想念界と言霊界について 1
明主様御教え 「気候と天候」 (昭和23年9月5日発行)
「気候と天候について、霊的解釈をしてみるが、科学的解釈に馴れた現代人には、私の説は首肯出来かねるかも知れない。
しかしながら、これは神示によるもので、私としては確信をもって発表するのである。
まず一口に言えば、気候の変化も、天候のよし悪しも、人間が作るという事である。
というと甚だ不思議に聞こえるかも知れないが、これから私の説くところを玩味されたいのである。
吾々が吾々の五感によって知り得る現界以外、霊界からの影響も読者は大体認識されたと思う。
これについてまず、気候の変化の原因を書いてみるが、
冬の寒さから夏の暑さに至るまでを、四季に分けられているが、
その時々の流れに従う気候の変化が順調に推移するのが本来であるにかかわらず、
時によると異変する事がある。
それは何のためかというと、全く人間の想念が、霊界に反映するからである。
例えば、人間大多数の想念が正しく温和であれば、気候もそのごとく温和順調であるが、
平調を欠く人間が多い場合、すなわち愛と熱にとぼしく冷やかな人間の想念は、その時あるべき気候よりも寒冷となり、
その反対に、何かの出来事に昂奮し、情熱の適正を欠く場合、
その時あるべき気候に対し温熱が過ぎるという結果となる。
以上のほかに人間が悪に属する想念、すなわち不平不満、呪い、自暴自棄等の多い場合、それが霊界に反映して、何となく陰鬱(いんうつ)の気が漂(ただよ)うのである。
次に、人間が発する言霊であるが、これもすこぶる重大なる影響を与えるもので、悪に属するもの、
すなわち他人の悪口、不平、愚痴、偽り等の言葉は、霊界を曇らせる事おびただしいのである。
以前、私の友人であったある宗教者は、人の発する言霊がみえるので、
例えば悪に属する言霊を発する時はドス黒い煤のようなものが、煙のごとく口から出るのが見えるが、
善に属する言霊の場合は、白色の薄光のようなものがみえるそうである。
この悪の言霊から発する煤のごときものが霊界を曇らすので、これが増量し、ある程度を越ゆる時、それを払拭消滅すべく自然浄化作用が発生する。
ちょうど家の内外に塵埃が溜まれば、人間がそれを掃除するのと同様の理で、豪雨、台風、雷鳴や洪水、大火、地震などもそれであって、拭き払い、洗い流し、焼却するという訳である。
それには分担さるる神々があって、神道で唱える祓戸(はらいど)四柱の神で、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)、瀬織津比売神(せおりつひめのかみ)、速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)、速佐須良比売神(はやさすらひめのかみ)の御名によって、
世界的浄めの業を行ない給うので、いずれも多数の龍神を使役せらるるのである。
ここで、阿波の鳴戸について解説してみよう。
前述のごとき風水火の浄化によって集溜されたる汚物は、いかに処理せらるるかというに、
各河川を通じて海に流れ、阿波の鳴戸の海底深く沈下さるるのである。
もちろん、全世界の汚穢であるから、その量はけだし驚くべきものがあろう。
しかるに、地球の中心部は学者も言うごとく、巨大なる熱塊、いわゆる地熱であるから、
鳴戸の海底深く沈下せる汚物は、絶えずこの地熱によって焼尽されるわけで、
日本は世界の汚物焼却場といってもよい訳である。
人間が以上のごとき理を知ったなら、悪の想念や、悪の言霊は出来るだけなくすよう、心がくべきである。」
明主様御教え 「大三災と小三災」 (昭和24年8月13日発行)
「(一部のみ引用) 昔からいわれている風水火の大三災、飢病戦の小三災とはいかなるものであるか、これについてその根本義をかいてみよう。
風水の原因は天地間の浄化作用であって、なぜ浄化作用が発生するかというと、
霊界における曇りすなわち眼に見えざる汚濁が堆積するのである、
それを風力によって吹き払い、雨水によって洗滌される、それがための暴風雨である、
しからば右のごとき曇りとはいかなるものでいかにして堆積するかを解説してみるが、
それは人間の想念と言霊によるのである、
すなわち想念の悪に属するものとして不平、憎み、呪い、嫉(そね)み、個人的怒り、偽り、復讐心、執着等が、霊界を曇らせるのである。
次に言葉であるが、気候が悪いとか悪天候とか米の不作とかいうような自然に対する不平や、
人に対する非難攻撃、怒号罵声、秘密欺瞞、咎め、愚痴等、すべて悪から発するものは想念界の次位である言霊界を曇らすのである、
それら種々の曇りの堆積の量がある程度を超ゆる時一種の毒素が発生し、人間生活に支障を来すことになるので、
その自然浄化が発生する、それが天地の法則である、
前述のごとく霊界の曇りは人間の健康にも影響すると共に
草木特に農作物にも悪影響を与える結果凶作の原因ともなり、害虫の発生も旺盛になるのである、
ゆえに今日日本各地における松や杉を枯死させる害虫の発生もこの理によるのであるから、
人間が大いに向上しない限り、これを防ぐ事は難しいのである、
言い換えれば日本人自身の過が、自分の国の松や杉を枯死さしているという訳であるから、
人間の悪念と言霊は大いに慎まなければならないのである。」 (全文は「微熱」のページ)
明主様御教え 「一切の災は浄化作用なり」
「世の中のありとあらゆる災いは、浄化作用である事は常にいっているが、
これについて現在国民全体が直面している主なる悩みについて詳しくかいてみよう。
まず第一は病気であり、第二は食糧不足であり、第三は汚職問題であろう。
その中で第一の病気については、私は常に余すところなく説いているから省くが、第二第三を説明してみよう。
この第二も今までに相当かくにはかいたが、まだかき足りない点もあるのでここにかくのである。
これもいつもいう通り凶作の原因が肥料によって土を汚し、地力を弱らすためであるとしているが、
もちろん風水害並びに冷害もこれに起因している。
風水害としては言うまでもなく、昨年のごとき洪水と高潮による稲の冠水であるが、
この原因は以前もかいたごとく、ヤハリ浄化作用の現われであって、
つまり肥料によって土を汚し、地力が弱体となった結果、
自然はそれを洗い清めて健康土壌にするのであって、これが神の摂理である。
ちょうど病気の原因が薬毒であり、それが人体を弱らすから、
快復させるため自然浄化作用が発生するのと同様である。
では一体右の理由は何かというと、この大地はその中心の地熱から放射されている地霊すなわち窒素によって、あらゆる植物を健全に生育させるのであるから、
土が清浄でなければ地力が衰弱するからである。
この理によって土壌の不純物を掃滅する、それが自然浄化すなわち風水害である。
すなわち水害の方は大地の汚れを水で洗う作用で、風害の方は空間に溜った汚濁を吹き払うのであるが、この汚濁にも二つの原因がある。
一は右のごとく地霊が放射される場合、地表にある不純物が邪魔するからと、今一つは人間が発する言霊(ことたま)である。
すなわち悪口、不平不満、愚痴等々、つまり悪に属するものは霊界を汚濁させるための浄化である。
また冷害は肥毒の壁になっている地表が地熱を遮断するからと、害虫を死滅させるためであり、
今一つは農民の愛が欠除している反映でもある。
すなわち愛は熱であるからである。
次は今騒がれている汚職問題であるが、これももちろん不正行為によって国民の血税を浪費するからで、実に怪(け)しからん話である。
それが原因となって、その人の霊が曇るからこれを清浄にすべく浄化作用が発生する。
つまり因果応報である。
ところが面白い事には、その浄化の場合は享楽に相当するだけの苦しみであり、しかも利子が付くので、それだけ大きくなるので、これが神律であるから、
至公至平一厘の毫差もない。この点人間の法律との ちがいさは天と地であるから、絶対免れ得ないのである。
従って一日も早くこれに目醒めて心から悔い改め、その償いをするより方法はないのである。
償いとは世のため、人のため大いに善徳を施す事であって、そうすれば浄化も軽く済み、再び立ち上る事が出来るのである。
ところがほとんどの人はそれに気付かず、一生懸命誤魔化そうとするのであるから、
結果において益々罪は重なるばかりで、一生涯不遇な境遇とならざるを得ないのである。
何よりも喚び出し状が来てても、何だかんだと日を延ばそうとするが、
これは疾(やま)しい点があるのを表白しているようなものである。
たとえ罪状を否定しても駄目であるのは知れ切っている。
しかもこういう卑怯な態度は国民思想にいかに悪影響を及ぼすか判っているはずで、結局 罪の上塗りという事になる。
いつかも言った通り、「愚かなる者よ汝の名は悪人なり」の言葉もよく当てはまる。
以上のごとく現在社会の人間ことごとくといいたい程、不幸な運命に喘ぎ苦しみ、地獄社会の有様は、
全く間違った想念と行為によって、人間自らが作っているのであるから、
その愚及ぶべからずである。ところがこの理を諭(おし)える役目の宗教でさえはなはだ冷淡であるのは不可解といってよかろう。
以上のごとく何から何まで間違った世の中であればこそ、神は私をしてこれを諭(おし)え救い給うのである。」
明主様御垂示 「災害の大小は曇りの多寡による」 (昭和23年7月7日)
「災害の大小は曇の多寡による。
曇が多ければ災害は大きく、少なければ災害も小さい。
神様は人間を幸福に暮すよう造られたので、そのため汚れは掃除するよう造られたのである。
それを邪神は汚そうとする。そして人間を堕落させようとする。」
明主様御講話 「人に怨みを受けると怨みの想念が来る」 (昭和10年8月11日)
「人間の曇りなどにより、人間のあらゆる事件などは根本はそれによって起る。
非常に曇ったときには戦争などがある。
その点がはっきり判れば、もう自分はきれいになるよりしようがない。
始終悪いことをしゃべったり、嫌いなことをしゃべると、言葉が一種の曇りになる。
以前、見た人の話によると悪口言ったりなどするときは、煤みたいの鼠色の雲となって出る。
神様の話したり、神様を讃美するようなことを言ってると白い光になって出る。
ですから、多くの人が神様を讃えるような言葉をたくさん言えば、曇りがとれて光のほうが多くなるわけであります。
そして天災地変がなくなる。これが判ったら恐ろしいくらいであります。
人に怨みを受けると怨みの想念が来て、それが曇りとなってその人を取り巻く、一人くらいならいいが、
百人千人となってその人を取り巻くと、その人は病気になる。
曇りが多いと悪霊が寄って来るから、どうしても病気災難など受ける。
反対に人を助けるとありがたいと思う想念が光となって行く。
この間救世主の身体からは光が出るということを言いましたが、この理を考えれば判る。
救世主は何万何千万の人を助けると、ありがたいという想念が無数の光となって寄って来ると、光で取り巻くから肉眼でも見えるようになる。
無論内部からも出るんで、内外両方の光が同時になる。」
明主様御教え 「言霊の偉力」 (昭和25年)
「よく病気の苦痛はもちろん、諸々の苦痛に対して、祝詞または善言讃詞によって、偉効を奏することがある。
これについて不思議に思うのであるが、これは立派な理由があるから書いてみよう。
これこそ言霊(ことたま)の偉力であって、それは霊界においては、大言霊界、すなわち七十五声の言霊が鳴り響いているからである。
しかし、これは霊界に充実している無声の声であって、人間の耳には感じないのである。
しかし、この大言霊に対して、人間が発する言霊は大いに影響する。
もちろん、正なる言霊は霊界の汚濁を軽減させるが、これと反対に、悪の言霊は汚濁を増すのである。
これはなぜかといえば、七十五声の言霊の配列の順序によるので、その基は善悪いかんである。
すなわち、善の言霊とは美辞麗句であって、美辞麗句とは、一つ一つの単語の綴り方が、真善美に適っているからである。
これは何よりも人間の耳へも快く響くもので、なぜ快く響くかというと、人間良心の本源である魂にまで透徹するからである。
しかるに、悪の言霊は、魂には透徹しないので、それを包んでいる心の範囲にまでしか達しないのである。
ここで今一層、徹底しなければならない。
ということは、私が常に言うところの副守護神、すなわち動物言霊は、心の範囲内に限定して憑依している以上、
心の曇りが濃度であるほど副守護神の能力は強化される。
しかしこれが曲者で、常に良心たる魂の光を遮蔽しているから悪を好む人間となるのである。
ところが、悪の言霊は副守護神には快く響くので、これは事実がよく証明している。
良い話を好むのは前述のごとく魂に快く響くからであり、悪い言霊を好むのは副守護神が喜んで、快く響くのである。
例えば、悪人共が悪事を語り合っているのを、仮に吾々が聴くとすれば、堪えられない程の不快であるにかかわらず、悪人は快感を催すのである。
以上の理によって、善い言霊は魂に響くから魂の光が増し、
それによって心の曇りが減り、副守護神は萎縮する。
萎縮するから悪を好まなくなる。
というわけで、人間を苦しめていた副守護神は、善言讃詞によって萎縮、または、離脱することになり、
心の曇りも減少するから、苦悩から解放されるのである。
右によってみても、善言讃詞の言霊は、いかに善美極まるものであるかが判ると共に、
善言讃詞を奏上するや、その周囲の霊界は大いに浄まるのである。
特に今一つの重要事がある。
それは言霊を発する人間の霊の清濁が大いに関係がある。
すなわち、魂の清い者程、言霊の偉力は発揮されるのである。
それは霊的階級が上位であるからである。
特に龍神に対する場合、龍神は非常に強いから、よほど上魂でないと龍神は承服することは出来難い、これについてこういう話がある。
以前ある日蓮宗の行者で、「自分は龍神を祀りたいが、恐くて祀ることが出来ない。
なぜなれば、龍神は怒りやすいので、少しでも粗相があると、何をされるか判らないから」というのである。
しかし本教信者であれば、まず大抵の龍神は反対することは出来ないのである。
そうして龍神中、最高位であり、絶対力を具有しているのは、私の守護神である伊都能売金龍神である。
たとえサタンの本体である赤龍といえども、敵し得ないことはもちろんで、二十数年以前、琵琶湖の上空で戦った際、赤龍は敗北遁走したによってみても明らかである(これは『奇蹟物語』に詳説してある)。
従って、信者は常に魂を磨き、言霊を練り、上魂の人間たることを心掛けねばならぬ。」
明主様御教え 「言霊について」 (昭和25年)
「彼の「聖書」に、「太初(はじめ)に言葉あり、万物これによって作らる」ということがあるが、
これは言霊(ことたま)の活動をいったものである。
それについて言霊の根本義からかいてみるが、
言霊はもちろん人間の音声と舌、唇、顎の活動によって構成発射するものであるが、
それを発する根本は言葉によって表現せんとする想念であることはいうまでもない。
想念は意欲の表われである。
解りやすくいえば人間が何らかの意欲が起るその意欲を言葉に表わすべく想念が活動する。
もちろん想念の活動には正邪善悪、成不成等の判断力も活動する。
これを総合したのが智慧である。
それらを具体化したものが言霊であって、言霊を具体化したものが行動である。
この理によって、想念、言霊、行為の三段階と思えば間違いはない。
右のごとくであるとして想念は幽玄界に属し言霊は言霊界に属し、行為は現象界に属するのである。
言わば、言霊は幽と物との中間である。
念と行との媒介者といってもいい。
これによってみても言霊なるものはいかに重要性があるか判るのである。
言霊は傀儡師(くぐつし)と同様、鬼を出すも仏を出すも自由自在である。
人を怒らすも笑わすも、心配させることも安心させることも悲しませることも喜ばせることも、
波瀾を起させるも、和を造ることも失敗するのも成功するのも言霊次第である。
かような重要な言霊を軽々しく使用するのは、危険この上なしというべきである。
しかしながら、言霊のみをいかに巧妙に操ったところで、単なる技術でしかない。
落語、漫才、講釈師と同様である。
どうしても言霊はその根本に偉力を発揮せしむべき力がなくては、何の意義をなさない。
しかも力といっても、それに善悪の区別がある。
すなわち悪の言霊は罪を構成し、善の言霊は、徳を構成する以上、人間は善の言霊を使うべく努力すべきである。
善の言霊とは、もちろん誠が根本であり、誠は神からであるから、どうしても神を認めなければならない。
とすれば、信仰者でなければ、真の誠は発揮出来ないから、言霊といえども善的力が現れるはずがないのである。」
明主様御垂示 「想念界と言霊界」 (昭和28年10月1日)
信者の質問
「大三災小三災の御論文の中に「想念界の次位である言霊界を曇らす」とありますが、次位というのはどういう意味でしょうか」
明主様御垂示
「次の位です。」
信者の質問
「最初、想念界に浮かんだものが、言霊に発して、それから現象界に現れるという順序でございましょうか」
明主様御垂示
「そうです。」