夜昼転換ついて
明主様御教え 「世界の大転換」 (昭和18年10月23日発行)
「私は、私の創成した日本医術なるものは、いかなる理由によって生れたかという事と、
今日まで病気の原因が不明であると共に、既成療法なるもののほとんどが誤謬であって、
それが発見されなかったという事について徹底的に説明してみよう。
そもそも、この大宇宙を観る時、それは実に際涯(さいがい)なき天空の無限大より顕微鏡によっても視る事を得ない無限微に至るまで、
実にあらゆる物質は大中小それぞれ相応の理によって生成し化育し、離合し、集散し、破壊し、建設しつゝ、無窮の進展を遂げつゝあるのである。
そうしてすべてに陰陽あるごとく一年にも寒暑の別あり、一日の中にも昼夜の別あり、十年にも昼夜の別あり、百年に千年に万年にもそれがあるのである。
以上のごとき理によって、数千年かあるいは数万年目に当然来るべき夜と昼との転換期があり今やその時が来つゝあるのであって、今日はその黎明期に相当するのである。
私のかような言説に対して読者は判断に苦しむであろう、何とならば夜昼は一日の中にのみあるからである。
従ってこの説明は非常に困難ではあるが、何人にも解釈出来得るはずである。
それはさきに詳しく説いたごとく吾々の住んでいる地球の上には、霊界空気界物質界の三段階によって構成されている。
そうしてこれはまた二段に分ける事も出来る。
即ち空気の水素と地球の土素とは物質であり、霊即ち火素は全然非物質であるからである。
即ち霊と物質とを区別すれば、霊界と現界とになる。
そうして霊界と現界との関係を説くに当ってまず知らなければならない事は、
あらゆる事象は霊界に先に起り、そのままが現界に移写されるという事である。
ちょうど映画におけるフィルムが霊界であり、銀幕が現界であるのと同様でそれが天地の厳然たる法則である。
ちょうど人間が手足を動かすという事は、眼に見えぬ心が先に動きその命によって手足が動くので
決して手足が先に動いて後に心が動くのではない。
これと同じく霊界は心であって現界は手足であるようなものである。
そうして私が前に述べた数千年又は数万年目に来るという夜と昼とは霊界においての事象である。
故にこの意味において今日までの世界は永い間夜であったのである。
それが今や将に昼の世界に転換せんとするのである。
この事は古事記にある天の岩戸開きの事であって、天照大御神御出現とは、昼の世界になるという一大予言でもある。
又西洋においての昔から唱える東方の光という言葉は、この事の予言に外ならないと私は思うのである。
そうして右のごとき夜昼転換という事を立証せんとするには、霊感や神憑的では一般現代人には受入れ難いであろうから、私は最も判り易い例を以て説明しようとするのである。
即ち、日本の国名は日の本即ち太陽の本であり、国旗は日の丸である。
「東方の光」即ち太陽の光は日本から出現するという事も動かすべからざる宿命である。
それによって私は、黎明期の第一歩が満州事変であると思う。
即ち日の光がまず西射し満州を照し初めたのである。
次いで支那を照し、今や南洋を照さんとしているのである。
いずれは西比利亜(シベリア)も西南亜細亜(アジア)も太平洋もそうなるであろう。
日の丸の国旗が立つ所・・・それは太陽の光が届いた所である。」 (「明日の医術 第3編」より)
明主様御教え 「霊界に於ける昼夜の転換」 (昭和27年御執筆)
「右の重大事というのは、霊界における昼夜の大転換である。
すなわち夜と昼との交替であるというとおかしな話で、誰しも夜と昼は一日の中にあるではないかというであろう。
なるほどそれには違いないが、私のいうのは大宇宙のそれであって、この事を知るとしたら、人智では到底想像もつかない程の大神秘を会得する事が出来、
それによって今後の世界の動向も分り、未来の見当もほぼつくのである。
そうしてさきに述べたごとく、この世界は物象界、空気界、霊気界の三原素によって構成されており、
一日の昼夜とはこの物象界と空気界、つまり人間の五感に触れ、機械で測定出来るものであるに対し、
霊気界のそれは全然無と同様で、捉える事が出来ないものであるから、
今私のこの文を見るとしても、直ちに信じ得る事は困難であろう。
私といえどももし神を知らないとしたら、一般人と同様であろう。
ただ私はこの重大なる使命をもつ以上、神と密接不離な関係にあるから確実に知り得るのである。
それによると、霊界においても現界に一日の中に昼夜があるごとく、十年にも、百年にも、千年、万年にもあるのである。
従ってその転換ごとに、人類世界にも反映するので、それが霊界の方では絶対正確であるにもかかわらず、現界へ移写される場合、幾分の遅差は免れないのである。
その事を頭に置いて、長い歴史を見る時、大、中、小種々の歴史的変化をみるのは、その表われである。
そこで今私が言わんとするところは、世界の大転換に関する主なる点であって何よりもまず大転換の時期であるが、
それは一九三一年六月十五日から始まっており、一九六一年六月十五日までの、三十年間で一段落がつく事になっている。
しかし人間の頭脳で考える時、三十年と言えば長期間であるが、大宇宙における神の経綸としたら、一瞬の出来事でしかないのである。
そうして右の三十年といっても、現界においては急激な変化はなく、徐々として進みつつあると共に、
右の三十年を挟んでその前後の時を合わせると、六十余年の歳月を費やす事となる。それは準備期と転換後の整理とに時を要するからである。
右のごときその転換の意味は今日までは夜の世界であったから、いわば月の支配であったのである。
ところがいよいよ昼の世界となるについて、かねて世界の二大聖者として仰がれている釈迦、基督(キリスト)の予言された通りの事態となったのである。
そうしてまず仏典によれば釈尊は「吾七十二歳にして見真実になれり」と言われた後、
間もないある日、世尊はいつもに似合わず憂欝の色蔽い難い御様子なので、弟子の阿難尊者が憂慮し御訊ねした。
「世尊よ、今日は常にない御沈みのように見受けられますが、何か御心配事でも御有りですか」と申したところ、
釈尊は直ちに御答えになった事は「儂は今まで終生の業として仏法を創成し、一切衆生を救わんとして大いに努力を続けて来たが、今日大仏陀から意外なる御諭(さと)しがあった。
それによるとある時期に至ると、我仏法は滅すると言う事で、大いに失望したのである」との御言葉であって、それから世尊はこうもいわれた。
「儂は見真実によって分った事だが、今まで説いて来た多くの経文は、少なからず誤りがあるので、
今日以後真実を説くから、よくこれによって正覚を得られよ」と仰せられたので、
この時からの経文こそ仏法の真髄である事は確実で、それが法華経二十八品と、法滅尽経と、弥勒出現成就経である。
ところが、その事を発見されたのが、彼の日蓮上人であって、上人はこの発見によって他宗教義ことごとくは見真実以前に説かれたものであるから、真実ではない。
独り我法華教こそ仏法の真諦であるとして、他宗ことごとくを否定し、猛然として一大獅子吼をされたのであるから、
上人のこの傍若無人的宣言も、無碍に非難する事は出来ないのである。
これについて、法華経二十八品の意味を解釈してみるが、この経文の二十五番目にある観音普門品こそ、大神秘が蔵(かく)されているのである。
というのは法華経とは法の華(はな)であって、最後に法の華を咲かせなければならない。
その場所と人とが日本であり、日蓮上人であるから、上人が法華経を翳(かざ)して、いかなる受難にも屈せず、
一途に日本国中に法華経を宣布されたのも、この強い信念があったからである。
元来仏法はさきに説いたごとく月の教えであり、陰であり、女性である。釈尊が「吾は変性女子なり」といわれたのもその意味であろう。
また上人は前例のない型破り的のやり方であった。
彼が修行成って、最初故郷である安房の清澄山上において、東方日の出に向かって、妙法蓮華経の五文字を高らかに奉唱され、
その時を契機としていよいよ法華経の弘通に取掛ったという有名な話も、
それまで仏教各派のことごとくは、南無阿弥陀仏の六文字の法名を唱えたので、これにも意味がある。
すなわち五は日の数であり、六は月の数であるからである。
それまでは人も知るごとく日本における仏教といえば陰性であったものが、一度日蓮宗が生まるるや、極端に陽性を発揮し、太鼓を叩き花を飾り、声高らかに経文を唱える等、何から何まで陽気一点張りである。
全く仏華(ぶっか)を咲かせたのである。また世間同宗をもって一代法華と言ったのも、花は咲くが散るから、一時は好いが長くは続かないという訳であろう。
今一つの神秘がある。それは法華経二十八品の数である。
二十八の数は、月の二十八宿を表わしたもので、その二十五番目に普門品があるのは、
二十五の数は五五、二十五で、五は日であり、出づるであるから、日の出の意味である。
つまり月の仏界に日が生まれた表徴である。
すなわちこの時既に夜の最奥霊界には、ほのぼのと黎明の光が射し初めたのである。
そうして面白い事には、外の仏教は全部西から生まれたに対し、独り日蓮宗のみは東から出ている。
しかも安房の清澄山こそ、日本における最も東の端で、この地点こそ大神秘が包蔵されている事は、
私が以前書いた自観叢書「奇蹟物語」中に概説してあるから参照されたい。
つまりこの地が霊界二次元における昼の世界の初発点であるのである。
次に日本において、なぜ仏法の花を咲かせなければならないかというと、そこにも深い密意が秘(ひそ)んでいる。
すなわち花が咲かなければ実が生らないからで、その実というのが実相世界であって、この実の種が如意輪観音の御働きでもある。
私がいつもいうごとく、観世音は日の弥勒であり、阿弥陀が月の弥勒であり、釈迦が地の弥勒であり、この三人の仏陀が三尊の弥陀である。
とすれば阿弥陀と釈迦は、夜の世界の期間の御役であったに対し、観音は昼の世界にならんとする、その境目に観音力を揮(ふる)わせ給うのである。
この経綸こそ昔印度(インド)において仏法発祥の時すでに誓約されたものである。
本教が、最初日本観音教団として出発したのも、私が観音を描き御神体として拝ました事も、
私に始終観音の霊身が付き添われておられた事も右の因縁に外ならないのである。
ところが釈迦、阿弥陀は如来であったので、観世音の菩薩の御名に囚われ、
宗旨によっては、阿弥陀や釈迦より観音の方が下位とされていたのも、右の因縁を知れば誤っている事が分るであろう。
ところがその後御位が上られ、光明如来となられたので、現在は光明如来の御働きである事は信者はよく知っている通りである。」
明主様御教え 「仏滅と五六七の世」 (昭和27年御執筆)
「その後釈尊は素晴らしい予言をされた。
それは今より数えて五十六億七千万年後仏滅の世となり、次いで弥勒菩薩下生され、弥勒の世を造り給う。
弥勒の世というのは、居ながらにして千里の先まで身を運ばれ、居ながらにして千里の先の声を聴き、
居ながらにして千里の先から欲するものが得られるというので、その頃としては想像もつかない夢の世界である。
ところが現在の世界は最早右の予言通りになって来ているではないか。
としたら物質的にはすでに弥勒の世となっているのである。
ところで今まで仏者が迷ったのは、この五十六億七千万年という数字であった。
しかしこれはちょっと考えただけでも直ぐ判るはずである。
何となればいかに釈尊といえども現実的に、五十六億七千万年などという、途方もない先の世の中を予言される訳ないからである。
それ程先の世の中を予言したとて、何の役にも立たないではないか。
言うまでもなく、それまでに地球はどうなるか、テンデ見当もつかないであろう。
これは全く五、六、七という数字を知らせんがためである。
というのは弥勒の世とは、私の言う五六七(ミロク)の世界であって、
この五六七を解釈すれば、五は日であり、六は月であり、七は地の意味になるからで、すなわち順序正しい世界という事である。
これについて一層深い意味をかいてみよう。
今まで夜の世界というのは、日が天に昇っていなかった時の事である。
もちろん霊界の事象ではあるが、これを小さく地球にたとえてみればよく分る。
夜は月が上天にあって照らしていたが、段々地球を一周して、西の涯から下って地球の蔭に隠れる。
すると太陽が東から昇って、中天に輝くとすれば、これが昼間の世界である。
そうなれば天は火であり、中界は水素の世界であり、地は依然として地であるから、これが五六七の順序である。
右を一言にして言えば、昼の世界とは、今まで見えなかった日が、中天に輝く姿で、それが五六七の世である。
また釈尊はある日弟子から、仏教の真髄を訊かれた事があった。
世尊は「左様一言にしていえば真如である」と仰せられた。
真如とは無論真如の月の事で、その時既に仏法は月の教えである事を示されたのである。
そうして真如という文字は、真のごとしとかくのであるから、真ではない訳で、この点もよく考えなくてはならない。
それから仏典では、実相真如と言われているが、これは逆である。
何となれば実相とは、真実という意味で、すなわち昼の世界である。
真如は夜の世界であるから順序からいって真如が先で実相世界は次に生まれるのである。
今一つ同じような事がある。それは経文には三千大千世界とあるが、これも逆であるから、私の善言讃詞の中には大千三千世界と直してある。
というのは三千世界とは、神幽現の三界であるに対し、これを纏(まと)めて一つにすれば大千世界となる。
大とは一人とかくのであって主神御一方が主宰され給う意味である。
次に釈尊はこういう事もいわれた。この世は厭離穢土(えんりえど)であり、火宅であり、苦の娑婆でもある。
また生病老死の四苦があるとも云われ、諸行無常、諸悪滅法等とも言われたので、どれもこれも世をはかなんだ言葉である。
また一切空とか空々寂々とか、無だとも言われた。そこで右の意味を総括してみると、どうせこの世は苦の娑婆だから、苦は脱れられない。
人間は生まれながらにして、苦しみを背負っているのだ。
いくら藻掻(もが)いたとて仕方がないから覚るのが肝腎だ。
つまり諦めである。人間がいかに大きな望みを抱いたとて無駄であり、一寸先も分らぬ闇の世であるから、安心など出来ようはずがない。
そうしてこの世は仮の娑婆だから、いくら骨折って造ったものでも結局は無になり、空になってしまうので、何事も永遠性はない。
だから一切の欲望は結局一時的煩悩にしか過ぎないのだから、諦める事だ。
諦め切ってしまえば、真の安心立命を得られるのだと説かれたのであって、これが仏教の真髄であるとしたら全く夜の世界の姿をよく物語っている。
この意味において万事は昼の世界までの運命でしかない事を、遺憾なく示されている。
従って人間は実相世界が来るまで待つより仕方ない事で、それが今日までの賢明な考え方であったのである。」
明主様御講話 「昼の世界は利他主義」 (昭和16年9月11日)
「こういうことも考えなくてはならぬ。
世界は夜と昼とが交互に移ってゆくもので、これは一日の中に夜昼あると同じく、十年間、百年間、あるいは千年間にも夜昼はある。
いままでの歴史でも戦争と平和、景気、不景気というように、陰陽に来ている。
よく「景気は八十年ごとに来る」と言ったが、一年にも夜昼はある。
一日にもあるが、十年、百年、千年となると分からぬ。
霊界にも夜昼が移り変わってゆくのである。
今日世界のあらゆるものは大転換を始めていることも、時も分かる。歴史あって以来、今日のごとき大変わりしたことはない。
いままで、たいてい一国とか二国とか・・・
この前の大戦の時は転換はなかった。経済組織など変わらなかった。
今日のは恐ろしく変わった。これは非常なわけがある。
それは世界の何千年か何万年かに一遍ある昼間の世界が来た。
いままで非常に長い間夜だった。最初私は夜から昼になったことを知った。
昭和六年六月十五日初めて昼間になり始めた。故に今年は十年目になった。
夜が明けるのにもだんだんだんだんそうなるんで、日が明けるようになってゆく・・・六月十五日、岩戸開きに、天宇豆売命(あめのうずめのみこと)が踊って大いに笑った。
天照大神は笑い声を不思議に思われ戸を少し開けられたという。
それで手力男命(たぢからをのみこと)が戸を開けた。
そして天照大神のお出ましを願い、御手を引いて出た。
そして再び岩戸に入れぬよう七五三縄を張ったという。
これは昼間の世界になることで、太陽を人格化したのが天照大神で、お出になったのは今度がそうである。
翼賛会の発会で、これより岩戸開きの会議を舞い開いた。
私は昭和六年六月十五日に安房の日本寺へ行った。
その時天照大神がお出ましになった。
あそこは日本寺という、日の本の寺というわけです。
三月経って九月十八日満州事変が起ったが十八日の日に不思議な事が起った。
岩戸が開けると日本は日の本であるからお日様が表われ、世界を照らし出し、満州へ射し、満州は日本のものとなった。
その後六年で支那事変、今度また照らしてる。その他、タイ、仏印と国旗が翻るようになった。
国旗は太陽の光を小さく分割したものである、次にシベリア、次にフィリピン、蘭印よりインドと、日の丸がひらめくようになったというように、昼間になるのはどしどしそうなっている。
これは絶対でしかたない。
日本もいまになってみれば、海外発展など遅れている。
徳川の鎖国政策など惜しかったなどと言うが、このことが分かるとそうは言えぬ。
太陽が昇る時機でなかったのだからしかたない。
夜は月が上になり、太陽は蔭に入ってる。であるから、この時分いくらやっても海外へ発展することはできない。
故に徳川の鎖国政策は大自然の法則に従ったものである。
神は大宇宙の主たる神人で、人間を使っておられる。
霊界が明るくなると、浄化作用が起り、強くなる。
(これは新しい学問であるからよほど話しにくいが、呑み込むのも骨が折れる。が、呑み込んでおくとこの世の中の行き先が分かる)
大宇宙にあるいろいろなものは一つの国として表われている。
日本は日、米が星(旗の色も月夜の色である)赤い条は太陽の光を受けている。
黒いのは八方へ照らしてる。英は月、ドイツは土、イタリアは水、独伊の仲のいいのは大陸と海は切っても切れぬからである。ロシアは雲、フランスは霧。
今度の独ソ戦など、今年六月十五日、現界の岩戸が開け・・・
いままでドイツと日本が提携したのは、雲を除る必要があり、日本の太陽とドイツの土の間に雲があった。
これを払わなくてはならぬ。それで戦争が起ったのである。
スターリン、ヒトラーはいま雲を払う作用をしている。
故にドイツと日本は国境がくっつく。シベリアは日本、ヨーロッパとロシアはドイツになろう。
そして月も星もなくなり、結局いろんなことがあってもそこへ行く、絶対そうなる。
神様・・・大自然がやっている。
英米がどうしようと、必ずそうなる。そうして日本は一番幸せになる、太陽の国であるから。(中略)
しかし、それまでにはいろいろの苦しいことがあるが、それを知っていれば楽である。
そういうふうになるということは、太陽が表われると、霊界が明るくなる。
緯は
霊界は 火の世界
空気界は 水の世界
現象界は 土の世界
経は 日 月 地
故に物質はすべて土から生ずる、人間の身体も火水土でなり、死ぬと魂は霊界へ行く。
水は血液、漿液などである。これらは死ぬと涸(かわ)く。
肉体は土になってしまう。かくのごとく、火水土となる。
空間は暑からず、寒からず、両方が混合している。
火のみになれば爆発するし、水のみなら凍結する。そうなると・・・
霊界が昼間になって、火の分子が多くなった。
夜の世界は水の分子がたくさんあった。
昼は火のほうが多い。夜は水気が多い。
水は物質に属する元素である。水と土は物質に所属する。
霊 火そのもの 水・土は物
霊 主 水 従 は昼の世界
人間のほうは浄化作用が旺盛となる。
夜の世界の間は、悪いことが多く行なわれる。
昼の世界になると良いことが多く行なわれる。
秘密や罪悪は夜行なわれる、いろいろな方面にそういうことが表われている。
いままでの人間は利己主義だったが、これからは自己の利益は第二とし、これからは陛下、国家に奉公することとなった。これも表われの一つである。
自分の利益を後にして国家や他人のためをするのが善である。
悪は自分を主とする。善悪は利他主義と利己主義の違いで、これもある程度はいいが、程度を越えると悪になる。
これは昼の世界では利他主義になった。利己は許されぬ。
商人など損々と言いつつ儲けている。
いままで、夜の世界であったからゴマカシがきいた。
今日の商人は配給業を扱っている。いまははっきりしている、闇取引など夜の世界の方法だったから変わった。
要するに、罪悪やゴマカシができなくなる。
英米などの持てる国は、弱い国より奪り、利益を搾取した。
これは許されぬ。世界で一番貧乏で一番虐げられたのはインドであった、利益は全部英国に奪られた。これはもう許されぬ。
世界の大きな清算が始められる。
いままでひどいことした国は非常に苦しみ、インドとか、アフリカなどは良くなる。
まだまだうんといろいろ夢のように変わってゆく。
そういうような具合で、霊界に火素が多くなった。」 (長文は「夜昼転換と浄霊の原理 4」のページ)
明主様御講話 「今度は三千年目で昼間になった」 (昭和28年12月25日)
「宇宙というものは、そういうことになっているのです。
すべて夜昼の区別があるように、だいたい一年、十年、百年、千年、万年というように、定期的に決まっているのです。
今度昼間の世界になったのは三千年目になるのです。
実に宇宙というものは無限の神秘であって、とうてい言葉では言われないくらいなものです。
それで悠久のものですけれども、悠久の中にも大中小、大中小となって変化することになっているのです。
今度は三千年目で昼間になったのですが、三千年で一回転するのです。
それで三千年というと永久と言ってもよいです。
三千年ではつまらないと言っても、自分の命よりはずっと長いのです。
三千年の間には、いくども生き代わり死に代わりしているのです。
そのくらいの変化ですから、今度の変化というのは大変化であるし、祖先以来ないものです。
ですからこれに生まれ合わせ、この仕事に携わった人はどんなに仕合せか、祖先以来ないのですからたいへんなものです。
そういうような大変化だからして、分からせようと思っても、なかなか分かりにくいのです。
しかし分かりにくいけれども、聞いてみれば、なるほどそういうことも有り得るわけだということも分かるわけです。
こういう話は、哲学でもなければ宗教でもない、新しいものですが、しいて言えば宗教の哲学みたいなものです。
それで、これを知ることが覚りを開くということなのですが、
しかし覚りを開くというが、今までの覚りはそこまでは分かっているのですが・・・
それを朧(おぼろ)げながら分かったのはキリスト、釈迦という人たちです。
釈迦が「仏滅の世が来る」ということを言ったのは、ある程度分かったから言えるのです。
それからキリストの「天国は近づけり」ということも、ある程度まで分かったわけです。
けれども、私が分かるだけは分からなかったわけです。
もし分かれば、その時にもっとすばらしい奇蹟=大きな力を現わさなければならないです。
メシヤ教というものは、今までの観念でゆくと非常に難しいようですが、
分かってみればかえって今までよりもずっとよく分かるのです。
それは根本が分かるからして、非常に難しいようでいて非常にやさしいのです。
ちょうど病気を治すようなもので、医者の方で首をひねってどうにもならない者が、
こっちの方でこうやって治ってしまうのですから、理屈は同じです。
ただあんまり違い過ぎるので、その点に骨が折れるのです。」
巻頭言 (地上天国12号) (昭和25年1月20日発行)
「いよいよ一九五○年、昭和二十五年の年になった。
というだけならいつもの年と変りはないが、実は今年こそ吾らからいえば大変な年である。
という事は吾らの唱導するところの夜の世界が昼の世界に転換する、その節に当るからである。
これはどういう意味かというと、今年を契機として世界は一大転換の運命に逢着するのである。
それを具体的にくわしく言いたいが、遺憾ながら発表は許されないのである。
したがってここでは、差支えない点だけを発表してみるが、
夜昼転換とは言うまでもなく、暗黒世界が光明世界に移るのであり、悪が滅び善が栄える時代となるのである。
濁が清となり、害あるものは滅し益あるものが残るのである。
キリストの唱えた天国も、釈尊の言われた弥勒の世も、この事でなくて何であろう。
とすれば何と喜ばしい一大慶事ではなかろうか、といってもそれは善人に対しての事で、悪人に対してはまことに気の毒というの外はない。
こういう事をいうと、よく宗教家の言う、都合のいいお題目と見る人もあるかも知れないが、今度は断然違うので、
今年こそは右の萌芽が表われるから何人にも見えるであろう事を今から警告したいのである。」
明主様御垂示 「夜昼転換の三段階」 (昭和26年5月1日)
信者の質問
「地上天国に三次元の始まりが出ておりましたが、二次元の始まりが一九三一年とお教えいただいておりますが、
それに五十年の開きがありますが、どういうわけでございましょうか」
明主様御垂示
「明治十四年が一八八一年になるんです。
一番目は経です。二番目は緯で、三度目は本当なんです。
火水土。三つというのは完成の数字なんです。
日月地。天地人。王というのは三つを貫いて、完全の姿です。
それで、神幽現。昭和六年六月十五日が神界の黎明。
昭和十六年六月十五日が幽界の黎明。
二十六年六月十五日が現界の黎明になる。それで五六七です。」
信者の質問
「霊界の構成の第一天国は、お書きのときはできていなかったのでございましょうか」
明主様御垂示
「そうです。」
信者の質問
「そのときの国常立尊のお働きについてお伺い申し上げます」
明主様御垂示
「審判の働きなんです。完成すれば、国常立尊は働きが違っちゃう。完成の働きは五六七と言うのですね。」
明主様御垂示 「現在の霊界」 (昭和25年3月1日)
信者の質問
「今年よりいよいよ昼間の世界に入りつつあるとの御教えを戴いて御座いますが、
ただ今の霊界は現界的に申しますと、夜明の何時頃に相当致しますもので御座いましょうか。お伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「朝六時頃であろう。黎明をちょっと離れた所である。」