輪廻転生について 1


明主様御講話 「人間は霊体が実体」 (昭和15年11月9日)

「肉体は霊体を入れたサックのごときもので、使用に堪えねば霊は出て行く。

霊はふつう死んでから四十九日まではその家におり、五十日目に行くべき所へ行く。

ふつうはお寺へ行き、神道ならば産土神社または信仰している団体へ行く。

お寺で葬られれば一時お寺にいなくてはならない。

そして間もなく自分の信ずる所へ行く。

ところが信仰する所がなければ、お寺に長くいることになるのである。

人間が死ねば煙のようになると思う人は、お寺にもおれず宙に迷うのである。

中有界に迷うので六道の辻ともいい、ここは辻のようなもので、四方八方どこへでも行けるのである。

この世で死んでも邪神界へ行くものもある。

仏界にも地獄、極楽あり、神界でも天国、地獄(根底の国)あり、そこで修業する、

というのは浄化作用が行なわれる。罪は苦しまねばとれない。

これを迷信という人こそ迷信である。

ある程度浄化が行なわれると生まれ代わる。

霊魂はどしどし殖えつつあり、天国、地獄でも生まれる。

霊界でできるだけ長くいたほうが幸運である。

思い続けた想念は滲みついているもので、また死の時の想念も続く。

非常な美人は前の世はまずい顔だったかもしれない。

だから女の方は死ぬ前に美人に生まれて来ようと思ったほうがよいであろう。

輪廻転生、人間は霊が主で、霊は不滅、肉体は滅びて土となる。

五十年とか八十年とか、霊の衣をぬぐだけと言っていい。

人間は霊体が実体である。」




明主様御教え 「再 生」 (昭和18年10月23日発行)

「人間の再生には非常に遅速のあるものである。

そうしてその再生の遅速はいかなる理由によるかというに、それはその人の意志によるのである。

たとえば、死に際し現世に執着をもった者ほど早く再生するのであるが、しかし、これは結果が良くないのである。

何となれば、霊界なるものは、最も厳正に浄化作用の行われるものであるから、

霊界に長く居れば居る程浄化され、霊体は浄まるのである。

浄まった霊体ほど再生して幸福者となるのである。

この理によって早く再生する場合は、汚濁が残存しているから、再生の後現世において浄化作用が行われなければならないからである。


勿論 現世の浄化作用とは、病気、貧乏、災い等の痛苦であるから不幸な運命を辿るという訳である。

故に、生れながらにして幸不幸があるという事は右の理による事が多いのである。

故に、決して幸不幸は偶然ではなく、必然である事を知らなければならない。

しかしながら、今一つの原因がある。

それは死後の霊魂に対し、その遺族が誠意を以て懇(ねんご)ろなる法要を営むとか、

又は遺族及びその子孫が人を助け慈悲を行い、国家社会の為に尽す等、善徳を積む事によって、祖霊の浄化作用は促進されるのである。


右の理によって、親に孝を尽すのは現世のみではなく、むしろ死後、供養や積徳によって霊界における親に孝養を尽す方が、より大きな孝行となるのである。

世間よく「孝行をしたい時には親は無し」・・・というが、これは全く霊界の消息を知らないからである。


又、生れながらにして障害者である場合がある。

それは霊界において、完全に浄化作用が行われない中、再生するからである。

たとえていえば、高所から顛落して、手や足を折った場合、それが治り切れないうちに生れてくるから、手足に障害があるという訳である。


又、早く再生する場合、本人の執着のみでなく、遺族の執着も影響するのである。

世間よく愛児が死んだ場合、間もなく妊娠し生れるという例がよくあるが、それは全く、死んだ愛児が母親の執着によって、すこぶる早く再生したのである。

従って、こういう子供は余り幸福ではないのが普通である。」 (「明日の医術 第三編」より。なお、このページの「再生」の御教えについては、人権擁護の観点から、原文に大幅な修正を加えています。)




明主様御教え 「生と死」 (昭和22年2月5日発行)

「人生死の問題ほど切実なる問題はあるまい。

故に死及び死後について幻想的でない実証的の解説を得たならば、これ程の喜びはないであろう。

私はこの問題に対し霊的事象の研究から得た成果を発表し、あまねく世人に知らせ、蒙をひらきたく思うのである。

もっとも死後の問題に対しては、欧米においても心霊研究家としてオリヴァー・ロッジ卿、メーテルリンク、ワード博士等のごときは名著もあり、斯界(しかい)の権威でもある。

日本においても故浅野和三郎氏のごときは心霊研究家としてその造詣も深く、著書も多数あり、数年前物故したが、私もいささか関係があったので惜しまれるのである。

私が霊の問題を説くにあたって断っておきたい事は、出来るだけ自分自身の経験を主として記述する事にした。

これは正確を期するためで、何分霊に関した問題は捕捉し難い不可視的のものである以上、ともすればドグマに陥りやすいからである。


人間はさきに説いたごとく、使用不能になった肉体から離脱した人間の霊は、霊界に復帰し霊界人となり、霊界生活が始まるのである。

そうして、まず人間死の刹那はいかなる状態であるかを霊界から観察した時の模様をかいてみよう。

死すなわち精霊が肉体から離脱の場合、おおむね人体の三個所から出る。

すなわち前額部、臍部、足の爪先からである。

この区別はいかなる理由によるかというに、霊の清浄なるものは前額部、中位のものは臍部、汚濁せるものは足部という訳である。

その理由としては霊の清浄なるものは、生前善を行ない徳を積み、霊が浄化されたためで、汚濁は生前罪穢をかさねたるもの、中位はその中間であってすべては相応の理によるのである。

また左の例は死の刹那を霊視したある看護婦の手記であるが、非常によく書いてあるから参考に供する事にした。


これは西洋の例であるが、人によって霊の見える人が西洋にも日本にもたまたまあるのである。

私はくわしい事は忘れたが、要点だけは覚えているからかいてみよう。

「私は、ある時今や死に垂(なんな)んとする病人を凝視していると、

額のあたりから一条の白色の霧のようなものが立ち昇り、空間に緩やかに拡がりゆくのである。

そうするうちに、雲烟(うんえん)のごとき一つの大きな不規則な塊のようなものになったかと思うと、

まもなくしかも徐々として人体の形状のごとくなり、数分後には全く生前そのままの姿となって空間に起ち、

じっと自己の死骸を見詰めており、死骸に取りついて近親者が悲嘆に暮れているのに対し、

自分の存在を知らしたいようなふうに見えたが、何しろ幽冥所を異にしているので諦めたか、

しばらくして向き直り、窓の方に進んでゆき、すこぶる軽げに外へ出て行った」というのであるが、これは全く死の刹那(せつな)をよく表している。


仏教においては人の死を往生という。

これは現界から見れば往死であるが、霊界から見れば生まれてくる、すなわち往生である。

また死ぬ前の事を生前というのも右の意味にほかならないのである。

そうして人間は霊界における生活を、何年か何十年何百年か続けて再び生まれるのである。

かくのごとき生き代わり死に替わり何回でも生まれてくるので、仏語に輪廻転生とはこの事をいったものであろう。


霊界なるものは、人間に対しいかなる関係ありやというに、それは現界において、神よりの受命者として人各々の業務を遂行するにおいて、意識すると意識せざるとに係わらず、霊体に汚穢(おわい)が堆積する。

それと共に肉体も病気、老衰等によって受命を遂行し難くなるから、一旦体を捨てて霊界に復帰する。すなわち帰幽である。

昔から霊の抜けた体を称してナキガラという事や肉体をカラダというのもそういう意味である。

そうして霊魂が霊界に入るや、大多数は汚穢の浄化作用が始まる。

汚穢の量によって霊界生活においての高下と、浄化期間の長短があるのはもちろんで、早きは数年数十年、遅きは数百年数千年に及ぶものさえある。

そうしてある程度浄化されたものは、神の受命により再生するのである。


右は普通の順序であるが、人により順序通りゆかぬ場合がある。

それは生に対する執着であって、死に際会し生の執着が強いものは、霊界の浄化が不充分でありながら再生する場合もある。

こういう人は不幸の運命を辿るのである。

何となれば浄化不充分のため、前生における罪穢が相当残存しており、それの浄化が発生するからである。


この理によって、世間よく善人にして不幸な人があるが、かかる人は前生において罪をかさね、死に際会し翻然と悔悟し、人間は未来永劫悪はなすまじと固く決心し、その想念が霊魂にしみついており、

浄化不充分のまま再生するをもって、悪を嫌い善を行なうにかかわらず、不幸の境遇をたどるのである。

しかしながらこういう人もある期間不幸が続き、罪穢が払拭されるにおいて一躍幸福者となる例も、また少なくないのである。

またこういう人もある。自分の妻以外の女は知らないという品行方正を誇りとする者や、妻帯を欲せず、独身同様に終るものもあるが、

これらの人は前生において婦人関係によって不幸の原因を作り、死に際会し女性に対する一種の恐怖心を抱き、その想念が霊魂にしみついているためである。

その他鳥獣、虫類等のある種に対し、特に嫌悪または恐怖を抱くものがあるが、それらも、その動物によって死の原因を作ったためである。

また水を恐れたり、火を恐れたり、高所を恐れたりするのは、それらが原因となったためである。

人間恐怖症というのがある。たとえば多人数集合の場所を恐れるが、これらも人ごみで押し潰されたりして死せるためであり、おもしろいのは独居を恐怖するものがある。

私が扱った患者でこういう人があった。それは留守居が出来ない。

すなわち己一人では淋しく恐ろしいので独居の場合は必ず外へ出て誰か帰るまで待っているのである。

これらは、前生において独居の際急病が起こり、人をよんでも間に合わぬうち死せるものであろう。

以上のごとき数種の例によってみても、人間は死に際し、執着や恐怖等なく、平安に大往生を遂ぐるよう、平常から心掛くべきである。


生れながらにして障害者があるが、これは霊界において、完全に浄化が行なわれないうちに再生するからである。

たとえば高所から転落して手や足を折った場合、それが治り切らないうちに生まれてくるからである。


また早く再生する原因として、本人の執着のみでなく遺族の執着も影響する。

世間よく愛児が死んでからまもなく妊娠し生まれるという例があるが、

これらは全く死んだ愛児が母親の執着によって早く再生するのであるが、

こういう子供はあまり幸福ではないのである。


人は生まれながらにして賢愚の別がある。

これはどういう訳かというと、古い霊魂と新しい霊魂との差異によるのである。

古い霊魂とは、再生の度数が多く現世の経験を豊かに持っているからで、

これに反し新しい霊魂とは霊界において新生して間もないものであるから、経験が浅くどうしても愚かな訳である。

そうして新しい霊魂とは、霊界においても生殖作用が行なわれ生誕するのである。


また誰しも経験するところであるが、見ず知らずの他人であっても、

一度接するや親子のごとく兄弟のごとく、否それ以上に親しみを感ずる事があるが、

これは前生において、近親者または非常に親密な間柄であったためで、この事を称して因縁というのである。

また旅行などした際、ある場所に非常に親しみを感ずる事があり、ぜひ住みたいと思う事がある。

それは前生においてその辺に住み、または長く滞在していたためである。

また男女関係などの場合、熱烈な恋愛に陥り、盲目的にまで進む場合があるが、

これらも前生において心と心とで相愛しながら結合の機会を得なかった、

ところが、今生においてその機会を得たので、爆発的恋愛関係となるのである。

また歴史をひもとく時、ある時代の場面や人物などに好感や親しみを持ったり、反対に僧悪する事があるが、

それらも自分がその時代に生まれ合わせ、何かしら関係があったためである。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「天才児童はどうして出来るか」 (昭和25年3月11日発行)

「先頃新聞を賑わした、六歳で素晴しい絵を描くという児童があったが、こういう豆児童はどうして生まれるかを書いてみるが、

天才児童は昔からも時々現れるもので、西洋においても有名な音楽家等が六、七歳頃からピアノやヴァイオリンをよく弾いたり

十歳を越してから大作曲を現すというような話もよく聞くのである、

彼のシューベルトなども十何歳から三十一歳の死ぬまでの間に五百種以上の作曲をしたと言うのであるから、驚くべき天才であったに違いない、

かような大天才の生まれるのは何か特別の原因がなくてはならないはずで、それをかいてみよう。


これはもちろん霊的であって、唯物科学では全然見当がつかないから致し方ないとしても、

この原因を知る事も必要事であろう、その意味で吾らは霊科学から解説するのである、

この原因については、例えば音楽大家の霊の再生と憑依とのこの二つと思えばいい。

今年に大音楽家があるとする、死後霊界に行っても好きな音楽は忘れる事が出来ない、その強い執着のため速く再生する、

これがその一つで、別な一つとしては再生するまで待ち切れないため、

自分の系統の者を探し求めてその児童に憑るので、手指の動くのを待って六、七歳頃になれば憑るのである、

何しろ大音楽家であるから驚くべき技能を発揮する訳である、

ところが、この場合縁のない者へは憑る事が出来ないから、自分の霊統の者特に児童に憑る、

それは成人者より幼時ほど憑依しやすいからで、また思い通り自由に駆使されるからでもある、

考えてもみるがいい、六つや七つの子供が普通であったら、成人者のような技能は有るはずがないが、

以上のような訳を知れば天才児童も神童も出来るのもあえて不思議はないのである、

しかし天才児童のことごとくが大成するとは限らない、中にはある年齢まででその後は普通になる者も往々あるが、

これら再生ではなく憑依霊の場合に限るのである、

という事は再生の方は、その霊自体が人間であるから変りようがないが、

憑依霊の方は神の使命や祖霊の思惑のため、ある時期までで許されたものであるからである。」