戒名について


明主様御垂示 「戒名の意義」

信者の質問
「寺院において檀家に院号や居士、大姉等の称号を数千金で与えております。

霊はこのような称号を貰って喜ぶでしょうか。

また戒名でなく、俗名で祀っては悪いでしょうか。」


明主様御垂示
「仏界はそういう事になっている。俗名はいけない。

霊界へ行けば、仏名にならなければならぬ。

仏界の姓名であるから、そうしなければいけない。

すべて相応の理で、時と場合に合って行かなくてはいけない。」




明主様御垂示 「戒名の意義」

信者の質問
「戒名や院号はいかなる意味のもので御座いましょうか。

霊界の位階に関係するものでしょうか。

あるいはまた、金額の高下によりて戒名や院号が貰えるようですが霊界においてもそのようになるものでしょうか。」


明主様御垂示
「人間が死ぬと同時に現界の名は消える。

人間社会に通用する名は効力を失う。必要はなくなる。

往生・・・改めて霊界へ生れると名が付かなくてはならぬ。

霊界の赤ン坊である。それが戒名である。

戒名は長い程良いというが、これは生きてる人の慰めが多い。全然関係なくもない。いくらかある。

金をあげて良い名を貰った方がいい。

良いというのは長い名である。」




明主様御垂示 「戒名の意義とキリスト教」

信者の質問
「仏教で言う戒名とはどういうものでしょうか。

キリスト教信者においては戒名と言うものはありませんようですが、それは現世において洗霊を受けるからでしょうか。

戒名の有無は霊界ではどう違うのでしょうか。」


明主様御垂示
「仏界の名である。

死ぬ事を往生といい、霊界へ生れると現界で生活する上に必要の名は要らなくなる。

そして霊界の名が出来る。これが戒名である。

キリスト教は緯の教であるから全然違う。

仏教は経であるから霊界を重要視する。

日本でもキリスト教の霊界はある。日本の霊界は違う。

キリスト教で死んだ人はそれで差支えない。

キリスト教になっても、仏教は従来のままにしておかなくてはいけない。」




明主様御垂示 「俗名での祀りは不可」 (昭和24年2月4日)

信者の質問
「戒名で祀られる場合と、俗名で祀られる場合が御座居ますが、霊的にどういう違いが御座いますのでしょうか。」


明主様御垂示
「俗名ではいけない。」




明主様御垂示 「戒名は坊主にお願いする」 (昭和24年2月25日発行)

信者の質問
「善言讃詞または祝詞によって救われた霊で戒名のない場合、非常に僧侶を嫌うものに対して、戒名をこちらのほうで作らしていただくわけにはいかないでしょうか。

もしよろしいようでございましたらどのように書いたらよろしいのでございましょうか。」


明主様御垂示
「霊界には未だ仏界があるから従来通り僧侶にお願いして戒名をつけること。」




明主様御垂示 「戒名は坊主にお願いする」 (昭和24年8月11日)

信者の質問
「ある婦人が妊娠七ケ月で、ある事情のため秘密に堕胎致しました。

その後、再び妊娠致しましたが、八ケ月の早生児でありました。

出産以来泣き続け、両手、両足を曲げたままで伸ばせません。

この度御浄霊を受け、手足は自由になりました。

現在、生後五十日であります。

御教を戴いて、前の子供の戒名をつけ祀りたく思いましたが、

御寺では正式に葬式もせぬものに名をつける訳にはゆかぬとの事で、

やむなら僧侶の言うまま、母の名前の位牌をつくり仏壇にまつりました所、

子供の泣く事は止み、よく寝るようになりましたが、これはどう致したらよろしいので御座いましょうか。

この場合、教導師の先生が戒名をつけてよいので御座いましょうか。御教えを御願い申し上げます。」


明主様御垂示
「悪い事はないが、何にもなかったらこのままでよい。

罪を犯して、チャンと行く事が出来ぬのである。

戒名は坊さんがつけるべきものである。

教導師は、生きてる人を扱うものであるから自ら使命が異る。」




明主様御垂示 「戒名つける資格は坊主にある」 (昭和24年5月23日)

信者の質問
「俗名で仏壇に御祭りしてはいけないと伺いましたが、戒名は誰でもつけてよろしいものでしょうか。

仏式で葬儀を行わなかった場合、僧侶に戒名をつけてもらわねばならないでしょうか。」


明主様御垂示
「僧侶は、仏界の名をつける資格をもっている。

僧侶のない土地では普通人がつけてもよい。」




明主様御垂示 「戒名の格を上げるのは差し支えない」 (昭和23年7月28日)

信者の質問
「寺に金を納めて戒名の位階をもらうことはいかがでしょう。」


明主様御垂示
「格を上げるのはいいですよ。金で買ってもよい。結局それだけ豊かな証拠だ。」




明主様御垂示 「戒名は霊界の地位と無関係」 (昭和24年2月4日)

信者の質問
「戒名に格が御座居ますが、霊界において霊に関係が御座居ますのでしょうか。」


明主様御垂示
「一時的にはあるが、だんだん霊的資格になる。

肉体的、外部的のものははがれ霊自体の想念になる。

霊界に行った時は、現界にいた通りだが、罪穢と想念により段々装い変ってくる。」




明主様御垂示 「戒名は霊界の地位と無関係」 (昭和24年8月21発行)

信者の質問
「戒名があまり簡単なので改めたいと存じますが、寺に頼んで改めてもらってお祀りしてよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「別に差し支えないから、まあいいですがね。

戒名は長いほうがよくて、短いのはよくないって言いますが、

しかし、戒名が短いから霊界で位が低いってこともないし、長いからってそのために霊界で高いってこともないんで、霊界では結局その人の罪穢れによるんですからね。

まあ、こんなことはそれほど必要がありませんね。

かえって現界で金持ちの人なんかたいていは無理して金をこしらえてますからね、罪が多くて霊界で身分の低い人が多いんです。

いくら金をかけて長い戒名をもらったって、やっぱり低いのは低いんですよ。」




明主様御垂示 「戒名は霊界の地位と無関係」 (昭和24年8月21発行)

信者の質問
「戒名があまり簡単なので改めたいと存じますが、寺に頼んで改めてもらってお祀りしてよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「別に差し支えないから、まあいいですがね。

戒名は長いほうがよくて、短いのはよくないって言いますが、

しかし、戒名が短いから霊界で位が低いってこともないし、長いからってそのために霊界で高いってこともないんで、霊界では結局その人の罪穢れによるんですからね。

まあ、こんなことはそれほど必要がありませんね。

かえって現界で金持ちの人なんかたいていは無理して金をこしらえてますからね、罪が多くて霊界で身分の低い人が多いんです。

いくら金をかけて長い戒名をもらったって、やっぱり低いのは低いんですよ。」




明主様御垂示 「戒名を変えてはならない」 (昭和26年1月25日発行)

信者の質問
「過般、私の家の菩提寺から通知があり、頼みもしないのに、私の祖父母(祖父は四十年前死亡、祖母は存命)の戒名の位を上げたと称し、

御礼をとって、いままでの戒名とはぜんぜん違った戒名を知らせてきましたが、

こういう場合、これに従って位牌や墓まで新しい戒名に直すべきものでしょうか、

もし直す場合には従来の位牌を、祖父母の位牌のない親戚に譲ってもよろしいものでしょうか。御教示お願いいたします。」


明主様御垂示
「戒名は決して変えてはいけないものである。

そのようなことを寺から言ってきたのは、懐勘定からであろう。」




明主様御垂示 「戒名を変えてはならない」 (昭和24年12月20日発行)

信者の質問
「私宅は代々浄土真宗ですが、昨年知人のすすめにより○○会に入り新たに戒名を一律に改めてもらいました。

宗旨をかえ戒名をかえましたことは祖先に対して悪いことでしょうか。

またもし悪ければ○○会からいただいた御札はいかがいたしたらよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「これはいけませんね。

怒りますよ、祖霊が。勝手に人間のほうでかえるなんてとんでもない、さっそく元通りにしなけりゃいけませんよ。

そしてその会の御札は御礼をしてから焼いてしまえほいいですね。・・・

ずいぶん乱暴ですね、こういう間違ったことがいけないんですよ。」




明主様御垂示 「戒名を変えてはならない」

信者の質問
「私が指導している信者で、父親が死亡した時「永暇遊楽禪定門」と申す戒名をもらって位牌を祭っておりました。

その後住所が変更になりお寺をかえました。

その時戒名の字句が遊び人のような感じがすると言う理由で、

その戒名を「信光永楽信士」と改名してもらい、

新戒名をきざんだ石碑を建ててお祭事を営んでおりますが、

位牌は元のままで今以てかえてありません。

これでは霊が迷う事になると思われますがいかがで御座いましょうか。

またどちらの戒名がよろしいのでしょうか。」


明主様御垂示
「元の名にすべきである。」




明主様御垂示 「禅宗の戒名を代々の宗派である浄土宗に改める必要性について」 (昭和25年4月20日発行)

信者の質問
「私の先祖は代々浄土宗で葬ってありますが、兄だけは禅宗で葬ってあり、戒名も禅宗ですから浄土宗に改めたいと思いますが、

寺が遠くにありますので近くの浄土宗の寺で戒名を改めたいと思いますが、このようなこともできますでしょうか。」


明主様御垂示
「仏教では各宗派大差はないが、禅宗が最高であるから戒名もそのままでよい。

そのうち祖先も全部メシヤ教へ入ることになる。」




明主様御垂示 「生前に戒名を決めるのは尚早」 (昭和24年4月23日)

信者の質問
「生前に戒名をいただくことはいかがでしょうか。」


明主様御垂示
「間違っちゃないですが、死んでからでもいいんじゃないですかね。(笑声)

間に合いますよ、死んでからでも。(笑声)

死んでからでは間に合わないようだったらいただいたらいいでしょう。

まあ死ぬ前から棺桶を用意するようなもんですね。(笑声)」




明主様御垂示 「現界人に霊界の名前をつけるのは間違い」 (昭和24年7月10日発行)

信者の質問
「夫婦のいっぽうが死んでいる場合、その石碑に生きているいっぽうの者が戒名をもらって朱色で刻む習慣がございますが、いかなるものでございましょうか。」


明主様御垂示
「両方で愛しあって死んでも一緒にという意味であるが、本当は間違っている。

生きているときは生きているときの名前があるではないか。

霊界の名は不要である。」




明主様御垂示 「戒名が不明の場合」 (昭和26年8月5日)

信者の質問
「空襲で焼け、寺も位牌も行方不明で、母が一人生きているが戒名を知りません。

母は大本教信者でした。父は死亡しております」


明主様御垂示
「仏は先祖代々之霊位とする。

顔を知った仏も、位牌は一つずつでなくて良い。

御屏風観音様と光明如来様をお祭りしなさい。」




明主様御垂示 「戒名が不明な場合には俗名で位牌を作ってよい」 (昭和26年12月1日)

信者の質問
「生まれて百日くらいで死んだ妹の位牌だけが戦争で焼け、お寺も焼けて分かりませんので、俗名でよろしゅうございましょうか」


明主様御垂示
「結構です。霊は承知してますよ。」




明主様御垂示 「戒名不明について」 (昭和24年1月6日)

信者の質問
「三代前の祖先の生前の名前も戒名もわからなくて、今迄に一度の回向供養の行われてない霊をお救いしますにはいかようにお呼びして宜敷いでしょうか。また、良き供養の方法を御教え下さい。」


明主様御垂示
「生前の名が判った方がよい。」




明主様御垂示 「複数の寺から戒名をもらった事例」 (昭和24年6月10日発行)

信者の質問
「出石町の人が神戸市に在住していて、三年前に死にました。

神戸で葬式し戒名をもらっていたところ、故郷の出石町の寺からも戒名を送ってきました。

墓地も郷里にあるし、祖先と一緒にお祭りしたいと思いますが、戒名はどちらにしたらよろしゅうございますか。」


明主様御垂示
「出石町の戒名でお祭りすべきである。」




明主様御垂示 「戒名が二つある場合」 (昭和25年2月12日)

信者の質問
「ある信者の宅で先祖の御祀り替を致しましたところ、一人に対し二つの戒名が出て参りました。

一つは死後相当期間たちましてより大金を出して上位の戒名を貰ったとの事で御座います。

この場合どちらの戒名で御祀り致すべきで御座いましょうか。御教えをお願い申し上げます。」


明主様御垂示
「大した問題でないが、上位の方にした方がよかろう。

こういう事をするのは悪い事ではない。

先祖を、より向上するためやった事であるからわるい事ではない。」




明主様御垂示 「家族のうち一人だけ異なる宗派の場合」 (昭和25年4月20日発行)

信者の質問
「私の先祖は代々浄土宗で葬ってありますが、兄だけは禅宗で葬ってあり、戒名も禅宗ですから浄土宗に改めたいと思いますが、

寺が遠くにありますので近くの浄土宗の寺で戒名を改めたいと思いますが、このようなこともできますでしょうか。」


明主様御垂示
「仏教では各宗派大差はないが、禅宗が最高であるから戒名もそのままでよい。

そのうち祖先も全部メシヤ教へ入ることになる。」




明主様御垂示 「観音院とついた戒名は問題ない」 (昭和24年4月23日)

信者の質問
「観音院○○居士の戒名をいただきましたが、観音とあっても差し支えないでしょうか。」


明主様御垂示
「観音院っていうのは院がついてるから、観音という意味ではありませんよ。

観音の家のことですからかまいません。

このままでいいですよ。」




明主様御垂示 「戒名の了と家の不幸」 (昭和24年8月11日)

信者の質問
「御位牌の戒名に了の字が書かれてあると、了は終りの意であるから不幸があると言われたそうで御座いまして、

その御宅では、祖父死し、父死し等不幸続きで御座います。

果してそのような事が御座いましょうか。御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「死人に不幸はない筈である。

(戒名は死んだ人につけたもので、生きた人に関係はない)

死んだ人だけの働きであるから、その家に不幸がある訳がない。

不幸外の意味で気にする事はない。」




明主様御垂示 「坊主が戒名を作ることを拒否した事例」

信者の質問
「信者大塚トヨの家に生れてすぐ死亡したため、祭られずにいる二男一女が御座いますので、

寺で戒名を付けてもらってお葬式をするように申しましたところ、

寺では三児のために「家門先亡累代諸精霊」と言う位牌をつくりまして、

お経をよくあげてやったからこの御位牌を祭ればもうこれで充分だと申しまして、

どうしても三児の戒名を付けてくれないと申します。

このような場合いかに致しましたらよろしゅう御座いましょうか。」


明主様御垂示
「それでよい。」




明主様御垂示 「戒名を他宗でつけた事例」 (昭和25年1月22日)

信者の質問
「未入信の者で御座いますが先祖代々浄土宗にて供養致しておりましたが、

転住のため、移転先で浄土真宗で戒名を戴き、ただ今迄供養致しておりますが位牌は御座いません。

元の浄土宗にて供養致したいと申しておりますが、どうすれば宜敷う御座いましょうか。御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「元の浄土宗でよい。浄土は、法然から出ている。浄土宗は過去帳でやり戒名がない。」




明主様御垂示 「キリスト教徒に戒名は不要」 (昭和24年8月21発行)

信者の質問
「キリスト教では、戒名はございませんが、洗礼のときのクリスチャンネームでよろしいのでしょうか。」


明主様御垂示
「仏教っていうのは経の教えですから、つまり霊界を重視するんです。

それに対してキリスト教は経ですからぜんぜん違うんです。

西洋の霊界はそうなっているからそれでいいし、それから日本の霊界にもキリスト教の霊界ができてますからね、戒名をつけなくてもキリスト教の人は差し支えないんですよ。

戒名をつけられて仏教で祀られるとかえって迷惑なくらいなんです。

ところがキリスト教に入った人で、いままでの先祖を祀らないと、先祖は困っていろいろ知らせようとするんです。

だからキリスト教になっても、仏様だけは従来の通り仏壇に祀っておくべきですね。」




明主様御垂示 「嬰児の戒名」 (昭和24年12月18日)

信者の質問
「生後十五日に死亡せる子の位牌、信士としてよいか。」


明主様御垂示
「孩子(がいし)でよかろう。」




明主様御垂示 「仏界はもうない」 (昭和28年11月1日)

信者の質問
「信者で寄留地のお寺で葬式をし戒名をつけてもらいましたが、本籍地のほうに行ったところが本葬をして戒名もつけ変えなければいけないとのことで、更につけ変えましたが、どちらが本当でしょうか」

明主様御垂示
「もう仏界はなくなったようなものだから、どっちでもよいです。」


信者の質問
「一つにしてもよろしいでしょうか」

明主様御垂示
「一つにしてもよいし、二つあってもよいです。

なにしろ仏界というものがもうないのだから。

けれどもないと言っても、代りのものができたかというと、代りのものもできてないので、霊は宙に浮いているようなものです。

したがって戒名などはどっちでもよいので、意味はありません。

いずれ私は仏界を作ることになってます。

メシヤ教の信者の祖先というのは、みんなメシヤ教の本部とか支部に霊が来てますからそれでよいのです。

ここならここがもう天国になっているのだから、そこでみんな非常な活動をして働いているのです。

だから仏教のほうで救われたのと違います。

仏教のほうの極楽の霊というのは、私が前に霊をやっていたときに霊から言われるのは、極楽というのは、楽は楽だが、働く必要がないからつまらないというのです。

自分は働きたいから、神様のほうの世界に行かしてもらいたいということを幾度も聞きました。

極楽というからして、極く楽は楽なのですが、活動ということはできないのです。

ですから年中歌舞音曲をやり、碁将棋をやってますが、そういうことが好きな人はよいですが、働くことが好きな人は困るのです。

メシヤ教信者の先祖というのはみんな働いてます。

その霊というのは何十万何百万とたいへんなものです。

いずれメシヤ会館のほうができてから冠婚葬祭のこともボツボツやるつもりです。」


信者の質問
「メシヤ教信者の年回忌はお坊さんのほうでする必要はないのでしょうか」

明主様御垂示
「仏法はなくなったのです。しかし仏界はあるのです。

だからこっちでできるまでは居所がなくてはならないのです。

そこで今はまだ必要なのです。


それからもう一つは今までお寺ならお寺でやってお寺参りにも行っていた者が止めてしまうということは、メシヤ教が誤解されるのです。

ですから今までどおりやっていたほうが世間体もよいし、坊さんも喜びます。

今までどおりにしているほうがよいです。

私もお寺には付け届けをするし、今までどおりにやってますが、やはり喜びます。

キリスト教などでは日曜に教会堂に行っても差し支えありません。

そうするとキリスト教の牧師も、メシヤ教は非常によい、信者を取ることはないからと好感を持ちますから、それがよいのです。

メシヤ教は酷い、信者をみんな取ってしまうということになると、その恨みの想念が多少の煩(わずら)いになります。

そういうものがメシヤ教の敵ではないので、みんなこっちが抱擁しているものの中にあるのですから、よくしてやっておいたほうがよいです。

キリスト教も仏教も、あらゆるものがメシヤ教の中にあるのですから、それをやっつけたり叩いたりするということは、やっぱり自分の中にあるものをやるということはないです。やっぱり眷族というように思っていればよいのです。」




明主様御垂示 「仏界の衰亡と戒名の要否」 (昭和26年7月1日)

信者の質問
「親兄弟でございますが、門徒宗の和尚さんが簡単な人で、戒名をつけるのが嫌で、つけそこね、そのままでございます」

明主様御垂示
「それはね、それも時期の問題です。

まだ、仏界がそうとう勢力のある間は、戒名でなければならない。

ところが、仏界がフラフラなんだから気にすることはない。まだそのままですか。


信者の質問
「変えました」

明主様御垂示
「それならそれで良い。

そういった冠婚葬祭のいろいろな形式を作ります。

どうせ霊界では救われるんですから。

あなたが働いているということは、救われている。

改めて、そういった形式は作るからたいしたことはない。」