霊主体従について
明主様御教え 「世界の大転換」より (昭和18年10月23日発行)
「(一部み引用) それはさきに詳しく説いたごとく吾々の住んでいる地球の上には、霊界空気界物質界の三段階によって構成されている。
そうしてこれはまた二段に分ける事も出来る。
即ち空気の水素と地球の土素とは物質であり、霊即ち火素は全然非物質であるからである。
即ち霊と物質とを区別すれば、霊界と現界とになる。
そうして霊界と現界との関係を説くに当ってまず知らなければならない事は、
あらゆる事象は霊界に先に起り、そのままが現界に移写されるという事である。
ちょうど映画におけるフィルムが霊界であり、銀幕が現界であるのと同様でそれが天地の厳然たる法則である。
ちょうど人間が手足を動かすという事は、眼に見えぬ心が先に動きその命によって手足が動くので
決して手足が先に動いて後に心が動くのではない。
これと同じく霊界は心であって現界は手足であるようなものである。」 (「明日の医術 第3編」より)
明主様御講義 「霊主物従」 (昭和14年)
「あらゆる一切の物に霊があるが、しからば、霊と物質とに就ての関係をあきらかにしよう。
それは、眼に見えない無にもひとしい霊が主であって、物質は従という事である。
従って、霊が物質を支配しているのであるから、人類社会におけるいかなる事でも霊の作用であって、
霊界に起る事象がそのまゝ現界へ移り、霊が動けばそのまま物質が動くのであって、
ちょうど人間が手足や舌を動かす場合、それは手足や舌が先へ動くのではなくて、
心が動き、後に手足が動くので、ただ霊主に対して起る物従の遅速はあるものであるが、
多くの場合、非常に速いものである。
ここに二、三の例を挙げてみよう。
人間が人を訪問しようと思うと同時に、霊の方はお先に先方へ行っているので、
その場合、霊と肉体とは、霊線とでも称すべき線が繋がれているのである。
よく噂をすれば影とやらという事があるが、それは、その人の霊が来ている為に、その霊に噂をする人々の霊が感じる為である。
彼の有名な那須の与市が、扇の的へ向って矢をつがえ、一心に那須権現を祈念すると、
いずこよりか一人の童子来り、その矢を持って空中を走り、扇の的を射抜いたのが見えたので、
直ちに矢を放ったのであるという由来は、那須権現記に書いてあるが、
これは事実あり得べき事と思う。」
明主様御教え 「霊主体従」 (昭和27年執筆)
「前項に説いたごとき、無機質界と人間の病気との関係であるが、
無機質界とは吾々の唱える霊界であって、この霊界と人間との関係はどういう事になっているかというと、
そもそも人間とは体と霊との二原素の密接合致によって成立っているものであって、
もちろん体とは眼に見ゆる物質で誰にも判るが、霊とは眼に映らないものである以上、長い間分らなかったのである。
ところが確実に存在している一種のエーテルのごときものである。
としたら方法によっては、把握出来ないはずはないのである。
というのは人間の肉体が空気中にあると同様の意味で、人間の霊といえども霊界にあるからである。
霊界とはさきにも書いたごとく、空気とは比較にならない程の稀薄な透明体であって、
今日まで無とされていたのも無理はなかったのである。
しかしこの世界こそ無どころではなく、むしろ万有の本源であって、絶対無限の力を蔵しておるもので、
一切はこの力によって生成し化育されているのである。
そうして霊界の本質は太陽の精と月の精と土の精との融合一致、想像を絶する程の、霊妙不可思議な世界である。
ところがここで問題であるのは、人間が各々その役目を果たす上には肉体に垢が溜るごとく、霊には曇りが溜積するのである。
従ってこれに対し自然浄化作用なるものが発生し浄められる。
これもちょうど人体に溜った垢が、入浴によって清められるようなものである。
ところが右は独り人間ばかりではなく、天地間一切の物がそうである。
例えばこの地上霊界に汚穢が溜るや、自然作用によって一定の個所に集中され、低気圧という浄化活動が発って清掃される。
暴風も出水も洪水もまた雷火も人的火災もそれである。
と同様人間にも浄化作用が発生する。今その理由を詳しく書いてみよう。
右のごとく、人霊に溜った汚穢は一種の曇りであって、
この曇りとは本来透明体であるべき人霊に、不透明体の部分が出来るそれである。
しかしながらこの曇りの原因には二種類ある。
一は霊自体に発生するものと、二は逆に体から霊に移写されるものとである。
まず前者から説いてみるが、元来人霊の内容は経(たて)に言えば求心的三段階に、緯(よこ)に言えば求心的三重層になっている。
つまり三重丸の形と思えばいい。
もちろん丸の中心が魂であって、魂とは人間がこの世に生まれる場合、自然法則によって、男性から女性の腹へ宿らせる。
本来魂なるものは極微のポチであって、
もちろん各々の個性をもっており生命のある限り人間に対して絶対支配権をもっている事は、誰でも知っている通りであるが、
その魂を擁護的に包んでいるものが心であり、
心を包んでいるものが霊であって、
霊は全身的に充実しているから、人体と同様の形である。
このように霊体は一致している以上、魂のいかんはそのまま心を通じて霊へ反映すると共に、霊のそれも心を通じて魂に反映するのである。
かくのごとく魂と心と霊とは大中小、小中大の相互関係で、言わば三位一体である。
ところがいかなる人間といえども、生きている間善も行えば悪も行うので、
その際善よりも悪が多ければ多いだけが罪穢となって魂を曇らすので、
その曇りが心を曇らせ、次で霊を曇らすのである。
そうして、その曇りが溜って一定量を越ゆるや自然に浄化作用が発生し、
曇りの溶解排除が行われる。しかしそうなるまでの過程として曇りは漸次一個所または数個所に分散し、濃度化すと共に容積も縮小され固結される。
面白い事にはその罪によって固結場所が異う。
例えば目の罪は目に、頭の罪は頭に、胸の罪は胸にというように相応するものである。
次に後者を解いてみるが、これは前者と反対で、体から霊に映るのであるが、その場合最初血液の方に濁りが生ずる。
すなわち濁血である。
すると霊にもその通りに映って曇りとなるが、これも前者と同様局所的に分散濃度化するのである。
元来人体なるものは霊の物質化したものが血液であり反対に血液の霊化が霊であるから、
つまり霊と体は同様といってもよいが、ただ霊体の法則上霊の方が主になっており、体の方が従となっているのである。
ところがいずれにせよ右の原因によって、毒素は絶えず人体に溜り固結となるので、
その固結が浄化作用によって溶解され、液体となって身体各所から排除されようとする。
そのための苦痛が病気なのである。
右に述べたごとく、体に発生する濁血とは何であるかというに、
これこそ実に意外千万にも医療の王座を占めているところの彼の薬剤であるのである。
というのは本来薬というものはこの世の中には一つもない。
現在薬とされているものはことごとく毒であって、その毒を体内にいれるとしたら、それによって濁血が作られるのは当然である。
何よりも事実がよく証明している。
それは病気が医療を受けながら長引いたり悪化したり、余病が発るという事は、薬毒によって病気が作られるからである。
従って薬毒で出来た濁血が、霊へ映って曇りとなり、これが病原となるとしたら、
現代医学の治病方法自体が病気を作る意味でしかない事になろう。
右のごとく万有の法則は霊が主で体が従である。
としたら病気は霊の曇りさえ解消すれば濁血は浄血と化し、全治するのは言うまでもない。
それで我治病法はこの原理の応用であるから、浄霊といって霊を浄める事を目的とするものである以上、病気は根本的に治る訳である。
ところが医学においては霊を無視し体のみを対象として進歩して来たのであるから、結局一時的治病法でしかない訳である。
事実医療が根治的でない事は、たまたま手術等によって全治したに見えるが、
なるほど元の病気は発らないとしても、他の病気が起るかまたは再発するのは必ずと言いたい程である。
例えば盲腸炎のごときも患部を剔出(てきしゅつ)するので、盲腸炎は起り得ないが、
盲腸に近接している腹膜炎や腎臓病が起り易くなる。
これは全く霊の方の曇りは依然として残っているからで、
しかも薬毒も加わるため濁血は増えて、新たな曇りと合併し位置を変えて病原となるのである。
そうして濁血の変化であるが、濁血が不断の浄化によって一層濃度化するや、血粒に変化が起り、漸次白色化する。
これが膿である。よく血膿と言って膿と血液が混合しているのは、これは変化の中途であって、なお進むと全部膿化する。
よく結核患者の喀痰が血液の混じっているものと、そうでないものとがあるのは右によるのである。
また医学における赤血球に対する白血球の食菌作用というのもそれである。」
明主様御教え 「霊主体従」 (昭和28年9月10日発行)
「そうして現代科学といえばもちろん唯物科学であり、唯物科学とは目に見え、手に触るる形あるものを対象として研究し進歩したものであるから、
あらゆる物象の表面だけがある程度判ったに過ぎないのであって、その内面に存在する重要なある物に気付かなかったのである。
このある物とは何かというと、これこそ無に等しいもので、名付けて霊という。
この霊なるものこそあらゆる物象の主体であって、この事の認識が出来ない限り、何程科学が進歩したといっても、
それは半分の進歩であり、跛行的でしかない以上、正しい文化の生まれるはずはないのであるから、
この事が明らかになって初めて今まで不可解とされていたあらゆる問題も、容易に解決されるのである。
何となれば一切は霊が主で体が従であり、霊主体従が万有の法則であるからである。
一例を挙げれば人間が四肢五体を動かすのも、眼に見えざる意志の命によるので、決して五体が勝手に動くのではないと同様である。
ゆえに奇蹟といえども本原は霊に起り、体に移写するのであるから、この理をまず確認する事である。それには病気が最も分り易いから、これによって説明してみよう。
元来病気とは肉体に現われた現象であり、結果であって、もちろん本原は霊にある。
すなわち最初霊の一部または数個所に曇りが発生し、それが体に映って病気となるのであるから、
この曇りさえ払拭(ふっしょく)すれば治るのは明らかである。
このように病原は霊にある以上、体のみを対象とする医学で治らないのも当然であり、対症療法の名がそれである。
これにみても現代医学は全く見当違いである以上、一日も早くこれに目覚めて、再出発されなければならないのである。
しかもこの無智の結果、いかに多くの犠牲者が作られ、悲惨な運命に泣いている現状は、到底黙止出来ないのである。
ところが喜ぶべし、ここに神の救いは現われたのである。
すなわちこの誤れる医学を革正すべき大任を、神は私に委ねられたのみか、この過誤はひとり医学のみではない。
あらゆる文化面に亘(わた)っているのであって、今一つの例を挙げてみよう。
それは多くの犯罪である。これも病気と同様表面に現われた結果であり、
その病原は霊すなわち魂にあるにかかわらず、それに気がつかないため、
これも医学と等しく対症療法すなわち刑罰をもって解決しようとしているが、
これも一時的膏薬(こうやく)張りでしかないから、何程骨を折っても犯罪は依然として浜の真砂である。
ゆえにこの魂の改造こそ、宗教以外にはあり得ないのであるから、この事も早急に気付かねばならない。
以上のごとき二大事実によっても明らかなごとく原因は霊を無視するところにあるので、これを徹底的に知らせる手段としての奇蹟である。」
明主様御教え 「浄霊治病」 (昭和28年御執筆)
「病気は体的症状であり、その本原は霊にある以上、霊を治さなければ病気は治らないのは、前項までに大体説いたが、これについてなお詳しくかいてみよう。
それはまず、霊と体との根本であるが、人間なるものは既に述べたごとく、霊体は結合一致していると共に、万物の法則としては霊が主で体が従となっている。
卑近な例だが人間の五体が動くのは、体が勝手に動くのではない。
霊の命によって動くのである。としたら霊が主人公であり、体は従属者である。
従って病気の場合、最初霊に発生し体に映るのであるから、体のみを治そうとしても、一時的で根本ではないから、もちろん霊を治してこそ根治となるのである。
ところが科学は唯物理念である以上、いかに進歩したといっても治らないのは当然である。
度々言った通り医療は一時的、外部的治癒でしかないので、必ず再発するのは、この理を知ればよく分るであろう。
右のごとく病気は、最初霊に発生するというその経路をかいてみるが、それには薬毒の作用である。
薬毒が体内に入るや一旦血液中に混入されて濁血となる。
この濁血が多量の場合は全身的に拡がるが、少ない場合はそれだけ局部的に集まる。
そうして濁血は霊体一致の法則によって霊に写ってそれだけ霊を曇らすのである。
ところが人体なるものは不断に浄化作用が行われている以上、濁血を浄血にする浄化活動が絶えず行われている。
そうして濁血が腐敗し変化したものである。これが霊主体従の法則によって、霊の曇りが減っただけは、体に映って濁血及び膿は減る事になる。
この過程が病気である事はすでに説いた通りである。
この理は天然現象にみても分る通り、地上の霊界に汚穢が溜れば、低気圧が発生し、風で吹き払い、雨水で洗い、天日で乾かすと共に、消滅するという作用が自然発生する。
これが天地間の浄化作用である。
従って人間の病気でも霊の浄化が発生し、体に映るや発熱によって毒素を溶解し、種々の排泄物にして体外へ出すのである。
この理によって汚物は出れば出る程、人体は清浄化し健康となるのであるから、浄化作用を援(たす)ける事こそ、真の治療法である。
しかるに何たる事か、それを逆に解し、汚物を出さないで元通り固めようとする。
というのは既記のごとく浄化に伴う苦痛を病と称し、マイナス的危険作用と解したのであるから、まことに驚くべき迷盲であった。
この考え方が医学を生んだのであるから、これに目醒めない限り、人類は病の悩みからいつになっても解放されないのである。では次に浄霊の原理をかいてみよう。」
明主様御論文 「人療法と神療法」
「現代医学を最も端的に言えば人療法であり、吾らの療法は神療法である。
すなわち人療法は物質を以って物質である肉体を治癒するを目的とし、神療法は霊を以って治すので、
一方は眼に見える物を以って、眼に見える体を対象とし、一方は眼に見えぬ霊を以って、眼に見えぬ霊体に体当りではない霊当りすると言う、ただそれだけの話である。
従って前者は人間を物質のみとなし、全然霊を認めない、後者は人間は物質のみではない、その内面に霊が在りとする。
故に前者の観方をすると人間は物質である以上、大根や牛蒡(ごぼう)と同一であるから俎板(まないた)の上で切っても差支えないと言うことになる。
今矢鱈(やたら)に人を切ったり、一家心中や自殺などするのはこの観念に外ならないので、物質的見方がいかに危険であるかは今更言うまでもないが、
これと同様の事は医学にも言える。何となれば現代医学も人間を物質と見る以上危険の程度は同一と言えよう。
何よりも注射で皮膚に針を刺し、手術で肉を切り血を出す等の手段も大根と同一物質的扱いである以上、人間の尊さなどは認めないのである。
これに対し宗教観は人間の霊を認め物質以上の尊い存在としている、ところがここに重大事がある。
右のごとく宗教は人間に霊があり、その霊が肉体を支配していると言うのである。
従って人間が病気に罹る事も、思想の動向も霊次第であるから、霊が主体で肉が従と言う事になる。
この理によって、病気の場合その病原は霊にあり、霊の状態そのままが肉体へ移写するのであるから、病気を根本的に治すには霊から治して行かなければならない。
すなわち病める個所は霊の方も病気に罹っている。
それはその患部は霊に曇りがあるので、その曇りを払拭しなければ肉の方の病気は絶対治るはずはないのである。
これは事実が証明している。すなわち肉だけの病気を除去しても、霊の曇りを消滅しない限り、必ず元通り病気は発生する。
何よりも医学で治ったと安心しても、そのほとんどは再発する。
腫物など手術によって除去してもそのお隣りへ出来る、また除去するとまたその隣りへ出来ると言う事は、医家もよく経験する所であろう。
この理によって医学がいかに進歩しても肉のみを対象とする以上、この世界から病気を無くする事は不可能である。
右のごとく万有の原則は霊主体従であり、人間の病気も前述のごとくである以上、これが認識出来なければ真の医学が生れるはずがないのである。
しかも真の健康人が増えれば、罪悪は跡を絶つのはもちろんである。何となればこの見えざる力を知る以上、神を認めるからである。
この理によって今日のごとき底知れない程の社会悪の発生やそれにつれて不幸者が続出すると言う事も、唯物思想の囚(とりこ)となっているからで、ここに宗教の必要がある。
次に注意しなければならない事は、単に宗教と言っても唯心の仮面を覆っている唯物宗教が相当ある事で、それらは宗教の蔭に隠れて、幾多の罪悪を行っているのである。
これこそ邪教であって、むしろ単なる一般唯物主義者より、社会に害を与えるのである。
何となれば、彼らのために新宗教の信用を害し、正しい宗教を傷つけるので、その罪は軽視すべからざるものがある。
今日世人がインチキ邪教に気をつけろ、うっかり触れるなと警戒の目を向けるのは、右のごとき邪宗教があるからである。
しかしかく言う邪教は遅かれ早かれ淘汰される事は必定であるが、例え一時的でも社会に害毒を与える以上声を大にして警告するのである。
とは言うものの現代人が今日のごとき不安極まる世相にあっては、何らかの救を求むるのは当然であるが、それかと言って既成宗教ではあきたらないらしい。
新宗教は、危険であるからやむを得ず無信仰者になり、唯物観念を持ち続けつつ、不安裡(り)にその日、その日を送っているのが現状である。
特にインテリ層はその観念が著しく自分が触れないばかりか、他人をも触れさせまいとしている。
以上によってみるも、本教が誤解を受けると言う有力な原因が邪教にある事もよく解るであろう。
しからばこの邪教の根本は何であるかと言うと、これが右の妨害者である悪魔の仕業でなくて何であろう。」
明主様御教え 「霊主体従の法則」 (昭和26年2月21日発行)
「この論文は、すこぶる重要なもので、発表にはまだ尚早の感があるが、思い切ってかいたのである。
まず、現在戦われつつある、南北朝鮮の戦争であるが、御承知のごとく北鮮軍が最初破竹の勢いをもって驀進南進し、ついに釜山にまで追詰め、南朝鮮今や危うからんとした時、
米軍援助の下にたちまち押返して、三十八度線を苦もなく突破し、今や満州国境に迫らんとする一刹那、忽然として現われたのが、彼の中共軍の大部隊である。
何しろ兵隊の数からいっても桁違いである以上、残念ながら逆に捲土重来(けんどちょうらい)的に押返されて、ついに最初のような形になってしまったので、全く最初の勝利は無駄となった訳である。
しかしまたまたマ元帥の深謀遠慮の策戦効を奏し連合軍の重圧は、流石の共産軍の人海戦術も破綻の余儀なきに到り、今や京城危うしと共に、結局三十八度線内に、撤退するのやむなきに至るであろう。
右は表面に現われた戦局の様相であるが、これを霊的にみるとしたら、どういう訳になるかをかいてみるが、
私は常に万有は霊主体従の法則に支配されるという事を唱えているが、
それが右の戦争にもよく現われている。
というのは方角からいうと東と北が霊であり、西と南が体であるから、
南西から北東に向かって進む事は逆になり、風に向かって船を進めるようなもので、非常に骨が折れるばかりか、どうしても一旦押返えされる危険がある。
だから私は最初の頃、米軍は朝鮮の最も北東の地点へ、日本海を通って上陸作戦をしなければ、勝てないといった事があるが、果してその通りになったのである。
これを二、三の例をとってみるが、第二次欧州戦争の時もモスコーまで攻込んで、今一息という時、独軍はついに後退のやむなきに至ったばかりか、ベルリンへ先に侵入したのもソ連軍であった。
またナポレオンもそれと同じ運命を辿った。その他米国の南北戦争にしても北軍が勝ったし、日本の南北朝の争いもそうであったが、
しかし例外もあるにはある。それは正邪の場合に限るので、この例は日露戦争が示しているがこれは稀である。ここで私は次の事をかいてみたい。
私の生まれは東京の浅草橋場というところである。
日本の東は東京で、東京の東は浅草で、浅草の東は右の橋場で、その先は隅田川であるからここが東京の最東端である。
ところが私は五、六歳の時から、西へ西へと移って往った。
まず最初これも浅草区の千束町へそれから日本橋区浪花町へ、次は京橋区木挽町へ、次は大森、それから麹町へ半年ばかりいて、今度は玉川の今の宝山荘へ移った。
ここは東京の西端である。ここに一番長くいて、それから箱根と熱海へ同時頃移った。
熱海へ来てからも、初め熱海の東端東山へ住み、次で真中辺の清水町へ移り、今の水口(みなくち)町の住居に移ったので、ここは熱海の西端である。
以上のように私は生まれた早々から東から西へ西へと向かって段々移って行った。
丸で太陽みたいだ。私の目的は昼の世界を作るにあるのだから、そうなるのも因縁といえよう。
ここで、ちょっと気の付かない面白い事がある。
それは今日までの日本は、文化も、宗教も、思想も、ことごとく西興東遷であった。外国は別としてみても、仏教でも神道でもことごとく西に発生し東に移行している。
ただ独り日蓮宗だけが東に興ったのみである。
これも面白いのは元来仏教は月の教であるが、最後に到ってただ一つ日の教が現われたのである。
これは日だから東から出たのが当然であろう。
上人が安房の清澄山上朝日に向かって、南無妙法蓮華経を唱え、その時から法華経の弘通に取り掛ったのも、意味ある事である。
それ以外の宗教としては、独り我メシヤ教のみであってみれば、本教の将来は想像に難くはあるまい。」
明主様御垂示 「五六七の御代は霊界のことがすぐ映る」 (昭和24年8月)
信者の質問
「「信仰雑話」に、「現界のあらゆる事象は霊界の移写である」と拝見いたしますが、最近の打ち続く大火は霊界になにか起っていることを示すのでしょうか。」
明主様御垂示
「大火の原因は浄化でしてね、いろいろな穢れているものを焼かなくちゃいけない、これはどうしても焼かなくちゃいけないんで、焼く前に霊界で先に焼くんですよ・・・
こうやって御浄霊をして痛みがとれますね。
これは先に霊の曇りがとれるからなんですよ。
これをやってすぐに治る人と、しばらく経ってから治る人とありますね。
これもいまの移写と同じでね、霊界でも今日起って今日すぐに現界に映ることもあれば、今日起って明日映ることも、あさって映ることもあるんですよ。
そして年々その映り方が早くなりつつあるんです。
五六七の御代は霊体一致の時代ですからね、霊界のことがすぐ映りますよ。
要はこれがとても遅かったんです。
いままでは悪いことをしてもなかなか見つからなかったから、「あいつうまいことをしてやがる、一つおれも」ってわけで悪いことをしてたんですが、
これからは見つかるのがだんだん早くなるんです。
今日悪いことをしても明日には必ず見つかるようになる、もうそうなると馬鹿馬鹿しくて悪いことをしなくなりますよ。
悪の知れ方の早い遅いで、悪がなくなるか起るかってことになるんです。」