霊界は現界の延長 1
明主様御教え 「顕幽の関係」 (昭和18年10月23日発行)
「そもそも人間が死と共に霊界に往くや、天国、極楽、中有界、地獄のいずれかに帰属する事は既に説いた通りである。
それについていずれに往くべきやは、死の直前の状態そのままが持続するのであるから、それによって自ら行先の見当はつく訳である。
それは死に際会し何らの苦痛がなく大往生を遂ぐるにおいて、無論天国へ往くのであるが、軽苦は中有界、重苦は地獄に堕つるのは勿論である。
この意味において現界に居る間、徳望高く、多人数から敬い慕われた人は、そのまま霊界においても有徳の長者となり、
これに引換え現界において、他人との交際が薄く、淋しき生活や孤独の状態であったものは、霊界に往くもそのまま淋しき薄倖者となるのである。
従って死に際会して病苦又は精神的苦悩のあるものは、そのまま霊界に往くも持続するのであるから、勿論地獄に落つるのである。
右についての一の実例を挙げてみよう。以前私の部下に山田某という青年がいた。
ある日彼は私に向って「急に大阪へ行かなければならない事が出来たので、暇をくれ」と云うのである。
しかるに、その時の彼の顔色、挙動等普通でないので、私は彼にその理由を質(ただ)したが、
その言葉に不透明な点があるので、私は霊的に査(しら)べてみようと思った。
勿論その当時私は霊的研究に没頭していたからでもあった。
まず彼を端座瞑目さして、霊査法を施すや彼は非常に苦悶の形相を表わしノタ打つのである。
私の訊問に応じて霊の答えた所は、次のごときものである。
「自分は、山田の友人の某というもので、大阪の某会社に勤務中、その社の専務が良からぬ者の奸言を信じ、自分を馘にしたので、無念遣方(やるかた)なく世を悲観の結果、毒薬を仰いで自殺したのである。
しかるに自分は、自殺をすれば無に帰すると思っていたところ、無になるどころか死の刹那の苦悩がいつまでも持続しているのであまりの予想外に悔いているのである。
どうかこの苦悩を幾分なりとも軽くして戴きたい」とあえぎ喘ぎ漸(ようや)くにして語るのである。
又山田の大阪行の件に関してはこういうのである。「右の専務へ対しての復讐の念止み難く、山田をして殺害させようと、自分が憑依して想わしたのである。」と言うのである。
私はその不心得を懇々(こんこん)と誡(いまし)め、苦悩の軽減法を行ってやったので、霊は楽になったと非常に喜び、厚く謝して去ったのである。
右終って山田に話をしたところ、彼は愕(おどろ)くと共に、全く大阪行は霊の云う通りという事が分った。
これらによってみるも死の刹那の苦悩が飽くまで持続すべきものであるという事が判るのである。
右によってみるも、人間はいかなる苦悩に遇うも、自殺はなすべからざるものである事を知るべきである。
次に、霊界においては、神界、仏界の外、天狗界、龍神界、兇党界なるものがあり、まず天狗界から書いてみよう。」 (「明日の医術 第3編」より)
明主様御教え 「死後の種々相」 (昭和24年8月25日発行)
「(一部のみ引用) 次に変死について知りおくべき事がある。
それは他殺自殺等すべて変死者の霊は地縛の霊と称し、その死所から暫くの間離脱する事が出来ないのである。
普通数間または数十間以内の圏内にいるが、淋しさの余り友を呼びたがる。
世間よく鉄道線路などで轢死者が出来た場所、河川に投身者のあったその岸辺、縊死者のあった木の枝等よく後を引くが右の理によるのである。
地縛の霊は普通三十年間その場所から離れない事になっているが、遺族の供養次第によっては大いに短縮する事が出来得るから、
変死者の霊には特に懇(ねんご)ろなる供養を施すべきである。
そうしてすべての死者特に自殺者のごときは霊界に往っても死の刹那の苦悩が持続するため大いに後悔するのである。
何となれば霊界は現界の延長であるからである。
この理によって死に際し、いかなる立派な善人であっても苦痛が伴う場合中有界または地獄に往くのである。
また生前孤独の人は霊界に往っても孤独であり、不遇の人はやはり不遇である。
ただ特に反対の場合もある。それはいかなる事かというと、人を苦しめたり、吝嗇(りんしょく。けちのこと)であったり、道に外れた事をして富豪となった人が霊界に往くや、その罪によって反対の結果になる。
すなわち非常な貧困者となるので大いに後悔するのである。
これに反し現界にいる時、社会のため人のために財を費やし善徳を積んだ人は霊界に往くや分限者となり、幸福者となるのである。」
明主様御講義 「地 獄」より (昭和10年8月15日発行)
地獄 修羅道
餓鬼道
色欲道
畜生道
「(一部のみ引用) 又死んだら苦痛はなくなると思うと間違いで、これは霊界は現界の延長であるからである。
病苦が霊にそのまま続くのである。
三原山で死んだのは焦熱地獄へ行くのであるが、これは焼死ぬからである。
その焼死ぬ時そのままの状態が続くからなのである。
自殺は皆地獄行きである。
水死は極寒地獄である。
これは水に漬り通しであるからである。
お産で死んだのは血の池地獄である。
病死すれば病気は無くなると思うと大違いである。
決して治ってはいない。
むしろ苦痛が酷くなっている。
それはなぜかと言うと霊は感じが強いから、それだけ痛み苦しみが強いのである。」 (全文は「地 獄」のページ)
明主様御教え 「現当利益」 (昭和10年9月15日発行)
「この現当利益という事を、低級信仰として解釈する多くの人があるが、それは大いに誤っている。その点を述べてみよう。
世に、現当利益が、心から嫌いだという人は、実は一人もあるまい、もし、有るとしたら、その人は狂人である。
病気が治るのは、嫌いだという人はあるまい。
金が欲しくないと拒絶する人も、一人もあるまい。
俺は、不幸が好きで、幸福は真平だと逃げる人は、恐らくこの娑婆には、絶対に無い事を保証する。
宗教界において、そうそうたる人達が、口を開けば現当利益は低級である。
すべからく、病気や不幸に超越して、心の安心立命を得るのが、真の信仰であると言うのである。
私は言う、病気で悩み、不幸災厄に囲まれながらなお安心立命の出来る人が、世に有るとしたら、恐らく、六千万人中十人とはあるまい。
そんな理論だけの信仰で以て、大衆を救えるはずは、断じてない。
大衆の救えない、一部少数の人より、救えない宗教であるならば、それは、無用の存在でしかない。
現当利益を不可とする宗教は、実は、現当利益を与えるだけの、力即ち奇蹟が無い為の詭弁である。
それは、その宗教に最早、生命が無くなっている証拠である。
そういう宗教に限って、社会事業に依って、ようやく、その存在を、理由づけている有様である。
いかなる宗教といえども、その創(はじ)めは、相当の現当利益が有ったであろう事は、史実も物語っているし、又そうでなかったなら、その時すでに滅びているはずである。
では何故に、開教時と異って今日は、その力が無くなったかというと、その真相はこうなのだ。
いずれの開祖も真面目で、真剣で、神仏の代行者として恥しからぬ人達ではあったが、
惜い哉、世は夜の時代であったが為、年を経るに従い、邪神の為に、力をそがれてしまった為であって、
遂に、今日見るごとき生命の無い状態となったのである。
又 現世においての悩みは、免れ得られないが、未来は天国浄土に救われると言うのが、彼らの説き方である。
これもおかしな話である。
現在を救えないものが、何で未来を救う事が出来ようか、
未来というものは、死んでから先の、幽界であるから、万一、天国浄土へ行けなかったとしても、幽冥所を異にしては、苦情も持って来られないから、
まことに説く方にとっては、安全至極の説き方である。
本来、現幽は表しているのが実相である。
彼らは、そんな事には無智である。
で、幽界は、現界の延長であるから、現界において、無病息災にして、幸福の生涯を終った者は、そのまま、極楽浄土へ行くのであるが、
病患に苦しみつつ死んだ者は、その苦しみがそのまま、継続するのであるから、無論、地獄界へ行くのである。
病気やその他の不幸で苦しみつつも、教誨師などの言を信じて天国へ救われると、思い込んで居る人がよく在るが、実に可愛相な者である。
顕幽神(けんゆうしん)三界の実相を、知らない宗教家が、独断的に言う説こそは、実に危険千万であって、その罪は、軽からぬ事である。
しかも釈尊にしろ、キリストや日蓮にしろ明確に、天国、極楽、地獄の真相を開示して居るに係わらず末世の僧侶牧師が、否定するにおいては、その開祖に対して不徳の罪の大なるものである。」 (「病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何?」より)