霊界と現界について
明主様御教え 「霊界と現界」 (昭和24年8月25日発行)
「そもそも、宗教に関心を持つ場合まず徹底的に理解するには、どうしても霊界と現界との関係を知らねばならない。
何となれば宗教信仰の対象は神仏であり、神仏とは霊であるからで肉眼では見る能わざる以上、理論のみによって実態を把握せんとしてもそれは木によって魚を求むるの愚である。
しかしながらこの世界には神も仏も立派に実在している以上、否定し去る事ももちろん不可能である。
ちょうど野蛮人に向かって空気の存在を認識させようとしてもすこぶる困難であると同様現代人の大多数に霊の実在を認識させる事の困難さはもちろんである。
私はまず前提として霊界の構成、霊界人の生活等にわたってなるべく深く説明してみよう。
そもそも人間とは肉体と霊体との二原素から成立っており、人間が死するや霊肉離脱し霊は直ちに霊界に入り霊界生活が始まるが、
離脱の場合極善者は額から、極悪者は蹠(あし)の爪先から、一般人は腹部の中央臍部辺から霊は脱出するのであって、
仏教においては死ぬ事を往生というが、これは霊界からみれば生まれ往く訳だからである。
また死ぬ前を生前といい神道にては帰幽といい転帰というのも同様の理である。
そうして、霊界人となるや昔から言われている通り、まず三途の川を渡り閻魔の庁に行くのであるが、これは事実であって私が多数の霊から聞いたそれは一致している。
閻魔の庁とは現界における法廷と同じである。しかも三途の川を渡り終るや屍衣の色が変化する。
すなわち罪穢の最も少なきものは白、次は各薄色、青、黄、赤、黒というように、罪穢の軽重に従い右のごとき色彩となるのである。
ただ紫だけは神衣としてある。閻魔の庁においては祓戸(はらいど)の神が主任となり、各冥官が審問に当たり、それぞれ相応の賞罰を決めるのであるが、
その際極善人は天国または極楽に、極悪人は地獄へ堕つるのであって、普通人は中有界(ちゅうゆうかい)、神道にては八衢(やちまた)、仏教にては六道の辻と称する所に行くのであるが、大多数はこの中有界に行き、ここで修行するのである。
修行を受ける第一は教誨師の講話を聞くので、それによって改心の出来たものは天国へ行き、しからざるものは地獄行きとなるのである。
右の修養期間は、大体三十年を限度とし行き先が決まるのである。教誨師は各宗教の教師が当たる事になっている。
ここで霊界の構成についてかくが、霊界は上中下の三段階になっている。
その一段はまた三段に分けられ合計九段階である。
すなわち上段が天国、中段が中有界、下段が地獄となっており、現界は中有界に相当する故に、仏語の六道辻とは極楽の三道、地獄の三道へ行く訳で、神道の八衢とは右のほかに、上は最高天国、下は根底の国が加わるのである。
そうして天国と地獄の様相を端的に説明すれば、最高天国に昇る程光と熱が強烈になり、ほとんど裸体同様の生活であって、昔から絵画彫刻に見るごとく至尊仏は裸体である。
これに反し最低地獄に落つる程光と熱が稀薄となり、極最低は暗黒、無明、凍結状態である。
故にこの苦しみにあうや、いかに極悪非道の霊といえども改心せざるを得ないのである。
以上はごく大体の説明であるが、現代人が見たら荒唐無稽の説と思うかも知れないが、
私は二十数年にわたり多数の霊から霊媒を通じ、または他のあらゆる方法によって調査研究し、多数の一致した点をとって得たところの解説であるから、
読者におかれても相当の信頼をもって読まれん事を望むのである。
彼の釈尊の地獄極楽説も、ダンテの神曲も決して作為的のものではない事を、私は信ずるのである。
右のごとく、上中下三段階へ往く霊に対し、死人の面貌を見ればおよそ判るのである。
すなわち、なんら苦悶の相がなく鮮花色を呈しさながら生けるがごときは天国行きであり、陰欝なる淋しき面貌をし蒼白色、黄青色、つまり一般死人の状態は中有界行きであり、苦悶の相著しく、暗黒色または青黒色を呈するものは、もちろん地獄行きである。
以上は、霊界における基礎的知識を得るためのものであるが、順次各面にわたっての私の経験によって得たる霊的事象を書いてみよう。」 (「自観叢書第3編 霊界叢談」より)
明主様御教え 「地獄と天国」
「今の世の中を地獄そのままといっても、否という人は一人もあるまい。
どこを見ても不幸不運な人ばかりで、この人こそ本当に幸福に恵まれていると思うような人は、薬にしたくもないのが娑婆(しゃば)の姿である。
そのような世の中が続いたため、人間はこれが常態と心得、諦めてしまったのである。
彼の釈尊がいわれた生病老死の四苦にしても、どうにもならない人間の宿命とされ、この悟りが仏教の真髄とさえなっていたのである。
ところがこれははなはだ間違いてあるから、これを打破るべしというのが我メシヤ教の本領である。
というのは本教によれば人間のいかなる不幸でも容易に解決されるから、宿命などと諦める必要はないのである。
といったら余りに意外な説に唖然(あぜん)とするであろうが、何よりも事実が雄弁に物語っている。
何人といえども一度本教に入るや、たちまちにして病難を始めあらゆる苦悩は火で焼き、水で流すごとく解決されるからで、もちろん不幸も幸福に転化するのである。
このような一大福音は人類史上嘗(かつ)て夢想だもしなかったところのもので、むしろ余りに棚牡丹(たなぼた)式で反って信じ難いくらいである。
それを今理論的に説いてみるが、いつもいう通り人間は見える肉体と見えざる霊体との両面から成立っており、肉体は現界に属し、霊体は霊界に属しているのである。
ところがこの霊界なるものは特殊の人を除いて、大部分の人は今日まで全然分らなかった。
何しろ目に見えず、手にも掴めない以上無理はないが、それというのも科学万能主義になりきっているからである。
というのは科学が進歩さえすれば、幸福は増進すると思っているからである。
ところが実は進歩すればする程、逆に幸福とは遠ざかり、地獄社会となるのである。
つまり根本は霊の有無すなわち唯心か唯物かである。
その証拠としてもし霊が無いとしたらどうなるかというと、科学といえども行詰って進めないのは、今日までの有能な科学者のほとんどが一致した考え方である。
彼のパスツール始め有名な科学者達のほとんどは、クリスチャンであるにみても分るであろう。
ところが私は神示によってこれを知った以上、絶対間違いはないので、これを詳しく説明してみよう。
そもそも霊界なるものは地上の空間にあり、天国界、中有界、地獄界というように上中下の三段階百八十段に分れている。
それが霊主体従の経(たて)の法則によって、霊界に起った事象そのまま現界に移写される。
人間でいえば霊が体に移写するのである。
そうして人間の霊体は右の段階のいずれかに属しており、それぞれの籍があって籍の地位通りの運命となる。
すなわち地獄界に籍があれば不幸となり、天国に近づくに従い幸福者となるのであるから、出来るだけ籍を上段に昇らせる事である。
地獄とはもちろん病気、貧乏、争いはじめ、あらゆる苦悩が渦巻いている以上、その通りになるので、私はこれらを救うべく一人一人を天国に引上げているのである。
ではなぜ地獄に堕(お)ちるかというと、それは霊を曇らせるからである。
では曇りとは何かというと、これには二種類あって、一は薬剤、二は罪の行為である。
すなわち薬剤は血液を濁すから、霊体一致の緯(よこ)の法則によって曇るのである。
また二の罪とは恨み、憎み、妬(ねた)み等々で人間の法則と神の律法とを犯すからである。
ところがこれを知らない人間は、苦悩から免(まぬが)れようとして人為的物質的手段にのみ頼るので、全然見当違いであるから、何程骨を折っても無効果であるのは当然である。
しかもこの理を知らすべき機関が宗教でありながら、宗教家もそれを充分 弁えないばかりか、事実を以って示す力もないのである。
ところが喜ぶべし、その絶対解決法が生まれたので、それが我 メシヤ教であるから、ここに人類待望の幸福世界、すなわち地上天国実現の運びとなったのである。」
明主様御講義 「霊界と現界との関係」 (昭和10年8月15日発行)
「現界 火 水 土
火は水と物とで燃ゆるのである。
水は火により流れるのである。
火が無ければ凍結す。
夫婦にしてもこれと同様に、正反対なるが為に生成化育が出来進歩発達するのである。
いかに反対な性格でも子供が出来るだけ調和がとれているのである。
土は木、石、金、火、水、灰、炭、酸、密、結、粘の十一種より成る。
故に十一則ち土である。
空気の世界 酸 窒 水 の三種で力及水火となる。
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力 水 火
霊界 エレクトン ミクルトン
陽電子 陰電子
陽 陰
陽子 陰子
陽密子 陰密子=(今後発見さるべき物)
陽電子と陰電子と寄りて霊素となり、霊素がよりて物質となるのである。
現在発見されたものに右記陽子という非常に細かいものがあるが、これに対する陰子も発見されんとしている。
なお又その後に発見さるべきものに仮に陽密子、陰密子と名付けたが、これも今後において発見さるべきものである。
霊界は霊素、精素、密素の三段にならねばならぬ。
これによりて初めて霊界が解ってくるのである。
これが解れば学問上よりも神様が知れる様になるのだ。
音にも光と色とがあるのであって、これをトーキーに写せるという事になったと言うが、
音楽家がこの色と光と各々個性により相違があるが作曲家によって色が種々に変って出るが美しい。
それが一人一人違うから面白いのである。
「道(言葉)は神なり万物(これ)によりて作らる」という事がある。
私の言葉の働きは大変なものである。
大森にまだ在住の節言霊を以って病気を治した事があったが、必ず治るが、
これでは罪穢が取れぬから手で擦って罪穢を除って病気を癒すのが肝心である。
結局神霊と科学は一緒になるのである。
神霊は日本であり、科学は外国でもある。
この神霊及科学が非常なる速さで近寄りつゝあるのである。
神霊=日本=天照皇大御神=日の本=極微極大
科学=外国=素盞嗚尊=ユダヤ
ユダヤが日本に従う時が五六七の始まりであり、大光明世界の第一歩になるのである。
観音様の御経綸をこれに向って進めているのであるが、これはハッキリと解り切っているからよいのである。
少しも心配なく必ずここまで到着するのである。」 (「観音講座 第四講座」より)
明主様御対談 「問答有用 徳川夢声 連載対談」より (昭和26年5月6日発行)
弁天さまのたたり 人生座縁起
夢声氏の発言
「なるほどコチラぐらいになると、そういう奇蹟もあるだろうと思いますね。こういう話があるんですよ。ひとつ聞いていただいて御解釈ねがいたいと思いますがね。
池袋に人世座という映画館があるんです。三角寛(みすみかん)という山窩(さんか)小説を書く人が経営してるんです。
この人が戦後あすこに建てようとして悪い請負師にかかりましてね。
お金を無理工面して入れたのに、なんだかんだといって建築にかからないんです。
よっぽど投げ捨てようかと思っていると、乞食みたいな男が工事場へ入ってきましてね。
「ここの前を通るたびに、顔の片側がビリビリビリッとする。どうもただごとじゃない。なにかここは貴いもののあったところでしょうか」っていうんですって。
それから三角寛も気になるから巫子といいますか行者といいますか、そういうところへいって見てもらったんですな。
「ウーム、水が見えるよ。ああハス池だ、これは。おや、弁天さまのお堂があるよ」というわけなんです。
それから三角寛は商売がら、池袋に関する文献を片っぱしから読んでみた。
「江戸名所図会」てなもんからなにから調べたが、池袋に弁天さまがあったという記録はないんですね。
こんどは古老の言を聞いてまわった。
そうするとたった一人えらくおじいさんで、先祖代々池袋にいる植木屋さんがいましてね、
「あっしの子供の時分にあすこにハス池がござんした。ハス他の中にちっちゃい弁天さまのホコラがありましたよ」っていうんです。
それでそれはどの辺だろうというんで調べてみると、工事場の職人たちの便所の位置なんです。
三角って人はかつぎ屋じゃないんですがね、そういう人の拝むものがあったところを便所にしてるのは気持ちが悪いてえんで、便所をどけたのみならず、
きれいな山の泥を持ってきて木を植えて、そこへ弁天さまを建てようと、こう考えたんです。
それでその行者のところへ報告にいったんですね。
そのときに来合わしてる男が「それは御縁です。あたしいま遊んでる金がありますからお使いください」といってお金をゴソッと出してくれた。
人世座はそれで建ったんです。
迷信といわれようがなんといわれようが、とにかく弁天さまなるもののお蔭で建ったんだから、祭らなきゃいけないというので、
彫刻家に頼みましてね、白彫りができあがったときにあたくし見ましたら、いい弁天さまですよ。
最近二度目の塗りができてますがね。」
なんでも書いてある霊界の記録
明主様御発言
「それを霊的に説明しましょうか。あらゆるものに霊界がある。
これを認めないから、ものごとのわからないことが多いんで、霊界の存在を確認すれば、なんでもなくわかるんです。
たとえていえば、そこに一つ物がある、あるいは事件が起るということは、ちゃんと霊界に記録されているものなんです。
弁天さまの住まいがあって、その住まいを取りのけても霊界はそのままになっている。
霊がそこに住まわれているわけです。
霊界のことは現界に影響するし、現界のことは霊界に影響する。
ですから便所があったりすると始終不潔なものが影響するから、弁天さまはちゃんとしたホコラを建ててもらいたい。
それを現界に知らせるべく、いろんなことをされたんですね。
そうして目の見える人をひっぱってきて、ちょうど弁天さまの目的通り建立ができたわけです。」
夢声氏の発言
「そのルンペンみたいな人が通りかかったのも、巫子さんがあってそこへいくのも、
まあ、神さまから見ると、将棋の駒で桂馬のあとには銀てというふうに、名人のごとく先の先まで読んでおられるわけですね。(笑)」
明主様御発言
「古い歴史のあるところへいくと、わたしは実にいろいろな感じがする。
わたしは鎌倉が好きで、せんによく鎌倉に別荘借りたりしましたがね。
鎌倉駅から建長寺へいく間に、むかし頼朝が歩いたという道路がありますね。
あすこを通るとなんともいえない気分がする。
その時分はそういうことはわからなかったが、あとで霊的のことがわかってから、
つまりその時代のことが霊界に記録されて残ってるから、こっちへそれが影響するんだってことがわかった。
大震災のときにたくさんの人が死んだ所なんか通るとヘンな気がしますよ。
みんなそういうことがこっちの魂に感じるんですね。」
にぎやかなはず 霊呼び合う墓地
夢声氏の発言
「そうするとこういうことも説明がつきますな。
墓地というものは、ちょっと考えると非常にさびしいものなんですが、青山墓地にしろ多摩墓地にしろ、一人で散歩しててさびしくないんですな。
なにかにぎやかなような気がする。考えてみると、墓地へ葬られてる人の大多数は、墓石を立てられるようなねんごろな扱いを受けているので、
その人たちの安らかな気持ちがこっちに反応するからなんですね。
たいへんにぎやかなんですよ。
あたしだけかと思うと「いやそうじゃない。ぼくもそうだ」っていう人があるんです。」
明主様御教え 「祖霊と死後の準備」より (昭和24年8月25日発行)
東洋と西洋の霊界の相違
「(一部のみ引用) 西洋の霊界は平面的であり、東洋の霊界は立体的である。
これは日本は八百万の神があり、大中小上中下の神社があり、社格も官幣、中幣、県社、郷社、村社等、種々あるによってみても いかに階級的であるかが知らるるのである。
これに反し西洋はキリスト教一種といってもよいのであるから、全く経と緯の相違である事は明かである。
故に前者は多神教で後者は一神教というのである。」
明主様御垂示 「東洋と西洋の霊界の相違」 (昭和24年5月25日発行)
信者の質問
「東洋と西洋の霊界の相違。」
明主様御垂示
「東洋の霊界はピラミッド型になっており、階級的である。
西洋のそれは概ね平面で、少し立体的になっているくらいでいくらか階級がある。
言葉でも日本の言葉は非常に階級的で、西洋の言葉は平面的である。」
明主様御垂示 「現世と霊界の天国の相違」 (昭和23年10月28日)
信者の質問
「現世の天国と霊界の天国との相違について御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「本当は同じである。
今の所喰い違っているが、結局は同じになる。
今でも同じような所もあり、違う所もある。
ここなどは病貧争がないのであるから現世の天国である。
本当は霊界が先だが、現界に天国が出来て霊界へ移る場合と、霊界に天国が出来て現界に映る場合とある。
既成宗教の方は財政難のため、山の立木を売ったりなどしてるが、
これらは地獄になっている訳で、かつてある仏教の本山に行った事があるが、全く霊的の地獄であった。
今一番困っているのは高野山で、これは国有林のためにどうする事も出来ぬのである。」
明主様御垂示 「霊界の所在」 (昭和24年6月7日)
信者の質問
「天界と霊界とはいかなる差がありましょうか。
死後人間は霊界人となるのですが、仏壇または御墓にもおられるとの事ですが、霊界とは空間を言うのでしょうか。
霊界と言う所をわかりやすく御説明願います。」
明主様御垂示
「霊界は空間である。
上等は上で、上になるほど段々高くなる。
地獄の最低は地中の相当深い所で、海の底位の所である。」
明主様御垂示 「霊界の所在」 (昭和23年11月28日)
信者の質問
「霊界とは宇宙のどこに存在するものでしょうか?」
明主様御垂示
「人間の住んでいる所に霊界はあります。
また地球上ある高さまでは霊界はあるのです。
北極や南極のように人の住まぬ所には神界も仏界もない。
ふつうは人間の住む所にあると思えばよろしい。」
明主様御垂示 「霊界の所在」 (昭和23年)
信者の質問
「霊界は宇宙のどこに所在するのでしょうか。」
明主様御垂示
「霊界はどこにもあるが、(人間の住んでいる所に)ある高さまで霊界があり・・・。
人間の住んでいる所に霊界があり、人間の住んでいない所は神界や仏界等はない。
人間の住んでいる土地の霊界にある。
霊はいかなるものにもあり、霊界は生きたものが、物質がなくなり、帰幽とか往生する、人間世界と同じような・・・。」