2015年04月04日

生と死。

私は一体何を探そうとしているのだろう。
何を手に入れようとしているのだろう。
何を築こうとしているのだろう。

何を守ろうとしているのだろう。
何を失うことを恐れているのだろう。
「失うことを恐れている全てが生というもの…」と思えてしまうときがある。


私が生まれてきたのは何故だろう。
死んでいくのは何故だろう。
私とは一体何だろう。
常に変化している身体。
そして、常に変化する心。
だから、そのどちらについても「今のこれが私の全て」とは言い切れない。
常に「私の一部」だとしか。

私は「私の一部らしきもの」は把握できるが、私ははたして「私の全て」を把握することができるのだろうか。
その私の一部らしきものも、本当は私とは全く関係ないのかもしれない。
それも私には分からない。


身体が先か、心が先か。
身体には一見確かに死があり、消滅するようにも見える。
だがそれが真実かどうかも、私には分からない。
私は死んだことがないし、もしかしたら「目に見えない身体」がないとも言えない。
そして、心は消滅しないのだろうか。
身体がなくなったら、心はなくなるのだろうか。
それとも、魂というものが存在するのだろうか。

私はどこから来て、一体どこへ行くのだろう。
それは何故だろう。
結局消滅してしまうのなら、何故この身体を持ってきたのだろうか。
身体は単に魂の乗る「乗り物」にすぎないのだろうか。
身体は借り物にすぎないのだろうか。
私の仮の姿なのだろうか。


私は身体があって世界を感じている。
目・鼻・耳・口・肌という五感で、そしてそれを感じる心で私は私の身の回りの世界を感じている。
もし身体がなかったら?
目がなかったら?
耳がなかったら?
心がなかったら?

世界は、身体がある時だけの世界なのだろうか。
死んだ後には、心ははたしてあるだろうか。
それとも、心は単に脳の世界なのだろうか。
脳が損傷したら心はなくなるのだろうか。
自分のこと(存在自体)も、分からなくなってしまうのだろうか。
それとも、身体を求めて、魂はさ迷うのだろうか。


私は自分のことを何も知らない。
ソクラテスが言ったように全く「無知の知」(むちのち)だ。
私はただ「自分が知らない」ということだけを知っている。
そうやって、もう50年以上も生きてきた。
こんなことが許されていいのだろうか?(笑)
人間の不幸は「何も分からないで生きる」ということだ。
「生きなければならない」ということだ。

何とか知ろうとして必死でもがきながら生きてきたが、未だにその答えは見えない。
気が狂うか、死ぬかしか、選択の余地がないように思えた時期も幾度となくあったが、何とかここまで生き抜いてきた。
決して生きることが心底楽しいわけでもなかったが、それでも人生には素敵なこともあるので、そんな「何も知らない」という自分を忘れて幸せに没頭することもできた。(できている)
こうして今も何とか気が狂わず、そして何とかまだ死なずに生きている…。


無駄なような無駄ではないような生。
死ななければ絶対に分からないことが生なのか。
永遠に分からない世界を生と呼ぶのか。
知ろうとすることが生の証(あかし)なのか。
それは単に煩悩(ぼんのう)であり、苦悩(不幸)ということではないのか。

知ろうとすること、つまり思考の正体とは一体何だ。
何も分からずにいつもさ迷っているこんな私は、本当に生きているのだろうか。
生の正体は、実は死なのかもしれない。
それに心底気づいたとき(悟ったとき)が生の終わりなのか。


本当は自分は死んでいるのだと、真剣に考えてみた方がいいのかもしれない。
実はとっくの昔に死んでいたのだと。
死んでいることを知らずに今も生きている。
そんな映画があったなあ…。
今日も「無知の知」で生きている私です。

とりあえずは、生きることを選択している。
それがいいのか悪いのかも分からずに。
まあ、死ぬことを急ぐ必要もないし。
でも、「積極的に生きる意味」など、もうとっくの昔になくしてしまった。
また、「新たに見つける希望」は、必ずいつも失われてしまう。


いや、本当の私(真実の私)は、いつも全てを知っているのだと思いたい自分もいる。
まあ、何かのせいにして、他力本願で生きているようなところもあるし。
主体的に生きているというよりは、無理やり生かされているとか、生きることを義務づけられているとか。
主体性を放棄しても、実際に今生きているのだから、どうあれそれも仕方がない。

きりがないのでもうやめとこう。(笑)
脳みそを破壊したくなってしまうからね。
今日も「流されて」(抵抗せず・お手上げの状態で)生きている私です。
でも、そんな自分も、相変わらず楽しいものだ…。
ありがとう。



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2015年04月02日

信頼というオープンな心。

委ねるということ。
肯定するということ。
信頼するということ。

焦らないということ。
悲観しないということ。
コントロールしないということ。


右に行くべきか、左にいくべきか、分からない時がある。
進むべきか、止めるべきか、戻るべきか。
どうするべきか。

だが、いつも全てを自分で判断する必要などない。
宇宙からの、自分からの、人生からの「道しるべ」や「サポート」が常にあるからだ。


タイミングは、自分にとってはいつも完璧だ。
だから、焦る必要など全くない。
急ぐ必要などない。
宇宙の整えるスケジュールは、いつも本当に完璧だ。
私が信頼さえしていれば、宇宙は必ずいつも私をサポートし、全てのスケジュールを整えてくれる。
毎日毎日、瞬間瞬間、常に、永遠に…。


宇宙に対しては、人生に対しては、決まった形の要求などしないことだ。
それでは、宇宙を信頼していないことになる。
何が一番素敵か、どのタイミングが一番素敵か、宇宙はきちんと知っている。
私にそれを「受け取る態勢」(心の準備)が整わないうちは、それが意味のないことを、更にはそれが毒にさえなってしまうことを、宇宙はきちんと知っている。

だから、障害などどこにもない。
それがあるとすれば、それは私が頑なに「決まった形の要求や期待」をしている時だ。
焦って、急いで、「無理やりに実現」しようとしている時だ。
それがなければ駄目だと、勝手に、必死に「思い込んで」いる時だ。
形やタイミングを強引に決めてしまうことは、それ以外のもっと素敵な形やタイミングを ≪拒否≫ することになることを、私は知っている。


私たちの見透せる範囲は、狭く、そして近視眼だ。
ある意味、私たちの能力は全く無能だ。
だが、宇宙は「無限の視野と能力」を持っている。
だから、宇宙を信頼することだ。
宇宙の力を借りることだ。

宇宙は、いつでも私の一番強力な信頼できるパートナーだ。
私はいつも、全てが素敵なタイミングで、素敵な形で、素敵な答えを持って現れてくることを、焦らずリラックスしてくつろいでいる。
だから、全てが整うまでの時間は、どんな時でも宇宙が私にくれたリラックスタイムだ。
信頼した在り方、安心した在り方でなければ、困難を、障害を引き寄せてしまうことを、私は知っている。
宇宙の整えてくれるタイミングや形でなければ、私にとっては全く適切ではないということを。


いつも、どんなときも、全てを信頼した在り方だけが大切だ。
「オープンな心」だけが、いつも全てを整えることを、私は知っている。



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2015年03月30日

散歩。

昨日夕方、ぶらぶらと散歩に出かけた。
途中、気になっていたリサイクルショップに立ち寄ってみた。
そこで、本当に懐かしい「宝物たち」に出会った。

30年も40年も昔にカセットテープで聞いていた「貴重な音源」…。
レコード(1枚200円)でGETした。

もうカセットは手元になくて、でもずっと思い返しては懐かしんでいたので、こうしてシンクロしてまた手元に戻ってきてくれて、本当に嬉しい。
そして、本当に不思議だ。
ありがとう。


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中村雅俊 LP 「想い出のかけら」 (1976年7月作)
松田聖子 LP 「Pineapple・パイナップル」 (1982年5月作)



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2015年03月28日

苦しみには懺悔が必要か…?

「心配」は、ネガティブなエネルギーだ。
自分のことだろうと、人のことだろうと。
全ての状況(問題)は、いつも「ポジティブなエネルギー」(波動)で切り開かれる。
だから、人のためにするときも、してあげるときも、ポジティブなあり方でなくてはならない。
苦しんでいる人、困難な状況に置かれている人にも、ポジティブなエネルギーを用いなくてはならない。
一緒に落ち込んだり、嘆き悲しんだり、絶望しても仕方がない。


その人を「信頼してあげる」ことだ。
その人がそこを乗り越えていけるように、そこを切り開いていけるように。
その人がそこを乗り越えた姿、切り開いた姿を思い描くことだ。
その人のために、ポジティブなエネルギーを送ってあげることだ。


一緒になって落ち込むことが愛情ではない。
落ち込むのは、ネガティブなエネルギーだ。
そこには、ネガティブな観念(疑いや不安、不信や否定、絶望や怒りなど)が存在している。
「怖れの方が力がある」と信じている。
「怖れ」を選んでいる。
呼吸を整え、リラックスして、ポジティブな想像をすることだ。
肯定することだ、安心することだ、信頼することだ。
ポジティブなエネルギーを創り出すことだ。


人のために、「心配してあげなければ」、「苦しんであげなければ」、「悲しんであげなければ」と思う人がいる。
だがそれは独りよがりだ。
そんなことをしても誰も喜ばないし、何のためにもならない。
人のためにしている心配や苦しみ・悲しみは、単に自分のためにしていることを知るべきだ。
ただ自分の「自己満足」のためだけに。


「一緒に苦しんであげたよ…」と言いたいのだろう。
「苦しんだから大丈夫だよ…」と。
人情的にはわかるが、そこには「幸せには苦しみが必要だ」、「苦しまなくてはいけない」という観念がある。
「懺悔しなくては幸せになれない」と思っているのかもしれない。
何かに行き詰るのは、「宿命や宿業」(運命)・何らかの「天罰」だと思っているのかもしれない。
その考え方・受け取り方自体がネガティブだということに気がつかない。
そんなネガティブな観念を、疑いもせず抱えている。
いつも、必ずそこからスタートする。


ネガティブな物語(シナリオ)が好きな人は多い。
だから、何かあるとすぐにネガティブな判断をして、ネガティブなエネルギーを創り出す。
ネガティブな思考や行為が好きなのだ。
自分を傷めつけることが…。
だが、決して自分に「痛み」を与える必要はない。
常に「ポジティブな意味づけ」をすればいい。
「苦しまなくていい」という観念を、取り入れなくてはいけない。



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2015年03月26日

責任。

人との出会いやつながりを、ネガティブにとらえてはならない。
ネガティブに取ると、人の問題や責任まで、自分のせいにしてしまう。
つまり、「自己嫌悪」や「自己否定」に拍車をかけ、更には「共依存」になる。


全てを「中立」にとらえる目が必要だ。
出会いやつながり、起こる出来事には全く意味がない。
「いい・悪い」と判断しないことだ。
起きてくる出来事に、何かあらかじめ意味を持って現れてくるものなど何もない。
全ての中身は、「中立」であり「空っぽ」だ。
仮に、本当にネガティブな出来事だとしても、本当にネガティブな出来事に見えたとしても、今ポジティブな意味づけをすればいい。
だから、「あらかじめ意味のあるものなどない」と言う。


宿命や宿業(カルマ)などという言葉に騙されてはならない。
なぜなら、ネガティブに見ると、その時点で受け取るものが決まってしまうからだ。
その通りに進むからだ。
だから、起きた出来事に、ネガティブな意味づけをしてはならない。


人のこと・人の問題は、全く自分のせいではない。
自分には全く責任はない。
人と自分との「切り離し」をしなくてはならない。
明確な「境界線」を引かなくてはならない。
絶対に「感情移入」してはならない。
(優しさと感情移入は違う。感情移入は、波動を下げ、一緒に地獄に落ちるということだ…)


人のこと、人の問題や責任は、一切自分には関係ない。
「壊れた人」、「機能不全の人」、「問題行動を起こす人」、「怖れている人」等を、自分のせいだと思ってはならない。
人のことを、「自分のこと」として受け取り、思い詰めてはならない。
人のことは、どんなことでも、一切自分に責任を負わせないという「覚悟」が必要だ。
それが、「自分の責任をゆるめる」ということであり、「自分を許す」、「自分を救う」、つまり「状況を正しく見つめる」ということだ。


その人が自分を修復できるかどうか、修復するかどうかは、その人の問題・責任であって、他の誰の問題でも責任でもない。
日頃から自分の存在や価値をネガティブに見つめている人は、人のことも自分の問題や責任ととらえがちなので注意が必要だ。
「お人好し」になりがちだ…。
だが、自立した人から言わせると、その人はお節介な人であり、強引な人、傲慢な人とも言える。
自分勝手な、「困った自己チユーな人」ということになる。


基本的に集団主義であり、連帯責任を好む日本人は、少し欧米の「個人主義」も学んだ方がいい。
個人の「自立」(個を立てる)という面で、障害となることが多いように思う。
日本人は人がいいからね。
だがそれが、「人に依存する」ことにも、「人を依存させる」ことにもなる。


それぞれに皆、自分を大切に…。



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2015年03月25日

「道」。

自分が本当にできるだけのことをして、やれるだけのことを精一杯やって、それでも今ここに、この状況にいるのなら。
私にできることは、この状況にネガティブな意味を与えるか、ポジティブな意味を与えるか。
宇宙を、自分を、自分の人生を、信頼するかしないか。
ただ、それだけだ。
私は今ここにいる。
それは事実だから。


私は、できるだけのことを精一杯やってきた。
それなのに今ここにいる。
ということは、この状況には、必ず「ポジティブな意味」があるのだ。
なぜこれに、ポジティブな意味があるかって?
それは、私がそう言うからだ。
私がそう思うからだ。
そう信じるからだ。


状況に、もともと意味なんてない。
今あるものは、どうしたってあるのだ。
だから、過去を見つめても、過ぎたことを探しても、全く仕方がない。
どうあれ、私は精一杯やってきた。
それが事実だ。
だから、状況はいつだって「空っぽ」だ。
でも、それに私がポジティブな意味を与えるとき、私は「では、この状況はなぜ起きたんだろう?」と、この状況を楽しい気持ちで見ることができる。
私は、ワクワクしながらこの状況を楽しむことができる。


そして私は、その波動を外に放つことができる。
そして私は、その波動の見返りとして、その通りのポジティブな現実を受け取る。
何が起きても、起きなくても、私は状況を「空っぽ」としか見ない。
(本当は何も見なくていい)
ただ、常に「ポジティブ」に見つめ、「ポジティブな意味づけ」をする。
いつも、ただそれだけだ。
それが私だ。
私という「道」であり、創造主としての「私の創造」だ。



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2015年03月24日

沈黙というパワー。

人のことを「ああだ、こうだ」と批判したくなったときは、「それが自分と何の関係があるのか?」と自分に尋ねる。
強く、厳しく。
そして、口を閉ざす。


そうやって、「外に意識を向けること」をやめたら、「反応すること」をやめたら、自由になれる。
それをやめない限り、私は鎖につながれ不自由だ。


「沈黙は自由の証」だ。
そんな鎖につながれない自由な在り方こそ、「本当のパワー」だ。



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2015年03月22日

シンプルな在り方。

人に気を使い、まわりに気を使うことは、決して誉められたことではない。
正直言ってウザい。(自分に言っている)
いつも人のことを優先するのは、いつも人のために生きるのは、「自分に生きないことの言い訳」かもしれないからだ。
人を優先している、人のためだと言って「自分に生きない」のは、ずるい。
卑怯だ。
格好つけだ。
嘘つきだ。


人のことなど考えなくていい。
勿論、人を傷つけていいということではない。
「自分に生きること」と「人を傷つけること」・「人に冷たいこと」・「人を無視すること」は違う。
常に「自分の望む在り方を優先する」ということが大切だ。
常に自分が中心で、常に自分の正直な本音・本質に生きなければならない。
誰かと、何かと衝突するのは、正直な自分に生きていないからだ。
正直な自分の望み(在り方)に気づいていないと、本当の自分に気づかないふりをしていると、避けていると、嫌っていると、怖れていると、宇宙(人生)は、私が自分に生きていないことを、そうやって伝えてくる。
人中心・人優先ではなく、常に自分中心・自分の望む在り方優先で、自分に正直に在ることが、いつも全てを整えることを知るべきだ。
想像もできなかった、本当に不思議な完璧な形で。


自分に正直だと、人生はシンプルになり、自分とシンクロした人とだけつながればよくなる。
自分とシンクロしない人とは縁が切れる。
また、縁を切ると決めることが大切だ。
自分のために。
どうあれ、それしか「自分の生きる道」はないのだから。
正直な自分に生きないうちは、人生は複雑なややこしいものになる。
誰かとの、何かとの衝突ばかりになる。
宇宙(人生)は、私にただ「自分の望む正直な在り方」だけを求めている。
決して、私に人のために生きることを求めてはいない。


人のために生きることが「正直な自分」になる人は、それでいい。
人のために生きればいい。
だが、私の人生は、私に「人のために生きること」を求めてはいない。
私の本質は、ただ「正直な自分の望む在り方」に在ることだけを求めている。
それが私にとっては、「正しいこと」であり、「うまくいくこと」であり、身の回りを含む「私の全てを整えること」だ。
エネルギーの無駄づかいのない、余計なことを全く考えない「自分の望みに忠実なシンプルな在り方」(静かな自己チュー)こそが、宇宙の私に対する意志だ。
私は自分の人生を整えるために、自分の在り方を、常に自分の本音に忠実な「シンプルなもの」にする。



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自分の望む在り方。

何をしていてもいい。
ただ「在り方」だけが大切だ。
自分の望む「本当の在り方」というもの…。


人に優しいのがいいとも限らない。
人に冷たいのが悪いとも限らない。
私は信仰から「人のため、社会のために生きる」ことを学び、それを日々実践してきた。
だがそれは、今の私にとっては、決して正しいものではない。
(今はもうしていない)
大切なのは、その都度「自分の本音(望む在り方)に在る」ということだ。
常に自分の望む在り方をしている人は幸せだ。
人生がシンクロに満ち、スムーズに流れていく。
でも、自分勝手している人が幸せとも限らない。
「人のために生きること」が、本当はその人の望み(本音・本質)かもしれないからだ…。


親の言葉や教育、社会の偽善・虚栄・ごまかし・嘘。
頑なな自分の信念・観念・偏見。
そして、身についてしまった無意識の悪い癖・反応・パターン…。
私は、人にも自分にも、無責任な「ワンパターン」で生きてきた。
常に人のために、人のことを優先して生きようとしてきた。
悪く言えば、単純に「そう生きればいい」と思っていた。
もっと言えば、私は人を「無視」してきた…。
だから私は、その先にある「もっと深い大切なこと」を見つめなかった。
受け入れなかった。


「人に尽くす」というスタンス以上の生き方はないと思っていた。
「それを変えるわけにはいかない」と思っていた。
強引で、傲慢だった。
だか、それは違った。
大切なことは、その都度常に「自分の望む在り方(本音)に生きる」ということだ。
私はそのことを、宇宙から、自分から告げられた…。


ずっと、自分中心に生きたら必ず「自分を選ぶか人を選ぶか」という重大な局面、そんな選択を迫られる出来事に遭遇すると思っていた。
私は、それを怖れていたのだと思う。
だがそれは違った。
本当の自分、自分の本音、自分の望む在り方にあれば、自分を否定していなければ、自分を否定するような出来事・自分を否定しなければならないような出来事に遭遇することはない。


道理をわきまえない人に、「自分のためだけに生きろ」と教えてはならない。
人格が歪み、不幸になる。
エゴの人は人を傷つけるだろう。
だが、「人のためだけに生きろ」と教えてもならない。
正直な人は、無責任な人は、本当の愛を知らない人は、とことん人のために尽くし、自分を粗末にし、しまいには自分を壊してしまうまでになるだろう。
常に「自己犠牲のレベル」でなければ人に尽くしている実感が持てない人、人に尽くすこと(自己犠牲)が癖・習慣になっている人は必ずそうなる…。
だから、人のためだけに生きているように見える人も、自分のためだけに生きているように見える人も、どちらも正しいわけではない。


していること(表面的な姿・行動)が大切なのではないのだ。
大切なのは、常に人や社会に振り回されない「自分の本音」に生きるということだ。
身の回りの状況も含めて、全てに矛盾のない「心からありのままの幸せ」をその都度実現することだ。
正しい在り方とは、本当にシンプルで心地よいものだ。
ただ、そのためには、自分の望む在り方(本音)を自分に受け入れる、ありのままの自分を愛する、許す、肯定する「自分に向けた無条件の愛」がどうしても必要だ…。



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2015年03月20日

100%の自分。

「エネルギー保存の法則」によると、エネルギーは新たにつくり出すことも、消失させることもできない。
(エネルギー保存の法則とは、運動変化・状態変化など物質が変化するときに、エネルギーは消失したり、増加して出現したりしないということ…)


つまり、私を存在させている、私の中にある全てのエネルギーは、宇宙とともに元々存在していたことになる。
私は、常に「100%のエネルギー」を抱えながら生きている。
私は、常に「100%の存在」なのであって、100%以下になることは絶対にできない。
私は、「宇宙そのもの」であり、「無限の存在」だ…。


そして、宇宙の、この世の全てがそのエネルギーでできている(できる)のなら、私の望むもの全ても、姿・形は違うとしても(今は現れていない・見えないとしても)、無限の宇宙とともに今存在していることになる。
だから、私が望むことの実現に必要なことは、私がそれを引き寄せる・実現化する「状態」・「振動」・「周波数」に自分を合わせることだ。
そして、そのために私ができることは、その体験の実現化(引き寄せ)と同じ振動の「思考エネルギー」を選択することだ。


100%の自分、そのパワーは、常に今ここにある。
だが、私が幻想を使っている間(それを信じていない・他のことを信じている間)は、それが私にとっての現実だ。
だから、私にとって大切なことは、どうやったら100%の自分になれるかではなく、既に自分が100%の存在であったことに気づくことだ。
それを「受け入れる」ということであり、「幻想を捨てる」ということだ。


私の観念が、既に宇宙とともにあるエネルギーを信じれるのであれば、またそれを「これだけ使っていい」と自分に受け入れるのであれば、私はそれを素直に使えばいい。
私がそれを「使わない理由」・「使えない理由」は、私以外のどこにもない…。



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2015年03月19日

過去が思い出せない。

なぜ急ぐ? 
なぜ焦る?
なぜ慌てる? 
なぜ怒る?
なぜイライラする?
なぜ怖れる?

自分の中から声が聞こえてくる。
なぜ?
どうして?


急ぐ必要なんて何もない。
急ぐから時間が追い掛けてくる。
急ぐから時間がなくなる。

急ぐことを忘れてしまった。
焦ることを忘れてしまった。
怒ることを忘れてしまった。
イライラすることを忘れてしまった。
怖れることを忘れてしまった。

なぜかはわからない。
だが、今ないものはない。
今の私にないものはない。


昔の記憶がなくなる。
なぜかはわからない。
だが、今ないものはない。

あの人の顔が思い出せない。
あの人の声が思い出せない。
あんなに楽しかったはずなのに。
いつも一緒だったはずなのに。

あんなに嫌いだったはずなのに。
あんなに心地悪かったはずなのに。
今の私には関係がないからと言えば確かにそうだが、本当に不思議だ。

過去は、「今から手を伸ばしている存在だ」と学んだ。
「過去がなくなるなんて?」と思っていたが、本当に過去がなくなっていく。
抱えていた昔の写真も、昨年ほとんど全てを処分した。
心地よくない記憶は抱えないようにと自ら進んで手放したら、今の私にはなくなってしまったものが本当に多いのかもしれない。
(思い出せないから、それもわからない)


急がない自分。
焦らない自分。
怒らない自分。
イライラしない自分。
そして、怖れない自分がいる。

だが何の不思議もない。
急いだ記憶も、焦った記憶も、怒った記憶も、イライラした記憶も、怖れた記憶も。
そんな過去が、私からどんどんなくなっている。


手放すということ。
つかまないということ。
抱えないということ。

いつしか自分が別人になっている。
今の私には、今ここに在る私しか存在しない。
多分すれ違っても、顔も姿もまったくの別人で、誰も私のことを分からないと思う。
私もそう思う。
その人が誰か、多分私は分からない。
関心がない…。


「波動の世界の不思議」というもの。
今の私は、とても静かで、穏やかで、幸せだ。
急ぐこと、焦ること、怒ること、イライラすること、怖れること。
そんな私に「必要のないこと」が、今の私には全くない。



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2015年03月18日

永遠の上昇・成長。

この世の中の全ては、みなエネルギーだ。
私はそう思っている。
私は自分の身のまわりに、世界に、様々なエネルギーの波動・種類を、様々な色・形・音・肌触りなどで見つめ、感じている。
だがそれは、私が存在しているからこそだ。
私の世界は、「私自身の存在」というものが始まりとなっている。
だから、世界の全ては、実は「私自身」だ。

私は、誰のせいでもなく、ただ「自分の世界」を見ているし、体験している。
私は、ただ「私の持っているエネルギー」を、自分の内側にも外側にも現している。
心も身体も。
豊かさや富や成功も。
そして、外側に見ているもの全て…。


そして、その私の体験している物事が何によって決まるのかと考えると、それは私自身の「意識」がそこに現れているのだと私は思っている。
私は、「全てを自分自身で創り出している」と信じているのだ。
私の選択しているもの、選択しないでいるもの。
手に入ると思っているもの、手に入らないと思っているもの。
避けられると思っているもの、避けられないと思っているもの。
私の信じていること、疑っていることの全て…。

全ての物事が、自分の「思考の限界」によって決められてしまっている。
だが、宇宙という生命の大地から生まれた私、そしてそんな私の持っているエネルギーは、本来は宇宙大に無限であり、果てしなく膨大なはずだ。
それなのに、そこに一定の限界や制限があるのはなぜだ?


それが創り出されているのは、私という「工場」だ。
それは、私の思考から創り出されている。
つまり私は、「受け取る者」であると同時に、それを「生み出している者」だ。
「生み出す自分」が「受け取る自分」であることを忘れてはならい。
自分が何をやっているのか、何をしようとしているのか、その行為全てに対していつもしっかりと意識を向け、それを自覚していることが必要だ。

だが、「いくら努力しようと、成功そのものはいずれは全て崩壊していくのではないか?」と言う人もいるかもしれない。
確かに私もずっとそう思っていた。
いつも人生の「無常」や「虚しさ」ばかりを見つめてきた。
だが、今はそうは思わない。


「崩壊する」という言葉は正しくない。
なぜなら、たとえひとつの波が過ぎ去ったとしても、ひとつの成功が尽きても、また次の・別の波や成功が必ずやって来るからだ。
成功とは、決して何かを達成することではない。
「全てに勝利していくこと」、その前進・上昇・成長の「プロセス」こそが成功だ。
存在に、終わりや到達点などない。
人生の全てには「終わりがある」、「限りがある」というのは真実ではない。
人生の真実は、自分という存在の本質は、永遠に前進・上昇し、成長・存続していくのだ。

「崩壊が人生」なのでは決してない。
「終わりは常に始まり」だ。
「永遠の変化・上昇」こそが人生であり、私という存在の真実だ。
宇宙の無限なエネルギーというもの。
私は、自分自身の広大・無限なエネルギーを、永遠に引き出し、実現し続けていく。



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2015年03月16日

素敵な贈り物。

全部自分でしてることだ。
だから、全てのタイミングに意味がある。
全ての体験に意味がある。
全ての幻想に意味がある。


「全てに意味がある」と人生の全てを肯定し、何も怖れずに安心していればいい。
エゴ(自我)という存在にも、思考や感情という存在にも。
心や身体という存在にも、時間や空間という存在にも。
そして、生や死という存在にも…。
ビクビクする必要など何もない。
全てが自分でしてることだからだ。
プレゼントは、箱の中に何が入っているのか分からないからこそ、開けたときに驚くし、嬉しい。


自分を肯定し、信頼すると、全ての不思議なものが心地よい「素敵な贈り物」となり、ワクワクする。
だが、自分を疑い、否定すると、全てが心地悪い「怖れ」になってしまう。
だから、決して自分を疑ってはいけない、否定してはいけない。
怖いものなど何もないのだ。
全部自分でしてることなのだから。
だから、ただ自分を肯定し、信頼し、リラックスしていればいい。


人生の全てに素敵な意味がある。
人生の全てが魔法でありプレゼントだ。
自分で自分に与えているそんな素敵な魔法・プレゼントを信頼することだ。
必要な時が来れば、その魔法・プレゼントは、自らその隠し持っている秘密を、優しく明かしてくれるだろうから。


全てが、不思議な「大きな愛」で包まれている…。



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2015年03月15日

「体験するもの」(主体・私)。

思考と感情、そして心と体。
そして、それらを観察し、体験し、放棄し、手放す者…。

だが、観察しているのは誰だ?
体験しているのは誰だ?
放棄するのは誰だ?
手放すのは誰だ?
行為者は一体誰だ?


客体を見ている、感じている、体験している主体というもの。
だが、主体は思考に過ぎない。
心は想念の束に過ぎない。
客体は、見つめている主体に、感じている主体に、体験している主体に溶け去るものだ。

主体と客体がある限り、内側と外側は存在するだろう。
だが、観察者(主体)と観察されるもの(客体)は、本当は一体だ。
体験するもの(主体)は、思考・想念・エゴ・自我・心に過ぎないということを知るべきだ。
「心の世界」というもの…。


誰がとらえるというのか?
何をとらえるというのか?
何か他のものをとらえるとすれは、そこには二元性がある。
だが、存在するのは、始まりも終わりもなく only one (ただひとつだけ) だ。

生まれたのは誰か?
死んでいくのは誰か…?
「私は誰か?」と常に問うことだ。
ぶら下がることだ。
「自分が行為者である」という感覚を持ち続ける限り、欲望や怖れは消えないだろう。


こんな定義・観念を選択することも自由だが、可能だが…。
さて…。


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2015年03月13日

「いま」に在る。

「待つ心」とは一体何だろう。
どうして「待つ」のだろう。
何かを求める心、貪る心。
満たされぬ心、不安、怖れ。
何かに対する抵抗、拒否、逃避…。

「待つ」ということは、未来を見つめているということだ。
「いま」を否定しているとも言える。
時間というもの創り出しているということだ。
「いま」を嫌って。


でも、その状態に幸せはない。
なぜなら、幸せは必ず「いま」にやってくる、「いま」に起こるものだからだ。
全ては「いま」存在している。
ただ見えないだけだ。

待つ心・求める心・貪る心・未来を見つめる心。
そんな「いまを否定する心」が、何か大切なものを失わせてしまう。
困った「ある状態」を創り出してしまう。
本当はそこにあるもの…。


私は待つことはしない。
いつも「いま」に在り、「いま」を見つめ、「いま」を楽しみ、「いま」に生きている。
「いま」に在ると、そこに怖いものは何もない。
100%「いま」に在ることが全てを整えることを、私は知っている。



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2015年03月12日

「抵抗」と「手放し」。

私に出来ることは、いつも二つだ。
それは、「抵抗すること」と「手放すこと」。


手放すことは、抵抗しないこととも言える。
思考と感情のすべてを放棄するということだ。
判断・批判・決めつけ・レッテル貼り・拒絶・防衛・攻撃…。

だがそれは、何も「行動」をしないということではない。
どのような行動をしたっていい。
たとえば、人に直感に基づく自分の正直な気持ちを伝えてもいい。
勿論、伝えなくたっていい。
それらは単に選択だ。
ただ、感情的なリアクション(反応)をしないということだ。
いつでも、「抵抗のない心の在り方」だけが全てを整える。


しかし、心も身体も全く身動きがとれないときには、本当に全く何もしないことだ。
抵抗せず完全にお手上げして、完全に「いま」に在ることだ。
そんなときは、いつも本当に不思議な力を感じる。
そこには、大いなる存在としての「宇宙の意志」が存在しているのだと私は思う。
「宇宙の根源のパワー」というもの。
それは、エゴ的な思考・感情のエネルギーとは比べものにならないくらい本当に偉大なエネルギーだ。

抵抗することと「思考」は、実は同じものだ。
だから抵抗をやめること、あるいは手放すことは、思考を放棄することだ。
過去と未来を怖れない、時間に力を与えない(存在させない)ということだ。
その時、思考が本当の自分になりすますゲーム(演技)が終わる。
そして、決めつけや怖れなど、全てのネガティブ性が消え去る。
思考が覆い隠している時間を超えた「大いなる存在」の扉が開く。


思考を超えた偉大なパワー(エネルギー)というもの。
私は、いつもそんな観念や概念ではない、「あるがまま」の宇宙と一体な自分でいたいと思う。



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2015年03月10日

人生の創造。

人生に真実など何もない。
人生の中身は、本当は全て空っぽだ。
ただ、自分が与える「意味付け」・「定義付け」だけが、自分の人生の全てを動かし、創造している。
だから、私たちは創造する者、つまり「創造主」と呼ばれる。
私たちは、それぞれにただ自分たちの動かしている、創造している世界に住んでいるだけだ。


だが、全ての観念(信念・信じていること)は、それぞれ単に「ひとつの選択」にすぎない。
ある観念が必ずなければならないという必然性はない。
どの観念を選ぼうが選ぶまいが、それは全く選択の問題だ。
つまり、いつでも全く自由に観念を選ぶ(変える)ことができるということだ。
ある観念がどんなにもっともらしく見えたとしても、それは必ずしも真実ではなく、ただ「ひとつの仮定」にすぎない。


いつだって、意味付け・定義付けをするのは、私たち一人ひとりの仕事だ。
だから、人生を「苦しいもの」・「定められたもの」・「無意味なもの」等と定義することもできる。
だが、人生を「痛みの必要ないもの」・「自由な素敵なもの」・「シンクロニシティという奇跡やサポートに包まれるもの」等と定義することもできる。
人生の全てを肯定し、安心し、リラックスすることもできれば、反対に全てを否定し、嫌い、怖れることもできる。
そして、人生の全てに執着せず、抵抗せず、感情移入せずに、客観視することだってできる。


いずれにしても、それを決定・選択している(する)のは、私たち一人ひとりであり、他の誰でもなく、誰のせいでも、何のせいでもない。
自分以外に、自分を止めるものは一切何もないと知るべきだ。
私たちは、それぞれに「人生の創造のパワー」を、100%持たされている。
全ての観念が、自分の与えている全ての意味付け・定義付けが、自分の人生を100%動かし、創造しているということを知るべきだ。
全ての自分の思うこと、口にすること、行動すること、つまり信じること…。


運命(運がいい・悪い)や宿命・宿業(定められた人生)など存在しない。
仮にそれらがあったとしても、それは今すぐにでも変えられる。
なぜなら、意味付け・定義付けを新しいものに変えれば、人生は変わらざるを得ないからだ。
人生を創造しているのは、自分自身だ。
自分の決めるもの、選択するもの、許可するものだけが、自分に返ってくる。
全てが自分(の魂)で選んでいることだ。
生まれること(時)も、死ぬこと(時)も。
たとえ無意識だろうと、今ではない遥か遠い昔(たとえばそれが過去世)のことだろうと。
(自分の心に静かに聞いたら分かるはずだ)


今の状態がいやなら、その選択を、決定を、信念を、抵抗を、怖れを、創造を、変えるまでだ。
人生の全ては、みなただ自分のせいでもあり、自分のお陰だ。
自分以外のものが、自分の人生を左右するなんてことは有り得ない。
人生の全てが、ただ自分自身の「鏡」だ。


こんな風に私は、自分の人生について「ひとつの観念」を自由に信じ・選択し、意味付け・定義付けをしている。
そして、そのとおりの自分の人生を創造している。
だから私は、自分の人生に不平・不満は何もない。
今の状態・人生が嫌なら、自分に取り入れる観念・信念・定義を、ただ単純に取り替えればいいだけだからだ。
誰に遠慮もなく、人や社会の価値観に縛られることもなく。
私が宇宙から与えられている創造のパワーとは、「選択の自由」ということだ。



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2015年03月09日

断捨離(だんしゃり)。

心地よさを向上させるということ。
人生の。
自分自身の。

心と体の健康ということ。
自分自身の波動を更に高めるということ。
周波数を無限に。
エネルギーを更に活性化させるということ。


そのために、ネガティブな感情は、全て一つ残らずクリヤーに消滅させていく。
そして、心と体両方の安らぎ・リラックス…。
呼吸を整えた瞑想と体操・運動・ストレッチ。
出来るだけ毒素を取り入れないということ。
日頃からデトックス(毒出し)に努めるということ。
体が喜ぶ食事(体に負担の少ない野菜を中心に、栄養バランスや適量)を心がけるということ。

振り回され続けてとても不快だったタバコを、何度か挫折をしながらも何とか振り切ってやめたのは、もう15年以上も前のことだ。
ニコチン中毒には本当に振り回され続けた。
タバコを吸うためにだけ生きているような状態となり、それが嫌で完全にやめた。
ほとんどタバコは、毎日食べているような状態に近かった。


そして、今度はアルコール(酒)だ。
だが、酒とのまともな付き合いはタバコをやめてからだから、実はそんなに長くはない。
昔はまったく飲めなかった。
だから、酒を出す店(カフェ・バー)をやるなんて全く思いもしなかった。
完全禁煙の店にはしたが。(笑)

お客様に出す酒が、いつしか店での自分の悪い習慣となってしまった。
体の不調を酒で散らし、誤魔化して毎日をしのいでいた。
ウィスキー、ビール、ワイン、焼酎、日本酒…。
今も変わらず毎日飲んでいるが、タバコと同じように振り回されるのが嫌になってきている。
気分は高揚して、いつもリラックスができ、ご機嫌でいい気分ではあるが、体調はというと、なかなか疲れが取れずにいつもどんよりとしている。
そろそろ、コントロールしていかなければならいタイミングだと思う。


先日、7周年の開店記念日を内々に祝った。(もう店は閉めたのだが)
そして今日、昨年度(最終年度)の営業に関する「確定申告書」を税務署に送付する。
(毎年のことながら、昨日まではその作業で、少しだけ苦痛を感じていた)
酒を出す店のマスターと呼ばれた男…。(笑)
そして、その店の終了とともに切り離していく酒という存在。
それも悪くない。

どうせ、時間の経過とともに全ての記憶も消去されていくはずだし、そうするつもりだ。
私にとっては、もう全く過去の出来事だからだ。
全てが風化していっている。 
何が起きたのか、もう何も考える必要もないのだ。
だが、お酒のお陰で、いつだって本当に楽しい素敵な時間を過ごせたのは事実だ。
お店とお酒は、神様から私への「ひと時の贈り物」だったのかもしれないとも思う。


完璧な断酒となるかどうかはわからないが、とにかく日常的・習慣的ではなく、少し距離を置こうと思っている。
心と体の調子(波動)を更に高めていきたいからだ。
また一つ断捨離です。
だが、いつだって、手放すことは新たなものを手に入れることだ。

それを手にした心地よいイメージは、もう既に自分の中にある。
そして、いつものことだが、想像できることは簡単に手に入る。
まあ、自分の意志(内面)だけの問題だからね。
とにかく、今年は更に心と体を整え、自身の波動・波長を高めていきたいと思っている。



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2015年03月05日

「健全さ」というもの。

ネガティブなエネルギーが、前進の力になることなどない。
それは、錯覚でありエゴ(自我)の罠(わな)だ。
確かに、もう既にそれがそこにある場合には仕方がないが、私は「ネガティブ性」を崇拝はしない。

不機嫌、イライラ、怒り、憎悪、嫌悪、愚痴、鬱(うつ)、絶望…。
劣等感、虚栄、焦り、悔しさ、空しさ、悲哀、自己否定…。


エゴ(自我)は、ネガティブ性が現実(状況や自分自身)をコントロールできると思っている。
好ましくない状況を一掃できる、好ましい状況を実現できると思い込んでいる。
だが、ネガティブ性はエゴのパワー(勢い)と癖(くせ)を増加させるだけだ。
ネガティブな要素をアイデンティティ(自分自身というもの・その存在)にしてしまうと、それを手放せなくなる。
だから、ネガティブな人は、ネガティブなエネルギーを繰り返し自分に取り込み、それに浸る。

何故なら、そこには「快感」があるからだ。
有限なエゴは、永遠ではないエゴは、自分が消滅することを常に怖れている。
そんなエゴが、生きていることを実感する儚(はかな)い、つかの間の快楽というもの。
自己陶酔という世界・幻想…。
一人よがりなポジティブ性(自惚れ、強がり、有頂天など)も、実は全くそれと同じなのだが。
(今日は、それには触れない)


だが、ネガティブ性の正体は、実は「抵抗」だ。
「あるがままなもの」に抵抗してるということだ。
だが、抵抗するからそれに捕まる。
ネガティブ性が望ましい状況を実現することなど決してない。
逆に、望ましい状況が起ころうとするのを妨げてしまう。

人や社会のネガティブ性にも、ついつい反射してネガティブ性で反応してしまうことがある。
用心して戒めなくてはならない。
常に意識していないと、研ぎ澄まされた繊細な感性なくしては、エゴのネガティブな世界に引き込まれてしまう。
常に目覚めていること、意識していることが必要だ。


ネガティブ性が、何か豊かなものを実現することなどない。
不健全なものにエネルギーを注いでも、更に不健全なもの(思考・感情・状況など)を拡大し、引き出し、引き寄せるだけだ。
ネガティブ性は、「健全さ」を知るためにある。
いつも「健全さ」というものを忘れない私でいたいと思う。



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2015年03月04日

闇と光。

闇だけでは暗過ぎて何も見えない。
だが光だけでも、まぶし過ぎて何も見えない。

少しでも光があるから闇を感じ、少しでも闇があるから光を感じる。
光は闇がなければ存在できないように、闇も光がなければ存在できない。
闇と光はどうしても離れられない関係にあり、常に一体だ。
つまり、どれだけ暗い闇に見えても、必ず光とつながることができるということだ。
それが「存在」というものであり、私たち自身だ。


そして、どれだけ闇につながるか、光につながるかは、実は私たちの「選択」次第だ。
単純に、「決めた!」と思う選択だ。
なぜなら、私たちが闇と光でできているからだ。
闇と光は、常に私たちのすぐそばにある。
いや、闇と光は私たちの中にあり、私たちは闇と光そのものだ。

そして、実は私たちは永遠の存在だ。
永遠でないと思っているのは、時間の産物である思考のせいだ。(いや、時間が思考の産物だ…)
とにかく、有限なエゴ(自我)を見つめているから「永遠ではない」(有限だ)と思うのであり、それはエゴ(自我)と一体になってしまっているからだ。
だか、光は永遠だ。
光が「永遠」だということは、つまり「今この瞬間」にも有るということだ。
だが逆に言えば、「常に全く無い」とも言えるのだが。(笑)
闇だけが永遠に有るという状態も勿論あるからだ。


闇ばかり選択していたら、光は全く見えない。
だが、闇の中には必ず光がある。
私たちの存在は確かに闇とも言えるが、光そのものとも言える。

闇と光の「コントラスト」(対比・比較・バランス・調整)が人生だ。
どちらかに傾きすぎると、全く何も見えなくなる。
闇と光の意味を知るべきだ。
それを知ったときには、怖れずに光の中に溶け込んでしまうこともできる。
勿論、怖れずに闇の中に溶け込んでしまうこともできるが。


人生は、いつだって選択だ。
そして私は、常に怖れのない、そして心地よい選択をその都度自由にしたい。
私は、人生の「影」を頼りに、闇と光を探ることができると思っている。

人生は闇と光を知るためにある。
そして、バランスをとりながら、それらを楽しむためにある。
有るものは有るのだから。
今も。
そして、これからも永遠に。



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