伊都能売神について


明主様御教え 「本地垂迹説」 (昭和10年7月25日発行)

「観音様は、日本の仏様と言う事は、日本より出でました神様の化身であらせられ、祝詞にもあります伊都能売之大神様であります。

釈迦時代、印度へお渡りになって、補陀落(ほだらか)山という山へ、御宮を建てて、種々と経綸をされたのであります。

そして約三千年後に日本へ御出現になるという予言の下に、種々な事をお釈迦様に伝えられた。

そして御自分は、一旦御昇天になられ、霊体に依って、今まで、観音として御活動をなされたのでありまして、

お釈迦様の仏教に依って中国を経、朝鮮を経て、日本へ入られたのであります。

つまり御自分が御留守中の日本が心配になるんで観音様に化現され霊身を以て、

日本に間違いのないよう、又現身に依る御出現の準備工作も共になされたんであります。

本地とは、本の土地という事で、本の土地という事は、即ち日本という事であります。

仏教の真髄というものは、伊都能売之大御神様が、御釈迦様に教えられたのが根本で、

お釈迦様は檀特(だんとく)山で修行してある程度まで悟ったが

それから先が、どうしても分らなかったところ恰(あたか)もよし、

この時印度の南方補陀落(ほだらか)山に坐(ま)す、南海大士(別名、観自在菩薩)を知ったのである。

そこで早速、補陀落山へ登って、南海大士即ち後の観世音菩薩から、深奥なる天地の経綸を聞かされたのであります。


この事を、華厳経にこう出ております。

南方に、ホダラカと呼ぶ山あり。

観自在菩薩在り。

時を得て、善財童子(釈迦如来)が遊行してその山の頂に上り、菩薩を尋ねて会う事が出来た。

その地は樹木生い茂り、処々に流泉と湿地があり、

その中心のいとも軟かき草地の上の金剛宝座に観自在菩薩は結跏趺坐(けっかふざ)なされ、

多くの聖者達に恭敬されながら、大慈悲経を説諭されて居たとあり、

その時の侍者として、二十八部衆居り、大弁財天、大梵天王、帝釈天王、金色孔雀王、毘舎門天、阿修羅王等の外、ナーラーヤナ金剛、ワジラバーニ金剛の兄弟二人(仁王尊)等の諸天である。


又 中国天台の始祖、南岳大師(なんがくだいし)の記に、

(昔は霊山会場(えじょう)にあって、妙法蓮華経を説き給い、今は西方浄土に在して阿弥陀仏と名付け奉る。

しかも人界普門に示顕しては救世観世音菩薩となり給う。

故に過現未にわたる三世の利益は、これ観音一体に帰す。)

こういう訳で、南岳大師の言うごとく、法華経も、実は、観音が最初骨子を説かれたのであって、

未来に渉る世界経綸の鍵は、釈尊が七十三歳の時に観音様から秘かに開示せられたのであります。

故に、吾七十三歳にして見真実を得たりとの釈尊の言葉は、この事を指したのであります。

それが判ったから、正像末、即ち、末法の後が仏滅という事を言われたんで、

仏が滅するという事は、観音様から知らされたんであります。


それで、本地垂迹(ほんちすいじゃく)という事は、本の国へ救を垂れるという事で、

それは日本から出た神様でありますから、故郷の日本を救わんとされたのであります。

しかし、霊であられるから、止むを得ず、仏師が拵(こしら)えた像とか、

坊さんの書いた画とか書とかを拝まして救いを垂れ給うたのであります。

それで、本当の御姿というと一寸八分の金無垢の御像になっております。

黄金は、観音様の御本体であり、又清浄無垢なものであります。

又、金は高価なもので、大きな物が出来ませんから一寸八分にしたもので、

一寸八分という事については光明世界の第二号に詳しく出ておりますから御覧になれば判ると思います。


今までは、木仏とか金仏、あるいは画など、そういうものを通して救いを垂れたんであります。

それを基督(キリスト)教等では、偶像崇拝などと言っておりますけれど、

信仰は矢張り的(まと)がなければならぬもので、基督教では、霊体の関係が解らないからそう言うのであります。

神様仏様の方でも、人間を救われる場合、何物かを通じれば、非常に具合がいいんであります。

ちょうど、ラジオの中継放送のような理屈であります。

又、祈る時に、ある物体に向えば、人間の方でもそれに精神が籠(こも)りますから、神仏へ通じ易いのであります。

所が、段々と世の中が行詰って参りますと、今までのような、物体を通しては、救の御力が弱いのであります。

それではいつまで経っても、真の地上天国を造る事が出来ないのみならず、

人類の悩みが益々激しくなる、それが約束の時期が来た事なのです。

生きた人間を通して、直接お救いにならなければならなくなったのであります。

生きた人間なれば、木仏金仏とはマルデ違う木仏金仏に、いくら物を訊いても、応えてはくれません。

病気だからと言うて御願いしても、直接、手を出して治してはくれません。

観音様が、御神体を御書きになりたいとすると、これも人間の体を通せば、思う様に書ける。

光も入れられるんであります。そういう風に、木仏金仏と生きた人間とは天地の相違であります。

ところが人間は、今まで木仏金仏を拝んでいた癖があります。

その為に、生きた人間、糞を垂れ、物を食う人間を、却て信じ難いのであります。

しかし、私にある期間接近された方は、それらの真諦を能く悟り得られて、絶対の信仰に入られるのであります。

しかしいずれは、人類の夢にも想わぬ、驚くべき、観音力をお出しになるんだそうですが、

今は必要だけの力を出されるのだそうです。

霊写真なども、一つの例で、観音力のほんの片鱗を見せて下すったのであります、観音様は力の主でありますから、

今までの外の神様や仏様を拝む様なつもりでいると、一寸勝手が違う訳であります。

要するに、不可思議力を揮われるのであります。


今日もある人が、それは五六日前に、観音様をお祭したのでありますが、ある役所の課長級の方であります。

前から奨めてもなかなかお祭りしなかったんですが、最近やっと祭られた方であります。

今日会いましたから観音様をお祭りなすってからどうですかと訊きますと、

その人いわく、実に不思議な事には、役所へ行くと部下の者が、今までより余計に頭を下げる。

しかも、今までは部下に命令すると、いつも不承無承に仕事したのが、あれからは非常によく言う事を肯(き)く。

従って仕事は渉(はか)がゆく、どうしてもこれは観音様がなされているのに違いないと思うとの事で、

私は、それは当然の事で、観音力を戴けばその人に自然と、権威が着くからだと説明してやりました。

即ち、霊的向上する為に、何となく崇められる様になるんで、自然に頭を下げられる様になるんです。

病気の治るなどの外に、こういう御利益もあるのです。

先刻、ある婦人に、こういう事を話しますと、実は、自分もそういう事があるんで、

最近、子供の付添に学校へ行くと、小使等が、今までと異って、とても親切に、丁寧にしてくれるんで、

小使に何か与(や)っているんではないかという評判が立ってる位だと云う話であります。


話が、横へ外れましたが、又本論へ戻りましょう。

本地垂迹について、大変な間違った解釈を今までしていたという事が判ります。

それは、今日まで仏者は、本地とは仏の祖国印度であると思っていた事であります。

なる程仏法は確に印度が本であるが、その仏の本が日本であるという事が不明であった為に、間違いのまま、今日に到ったのであります。

はなはだしきは、仏が本体であって、神は仏の化身であると言う事で実に怪しからんのであります。

ひと頃、伊勢の大廟の奥の院に阿弥陀如来を祀ったというのは、

天照大神様は、阿弥陀如来の化身で在(おわ)すと、解釈した為であって、

実に、今日考えると、慄然とすべき事であります。

もしこの理を今一歩進めたならば、我日の本の皇祖は印度御出生という事になるので、

まことに懼(おそ)れても恐るべき事であります。
 
かくのごとくであって、仏教に限らず、総ての物は日本が元であり、

日本は世界の祖国であり、皇祖天照皇大神様が宇宙の根元神であらせられ、(中略)


もし、仏教が印度を根本としたものならば吾々日本人は、これに向かって額づく事は出来ないのであります。

日本には日本の否、天地の主宰神たる、天照大神様が、厳然と鎮座ましますにおいておやであります。

故に、この一事こそ、日本人全体が明かに知らねばならぬ緊要事で、これを知って初めて、仏教の価値も判るのであります。」




明主様御教え 「伊都能売神」 (昭和27年御執筆)

「前項に述べたところは、大自在天なる言わば婆羅門(バラモン)宗盛んであった頃の、主宰者を表わしたのであるが、その当時先に述べたごとく、日本古来の神々は印度(インド)へ渡航し、化身仏となられたので、

その化身仏の総領が伊都能売神であって、当時日本における最高の地位であられたのである。

ところがその頃 素盞嗚尊を中心とする朝鮮の神々が渡来され、伊都能売神の地位を狙って犯そうとしたが、容易に応諾されないため威圧や迫害等から進んで、ついに生命にまでも及んで来たので、

急遽御位(みくらい)を棄てられ、変身によって眼を外らし、ひそかに日本を脱出し、中国を通って印度へ落ち延び給うたのである。

そうして観自在菩薩の御名によって、当時インドの南方海岸にある補陀洛(ふだらく)という名の、余り高からざる山の上に安住せらるべく、新たなる清き館を建てられた。

この事は華厳経(発表時は悲華経)の中にある。

いわく「観自在菩薩は補陀洛山上柔かき草地の上に金剛精座を出来(しゅつらい)、二十八部衆を随え結跏趺坐(けっかふざ)して説教をされた云々」とある。

当時まだ善財童子という御名であった若き釈尊は、この説教を聴聞して、その卓抜せる教えに感激すると共に心機一転してそれまでの悉達(しった)太子という皇太子の御位を放棄し、一大決意の下に、当時紊(みだ)れていた俗界を離脱し、

直ちに檀特(だんとく)の山深く別け入り、菩提樹(一名橄欖樹(かんらんじゅ))の下(もと)石上に安坐し一意専心悟道に入るべく、修行三昧に耽ったのである。

この修行の期間について、諸説紛々としているが、私は七ケ年と示された。
 
そうして業成り出山するや、いよいよ釈迦牟尼如来として仏法開示に、取りかかられたのであるから、実際上仏法の本当の祖は、日本の伊都能売神であった事は確かである。


そうして今一つ日本から仏法が出たという証拠として見逃し得ない一事がある。

それは仏教でよく称える本地垂迹(ほんじすいじゃく)の言葉である。

これは私の考察によれば、本地とは本元の国すなわち日本であり、垂跡とはもちろん巡跡教えを垂れる事である。

すなわち最後に至って、故郷である日本全土に、一度仏の教えを垂れると共に、仏華を咲かせ、実を生らせなければならないという密意である。

また今一つは観世音の御姿である。その最も特異の点は、漆黒の素直な頭髪で、これは日本人特有のものである。

それに引換え釈迦、阿弥陀は全然異った赭色(しゃしょく)、縮毛であるにみても、両如来がインド人であった事は明らかである。

また観世音の王冠や、首飾り等も、高貴な地位を物語っており、頭巾(ときん)を被られているのは御忍びの姿である。
 

そうしてまた釈尊の弟子に、法蔵菩薩という傑出した一人がいた。

彼は一時釈尊から離れて他の方面で修行し、業成ってから一日釈尊を訪れていうには

「私は今度インドの西方に一の聖地を選びて祗園精舎を作り、これを極楽浄土と名付けた。その目的は今後世尊の御教えによって、覚者すなわち仏の資格を得た者を寄こしてもらいたい。

さすれば右の極楽浄土、別名寂光(じゃっこう)の浄土へ安住させ、一生歓喜法悦の境遇にあらしめるであろう」といって約束をされたのである。

寂光とは寂しい光であるからもちろん月の光である。

ところがこの法蔵菩薩が他界するや、阿弥陀如来の法名となって、霊界において一切衆生を救われたのである。

つまり現界は釈迦、霊界は阿弥陀が救うという意味である。

そうして観自在菩薩は、終りには観世音菩薩と御名を変えられたのである。

これは梵語(ぼんご)ではアバロキティシュバラの御名であったが、後中国における鳩摩羅什(くまらじゅう)なる学者が訳され、観世音と名付けられたという事になっている。

ところがこの観世音の御名については、一つの深い神秘があるから、それを書いてみよう。」




明主様御講話 「日本人が仏教をつくった」 (昭和26年9月23日)

「それから、宗教篇ですね。

宗教篇と言う所でー結局、東洋は仏教、西洋はキリスト教ですが、キリスト教の方は日本人どころじゃない。

白人の方で良く分かっている。ただ、キリストと言うのは、なぜ生まれたか、一体キリストと言うのは、何の御魂か、どういう訳で生まれたかと言う事を書くつもりです。

それだけでそう余計に書く事がない。ところが仏教の方はなかなか有るんです。

その中の仏教の起源ですね。一体仏教は、神様の方から言うと、どういう訳で出来たかと言う事を書いてありますが、仏教は日本で出来た。

日本人が仏教をつくった。日本に広めるのは具合が悪い事が有ったので、神様はインドに行かれて、仏教を始めたんです。

それで化身ー化仏と言う訳ですね。

化仏と言うのは、日本の神様がインドに行って仏になったから化仏というので、それが本当です。

(御論文「仏教の起源」の後の御教え)

 
「幽現」と言うのは、「神幽現」と三つにならなければ本当じゃない。「神界」は分からない。「幽現」だけが分かっていた。

ですから、お釈迦さんが説いた事は、地獄、極楽と言う。

それから下で、それ以上の神界は説かないんですね。そこで「幽現」と説いた訳です。

(御論文「伊都能売神」「観世音菩薩」の後の御教え)

こんな具合で宗教篇もまだ色々あるんですが、色々実際上の事を根底として書いてありますから、信じやすい訳ですね。」




明主様御講話 「仏教の起源」 (昭和26年9月25日)

「まだ時間が有ったら仏教の起源と言うのをーこれは面白いのですがーいずれ読ませます。

仏教は誰が始めたかと言うと、インド人ではない。

日本の神様が行って化身、化仏されてー伊都能売神様ですが、

伊都能売神様がお釈迦さんに教えられて、お釈迦さんがびっくりして広めたんです。

化仏と言うのは、神様が仏に化けたんです。

日本の神様はインドに行かれて、今度メシヤ教が出て五六七の世を造る、その準備に用意された、その準備に用意された。

それを「文明の創造」に書きつつあるんです。

だんだん知らせますからね。

そんな訳で、神様は前から、世界的に準備した。

だから、キリストもマホメットも、地上天国の用意のために、何千年も前に色々な事をされたんです。

そう言う事も、色々と書くつもりです。それを、最初は日本人に知らせますが、最後は世界中に知らせます。

これが「見真実」です。これは専売特許ではない。

全人類に知らせなければならない。

そうすれば、五六七の世が出来るんですね。」




明主様御垂示 「伊都能売神が天照大神を守護している」 (昭和26年10月1日)

信者の質問
「伊都能売神(いづのめのかみ)は観世音となり、観音は大日如来となると、御教えいただいておりますが、

信仰雑話に大日如来は天照大神とございます。

また、長男が伊都能売神、長女が天照大神・・・とございますが・・・」


明主様御垂示
「そうです。伊都能売神が天照大神を御守護しているわけですね。

つまり、伊都能売神の中に火の働きが入っているわけです。

伊都能売神というと、火と水になる。

火のほうが天照大神になるというわけですね。

水のほうは月読尊(つきよみのみこと)になるわけです。

いまは天照大神がたくさんありますがね。

踊る神様も天照大神で、爾光尊も天照大神ですね。

あれは狐が憑かるんですね。それで「この方は天照大神だ」と言うんです。

それでみんないっぱい食っちゃう。

日本人をありがたがらせるのには一番ですからね。

天照大神というのは、利用価値が一番あるんです。

いまはどうも、天照大神というのは安っぽいですね。いまはめちゃめちゃですよ。

天照大神が憑かったら、決して天照大神だといいませんよ。絶対にね。」