魂・心・霊について
明主様御教え 「病気の本体は魂なり」 (昭和10年御執筆)
「そもそも、この現象界におけるあらゆる物質は、ことごとくが霊と体から成立っているのであって、
物質が腐敗したり、腐朽したりするのは、霊が脱け切ってしまうからなのである。
石でさえが、死石と言ってポロポロ欠けるのがあるが、あれらが、霊が脱けた為なのである。
金(かね)が錆びるというのは、矢張り、霊が脱けて、その表面が屍になったからなので、錆は、金の死骸とも言えるのである。
しかし、よく磨いた刀や昔の鏡が、錆が少ないのは、その工作者の霊が加わっている為である。
しかして、物質の霊は単に霊であるが、動物の霊は精霊と名付けられている。
生きた人間は、精霊と肉体と、密着不離になっているのであって、
精霊が脱出して、現界から霊界へ行く事を、往生又は死というのである。
しかし、人間は、精霊ばかりかというとそうではない。
精霊ばかりなら、物質と違わないのであるが、すべて動物は、精霊の外に、否、精霊の中に心があり、魂があるのである。
即ち、精霊の中心に心があり、心の中心に魂があるので、その大きさは、心は精霊の百分の一で、魂は心の百分の一の大きさが本当である。
であるから、最初、魂が動いて心が動き、心が動いて精霊が動き、精霊が動いて肉体が動くのであるから、
人体の運動は固より、あらゆる肉体現象の本源は、魂その物から出発するのである。
これを善悪に分ければ、肉体が悪であって心が善であり、心が悪であって魂が善であるのである。
この善悪、善悪、善悪の軋轢が調和となり、それが、活能力となって現われるのである。
故に、病気その物の発生は、肉体を動かす精霊の千分の一の容積たる、魂のその一部に発生するのである。
この魂なるものは、小さくとも伸縮自在であって、
人間が起きて働いている時は、人間の形をしており、寝る時は丸くなっておるもので、
死の刹那、人魂が丸くなって飛んでゆくのは、
死と同時に、魂が丸くなり、心が丸くなり、精霊が丸くなるからなのである。
その丸いのに光が伴うから、人魂となって、たまたま人間の眼に見える事になるのである。
人間の形をした魂の一部に、病気が発生するという事は、実は、魂の一部が曇るのである。
即ち、その部分の光が薄らぐのである。
それが心に写り、精霊に映り、ついに、肉体に、病気となって現われるのである。
であるから、魂にさえ曇りが出来なかったら、絶対に病気には罹らないものである。
しからば、何故に、魂に曇りが生ずるやというに、それが罪穢なのである。
この罪穢を説明するには、宗教の分野に入る事になるから、ここでは、これだけに止めておいて、肉体に現われた病患の説明に移る事にする。
前述のごとく、精霊が精霊の一部、例えば肺臓の部分に、曇りを生ずるとする。
すると、その部分の血液が濁るのである。濁りが進めば化膿する事になる。
この濁った血が、喀血又は血痰となり、化膿した膿汁が痰となるのである。
臭気を持った痰は、この膿汁が古くなったのである。
肺病に限らず、あらゆる病気は、右とほとんど同一の理に依って、発生するのであるから、
治病の原理としては、この精霊の曇りを払拭するのである。
しかるに、この理を知らざる現代医学は、肉体に現われたる病気現象のみを治療せんとし、研究努力するのは、末のみを知って、本を知らざるが故である。
たとえ、一時的小康を得るとも、根本的治癒は到底出来得べくもないのである。
故に、我指圧療法は、観音の光に依って、この精霊の曇を解消するのであり、
その曇が解消すると同時に膿汁が溶解し、病気が軽減又は消失するのであるから、
この精霊の浄化が肉体へ映って病気は治癒するのである。
しかしながら、未だこれのみにては根本的とは言い難いのである。
無論医術よりも根本的ではあるが、絶対とは言えないのである。
何となれば、魂が、全く浄化されなければ、真の安心は出来ない訳である。
魂の浄化とは、その人が正しい信仰を把握し、その行を実践するのでなくては徹底しないのであって、その行が観音行であるのであるから、
そこまで行けば罪穢の発生は全然無くなり、反対に徳を積む人となるにより、
無病息災所か、歓喜法悦に満ちた生活が出来、福徳長寿の幸を得て、一家 いや栄える事になるのである。
ついでだから、魂について、今一つの事を説いてみる。
それは、よく物に驚き易い人や、いつも不安状態で、何となく、そわそわしている人とがある。
これらは、その魂が弱っているので、外界の衝動に対する抵抗力が、薄いからである。
現今非常に多い、神経衰弱というのはこういう人である。
この原因は、矢張り魂に曇があるから弱るので、こういう人は多く首筋に毒血の凝血が必ずあるので、これを溶解すれば治るのである。
これが激しくなれば不眠症を起すのであって全快後も、再発のうれいを無くするには
観音信仰に入り魂が光に照され曇の生じない様にするのが、最良の方法である。」 (「日本医術講義録 第1篇」より)
明主様御教え 「罪穢と病気」 (昭和18年10月23日発行)
「この問題を説くに当って断わっておきたい事は、ある程度宗教的に思われ易いのであるが、私の説く所は宗教的ではなくむしろ道徳的と思うのである。
しかし、罪穢という言葉そのものは宗教家がよく用いるが、それは仮説でもなく作為的でもない、全くの事実である事は、以下私の所説を読めば肯かるるであろう。
前項に述べたごとく、人は悪を想い、悪の行為を重ぬるに従って、それだけ霊体に曇が増量し、漸次その濃度を増すのである。
しかるに、右の濃度がある程度に達すると、自然的解消作用が起るのである。
勿論、厳とした霊界の法則であるから止むを得ないので、いかなる人といえども免るる事は出来得ないのである。
そうして右の浄化作用の多くは病気となって現われるものであるが、時としては、その他の形となって現われる事もある。
しかるに病気の場合いかに医療をつくすといえどもいささかの効果もないのは、それは霊的原因に対するに器械や薬などの物質で解決しようとするからで、全然見当違いであるからである。
又この場合神仏に祈願を籠(こ)める人もあるが、それは多少の効果はあるものである。
勿論神仏の本体は霊であるからその霊の恵みによって幾分の曇は軽減するが長年積み累(かさ)ねた罪穢であるから神仏といえども否正しい神仏であればある程公正であるから、軽苦では済まされないのである。
これをたとえていえば国家の法規に触れた者は、いかに悔悟歎願するといえども全然赦さるるという事はあり得ない。
ただ改悛の情顕著なる者が罪一等を減じ得らるる位である事と同様である。
しかしながら、自然浄化作用が発生するより以前に浄化作用が起る場合がある。
その際は比較的曇が濃度に到らない為浄化作用が軽く済むのである。
これはいかなる訳かというとある動機によって悔改めるという場合である。
右の動機とは、宗教的説話や聖書のごときもの、又は先輩や名士の経験談や言説、偉人の伝記等によって精神的に覚醒する事である。
この意味において人間の魂即ち良心を喚び覚すべきものとして、良き書籍及び講演、良き映画や演劇等の必要なる事は言を須(ま)たないのである。
右のごとく、人間が覚醒する場合、霊体にいかなる作用が起るかを説いてみよう。
本来、人間の霊体はその中心に心があり、心の中心に魂があって、三段になっているのである。
そうして魂本来は良心そのものであるが、断えず外界からの影響によって曇らされるのである。
即ち、魂本来は日月玉のごとき光明であるが、その外殻である心が曇れば、魂の光輝は遮断され、魂は眠るのである。
故に、明鏡止水のごとき心境にあれば、魂は晴天の日月のごとく輝くのである。
右のごとく人間が覚醒するという事は、睡眠状態であった魂が、豁然(かつぜん)として輝き出す事である。
その手段として今日までは、右に説いたごとく、説話や読書等の道徳的手段があるのみで、
それによってまず魂が覚醒し輝き出すから心の曇が解消し、次で霊体が浄化さるるという順序である。
右によってみるも、魂・心・霊の三者は、常に明暗の状態が平均しているのである。
しかるに、私は腎臓医術の項目において、百万語のお説教よりも、腎臓を健全にする方が効果があると言ったが、
それはいかなる訳かというと、前述のごとき道徳的手段を要しない事であるばかりか、
道徳的手段においては、百パーセントの効果は期し難いが、本療法によれば百パーセントの効果があるのである。
それは前述のごとき道徳的手段においては、まず魂を覚醒させ、次に心及び霊体が浄化さるるのであるが、
本療法においてはこの反対であって、外部からの施術によってまず霊体が浄化され、それによって心の曇が解消し、否が応でも魂は覚醒する事になるのである。
又、道徳的手段によって魂や心が覚醒する場合、本人自身は克己的苦痛が伴うと共に、それが霊体に及ぼし、病気その他の苦しみを受けなければならないが、
本療法は、疾患が治癒しながら知らず識らずの裡(うち)に魂が覚醒するのであるから、理想的心身改造法というべきである。
右のごとく、霊的浄化を発生さすその根源としての機能が腎臓であるから、腎臓の活動を促進さす事こそ、心身改造の根本である訳で
彼の神道における祓戸四柱(はらいどよはしら)の神の活動が、人体においては腎臓に相応すると想うのである。
さきに説いたごとく心臓は日であり、肺臓は月であり、胃は土であり、天地間の汚濁を清める神が祓戸の神であるとすれば、
腎臓は左右及び副腎と合せて四つあり、祓戸の神も四柱あるにみて、意味がないとはいえないであろう。」 (「明日の医術 第3編」より)
明主様御教え 「霊主体従」 (昭和27年執筆)
「前項に説いたごとき、無機質界と人間の病気との関係であるが、
無機質界とは吾々の唱える霊界であって、この霊界と人間との関係はどういう事になっているかというと、
そもそも人間とは体と霊との二原素の密接合致によって成立っているものであって、
もちろん体とは眼に見ゆる物質で誰にも判るが、霊とは眼に映らないものである以上、長い間分らなかったのである。
ところが確実に存在している一種のエーテルのごときものである。
としたら方法によっては、把握出来ないはずはないのである。
というのは人間の肉体が空気中にあると同様の意味で、人間の霊といえども霊界にあるからである。
霊界とはさきにも書いたごとく、空気とは比較にならない程の稀薄な透明体であって、
今日まで無とされていたのも無理はなかったのである。
しかしこの世界こそ無どころではなく、むしろ万有の本源であって、絶対無限の力を蔵しておるもので、
一切はこの力によって生成し化育されているのである。
そうして霊界の本質は太陽の精と月の精と土の精との融合一致、想像を絶する程の、霊妙不可思議な世界である。
ところがここで問題であるのは、人間が各々その役目を果たす上には肉体に垢が溜るごとく、霊には曇りが溜積するのである。
従ってこれに対し自然浄化作用なるものが発生し浄められる。
これもちょうど人体に溜った垢が、入浴によって清められるようなものである。
ところが右は独り人間ばかりではなく、天地間一切の物がそうである。
例えばこの地上霊界に汚穢が溜るや、自然作用によって一定の個所に集中され、低気圧という浄化活動が発って清掃される。
暴風も出水も洪水もまた雷火も人的火災もそれである。
と同様人間にも浄化作用が発生する。今その理由を詳しく書いてみよう。
右のごとく、人霊に溜った汚穢は一種の曇りであって、
この曇りとは本来透明体であるべき人霊に、不透明体の部分が出来るそれである。
しかしながらこの曇りの原因には二種類ある。
一は霊自体に発生するものと、二は逆に体から霊に移写されるものとである。
まず前者から説いてみるが、元来 人霊の内容は経(たて)に言えば求心的三段階に、緯(よこ)に言えば求心的三重層になっている。
つまり三重丸の形と思えばいい。
もちろん丸の中心が魂であって、魂とは人間がこの世に生まれる場合、自然法則によって、男性から女性の腹へ宿らせる。
本来魂なるものは極微のポチであって、
もちろん各々の個性をもっており生命のある限り人間に対して絶対支配権をもっている事は、誰でも知っている通りであるが、
その魂を擁護的に包んでいるものが心であり、
心を包んでいるものが霊であって、
霊は全身的に充実しているから、人体と同様の形である。
このように霊体は一致している以上、魂のいかんはそのまま心を通じて霊へ反映すると共に、霊のそれも心を通じて魂に反映するのである。
かくのごとく魂と心と霊とは大中小、小中大の相互関係で、言わば三位一体である。
ところがいかなる人間といえども、生きている間善も行えば悪も行うので、
その際善よりも悪が多ければ多いだけが罪穢となって魂を曇らすので、
その曇りが心を曇らせ、次で霊を曇らすのである。
そうして、その曇りが溜って一定量を越ゆるや自然に浄化作用が発生し、
曇りの溶解排除が行われる。しかしそうなるまでの過程として曇りは漸次一個所または数個所に分散し、濃度化すと共に容積も縮小され固結される。
面白い事にはその罪によって固結場所が異う。
例えば目の罪は目に、頭の罪は頭に、胸の罪は胸にというように相応するものである。(後半省略)」
明主様御講話 「魂・心・精霊」 (昭和10年2月11日)
「それから、この間も高天原のことを話しましたが、天の岩戸はどこかという研究がありますが、
扉が信州の戸隠山まで飛んだのだからどこか関東にあるという説がありますが、これはどこにもあります。
小さくは人間の心に岩戸があります。観音様のことを知って悟った人は、心の岩戸が開けたのであります。
それですから、話しても観音様のことが判らん人は岩戸を堅くしめているのであります。
話をしたり本に書いてあるのを見て開く人もありますが、開く人が少ないのであります。
心の岩戸に光を与えると一番早く開きます。
一番の根本は、世界の一番根本の岩戸を開けることであります。
いまはあらゆる階級や国魂がしまっております。
岩戸が開けば、天照大神様が住まっているのであります。
心の岩戸を開けば、太陽の光明を拝めます。
観音様の光を感じて拝める人は、心の岩戸が開いているから拝めるのであります。
心と魂とは違います。
人間の五体全部に行き渡っているのは、精霊でありまして、その中心が心であります。
それゆえ中心の心は芯であります。心の中にまた、魂が入っております。
魂は非常に小さいもので、心の百分の一であります。
また、心は精霊の百分の一で、体からは千分の一でありますから、九分九厘と一厘となり、また、千騎一騎のことにもなります。
千分の一の魂が、千倍の体を左右するのであります。
心の岩戸が開けるとは、魂を包んでいる心が開けるのでありまして、心の岩戸が始終堅くなっておったのが開けるから、魂が光を拝むことができるようになるのであります。
いままでの教えや道徳では、魂まで届きません。
心までより届かなかったのであります。
それで、世界が精霊ならば、日本が心となり、東京が魂となるのであります。
あらゆるものがみな三段になっているから、これも三段になっているのであります。
それから、この東京が精霊とすれば麹町が心であって、宮城が魂となるのであります。
それで、この精霊および心と魂が、霊と体となっております。
要するに、天地となっているのであります。
精霊の天は上半身、下半身は地であります。
しかし、下半身と申しましても、体半身ではなくて、首から上が天で、下が地であります。
天の中心は脳髄の真ん中にあります。
地の中心は臍(へそ)であります。
臍のことを中腑というのは、この意味であります。
ですから中心が天地になりますから、魂が天地になります。
別々のようですが感合しております。
昔は腹で考えると言う。いまは頭で考えると言いますが、これはどちらでもあります。
両方が感応し合って考えが出るのです。
われわれが考えるにも、頭や腹で考えるような気がいたしますが、これは両方であるからであります。
しかしこの命令権は頭にあります。それは天であるからであります。
まだ詳しく解けば説けるがそのくらいにしておきまして、これをもっと徹底さして行きますと、天皇陛下のお働きにまで話がなりますから、面倒になりますから止めます。
観音会の仕事は、人間の心の岩戸を開ければ、世界中開かれるのであります。
宇都売之命(うづめのみこと)が踊って神々様を笑わせますが、観音会には笑いが必要なのであります。
なぜかと申しますと、議論や説教では岩戸は開けません。
笑いはにこやかであります。笑い合うようでなければ心の岩戸は開けません。
議論や小言では逆に岩戸がしまってしまいます。
観音会は話などせず、祭らして拝ませればよいと言うのであります。
薮(やぶ)から棒に祭れと言っても駄目でありますから、御神徳話をすればよいのであります。それで話ができるのであります。」
明主様御講義録 「日本式医術」より (昭和11年7月)
「ここに、人間の肉体があるとすると・・・
骨、筋、肉、皮等の物質体は・・・「現象界」に呼吸し
それと同一の形態である・・・水素質のエーテル体が、「空気界」に呼吸し、
又、それと同じ精霊体が、・・・「精霊界」に呼吸しているのであります。
故に、右の理によって「病気の根本」はその精霊体にあるのであるから、「精霊体そのものの病」を治さなければ、肉体の病気は絶対に治らないのであります。
しかるに、今日までの精霊界は「月素」が多分で「日の霊気」即ち「火素」が欠之していた。
言葉を換えれば、光と熱が少く、夜に相応していた。
それが為に「病気の発生」が多かったのであります。
何となれば、その病気発生の根源は有形無形の罪穢の堆積・・・であるからであります。
そうして、その罪穢とは、人間が悪に染まるからで、それが一種の曇となって、人間の精霊体に積るのであります。
そうして、夜の暗さは、どうしても、悪の発生に、都合がよいのは、申すまでもありません。
しかるに、この病気の本源である、曇、それを人体の自然浄化作用、払拭しようとする、その苦痛が病気であり、
その曇が多量過ぎて、肉体が浄化作用に堪えられぬ場合、もしくは、誤れる治療によって浄化作用が遅延しその為の衰弱の結果が、死を免れない事になるのであります。
人間の精霊は精霊界に属しているのは前述の通りでありますが、精霊の中心に心があり、心の中心に魂があるのであり、
ほとんどこれは、求心的に三段になっているのであります。
従って、その中心に位する魂は健康に重大な関係があるのであります。
しかしながら、人間は肉体をもっている以上霊気ばかりという訳にもゆかないので、
火の霊と水の霊と物質との・・・三位一体が完全に調和活動して、真の健康と長寿を得らるゝのであります。」 (「岡田先生療病術講義録 上巻 1」より)
明主様御教え 「浄霊の原理 神示の医学」より (昭和24年5月30日発行)
「(一部のみ引用) いよいよ浄霊の原理を説くが、これについて前提として知らなければならない事があるからまずそれから述べてみよう。
そもそも万有一切は、物質のみではなく、別に眼に見えないところの霊なるものがある、
もちろん、人間といえども霊と体とから成立っており、これを概略分類すれば霊は太陽の精であり、体は月と土の精である、
それを判りやすくいえば霊は火であり陽であり、男であり、表であり、経(たて)であり、昼である、それに引換え体は水であり、陰で女で裏で緯(よこ)で夜である、
ところが科学においては体のみを対象として、霊の存在を認めない、この点が根本的誤謬である、
何となればもし人間が体のみで霊がないとしたら、それは単なる物質である、
木石と同様無機質である、生命もなければ精神の活動もあり得ない、
こんな単純な理論が判らなかった事が、今日までの科学の根本的誤因であった、
ゆえに彼ら科学者の考え方は、この空間は空気のみの存在として他は無としていた、
ところが何ぞ知らん、空気以外の諸々の不可視元素がどのくらいあるか判らない事実で遣憾ながらその発見にまで科学はいまだ進歩していないのである。
右のごとき不可視原素の実態を幸いにも私は発見し得たのである、これを私は霊科学と名付けた、
この発見を契機として、人類の最大苦である病気が滅消される時代が開始されるに到った事はもちろんである、
今日まで全然不明とされていた病患に関するものは一切解明されたのである、したがって今日のごとき医学研究の必要は最早無いと言ってもいいのである。
次に病気発生の根原を闡明(せんめい)してみるが前述のごとく人間は霊と体の二元的要素から成立している以上、
人間が動いて生きているというのは、霊と体が密合一致し、霊が体を動かしているからである、
そうして霊は人体と同様の形状をなし、霊の中心に心があり、心の中心に魂がある、
この三者一体の活動が意志想念となって表われ、この見えざる霊すなわち意志想念が肉体の支配者であるから、霊が主で体が従となる、すなわち霊主体従である、
これを判りやすくいえば人間が手足を動かす場合、手足が自主的に勝手に動くのではない、意志の命令に従って動くのである、
眼も鼻も口も人体全部ことごとくがそうである、病気といえどもこの原理の通りで、判りやすくするため、誰でも経験のある腫物を取上げてみよう。」
明主様御垂示 「体全体が心、心そのものが神経」 (昭和28年9月1日)
信者の質問
「魂と神経作用と体との関係でございますが、頭が悪いのでうまく申し上げられませんが」
明主様御垂示
「私の本に三段になっているということを書いてあるから、それを見たら解ります。」
信者の質問
「神経作用が心の働きと考えましても」
明主様御垂示
「それは不徹底です。
神経作用というのは副守護神がからかうのです。
例えて言えば、どうもオレはさっき食ったのに当てられたらしいと思うと、吐きそうになりますが、そう思わせるのは副守護神なのです。
それでそう思うと、これはおもしろいというので副守護神が腹を痛めるのです。
副守護神というのは動物霊ですから、そういうことを面白がってやるのです。
そのときに、そんな馬鹿なことがあるものかと思うと、副守護神はやってみても面白くないから止めるというわけです。」
信者の質問
「記憶力、推理力、判断力というものは」
明主様御垂示
「記憶力というのは頭の中で活動するのですが、毒があると、毒のために機関が働かないから記憶力が悪いのです。
しかし記憶力というのは必要なだけを記憶していればよいのです。
後は忘れてしまうということがよいのです。
あんまり記憶が良くて覚えていても困ることがあります。
昔大隈公は、実に記憶がよかったのです。
それである人が“私は記憶力がなくて忘れてしまうがどうしたらよいだろうか”と聞いたところが、
“忘れられるというのは羨ましい、オレは忘れられないで困っている。
君みたいに忘れるというのはいいではないか、オレもそうなりたいと思うが、どうも忘れなくていけない”と言ったそうですが、
そういうようで、あんまり頭がよいというのは、頭がよいのはいいですが、記憶がよいのは困ることがあります。
覚えていたほうがよいことと、忘れた場合がよいこととありますから。」
信者の質問
「そういう観念のことで、以前先輩から聞いたことがありますが、
体の百分の一が心になり、心の百分の一が魂になるということでございますが」
明主様御垂示
「それはでたらめです。
百分の一どころか、体全体が心なのです。
もしそうだとすると、体のうちに心がないという所があるわけになります。」
信者の質問
「そこで心と神経との関係でございますが」
明主様御垂示
「関係も何もありません。
心そのものが神経です。
心を細かく割ったものが神経です。
神経というのは、要するに電線の針金のようなものです。
魂というのは百分の一どころではなく、もっと小さいので、千分の一か万分の一かわからないくらい小さいのです。
しかしそれが全体を支配しているのです。
それが魂の大きさと言ってもよいのです。
なにしろ人間が宿るときには精虫という小さなものです。
あの小さなものがこんなに大きな人間になるのですから。」
信者の質問
「普通、魂というときには本守護神のことでございますか」
明主様御垂示
「そうです。」
明主様御垂示 「人体における魂の所在地」 (昭和23年6月8日)
信者の質問
「心の中に魂があることは判らせていただきましたが、その魂は体のどこにあるのでしょうか。」
明主様御垂示
「人体は腹の真ん中と前頭部の奥とで天と地となり相通じ合っているのです。
ですから高天原を人体で言えば眉間です。邪神がつくと眉間へ来たがってしかたがない。
眉間を占領すればその人を自由にすることができるから。
そこで眉間へ来れぬときはその人を怒らせる。
怒ると頭の霊細胞が薄くなるから眉間へ来れるのです。
そのうちまた気持ちが平静になり霊細胞が濃くなると邪霊は下のほうへ下がるのです。
ヒステリーなんかはこれです。
また狐の霊なんか憑くとよくしゃべるんです。
女でよくしゃべるのは狐です。
また威丈高になって相手にものを言わせないのもそうです。」