弥勒三会について 1


明主様御講義 「弥勒三会」 (昭和10年7月25日発行)


三尊の弥陀と五六七

五、応身弥勒―観世音-子-璽-火-日-日本-合一-十-真

六、法身弥勒―阿弥陀-母-剣-水-月-西洋-体 -緯-美

七、報身弥勒―釈 迦-父-鏡-土-地-東洋-霊 -経-善



弥勒三会 (三位一体)

日-太陽-観世音-伊都能売尊-応身弥勒

月-月球-阿弥陀-素盞嗚尊-法身弥勒

地-地球-釈 迦-若姫岐美尊-報身弥勒



「三位一体という言葉が残されているのは、三尊者合一するという意味である。

法身は水の働きのみ、現世よりも霊界即ち浄土へ救うのが眼目で、西方へ浄土を造るから仏(覚者)となった。

お弟子を寄こされたいと釈迦に誓って西方へ行かれた。

寂光の浄土と云い、寂光とは淋しい光即ち月の光で月の霊界である。

キリスト教では天の父と天の子と聖霊とにて三位一体という。仏教は祖先を祭り子孫へこれを残して行く故狭い。


仏   教-経-父-小乗-火-東-男-善

キリスト教-緯-母-大乗-水-西-女-悪

仏教は階級愛-忠孝。東洋民族は善人である。

中国の悪は西洋文明に禍(わざわい)されたのである。善なる為に体を無視する。

キリスト教は隣人愛-夫婦愛-西洋人は悪なる為に体を本意とするのである。しかし、経も緯も悪いがこれを結ぶと良いのである。

イエス・キリストは礫刑に成ったがこれになる様にと印を付けたのである。

この経緯を結ぶのが観音会の使命である。」 (「観音講座 第二講座」より)




明主様御教え 「真のミロク」 (昭和10年3月4日発行)

「今日のごとき澆季(ぎょうき)末法の世が来る事は、お釈迦様は能く御存知であった。

なぜなれば、この世は火宅だとか厭離穢土(えんりえど)だとか仰有(おっしゃ)ったのであります。

この世では幸福というものは得られない。どこまでも苦しまなければならない。

苦の娑婆であるとお説きになったんであります。だがしかし、仏の世は必ず滅する。

そして仏滅後に弥勒が現われる。それからが始めて五風十雨の正しい世、苦悩のない五六七の世が出現すると予言されて居るんであります。

であるからお釈迦様も、ミロク出現までは苦の娑婆であるからそれまでは多くを望むな、諦めておれとお説きになられたのが仏法の根本であります。


故に仏教は徹頭徹尾諦めの教でありまして、この諦めを悟りといわれたのであります。

この点は他の既成宗教にも往々有るんであります。

しからば五六七の世、又はミロクとは何かと申しますと、ミロク様は三人あるのであります。

即ち阿弥陀に釈迦に観音であります。

それで三人の弥勒は種々に分けられてあります。

地理的に分けますと、釈迦は東洋の弥勒であり、阿弥陀は西洋の弥勒であり、観音は日本の弥勒になるのであります。


それからこれを天、地、人、に分けますと、阿弥陀が天の弥勒、釈迦が地の弥勒、観音が人の弥勒で

又法身(ほっしん)、報身(ほうしん)、応身に分けますと、

法身弥勒が阿弥陀、報身弥勒が釈迦、応身弥勒が観音様になるんであります。

ミロクとは五六七と書きますが、五が観音、六が阿弥陀、七が釈迦になるんであります。


それで七の弥勒六の弥勒は今までに一度肉体を以て出た。

御承知の通り、七は釈迦でありますし、阿弥陀は釈迦の時代に法蔵菩薩となって現われたのであります。

観音は観音として未だ曾つて肉体を以て現われた事は無かったのであります。

それで五の弥勒即ち観音様はお一人で六と七とのお働きをされるのでありまして、六の弥勒七の弥勒は、それだけの限られた働きでありますが、

観音即ち五の弥勒は六七共兼ねられてのお働きでありますから自由無碍いかなる活動力をも発揮されるんであります。

基督(キリスト)教の三位一体という事は三人の働きを一人でなさる即ち観音様のお働きの事を言うたんであります。

ですから本当の意味での弥勒というのは観音様の事なんであります。

弥勒出現して五六七の世が成就するという事は観音様が現われて、観音力を以て世を救う事なのであります。

観音会の働きというのは弥勒完成の運動をする機関なんであります。」




明主様御教え 「三尊の弥陀」 (昭和10年9月15日発行)

「古来、三尊の弥陀といい、三弥勒と言い三位一体と言う言葉がある。

これは、仏的にいえば観音、阿弥陀、釈迦の三等者であって判り易く説明する上に、諸種の事物に当てはめて、左のごとく、分類してみる。


五  日本、日、火、璽、十、自由、無碍、真、合一、観世音

六  西洋、月、水、剣、緯、女、 悪、 美、体、 阿弥陀

七  東洋、地、土、鏡、経、男、 善、 善、霊、 釈 迦


この一々の解説は、本会発行の月刊雑誌「光明世界」に詳説してあるから、ここには、一二の説明だけに止めておくが、

観音は、日本の弥勒であるから、直な毛髪を有せられ、

釈迦及び阿弥陀は、外国系であるから、毛髪が縮れているのである。

観音は、宝玉を鏤(ちりば)めたる王冠と、胸飾り、腕輪等によってみても、

その高位に被在(あらせ)らるる事を証している。

又、三十三相具有せられたる、崇高(けだか)い御容姿に見てもその御神格のいかに尊貴で被在られるかは、想察し得らるるのである。

御本体は、黄金の一寸八分の無垢であるのは、これ又、黄金色の人種、我日本人を表徴されているのである。

阿弥陀及び釈迦は、装飾無く、裸体に白布を纏(まと)われ御像の取材は、木彫に金箔又は、金銅や鍍金(めっき)作りにして大なるものは唐銅作りであるに見ても、

その御神格は、想像さるるのである。

阿弥陀は、法蔵菩薩となって、一度現身を現わし、釈尊に対して、西方浄土を誓約されたのは有名な噺である。

故に、法身の弥勒が阿弥陀で、報身の弥勒が釈迦で、応身の弥勒が観音である。」 (「病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何?」より)




明主様御教え 「ミロクの真相」 (昭和10年9月15日発行)

「前項に述べたごとく、阿弥陀が月の弥勒であって、月光菩薩ともいわれ、釈迦は土の弥勒である。

この二大尊者が、その仏法を基本としての、伊都能売大神より委任せられたる、救世的活動は、すでに終りを告げている事である。

釈尊が、仏滅の世を予言せられた事は、今日において瞭(あきら)かになったのである。

日の弥勒たる観音が、二千五百年、秘仏として、隠身的救いを垂れ、阿弥陀釈迦の下位に甘んぜられ給うていたのは、なぜであったのか、それは、夜の世界の期間であったからである。

物的太陽が地球の陰に在って、月に光を与えつつ、黎明期を待たるるのと同一の理である。

故に、今日まで月の阿弥陀が輝いていたのは、夜の世界であったからである。

夜の暗さは、悪の活動に便である事を考えたら、今日までの世界の悪者横行の歴史は解るはずである。

今や黎明が来たのだ。太陽が、日の弥勒が出たのである。万界の暗を照破して、世界は、白昼のごとくならんとするのである。

その光の伝達機関として生れたのが、我観音運動である。

五は火であり、日である。六は水であり、月である。七は土である。

今日まで、七の弥勒たる、釈迦が説いた仏法を主とし、六の弥勒たる阿弥陀を次とし、五の弥勒たる、観音を、最下位としたのは、七六五の逆の順序であった。

釈迦が予言した、五六七(ミロク)の世は、仏滅後となっている。

しからば、その仏滅までが、七六五であって仏滅後が五六七である訳である。

故に、七六五は、五六七の逆である。

即ち、逆さである。言霊学上、釈迦はサカである。

釈迦の名も、この意味から出たのである。

日の国人(くにびと)が土を又月を拝むと言う事は逆である。

東から西を拝むと言う事も、同じ理である。

しかしながら、夜の世界であった期間は致し方がない。

我日の本人が、外国文化を謳歌し、外国の神仏を讃仰したのも、相応の理であって、止むを得なかったのである。

何の断りもなく、時が来れば、太陽は、東天静かに昇って行く、それは、物質的太陽であるから、誰人も見得るのである、が、霊的太陽は、悲しい哉、眼には視る事が出来ない、

しかしながら、時の力は、世界万民に判らせずにはおかない、誰が否定しようが、遮(さえ)ぎろうが、物質の太陽は大空高く、昇ってゆく(ごと)く、霊的太陽の光は日に輝きを増すのである。

何と素晴らしい事ではあろう。何千年間の夜が明けると言うのだ。


ここで、今一つ言わして貰おう、仏教の真髄は真如(しんにょ)であると釈尊が言われた、真如とは、真如の月の事である。

それは、悟りを得た瞬間、心の空は、皎々(こうこう)たる真如の月が照らすごとくだ、と、

しかるに、その真如の月は、今や、有明の月となって、西山に舂(うすづ)き初めたのである。仏教に力が無くなってゆくのはそれなのである。

釈尊は、五六七の世は、五十六億七千万年後だと言ったからとて、呑気に澄ましている仏者がある。

考えてもみるがいい、その時から、僅(わずか)二千五百年経った今日でさえ、これ程の娑婆の変り方である。

何ぞ、五十六億七千万年後などという想像だも出来ない、遠い世を予言をする必要が、どこにあろうか、これこそ全く、五六七の謎を秘められたのである。」 (「病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何?」より)




明主様御教え 「三位一体」 (昭和10年9月15日発行)

「この意味は、今日まで、真実が明かされていなかった。

これは、時期未だ尚早だからで、実は観音運動の目標たる、大光明世界の実現を言ったのである。

まず、判り易く説いてみよう。

東洋と西洋と、日本との、融和結合が、世界的三位一体であり、

猶太(ユダヤ)文化が生んだ西洋精神とバラモンから生れた東洋精神と、天孫人種から生れた大和魂との結合が、

思想的三位一体であり釈迦と阿弥陀と、観音との三会が、仏的三位一体であり、

基督(キリスト)教と回々(フイフイ)教と仏教との融和が、宗教的三位一体であり、

日本国内における、神仏耶の合一が、日本の宗教的三位一体である。

しかしながら、その三位一体の中心となるべき、権威と力を有する国、それが、取不直(とりもなおさず)、我日本である。

言い換えれば、東洋の父と西洋の母から生れた子が、即ち日本である。

全世界が一大家族となって☉(ス)の本即ち、日の本によって統一さるる。

それが三位一体である。その三位一体が、実現してからの世界が、永遠の平和楽土であり、大光明世界なので、

この事は、天地創成の紀より、神定せられて居たのである。」 (「病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何?」より)




明主様御教え 「弥勒三会」 (昭和27年御執筆)

「仏教においては、昔から弥勒三会の言葉があるが、この事は今日まで神秘の幕に閉ざされ、全然判からなかったのであるから、今度私はこれを明らかにしてみようと思う。

そもそも弥勒三会とは、読んで字のごとく三身の弥勒が、一度に会われる意味であって、

三身の弥勒とは言うまでもなく釈迦、阿弥陀、観音である。

そうして釈迦は報身(ほうしん)の弥勒であり、阿弥陀は法身(ほっしん)の弥勒であり、観音は応身の弥勒となっている。

また釈迦は地の弥勒であり、阿弥陀は月の弥勒であり、観音は日の弥勒である。

たびたび言う通り、右の三聖者は本当の順序からいえば日月地、火水土のそれであり、五六七でもあるので、この数を合わせると十八になる。

この十八の数について、大本教のお筆先にこう書いてある。

「今までは天が六、中界が六、地が六でありたものが、天から一厘の御魂が地に降りられたので、天は五となり、地は七となりたのであるぞよ」と。

しかしこの意味は最も深奥なる神の経綸であって、この一厘の御魂こそポチであり、麻爾(まに)の玉であり、如意宝珠であり、これによって五六七の御世が生まれるのである。

また三六九をミロクとも言われるが、このことは最後の天国編に詳説するつもりであるから略すが、

とにかく十八の数こそ、最も重要なるものであって、これを文字によって解釈してみると、十は経緯の棒の結んだ形であり、また神の表徴でもあり、完全の形でもある。

また八は開く形であり、無数の意味でもあって、昔から仏教においても、十八の数を良く用いている。

浅草の観音堂も、善光寺も十八間四面であり、毎月の参詣日も十八日であり、十八を倍にすれば三十六でミロクである。

除夜の鐘は百八つ打ち、数珠(じゅず)の数も百八個あり、百八煩悩などとも言われるが、この場合の百は十が十で百となるので、これらを見てもことごとくミロクの意味が含まれている。


ここで伊都能売の意味を解釈してみるが、伊都能売とは数で言えば五と三である。

すなわち五はイヅ、火で、三はミで水であるから、カミ、神であり、また火と水、イヅとミヅでありイヅノメ、伊都能売である。

そうして火と水の密合が光であるから、文字もそうなっている。

すなわち光の文字は、火の字の真中へ横棒を一本入れてある。

横棒は水であるから、実によくできている。

これによってみても、文字は神様が造られたことが分かるであろう。

ところが光だけでは火と水であるから、二つの力で、今一つの力である地が加わらなければならない。

という訳で光が肉体を透るとすると、肉体は土であるから三位一体の力が出る。

浄霊もこの意味を考えれば良く分かるはずである。


話は戻るが、さきに述べたところの、釈迦、阿弥陀はインド人種といったが、これはただ観音との対照のためであって、

根本から言えば、やはり日本の神で、ただ霊体だけ渡られたのである。

その霊とはすなわち釈迦は稚姫君命(わかひめぎみのみこと)であり、阿弥陀は神素盞嗚尊(かんすさのおのみこと)である。

従ってそれまでのインドにおける大自在天を主としていた民族こそ、真正のインド人種であることも知らねばならない。


次に面白いことを書いてみるが、観音は仏教から生まれたのであるから、仏教は生みの親であり、その仏教の開祖である釈迦は、親の親ということになる。

するとその釈迦を生んだ伊都能売神は、つまりまた親で先祖という訳になる。

そうしてその神が観世音となるのだから、この点から見ても仏とは神の化身であることが分かるであろう。

そうして釈迦は地であるから生みの働きをするし、阿弥陀は月であり女であるから、やはり観音の母といってもいい。

つまり地も月も日を生む意味になるという訳で、宇宙の実相もそうである。

また古くからの伝説にある中国の聖王母であるが、聖王母は月の神の化身であって、

その庭にある桃の木から、三千年目に一度桃の実がなり、これを貴重な宝として、天の大神様に献上するということや、

インドの伝説にある三千年目に転輪菩薩が生まれ、その菩薩が現れるや万民は救われ、この世は天国楽土となるという意味も、今度のことの予言といってもよかろう。

そうして右の転輪菩薩とは観音の別の御名、転輪王のことであろうし、また天理教の親様である天理王の尊も、右に関連がないとは言えないと思うのである。

また阿弥陀は月光菩薩とも言われ、観音は大日如来でもあって、つまり両尊者は月と日で、夫婦という意味にもなる。

このことは日本の各地の仏閣によく表れている。すなわち観音の祀ってあるところ必ず大仏があるが、大仏は阿弥陀であるからである。

そうして観音は堂宇の中に祀られてお姿は小さく、大仏は外に鎮座されて大きいのは、観音は日本内地の仏であり、阿弥陀は外地の仏というわけであろう。

また観世音は黄金の一寸八分の本体が本当であり、阿弥陀は鍍金(ときん)物、または金箔の木像で、大きいのを良いとされているにみても、すべては分かるであろう。」