供養と想念について


明主様御教え 「憑依霊の種々相」より (昭和24年8月25日発行)

「(一部のみ引用) 右の老人が出ると入れ替ってまた何かが憑依したらしくすこぶる慎ましやかな態度である。

聞いたところ「妾(わたし)は近くの煙草屋の娘で○○という。

今から二月ばかり前に死んだものですが、竹ちゃんが好きだったので(この男の名は竹ちゃんという)今晩来たのです。」というので、

「何か用がありますか?」と訊くと、「喉が涸(かわ)いて堪らないから水を一杯頂戴したい」というので

私は、「まだ新仏であるあなたは毎日水を上げてもらうんでしょう」というと

「ハイ、上げてはもらいますが呑めないのです」というので私は不思議に思い、再び訊ねたところ、

彼女いわく「水を上げる人が私に呑ませたい気持などはなく、ただ仕方なしお役で上げるのでそういう想念で上げたものは呑めないのです。」との事で、

「なる程霊界は想念の世界」という事が判った。

故に仏壇へ飲食を上げる場合、女中などにやらしたり、自分であってもお義理的に上げるのでは、何にもならない事が判った。

彼女の霊に水を呑ませると、うまそうに都合3杯のんだのである。」




明主様御垂示 「供物と想念」 (昭和24年5月30日発行)

「それから、同じようにお祀りしてもね、祀る人の気持ちがだいぶ影響しますよ。

ただ形式だけでは霊のほうであまり感応しないんです。

水を一杯上げるにしても、本当に「お上がりください」って気持ちで上げると、霊のほうも飲めるしまた水もおいしいんです。

しかたなしに、上げなくちゃならんから上げるっていうんでは、霊は飲めないんですよ。

先にね、喉が渇いてしかたがないっていう霊があったんですが、

「あんたはちゃんと毎日水を上げてもらってるじゃないか」と言ったら

「いや、上げる人が本当に、上がってくださいって気持ちではないから飲めない」と言ってましたがね、そんなものですよ。」




明主様御垂示 「供養と想念」 (昭和23年8月28日)

「また供養するにしても仏をただ祀るだけではだめで、女中に仏壇へ食物を上げさせても仏は食べられない。

やはり当事者が心をこめて祀ることです。」




明主様御垂示 「供養は心をこめて行うべき」 (昭和25年1月20日発行)

信者の質問
「憑霊によると思われます場合、その霊を祀ることはいかがでしょうか。」

明主様御垂示
「お祀りすると治るってのもありますが、まあ比較的少ないですね。

また、こういうこともあるんです。

お祀りすればいいって言うけど、霊は形式だけじゃ駄目ですよ。

どうしても祀る人が心をこめて本当に供養するつもりでやらなけりゃいけませんよ。

ただ祀ったからってそれだけじゃ霊は満足できないんです。」


信者の質問
「供養の際雑念が入るのもいけませんでしょうか。」

明主様御垂示
「そりゃあかまいませんよ。

祝詞なんか上げてても雑念の入らぬ人はまずないでしょう。

心を込めてってのはそういうことじゃなくて、例えば自分で祀るのは面倒くさいからって女中にやらせたりすることなんですよ。

それからね、霊が懸ろうとしてもこっちに力があると懸れないんです。

ところがこっちが弱ると懸れるんです。

衰弱して死に近づくと懸ってる霊の判ることがあって、そうすると霊のための苦しみのように思えるんですが、そんなのも弱ったから懸ったんです。

それに医学では衰弱療法をやりますからね。

霊も懸ってじきのは離れますけど、懸って永いこと経ってるのはなかなか離れませんね。

勿論、祀り方とかその霊の要求のいかんにもよりますがね。」




明主様御垂示 「供養も想念が肝腎」 (昭和28年7月1日)

信者の質問
「御奉仕のやり方想念によってひっかかるのがあるのではないかと思われますが」


明主様御垂示
「お蔭ですか。

前に私が大本教にいたときに、ある人が献金を頼んだのです(註 献金を本部に届けるよう依頼したということ)。

するとその人は綾部に行く途中で芸者買いをして使ってしまったのです。

そうすると無駄なようですが、ところが決してそうではないのです。

その想念はすぐ神様に通ずるものです。

「それは霊は行っているので、体だけが使われているのだから何でもない、上げるというのを持って行って途中で使っても同じだ」というので、私はなるほどと思いました。

上げたいという想念です。

それが一番分かるのは、死んで間もない霊が喉が腫れてしようがないと言うので

「遺族が水を上げたでしょう」と言うと「そうではあるが、その想念が悪いから飲めない」と言うのです。

「上げたい」という心で上げると飲めるが、

女中に任せたり、お役でやっていると、その想念が間違っているから、飲んでもうまくないし、また飲めないというのです。

霊的のことは想念が肝腎です。

霊主体従で霊が主なのですから、「これだけお上げする」という気持で上げると、途中でなくしても、そんなことは関係ありません。」




明主様御垂示 「子孫の先祖を敬う気持ちがないと祖霊は仏壇のお茶を飲めない」 (昭和29年2月1日)

「それで、十三年前に死んだ霊が、お茶をくれと言う・・・十三年間お茶を飲めなかったのです・・・。

上げるのだが飲めないのです。

これは前によく話がありましたが、私が扱ったのは、

お茶をおさんどん(註 台所で働く下女)に上げさせたので、仏様に上げるという気持ちがぜんぜんなかったから飲めないというのです。

上げる家の人が、御先祖に飲んでいただきたいという気持ちがあるとおいしく飲めるのです。

そうでないとぜんぜん飲めないのです。

私はそういう経験がありました。」




明主様御垂示 「仏壇の供物にアリ集る」 (昭和24年10月22日)

信者の質問
「最近受教された方で御座いますが、今迄その家の仏壇のお供物はいつもその家の猫が食べておりました。

ところが受教後早速誠をこめて仏壇にお供物を致しましたら、

その日一回に限って御飯の上に蟻が真黒になる程上っておりましたが、その後は猫が食べなくなりました。

これは霊的にいかなる意味が御座いましょうか。御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「祖霊が喜んで、猫に食べさせぬよう蟻を沢山寄らせた訳である。

今迄は祖霊が食べなかった。

形式的に上げたのであろう。」




明主様御垂示 「祖霊が仏壇の供物を食べられない場合」 (昭和23年7月21日)

「霊界へ行けば霊界の名でなくてはいけない。

仏壇へ単に水を上げて、飲んでもらいたいという誠意とか、鐘を叩くとか、食べてもらいたいとか言わなくては、霊は食う事が出来ない。

また、死んだお父さんとかお母さんとのみ言って上げると、外の霊は食えない。

あらゆる順序が違うと、話をすると争う。」




明主様御垂示 「死水と想念」

信者の質問
「死水はいかなる理由で呑ませるのでしょうか。」


明主様御垂示
「霊界へ行くと最初は非常に喉が涸く。それで呑ます。

呑みたいという水へ対する執着で、行く所へ行けない。

五十日間その家へいるので、早く水を飲まなくていいようにしてやる。

水なども無関心でやると霊は飲めない。

飲ませようとする気持が大事である。」




明主様御垂示 「霊界人の飲み水と想念」

信者の質問
「臨終間際に、非常に水を欲しがりますのはいかなるわけでございましょうか。

また、墓参りの節、墓石に水を掛けますのは同じ理由によるのでございましょうか。」


明主様御垂示
「水を欲しがるのも、欲しがらないのもある。

他(ハタ)の人が呑ますのが多い。

喉が涸く病気もある。墓石の水はよく知らぬ。

上げる水は関係がある。霊界では喉が涸く。

ただお役で上げては呑めない。

人間としては、上げたものでなくては絶対呑めない。龍神は別である。」




明主様御垂示 「供養する人の想念が救霊に大きく影響する」

信者の質問
「変死人の供養の方法を御教え下さい。」


明主様御垂示
「普通と同じようで、別に変った事は要らぬ。

供養といっても、世間体やお義理等のみでやる、想念で大変違う。

変死人などの罪の深い人間は早く助けたいとして充分にしてやるという気持でやると、霊に大きくそれが響く。

地縛は約三十年となっている。供養をすると非常に早く、五年ですむのを半分位で出る。

私などその場所へ行くとすぐに救われる。

その場所へ行って、祝詞を三遍も奏げてやると大抵救われる。

五、六回やってやると殆ど助かる。」




明主様御垂示 「度のすぎる丁寧さを祖霊は嫌う」 (昭和24年8月12日)

信者の質問
「ある地方ではお盆の時に普通位牌を全部仏壇の外へ出し、棚を造って御祭りする習慣になっておりますが、それでよろしゅうございましょうか。

またその場合仏壇へお祭りしてあります御屏風観音様は、そのままでよろしゅうございましょうか。御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「丁寧にやった訳で悪い事ではないが、それ程にしなくともよい。

却って祖先はいい気持はしない。

あまり形式に捉われすぎている。

祖先は金かけてするのは寧ろ喜ばぬ。

それよりは心からの誠を喜ぶ。」




明主様御垂示 「仏壇の礼拝について」 (昭和24年12月20日発行)

信者の質問
「仏壇を祀っていても、習慣的にただ空念仏でも毎朝毎晩お詣りする人と、たとえ十日に一遍でも心をこめてお詣りする人とでは、御先祖はどちらをお喜びでしょうか。」


明主様御垂示
「しかしね、心をこめてお詣りするような人なら、十日に一遍なんてことはないでしょ。(爆笑)」