国常立尊について 4


明主様御講話 「国常立尊がこの世の閻魔と現われる」 (昭和29年2月6日)

「今年の節分は非常に意味があるのです。

私としても非常に大きな奇蹟があったのですが、それはまだ言うわけにはゆきませんが、いずれ話をします。

この節分という意味は、大本教と非常に関係があるのです。

ごく古い、神代というのですが、神代と言っても、空漠たるものでなくて、

神格を得た人間が住んでいた時代で、いわばこの前の昼間の世界といったようなものです。

その時に世界を主宰していた神様が国常立尊という神様です。

この神様は非常に厳正な神様で、間違ったことは許さないというような政策をとったために、

非常に多くの神様・・・八百万の神・・・から、その時分でも世論が、どうもあんまりやかましすぎてとてもやりきれない、

だから押し込めてしまった方がよいというので、排斥運動、押込運動をした結果、押し込められたのです。

それで艮(東と北の間)のある地点に押し込めたのです。

そうして、ふたたび世の中に出てこられないようにというので、豆を炒ってまいて、その時に“炒豆に花が咲いたら出てきてもよい”と・・・

もっとも、炒った豆が芽を出すはずがないのですから・・・それを条件のようにして押し込めたのです。

それで非常に悪い神様としたのです。これは大本教のお筆先にありますが、

「悪神、たたり神と申して、われを押込めたのであるぞよ」というわけです。

それで、鬼門は悪神だからして、鬼門に向かって越したり、いろいろなことをすると恐ろしいというような説を作ったわけです。

それでなにごとも、鬼門は恐ろしいといは反対で、たいへんな良い立派な神様です。

ただ、あんまり正しすぎたためにそういうことになったのですが、その根本はやはりその時に夜の世界になったわけです。

そこで、国常立尊様は火の系統の神様ですから、夜の世界ではまず隠退しなければならないことになるわけです。

それがまず、お筆先には三千年としてあります。

それでいよいよ三千年たったので、今度は御自分が、時節が来たので世の中に出る、と・・・

出るについては、いろいろな・・・お筆先には三千世界の大芝居ということになってます。

この押し込めた系統の神様・・・総大将は天若彦尊という神様で・・・これはよく天邪鬼ということを言いますが・・・

その神様が総大将で、あといろいろな神様がその一派に属したわけです。

その押し込められた時には、わずかな部下を連れて隠退されたが、

それから命がなくなって、死んで霊界に行って、三千年の間、閻魔大王になったということになっているのです。

お筆先には「今度は、われはこの世の閻魔と現われて、世の立替え立直しを致すぞよ」とあります。

ということは、審判をされるということです。

今までは霊界の死んだ霊を審判したが、今度は生きた人間の審判をするということです。

つまりもう悪は許さないということになるのです。

そのために大本教というものをつくったのです。

私が大本信者になって、そういうことをいろいろ・・・表面的のことも、裏面=霊的のこともすっかり分かったので、

大本を脱退して、観音教からメシヤ教というふうにつくったのです。


お筆先の一番冒頭に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。

梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。日本は神国。

この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ」というようなことが書いてあるのです。

「三千世界一度に開く梅の花」と言って、梅というのは非常に重要なことになっているのです。

それで艮の金神様は、霊界では閻魔大王となり、現界では観世音菩薩となるのです。

観世音菩薩は兄(こ)の花姫になるのですが、兄の花姫は神界のお働きで、伊都能売の神になるのです。

これは兄の花姫と木の花咲爺姫(このはなさくやひめ)とありますが、兄の花姫というのは兄(あに)の花といって梅になるわけです。

梅が先に咲くから兄の花になるわけです。

それから木の花咲爺姫というのは桜の花になるのです。

この場合は仏界のお働きで、木の花咲爺姫は観音様になるのです。

富士山に行くと木の花咲爺姫を祭ってあります。

それであそこで絵姿を買うことになってますが、あれは桜の枝を持ってます。

その富士山の木の花咲爺姫は頂上の真ん中に祭ってあります。

頂上の上り口の右側にあるのが、久須志神社としてありますが、

これは九頭龍権現といって、木の花咲爺姫の守護神になるわけで、龍で守護しているわけです。

これが最初私に憑った龍神です。

それで、木の花咲爺姫は桜であって、これは仏の働きになるのです。

ですから兄の花姫は神様の働きになるのです。

それで木の花咲爺姫は仏の働きだからして、最初インドに出られたわけです。

ですから仏の方では桜の花になってますが、これはそういう因縁になるわけです。


そこで今年の節分は、いよいよ艮の金神様がこの世の閻魔と現われるという最初になるわけです。

ですから、これから審判が厳しくなるわけです。

けれどもこれは最初からパッとやるわけではなくて、神様の方はジリジリと、つまりだんだん育つようになって行きます。

そのためかもしれないが、最近いろんな汚職事件が重なり合って出てきましたが、こういうのも一つの現われではないかととれるのです。

おもしろいのは、節分の日は大きな奇蹟があったのですが、昨日は小さな奇蹟があったのです。

というのは、道具屋が古い掛物を持ってきたのですが、それは中国の元時代の物で、今から四百年近く前に画かれた絵ですが、それが閻魔大王なのです。

お供がまわりにいて、よく画けてますが、表装がいたんでいるから、それを直していずれ箱根美術館に出しますが、これも小さな奇蹟です。

今まで閻魔の絵というのは見たことがありません。

そういうようなわけで、神様のお仕組みは一歩前進したわけです。

今年の節分というのはそういう意味があるのです。

それで、そうなった結果はどうだというと、つまり善悪の立て分けということになっているのです。

ということは、善の方が勝ってゆき悪の方が負けてゆくのです。

そうするとメシヤ教が発展するということになります。

こんなよい、すばらしい宗教が、こんなにグズグズしているわけがないので、ドンドン発展しなければならないわけです。

しかし発展が遅いということは、つまり悪の方が押さえているからです。

だから、これが分かって、感心して、信者になり、人にもならせなければいけない、

と、そう思っていながら、ついグズグズしているということは、一方にそれを邪魔する霊があるからです。

その邪魔する霊が、これからだんだん弱ってゆきますから、そうすると順調にゆくわけです。節分の意義を話したわけです。」




明主様御講話 「立春の日に閻魔大王の絵が来た」 (昭和29年2月7日)

「今年の節分について、もう少し詳しく話をしてみます。

前にも言ったことがありますが、節分というのは、古い時代に国常立尊という神様が、世界を支配していたということになっているのですが、

その時分のことだから、世界といったところで全部だかどうだか分かりませんが、

まず日本を中心にして、そうとう広範囲に支配していたに違いないのです。

それで神様といったところで、やはり人間なのです。

しかしその時分の人間は非常に霊が高かったのです。

その時分は昼間の世界の終わりぐらいだったのですが、ところが長い時代にだんだん人間が、夜の世界のために穢れに穢れて、霊的にレベルが低くなったわけです。

それでよく「天神七代、地神五代」ということがありますが、

天神時代というのは、天の神様・・・神道のほうで言うと「天津系」「国津系」あるいは「天津神」「国津神」と言いますが、天系です。

だいたい日本民族は天系なのです。

その天系だったころは天照天皇という最後の天皇が支配していたのです。

それで、これはいつかも言いましたが、天照天皇が日本を逃げて、皇后様だけが残って、それが天照大御神と、こうなっているのですが、

それよりか前に国常立尊という神様が支配されていたのです。


その神様は非常に厳格で、つまり至正至直で、ごく正しいことでないと許さない、というようなことのために・・・これも神道の方にもありますが・・・

大勢の神様が一致して押し込めたのが節分の晩としてあるのです。

その押し込めた方の総大将が天若彦という神様で、そうして、もう国常立尊は世の中に出られないようにというので、艮(東北)の方角に押し込めたとなっているのです。

そうして、艮に押し込めたからして艮の金神というお名前にもなり、艮の金神国常立尊となったのです。

そうして節分の晩に豆をまきますが、「炒豆に花が咲いたら出てもよい、さもなければ永久に押し込めてしまう」というわけで、それから炒豆をまいたのです。

それは三千年としてありますが、いよいよ三千年たって、その国常立尊様がふたたびこの世に現われる、その機関としてできたのが大本教です。

ですから大本教のお筆先に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。

梅で開いて松で治める神国の世になりたぞよ。

日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ」ということを教祖は獅子吼(ししく)したわけです。

最初大きな声をして怒鳴ったのです。

それで気違い扱いされて警察に留置されたことがありますが、そういうわけで気違い婆さんにされたわけです。

それが明治二十五年の一月元日です。ですから「梅で開く」というが、海というのは、花は五弁になってます。

これは五大州を形取ってあるのだそうです。

ですから「一度に開く梅の花」というのは、世界が一度に開くということなのです。

ところが今年の節分は、いよいよ艮の金神様が表になる、つまり今まで三千年隠れていたのが表面になるのです。

それで、大本教を開いたのは、霊界がそうなったのです。

ところが今度は現界がそうなる。

ということになったのは、この節分にお知らせがあったのです。

それはいずれ言いますが、今はまだ言うことはできません。

一年ぐらいは言うことはできないのです。

それはやはり梅に関した奇蹟なのです。

それは私は三、四年前から準備していたことですが、そういうようなわけで、いよいよ表になるということと、

それからお筆先に「今度はこの世の閻魔と現われるから」ということがあるのです。

というのは、御隠退になっているときは、霊界に行かれて閻魔大王になるのです。

閻魔大王というのは、要するに霊界における審判の・・・今で言う検事総長とか最高裁判所長というような、そういった・・・裁きの最高の地位です。

ところが「この世の閻魔と現われた」というのですからして、今度は現界的の裁きをされるわけです。これが審判です。


これがまたおもしろいのは、立春の日に京都の方の道具屋が閻魔大王の絵を持ってきたのです。

それで私は「ハハア、神様は、いよいよ国常立尊様が現界の閻魔のお働きをされるということだ」ということを思って買いました。

それは中国の元時代の絵ですが、閻羅(えんら)王と書いてありますが、中国では閻魔大王のことを閻羅王と言うのです。

吉田松陰の書いたものにもありますが、

「精神一到何事か成らざらん。われ王侯を得ずんば、死して閻羅王とならん」ということがありますが、

王侯というのは大名のことを言うのです。

やはり日本でも閻羅王ということを言われたわけです。

それで、家来が二、三人いましたが、いずれ美術館に出します。

神様はすべて型で見せますから、その閻羅王の掛物によってお知らせになったわけです。

そういうようなことがあったのです。

立春の日には、その掛物は知らなかったのですが、その掛物は午後に来たのです。

それでこの節分から非常に浄化が強くなるということを言いましたが、やはり合っているわけです。

そういうようなわけで、今年からまた非常に霊界が明るくなるわけです。

明るくなると、善の方は非常によいですが、悪の方は反対に非常に苦しいことになります。

最近いろんな汚職事件が出ましたが、こんなに一度に次々に出るのは、今までに例がないでしょう。

これもやっぱりその一つの現われというように見られないことはないです。

そういうようなわけで、鬼門を非常に嫌って、鬼門は怖いように言いふらされたのは、今言った天若彦の方からそういう宣伝をしたわけです。

それで「福は内、鬼は外」と言いますが、

「鬼」というのは、つまり鬼門の金神、艮の金神国常立尊様ということになるからして、

実は、一番善い神様、一番立派な神様です。

それでおもしろいのは、大本教の発祥地の綾部では、豆をまくときには「鬼は内、福は外」と言うのです。

それはやっぱりその時分から天若彦に対する反対のやり方だったわけです。

そういうようなわけで、鬼門に越したり、鬼門の方を嫌うということは、人間が正しい人がなかったからです。

たいてい穢れている人や、肚の本当でない人がそっちに越せば、やはりそういった気を受けるから、浄化が起こるわけです。

それで浄化というのは災難や苦しみですから、そこで嫌ったというわけです。

だから本当から言えば、もし方角をかまえば、鬼門に越すのがごくよいのです。

ただ病気と同じで、一時浄化作用が起こりますから、そこで怖がるのですが、そのために後がよくなるのです。

ですから他の宗教は、豆まきというと非常にさかんで、むしろ宣伝的にやりますが、メシヤ教は絶対にやらないということは、そういう根本的の理由があるからです。」