の五十五日苦しみもなく遂に帰らぬ父となりました。

行年七十二才の長命に私は貧苦の中でも幸福の父だと心中感謝と喜びに堪えません。

父の死体は果して子供のいう通り観音様の御偉力で全く何時間を経ても体温が去らず、初めて御利益の真実を知って有難い事が判りました。

しかし私にはまだ納得の出来ない事が沢山ありました。長男と隨分争いました。ところが昭和二十二年九月二十六日朝、突然工場にて眩暈(めまい)がして昏倒致しまして死の一歩前となりました。

私はその時初めてまず健康と思いました。

健康なくして幸福なしと心の中では知らず知らず経文を唱えていた。

全く過去は余りにも愚かであった。

まだ遅くないとて四五日経て浄霊していただき、長谷川先生に種々悟されて初めて我に帰ってその後二十数日快方に赴き、私の喜びは如何許りか、手の舞い足の踏む所を知らずという程でした。

観音様の御尊徳ここに神霊の放射を讃えざるを得ません。」




体験談 生死を超越しての絶対の御守護 (地上天国 5号 昭和24年6月25日発行)

日本観音教木ノ花会城西第二教導所 教導師 SK(48・女性)

「これは御守護の一端一小話として御礼申上げます。

それは昭和二十一年の冬の事、私の所へその頃半歳程前から肺結核第三期、医者からは不治の宣告を与えられて幾度か死を決意したという二十八歳、子供一人を持った農家の一婦人の話。

私の所へ初めて見えた時は僅か十丁位の所からですが、実に喘ぎ喘ぎただ気力だけで生きているとしか思えない位「五合の水柄杓も両手でなければ持ち上げられない」とも言いました。

それでも御守護により本人の熱烈な信仰により日々薄紙を剥ぐように快方に向かい、さしもの難症も、もう二、三カ月継続したらと思われる迄になりました。

ところが丁度その頃農家には忙しい麦の季節となりました。

この人は非常に従順な律義者で恐らくはこの人の性質、それから環境、病知らずで無理解な夫、頑迷で仕事一途の姑、この環境が一番この人には災いしたのでした。

家の中の仕事がどうにか出来るようになれば田畑の仕事もと思うのは、あるいは手不足な農家の事とて無理はなかったとも言えましょうが、

この人の場合それは明らかに無理でした。寒風に晒されての労働に手足は凍え、寒さは骨身に徹したのでしょう。

ついに風邪を引き込んでしまい、それがもとで直接死の転機となった肺炎、しかも両肺を併発してしまいました。

情けない事にはこうなってもまだ家の人達は理解を欠いていました。

漸くに私が行った時にはすでに肺炎も肺炎、あえぎながらの切なそうなその呼吸の度毎に両肺は「ガツ(と言うか)ゴー(と言うか)」と異様になり、疲れ傷ついた肺臓のその状態が手に取るように感じられました。

そして高熱、極度の衰弱、ああせめてもう三日早かったらと私は痛歎しました。


こんなになる迄すてて置いた家の人達を私は恨めしく眺めました。

もう命旦夕に迫っているのです。

突然病人は私を呼びました。意識ははっきりしております。

私は思わず病人の手をしっかり握りしめました。

嬉しそうなその顔「お待ちしていました。有難う御座います」と病む人は、私の来るのをどんなにか待ち俺びた事でしょう。

嬉しそうな顔が語らずともよく判ります。

死ぬまでにもう一度最後に御浄霊をと願っておったのでしょう。

暫し我を忘れて御浄霊をしておりますと、今度は「お観音様有難う御座いました」はっきり、そしてまた再び「お観音様有難う御座いました」と呼吸も大変楽になりましたが、もう時間の問題だと直感されました。

ああこの世の別れだ。刻一刻最後の瞬間は近づきました。

死出の旅路、胸にしっかと抱いたお観音様霊界に行っても幸福でありますようにと、生前の御守護を心から御礼申上げると共に、一心に祈り続けました。

これだけの病患に拘わらず、この人のその顔は何と清々した美しい事でしょう。

病み苦しんだ人の苦悩の色は微塵もありません。

常々会長先生からお聞きしておりましたが「死の刹那の相はそのまま霊界へ行って天国八衢地獄の自分の位置を表わす」と今私にはこの人の相はお観音様のお顔のようにも思えました。

生と死を問わない、生死を超越しての絶対の無限の御力によって御守護によってこの人は完全に救われたのです。

劇的と言わんか、崇高と言わんか、こんなに美しい最後を私は初めてみました。

家の人達にも一人一人に今までのお礼を言い、なお残した一子の事もくれぐれも頼んで、世間多くの信仰なき者の死の場面とは余りにも相違せるその安らかな状でした。

強く正しく信仰の道に励んだこの人はただ死に際して狼狽やあるいはこの世の執着等の全然なかった事は勿論ですが、

第三者から現実的にみればもう二、三カ月せめて暖くなる迄経てば健康体になれたのですから不幸と言えますが、その不幸を超越し運命に満足してただ一切を感謝で送ったのです。

何と有難くも尊いお観音様の御慈悲でしょう。

若くしてその肉体は遂に衰弱のために倒れましたが、霊は即ちあの人は最後の気高く安らかな相そのままに天国に住まいまして、きっとお観音様のお膝元で、何か楽しく日々御用を務めさせて頂いている事でしょう。私は折にふれては思い泛べます。」




体験談 安楽往生の御利益 (2) (地上天国 8号 昭和24年9月25日発行)

日本五六七教神明会教導師 OS(41・女性)

「亡夫OR(五十三才)初め私達一家の頂きました御利益を報告させて頂き、限りない御恵をお礼申上ます。

顧みますと亡夫は昭和十六年頃より世の人にも申せぬ悲惨な病気(癩)に罹り約一年半という間、原因不明のまま、不安と焦燥の心で医師にかかりましたが、最後に生きるより幸い病名を仰せられた時には、全く地獄に突落されたに優さる苦しみでした。

今まで足繁く来た人もピタリと途絶え人の見る目も冷たく、聞くも汚らわしいとの無言の人々に接する度に、一家心中でもと思った事は一再ではありませんでした。

私達にもまして本人はどんな気持でございましょう、胸の張り裂く毎日々々は全く言葉も涙なくしては語る事が出来ません。

せめて心だけでもとの気持は志賀安太郎先生により観音様に結ばれたのでありました。


それは昭和二十一年の八月の暑い盛りでした。

本人も私達も何かこの因縁を悟って逝きもし送りもしたい心は観音様にひた向にお縋り致したい熱海の毎月のお詣りになり、一人も多くの人をとの気持に変って参りました。

お詣りにゆく度毎に喜びは増すばかりで、何も御用らしい事もしないのに有難い御利益を頂きただ今では家内観音一家にさせて頂き、光明如来様の御神体もお祭りさせて頂き、かたじけなくもお資格まで頂きました事は有難くお礼述べさせて頂きます。

夫もこのような家庭にさせて頂き心より安心出来、また自分の御用を知ってか去る四月二十四日。

それはそれは安心し切って帰幽させて頂きました。

その折頂きました本人並びに私達の御利益について御報告させて頂きます。


それは丁度四月二十一日の事でした。

その日は二三日前より頭が非常に痛むと申しておりましたが「何だか耳鳴がして止まぬ、丁度室内に無情の風が吹いているようだ、木の葉がもぎれそうに吹いている」と申しますので私達も変だと思っておりましたが

翌二十二日になりますと、「私は今まで観音様の本当の御利益は知らなかったが今日ははっきりと解らせて頂いた」と申し、次の如き事を話しました。

「私は観音様のところへ行って観音様と阿弥陀様の御利益に就て聞いて来た」と申し

観音様の言われるまま善言讃詞をお唱え申しますと、眼前に三筋の川道が見え水は清く深く水晶の如く澄んでみえ心がすがすがしくなった。

それから後ブドウ棚のようなものが見えお唱え申しているとその棚が開け金銀の雲がたなびいて実に美しかった」と申し、

それからお唱えしていると「自分の家の先祖のような人が約四十人位浮んで来た」と御先祖の嬉しさを表わすようにニコニコと微笑ながら話しました。

誠に今まで知らずにお唱えしていた善言讃詞の尊さをしみじみと悟らせて頂きました。


二十三日になりますと娘を枕元に呼び「信徒の人に集って頂きたい」と申しますので近所の信徒の方親戚の人達約二十人程の人々に寄って頂きました。

そして皆んなで善言讃詞と御讃歌をお唱えしながら浄霊していただきましたら

夫は「私の霊は低いから縁ばたまでしか来れなかったが浄霊していただいたら縁の上まで上れるようになった」と嬉しそうにしており、

寒くて震えておったのが「熱いから蒲団をとってくれ」と申すようになり、

十時半頃来ている皆さんに向って「色々とお世話様になりました。後に残った女子供は何分宜しく」と別れの挨拶を致しました。


全く有難くて涙が止めどもなく流れて参りました。

皆様も心より「安心なさい」と言ってくれ、本人も心より重荷を下したような安堵の顔を致しました。

その折近所のKさんという人が「なあにこんな元気な者がなんだね」と申しますと

「否私は二十四日の午前中には遅くても死ぬ」とはっきり申しました。

もう自分の死期を悟らしていただいたのでしょう。

「大先生が空中からお守り下さるから有難い」

「大先生やっとお世話になりましたが今に大先生のお手元に行かしていただきますから宜敷お願い致します」と新聞のお写真に向って二度も繰返し申しますのには信ずる者の幸をしみじみと味わせていただき、涙の流れるのをどうする事も出来ませんでした。

夜中の二時頃に大勢を前にし「観音様を信仰なされば決して間違はない。

私が先達になって参りますから皆さんもしっかり信仰なさって下さい。

今まで私は余り人のためになるような事をしなかったので罪が重かったのだから私が死んでから後もみんなのため一生懸命にやってもらいたい」と諭すが如く言われる言葉は一つ一つ胸に刻み込まれ、私達信徒の心を励ましてくれるように尊く聞えました。


その後うつらうつらと昏睡状態を続けましたが二十四日の朝六時半頃「便所に行きたい」と申すので「無理だから床の中で取って上げるから」と申しますと、

どうしても「勿体ないから嫌だ」と申して二三人掛りで便所に行きましたら大小便があり

「これですっかり汚いものは出した」といかにもさばさばした顔をしておりました。

主人が伏っておる室は光明如来様をお祭りしてあるお写真もありますので便用すら勿体ないと思う心には本当に申訳なく恥入った位でございます。

八時半頃になりますと「お扉が開いた蓮華の花が散っているところに階段がある。今登って行く、私があちらに往ったら家も出来るだけ守ってやるよ」と申しました。

みた眼も余り腹があおっておりますので「苦しくないか」と開きますと

「苦しい事もないが淋しい事もないし寒い事もない」と最後にニッコリ微笑しながら帰幽しました。

時に二十四日午前十時三十分、全くの大往生でした。

死ぬが死ぬまで絶えずニコニコ微笑しながら話もはっきりとしており、眼もみえ耳も聞えておりました。

右眼は病床に入らぬ前は曇りがありましたが死ね時は奇麗にはれ、亡夫の魂が浄まって行ったのを表わしているようでした。

亡夫を送り父親を送って残った私達も本当に心より安心して観音様より数限りなくいただいた御利益に感謝致しております。

この様をみ、信ずる者の例えようなき悦びをしみじみと悟らしていただきました。

信徒の方もそうでない人も観音様の前に心より頭を下げ、その御霊徳をお礼申上げました。

私達も亡夫の遺志をつぎ、この尊き御恵を一日も早く一人でも多くの方にお悟り下さるようお祈り申上げ、また努力させていただく心組です、厚く厚く御礼申上げます。」




体験談 天国に救はる (地上天国 17号 昭和25年10月15日発行)

天国大教会光輪中教会 KM(59・男性)

「五年間肺結核と言う病名の下に悩み続けつつ、遂に光明につつまれながら昇天させて戴いた娘と、その娘に導かれて光明に救われた私共一家の得難い体験を記さして頂きたいと存じます。

顧りみますれば女学校三年在学中肺結核の診断を受けた五女君子は、学校を退学し、爾来医療に、民間療法にと、転地療養こそしなかったもののあらゆる療法を尽しましたにもかかわらず、一人、二人、三人の医者に次々来て貰っても効なく、四人目の医者からも、本人を目の前に据えて「もう駄目だ」との宣告を受けたのでありました。

この時は本人も真蒼となって気力を亡くし、他から見る目も可哀そうな程悄気ておりました。

そして遂に五人目の医師からも一昨年夏、匙を投げられたので御座居ました。

かくなりましてよりは、最早医師は断念し、民間薬よ、灸よ、祈祷よと、種々手を尽しましたにもかかわらず、容態は依然思わしくなく

丁度その頃友人よりの勧めで「生長の家」の信仰療法を受ける事となりまして、本人も一生懸命「病なし」との信念の下に、洋裁にも通い続けたのでしたが、

夏の暑い日盛りを通ったのが身体にこたえたものか、親は勿論近所の人さえハラハラする程衰弱して終い、洋裁から帰るとグッタリと横になり、吐く息さえ苦しそうで御座居ました。

これでも本人は強いて通うと言ってきかないので御座居ます。

丁度その七月末頃と思いますが、遠縁の横山さんより救世教の御話をお聞き致し、これは結構な事だがと思案しております中、更に続けて横山さんと岡田さんとが来られて有難いお話を聞かせて下さいました。

娘は生長の家にも不安だったのでございましょう。

今はただ、一心に光明如来様にお縋り致したい様子でございました。

私共も蔭に呼ばれまして余りに肉体が衰弱しているから生命は何とも言えないが、霊だけでも救われるからとのお話しに、半信半疑ながら既に医師にも見放され、あらゆるものに信を失った今、何としてよろしいやらと考えた揚句・・・そうです・・・無い命ならせめて霊だけでも救われれば、また万が一にも霊体共に救われたならと思い、早速御浄霊をお願いした次第で御座居ます。

洋裁もこの身体では無理だからとの御話に娘も納得し、洋裁を断念して以来、岡田さん吉屋さんあるいは横山さんと熱心なる御浄霊を頂き御話を聞かせて頂く内に娘の信仰も日に日に進み、「地上天国」「自観叢書」「救世新聞」等貪るように耽読したもので御座居ます。

この娘の気持ちに引ずられ、家内がまず教修をお受け致し、次に待ち望んでおる娘にお受けさせようと致しましたところ、

娘の申しますには「私もお受けしたいのは山々ですが、お父さんが先にお受けして下さい」との事で、

私も前々から岡田さん達に再三お勧めを戴いていたので御座居ますが、

私の家は先祖代々真宗の信者であり、祖先から一貫して阿弥陀様にお縋りして来た今日、宗旨変えをする事は養子として家を継いだ自分は、先祖を迷わせる事にもなり、

また私自身としても阿弥陀様に対して申訳けない。たとえ家内や娘にお守を頂かせても、自分だけは真宗の信者でと固く思っておりましたので、その旨申しましたところ、

娘は泣き出しまして、「お父さん。是非お受けして下さい」と涙を流して申すので御座居ます。

また岡田さんからも私の意見の間違いである事を諄々と聞かせて頂いたので御座いました。

今にして思えば誠に勿体ない事で御座居ますが、当時の私は祖先に対して申訳ないと云う気持ちと、無い命なら娘に安心して死なせてやりたいと云う。

矛盾した二つの気持ちに迷いながらも、結局娘可愛さに、娘共々昨年九月に入信させて頂いたので御座居ます。

その後「御屏風観音様をお祀りして下さい」と娘が申しました時にも、やはり真宗を捨て切れないでおりましたので、種々と悩みましたが、岡田さんの勧めと、娘の熱心さに遂に承諾したので御座居ました。

入信後皆様と共に娘の御浄霊につとめさせて頂きます中に、今度は私も家内も共に眼の御浄化を頂き、その上私は耳まで遠くなって来たので御座います。

光明如来様の御光りで今まで曇りきっていた眼や耳が浄化し、今までより一層良き眼や耳にして披下るための途上の御掃除だから今に良くなりますよ」と何遍言われてもその無味が信じられず、「お守を受けて病気したのでは・・・」と考えていたので御座居ます。

それでもとにかく早く良くならなくてはと、娘の御浄霊の間を見ては家内と互いに御浄霊し合ったのでございます。

しかし浄化はいよいよひどく眼は益々赤くなり、耳も悉皆(しっかい)聞えなくなったので御座居ます。

その中にも、私がお守を受けた事を聞かれた近所の人々が御浄霊してくれと次々お出でになるので御座居ます。

その私が、眼は紅くただれ、耳は聞えないのにと思いましたものの人の良かれと願う心の人が真の人だ等々御教えをかねがね承っておりました故、勇を鼓して病人さんの御浄霊に回らせて頂きました。

遂には頼みに来られる方が多くて、娘や家内や自分自身の御浄霊すら出来なくなったので御座居ます。

無責任な事は出来ないと、一生懸命御浄霊に回らせて頂きます中に、何たる事で御座居ましょう。

いつしか家内の眼、私の眼も耳もすっかり良くなってしまったでは御座居ませんか。

最初の奇蹟にまず驚き、かつ一層信仰を深めたので御座居ましたが、自らの因縁深きをしみじみ悟らせて頂くと共にひたすら御神業に励ませて頂けば、自他共に救わるるの御教えをつくづく体験させて頂いたので御座居ます。


十一月半ば頃までに、娘はあの甚しかった衰弱を段々取り戻して参りましたが、その頃になって娘は、「御神体をお受けして戴きたい」と申しておりましたが、種々都合もあり渋っておりましたところ、娘は「私を救うと思ってお祀りして頂きたい」と泣かんばかりに申します。

その様子を伺って、娘の熱烈な信仰に「ハッ」と自分の間違っている事を悟らされ、すぐさま御神体をお願い申上げて御祀りさせて頂きましたのが、あたかも十二月十二日の事で御座居ました。

一時衰弱を取り戻したかに見えた娘も、体力がつく毎に御浄化も烈しく、段々衰弱して参りましたが、その頃より娘の衰弱と反対に、私の信仰の目は段々に開けて来たので御座居ます。

一心に御神体にお祈りし、他人様に、娘に一心に御浄霊をさせて戴き、次々と病人も癒させて頂いたので御座居ました。

夕方ともなれば肺結核の娘と共に、家族一同食卓を囲んで食事をし、信仰話しに耽るので御座居ました。

この一事を見てさえ、救われているかいないか、胸に痛い程感じたので御座居ます。

その頃ふと気付いたので御座居ますが、昔から家の中に鼠が多く、今御神体、御仏壇のある二階は特に被害甚しく、仏壇の御供物等たちまちにして食い荒されて困っていたので御座居ますが、御屏風観音様、続いて御神体とお祀りさせて頂いて以来、二階はコトリと音もしなくなり、御供物等一昼夜置いても何等被害なくこのような事は何十年来全くなかった事で、今更のように御神威の尊さに身の引締る思いがしたので御座居ます。

本年一月には、娘の願いもあり、初めて熱海に御詣りさせて戴き、明主様の御尊顔を拝し、崇高なる法悦の雰囲気に浸って帰郷、この喜び、この気持ちを娘に伝えんと致しましたものの、当の娘は耳の浄化にて既に耳が聞えなくなっており、黒板に書いて娘に見せるような次第で、思うように意を通じ得られなかったのが何よりも残念で御座居ました。

このような経過をたどり、数々の御教えを聞かせて頂くにつけても一家入信の必要を痛感致しておりましたが、君子の兄は若い者の常として、中々信仰に入り難く、本人もいろいろと悩んでいた様子で御座居ましたが、これもようやく皆様の心よりの御勧めと、君子の熱心な信仰に打たれて、

一月二十一日遂に鬼頭先生より御教修を戴きまして、幼い弟妹は別として一家全部入信致したので御座居ますが、

この兄の御教修頂くのを待っていたかのごとく、その日より遂に喉頭結核となり、最早命数尽きるの近きを思わせるようになったので御座居ます。

この様子をお聞きになりました鬼頭先生には、御多忙中にもかかわりませず、わざわざ御足労下され、御浄霊頂いたので御座ます。

「苦しくはないか」との御問いに、浄化の激しいにもかかわらず「苦しくない」と申し、また私共の手を煩わす事なく自分で台所に起き出でて食事を共にし、自分で用を足しておりました。

これが御守護でなくて何で御座いましょう。全く私共人間の目には不可能と思われる事を、枯木のような身体で動作するので御座居ます。

しかし二月十日には頑張り通し得ず、病床に横たわったまま動けなくなりました。

これまでは病人の都合上階下に寝かせていたので御座居ますが、最早最後と感じ、二階の御神体前に床を移し、病人を背負って上り、寝かせんとしましたところ、

自由のきかぬ身体を一生懸命座り直して御神体に向い、震える手を合せながら、思うようにカの這入らぬ身体をかがめてようやくお詣りをすませ、またまた向をかえて今度は屏風観音様に向い同様の御詣りを済ませ、ようやく床に横わったので御座居ます。

骨と皮ばかりになった身でありながら、良くこれ程までにと、我子ながら手を合せて拝みたいような気持ちでございました。

翌十一日は小康を得たので御座居ますが、俗に言う中日和というので御座居ましょう。

夕方娘の傍に寄りますと「皆私が死ぬかと思っているらしいが、これくらいでは決して死なない。

一家の因縁を背負ってどこまでも生きて、生きて、生き抜く」と出ぬ声を無理矢理に出して申したので御座居ます。

その夜腹が痛いと申しますので、吉屋さんに御浄霊を御願いしましたところ、腹膜炎の由で、もう命旦夕に迫ったなと感じたので御座居ます。

しかし病人は二階御神体前に移してより、ずっと楽になり、広大なる神様の御守護による事が判然とわかり、感激また一入で御座居ました。

翌十二日徹宵看護に、また御浄霊に当っておりました私の手に、病人の足の腫みが感ぜられ、いよいよ時が来たと思って泊り込みの吉屋さんを起し、早速御浄霊をして頂いております中に

病人が「水をお茶碗に入れて下さい。そして私を起して下さい」と申しますので、起すのも最後だからと、私の背にすがらせて起し、茶碗の水を飲ませましたところ、顔色たちまち変り、口から唾がだらだらと流れ出しました。

吃驚しあわてて寝かせましたが顔は土色となり、瞳孔は開いて眼は吊り上っているので御座居ます。

「しくじった」と思いましたが、一心に御浄霊して頂いております中に、顔色はもとのごとく戻り、痰が出るようになりました。

御浄霊を知らなかったら、あのままの往生だったかも知れないと、ほっと致しましたものの、何としても後僅かだからと、続けて岡田さんにも来て頂いておりました。

暫時する中、十二日の朝もようやく明け放れる頃で御座居ました。

岡田さん、吉屋さん、家族一同、殆んど同時に、病人の額から白い湯気様のものの立ち昇るのを認めたので御座います。眼の錯覚か知らと見直しました時に、

「これは霊ですよ、霊が救われて、今抜けているのですよ」との岡田さんの声に、一瞬一同厳粛な気に打たれたので御座居ます。

生え際を中心として、前額部全体から出る、その白い煙は求心的に生え際辺りに吸い寄せられてモヤモヤ立ち昇り、しかもその中心に一入薄い白色の霞のようなものが、スーッスーッと直線的に昇って行くので御座居ます。

額に浮ぶ汗を拭いた直後も、何ら変りなく出て行くので御座います。

見る見る中に白煙は段々濃くなり為に生え際の髪さえ白くなって見えるではありませんか。

ああ、君子は救われたのだ。肉体は何とも止むを得ないが、霊は、広大無辺なる大慈大悲の光明如来様に、永遠に、かくも、かくも救われたのだ。

と思って参りますと、御神徳の有難さかたじけなさに思わず手を合せたので御座居ます。

岡田さん、吉屋さん、家族三人は勿論で御座居ますが、小さい弟妹達さえこの奇蹟に打たれ手を合せ、七人でひたすら善言讃詞を奉唱しつつお祈りする中に、漸次白煙は薄くなり、遂に見えなくなってしまいました。初めのお話し通り、君子の霊は本当に救われて昇天して行ったので御座居ます。

時計を見るさえ忘れていたので御座居ますが、この間三十分以上経ったと思います。

この時より娘は非常に楽になったようで、霊も抜けたからと、医者を招んだので御座居ますが、医者はもう亡くなられたかと思って聴診器のみ持って来たとの事で、一通り診察の後「もう時間の問題ですよ」と言い残したまま帰りました。(時に八時半)

この事も、最後まで清くと願った君子の気持が通じたのかと存じました。

医師が帰った後は益々楽になった様子で「お父さん、何か買って」と申しますので、飴玉を買って食べさせてやり、また、ミルクが欲しいと申しますので、ミルクを少し作ってやりましたが、美味しそうに飲んで終い、まだ欲しい様子なのでまた後で作ってやりましたところ、これも全部飲み干し、満足した様子で御座居ました。

続けて岡田さんに御浄霊をして頂いております中に、今まで普通に呼吸しておりましたのが、急に吐く息ばかりとなりましたので、急いで家族一同を枕許に呼び、直ちに善言讃詞を二回唱和し終りました時、幽かにコロコロと喉の奥で鳴ったと思うと、永遠に十九歳を一期として動かなくなったのであります。

時に九時三十分、眠るように静かに、しかも神の御光りに包まれて昇天して行ったので御座居ます。

奇しくも月こそ違え、御神体をお祀りしましたのが十二日、大いなる恵みの下、実に医師に見放されて一年十ケ月余を生き抜き、かくも一家を導いて遂に霊界人として救われて行きましたのも十二日、誠に偶然にして必然、人力の到底及び得ざる所と、恐懼感激致すもので御座居ます。

(時に昨春最後に見放された医師から」あの娘さんはまだ生きていますか」と御挨拶を受けた程で御座居ます)


当日は坊さんも支障とかで。善言讃詞で御通夜させて頂き、翌朝(死後一昼夜)湯灌をさせようと思い、覆ってあった白布を取り去りましたところ、

何と言う不思議で御座居ましょう! 死に際にはこれ程でもなかったのに、今眼前の娘の体は、血の色こそ少なけれ、あたかも生きているかのごとく顔に艶が出て、皮膚もはりがあり、特に唇のみはあたかも紅をさしたるごとく一際生き生きと輝いており、その美わしき姿に感激しつつも、

着物を脱がせ、シャツを脱がせて参りましたが、首であれ、肩、肱、手首、指の第一第二関節、背骨も、腰も、足の爪先に到りますまで生きている人のごとく柔軟で、かつ自由に動くので御座居ます。

更に身体は温かく、脱がせた着物も生身の人が脱いだごとく温かいではありませんか。

湯灌をすませ、着物を着せれば、何か言いかけるかと思う程で、眼は半眼に閉じ、口を小さく開いて、何か楽しい夢を見て笑っているかのごとく、私もこの年までこれ程なごやかに救われた死顔を見た事はなかったので御座居ます。

死してなお救われるこの奇蹟は、新聞雑誌のお蔭話に幾多載ってはおりましたものの、凡夫の浅ましさ故、かかる事もあるのかと人智で解釈していたので御座いますが、今現実にその通りを人智で及ばぬ不思議として、まざまざとこの目で見せて頂いたので御座居ます。

屍体にまでかくも御救いを頂いた事は、学問で何と説明され得るで御座居ましょうか。

人智に頼りしもののもろさ、弱さ、しかして神力の及ぶ所、自由無碍そのものにて、慕いよる諸々を、無碍光を以て救い給う事の余りにも現実的に、しかも厳然と御示し頂いたので御座います。

居合す一同余りのこの奇蹟、余りの勿体なさに、またしても手を合せ、善言讃詞を奉唱させて頂いたので御座居ます。

午後荼毘に付し、翌朝骨を受けに行ったので御座居ますが、最後まで浄化し切れなかった頭部は黒味を帯びておりましたものの胸辺りの骨は真白で、御浄霊によりかくまで救われるかと、御神力の偉大さ、有難さをひしひし感じさせて頂きました。

葬儀も近親者のみでと思っておりましたのに、意外にも同窓生の方も多数見え、盛大裡に終了させて戴きました。

戒名も『一如釋妙麗信女』と名付けられ、訳の分らぬながら非常に良い名前のように存ぜられ、御神徳の現界霊界を通じて、こうまで及ぶものかと、勿体なさ、有難さに申し述ぶべき言葉も御座居ません。

三男も、以上の終始をつぶさに目のあたりに見せて頂き、今更のように懐疑的であった自らを悟らせて頂き「君子が死んだのは寂しいが何だか家の中に光が射し始めたようだ」と申し、家族と共に奇蹟を語り合い、御神徳をたたえ合っているので御座居ます。

その頃をかへり見すれば恐ろしも 暗路杖なくさまよひし我

の御讃歌の通り、御神意の下、明主様の御守護により、私共に君子の病気と死を通して、貴重なる御教えと奇蹟を賜り、光明の道に目を見開かせて頂いたので御座居ます。

何という御大慈、何と云う御大悲、誠大海の粟粒にも比すべき迷える小羊の一匹にまで、かくも憐れみいつくしみ給うとは。

けだし明主様あってこそ、初めて具現されたるこの御神徳、明主様の御教えありてこそ知る大真理、称えても、称えてもなお称え尽せぬ光明如来様。

今救世主とならせ給いてこの上に天降らせ給い、大神力を揮って救世の大業を推し進めらるると拝聴致しております。

今の時を措いていつの日か御神恩の万分の一に副い奉る事が出来ましょうか、御守護の下、家族一同御神業の一端にも励まして戴き良く念願致すもので御座居ます。

明主様御守護の下、会長様をはじめ、諸先輩の御指導を戴いて、亡き君子の分も合せて生命ある限り、根限りお尽しさせて頂きたく念願致しております。何卒よろしく御導きの程御願い申上げます。

終りに臨みまして、この事多き間、鬼頭先生始め、岡田さん、吉屋さん、横山さんと親身も及ばぬ御親切、御心配賜りました事を心から厚く々々御礼申述べさせて戴き、つたない筆を擱きます。」




体験談 善言讃詞の御力 (地上天国 17号 昭和25年10月15日発行)

天国大教会日進中教会 ST(27・女性)

「昨年、十二月十六日早朝、私は女の子の母とならせて戴きました、結婚後二年子供の無かった私共も、入信以来恵れたその日を送らせて戴いておりました。

けれど人一倍毒素の多いため百人に一人の難産で御座いました。

出産はさせて戴きましたものの胎盤が下らずもう時間の問題となり、主人に御浄霊を戴いておりましたが産婆は私の顔色を心配して自ら近くの医師に飛んで行きました。

お蔭様で御守護を戴き胎盤も下りました。

何分にも毒素の多い私故に月満ちてはいました子供も僅か五百匁しかありませんでした。

しかし出産の際窒息したためか本当に土色で死人も同様ようやく三十分程たって泣き出した位でした。

それからはお陰様で大変元気でお乳も上手に呑むようになりましたがお乳が納りません。

異物の多い者のお乳の中にそれが含まれているお話を思い出し私も子供も御浄霊を戴いておりました。

お蔭様で一週間目にはどうやら床から離れる事の出来るようになりました。

お七夜のその夜私も気分がいいので七時半頃子供の枕元で弟の御浄霊をさせて戴いておりましたがふと子供へ目をやると、今まで元気で泣いていたのに急に額から土色となり呼吸は止り死相になりました。

とっさに私は「アレこの子は」とその声に主人も驚き子供を見るや「なんだ駄目だ」と叫びました。

私は善言讃詞をと思いその揚に居合わせた三人で一心に善言讃詞を奉誦し続けました。

四十分程たった頃、顔から色もよくなって参りましたのでようやくホットして善言讃詞をやめますとまた額から土色になり再び善言讃詞を奉誦約二十分程してよくなりました。

三回そのような事を繰返して今度こそはと四回目にはよくなりましてもずっと善言讃詞を奉誦しておりました。お蔭様でようやく蘇生しました。

日頃祝詞、善言讃詞は霊界に通ずると伺っておりましたが実際に体験をさせて戴く事が出来ましてはっきり分らせて戴きました。

出産後毎日御浄霊を致しておりましたがその時は余り急な出来事に御浄霊の事は考えずただ善言讃詞を奉誦するのみで御座いました。

翌日は元気なく熱は高く口より黄色い液を度々多量に出しており時には顔一面かぶるように吐いておりました。

二日目もずっと高熱が続き苦しそうでしたから絶えず善言讃詞を奉誦御浄霊を致しておりましたが三日目呼吸困難となり今度は黒茶色の液を吐き始め大変苦しそうで御座いました。

善言讃詞を奉誦させて戴きますと楽になります。

翌二十六日十三時十分頃静かに帰幽致しました。

夜昼の違いは御座いますが出産と死と時間は同じ時刻で御座いました。

死後なお引き続き善言讃詞を奉誦致しまして四日前の事を想いもしや今一度目を開き口を動かしてくれるかと念じておりましたが今度は心の奥底から「諦めよ諦めよこの子の死後は今までより一層お縋り申して人助けをせよ」との気持が抑えても抑えても湧いて参りましてどうする事も出来ませんでした。

死直後の美しかった顔、御浄化中の苦悩の様子は少しも無く本当に美しく二時間半後には顔まで紫色に全身毒血が浮き上って来ましたが、時間の経過するに従い顔もすき通るようにきれいな色になり、十時間も体温が残っておりました。

僅か十日間の短い一生で御座いましたがこれも本当に罪穢の多い私の犠牲になってくれた事と思います。

罪穢毒素の多い私が当然死ぬべき運命にあったので御座いましたがここに神様の御守護を深く深く感じさせて戴く事が出来ました。誠に有難う御座いました。

子供の死により私共は本当に信仰心を新に致しました。

これからは御恩の万分の一にもと微力では御座いますがお報いさせて戴くよう努めておりますがまだまだ足らぬ身を本当に申訳けなく存じております。

ただ今にして悔います事はなぜ妊娠中御浄霊を戴かなかったかと、日々の御浄霊のいかに大切であるかを痛切に感じて毎日毎夜主人とお互いに御浄霊致し合っております。」




参考 明主様御垂示 「霊界で救われるための御神体奉斎」 (昭和26年12月6日)

信者の質問
「肺結核で、発声不能の者ですが、小銀M(男性)と申しますが・・・」

明主様御垂示
「変った名前だね。元両替屋か何かしたのかな・・・」


信者の質問
「夢を見ましたのでございますが、私が明主様のご案内をしてお着きになられヘチマの種を下さり、腕をお出しになられて、小銀にお見せになりましたそうで、

お腕に皮膚がないところが三四寸ほどあり、肉が見えているようで、ここを撫でてごらんと仰せられ、撫でさせていただきましたところ一、二寸に縮んだそうです。

そして、ワシも人間だから、ここまでしかできないんだ。

しかしこれからは神になるんで、これからは良いんだ。

と仰せられ、そこで目が覚めました。またお腹が空いたから中食を食べさせてくれ、

とのことで、天井裏のようなところに用意してあったので、

それをお出し申し上げますと、それを召し上がられて、非常にお喜びになられ、そこで目が覚めました。

また車のような物があって、それをまわしてごらんとのことに、まわしておりますと疲れて来、ワシを手の上に乗せてごらんと仰せられますので、お乗せいたしますと、楽にまわるようになりました。

すると、パッと蓮の花が出て、明主様のお姿が観音様のお姿になられましたそうです。

なお、主人が夢を見ていた頃に、奥さんも夢を見ましたそうです。

それは、主人が死んで棺の中に入れているところだそうでございます。

光明如来様をお迎えさせていただきたいということでございますので、

お祀りをするしないは、明主様にお伺い申し上げてから決めるといってまいりましたが・・・

本人はこのことにより、非常に感激し、熱心になっております」

明主様御垂示
「するしないというのは、おかしいじゃないか。

一刻も早くしなければならない。

そんなことは私に聞くなんておかしい。」


信者の質問
「重病の場合に、早くいただいては・・・」

明主様御垂示
「本人の希望なら良い。

霊界で救われるからね。

唯、重病でいけないというのは、奉斎すると治るという、治るために奉斎するというのは、いけないんです。

今の場合は本人が、信仰に対する理解ができているから、霊を救うという意味で、早くやったほうが良いです。病気のほうは・・・」


信者の質問
「衰弱が加わっており、脈拍が早いのに・・・」

明主様御垂示
「霊です。夢は、私の今までの経路です。それに、その人の関係があるので大したものではない。」