霊界の存在について
明主様御教え 「道徳の根源」 (昭和18年10月23日発行)
「昔から論語読みの論語知らずという言葉がある。
これは勿論、いかに立派な本を読み、説話を聞くといえども、実践躬行(じっせんきゅうこう)しなければ何にもならないという事である。
しかしながら、読み聞きした時、非常に感激したに係わらず、なぜ実践し得ないかという事を、私は説いてみよう。
右の原因としては、霊及び霊界の存在を知らないからである。
それは今日まで、真に知らしめ得べき著書がなかったにもよる為であろう。
勿論、神仏基等の大宗教を初め、その他の宗教、哲学、道徳等のあらゆる著書において、徹底的に説示されたものはなかったという事が最大原因であろう。
しかしながらなぜそうであったかといえば、それは全く夜の世界なるが為一切が開明し能(あた)わなかったからである。
ここに時来って、昼の世界即ち光明遍(あまね)き時代となったその事によって、過去における不透明であった事象の一切が赤裸々に、掌(たなごころ)を指すがごとく闡明(せんめい)せられるようになった事である。
故に、ここに初めて、道徳の根本が確立すると共に、何人といえども、実践躬行しない訳にはゆかない時となったのである。それらについて順次解説してみよう。」 (「明日の医術 第3編」より)
明主様御教え 「未知の世界」 (昭和18年10月23日発行)
「私はこれから、未知の世界を説こうとするのである。
未知の世界とは、いうまでもなく死後の世界である。
人間はいかに幸福であり、いかに健康であっても、いずれは死という事は、絶対免れ得ない運命である事は判り切った話である。
ある西洋の哲人はいった。
「人間は生れると同時に、死の宣告を受けている。」・・・と蓋(けだ)し至言であろう。
昔から安心立命という言葉がある。
しかしながら、それは生命のある期間だけの安心立命を称えるのであるが、私の考えでは、それだけでは人間は心から満足し得らるるものではない。
真の安心立命とは、死後は固より未来永劫を通じての安心立命でなくてはならないのである。
しからば、そのような永遠的安心立命なるものは得らるべきものであるかという事であるが、私は確信を以て応えるのである。
それは死後の世界の存在を知る事によって可能である。
勿論死後の世界とは、一度は必ず往くべきところであるが、
一般人としては、人間は誰しも、現在呼吸しているこの娑婆世界のみが人間に与えられたる世界であって、
他に別の世界など在りようはずがない・・・と確(かた)く信じているのである。
しかるに何ぞ知らん、未知境である別の世界は、厳然として存在している事である。
従って、人間なるものは現世界から死後の世界即ち霊界へ往き、霊界からまた現界へ生れるというように、二つの世界を交互に無窮に往来しているのである。
しかるに、厄介な事には、霊界なるものは、人間の五感によって識る事を得ない、・・・
虚無と同様である為信じ難いのであるが、何らかの方法によって実在を把握出来得れば信じない訳にはゆかないのである。
それは私が霊と霊界の存在を確め得た・・・その経験を読むにおいて何人といえどもある程度信じ得らるるであろうし、
この事を知るに及んで、真の安心立命を得らるべき事は疑いないのである。」 (「明日の医術 第3編」より)
明主様御教え 「未知の世界」 (昭和22年2月5日発行)
「吾々が生を保ち、呼吸しつつあるところのこの世界は物質界であり、第一世界であるが、
人の死するや霊界なる未知の世界ーすなわち第二世界の人間となるのである。
この未知の世界は眼に見えず、捕捉する能(あた)わず、無となんら異ならざる世界なるが故に、一片の説明や文字の羅列等では到底信じ得られない事である。
しかるに、実は霊界は真の無にあらずして確固たる実在である以上、なんらかの形式によって現象に現われなくてはならない筈である。
否人事百般古今東西到るところに、大中小、微に入り細にわたって表現されているが、ただそれが人間に感受され得ないというだけである。
この事は既成文化の教育が、霊に対しあまりに無関心であったがためで、それは夜の世界であったからである。
何となれば夜の暗さは漸く月光に映し出され得る程度に過ぎないが、昼間の太陽の光は全般的に、瞬間的に一切が明々白々に知り得るからである。
しかるに、いよいよ近き将来においては未知の世界は有知の世界となり、月光世界は太陽世界すなわち大光明世界となるのである。
その結果一切の秘密も偽りも誤謬も、白日下に暴露されるのである。
この意味においてまず私によって既存医学の誤謬発見となったのである。」 (「天国の福音」より)
明主様御教え 「霊界叢談 序文」 (昭和24年8月25日発行)
「この著は私が二十数年間にわたって探究し得た霊界の事象を、出来るだけ正確を期し書いたもので、もちろん作為や誇張などはいささかもないつもりである。
そもそも今日学問も人智も進歩したというが、それは形而下の進歩であって、形而上の進歩は洵(まこと)に遅々たるものである。
文化の進歩とは形而上も形而下も歩調を揃えて進みゆくところに真の価値があるのである。
文化が素晴しい進歩を遂げつつあるに拘わらず、人間の幸福がそれに伴わないという事は、その主因たるや前述のごとく跛行的進歩であるからである。
これを言い換えれば体的文化のみ進んで、霊的文化が遅れていたからである。
この意味において私は、霊的文化の飛躍によって、人類に対し一大覚醒を促がさんとするのである。
とはいえ元々霊的事象は人間の五感に触れないものであるから、その実在を把握せしめんとするには非常な困難が伴うのである。
しかしながら無のものを有とするのではなく、有のものを有とする以上、目的を達し得ない筈はないと確信するのである。
そうしてこの霊的事象を信ずる事によって、いかに絶大なる幸福の原理を把握し得らるるかは余りにも明らかである。
故にいかなる信仰をなす場合においても、この霊的事象を深く知らない限り真の安心立命は得られない事である。
それについて稽(こた)うべき事は、人間は誰でも一度は必ず死ぬという判り切った事であるに拘わらず、死後はどうなるかという事はほとんど判り得なかった。
考えてもみるがいい、人間長生きをするとしてもせいぜい七、八十歳位までであろうが、それで万事お終いであっては実に儚ない人生ではないか、
これは全く死後霊界生活のある事を知らないからの事で、この事を深く知り得たとしたら、人生は生くるも楽しく死するも楽しいという事になり、永遠の幸福者たり得る訳である。
以上述べたごとき意味においてこの著をかいたのである。」 (「自観叢書第3編 霊界叢談」より)
明主様御教え 「霊界の存在」 (昭和24年8月25日発行)
「そもそも、人間は何がためにこの世に生まれて来たものであろうか。
この事をまず認識せねばならない。
それは神は地上経綸の目的たる理想世界を建設せんがため人間を造り、それぞれの使命を与え、神の意図のままに活動させ給うのである。
原始時代から今日のごとき絢爛(けんらん)たる文化時代に進展せしめたのも、現代のごとき人間智能の発達もそれがために外ならない。
そうして人間なる高等生物は素より、他のあらゆる生物否植物、鉱物、その他形体を有する限りのあらゆる物質は霊と体の二要素によって形成されたものであって、
いかなる物といえども霊が分離すれば亡滅するのであるが、ここでは人間のみについて説明してみよう。
そもそも人間の肉体は老衰、病気、大出血等によって使用に堪え得なくなった場合、霊は肉体を捨てて離脱し、霊界に赴き霊界人となり霊界生活が始まるのである。
これは世界いかなる人種も同様で、その例として第一次欧州大戦後英国において当時の紙価を高からしめたオリヴァー・ロッジ卿の名著「死後の生存」であるが、
その内容は著者ロッジ卿の息子が欧州戦争に出征し、ベルギーにおいて戦死し、その霊が父ロッジ卿に対し種々の手段をもって霊界通信をおびただしく贈った、それの記録であって、
当時各国人は争って読み、それが動機となって霊界研究は俄然として勃興し、研究熱が盛んになると共に、優秀なる霊媒も続出したのである。
また彼の有名なるベルギーの文豪青い鳥の著者故メーテルリンク氏も心霊の実在を知って、彼の有名なる運命観は一変し、心霊学徒として熱心な研究に入ったという事は、その方面に誰知らぬ者もない事実である。
しかもその後フランスのワード博士の名著霊界探検記が出版され、心霊研究はいよいよ盛んになったという事である。
ワード博士に到っては霊界探究がすこぶる徹底的で、同博士は一週に一回一時間位、椅子に座したまま無我の境地に入り、霊界へ赴くのである。
その際博士の伯父の霊が博士の霊を引連れ霊界のあらゆる方面に対し、つぶさに霊界の実相を指示教導されて出来た記録であるが、
その際友人知己の霊も種々の指導的役割をなし、博士の霊界知識を豊富にしたという事である。
これはなかなか興味もあり、霊界生活を知る上において大いに参考になるから、読者は一度読まれん事を望むのである。
もちろん西洋の霊界は日本とは余程相違のある点はやむを得ないが、
私は最後において、日本及び泰西(たいせい)における霊界事象を種々の実例をもって解説するつもりである。
十数年前、英国よりの通信によれば同国においては数百の心霊研究会が生まれて盛んに活動しつつある事や、心霊大学まで創設されたという事を聞及んでいたが、
その後大戦のためいかようになったか、今日の実状を知りたいと思っている。
さて霊界の種々相について漸次説いてみよう。」 (「自観叢書第3編 霊界叢談」より)
明主様御教え 「明日の文化」 (昭和18年10月23日発行)
「私はこれから、霊及び霊界について、あらゆる方法を以て、約二十年間の研究によって得たる成果を発表しようとするのである。
元来、霊なるものは、空漠として無に等しいものである以上、今直ちに実証的に確認し得られる方法はないのであるから、
勿論学問として唯物的に成立させ得る事は困難である。
しかしながら、さきにも述べたごとく、停止する事を知らない科学の進歩は、学問的に、機械的に何人にも把握出来得るようになるであろう事は信じて疑わないのである。
吾々が今日、大なる恩恵に浴しつつある現代科学といえども、その初めはその時代の先覚者達が、夢にも等しい空想を描いた事が基礎となり、
それがついに現実化し、学問的重要分野と成った事は明かな事実である。
この意味によってみても、霊の存在が確認され、霊科学が学問としての重要部門を占めるようになる事も時日の問題でしかあるまい。
たとえていうならば、今日野蛮未開人に対しこの空間には空気なる物質が存在するという事を、
いか程説明しても信じないであろう事は今日の文化人に対し、霊及び霊界の存在を説明するとしても信じないであろう事と等しいと思うのである。
しかしながら、霊の実在を知る事によって事物を観察する時、まことによく透徹し、矛盾や撞着等のおそれのない事である。
のみならず唯物的科学を批判する場合といえども、その根源の剔出(てきしゅつ)が容易である事である。
この様な素晴しい力の発現はそれ自体が真理であるからである。
この意味において、現在進みつつある世界の大転換も、その後における新しく生れるであろう新文化に対しての想像もつくであろう。
しからば、大転換以後の文化とはいかなるものであろうか、それは勿論、霊的文化の発生と、その飛躍であらねばならない。
そうして霊と物質との関係がある程度 闡明(せんめい)する事によって、既成文化の躍進もまた素晴しいものがあろう。
それは勿論、時は戦後であり、発生基地は、日本でなくてはならないのである。
そうして、空気が機械文明の発達によってその実体を把握し、人類に役立つものたらしめたと同様の意味において、
今より一層機械が発達した暁、霊の実在を測定し、それを有用化するという事も、決して夢想ではないであろう。
ただ私は、霊と病気との関係を研究しつつ、ついに霊なるものの実体・因果関係等を知るに到ったのである。
そうして、それらは人間の病原のみではなく、森羅万象あらゆる物の変化、流転等にまで、密接な関係のある事を知り得たのである。
しかしながらこの著述は、病気の解決が主である以上、大体その方針を以て説き進めるのである。
そうして、霊的科学を有用化し、人間の健康に対し、驚くべき偉力を発揮出来得るように大成さしたその事が、この日本医術なるもので、ただ時代より先んじたまでである。
又、霊なるものの実在を人類に知らしめる第一歩としては、霊の実体を誰の眼にも見得るような方法が生れなければならない。
それについて、私は一のヒントを与えようと思うのである。
先年、ある本に書いてあった。西洋の霊科学者の一人が霊衣を見得る方法を発見したというのである。
それはディシャニンなる薬剤を硝子(ガラス)に応用すれば、霊を視得るというのであるが、
これは、充分の成果は挙げ得なかったとみえて、その後立消えになったようである。
ここで、考慮すべき事は、写真のレンズである。西洋においても日本においても、幽霊写真なるものが、今日まで相当映写されている。
私も相当多数見たのであるが、真なるものと偽なるものとの両方ある事である。
しかるに科学者は、霊写真は全部作り物であるとなし、
又、霊の研究者は、大抵真とするような傾向があるが、私のみる所では、偽もあるが、真なるものも確かにあるのである。
従って、写真のレンズは人間の肉眼よりも数倍物体映像の力即ち密度に対する敏感性を有しているのであるから、
この理を推進めレンズの一層進歩した物が出来れば霊の映写は可能となるであろう。
右のごとく、精巧なるレンズが成功するか又は新しい光線の発見があるとすれば人体に対し、
今日のX光線のごとき装置を以て霊視する時、霊衣及びその曇は掌(たなごころ)を指すごとく視得るであろうから、
その曇を施術者より放射する光波によって解溶するという状態をみた時、
いかなる唯物論者といえども、霊医術の価値を信じない訳にはゆかないであろう。
ここに到って初めて、霊科学は学問の一分野となるであろう。
そうして右の原理は、X光線の反対でなければならないのである。
それはX光線においては、骨とか金属とかいう、密度の高いもの程光線が透過せず、それが顕出するのであるが霊を浮び出すにはその逆で、
物質的密度の高い程通過し、霊の密度の高いもの程捕捉顕出するという方法でなければならないのである。
又、右以外、写真の乾板を進歩改良させる方法である。
たとえていえば、今日の赤外線写真のごとき、特殊の映像法の発明であって、
それは現在の乾板でさえ、たまたま霊が映る位であるから、左程難事ではないと思うのである。
従って、その方面の専門家諸君に対し、研究を望むものである。」 (「明日の医術 第3編」より)
明主様御教え 「一の世界」 (昭和26年7月4日発行)
「そもそも、現代文明を検討して見る時、その構成は唯物科学が基本であることは言うまでもないが、今それについて詳しくかいてみよう。
それについてまず知っておかなければならない事は、大宇宙の構成である。
といっても人間に直接関係のない事は省き、重要な点だけをかいてみるが、
本来宇宙なるものは、太陽、月球、地球の三つの原素から成立っている。
そうしてこの三つの原素とは火、水、土の精で、その現われが霊界、空気界、現象界のこの三つの世界であって、これがよく融合調和されているのが実相である。
ところが今日まではこの三原素中の二原素である空気界と現象界(物質界)だけが判っていたばかりで、
この二原素の外に今一つの霊界なるものの在る事が分っていなかったのである。
というのは唯物科学では、全然把握する事が出来なかったからである。
従って、右の二つだけの進歩によって出来たのが、現在のごとき唯物文化であるから、つまり三分の二だけの文化という訳である。
ところが何ぞ知らん、この無とされて来た三分の一の霊界こそ、実は二と三を二つ合せたよりも重要な、基本的力の中心であるから、これを無視しては完全な文明は生まれるはずはないのである。
何よりも二つの文化がこれほど発達したにかかわらず、人類唯一の欲求である幸福が、それに伴わないのがよくそれを示している。
従って今この矛盾の根本を充分検討してみると、これには深い理由のある事を発見するのである。
というのはもし人類が、初めから一の霊界のある事を知ったとしたら、物質文明は今日のごとく、素晴しい発達を遂げ得なかったに違いない。
何となれば霊界を無視したればこそ、無神思想が生まれ、その思想から悪が発生し、その結果善と悪との闘争となり、人類は苦悩に苛(さいな)まれつつ、ついに唯物文化の発達を余儀なくさせられたからである。
これを深く考えれば、全く深甚なる神の経綸でなくて何であろう。
ところが物質文化がある程度発達するや、それ以上は反って文化の破綻を来すおそれが生じて来た。
何よりも彼の原子爆弾の発見で、もちろんこれもその一つの表われではあるが、ここに到っては最早文化の進歩に対し、一大転換が行われなければならない天の時となったのである。
その第一歩として、無とされていた一の霊界の存在を普く人類に明示される事となった。
といっても無の存在である以上、その方法たるや、科学では無論不可能である。
そこでいまだかつて人類の経験にない程の偉大なる力の発揮である。
すなわち神の力である。ところが長い間唯物主観に固まっていた現代人であるから、納得させるには非常な困難が伴うのであるが、
これに対し本教が行う唯一の方法としての奇蹟がある。
すなわち本教の浄霊法こそそれである。
これによっていかなる無神論者といえども、一挙に承服せずには措(お)かないからである。
従ってこの事が普く人類社会に知れ亘(わた)るにおいては、世界共通の真文明が生まれんとして、現代文化は百八十度の転換を、余儀なくされるであろう。
ところがここに残された厄介な問題がある。
それは何千何万年も掛って、今日のごとき文化を作り上げたのであるから、これまでにはいかに多くの罪悪が行われたか分らない。
罪悪とはもちろん霊体の汚穢で、それが溜り溜っている以上、このままでは新世界建設に障碍(しょうがい)となる。
ちょうど家を建てる場合、木屑、鉋屑(かんなくず)、その他種々の塵芥(ちりあくた)が散らばっているようなものであるから、
ここにその清浄作用が行われなければならないが、これもまた止むを得ないのである。
キリストの最後の審判とはこれをいわれたのであろう。
以上によっても判るごとく、本教が素晴しい奇蹟を数限りなく現わしているこの事実こそ、一の世界の存在を認識させるための、神の御計画でなくて何であろう。
そうして神は私にこの大任を荷(にな)わせ給うたのである。」
明主様御教え 「信仰雑話 結論」 (昭和23年9月5日発行)
「この著を読了された読者諸君の感想はどうであろうか。忌憚なき批判を聞きたいと思う。
私がこの著を書いた目的は随処に見らるるごとく、この混沌たる世相に対し、確固たる宗教的信念を植付け安心立命の境地に導かんとする事であって、
小にしては個人の幸福から、より良き社会への改造、大にしては人類文化の飛躍的向上と相まって、永遠の平和確立に寄与せんとするものである。
これについて思う事は、原始時代から今日に到るまでの文化の進歩の跡を見る時、素晴しい発達は今更言うまでもないが、
はなはだ不可解に思う事は、人間の幸福がそれに伴わない事である。
文化の進歩と人間の幸福が伴わないという事に対し、何か重大なる欠陥のある事に気付かなければならない。
すなわち唯物的文化に対し、唯心的文化の進歩の跡が見られない事で、いわゆる跛行的文化でしかないのである。
この意味において私は、大いに後れたる精神文化をして、ここに飛躍的発展を遂げさせなければ、人類の幸福は期し得られない事を痛感するのである。
そうして精神文化の発展については、その基本観念ともいうべき霊的事象と、生と死の意義を、徹底的に知らしめなければならない。
何としても見えざるものの実在を認識させようとするのであるから、非常な困難を伴う事は当然である。
それにはまず私自身の体験を、出来るだけ、主観を避け事実そのままを書くのが必須の条件である。
この事は今日までの宗教家が説かなければならなかったに拘わらず、それが無かったのであって、
たまたま説く者ありといえども、おもに学究的理論のため一般人には難解であり、
その他神憑的独善的のものや、神話的寓意的のもの等がほとんどであったから、
ともすれば文字の遊戯に陥り、迷信に走り、真に人を救うべき実力あるものは見出し得ないというのが実情であった。
しかも近代に到ってそれが益々はなはだしく、従って既成宗教の無力を唱える者が漸く多く、
ことに知識人のほとんどは、宗教に帰依する事をもって自己の権威に関わるかに思い、触るる事さえ警戒するというような事実は、何人も知るところであろう。
しかるに世相はいよいよ悪化し、その解決方法の唯一のものとして宗教を口には唱えるが、その人自身は前述のごとく関心を持たないのである。
それのみではない、終戦後の現代青年の問題である。
それまで彼等が目標としていた忠君愛国主義のその目標が崩壊したるがため、
大方は帰趨に迷い、ある者は絶望的虚無状態に陥り、ある者は自暴自棄となり、
犯罪を犯す者さえすくなからざる現状は、洵(まこと)に由々しき問題であるにも係わらず、
これに代るべき何等の目標も生れず、また指導力も現われないという現在、
ことに青年学生等は経済的圧迫と相まって混迷状態に陥り、不安の日を送っている。
実に大問題である。私は忌憚なくいえば、これらの問題を解決すべき力は、遺憾ながら既成宗教には見出だせない事を告白するのである。
翻(ひるがえ)っておもうに、以上述べたごとき思想問題も、社会問題も、早急に解決しなくてはならないと共に眼を海外に向ける時、
これまた容易ならぬ事態の切迫に人類は兢々として不安の日を送っている事は日々新聞ラジオによって知らぬものはあるまい。
さきに述べたごとく、文化の進歩と人間の幸福とが並行しない如実の姿をまざまざと見せられている。
ここにおいて、起死回生的強力な宗教が出現しない限り、世界の前途は逆睹(ぎゃくと)し難いと思うのは私一人ではあるまい。」