GUN&FRONTIER (c)TAITO
この作品は、私にとってデザイナーとしてはじめてのオリジナルであるとともにプロデューサーとして
会社からひとつの使命を言い渡された作品であった。

私は開発にGOサインをもらうために、200ページを越える企画仕様書を一ヶ月で準備
提出したが数度に渡って拒絶され、内容を変えることなく予算を40%ほどカットされ
認可された。

「テーブルシューティングは人件費の高い社内で作るべきではないし、高価な基盤
を使うべきではない、下請け会社へ発注の製作物を買い取った方が得策である」
これが営業的言い分であり、正論である。

「しかし、新開発されたマザーボードFシステムを市場に展開させる為に、ソフトア
イテムの数を求められる中、シューティングというジャンルを除外して考えるのは
無理」これが開発側の言い分であり、これも正論であった。

最終的に求められた課題は、下請け発注並の予算で、下請けには作り出せないクォ
リティの製品を期間内にマスターアップせよ。そうすれば社内でテーブルシューティン
グゲームを作るラインが開拓できる。ということである。

私は実はキャラクター課所属であり、企画課所属では無かった。入社時の配属希
望は企画であったが実際配属されるとそうなっていた。
ただこの時点までに、ダライアス2の企画性プッシュアップや、一年以上かけたバト
ルシャークの1ヶ月間での総作り変え、他、十数の企画会議に動員され、それらで
示した手腕を当時の企画長に認められて預けられたのだ。もともとやりたい仕事な
のだから逃げる事は考えなかった。
「おまえならできるよ。マスターアップ日は忘れないように、お前の誕生日にしたか
ら。」そう言った企画長は、まもなく会社を辞めてしまった。

ソフト開発スタッフは私を含めた企画キャラクター兼任2名とプログラマー2名、それに
サウンドが1名入る予定だったが外注に変更され、計4名の最低人員で構成された。
 

開発の滑り出しは見込みよりもきつかった。社内には下地となるシューティングゲーム
のノウハウが無く、開発基盤Fボードは、その設計者であり、そのFがイニシャルである
F.K氏を突然の交通事故により失ってしまい、開発中途部分も多く、マニュアル確認や
解析を並行し、基盤のBUG含め、0、時にはマイナスからのスタートとなっていた。

私の仕様書のありのままを実現するのは、うちのハードはボロだから無理だと言う指摘
を各所から受けた。ただ私はダライアス2の経験を通して、作業効率と効果をあわせ持
つグラフィック設計を行っていたし、生みの親を失ったFボードの未知の部分が解明され
るにつれ、この基盤は他社の基盤に比較しても優れた性能を持つことがわかっていった。

その中、私は自分の作業を止める事態に巻き込まれた。私はシューティングゲーム
開発責任者という名ばかりで実の無い職を兼務していたが。在庫基盤をベースにき
れいなインベーダーさえ作れば売りに出すと約束されていたMJ-12という機種が、ロ
ケテストインカムでひっかかってしまった。この建て直しに1ヶ月専念しなければなら
なくなり、予算超過から採算を取るためにFボードにも耐えうるクオリティで作り直しを
命じられた。ただ断っておくが、このプロジェクトのメンバーは今思い出しても、非常に
ユニークな才能を持つ者たちで、修正に加わる私も感心する部分があった。

しかし、こうした過程から画面トップに紹介するボスなどを自らのゲームでは絵は上が
っているものの仕様削除せざるをえなかった。
私の初のオリジナルゲームは、期日どおりマスターをアップした。予算も当初の見積もりにほぼ等しくそれ
は前記したMJ-12の半分以下の総製作予算であり、当時の外注製作に比較しても安かった。
もし私が同業者から褒めてもらいたいとすれば、自らの演出とかグラフィックよりも、この部分なのだが
残念ながらその言葉はマスター当日の上長から一度聞いたきり、以降、聞いた事は無い。

次回作を期待するサウンド担当者に「何故途中で、曲を外注製作に変更したのか?」聞くと「まさか仕
様書のイメージ通りの物が上がるとは思わず、もっとボロボロになると思っていた。」と返答された。
これが次回作のサウンドの熱の入れようのきっかけとなった。


余談である・・・このゲームのグラフィックの要は2面の滝であった、この出来の確認が営業からは強く要
求され、これが見れなければ開発中止という要求がでていたが、手描きアニメーションで3パターンのリピ
ートを組むこの部分は私がやるしか無かったが時間が無くなり、新型キャラクターツールのレポートを書く
事を兼ね夏休み期間をあてることにしたのだが・・・

会社は経費削減運動の為、一人の出社に冷房を入れることを認めなかった。新型キャラクターツールは
試作の為冷却ファンがついておらず、立ち上げて1時間もしないうちに熱暴走で飛んだ。私は開発室の
主達のいない新、旧型キャラクターツール半数を熱暴走前にリレーするように立ち上げ、フロッピーディス
クにデーターを保存しては移動して対処した。カタカタと今思えば長いデーターセーブ時間を要した、その
最中に飛んでしまう物もあった。開発室の温度は連日40度を越え、あわただしく作業する私は、人がい
ない事を良い事にパンツ一枚、首からタオルを下げた裸姿であった。

こうしてあがった滝の背景アニメーションは、自分で見ても清涼感あふれる出来だった。営業からも好評を
得て、開発継続を納得してもらう事が出来た。

パンツ一枚の姿を哀れに思い「会社には内緒だよ」と数日、数時間冷房を入れてくれた警備員さん。忘れ
物を取りに来て話を聞き、筐体用の小さな冷却扇をもってきてくれたハード開発の人。そのお二方に今で
も感謝している。もし彼らがいなければ、このゲームは世に出なかったかもしれない。しかし、当時世間の
小学生夢の職業NO1のゲームデザイナーがパンツ一丁で汗だくになり仕事などと・・・今でも思い出して
は笑ってしまう自分がいる。

31.5.2006
こうした経緯を経て
プログラマーは私がオープニンググラフィック設計を担当
したカダッシュからH、バトルシャークの一ヶ月変更を共に
したK.、企画サブとしてOというメンバーで、皆新人という
布陣だったが、今でもプログラマーの二人は本人たちは
どう思うか知らないが(笑)動と静、性格は正反対だが名
コンビだったと思う。