伊都能売金龍について


明主様御講話 「八大龍王について」 (昭和26年9月21日)

「これは「文明の創造」における「宗教篇」です。この前読みましたがその続きです。

これはみんなが分からないことをずいぶん書いてますからおもしろい点も大いにありますが、

また非常に参考になる点もありますから特別耳の穴をかっぽじって聞きもらさぬように。

(御論文「仏教の起源」「伊都能売神」「観世音菩薩」発表)

これでまだいろいろおもしろいことがあるが、ちょっと書けないことがそうとうあるのですから、そういうのは話をするかしようと思っているが、

ここに伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子供で五人としてあるがもう一人ある。

もう一人というのは伊弉諾尊と言う神様は国常立尊(くにとこたちのみこと)になるんですね。

息子に国武彦尊(くにたけひこのみこと)と言うのがありそれが一番長男になる。

当時大将軍と言い勇猛でかなり勝手なことをやっていたその罪によって、言わば地獄に行かれたようなことになる。

一番末が初稚姫尊(はつわかひめのみこと)と言い、これが天理教祖の中山みきとなる。

そういうようにいくども生まれ変わっている。大将軍の妹になる。

そこで霊界で地獄と言ってもふつうの人間と違います。

修行するんです。修行した結果、大いに世の中のためになろうと言うので天理教祖の中山みきに憑った。

それで中山みきに最初憑ったのは夫の大将軍が憑ったんです。

そういう因縁なんです。

そこで最初のうちは力がありますから病気治しもさせたが、その力によって良く病気が治った。

それで最初は病気治しで世の中に出たんです。


それからもう一つ日本民族の霊的考察の中にありますが、そこにもっていってそれを出雲系・・・素盞嗚尊が利用した。

利用して、そうして、盤古神皇に取って代わろうとしたわけです。

それが徳川家康の系統なんです。

それは霊的考察にざっと書いてありますが、そういう意味です。

天理教の本体を書くことは天理教に悪いですからそこで書かなかった。


それからもう一つ書こうと思って止したことがある。

いまの稚姫君尊(わかひめぎみのみこと)ですね。

これがこの次に書きますがお釈迦さんですね。

ですから釈迦、阿弥陀というのは伊都能売神皇がインドに行かれて観自在天というお名前になられ、霊は釈迦と阿弥陀となった。

阿弥陀は素盞嗚尊です。

そこで稚姫君尊は釈迦になる。

そこで釈迦は変性女子と言われたというのは稚姫君尊だから女になる。

それで弥勒三会にあります「鐘の音」というのがありますが、

三人の弥勒というのは釈迦が報身、報いるという字です。

阿弥陀が法身(ほっしん)弥勒、観音は応身(おうしん)弥勒、これが三尊の弥陀になる。

ところが弥勒三会というのは大本教になる。

大本教はそのために出た宗教です。

大本教祖出口なおと言う方は釈迦の稚姫君尊です。

大本教のお筆先にあるが「直の御魂は半分は国常立尊、半分が稚姫君尊である」というのはそういうことです。

出口王仁三郎聖師様この方が阿弥陀になる。

それで自分は月の神様で、瑞月という名前をつけたんですね。

だから寂光の浄土と言いますね。

月の天国と言うんですね。

そんなようなわけで、大本教の教祖さんが釈迦になる。

そうして聖師さんが阿弥陀となる。

そこの二人に生まれたのが私です。

私が応身弥勒ですね。

この三人が会った。これはだれも知らない。

私は知らせたくないと言うのは、大本教の信者がこっちに来てしまうからね、だから書きたいが書かないんです。

分かったらたいへんだからね。

そんなようなわけで応身の弥勒と言うのは観音です。

そこで観音会をつくった。観音を芯にしてやっていたからね。

つまり大本教は天理教と姉妹教になる。

それで大本教では天理教の教祖を祀ってやっている。

教祖さんの出口なおの妹になる。

で、その親が伊弉諾尊・・・国常立尊になるわけです。

なかなかここのところは不思議です。

すっかり分かればなんでもないが、なかなかね。


それで仏というのは神の化身です。

化身ということはインドは大自在天が支配していたとき、

バラモンというのがインドですから、そこに仏教を弘めなければならないと言うので、

最初 稚姫君尊と素盞嗚尊が行って仏教の基礎を作った、そこに伊都能売神皇が行った。

それを化仏化神と言う。

そのとき天の八人のお子さんで五男三女と言う、これが八大龍王になる。

なぜと言ってそのとき五男三女というのは、自分はインドに行くのは嫌だと言ってどうしても日本にいると言う。

仏はいずれ仏滅の世になると言うので龍神になってそれを待たれた。

日本の近海ですね、越後と佐渡の間だとか、東北のほうにもあるし、房州と関東の間の海、九州の有明、そういう所に飛び込んで時を待った。

それが八大龍王です。

そうして総大将が伊都能売神様ですね。

それが日本に帰ろうと思ったところ、いま読んだように帰れないので霊で日本に来て自分も仏滅まで隠れていると言うので、

先にも言った通り近江の琵琶湖に入り琵琶湖の底に龍神となられて、これが金龍ですね。

それで霊でも霊と体がある。

霊の体のほうは木花咲爺姫(このはなさくやひめ)で、そうして富士山に祀られている。

それから琵琶湖のほうが伊都能売金龍として隠れている。

このことは先に書きましたが、そうして時を待たれた。

そうして約三〇〇〇年、本当言うと二六〇〇年ですが、

これが最初三〇〇〇年のつもりだったが神様のほうで力を強くしたんですね。


それで邪神のほうも書きます。邪神のほうの活動ですね、たいへんなんです。

こういう宗教的なものはいままでなにもないが中味をさらけ出すわけです。

いままではこれを分からせることができない。

なぜ分からせることができないかと言うと時期が早いからです。

やはり成功しないからです。

と言うのはいろいろ夜の世界と昼間の世界の関係もありますからね。

邪神のほうの活躍ですね。

まだずっと先までやるつもりだったが、だんだん神様のほうでも強くなって、邪神のほうがこの辺で往生することになる。

邪神の活躍というのももうじきなんです。

それで五六七の世ができるんですがね。

大本教のお筆先にありますが、「遅き速きはあるが一度神の申した事に違いはないぞよ」

これは千変万化邪神に対抗していくことになるので、いままでの私とメシヤ教に対するいろいろな手も邪神との闘いです。

いまもって続いているわけですがね。

だんだんこっちのほうが勝って行くわけです。

もう一息ですね。もう一息でこっちが本当に勝って行く。

そこでその期限と言うのは来年あたりですね。来年は勝って行く。

しかし先でもいろんな妨害があるんです。

五六七の世まで続くんです。

しかし先のほうでだんだん弱まってきますから、同じ闘いでも楽になってきますね。

ですからもうわずかです。もう一息です。

来年から再来年にかけて、すばらしいいろんなおもしろいことがある。

それから霊界もなかなか複雑ないろんなことがある。


ちょうどいま出てますがね。

中共と連合軍との停戦協定ですが良く現われている。

邪神のほうでもなかなかね。

それから神様のほうでも、つまり一挙にやってしまえば邪神が負けるんですが、

そうすると救われない者や亡ぶ者がたくさんできますから、

神様の慈悲によってそういう者を救いながら分からせる。

そうして被害を少なくしようというのが神様の慈悲なんです。

そのためにまだるっこいようなことがあるんですね。


あんまりまとまらない話ですが、大本教との関係ですね。

一つおもしろいことがある。

私が大本教にいるとき、東京の支部長というのでHという軍人ですが、

陸軍の中佐かあたりで現役じゃなくて退役ですが、大本教でほうぼうに冠句の選に招ばれた。

これが中野の支部長をやっていた。

そこで冠句の句を訂して書いたところ、このHという人の魂によほど刺激を与えた。

これはたいへんだ、岡田さんは唯者(ただもの)じゃない。

そこでついに精神病になって綾部に行ったんです。

私がHさんを発狂させたという噂がたった。

それで綾部に行ってNBと言う人で熱心な信者で幹部になったが、

そこの家はHという家といくらか親戚で、すると聖師さんから私に電報が来てすぐ来てくれと言うので行った。

いまHが精神病になり私の所で治らないからあなた治してくれ、

どうもあなたが原因らしいと言うので、とにかく会いましょうと言うので会った。

みんながいる所では話ができないと言うので別間に行ったところ、ふつうの精神病とは違う、まじめです。

私の御魂はこう言うんです。

私は世の中をもち荒らした邪神の頭目じゃないが、邪神の頭目にすっかり瞞されて世の中をもち荒らした。

それでどうしても霊界に行かなければならない。

そうしていままでの罪を贖罪しなければならない。

しかしあなたは霊界で長い間苦しまれていたが、私と交替になるのでしっかりやってもらいたいと言うんです。

精神病どころじゃない。

つまり神様は精神病にさせておいて知らせるんです。

だから神様はなかなかうまい手段で知らせると思った。

国常立尊が閻魔大王で三〇〇〇年の間霊界で観ていられた。

それが今度出たお筆先に、「今度は国常立尊がこの世の閻魔になり世の建替えを致すぞよ」というのがあり、建替えとは審判です。

だから今度は俺を使って国常立尊が審判をするんだと思った。

それからすぐにHという人は死にました。

いろいろなことがあり、なかなか神秘です。

本やなにかに書くことができないんです。(速記)」




明主様御講話 「仏滅と八大龍王」 (昭和28年4月16日)

「昔からある上人、大師、禅師という高僧の霊は、これは地上天国の多賀夫人の霊憑りにもあるとおり、

そういう偉い坊さんたちが霊界で非常にあせっているのです。

というのは、霊界がだんだん明るくなるにつれて、仏滅ということがよく分かってきたのです。

大体仏というものは、みんな神様の化身です。

これはお釈迦さんが、仏滅の世の間は神様では駄目だから、隠退して時を待つか、さもなければ仏になって働けということを言われているのです。

そこで日本の八人男女という五男三女は、仏になるのは嫌だというので、

それでは龍神になって時を待てというので、八大龍王となって時を待ったのです。

それでお釈迦さんから名前をもらって、それでお釈迦さんに封じ込められたということになってます。

インド名ですから、なかなか妙な名前で覚え難いのです。

その龍神たちは日本の周囲の海に隠れて、というよりか、そこに約三千年の間住んでおられたのです。

それでいよいよ仏滅になって、今度は神様になる、つまり元の身分になるわけです。

それともう一つは、今言った仏様として働いた神様、そういう仏たちが早く神様になりたい、

そうして京都のいろんな仏像や仏画が自分たちの居所になるわけです。

それに憑っているわけです。それで今まで拝みに来る人などを守護していたのです。

しかし守護していたといっても、仏の力というものは月の光で薄いから、御利益を多くは与えられないのです。

どうしても太陽の神様の光でなければならないのです。

それで太陽の光というのは、神様になってその働きをするわけです。

ですから仏が神様になるというのは、今なのです。

それで八大龍王の一番の神様が伊都能売神龍です。

これが近江の琵琶湖に隠れていたのです。

それでほかの龍神は方々の陸地に近い湾のような所・・・越後と佐渡の間の海にもいましたし、

駿河湾、伊勢湾という所にもいて、そうしてまたその間、日本を守っていた点もあるのです。

そういうようなわけだったのです。」




明主様御垂示 「八大龍王について」 (昭和23年10月28日)

信者の質問
「八大龍王について、

(一)特に龍神になられ日本近海に封じられた御因縁、

(二)現在のお働き、

(三)「八人男(やたりを)と女(め)唯一柱の神御霊(かむみたま)とならせ此土に伊都能売之神」との御讃歌の意味、

(四)鳴戸海峡にもどなたかお鎮まりだったのでしょうか。」

明主様御垂示
「八大龍王は日本の神ですから、日本の近海に鎮まっていて時を待った。

この時、仏になろうとしてインドヘ行ったが、仏のお働きは具合が悪いので仏滅まで待てというわけで日本に帰ってきて鎮まった。

これは本当ですよ。ほかのことでも立証できます。現在は人間として働いてます。

ほとんどみな観音教団に入っていますよ。

「八人男と女」は本当は九柱で九大龍王です。

その中の一柱が伊都能売大神です。

この神様は私と深い因縁があり常に私を守護してくれています。

昔これが私にかかりいろいろなことを知らせてくれました。

この金龍は琵琶湖に潜んでおり、また富士山の二合目、久須志神社の神です。

やはり霊にも霊と体があり霊は富士山の木花咲耶姫尊で体は琵琶湖におり、昭和四年四月二十一日にここを出て天に昇られたが、その時は大暴風雨で漁船が四十七隻沈んだそうでこれは当時の新聞に出たことです。

それから殊に鳴戸に鎮まった神はありません。

海の神は「金刀比羅和気(ことひらわけ)命」と言って海を守護しておられる。

これが「金比羅様」です。」


信者の質問
「木花(このはな)と兄花(このはな)とはどのように違うのでしょうか?」

明主様御垂示
「花でいえば木花(きのはな)は桜で兄花(あにのはな)は梅です。

どちらも観音様ですが、木花は仏界の観音様で、兄花は神界の観音様です。

梅は春になると一番先に花が咲くでしょう、だから兄です。

ふつうは花といえば桜を意味しますね。」




明主様御垂示 「大神御隠退と八大龍王御隠退の地」 (昭和24年11月2日)

信者の質問
「釈迦が八大龍王を封じたと伺っておりますが、八大龍王は印度におられたので御座いましょうか。

また釈迦にはそれだけの力があったもので御座いましょうか。

また八大龍王の名は日本語と印度語とありますが、いかなる関係で御座いましょうか、御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「八大龍王は日本の龍神である。釈迦が封じたという伝説であるが、これは信はおける。

神様が御隠退の時、神の世は仏の世になった事になっている。

すると神の働きが出来ぬ。

仏になるか、または時を待つ事となるかである。

八大龍王は、日本の近海へ入って時を待っていた。

殆んど人間に生れたり、憑ったりしている。

東京湾とか十和田湖にいた。

インド語もあるが、日本語では神名である。

神の総領は伊都能売大神である。

天照大神というより、本当は、伊都能売大神が御隠退になった。

琵琶湖と富士山に御隠退になった。」




明主様御垂示 「八大龍王について」 (昭和26年8月8日)

信者の質問
「御讃歌の中の「八大龍王唯一柱神御魂とならせこの土に伊都能売神」の八大龍王とは、その中のお仕事で、八大龍王がそれぞれのお働きをなさるわけでしょうか」

明主様御垂示
「そうです。その中の総帥が伊都能売神です。八大龍王は家来ですからね。」


信者の質問
「赤龍、黒龍には関係ありませんでしょうか」

明主様御垂示
「おおいにあります。

ですから八大龍王が家来になって闘っている。

五男三女と言うのは、五柱の男神様と三柱の女神様ですね。

そのまた眷属があり、関係があります。」




明主様御教え「金龍物語 (口絵霊写真の解説)」 (昭和10年5月21日発行)

「この霊写真にある龍体は、余の守護神であって、特に神秘ないわれがあるから、詳説しようと思う。

時は、昭和四年四月二十一日、春波穏かに、夢のごとく、霞立こめたる、近江の国琵琶湖の湖上、

須臾(しゅゆ。少しの間のこと)にして、時ならぬ一陣の突風、吹くよと見る間に、一大暴風雨と化し、

哀れ、遁(に)ぐるに間とてなき、四十数隻の漁船は、転覆したのである(その事実は、当時の各新聞紙に掲載された)。

ここに、今より三千余年以前、天の安河原の誓約(うけい)に依て生れ給いし、

五男三女の天津神が、ある事情の為、隠れ身の止む無きに立至り、弥勒神政までを限りとし、

各々、龍体となって、日本を中心に、各方面の海洋湖水等に身を潜め、時を待ち給い居たのである。

彼の釈尊が八大龍王を封じ込めたりと言う伝説は、その事に外ならないのである。

しかるに、八大龍王の上に、一の主龍神が被在(あら)れた。

御本体は、伊都能売(いづのめ)神龍と申上げ、実は、高貴なる御神霊が、黄金の龍体と化せられ、

琵琶湖の湖底深く潜み給い、八大龍王と倶(とも)に、時を待たれ給いたのである。

ここに、いよいよ、天の時来りしを以て、湖水を後に、天空に向って一大飛躍をせんとしたのである。

しかるに、一方、邪神の頭目として永く露西亜(ロシヤ)の死海を本拠として、

常に、世界人類へ対って、悪の活動を続けていたる、一大赤龍があった。

その大赤龍が、突如として、昇天せんとする、大金龍あるを識るや否や、

大いに驚き、急遽、翔馳(しょうち)し来り、これを妨圧せんとし、

ここに、神龍、悪龍の一大戦闘は開始されたのである。

しかしながら、予期しなかった金龍の金剛力に、到底敵すべくもないのを知って、

遂に惨敗した赤龍は、遠く本拠へ向って遁走し、

ここにこの時の戦闘は終りを告げたのである。

この戦いが、大暴風雨の原因であったのである。


越えて、翌一ケ月後の五月二十日、当時、大森旧八景園に、在住し居たる、余が住宅の上空に、一時間余に渉り暴風雨、雷鳴があった。

這(こ)は、さきの金龍が、余の守護神たらんとして来たのであって、

この、雷鳴暴風は、余の居所の上空の邪気を浄化する為の活動に、外ならなかったのである。

因みに、旧約全書にある赤い辰(たつ)即ちサタンは、

前記の赤龍の事にして寓意的に書かれたる旧約全書の予言が、実に偉大なる記録であり、

全く神の啓示である事を知って余は驚いたのである。


その後、三年を経た、昭和七年春、前記の赤龍が、ある人間に憑依し、余に対し、戦いを挑み一大攻撃を加え来ったのであるが、

この時も、金龍の守護活動に依って、勝利を博し、事無きを得たのである。

そうして、頗る執拗なのがサタンの特性であって、その後に至っても、

次々、種々なる人間に憑依し、あらゆる手段を尽して、余の活動を妨害せんとし、

常に金龍と対戦しつつあるのである。

近くは昨年の秋も、ある人々に憑依して、余を攻撃したのであるが、

一時は余の敗北と観られたが、実は結果において、一大勝利を博し、

反って、この時の赤龍の活動が、観音運動の促進に、与って力あったという、

まことに、皮肉な結果に畢(おわ)ったのである。

実に、大神の経綸こそは、人智を以てはかられざる、幽玄微妙なる事を熟々(つくづく)感じた事である。

しかし、神と悪魔の戦いは、今後も持続し、両雄千変万化の智謀を揮(ふる)い、策戦を練るべく、一面興味ある神劇とも言うべきであって、

そのスケールも、漸次、大となるべき事は今より想察し得らるるのである。

写真の龍体が、全身一定の太さを保っているのは、不思議に余も思ったのであるが、

啓示に依れば、神龍は右の姿が本当であって、その大きさも数尺に過ぎない様であるが、

霊界においては、あらゆる霊は伸縮自在であり、

特に龍体においては、何万尺の巨龍も僅々(きんきん)数尺になるのであるから、

右金龍もいかに巨大な御姿なるかは、想像を絶するものありと思うのである。


次に又現存せる大蛇の類は、悪に属せし結果、

長年月に渉り、種々の生物を呑嚥(どんえん)する為、

口は裂け、顎部(がくぶ)突出で、腹部は膨脹して、

今日見るがごとき、醜悪な姿となったのであるという事である。」(仁斎)




明主様御垂示 「明主様の守護神は伊都能売金龍」

金龍の夢

信者の質問
「金色燦然たる金龍を再三夢に見ますが、これはどう解釈すればいいでしょうか。」


明主様御垂示
「必要があり、神様が見せてくれる。

正守護神が神様に願って見せる場合と、神様が命令して見せる場合がある。

その人の信仰を増すためとか、金龍に因縁のある人である。

金龍は私の守護神で、伊都能売神である。」




明主様御講義 「伊都能売金龍」 (昭和10年7月15日発行)

「富士山と琵琶湖は日本の臍(へそ)に当り、富士山が表、琵琶湖は裏となり、これを邪神に占領されると日本が自由になるから、

観音様が富士山に兄花咲耶姫として、

又、伊都能売之大神様は金龍となられて、近江の琵琶湖に御潜みになられた。」 (観音講座 第一講座」より)




明主様御垂示 「八大龍王の湖」 (昭和24年12月20日発行)

信者の質問
「八大龍王は日本の近海や湖に御鎮りになって時を待たれた由ですが、それはどこどこでしょうか。」


明主様御垂示
「ああ、これは言えませんね、判らないのもあるんです。

判っているのは有明海、越後と佐渡の間、十和田湖、東京湾、紀州の和歌の浦、まあ、そのくらいは判ってますがね。」




明主様御垂示 「琵琶湖富士光玉の奇瑞」 (昭和24年7月23日)

信者の質問
「丁度下図の日本地図の琵琶湖の辺へ上の方から実に綺麗な強い光の玉が降って来て(その玉はダイヤのように光る玉です)

その玉を見逃すまいと見つめておりますと、富士山の辺まで行ってまた帰って来て、琵琶湖の辺で元の玉と一所になるのです。

そしてそのまわり一面は五色か七色のとても綺麗な点々とした色が見えます。何かの御知らせでございましょうか。

平常は見えませんが、見ようと思って見れば見えるのでございます。あまり綺麗なため御伺い致します。」


明主様御垂示
「伊都能売神は、霊は富士山、体は琵琶湖に金龍としておいでになる。

それで琵琶湖と富士山を行ったり来たりしておられる。

Nの信仰が復活するよう、先祖が神様にお願いして見せて下さる。

大先生のお腹の玉と関係がある。」




明主様御垂示 「琵琶湖龍巻四十分間」

信者の質問
「昭和九年九月二十二日午後四時頃から約四十分間写真のような龍巻が琵琶湖上(堅田浮御堂沖二浬の地点)に起りました。

目測直径二メートル位の水柱は天に冲(ちゅう)し、漸次北方へ移動致しました。

場所は昭和四年四月二十一日の大龍巻と略(ほぼ)同じであったそうで御座います。

いかなる神秘があるので御座いましょうか。御教えを賜りとうございます。

また、この写真を撮影した千舟写真館は滋賀県下に知られた大きい店で御座いましたが、

その後日ならずして衰微し、家人も全部死に絶えて、今は跡方もないそうで御座います。何か訳が御座いましょうか。」


明主様御垂示
「四十分間というのは今迄に例がない。」




明主様御垂示 「本教信徒の願い言の功徳著し 雨乞の奇象」 (昭和24年8月9日)

信者の質問
「去年、志賀地方は旱魃がひどかったので、村民が相談の結果、志賀山寺の洞窟の不動尊に願がけをして雨乞いをしました。

その時は私も入信したばかりでしたが、御守りさんを胸に付け、八月二十日より一週間祈願致しました時、その祈願中に神憑り的になり、八大龍王の御告げにより二十三日夜、目の前に雨を降らして頂きました。

委(ちどり)神社の雨神にも御礼申し上げしところ、その龍神、母と娘四人あり、母が病気で困っておりましたので、私が浄霊しますと全快しました。

その時その長女玉姫を宗福寺にいる金龍のところへ嫁に行く話が纏り、十月十日午後十時、不動尊の岩穴の行場で婚礼の式を挙げる事になりました。

その翌日に当る十一日、岩穴に行きますと、不思議にもローソクの融けたものが、黒色の龍神が玉をくわえた形であります。

大切に木箱に納めてありますが(現在宗福寺)右はいかなる理由でありましょうか。」


明主様御垂示
「自分の姿をローソクで作って見せたのである。

龍神を助けたのは大変功徳である。

八大龍王の支配者は伊都能売金龍で、観音様の守護神である。

であるから、本教信者がお願いすると、金龍様に通じ、金龍様は八大龍王に命令さるる。

であるから、村中総出でお願いするより信者一人がお願いした方が、ズーッと御利益がある。」