霊層界について 1
明主様御教え 「霊層界と人間」 (昭和18年10月23日発行)
「霊界は、天国八衢(やちまた)地獄の三段階になっている事は、既に詳説した通りであるが、
これが人間の運命と密接な関係が有る事を、ここに説こうとするのである。
霊界における三段階は大別しての事であって、細別すれば一段は六十に別れているので合計百八十段になっている。
勿論、層になっているので、私は、霊層と名付けるのである。
そうしてこの霊層に対し、人間はいかなる関係があるかを順次説いてみよう。
私はさきに、人間は肉体と霊体と密着している事を説いたのであるが、
その霊体なるものは、実は個体ではなく、今一つのある物との繋がりがあるので、そのある物を名付けて幽体という。
幽体とは、霊の霊であるともいえるので、霊体が肉体を支配するごとく、幽体は霊体を支配しているのである。
この意味において、人間の生命の真の根源は、幽体そのものであるといってもいいのである。
そうして幽体とは、霊界の生活者であるから、人間死するや、霊体は直ちに幽体に引かれて幽体と密着する事になる。
それは生前、霊体と肉体と密着していたのと同様の意味である。
又 幽体は、霊界における百八十段層のいずれかの層に属している事は勿論である。
しかしながら、幽体の居点は常に一定する事なく、その層の段階を常に上下しているが、普通時はある範囲内に限られているのである。
稀には、その範囲外へ出ずる事がある。
それが肉体的に表われる場合、運命の急転となるのである。
人間の運命即ち幸不幸は、幽体の居点である霊層の階級によるので、それは実に決定的である。
そうして霊界においても主宰神があり、八百万の神が分担管掌している事は、さきに述べた通りであるが、
幽体に対し、断えずそれぞれの命令が下るのである。
従って、その受命者の任務遂行が霊体に反映し、肉体に反映し、肉体がそのごとく動くのである。
いかなる人間といえども、自己が計画し企図する事が、常に実際において意のごとくならない事の多いのは誰もが経験する所であろう。
従って予想外な運命や、意外な結果に逢着(ほうちゃく)するという事は、
実は現世の人間の予想や思念は、幽体の運命に左右されなければならない法則であるからである。
又自分自身に対し、眼に見えないある大きな力が常に支配しつつあるような感想が大抵の人はあるものである。
この支配者とは即ち幽界における支配者即ち神であって、健康、富裕、平和の世界であり、
これに反し、下方にゆく程、病気、貧困、争闘等の絶間ない醜悪世界である。
その中間帯である八衢(やちまた)がちょうど現界に相応しているから、
現世は健富和の幸福、病貧争の不幸と入り混っている事は、誰もが知る所である。
右の理によって、現世における幸不幸は、幽体の住する界層の階級によって定まるものである。
従って、人間が人為的にいかに幸福を求め、実現しようと努力しても意のごとくならないのは、右の理によるからである。
しかし、現世においてこういう例もある。
それは富裕者でありながら足るを知らず、吝嗇(けち)なる事貧困者と異ならない人があるが、
これらは人為的に苦心努力の結果、一時的富裕者となったまでで実は幽体は下層にあるから、
かような人が死後霊界に往くや、幽体相応の貧困者となるので大いに後悔するものである。
故に、幸福者たらんとするには、幽体を上層に住する事より外に道はないのである。
しからば、それはいかなる方法によるかというにこれは何人といえども知らねばならない事であろう。
ここで、幽体が何故上中下に分離するかという事であるが、それは左のごとき理由によるのである。
即ち、幽体の重量によるのである。
軽い程上層に、重い程下層に往くのである。
そうして軽いとは幽体が清浄であるからであり、重いとは溷濁(こんだく)しているからである。
溷濁とは勿論 罪穢に因るのであるから、清浄な幽体たらんとするには、その罪穢を滅消しなければならない。
しからば罪穢とは何ぞや、言うまでもなく自己愛による不正、虚偽の手段を以て人を苦しめ世を毒するという悪の行為によって発生し堆積するのである以上、
それを滅消するには、その反対である利他愛による正義真実等の善的手段によって人に幸福を与え、国家社会の為になる行為を多くすることより外にないのである。
勿論それは厳然たる天則で、人力のいかん共為(な)しがたいものである。
右の意味によって、私の説く現幽相互の関係を知ると共に、
衷心から信じ得らるる人こそ幸福の門に一歩入ったというべきである。
右の霊層界について、今少し言う事がある。
天国に相応する所の上層界は、健富和の活力が生々として流通しつつ、上層程それが高度である事は勿論である。
かかる説は、私の観念による仮説と思われ易いのであるが、決してそうではなく、事実である事を立証してみよう。
私が永い間、本医術によって患者が治癒した場合、健康恢復のみではなく、性格も一変する事である。
それは争を厭(いと)い、親和的となり、楽天的となるのである。
特に講習を受け病気とそれに関する霊的事象を知るに及んで人生観が一変すると共に、不思議な現象が起り初めるのである。
それは健康のみではなく必要な物資も恵まれ豊かになる事であって、
しかも、人為的では更になく、惟神(いしん)的に思わざる所から、奇蹟的に人手するのである。
この事は受講後の誰もがいうのであるから、誤りはないのである。
又、今まで不和であった人と親和し、今までよりも人から尊敬を受け引立てられたり、希望が実現したり、仕事の能率が上り、試験にパスする等幸福的の事象が非常に多くなるという話をよく聞くのである。
右は、いかなる訳かというと、病患の治癒者、特に受講せし者は、人間の健康や生命の真実を知るに及んで、
盲目であった霊魂が、飜然(ほんぜん)と覚醒するのである。
彼の釈尊がいった等覚を得て仏となり、正覚を得て菩薩となり大覚を得て如来となるという意味と同一であろう。
従って、受講者は等覚を得るのであるから即身即仏となり、霊的地位が向上する訳で一躍霊層界の上級に転位する事になるので、右のごとき事象に恵まるる事となるのである。」 (「明日の医術 第3編」より)
明主様御教え 「霊層界」 (昭和22年2月5日発行)
「霊界は、天国、八衢(やちまた)、地獄の三段階になっている事は既説の通りであるが、これが人間の運命と密接な関係をもっている事を説いてみよう。
そうして、右の三段階を細別すれば一段は六十になり、合計百八十段階の層になっている。
私はこれを名付けて霊層界という。
人間が現世に生まれるという事は、神の命によるのである。
生命の命は命令の命と同一であるのも、その意味であろう。
誰しも思う事は、人間は何が故に生まれたかという事である。
この事を真に把握せざる限り、正しい行動も安心立命も得られないのみか、空虚な酔生夢死的人生におわるおそれがある。
しからば神の意図とは何ぞやといえば、この地上をして理想世界、言い変えれば地上天国を建設する事である。
とはいえそれはおそらくその規模において、その構想において、壮麗雄大なる言語に絶するものがあろう事は想像に難からない。
何となれば無限に進歩しつつある文化は、極まるところがないからである。
この意味において現在までの世界歴史は、その基礎的工作に過ぎなかったのである。
そうして神は一人一人それぞれの使命を与え、特長を持たせ、生き更(かわ)り死に替わり、理想目的に向かって前進せしめつつあるのである。
従って善も悪も、戦争も平和も、破壊も創造も、進化に必要なる一過程に過ぎない事を知るのである。
そうして今はいかなる時かは詳細説いたごとく、私の唱える夜昼転換期のそれであり、全世界は今まさに新時代に向かって一大飛躍せんとしつつあり、
今人類は野蛮の衣をカナグリ捨て、高度の文化人たる域に達せんとしつつある事である。
ここにはじめて戦争も病気も貧乏も終焉を告げるのである。
もちろん本医術の出現はそのための先駆であり、核心的のものである。
以上のごとく、神の意図によって断えず人間に命令を下しつつある。
それはいかなる手段によるかというに、霊層界においては人間一人一人の種が存在する。
この種を私は名づけて幽魂という。この幽魂にまず命が下るのである。
しかるに幽魂は人間霊体の中腑にある現魂に向かい霊線を通じて神の命を伝達するのである。
しかしながら一般人間が神の命を直感し得ることは至難であって、ある程度浄化されたる霊体の保有者にして可能である。
それは大多数の人間は、多量の曇りに遮られ感知出来得ないばかりか、その曇りを利用する邪神によっても妨害されるからである。
右の証左としていかなる人間といえども、自己の企図する事が意のごとくならない事や、予想もしない方向に運命が転ずる事があろう。
また人間は常に何物かに支配されいる感や、どうにもならぬ運命の経路を辿(たど)る事があるであろう。
そうして霊層界にある幽魂はそれ自体の階級によって、使命も運命も差別がある。
すなわち上位の階級にある幽魂ほど神命も大きく高級でしかも幸運であり、下位に降る程漸次右と反対で薄幸となり、最下段は最も不幸者となるのである。
何となれば上位は天国に相応し、病なく争いなく物資饒(ゆたか)に歓喜の世界であるに反し、下位に降る程それと反対に、病気、争闘、貧窮に充ちたる苦悩の世界であるからである。
この意味において人間が真の幸福者たらんとするには、まず霊層界における幽魂をして向上せしめなくてはならない。
しからばその方法如何というに、それは霊体を浄める一事である。
本来霊体は曇りの多少によって上昇し下降する。
すなわち浄魂は軽きをもって上昇し、曇魂は重きをもって下降する。
故に浄魂者たらんとするには、善行を重ね、善徳を積まねばならない。
それは相当の時間と犠牲を払わねばならないが、ここに一挙にして霊層界の数十段階を飛躍し得る方法がある。
すなわち本医術の教修を受ける事である。
本医術受教者が異口同音に言う事は、精神的にはまず人生観が一変する。
智慧証覚が豊かになって、事物の真相をよく把握し得られる。
前途に光明を認め、不安は解消する。
楽観的になり、初めて真の安心感を得た。
また物質的には不思議に財物が集まり、不自由がなくなる。
不幸が減り幸福の面が多くなり、実に不思議である。
全く救われた。有難いという感謝の声は日々無数に私の耳や目に入るのである。」 (「天国の福音」より)
明主様御教え 「霊層界」 (昭和24年8月25日発行)
「霊界の構成はさきに述べたごとく、天国、中有、地獄の三段階が三分されて九段階となっており、
一段はまた二十に分かれ、一段階二三ンが六十段となり、三六(さぶろく)十八すなわち総計百八十段となる。
私は名づけて霊層界という。
その上宇宙の主宰者たる主神が坐(ましま)すのである。
主神の主の字は一二三本の横線を縦の棒一本を通し、上にヽが載っている事はおもしろいと思う。
そうして人間と霊の関係を詳しく説明してみるが、
人間の肉体そのままの形体である精霊があり、その中心に心があり、心の中心に魂があるという具合に、大中小の三段否三重となっているが、
その魂こそ神から与えられたるもので、これが良心そのものである。
この魂の故郷すなわち本籍地ともいうべき根源が、右の百八十段階のいずれかに属しており、これを名付けて私は幽魂という。
この幽魂と人間の現魂とは霊線によって繋がれており、絶えず人間の思想行動は幽魂に伝達され、それが神に通じており、
また神よりの命令は幽魂を経、霊線を通じて人間に伝達さるるのである。
この例として人間が種々の企図計画をなし、目的を達成せんと努力するも事志と違い、思わぬ方向に赴いたり、意外な運命に突当ったりする場合つくづく顧みる時、
何等か自分に対し見えざる支配者があって、自分を操っているように想われる事を大抵の人は経験するであろう。
すなわちこの支配者なるものが右の幽魂から伝達さるる神の意志である。
故に神意に反する場合何程努力するといえども、努力すればする程逆効果になるものであるから、
人間は常に自己の考えが神意に合致するや否やを深く省察しなければならない。
しかしながらこの場合私欲邪念があるとすれば、それは神意の伝達を妨害する事になるから、一時は良いように見えても、ついには必ず失敗するものである。
この理によってなんらかの計画を立てる場合、よくよく自己を省み、その目的が善であるか、社会人類に役立つべきものなるや否やを深く検討しなければならない。
ここでおもしろい事は、邪念のため神意に添わずために失敗苦境に陥る場合、
その苦難によって、邪念の原因である罪滅が滅減する事になるから、そのため魂が磨かれる結果となり、
今度は神意と合致するようになり、成功する事になる。
世間よく一度失敗しその後成功する例がよくある事や、特に失敗の度数の多い程大成功者となる例があるが、右の理によるのである。
以上のごとくであるから霊層界のより上段に霊魂の籍をおく事が幸運者たり得る唯一の方法である。
元来霊魂の位置は一定してはいないもので常に昇降している。
なぜかというと軽い程上方に昇り、重い程下向するのであって、この軽重の原因はいかなる訳かというと、
人間の行為の善悪によるもので、
善事を行ない徳行を重ねれば罪穢が減少するから軽くなり、
悪事を行ない罪を重ねれば罪穢が増すから重くなるという訳で、
昔から罪の重荷とはよく言ったものである。
故に善悪の心言行そのままが霊線によって神へ直通するのであるから、
この理を知ったならどうしても善徳者にならざるを得ないのである。
前述のごとく人間は神の命によって、運命は疎か生死までも決定するのであるから、人間の生命の命の字は命令の命の字である。
故に死とは神よりの命令解除である。
それは世の中に害毒を与えたり生存の価値なきためであるから、
人間は命令を解除されぬよう神に愛され社会有用なる人間にならなければ、
長寿と幸福は得られる筈がないのである。
霊層界の上位へ行く程病貧争のごとき苦はなく、溌剌たる健康と、饒(ゆた)かであり善美である衣食住を与えられ、歓喜の生活を営まれるから、
そこにいる幽魂の幸福は、霊線によって現界の人間に直通し幸福になるのである。
その反対に霊層界の下位にある幽魂は、霊通によってその人間に反映し、常に地獄的生活に喘ぎつつ一生不幸におわるのである。
世間よく家相方位などに関心を持つ者があるが、
霊層界の上位に在る者は、移転や建築等をなす場合、自然 良方位、良家相に移住する事になり、
反対に霊層界の下位にある者はいかに努力するといえども、
悪方位悪家相に移住する事になるのである。
また結婚の場合、良縁も悪縁も右と同様の理によるのであって、
これは霊体一致の原則による以上、この絶対力はいかなる人間といえども抗する事は不可能である。
ここで宿命と運命について一言するが、
宿命とは生れながらに決定せるもので、それは霊層界の上中下三段のどれかの一段の圏内に限定され、それ以外に出づる事は不可能であるが、
運命は右の宿命圏内の最上位に行くも最下位に行くも努力次第であるから、
宿命の不変であるに対し、運命はある程度の自由を得られるのである。
したがって人間は常に善徳を積み、罪穢を軽減し霊層界のより上位に吾が幽魂を住せしむべきで、
それによる以外幸福者たり得る道は決してない事を知るべきである。」
明主様御教え 「霊と体」 (昭和28年9月10日発行)
「以上のごとく、一切万有は霊主体従が原則であるとしたら、本著にある幾多の奇蹟もこの理が分れば敢えて不思議はないのである。
例えば危機に際し間髪を容れず難を免れたり、高所から墜ちても疵(きず)一つ受けず助かったり、
博士や大病院から見放された重難症患者でも、何なく治るという事実である。
しかしながらこれを充分徹底するには、どうしても宗教的解説が必要であるから、読者はそのつもりで読まれたいのである。
それについてまず知っておかねばならない事は、霊界と現界との関係である。
というのは人間という者は肉体の着衣と同様、霊も霊衣(アウル)を着ており、
霊衣とは一種のエーテルであって、
これは霊から放射される光で朦朧(もうろう)体ではあるが、肉眼で見る人もある。
そうして霊衣なるものは天気と同様、常に晴れたり曇ったりしている。
すなわち善を思い善を行えば晴れ悪を思い悪を行えば曇るのである。
ゆえに正しい神を信ずれば光を受けて曇りはそれだけ消されるが、邪神を拝めば反って曇りが増すのである。
ところが普通人は霊的智識がないため 神とさえいえばことごとく正神と思うが、
これが大変な誤りで、実は邪神の方が多いのである。
その証拠には先祖代々熱烈な信仰を続けているにかかわらず、不幸の絶えないという家をよく見かけるが、これは拝む本尊が邪神かまたは弱神であるからである。
ゆえに正神に帰依し、人を救い善徳を積めば積む程、光は増すから霊衣も厚くなる。
この厚さは普通人は一寸くらいだが、善徳者になると五寸から一尺くらいに及び、神格を得た高徳者になると数十尺から数哩に及ぶ者さえある。
大宗教家などは数国もしくは数民族にも及ぶもので、釈迦、キリストのごときはこの種の人である。
ところが救世主となると人類全体を光に包むという実に驚くべき威力であるが、
しかし今日まで救世主はいまだ世界に現われた事のないのは歴史が示している。
以上によっても分るごとく、霊衣はその人の心掛次第で厚くもなり薄くもなるので、人間はこの事を信じて大いに善徳を積むべきである。
例えば汽車自動車などが衝突しても、霊衣が厚ければ車の霊は霊衣につかえて当らないから助かるが、
霊衣が薄かったり無である場合、死んだり重傷者となるのであるから、本教信者が災害を免れるのもこの理によるのである。
次に運不運も同様であって、この理もザッとかいてみるが、
人間の体は現界に属し、霊は霊界に属しており、これが現界、霊界の組織である。
そうして霊界は大別して上中下三段階になっており、一段階が六十段で、それがまた二十段ずつに分れ、総計百八十段になっている。
もちろん下段は地獄界、中段は中有界といい、現界と同程度の世界であり、上段が天国になっている。
そうして一般人のほとんどは中段に位し、その人の善悪によって上にも昇れば下にも降る。
すなわち善を行えば天国に上り、悪を行えば地獄に堕ちるのである。
しかも現界と異って霊界は至公至平にして、いささかの依怙(えこ)もないから悪人には都合が悪いが、
この事が信じられる人にして、真の幸福者たり得るのである。
もちろん地獄界は嫉妬、怨恨(えんこん)、嫉み、憎み、貧窮等仏教でいう貪瞋痴(どんしんち。仏語。むさぼりと怒りと無知。貪欲と瞋恚(しんい)と愚痴。三毒)が渦巻いており、下段に降る程濃厚となり、
最下段は根底の国、または暗黒無明、極寒地獄、煉獄ともいわれている。
といっても死後ばかりではなく、体は現界にある以上、霊そのままが移写されるから、
七転八倒の苦しみの末、一家心中まで企てる者のあるのは、常に新聞に出ている通りで、
人間の運不運は、霊界の地位いかんによるのである。
もちろんその因は善悪の因果律による以上、悪人程愚かな者はない訳である。
事実 悪で出世をしても一時的で、いつかは必ず転落するのは前記のごとく霊界における籍が地獄にあるからである。
それに引替え現在いかに不運であっても、その人の善行次第で、霊界の地位が向上する結果、いつかは幸運者となるのは、厳として冒すべからざる神律である。
従ってこの理を諭えるのが宗教本来の使命であるにかかわらず、今日まではなはだ徹底しなかったのは経典と説教を主とし、肝腎な実力すなわち奇蹟が伴わなかったからである。
ところがいよいよ時節到来、主神は今や絶対力を発揮され給い、本教を機関として驚くべき奇蹟を現わし、人類の迷妄を覚ますのであるから、いかなる人といえども信ぜざるを得ないであろう。」