霊層界について 2
明主様御教え 「浄霊と幸福」 (昭和27年3月25日発行)
「本教浄霊は病気を治すのが目的のようになっているが、本当からいうとそれだけではないので、もっと大きな意味がある事をかいてみるが、
一言にしていえば浄霊とは幸福を生む方法である。
というのは単に病気といってももちろん浄化であり、その因は霊の曇りの解消作用であるのは、今更言うまでもないが、
そればかりではなく、人間一切の苦悩の無くなる作用である。
従って貧乏も争いも浄化の表れで、私のいう病貧争ことごとくがそれである。
ところが一切の浄化作用の中で最も重要なのが病気であって、これは生命に関するものであるからで従って病気さえ解決出来れば、貧乏も争いも自然に解決されるのは当然である。
もちろんそうなる事が幸福の根本であるから、不幸の原因は全く霊の曇りであるのは、余りにも明らかである。
それを簡単にして確実な方法こそ、霊の曇りの解消法としての浄霊であるから、最初に述べたごとく浄霊は独り病気のみではない事である。
それについて一層詳しくかいてみよう。
以前記いた事があるが、人間の体は現界に呼吸しており、霊は霊界に生きている以上、
霊界の状態がそのまま霊身に影響し、それが肉体に映るのであるから、人間の運命のその根本は霊界にあるのである。
そうして霊界も現界と等しく、上中下多数の段階になっており、これを分ければ大別して三段階になっている。
その内の一段が六十階、それが三分され二十段ずつになって、合計百八十一階級である。
そうして一は主神であるから、主神以外はいかなる神様でも、百八十の中のどれかの段階におられるのである。
右は経(たて)をいったものであるが、今度は緯(よこ)をいってみると、
緯の広がりの一つ一つの段が、地獄から天国までそれぞれ異っているから、
仮に現在自分の霊とすると、下の六十段のそのまた下の二十段にいる場合は、最低地獄に相応するから、
これ以上ない程の苦悩に満ちた世界で、これが体に映って苦境のドン底にある訳である。
またその上の二十段に上ると幾分楽になり、そのまた上の二十段はもっとよくなるというように、それぞれの段階一段一段その苦楽の異うのはもちろんである。
それで右のごとき下の六十段を突破すると、今度は中の段階になる。すなわち中有界、八衢であるから、現界に相応するので、
そのまた中から上の六十段へ入ると、ここは天国であるから天人の地位となり、歓喜悦楽の境遇となるのである。
右のようにその人のいる段階そのまま通りが運命となるのだから、一段でも上に行くよう心掛けるべきで、上になる程益々苦しい忌わしい事がなくなり、幸福は増すのである。
つまり浄化すべき苦痛の必要がなくなるからである。
だから人間は霊身が下段にある間は、どんなに智慧を振い、骨を折っても駄目である。
というのはこれが神の天則であって、霊主体従の法則も厳として冒す事が出来ないからである。
ゆえに幸福になるにはどうしても霊を浄めて軽くし、少しでも上位になるよう心掛くべきで、それ以外に方法は絶対にないので、ここに浄霊の大いなる意義があるのである。」
明主様御教え 「幸運の秘訣」 (昭和29年2月3日発行)
「この事について私は以前もかいた事があるが、今日の世の中を見れば見る程不幸な人が余りに多いので、一層徹底的にかいてみるのである。
言うまでもなく昔から人間の運不運程厄介な問題はあるまい。誰しも人心がついてから死ぬまでの間、この考えから離れられないのが人間としての必然性であろう。
というのは最も分りたいと思う事程、最も分り難いのが世の中の常であるからで、少しでも分るとしたらこれ程結構な事はあるまい。
ところが、幸いなるかな私はこの根本がハッキリ分ったのである。
そればかりか実地経験によっても少しの間違いはないので、ここに確信を以って説くのである。
それについては誰も知る通り、一口に運といってもこれ程茫漠(ぼうばく)たる掴まえどころないものはあるまい。
しかも自分ではどうにもならないので、あなた委せより致し方がないのはもちろんで、これが運というものであろう。
誰かが言った「人生は大賭博なり」とは宣(むべ)なるかなである。
従ってどんなに偉いといわれる人でも、一応は諦めてはいるが、中々悟りきれないもので、これが人間の宿命とでもいうのであろう。
そこで何とかして幸運を掴みたい一念から活動も出来る訳である。
それがためありもしない智慧を絞り、欲しい成りたいの苦労のしつづけで終るのが人生というものであろう。
そうして運くらい皮肉なものはない。掴もうとすればする程逃げてしまう。
西洋の諺に「幸運のチャンスは前髪のようなもので、通る瞬間掴まないとお終いだ」というが全くその通りである。
私の長い経験によっても、運という奴に始終からかわれているような気がする。
訳なく掴めそうで中々掴めない。目の前にブラ下っているから手を出すとスルリと抜けてしまう。
追いかけようとすればする程逃足の速い事、全く始末の悪い代物だ。
ところが私はこの運という奴を確実に掴えたのである。
だがそれを説明するに当って困る事には、信仰者ならイザ知らず、一般人には中々分り難い点がある。
というのは物を見る場合上面(うわつら)だけを見て中身を見ない事で、否(いな)見えないのである。
ところが運に限って因は中身の方にあるのだから、これが分らなければ運は決して掴めない。
という訳は人間が肉体を動かす場合、肉体自身が動くのではなく、中身にある心が動かすのであるから、幸運もそれと同様中身が肝腎である。
その訳を詳しくかいてみよう。
まず右の理を押し広げるとこういう事になる。
すなわち上面とは現実界であり、中身とは心霊界という目に見えない空間の世界である。
これがこの大世界の組織であって、造物主はそう造られたのである。
故に心が肉体を動かすごとく、霊界が現界を動かすのである。
しかも一切は霊界が主で現界が従であるから、運といえども霊界にある霊の運が開ければいいので、そのまま体に映り幸運者となるのはもちろんである。
では霊界というものを一層詳しくかいてみるが、霊界は現界よりも厳正公平な階級制度になっている。
それが上中下百八十の段階になっていて、六十段ずつ三段階に分れている。
もちろん上が天国、下が地獄、中間が中有界(ちゅううかい)といい現界に相応している。
こんな事をいうと、今日の人間は直に信じられまいが、私は神から詳しく知らされ、
その上長い間霊界と現界との関係を実地経験によって、底の底まで知り得たのであるから、寸毫の誤りはないのである。
何よりもこの理を信じて実行に移し、幸運を掴んだ人は今までに数え切れない程あるばかりか、私自身としてもその一人である。
それは私を客観的に見れば直ぐ分る。私がいかに幸福な境遇であるかである。
そこで今一歩進めて右の段階を説明してみるが、前記のごとく人間の体は現界に、霊は霊界にあるとしたら、百八十段中のどこかにいるはずであって、つまり籍のようなものである。
しかもこの籍は一定しておらず、絶えず上下に移動しており、運命もそれに伴う以上、人間は出来るだけ上段に昇るよう心掛くべきである。
言うまでもなく下は地獄界で、病気、貧乏、争いはもちろん、魑魅魍魎(ちみもうりょう)、百鬼夜行、暗黒無明の世界であって、あらゆる苦悩が渦巻いている。
これに反し上段へ行く程反対に良くなり、天国浄土的平和光明、健富和(けんぷわ)の理想境であり、中段は中位である。
以上のごとく霊界の籍通りが体に移り、運命となるとしたら、霊の地位向上こそ幸運の根本である事が余りにも明らかである。
何よりも事実を見ても分る通り、世間よく出世をして人から羨(うらや)まれるようになり、自分もいい気持になって、いつまでも続くと思っていると、豈(あに)計らんやいつしか失敗転落、元の木阿弥となる例もよくある。
というのはこの理を知らず、人力にのみ頼りすぎるからで、しかも人を苦しめ、無理をする結果、形だけは成功しても、霊は地獄に堕ちているので、霊主体従の法則によりその通りの運命となるのである。
そうして霊にも物質と同様重量があり、重ければ地獄に堕ち、軽ければ天国に上る。
昔から罪の重荷というが、その通りで、悪の行為は霊が曇り重くなるに反し、善の行為は軽くなり上へ昇るのである。
故に人間は悪を慎み、罪を作らないようにする事で、出来るだけ善を行い、霊を軽くする事こそ幸運の秘訣である。
これが真理である以上、これ以外方法のない事は断言するのである。
といってもなるほど理屈は分るが、さて実行となると中々難かしいものである。
ところが容易に出来る方法がある。
これこそ信仰であるから、幸運を得たい人は何をおいても、まず信仰に入る事である。」
明主様御講話 「幸運の秘訣」 (昭和29年1月25日)
(御論文 「幸運の秘訣」)
「まだ少し書き足りないところがあるのです。
今のは経だけを書いたのですが、緯の段階が肝腎なのです。
その緯の段階の、つまり上から下まで何階にもなっている、そこがそのまま写るのですから、
始終うまくゆかない、苦しみや災難があるということは、そういう段階に霊がいるわけなのです。
だからいくら人間が工夫をしてうまくやろうと思って一生懸命にやっても、そうはゆかないのです。
ようやく金を溜めたと思ってヤレヤレと思っていると、どうしても出さなければならないことが次から次へと起こってくるのです。
病気については、信者には問題にならないが、世間一般の人はたいてい、やっと貯蓄ができてまず金の心配はないということになると、必ず病気の心配が起こるのです。
そうしてヤレ入院だ、手術だ、と言って、おそらく溜めた金は残らずふいになって、それでも足りないで借金するというようなことは随分多いです。
というのは、つまり霊層界の地位が地獄にいるから、どうしても地獄のとおりに写ってくるわけです。
だからいろんな、方位が良いとか、あるいは十二支で、午の年の午の月とか、未の月とか、そういうことを気にしたり、方位方角をやっても、決してうまくいったことはないです。
むしろそういうことを始終気にしている人の方が、運が悪いくらいなものです。
その運が悪いというのは、そこにわけがあるのです。
そういうことを気にかける人は霊が弱いのです。
つまり霊の力が弱いからして、あらゆるものに怯えるのです。
それで霊の強い弱いということは、肉体の健康の強い弱いのと同じことなのです。
だから非常に臆病な人や、物に怯えるような人は霊が弱いのです。
つまりどうせ悪いことをする人は悪の方ですから、それに負けるわけです。
そういうようなわけで、自分の魂を霊層界の高い所におくようにすれば、またそこは良いことばかりが来る世界です。
人間という奴は、悪いことというものは重なって来るものなのです。
私なども随分経験がありますが、なにか災難とか苦しみが来るときは必ず健康が悪いです。
これは誰に聞いてみてもたいていそうです。
やっぱり健康でいる時には運勢ということも良いわけです。
だから信仰に入って浄霊を受けさえすれば、みんな運が良くなります。間が良くなります。
よくお蔭話にありますが、随分金に苦しんだのが、入信してから急に思いもしない金が入ってきたり、楽になるということは、つまり霊層界が上がるからです。
それで、それは神様の光をいただきますから、そこで霊が浄まるから、そこで今読んだように霊が軽くなるから上に上がるのです。
そこは貧乏や金に苦しむところがない世界ですから、そこのところは、はなはだ微妙な問題でいて、一番確実な方法です。
これさえ守り、これさえ信じていれば、運の悪くなる気づかいはないです。
ただ一時は、霊の曇りを取られるために一時的苦しみはありますが、それは決して長いものではないので、それさえすめば必ず良くなるのです。
信仰の妙諦というものはそこにあるのです。
ところが今までの宗教は、そういうことは説かなかったのです。
ということは、光がなかったのです。
あっても月の光で薄いから、そう著しく曇りを減らすことはできないのです。
だからして運勢も、良いことがあるが悪いこともあるというわけで、年中苦労しているのです。
それで、月の神様ということを言いますが、月の光というものは薄いのですが、それ以外に、月というものは暗(やみ)ということがあるのです。
そこで月の光だけをいただいて、まず運が良くても、必ず暗があるから、その時にやられてしまうわけです。
だから今までの世界では本当に運が良くなり、永遠に栄えるということは絶対にできなかったわけです。
それは歴史を見ても分かるとおり、無論天下が長く続かず、それからまた何代もうまくゆくという家はなかったです。
そこでどうしても太陽の光でなければ駄目なのです。太陽の光は毎日必ず出るのですから、太陽に暗はないのだから、悪いことが幾日も続くということはないのです。
そういうようなわけで、どうしても太陽の光でなかったならば本当の幸福は得られないわけです。
一時的しか得られないわけです。
それから運ばかりでなく、すべてがそうです。
だから今までのことはみんな一時的で、続かないのです。
ちょうど病気を薬や医者でやると一時は良くなりますが、必ず元通り再発するわけです。
なにもかにもそうなっているわけです。つまり永遠性がなかったわけです。
運の話はそのくらいにしておきます。」
明主様御講話 「霊層界が向上すれば運が良くなる」 (昭和29年1月26日)
(御論文「幸運の秘訣」)
「今読んだとおり、運が良くなる、思うようになるということは、理屈を知ってみれば非常に簡単な話なのです。
ここを自分が知るとともに話してやればよいのです。
ところがそういう肝腎なことをやらないで、ただ人為的にうまくゆくように一生懸命やるのだからして、結局なんにもならないので、無駄をやっているわけです。
それで、百八十段という層になっているのですから、その層の居所によって運が良い悪いになるのです。
この層の良い所は良いことばかりが流れているのです。
そこのところは神様は実にうまく作ってあります。
低い所は悪いことだらけなのです。悪いことが満ちているのです。
上層になるとそれがだんだん少なくなり、今度は良いことに変わってくるということになっているのです。
そういうようで、人間はどこかにいるのですから、良い方にいるようにすれば、
そこに行けば運が良くなるに決まっているのですから、なんでもないです。
よく方角が悪いとか良い家が見つからないとか、いろいろなことがありますが、
それは霊界の居所が下ならどんなに良い家に住まおうと思っても、そこの世界には良い家がないのだから見つかるわけがないです。
霊界の層が上に行っていれば、今度は、探さなくても見つかるようになります。
そこに住まわなければならないことになっているのです。
それが運命です。
ですから、よく支部を作っても発展しないとか、どうも信者ができそうでできないということは、自分の魂の居所、霊の居所が低いためです。
それからまた、どうも自分は一生懸命に信仰しているが、親父は反対ばかりしている、あるいは伜(せがれ)がぜんぜん分からないということは、
自分自身の霊的位置がまだ低いからです。
それで自分自身の霊的地位が高ければ、他の者もどうしてもそこの所に引き上げられるのです。
というのは、親父でも伜でも、みんな霊線が繋がってますから、親なら親の枝ですから、親がずっと上に上がると伜もそれについてゆくわけです。
そうすると話をしてもよく分かるわけです。
ところが自分自身の地位が低いからして、いくら口を酸っぱくしようと、気をももうと、あえて効果がないわけです。
ですからそれには自分の霊的位置が向上するということが必要です。
それには、一人でも多くの人を助けて、神様の御用をすることで、それによって自分の曇りが減って、そうすると霊が軽くなるから上に行く。
上に行くから、他の枝でも縁のある人でも、自然にそれについてくるわけです。
だからすべて思うように良くなるというわけですから、結局において自分にあるのです。
それからまた、こんなにしても自分は苦しいことや災難がいろいろあるということは、それはまだ霊に重い点があるからして、
神様が軽くしてくださるために、軽くするには人を救うか、もし救い方が足りなければ自分が苦しむかで、
このどっちかで曇りが取れるのですから、その点さえ分かれば、世の中は決して難しくもなんでもないものです。」
明主様御垂示 「霊層界と引越し」
「土地、家相、姓名の善悪等非常にある。誰でも良を望むが、根本は・・・。
ある家に引越すのも偶然でなく、相応の理により、霊状態の良い時には善い所へ行く。
霊層界の八衢以上にある場合、悪い事はない。第一、第二と霊の段階の通りの所へ住む。
結婚もまた、霊層界と極度に違う事はない。
向上すると・・・霊が浄化されると上ってくる。すると前の家では相応せず、良い所へ越す事となる。
霊が変ると、体が引ずられる。
従って、良い所へ行っても、霊が伴わなければすぐ出てゆく事になる。
黙っていても霊さえよければ、良い所へゆく。
夫婦の場合一方が向上し、一方がそのままの場合、どうしても一方が苦しみ、一緒に生活出来ぬか、でなければ霊界へゆく。
霊界はすべて執着をとる所である。
夫婦など愛し合う度の濃い程一緒におれない。
抱擁しようとしても身体が硬直してしまう。
その執着がなくなると一緒におれる。
霊界では、神様のお許しを得て一緒に遇えるが、そうでないとなかなか遇えぬ。
身魂の階級で違ってくる。
土地は、付近において高い所がよい。故に、越す場合、その近隣の高い所がいい。坂の中途へ住んではいけない。
家相も大いにある。やかましくいえば、畳数などもある。
霊的状態が良ければ、悪い所へゆけぬ。
家屋中心にみるのはいけない。主人の寝室を中心に考うべきだ。人間中心にする。
寝る場所が安住の所である。
鬼門が霊であるから木と火になる。木は気である。裏鬼門は体で・・・。
艮から浄める力がくる。鬼門を汚すと霊気が曇り、妨げられ、邪神が災する。
坤は物質が来る・・・濁るんではないが・・・。
艮へ便所をつけたり、人の出入りをさせたりするのはいけない。
乾の出入りは、日の上るのと両鬼門を避ける。
広い所では、艮に庭をつける。すると病気災難を逃れる。
坤は石と水をおく。すると物質が入る。
家相では、この鬼門が一番大事である。
家の全体の形はある。大森など鶴が羽を拡げた形であった。
凹の字形の家相はいけない。」
明主様御垂示 「霊層界と家相方位」
「家相方位。
これはこだわっていい時と、悪い時と両方ある。
霊層界百八十層あり。
上(天国)、中、下(地獄)と三段あり、真中は中間帯で八衢という。これは現界と同じ、娑婆と同じである。
人間はこの三層のどこかにいる。そこにその人の魂の本源があり、霊線が繋がっている。そうして運勢や使命も係わっている。
地獄は人間の不幸の世界で、重軽はあるが階級の昇るに従い、楽になるのである。
地獄の段階に魂がいると、いつ災難を受けるか判らぬ。
方角や家相はあるが、魂のいる所相当の方角や家へ住み、相当の境遇になる。故に、良い家に住んでる人は、それだけの段階にいる。
自分の魂が下にあれば、どんなに足掻いても駄目である。
霊層界の地位は始終変化しており、罪を犯したり、善い事をする事により変化する。
大体に太い線、細い(小さい)線はある。
太い線は突破出来ぬが、小さい線は始終上下している。それによって変化する。
悪い事はしないといっても、ただブラブラしている人などは、それがやはり罪になる。
やはり「理想世界建設に役立つ事をするのが最上で、そのために、それぞれの職業を与えられている。それに全力を尽す。それによって、天職使命を行うべきである。
そしてなおその上に、人を助けると罪の消えるのが大きいから、霊層界はドシドシ昇り、逆に歓喜の生活が出来る。
そして思った通りの、良い家へ行けるし、神様は、褒美を下さるのである。
結婚などもそうで、その人の徳によって、妻君も良い人が来る。
それで人間は、自分自身の魂を磨き、天国に相応する事が肝腎で、そうすれば悪い方へ行きっこはない。
故に、家相方位はあるにはあるが、霊相応であるから、まず霊を天国に置かなくてはならぬ訳である。
霊の軽いのは天国へ上るし、重いのは低い所へ行く。
低い所にいると、霊の抵抗力が弱いから、邪神にやられる。
邪神は人を苦しめるのをとても喜ぶのである。
運よく出世をするといっても、形だけの出世ではいけない。
人を幸せにする幸福、これが一番の幸せで気持もよい。
良心は神の分霊であり、気がとがめるのは、神様に叱られるのである。
家相は良くしなくてはいけないし、知っておかなくてはいけない。
神山荘の建設などは実に不思議で、神様が用意されたものである事が判る。
方角で一番良い方角は鬼門である。故に、方角の良い方へ越すには鬼門がいい。
今迄は、不正や悪をやる人は、反って悪いとしたが、これから良い事をする人は、鬼門へ行くべきである。
私は、浅草の橋場に生れたが、これは浅草の東で、浅草は東京の東、東京は日本の東である。
それから、山谷、京橋、大森、箱根というように、段々東から西へ行かれた。
こういうように、私の方角などは決っている。
熱海でも、東山から小倉別院へ、やはり東から西へお行きになった。(中略)
吉凶の占い。
家相は鬼門が土台である。
鬼門は一番霊気が来るので、間違った事は出来ぬ。
良い霊気とは、神霊が濃い訳である。
鬼門を汚すと、良い霊気を穢すから、綺麗にしておく事である。
光明如来様を祀った所、紫色の霊気が棒のように立っているのが見えた事がある。
霊気の来る所は、清くしておくべきである。
鬼門には松や檜が一番良い。
坤は、石と水がよい。
事情の許す限り、両鬼門は良くする。
また、道から下る所は不可、上る所は良い。
下津岩根は非常に良い。
ここの家相は非常に良い。(箱根)
畳数は偶数でなくてはいけない。偶数は割り切れる。滑らかにゆく。何でも奇数は割り切れぬ。閊えるからいけない。
三の数は不可。
男は十八畳などよい。
女は三畳、六畳などよい。総数が偶数になるのがよい。
方角は易者と違い、主人の寝る所を本とする。
家相は出る形がよい。これが理屈に合う。また、拡がる形もよい。
吉凶占いは十二支が本で、これは人間の性格の主なるものを表わしたもので、確かにある。」
台所は鬼門を避ければ、後はどこでもよい。」