国常立尊について 3
明主様御講話 「国常立尊に審判の権、伊都能売之大神に救いの力」 (昭和11年1月21日)
「観音力の出現は容易ならぬ意義があり、ただ御利益を与えてみんなを喜ばすこと以外に、もっともっと重大なわけがあるのであります。
これは、はっきりとはお話しにくい。
というのは、非常にいま宗教ということが注目されているからで、はなはだしく変わった話などは、別に不敬問題にもなるわけでなく、人心を惑わすわけでもない。
むしろ、それによってみんなが救われることになるんですが、あまりに変わったこと、あまりに不思議なことなんで、今晩実はお話しようと思っていまして、田谷さんに訊いたところが、ちょうど、私がお話しようとすることと、田谷さんの夢と等しいので、私の前にお話させたんであります。
田谷さんの夢は一月十日の夢で、その夢が火と水とに分かれてる。
これが聖書にある、火の洗礼、水の洗礼という、それに当たるんであります。
観音様のお知らせが始終あるんですが、それはちょうどこういうふうになるんです。
ちょうど、遠くのほうから人が歩いて来るのを見ているようで、最初は、向こうから人が来るなという程度に判る。
しかし、男か女かどういう人か判らぬ。
ところが、だんだん近づくに従って、はっきりして男か女かも判り、どういう目的をもってるものかまで、ぼんやり判ってくる。
そして、いよいよ側へ来ると、いよいよはっきりして、先の用件までも判ってくる。
あらゆることが、そういう具合に知らされるんであります。
でありますから、最初はぼうっと判る。
たぶんそれらしいなと思われるくらいに判る。
それが時期が近づくに従って、だんだんだんだんはっきりして、終に絶対に目に見えるように判ってくる。
それはなにかというと、昔から聖書にもあるし、経文にもありますが、最後の審判であります。
聖書でいえば世の終わり、釈迦が言った仏滅の世であります。
仏滅は仏が滅するとありますが、仏は物質世界ということになる。
そうすると、仏滅ということは非常に恐ろしいことになる。
ところが、そういうことが実際あるかないかというようなことはかなり漠然としていた。
それがだんだんと時期が近づくに従って、あるか否かがはっきりしてきたんであります。
どういうわけではっきりとあることが判ったかというと、この神様の大審判が、私らの想像よりももっともっとずっと激しい、すばらしいことです。
それで、私は愕然として驚いた。
そしてこの観音会の出現は、そのための使命であることまでが判ってきたんであります。
大審判というものがあるということは、ちょうど田谷さんの夢が万事を物語っていますから、この夢によってすべて想像してもらいたいと思うのであります。
でありますからして、この大審判が始まると、滅びる人間がいくらあるかしれぬ。
とにかく、一カ国で何千万人、世界中で何億万人か判らぬ。
そうして、これは新しく、何千年間の掃除をされるんであります。
これは、いつか話しましたが、昨年の九月に閻魔大王がこの世に表われられたとお話しました。
その閻魔大王が総大将となってやられるんであります。
これは天照大神様が国常立尊に審判の権を委ねられ、伊都能売之大神様には絶対慈悲をもっての救いの力を与えられたということになっております。
それはそういうわけで、国常立尊という神様は、非常に力のある神様で、むしろ絶対の力をもつ神様であります。
また、善悪に対して裁かれるのが、非常に厳重で一歩も仮借(かしゃく)しないという神で、閻魔大王となられて、長らくの間霊界で審判をなさっておられたのです。
ところが、今度の大掃除について出現されたのであります。
観音様は、絶対の慈悲をもって、善人だろうが悪人だろうが、差別なく救ってくださるのであります。
そうして、観音様は私の体を通じて、慈悲をもって救われるが、閻魔はぜんぜん人の体をお使いにならない。
霊で審判されるのであります。
これが、最初は日本から始まって、そして最後に全世界に行き渡る。
これについて、新聞や雑誌に出すつもりで、論文を造ったのです。
ごく穏やかに書いて、だれにも刺激することではない。温和的に書いたものであります。
「三千世界の大清算」(御発表)
これは、ごく穏やかに書いたつもりで、本当はもっと強く徹底して書きたかったんですが・・・
そういうわけで、赫々(かくかく)たる光明が輝くと、穢れはどうしても焼けてしまう道理ですから、汚れた人間は滅びるよりしようはない。
それでいま、私が書いた文にある通り、多くの人をみると膿でいっぱいで、膿がいっぱいだということは、霊体が非常に曇ってることで、
霊体が曇ってるということは、今度の光明に遇ってなにかによって生命は保てないことになることであります。
従ってどのくらい人間が死ぬか判らぬ。」
明主様立春祭御講話 「昭和二十九年の立春は最後の審判の初日」 (昭和29年2月4日)
「今日は立春とともに旧の正月の元日になるそうです。
いつも、立春というが、早いように思うのです。
とにかく今年は大いに意味があるのです。
まだ発表はできませんが、昨日、今日すばらしいことがあったのです。
いずれ話をしますが、それは神様の型です。
それで、非常にめでたいことなのです。
というのは、節分というものは「福は内、鬼は外」で、鬼の災いを避けるという、昔からの行事があるのです。
そのためにほうぼうの神社仏閣で豆まきをやるのです。
ところでこれは、前にも話したことがありますが、あべこべなのです。
鬼というのは偉い神様なのです。
艮の金神国常立尊という神様です。
今日の御讃歌にも「常立の神」というのがありましたが、国常立尊のことを略して常立の神と詠んだのです。
それからもう一つ「艮の神」ということも入れてありました。
そういうようで、つまり事の起り始めは、これは神代となってますが、神代ではないのです。
そう古いことでもないのです。
もっとも三千年ということになってますから、三千年前はやっぱり人間の世界です。
この国常立尊という神様が世界的に支配していた時代があったのです。
ところが非常に厳格な神様で、間違ったことは許さないというために・・・大本教のお筆先などを見ると分かりますが・・・
つまりあまり厳しいので八百万の神様がとてもやりきれないというので、こういうやかましい神様は押し込めなければ楽はできないというわけで、押し込められたわけです。
押し込めた方の神様は天若彦(あめにわかひこ)神というのです。
これはよく天邪鬼(あまのじゃく)と言いますが、天若彦というそれを後世天邪鬼と言って、つまり素直でない、なんでも横車を押すという性格の神様です。
それで国常立尊という神様を、艮(東北)に押し込めたのです。
そこでそれを鬼門と言って忌み嫌ったのです。
もっとも忌み嫌うわけです。
人間の方が間違ったことをすれば、そういうやかましい神様を嫌うわけですから、どうしてもそうなるわけです。
そうして鬼門除けと言って、いろんなことをやったのです。
そういうわけで、三千年押し込められたとしてあります。
そうしてその神様が明治二十五年に大本教の教祖の出口なおという方に憑られて非常に怒鳴ったのです。
出口なお刀自の口を借りて怒鳴ったのです。
その第一声が「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。
梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。
日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。竹は外国であるぞよ」というそれが最初の獅子吼(ししく)です。
それで、大きな声をして怒鳴るので、気違い扱いにされて警察に引っ張られて、二十日か三十日間勾留されたのです。
それが大本教の始まりなのです。
その艮の金神という神様は、押し込められて肉体の方はなくなりましたが、霊は霊界に行かれて閻魔大王になるのです。
それで閻魔大王というのは、善悪、罪穢れを裁く神様、裁くお役目です。閻魔大王というと非常に恐ろしがられたのです。
それが、本当は至正至直の神様ですから、そこで霊界に行っても、悪い人間が見ると恐ろしい顔に見えるのです。
これは霊がそういうことを言ってました。
それから心の善い人がゆくと、非常に柔和な慕わしい優しい神様のお顔に見えるのです。
これはおもしろいです。
というわけで、そこで大本教のお筆先に「艮の金神はこの世の閻魔と現われるぞよ」とありますが、
「この世の閻魔」ということは、現界の審判をなされるということです。
今までは霊界の、死んだ人を審判されたが、今度は現界で生きた人間を審判される。
「この世に現われて」というのですから、現界に現われて審判をするというわけです。
「今までは蔭の守護でありたが、今度は表の守護になるぞよ」とありますが、すべて現界的になるわけです。
では、それはいつかと言いますと、だいたい明治二十五年のは、霊界から現界に、つまり一段近寄ったわけです。
霊界でも三段になっていまして、一段ずつだんだんと近寄ってくるのです。
それでいよいよ最後の段をすまして、直接現界に現われるというのが今日からなのです。
そうすると、今日は最後の審判の初日というわけです。
恐ろしいですが、しかしそれはこっちに邪念があったり曇りがあったりすると怖いので、
そうでなくてこっちが本当に正しく立派な心を持っていればありがたいのです。
今まで悪い奴にいじめられたりしていた、それがいじめられなくなるから、善い人間には非常に結構です。
それから「今度は善悪を立分けるぞよ」とありますが、これは私は始終書いてます。
最近いろんな汚職事件がめちゃめちゃに現われてきました。
よくもそういった不正事件が出るということは、今までに例がないように思います。
これもいわゆる審判が近寄ったということを現わしていると思います。
それで、艮の金神様が表に現われるということは、艮の金神様は火の系統の神様ですから、そこで非常に光が強いのです。
やっぱり霊界が明るくなるのです。
だから今まで隠していたり隠蔽していたものが現われるのです。
目に見えるわけです。そこでいろんなそういうことが出てくるのです。
それから今年からまた一段と病気が多くなります。
それとともに薬毒がだんだんはっきりしてくるわけです。
以前も言ったとおり、恐怖時代の一歩に入ったわけでもあります。
そうなるとメシヤ教というものの発展が著しくなり、大いに発展するわけです。
その段階に入ってきたわけなのですから、大いに働き甲斐があるわけです。
今まで押さえつけられていたのが、その押さえつける力が弱るわけです。
今まで十回も二十回も話をしなくては分からなかったのが、
今度は五、六回で分かるというような意味になるわけです。
そうかといって、神様のことは急に目に見えるようには現われないものなのです。
つまりなんとなくジリジリジリジリ進んで行くわけです。
今年、来年、再来年というように、年々早くもなるし、それからはっきりもしてくるのです。
とにかく今年から神様が表になったということは、確かなのですからして、
そこでメシヤ教というものは、今年から世界的に非常に知れてゆくわけです。
いわば、いよいよ舞台に上がったわけです。
今までは楽屋でいろいろ支度していたのが、いよいよ支度ができたので檜舞台に上がるということになるわけです。
やっぱり芝居と同じですから、序幕です。
これはお筆先にありますが、「今度は三千世界の大芝居であるから、悪の役もあるし善の役もあるから」というのがあります。
お筆先というのは実によく書いてあります。
というのは、今まで随分教団の邪魔をしたり、いろいろ良からぬ人が入ってきました。
ところがそういう人に 「あいつは悪い奴だとか、あいつはいけない」とか言いながらも、結果においては、なかなか良い役をしてます。
それは悪い人間でなければできないような良い役をしてます。
だから本当に御苦労様と礼を言いたいくらいです。
これがちょうど、今言った、善の役と悪の役と両方こしらえてあるということがはっきり分かるのです。
もっとも芝居でも映画でも、ああいった脚本でも、善人ばかりでは芝居にならないので、悪人に善人が苦しめられるという、そこに一つの脚色ができるのですから、
なるほど芝居という意味から見ると、悪の役も入り用だったわけです。
そういうようで、神様がやられることは実に深いです。
ですから「あの人はああいうことをしているから悪い、間違っている」ということは、とても言えるものではないです。
そう言っている人は、実はその人自身が悪いことをやっていて、悪いことを言われている人は良いことをやっているかもしれません。
お筆先に「一生懸命、神のためと思い、間違うている事をしている人は、神も困るぞよ」というのがあります。
「これが神様のためだ、これが本当だ」と言って一生懸命にやっていることが、案外神様のお邪魔になっているというわけです。
そこで人間、特に信者は、善とか悪とか決めることはたいへん間違っているのです。
また分かるものではないのです。
ただ、自分が良いと思うことをしていればそれで良いので、人が善いとか悪いとか言う、それが一番危険なわけです。
なにしろ世界人類を救うというのですから、開闢(かいびゃく)以来ない大きな仕事なのです。
お筆先に「大きな器には大きな影がさす。だから器が大きくなければ神の仕事はできんぞよ」というのがあります。
よほど大きな器で、要するに大局的に見るというわけです。
「大乗の善は小乗の悪であり、小乗の善は大乗の悪である」ということはなにごとにもあります。
私はこの間も書いて、栄光に出ていると思いますが、
日本の忠君愛国の、天皇のため日本のためということが実は悪なのだから、
日本のため陛下のためのみを思うから大東亜戦争のようなものを起こしたのです。
その「ため」と思った結果、朝鮮も中国も、ほうぼうの国も、みんな酷い目に遭うわけです。
そうしてみると、我欲、自己愛という結果になります。
だから世界人類のためということが本当なのです。
私は最初から忠君愛国的のことはぜんぜん言わなかったのです。
どうしてもそれでは結局悪なのです。
そこで世界人類というところに目標をおけば、これは本当に正しいことなのです。
この小乗的考え方が非常に難しいのです。
そこで、神様のために一生懸命になっていて、実はお邪魔をしているということは、やはり小乗的のためなのです。
自分の小乗的頭で考えると、それはどうもいけなくなるのです。
ところが大乗的というのは、要するに結果です。
一人でも多くの人を仕合せにするというところに目標をおけば、別に難しいことはないので、分かるわけです。
自分の家族の者でも、亭主とか女房とか親父とか娘とか伜(せがれ)とかが、
どうも神様のことが分からない、いつも反対して困るということは、ある程度は分からせたいと思ってもよいが、
あんまりそれに固執するということは、やはり小乗的考えです。
それよりか、他人、世間の人間を多く分からせたいと思うことが本当です。
そうして他人を一人でも多く救えば、その酬いが自分に来るからして、自分の家族でもなんでも分かるというわけです。
よくお蔭話に「どうも自分の伜が分からない」とか、そういうようなことがありますが、これはまだ本当の線に入ってないのです。
だから自分の家族などは神様にお任せしておくのです。
そうしてどこまでも世間一般の人を一人でも多く分からせなければならないということです。
それもこれも、その人によって分かる時節がありますから、
ある程度までは一生懸命にやっても、その先は神様にお任せするというようにしておれば、かえって結果がよいので、早く分かります。
そこで、こういうことがあるのです。
今言ったとおり、艮の金神様を押し込める方の総大将が天若彦尊とすると、天若彦尊という神様は天邪鬼的で、非常に素直でないのです。
いわゆるケツ曲がりで、なんでも曲げるのです。
それで、その一派がずっと世界を支配してきたからして、人間の心というものが、みんなそういうふうに歪んできたのです。
だから、どうも逆になるのです。良いと言って奨められると、ちょっとあべこべになって、
「あんまり奨めるから・・・そんなしつこく言わなくても、オレだって分からないことはない」と言って、逆に変に反対になるのです。
そういう癖が非常にあるのです。特に日本人には多いです。
ということは、天若彦尊の系統が多いわけです。
そこで、お筆先に「素直が一等であるぞよ」ということがあります。
というのは、あまりに人間が素直でないからです。
いろんなことで聞いたり見たりしても、アメリカ人などは非常に素直です。
だから一致するのです。
日本人というのは、その点においては実に変わってます。
アングロサクソンの方は、政党でも二つか三つしかありません。
とにかく政党でも宗教でも、なんでも日本が一番多いようですが、これはまた実に、反対な、素直でない、一致しない、というのは、日本人の性格です。
ところが日本人というのは霊的に見ると一番高いのです。
一番優秀なのです。だから、浄霊をするにも・・・今に世界中の人を浄霊するようになるでしょうが・・・日本人が一番治ります。
それは霊が一番強いですから・・・。
そこで日本という国は、邪神の方では一番に狙うわけです。
ですから日本人が良くなると世界中が良くなるのです。
世界の種みたいなものです。
それを今の人は知らないから、かえって白人の方が良いと思っているのです。
女の人などはアメリカの兵隊とか、そういったアメリカの人に惚れるのです。
日本の青年の方が軽蔑されているのです。
今の若い女性は、アメリカ人に身を任すということを非常に喜んでいるようです。
というのは一つの崇拝です。あっちの人が偉い、上等だと思っているのです。
ところがナンゾ知らん、日本人が一番上等なのです。
そこで、艮の金神様のお筆先にそういうことを非常に残念だということが、よくお筆先にあります。
ですから霊的レベルは、日本人は地平線より上にあるのです。
日本人以外は全部下なのです。
ところが日本人があっちの人を崇拝すると、やっぱり下に落ちてしまいます。
ですから、これも・・・艮の金神様という最高の神様が下に落ちて、枝の神様が上にのさばって好き勝手なことをしている・・・
「神も残念であるぞよ」というお言葉があります。
それはそういう意味なのです。
それがとにかく現界で三千年続いたのが、いよいよ表に現われるという、その機関がメシヤ教です。
そこでメシヤ教が今年からいよいよ世界的に知れてくるわけです。
これは神様はちゃんとそういうふうな仕組みになってますから、そうなることは分かってます。
それが、いよいよ今日がその初日になったわけですから、そのつもりで見ているとよく分かるわけです。
それで今年メシヤ会館ができるということは、その現界的に変化をする、転換するということがピッタリ合うわけです。
いつも言うとおり、熱海は体の方ですから、つまり現界的に現われるわけです。
地上天国が、今年は会館と水晶殿、来年は美術館というようにできるということは、とにかくそれからが本当に世界的に知れてくるわけです。
日本から知れるのが本当ですが、なにしろ日本中が今まで外国崇拝になってますから、
神様はそれを利用して、外国から先に分からせるということになっているのです。
お筆先に「灯台下は真暗がり、遠国から分りて来るぞよ」というのがあります。
一言にして実によく・・・寸鉄殺人的に書かれたわけです。
そういうようなわけで、いよいよこれからおもしろくなってきたというわけです。
そうして、それについて、地上天国は、芸術が救いの一つの大きな役目をするわけですが、
それはどういうわけかと言うと、地上天国ができますと、それは見物人がたいへんです。
少なくとも日本人の半分以上は見に来るでしょう。
この間のアメリカの新聞記者のグリリという人と、もう一人は名前は忘れましたが・・・観光事業の方を専門にしている人です・・・
この人たちの話では「アメリカに来ればどうしてもナイアガラの瀑布(ばくふ)を見なければならない。
それと同じように、日本に来れば熱海の地上天国を見なければならないということになる。
岡田さんはそれほどには思っていないだろうけれども、確かに僕はそう断言する」と言っているそうです。
ところが、私はそれ以上に思っているくらいです。」 (後半省略)
明主様御講話 「国常立尊様が表面に現われる」 (昭和29年2月5日)
「昨日は立春で、一昨日は節分ですが、この節分というのは大本教にたいへん関係があるのです。
最初大本教を開いた神様は国常立尊という神様です。
この国常立尊という神様は、鬼門の金神と言って、鬼門に押し込められたということになってます。
この神様について話してみます。この神様は元世界を支配していたのです。
それで、あんまりやかましい・・・というよりか、あんまり厳正で、厳しいので、とてもやりきれないというので、
他のたくさんの神様が艮(東北)に押し込めたわけです。
その神様は三千年の間隠退されて、その間霊界にいて閻魔大王となっていたのです。
それが今度「艮の金神はこの世に閻魔と現われて、世の立替え立直しを致すぞよ」というお筆先があります。
そういうわけです。それについて、最初のお筆先に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」ということと
「今度は炒豆に花の咲く時節が参りたから、神も嬉しいぞよ」というお筆先があります。
節分には豆をまきますが、これは、その時の邪神の総大将が天若彦尊という神様ですが、
その時に「炒豆に花が咲いたらふたたび出てこい。それまでは出られないように押し込める」ということなのです。
ですからしてあの豆まきということは、そういう意味なのだそうです。
これは信じられないことはないです。
ところが、それに対してお筆先には「今度は炒豆に花の咲く時節が来るぞよ」というのですから、炒豆に花が咲いたわけです。
それがいつかというと、明治二十五年に始めたのですが、私は一昨日の節分の日にたいへんな神秘、奇蹟があったのです。
それは、これからいよいよ国常立尊様が表面に現われるというわけです。
「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」という「艮の金神の世になりたぞよ」ということは、自分が世界の支配権を握るということです。
それが、今までは霊界だったが、これからは現界に現われるのです。
それが一昨日その型があったのです。
神様はすべて型でやり、型を見せるということになってます。
ですから一昨日現われた型というのは、私は三年も前から努力していたのです。
それがだんだん延びていて、一昨日それがはっきり出たのです。
それで私は非常に喜んでいるのと、大いに祝ってよいと思っているのです。
では、その結果どういうことになるかというと、これは閻魔大王というのですから、審判の神様です。
つまり善と悪とを立て分ける、善は栄え、悪は滅びるというお働きです。
それがこれからはっきり現われてくるわけです。
その点から大いに変わるわけです。
世界も、特に日本がそうです・・・霊界から言うと日本が元ですから・・・。
ですから、つまり霊界が明るくなるわけです。
明るくなるということは、勿論火素が増えるわけですから、今年あたりから病気がボツボツ増え始めるわけです。
それからいろんな悪いことも秘密なことも浮かんでくるわけです。
最近いろんな汚職事件があっちからもこっちからも出てきますが、これも今まででは珍しいことです。
これもソロソロその最初の現われのように思われるのです。
そういうわけで、ある時期にゆくと、病気の増えるのも・・・これは一ぺんになりそうです。
ですからそうなったら、いつも言うとおり、とても忙しくなりますから、今からその覚悟をしていてよいです。
その代わり信者の人でも、少しボヤボヤしていたり、あるいは神様の言われることに違ったりすると、手厳しくやられることになるのです。
それもボツボツは出ているようです。
これはあなた方もよく知っているでしょう。
それで、お筆先に「神厳しくなると人民穏やかになるぞよ」というのがありますが、これは非常におもしろいです。
そこで、人間が我を通していばったり、言うことを聞かなかったりするとやられる、ということが、だんだんひどくなるわけです。
そういうわけで、今までとは違ってきます。
特に、来年いっぱいで熱海の地上天国が完成しますから、これができると、それは現界的にはっきりしてきます。
まだできかかりですからそこまで行ってませんが、まだボツボツというところです。
熱海の地上天国もやっぱり型です。
神様はなんでも型で見せますから、型ということをよく注意して見なければいけないです。
それで、つまり型が育つのです。
そういうようなわけで、大本教というものは、やはりたいへんな意味があるのです。
しかし、大本教の意味というものは、つまり私の仕事の準備です。
「弥勒三会」と言って、仏教の方の言葉があります。
「弥勒三会の暁」とか、あるいは「弥勒三会の鐘が鳴る」という言葉がありますが、弥勒というのは、三人あるのです。
それは日の弥勒、月の弥勒、土の弥勒というわけで、日、月、地になっているわけです。
それで、弥勒の中心というのが伊都能売の身魂です。
大本教の教祖という方は、「イズの身魂」と言って、つまり経です。これは父になるわけです。
次の出口王仁三郎、聖師様という方は母の身魂になるわけです。
だから、変性男子(へんじょうなんし)と変性女子(へんじょうにょし)と言って、
女でいて男、男でいて女というわけで、霊と体とは違うわけです。
それで、教祖の父と聖師の母との間に生まれたのが私になるわけです。
ですから私が伊都能売というわけで、経と緯を結んだ真ん中が私になるのです。
教祖の方は経ですから霊になり、聖師の方は緯だから体になり、それで霊と体を結んで力が生まれるのです。
力というものは、霊体一致、霊体が結んで力を発生するのです。
ところが今までは、釈迦、キリストにしろ、ああいった偉い人は結んでなかったので、片方だったのです。
釈迦は霊でキリストは体、釈迦は経でキリストは緯ですから、力がなかったのです。
それで力というのは、一番は病気を治すことです。
ここ(掌)から出る、目に見えない、一つの気、火素と言いますが、この力というのが、つまり霊体結んだ力なのです。
ですからこういうことがだんだん分かってくると、実にはっきり分かるのです。
今まで随分偉い人でも、こうやって病気を治すということはなかったということは、力がなかったのです。
ということは、霊体が結ばれてなかったのです。
そしてまた、時期がそこまで行ってなかったということです。
この話はいずれだんだんにはっきり分かるようにします。
それで、神様は今まで、それをはっきりしてはいけないということになっていたのですが、今度いよいよ節分から変わったのです。
ですからこういう点も、これからだんだんはっきり説いてゆきます。
そうするといろんなことがいっそうよく分かります。」