霊衣について


明主様御教え 「霊光の説明」 (昭和10年御執筆)

「そもそも、霊光とは何ぞやと言うに、読んで字のごとく、霊の光であり、光の霊である。

この霊光と名付くべきものは、あらゆるものが、大なり小なり放射しつつあるのであって、

動物にも、草木にも、幾分の霊光はあるのであるが、ここでは人間について、説明するのである。

この人間の肉体から発する霊光は、普通の人間に在っては、一名 霊衣とも言われ、英語ではアウルと言い、

健康体の者、又は心の清い者程光が強く、霊衣は厚いものである。

極上等の人で一尺位、少い人で一寸位、普通二三寸位が一番多いのである。


大体白色であるが、その人の霊統によって二種に分けられる。

それは日の霊統と月の霊統であって、日の霊統は、金色を帯び、

月の霊統は銀色を帯びているものである。

しかるに、特別の人間、たとえて言えば釈迦とか基督(キリスト)とか、空海とか日蓮とか言う人になると、普通の人の何層倍の厚さも、光もあるのである。

けれども、世界大に大きいものは、未だ一人も出なかったので、

分り易く言えば、釈迦は東洋の半分大、イエスは欧羅巴(ヨーロッパ)大、空海、日蓮等は、日本の何分の一大位なものであって、

その宗教の拡がった限度が、その大きさを説明していると言ってもいいのである。


所が今度は、未だ例のない大きさが出るのであって、今は必要だけの大きさと強さであるが、最後には、世界大に余の霊衣が拡がるのである。

その時こそ、病貧争のない、大光明世界なのである。

しかし、大きさは今は未だ小さいのであるが、光の強さにおいては、現在でも釈迦や基督等も、到底及ばないのである。

その光が病気を治す力なので、その光がこれから沢山養成さるる医療士の肉体を通して、あらゆる病気を治す事になるのである。

それで、余のこの光は、太陽の光と月の光と、両方混ぜたようなものであるから、

熱のある人に向っては、月の働きによって冷し、反対に、冷えた人に向っては、日の働きで温めるのである。

そしてこの光が、病気を解消するに、いかに力あるかは、別の項目で、詳しく、述べる事にする。」




明主様御教え 「霊波と霊衣」 (昭和18年10月23日発行)

「私はさきに、治病光線として霊波の文字を用いたが、これは近時ラジオ等で用いる音波の文字からとったのである。

人間は誰しも霊衣即ち西洋でアウラという一種の光波を保有しているのである。

これは、読んで字のごとく、霊体の外殻に放射している白色の一種の光線であって、

ちょうど霊衣をまとうているようなものである。

人により厚薄があって普通人は一寸位の厚さである。

病人は薄く、病気が重症となるに従い漸次薄くなり、死の直前には全然無くなるのである。

世間よく影が薄いなどというのは、この霊衣の簿い為の感じである。

又、右と反対に健康なる者、善徳を積める者ほど厚く、英雄、偉人、聖者などは特に厚く三四尺位あるものである。

又何世紀に一人というような大偉人に至っては、霊衣は相当大きなものであろう。

そうして一般人にあっては、その時の精神状態及び行為によって差別が生ずるのは勿論である。

その訳は、善を想い善事を行う時は厚くなり、その反対である悪を想い悪事を行う時は薄くなるものである。


霊衣とは大体右のごとくであるが、まれには、これを視るを得る人もあり、又普通人であっても心を潜めて凝視する時、一種の光波の存在を感知し得るものである。

そうして霊衣の厚薄は人間の運命に大関係がある事を知らねばならない。

それは霊衣の厚薄によって幸不幸の運命がわかれるからである。

即ち厚い程永遠の幸福を得るに反し、薄い程常に不幸であるのである。

しかしながら薄い人といえども、たまたま幸運に見舞われる事があるが、それらは永続性がないから、間もなく本来の不幸者となるのである。

又 霊衣が厚く一時幸運であっても、その幸運を利己的の具となし又は社会に害毒を流し、人を殃わざわいするような行為があるとすれば霊衣は薄くなり、再び元の木阿弥となるので、かような例は世間少くはないのである。


右のごとく、霊衣の厚薄によって、幸不幸があるという事は、いかなる理由であるかを説いてみよう。

まず、何故に霊衣の厚薄があるかという事から解説してみるが、

人間はいかなる者といえども社会の一員とし、社会生活を営んでいる以上、断えず何事かを想い、又何事かを行いつゝあるのは今更いうまでもないが、

それらの想念行為を、今善悪の計量器で量るとすれば、人により善悪いずれかが多いか少ないかは当然である。

即ち霊衣の厚薄は善悪の量によって、そのまゝ表われるものである。

しからば、それはどういう意味かというと、内的と外的との二方面があって、

内的は自己が善事を行う時善を行ったという満足感と、自己賞讃の想念は光を発生するので、霊体に光が増すのである。

その反対に悪を思い悪を行う時は気がとがめる。即ち自己叱責の想念によって、霊体に曇が増量するのである。

又 外的は、他人に対し善事を行った時、その人の感謝の想念は光となって霊線を伝わり、こちらへ放射して来るのでこちらの霊体に光が加入し、増量するのである。

その反対に怨み、憎み、嫉み等の想念は曇となって来るから曇が増量するのである。

この理によって人間は善徳を行い、多くの人から感謝を受くべきであり、決して人を苦しめ、憎悪の念を抱かしむべき事は避けなければならないのである。

以上の理によって、さきに説いたごとく左進右退即ち善主悪従は、善の量が多くなる事であり、

右進左退即ち悪主善従は悪の量が多くなるという訳である。


この意味によって大戦争が発生し、大破壊が行われるという事は、悪の量が霊界に曇となって堆積された為、自然浄化作用が行われるその為である。

世間よく急激に出世をした成功者や成金輩が、いつしか失敗したり没落したりするのはいかなる訳かというと、

自己の手腕や力量によってそうなったものと思い、増長慢心し、利己的独善的の行為が多くなり、

国家社会の恩恵を忘れ、感謝報恩の念が乏しくなるので光よりも曇が多くなり、いつしか霊衣が薄らぎ没落するのである。

又何代も続いた名家や富豪などが没落するのは、元来、社会的上位にある者は、それだけ国家社会から尊敬され優遇されている以上、

それに酬(むく)ゆべき善徳を施さなければならないのである。

しかるに、己の利害のみ考え、利他的行為が乏しいので、曇の方が増量するから、

ついには形体は立派であっても、霊体は下賎者同様になっているから、霊主体従の法則により、遂に没落するという訳である。


又、霊衣の薄い程不幸や災害を受け易いものである。

それはどういう訳かというと、一例を挙げていえば、自己が従事している仕事が成績が悪く、又失敗し易いのである。

それは曇の多い場合、頭脳の活動が鈍く、判断力や決断力が正鵠(せいこく)を欠くからである。

しかしこれに注意すべきは、曇が多量であっても悪智慧で成功する場合があるが、それらは一時的であって決して永続性はないのである。

又、曇の多い程、浄化作用が発生し易いから大病に罹り易いのであり、又災害を受け易いのである。

たとえていえば交通事故のごときは霊衣の簿い人ほど災害をこうむり、厚い人は難を免れるのである。

それは電車、自動車等が衝突する場合、電車自動車の霊は、霊衣の薄い人には当るが、霊衣の厚い人には当らないからである。

よくそういう場合は、撥ね飛ばされて疵一つ受けない事があるが、それは急激に霊衣に当る場合、霊衣の弾力によってそうなるのである。

右のごとくであるから、人間は善徳を積み、霊衣を厚くする事が、幸運者になり得る唯一の方法である。

故に、自分は生れながらに不運であるなどと諦める必要はないのである。

そうして本治療を施術の場合、施術者の霊衣の厚い者ほど治療成績が良いのである。

又、多くの患者を扱えば扱うだけ治療効果が顕著になる事である。

故に、本治療士は一人でも多く患者を扱うべきで、それはどういう訳かというと、本治療は卓越せる効果があるから治癒した多くの患者が感謝する。

その感謝の想念が光となって、治療士の霊体に入り、霊衣は益々厚くなるので、霊波の放射が強力になるからである。

故に、本医術の根本は、術者の霊衣を厚くする事である。

それは短期間の講習によってある程度霊衣が厚くなり、施術の体験を多く積むに従って増々厚くなるのである。」 (「明日の医術 第三編」より)




明主様御教え 「霊と体」 (昭和28年9月10日発行)

「以上のごとく、一切万有は霊主体従が原則であるとしたら、本著にある幾多の奇蹟もこの理が分ればあえて不思議はないのである。

例えば危機に際し間髪を容れず難を免れたり、高所から墜ちても疵(きず)一つ受けず助かったり、

博士や大病院から見放された重難症患者でも、何なく治るという事実である。

しかしながらこれを充分徹底するには、どうしても宗教的解説が必要であるから、読者はそのつもりで読まれたいのである。


それについてまず知っておかねばならない事は、霊界と現界との関係である。

というのは人間という者は肉体の着衣と同様、霊も霊衣(アウル)を着ており、霊衣とは一種のエーテルであって、

これは霊から放射される光で朦朧(もうろう)体ではあるが、肉眼で見る人もある。

そうして霊衣なるものは天気と同様、常に晴れたり曇ったりしている。

すなわち善を思い善を行えば晴れ悪を思い悪を行えば曇るのである。

ゆえに正しい神を信ずれば光を受けて曇りはそれだけ消されるが、邪神を拝めば反って曇りが増すのである。


ところが普通人は霊的智識がないため神とさえいえばことごとく正神と思うが、

これが大変な誤りで、実は邪神の方が多いのである。

その証拠には先祖代々熱烈な信仰を続けているにかかわらず、不幸の絶えないという家をよく見かけるが、

これは拝む本尊が邪神かまたは弱神であるからである。

ゆえに正神に帰依し、人を救い善徳を積めば積む程、光は増すから霊衣も厚くなる。

この厚さは普通人は一寸くらいだが、善徳者になると五寸から一尺くらいに及び、神格を得た高徳者になると数十尺から数哩に及ぶ者さえある。

大宗教家などは数国もしくは数民族にも及ぶもので、釈迦、キリストのごときはこの種の人である。

ところが救世主となると人類全体を光に包むという実に驚くべき威力であるが、

しかし今日まで救世主はいまだ世界に現われた事のないのは歴史が示している。

以上によっても分るごとく、霊衣はその人の心掛次第で厚くもなり薄くもなるので、

人間はこの事を信じて大いに善徳を積むべきである。

例えば汽車自動車などが衝突しても、霊衣が厚ければ車の霊は霊衣につかえて当らないから助かるが、

霊衣が薄かったり無である場合、死んだり重傷者となるのであるから、本教信者が災害を免れるのもこの理によるのである。


次に運不運も同様であって、この理もザッとかいてみるが、

人間の体は現界に属し、霊は霊界に属しており、これが現界、霊界の組織である。

そうして霊界は大別して上中下三段階になっており、

一段階が六十段で、それがまた二十段ずつに分れ、総計百八十段になっている。

もちろん下段は地獄界、中段は中有界といい、現界と同程度の世界であり、上段が天国になっている。

そうして一般人のほとんどは中段に位し、その人の善悪によって上にも昇れば下にも降る。

すなわち善を行えば天国に上り、悪を行えば地獄に堕ちるのである。

しかも現界と異って霊界は至公至平にして、いささかの依怙(えこ)もないから

悪人には都合が悪いが、この事が信じられる人にして、真の幸福者たり得るのである。

もちろん地獄界は嫉妬、怨恨、嫉み、憎み、貧窮等仏教でいう貪瞋痴(とんじんち。むさぼりと怒りと無知)が渦巻いており、

下段に降る程濃厚となり、最下段は根底の国、または暗黒無明、極寒地獄、煉獄ともいわれている。

といっても死後ばかりではなく、体は現界にある以上、霊そのままが移写されるから、

七転八倒の苦しみの末、一家心中まで企てる者のあるのは、常に新聞に出ている通りで、

人間の運不運は、霊界の地位いかんによるのである。

もちろんその因は善悪の因果律による以上、悪人程愚かな者はない訳である。

事実悪で出世をしても一時的で、いつかは必ず転落するのは前記のごとく霊界における籍が地獄にあるからである。

それに引替え現在いかに不運であっても、その人の善行次第で、霊界の地位が向上する結果、

いつかは幸運者となるのは、厳として冒すべからざる神律である。

従ってこの理を諭(おし)えるのが宗教本来の使命であるにかかわらず、

今日まではなはだ徹底しなかったのは経典と説教を主とし、肝腎な実力すなわち奇蹟が伴わなかったからである。

ところがいよいよ時節到来、主神は今や絶対力を発揮され給い、本教を機関として驚くべき奇蹟を現わし、人類の迷妄を覚ますのであるから、

いかなる人といえども信ぜざるを得ないであろう。」




明主様御垂示 「身魂の高低と霊衣」 (昭和25年5月7日)

信者の質問
「身魂の高低と人格の差とは一致しているものでしょうか。

また、身魂の高い人程多くの人を導く事が出来るものでしょうか。御伺い致します。」


明主様御垂示
「人格の高いのは身魂も高い。一致している。多くの人を導く・・・無論そうである。

求心的に人を引きつける働きが出る。

大きさとは霊衣の光によるので、光が強いと霊衣が大きくなる。

それでその人の霊衣の範囲へ入ると気持が好いから、接近したくなる。

気持よくさすのが一番肝腎である。

それには身魂が高くなる事である。

曇りが減って光が増す。そうすると誠が強くなる。すると人が寄るし、信者も出来る。

大乗的考えもなくてはならぬ。世界大に大きくするのである。」




明主様御垂示 「抱擁力を得る道」 (昭和23年10月14日)

「抱擁力とは・・・霊衣の大きいとか霊衣に包まれるという事。

霊衣の大きいという事は霊の光が強い。

これは生れながらと努力によって強くなったのとある。

努力とは徳を積む事で、善い事を沢山する事である。

それにより神格化する。

それである程度まで大きくなる。

生れながらの人は・・・特に使命によって生れた人は神が人間に生れた人で、教団の幹部の人は皆神様の生れ代ったものである。

抱擁力を得ようと思えばよい。」




体験談 「言霊から御光が出る」 (昭和26年7月11日発行)

兵庫県 宝生中教会 KY(32)

「去る五月二十五日、従来私が布教させて頂いている兵庫県下淡路島○○町DS様方において、

大光明如来御神体御奉斎を機会に、M先生を御迎えして昼夜二回にわたり講話会を開催さして頂いた折の事であります。

夕刻 信者のNHさんが、一子T(九歳)ちゃんを連れて参られ、森山先生の御浄霊を依頼されました、

以前から心臓が悪く、幾分霊的な点のある御子様であります、最近お光が肉眼をもって見えるという御話がチョイチョイありますが、

この御子様もそれが見えるのであります、御浄霊される御手からばかりでなく、御神体からも金色の光が放射されていると申します、

先生が、どの御文字から一番出ますかと聞かれますと、「明」という御文字と「来」という御文字が、一番お光が強いと申します。
 

やがて先生が天津祝詞を奏上されると、その口許を不思議相に眺めていたその子は、

「おじさんの口からも金色の光が出る」と申すでは有りませんか、並いる一同唖然としていると

先生が「では今度はどんな色ですか」と「馬鹿! 阿呆!」と怒鳴られました、すると、「ああ、薄黒い色になって仕舞った」

そして先生の話される言葉の内容、調子によって、絶えず言葉の色はあるいは黄や白や種々の色に変化して行くのだそうです。


私共は、常に言霊という事を伺っております、そして人の発する言霊のいかんによっては、霊界や、いう人聞く人の魂を曇らせたり、浄めたりするのだから、

すべからく美しき言葉、人を賞め讃えたりすべきで、悪口雑言、愚痴、泣き言を慎むべきだとの御注意を頂いておりましたが、

今目前にこの奇蹟を見せられて、今更に一同感じ入った事でした。


更に先生が、あるいはこの子供は霊衣が見えるかも知れぬといわれたので、その部屋の電灯を消し、

次の部屋の光で照らされながら、各人の姿の上に、何か見えないかと尋ねました、

すると凝視していたその子は、各人の輪廓の上に厚いのは一尺近くから数寸、更に一寸位迄に白い色の影が見えると申します、

勿論熱心な信者の方で、その熱心な信仰の度合に順じ、更に熱海参詣勤労奉仕した方から、順次中教会本部、教会への参詣の度数に応じて厚薄が歴然とあり、

不熱心な方、更に未入者の方は、ほとんどあるかなきかで、その判然さに一同感激また一入のものがありました、

霊衣とは魂の光で、敬虔なる者、善を考え、善を為し、健康なる者程厚く、

その反対の者程薄く、霊衣が厚ければこそ、種々の危難危急を免れる実例の御話等で、その夜の講話会は一入感銘深きものとなりました。


こうした光の色、光の波は、到底肉眼をもってしては見得べからざる超微粒子であって見えないのが普通であるべきです、

しかし何らかの神様の御必要で、あるいは我々の信仰を高め、神の実在を認識させんが為には、神様はこの無心な、邪気のない素直な幼児をして、この奇蹟を現わされたのでありましょう、

見ゆるもよし、見えざるも可、要は私共の神様への信仰とその実在の認識が素直になり切れるか否かが、私達の救われるか否かでありましょう、

この奇蹟は当日参会された数十人の入信、未入信の方々への神様の御啓示でありましたでしょうが、

又信仰薄き布教者としての私への神様の御警告であり、御激励であったと私は信じ、謹み畏んで更なる精進を誓うものであります。」




参考 明主様御垂示 「霊のエーテルの濃度」 (昭和24年4月23日発行)

信者の質問
「霊媒は霊のエーテルの濃度が濃いとのお言葉でございますが、霊のエーテルの濃度とはなんのことでしょうか。」


明主様御垂示
「この濃度ってのはつまり霊力の濃い薄いを言うんです。

執着やなにかの濃いのは曇りだけど、これと違って霊の濃い薄いが非常にあるんですよ。

人間でも印象の強い、迫力のある人は霊が濃いし、いてもいなくても判らぬような、迫力のない人は霊が薄いんです。

しかし、どっちがいい悪いってことは言えませんがね。

この特に霊の濃い人から霊がそれをもらうんですね。

すると霊に力がついて活動できるようになる。

これが霊媒の役目ですね。

西洋のことですが、一尺平方くらいの窓があってね、仮に私なら私が「私の祖先に会いたい」と言うとね、その祖先が窓から顔を出すんですが、それがだれにも見えるんです。

この霊媒なんかは非常に霊力が強いんですね。

(ここで、ロンドンタイムズ社長、ノースクリフ卿のお話、「御光話録」2号参照)

このノースクリフ卿なんてのもそれだけのことをやるんだから霊力が強いんですね。」