霊憑りの危険性ついて 1(御論文)


明主様御教え 「神憑り」 (昭和22年2月5日発行)

「昔から神憑りなるものはすこぶる多く、その種類も千差万別である。

そうして現代識者といわれる程の人等は全然迷信と片附け一顧だも与えないばかりか、神憑りなる言葉さえ嘲笑的意味にしか使用されないのである。

しかしながら私の研究によれば、神憑りなるものは決して迷蒙的のものではなく、正邪の差別はあるが、それを正確に判別し得る眼さえあれば有用なる存在である。


そうして神憑りは三種に区別する事が出来る。

第一は真の意味における神(正神ではあるが上中下の階級がある)の場合と、

第二は動物霊等が神を詐称する場合と、

第三は人霊の場合とである。

第一においては例えば何々宗の教祖、即ち天理教における中山みき刀自、大本教の出口直子刀自、その他妙霊教、金光教、黒住教、人の道等の教祖等、往昔の弘法、日蓮、法然、役の行者等のごときはそれであり、

第二は世間数多くある如何わしい宗教、稲荷下しの行者、飯綱遣等の類であり、

第三は人霊主に祖霊や近親者の霊等であるが、これは神憑りではなく霊憑りと称すべきが本当である。

したがって神憑りに対し判別なし得る能力を養って、その取扱いと指導が宜しければ、人類社会に少なからず役立つのである。

しかしながら神憑りに対する智識浅薄の場合、弊害発生の懼れもある事は自明の理である。


欧米においては心霊科学の研究はすこぶる盛んで、英国をはじめ、神霊大学等も各地にあり、有力なるミージャム(霊媒)も数多く輩出しつつある。

霊界よりの通信者として、彼の米大統領故ウィルソン氏や、ロンドン・タイムズ紙社長故ノースクリフ卿等の如き淙々たる霊の自働書記や、霊話通信の記録は注目に価するものがある。

しかしながら何処も同じで欧米においても識者と称する頑迷なる人士や、唯物一点張りの科学者輩の否定と常に戦いつつ研究を進めている現状であるが、

好い事には彼の地では今までの日本に見るような封建的取締りがないから研究は自由である事で、

それに引替えこれまでの日本は、政府の弾圧と学者の反対の為何等見るべき研究が行われなかった事は遺憾の極みであった。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「神憑り」 (昭和18年10月23日発行)

「神憑りについては大いに注意しなければならないのである。

それは神憑りなるものは、一般人はほとんど無知識であるから騙され易いのである。

故にそれを奇貨として、世間何々の行者、何々の修験者輩が、いかがわしき迷信や邪教を鼓吹し世を惑わすものが少なからずあるから、私は彼らの内幕を暴露しようとするのである。

それは大抵、病人や信者を前にして生神様然と構え、神様がお憑りになったとか、

神様が乗憑(のりうつ)り又はお下(さが)りやお降(くだ)りになったーなどと称え、

異様の挙動をなし、さも神様らしく御託宣を吐くのである。

その場合「此方(こなた)は何々の神であるぞよ」などというので、

局囲の善男善女は神様の御降臨と思い込み、随喜渇仰(かつごう)するという訳であるが、

何ぞ知らん、これらはほとんど狐狸、天狗の類であって、決して真なる神ではないのである。

しかしながら、正神といえども稀には人間に懸り給う事もあるが、

その場合は何ら異様な挙動等はなく、憑依せる本人さえ意識しない位平静なものである。

しかも正神の憑依は常住的又は普通人に懸る事はなく、国家の重大事又は特殊使命の人間に対し、ある場合に限るのである。

彼の有名な和気清麻呂が宇佐八幡に詣で、神示によって道鏡の野望を画餅に帰せしめた事や、

畏多くも神功皇后が三韓征伐の砌(みぎり)、御神示によって御征途に登らせ給いしごときは、真の神憑りであらせ給うのである。

又 近くは、松岡外相が連盟脱退の際のごとき、大東亜戦争の始った十二月八日における戦略のごときは、いずれも正しい神懸りによる事と思うのである。


次に、○○宗の行者などは、似而非(えせ)神憑りを作るのを得意としている。

その方法は経文や題目をしきりに唱えさせ、遂に自己以外の者が喋舌(しゃべ)り出すのである。

すると口が切れたといって本人は固より、周囲の者まで非常に喜び芽出度いといって祝う事さえある。

これらは勿論、狐霊の憑依であるが、狐霊によっては、一種の神通力のごときものを持ち、人間の過去の事など当てるので、

本人も他の者も真正の神が憑ったと思うのである。

しかしながら、狐霊の憑依は往々にして精神病になり易いので、○○宗の熱烈な信者に精神病の多いのは右の理によるのである。


私は、若い頃歯痛に悩んだ事がある。

その時東京の有名な歯科医七八軒を歩いたが、どうしても治らないので、人に勧められ○○宗の行者に依頼した事があった。

その時行者は私に向って大声を出して拝みながら、時々小声でひそひそと誰かに何かを言うのである。

私は、耳を潜めて聴くといわく「お前ら二人は、この歯の痛みを治せば稲荷に祀ってやるぞ、名前はお前は○○稲荷、お前の方は○○稲荷とするから一生懸命治すんだぞ」としきりにいうのが聞えた。

私はその時分霊的知識がないから、不思議な事を言うものかなと思ったが、後に到って判ったのであるが、

これらは全く野狐(やこ)を使って手柄をさせ、その褒美として稲荷に祀ってやるのである。


元来 野狐は、人間でいえば宿無し同様の浮浪人であるから、稲荷に祀られる以上、正一位稲荷大明神という立派な位を貰い、人間に崇められ、飲食物も豊富に供えられるから、

稲荷に祀られたい一心で懸命に病気を治そうとするのである。

故に、行者等に委嘱し病を治すという事は右のごときものであるから、病気によっては治る事もあるが、後が恐ろしいのである。

それは狐霊などと関係を結ぶにおいて、少し信心を怠ると何らかの災や苦悩を与え、信仰を続かせようとするのでついには不幸なる運命に陥る事が多いのである。

何となれば、万物の霊長たる人間が、人間以下である四足を拝むにおいて、霊的に霊層界の地獄に堕ちるからである。


又 注意すべき事は稲荷を祀る場合である。

元来稲荷大明神といえども本体は狐霊であるから、人間よりも位が低いのである。

従って、室内に祀る場合、人間の位置の方が低くなるから面白くない。

その理由は本来狐は地面の上に棲息する動物であるから、狐の居るべき所は、霊界においては地面に相応するので、

人間がそれより下に居る場合地獄に相応する訳である。

故に実際上室内に狐霊を祀ってある家は、不幸や災厄が断えないものである。

故に、稲荷を祀る場合、室外即ち庭又は空地に定むべきである。


又、稲荷には二種の区別がある、一は古くから伝わっている祖先以来祀ってある稲荷で、それは祖先が狐霊となって子孫を守護しつつあるものであるから、

身分相応の社(やしろ)を作り、ていちょうに祀るべきで、毎月日を定め、一日だけ祭典を行わなければならないのである。

それは祖霊を慰め敬う子孫の義務であると共に、その御守護に対し感謝の誠の表われであるからである。

又 一は、自分が伏見、豊川、羽田、王子、笠間等、有名な稲荷神社からお札を戴き祀るのであるが、これは任意に処置しても差支えないのである。

しかしその場合 御酒御饌(みけ)を饌供し、今日までの御守護の謝礼を言い、元の御座(みくら)へ御帰還を願うという事を言葉によって述べればよいので、それによって稲荷の霊は帰去するのである。」 (「明日の医術 第3編」より)




明主様御教え 「霊憑りに就て」 (昭和26年12月5日発行)

「霊憑りの危険な事は、常に私は注意しているにかかわらず、

今もって止めない人があるが、これは断然やめるべきである。

それについてなぜ悪いかを詳しく説明してみるが、

霊憑りの八、九割までは狐霊であって、狐霊の九割九分までは邪霊であるから、

人を瞞(だま)す事など本能的であり、

人間に悪い事をさせるのは何とも思わないどころか、むしろ面白くて仕様がないのである。

という訳で彼らの中でも高級な奴になると、

憑依する場合何々神だとか、何々如来、菩薩、龍神などと言い、

本人にもそう思わせると共に、人にも信じさせようとするので、

御本人もすっかりその気になってしまい、生神様扱いにされて多くの人から敬われ、

贅沢三昧に耽(ふけ)るのがよくあり、これが狐霊の本性である。

そうして狐霊中でも劫(ごう)を経た奴になると、相当神通力をもっており、

人間に憑依するやその人の思っている事は何でも分るから、それに合わせて色々な企らみをする。

例えばその人が神様のように人から尊敬されたいと思っていると、いつしか憑依してしまい、本人の思惑通りに取りかかる。

自分は是(こ)れ是れの立派な神の再来だとか、最も多いのは天照大御神の御名を僭称する事で、

これは誰も知っているが、そうかと思うといとも巧妙に、この人はと思う人には自分との因縁を結びつけようとしたり、

多少の奇蹟も見せるので、善男善女は一杯喰ってしまうのである。

これは世間よくある話で、方々にある流行(はやり)神などは皆この類(たぐい)で、

もちろんこういうのは一パシ腕のある狐霊で、世間の甘い人達はつい瞞されてしまう。

また中には無暗矢鱈(むやみやたら)に金を欲しがる人があると、

それを知る狐霊は憑依するや、悪智慧を働かせて、巧く金を掴めるようにするが、

もちろん手段を択ばず式で、大抵は罪を犯させ、一時は巧くゆくが結局は失敗してしまい、その筋の御厄介になる者さえよくある。

また女を得たい人間には巧妙にその女に接近させ、女の関心を得るよう甘い言葉や手段を用い、時には暴力を振う事さえあるのだから危ない話である。

そのように元々動物霊であるから、善も悪もない。ただ人間を道具にして自由自在に躍らせればいいので他愛ないものである。

このように狐の方が人間より一枚上になるから、万物の霊長様も情ない話で、これが分ったなら人間様も余り威張れたものではあるまい。


その他狐霊の外狸霊、龍神、悪質天狗等も憑って人間を誑(たぶら)かすが、

その中でも邪悪の龍神が最も恐るべきものである。

本来龍神なるものは、並々ならぬ強い力と、そうして智慧をもっているから、

人間を自由にし場合によっては人に傷害を与えたり、命をとる事など朝飯前である。

昨年の事件の時なども、多くの悪龍が活躍した事は以前もかいたが、

そういう場合血も涙もない残虐極まるものである。

しかも狐霊などとは異い、龍神は智能的で、悪智慧が働くから思想的にも人間を自由にする。

何々主義などといって悪質犯罪を平気でやらせ、社会に害毒を流すのも原因の多くはそれである。


そこへゆくと狸霊や天狗の霊は大した事もないが、ただ天狗は霊力が強いのと、学問のあるのが多いので、

彼らの中の野心家はそういう人間を掴えて躍らせ、世間に名声を博し、出世をさせて大いに威張りたがる。

そのような訳で天狗の霊憑りは、昔から禅僧、学者、宗教の創立者などに多く、永続きする者は至って少ないのである。


以上憑霊に関しての色々な事をかいたが、ここで充分知って置かねばならないのは、

単に邪神といっても個性的に悪い事をするのではない、

その奥に邪神を操っている頭目があって、こいつこそ最も恐るべき存在である。

この頭目の力には大抵な神も歯が立たないくらいである。

ところがこの邪神の頭目は陰に陽に絶えず吾々の仕事を妨害している。

特に本教は邪神にとっては一大脅威であるから、彼らの方でも頭目中の頭目が対抗しているのでこれこそ正邪の大戦いである。


ところがここに注意すべき重要事がある。

それは本教信者は自分は御守護が厚いから大丈夫だ、邪神など容易には憑れるものではないと安心しているその油断である。

この考え方が隙を与える事になり、邪神は得たり畏(かしこ)しと憑依してしまう。

しかも小乗信仰者で熱心であればある程憑り易いから始末が悪い。

いつも私は小乗信仰を戒めているのはそういう訳だからである。

何しろ邪神が憑るや小乗善にもっともらしい理屈をつけて押し拡げ、

巧く瞞すので大抵な人はそれを善と信じ切って一生懸命になるのだが、

何しろ根本が間違っている以上、やればやる程結果がよくないから焦りが出る。

そうなると人の忠告など耳へも入らず、ますます深味に嵌(はま)ってしまい、

二進も三進もゆかなくなって失敗する人がよくあるが、

こういう人も早いうち目が醒めればいいが、そうでないと何が何だか分らなくなってしまい、

御蔭を落す事になるから小乗善のいかに恐ろしいかが分るであろう。

小乗善は大乗の悪なりと私が常にいうのは左の事である。

またこの点一番よく分るのは小乗善の人は必ず常軌を逸する事で、これが奴らの狙いどころであるから、

何事も常識眼に照らして判断すれば間違いないので、全く邪神の苦手は常識であるから、私は常に常識を重んぜよというのである。

この例は世間に有りすぎる程有る。よく奇矯な言動を可いとする信仰や、同様の主義思想、神憑り宗教などもその類であって、

いずれも問題を起し、世間を騒がす事などよく見聞するところである。


そうして右の理は霊的にみてもよく分る。

何しろ狐狸等は動物霊であるから、人間より以下である。

従ってこれを拝んでいると動物の居所は地上であるから、

人間は地の下になり、霊界では畜生道に堕ちている訳で、

霊界の事は一切現界に映るから、その人は地獄に堕ちているのである。

世間よく稲荷の信者などは、必ずと言いたい程不幸な運命に陥ってしまうのは、右の理によるからである。

もちろん霊憑りもそうであって、動物の入れ物になる以上、ヤハリ畜生道に堕ち、不運な境遇になってしまうのである。

しかしながら同じ狐霊でも、全部が全部悪い訳ではない。

稀には好い狐もある。

それらは改心した狐であって白狐(びゃっこ)である。

白狐はいずれも産土(うぶすな)神の下僕となり、神の御用に励しんでおり、仲々役に立つものである。

というのは狐は霊的には種々な特徴をもっており悪もそうだが善の場合も仲々力があり、好い働きをするものである。

しかし神憑りにも除外例がある。

それは祖霊または正守護神が重要な事を人間に知らす場合、一時的に憑る事がある。

これはホンの僅かの時間と必要だけの言葉で、決して余計な事は言わないものである。


ここで序(ついで)だから正か邪かの判別法を教えるが、

神様に関係のある正しい言葉には無駄は決してない。

物事の急所を簡単明瞭にお知らせなさるものである。

故に邪霊であれば必ず余計な事を喋舌(しゃべ)りたがるもので、

よくあるノベツ幕なし立て続けに喋舌るなどは、狐霊と思えば間違いない。

しかしこういう場合もある。

それは正守護神が言葉で知らせようとする場合、狐霊は人間に憑る事も、喋舌る事も巧いので、狐霊を使う事もあるが

そういう場合必要以外の事を喋舌り、地金を現わすから大いに注意すべきである。」




明主様御教え 「宗教の合理性」 (昭和24年7月23日発行)

「宗教を批判するに当って、正しいか正しくないかを判別する基準として一番簡単な見方は、

合理性か非合理性かによるのが間違いない、

この点神憑り宗教は危険性がある、

といって、神憑りはみんないけないというのではない、

今日ある大宗教の開祖などに神憑りの多いのも事実である、

しかし同じ神憑りであってもそこに自ら正邪があるから、

それを見分ける場合まず常識をもってみるのが最もいいのである。」