3月第3週。京都。本会議3日間と、ワークショップの半日しか出ませんでしたが、とても興味深いこと。
面白い話は複数あったけれど、中でもとりわけ印象に残ったのは、G社のKDTKさんのとある場での質問。
この質問が、技術的な言葉で語られながら、言語処理の研究プログラムにおいて今や自明のものとされているいくつかのことに対して改めてその意味を問い直すようなもので、まあ、群を抜いてすばらしかったわけです。
で、その質問自体をきちんと考える、ということの他に、そのような質問が(大学にいる人からではなく)G社にいる人から出たというところは、もう少しメタな問題としてとりわけ大学関係者はきちんと考えなくてはいけないことだと思います。
- よほど現実を見る力がなくて勘違いするのでなければ、例えば科研Sとか大学関係の「大型予算」程度のもの単体で、ビッグデータのパワーゲームはできない。
- では大学では何をするか。短期的な社会の動きに左右されない「問い」を扱う、と言えば聞こえはいいけれど、技術の解像度が認識を束縛する度合いを認識できなければ(「認識」をわざと2度使いました)問いを立てていると思っていることと問いを立てていることとの区別さえつかないまま前者に堕してしまう(喩えて言うと焼夷弾をバケツリレーで消すみたいな話に限りなく近づく)。
そんな中でなお、短期的な社会の動きに左右されない「問い」を扱う、というときには、「問い」を扱う思考の解像度がやはり問われるわけで、それについてもG社にいる人の方が(つまり作る側からビッグデータを扱える人の方が)先に行く、というのはこれはまあ、悔し紛れに、KDTKさんは抜群に優秀なのだから(たまたま3月末に卒業生(?)が遊びに(?)来て、KDTKさんのtweetはそこかしこに凄さを感じると言っていたのが面白かったのですが)しかたない、という言い訳に逃げ込むことのできない問題を提起していると思います。
だからこそ、真剣に大学において考えること(考えながら考えることを考えること:後者だけでは焼夷弾にバケツになる)が求められるわけですが、最近では、流れが逆になっていて、どんどんそれがやりにくくなっているようです。
東京大学大学院教育学研究科図書館情報学研究室は何をどのように考えるか。十分ではありませんが、その一部を言葉にしてみたのが、「
図書館情報学研究室について」。まだ明確になっていないことがあります。