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「混成旅団上陸の図 其三」より 撮影者 樋口宰蔵 小川一眞 明治二十八年八月発行「日清戦争写真帖」 |
仁川の狭い海岸に続々と上陸する混成旅団の部隊。撮影は6月と思われる。
仁川の日本居留地は海岸部を占め、和風西洋風の建物が所狭しと並んでいた。左手陸側奥に日本領事館があった。 |
戦時は7月25日から
後に日本政府内では、この「対清国事件(日清戦争)」について戦時平時の区分を決めるべく閣議を開き、案としては8月1日の「宣戦の詔勅」を以て戦時とするとしたが、閣議の結果、宣戦詔勅公布の日に拘らず、実際に戦闘の成立した日とすることに決議した。
また、その日付としては当初、7月23日に海軍大臣軍令により各軍艦が戦闘編隊を整えて佐世保港を出発した日が案として出されたが、閣議の結果、7月25日の豊島海戦の日を以て戦時とすることに決議した。
(以上「戦時と称すへき時期の件」C06060168000)
海軍大臣軍令による戦闘編隊のことであるが、アジ歴の「明治27年 「秘27、8年戦役戦況及情報」」を見ると、日本側は、とりわけ天津駐在の領事、武官が清軍の動向を逐一日本に報告しており、新たに清軍が増兵することも、いつ出発予定であるかも掴んでおり、7月23日に佐世保から各艦が戦闘編隊を整えて出港したのは、清兵を乗せた運送船に対するものであったろう。
混成旅団の待遇
さて、7月23日に大院君が入城して執政となったことにより、大島旅団長はいよいよ牙山の清軍撃退に着手することにし、24日午後に部隊長会議を開き、25日に牙山に向けて進むことに決した。しかしその後竹内正策兵站監から「糧食などを載せた駄馬は54頭を送るだけでよいか」と尋ねてきたので、大島はそれでよいと返答した。
この陸戦に於いて当初最も困難だったことは兵の保養と糧食などの補給であったとされる。
陸軍混成旅団は6月10日頃から順次仁川へ上陸し、後に1大隊が京城公使館護衛のために入城したが、その他は仁川、龍山(万里倉ふもと)に露営していった。その頃の旅団の置かれていた情況を参謀の1人、長岡外史が6月27日付けで次のように報告している。
(「川上中将に上る私報(6月27日於漢江舟中 長岡参謀)」C06060161000、より抜粋、()は筆者。)
川上中将閣下に上る私報告 長岡参謀
小官は、第二次輸送兵を迎うる為、及び監督部と協議の目的を以て漢江を下る途中、小暇を得申候間、二三景況申述候。
○(略)
京城の大隊は京城の死命を握れり。龍山諸隊は南大門に通ずる諸道路を扼せり。諸隊の歩哨は総て京城を瞰下し、南山の歩哨と通信旗を以て交通するを得る。其歩哨線より余計退きて龍山付近に幕営したるは、他日一朝渇水の際、漢江の水にて兵馬を養わんが為なり。
漢城付近図[二万分一]不精甚だし。昨廿六日より三個の器械を以て測図に着手せしめらる。測図完成後は配布界図を出すべし。
○ 昨日旅団長入京、公使に協議の件洩聞き。
一 外務衙門へ要求。
仁川、龍山共、朝鮮官吏、其人民の我傭役に応ずるものを脅威し、事後、捕盗庁に拘引する等種々の流言を放ち、若くは直接に告諭し、甚だしきは、廃井を修理したるものに汚穢物を擲げ込む等、我軍を妨害すること甚だし。而して人民は我傭役に応ずるを好むの実、歴々たり。朝鮮官吏の如き処置を為したもの、厳罰に処せられ度事、爾今各市街に掲示し此等のものを戒飭すること。
○(略)
清国(兵)は半分は朝鮮政府の御馳走になり、他の半分は奪掠して生活す。(朝鮮政府は)接待使と云えるものを差遣し、道路の通行架橋の周旋至らざる所無きに引換え、我旅団は、薪、炭、味噌、醤油迄の運搬せざる可らず。兵の生活上に要する諸品は総て本国の供給を仰がざるを得ず。又兵の起居に於ても其不潔其不規則、清兵は能く韓人に類す。反之毎日入浴せしめたる我兵卒は、渡韓後未だ一回せざるものあり。衛生及び給養の困難、彼此全く趣を異にす。是れ我旅団の拙速を貴ぶ所以に御座候。
(略)
(明治27年6月27日 午前10時 漢江の船中にて)
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井戸に汚穢物って、それはやっぱりあれだろうなあ。こんなことでも給水に苦労していたとは。なお7月15日時点で、仁川病院に赤痢で入院している兵は凡そ20人、平癒1人、また一般病が31人とある。(「C06060162700」「C06060162800」)
当然、衛生にはよくよく注意せねばならない国である。
宗主国様扱いを受けたり掠奪して調達したりする清軍と違い、日本軍は兵站には多くの労力を必要としたようである。そして開戦前までは朝鮮人を人夫として雇うのは容易であったが、いよいよ開戦となって戦場に赴くとなると逃亡者が相次ぎ、求めに応じる者を得ることも困難となる。
兵站の誤算
以下、7月24日以降の兵站に関する報告である。
(「7月30日 於龍山 竹内兵站監 川上兵站総監宛」より抜粋)
七月廿五日以後の景況特別報告
秘 七月三十日午前五時於龍山
兵站監竹内正策
七月廿五日、旅団は其主力を以て牙山に向て進むことに前日午後に決定す。仍て之が糧食弾薬追給の為め、概略左の通り規定せり。
(略)
廿四日には、龍山及其付近の駄馬ある村落には、人を派して懇ろに諭し、明旦駄馬を龍山に出すべきを命じたり。[数日前より漸く韓人我用を為すに狎れ、稍々恐怖の情を去り来りたるを以て、先ず極めて穏和の手段に出でたるなり。]
又一面には、公使館、領事館に談じて人馬を凡そ力らの及ぶ限り集むることゝ為し、又一面には韓廷に談じて大に尽力せしむることゝ為したり。
韓廷に談ずるに当り、当時韓廷は大院君入闕と云う迄にて、廿四日には未一人の官員任命も無く、昨日決したりと云う三ヶ条[王妃を廃して庶人と為す 門閥を廃して人材を挙ぐ 閔泳駿以下九人の国制を正うす]の勅令も、大院君の嫡子の妨ぐる所となりて未だ発せず。
我杉村書記官は実際改革顧問とも云うべき姿にて、日夕韓廷に詰切あり。
故に兵站監の人馬徴用の件を公使館に談ずるも直ちに之を取扱うの人なきを以て、公使館と談じ、兵站監は直ちに韓廷に至りて、杉村書記官と共に韓廷に談ずることゝ為したり。韓廷に至れば、先は金嘉鎮、安駉壽の二人、日本党の錚々たる者にて専ら周旋する所あり。仍て之等の人と膝を交え、渡邉少佐等と共に左の議を建て要求したり。
第一、朝鮮政府は厳命を地方官及地方人民に下し、日本軍隊が需用する所及其使用に供すべき人馬の徴収に当りては、朝鮮人民たる者力めて之が便宜を与え、決して遁逃すべからず。官吏は宜しく此事を助けて周旋すべし。若し違う者あらば国法を以て厳科に処する事。
第二、朝鮮政府は本日より相当の官吏と陸軍武官とを兵隊監の許に派し、大に人馬徴用の事務を助くべし。
尚お公使よりは、此際朝鮮政府は清兵の朝鮮国に在る者を退去せしむることを以て、日本軍隊に委任すべしと迫まりたり。
斯く厳談に及ぶも、朝鮮官吏の常習として此際に於けるも更に決断する所なく、徒らに時間を費やのみなり。
仍て兵站監は大に怒り、斯く緩慢談にては明旦行軍に間に合わず。右の要求にして出来ざれば、已むを得ず兵力を以て此要求を満足せん、と迄に厳談したり。
而して此夜に至り僅かに第一第二議を決したるも、之が実行は覚束なかりし。
已にして右等の計画中、時辰進んで廿五日となりたるを以て、早天より旅団司令部に至り、爰に駄馬が集まるや否を見るに、此朝近村の景況たるや前日に異なりて、婦人老幼の遁逃する者陸続たるを見るのみにて、午前七時に至るも、駄馬の一馬も来らず。之が為め旅団の諸隊は命令通り出発すること能わず。
仍て已むを得ず強力を用ゆること為し、或は京城内に兵と巡査を以て駄馬ある家に就き、之を強て出さしめ、又近村に兵或は通弁を派して、強談して駄馬若くは人足を出さしむることに為す。[最強力を用いざるは、此日一丈けの使用に止まらず、以後数日徴用の必要があるを以て、甚しく人民を怖らしむるの大に不利なるものあるを以てせり。]
漸くにして午前十一時頃迄には凡百頭の駄馬を得たるを以て、先ず之を分配して軍隊は出発することになしたり。
旅団司令部の将に出発せんとするに際し、仁川より急電達す。曰く、
今朝より牙山方位に当り砲声盛なり。多分海戦ならんと。
皆雀躍して必勝を期す。此日、旅団司令部は果川県に迄至る予定にて、道近きを以て海戦の結果を聞くことゝ為し、暫く出発を見合わせたるも、続て仁川より、
砲声五十分にして止みたり、
との報来る。是に於て愈々敵艦を撃沈したるを信じ[牙山に在る敵艦の数は粗知了しある以て此想像あり]、洋酒数瓶を傾けて陛下の万歳を祝せり。
旅団司令部は午後二時迄待たるも、仁川より海戦の詳報来らざるを以て、乃ち旅団長は司令部員を率いて出発せり。[福嶋中佐、上原少佐、倉辻大尉従う。]
夜入漸く人馬少許を得て、押上少佐の一行出発せり。
廿六日は旅団司令部は水原に進み、兵站よりは、加藤少佐縦列を率いて出発す。[此日も駄馬人足を集むること非常に困難なり。公使館、殊に領事館の尽力実に非常と称すべく、今回の進軍に駄馬徴収の最も効力ありしは、内田領事の尽力に在り。特に報告す。]
此日の夜に至り、韓廷は統理衙門より地方官に告ぐるの関文数十葉を兵站監に送り来る。又聞く所に仍れば、清兵退去の件を日本に依頼するの公文、公使へ迄送付せられ、公使より之を旅団長に送られたりと。
廿七日には、旅団司令部は水原に滞在せしが如し。此日、兵站監部よりは大なる縦列を編成して糧食を追送す。
先日来、韓人の駄馬を用いて縦列を編成し之を南行せしむるに、途上に在て遁逃するもの陸続たり。甚しきは、某大隊の大行李に充ちたる五十四頭の残らず脱走す。[之は取締の甚だ不可なるなり。]
斯くの情況なるを以て、韓人の駄馬は厳にすれば一頭に一人若くは二頭に一人の日本人を付して、之を監視せしむるに非ざれば其遁逃を防ぐこと能わず。而て日本人足は少なく、困難の情景に想像の外に在るなり。
此日に至るも敵状更に聞く所なし。
廿八日には旅団、振威県付近に進む[未だ詳報を得ざるを以て確たる地点を知らず]。
予めの計画に、振威県に至らば朝鮮の京釜電線を奪い、之を我用に供する心算なり。旅団は直ちに之を実行したるも、京振各通信機器の種類を異にせる等の為め、一回僅かに交通したる後、之を用ゆること能わず。故に今日に至るも、電線は利用し得ず。遺憾此事なり。
此日も兵站監部は二縦列を編成して糧食を追送す。元来の計画は、兵站監は二縦列を以て日々龍山水原間を往復せしむるの計画なりしも、、前方に送りたる縦列の人馬遁逃する為め、此計画破れ来りて充分に実行すること能わず。為に意外の人馬を日々要するに至るなり。
(略)
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まあ、「当て事と褌は向こうから外れる」という言葉があるが、朝鮮人をあてにしたのが間違いであろう。
開戦当初に於いて、日本が大清帝国を降すなどと朝鮮人の内で誰が思おうか。いや海外の西洋諸国ですらそうであった。韓廷内の改革派の中でも日本軍の勝利を信じていた者が果していたろうか。
まして土民の人夫が逃げ出すは必定。ついでに満載の荷物ごと。
それだけに朝鮮政府が、牙山の清兵撤回を日本に依頼し、その便宜を地方官に通達するということは、日本政府が言う、朝鮮の独立主権をはっきりとさせることよりも、清国に対して朝鮮政府は敵対するのであると、その旗幟を鮮明にすることに他ならない。
そもそも朝鮮人が国の独立主権に思いを募らせていたなどというのは疑問である。
当面の困難を避けたいというだけで、遂に大鳥公使に対して清兵撤回依頼の公文を提出したということではなかろうか。
それにしても不幸なことに、この時、第21聯隊第3大隊長の古志正綱少佐は、人夫駄馬が残らず逃亡したために部隊が前進出来なくなり、その責任を感じて自決したと言われている。ここにある54頭残らず逃亡した某大隊がそれであろうか。
大島義昌旅団長の後の報告では、その事に関して次のような記述があるだけである。
「本日(27日)水源(原)府出発前、歩兵少佐古志正綱死去す。進級補助の権を仮ざれざる為め、不得已代理官を置きたり。代理を以て実戦に望むは義昌の甚だ遺憾とする処なり。」(「26日午前4時発水源府に進む」p2)
とその死因にまでは触れていない。またその後この日の昼にかけて振威県まで進んだところ、清兵副将聶士成が貯蔵していた精米、薪、藁を見つけて手に入れている。凡そ1日分の糧食であったという。(「同上」p1)
明治27年9月25日発行の「日清韓三国英名伝」では、
「一朝病に罹り、遂に起たざるに至る」(p22)とあり、同年11月16日発行の「帝国軍人名誉列伝」には、
「不幸病を得て陣中に没す」(p49)とある。
あるいはまた同年11月5日発行の興文社「日清戦争」には、
「水原という処に達せり。此処にて古志少佐死せり。其故を詳かにせず。」(p77)
とある。その本当の死因が知られるようになったのは何時頃からであったろうか。なお、10年後に発刊の「参謀本部編纂 明治二十七八年日清戦史 第一巻 明治三十七年三月十七日発行」のp132には、
「是日、力を尽して集合したる人馬は往々逃亡を謀り、歩兵第二十一聯隊第三大隊に属するものゝ如きは皆逃亡して、遂に翌日の出発に支障を生じ、大隊長古志正綱、二十七日午前五時、責を引き自尽するに至れり。」
とある。
牙山の清兵退去、成歓の戦闘
さて、日清戦争最初の陸戦、成歓の戦闘であるが、アジ歴の「大島旅団報告」と「混成旅団戦闘詳報」などからざっと記述したい。
(「混成旅団報告第17号 大島混成旅団長」C06060163600〜C06060164800、「混成旅団報告第21号
混成旅団戦闘詳報」、「7月7日〜8月5日 報告(二) 工兵第1小隊」より抜粋編集、()は筆者。)
7月24日
朝、大院君から王城守備の増兵を頼んで来るが、守備兵は充分であるから御安心ありたいと答える。(つまり、これ以上京城守備に兵を割くことはできないと。)
電信釜山線は大邱より先は不通と。落雷のためと言う。
新聞記者に従軍心得を定めてこれを通達する。
部隊長会議を開き、いよいよ25日から清兵を追い払う行動を起す事に決す。
人夫駄馬が集まらず兵站が難しいと。また、兵站病院建築中により、落成までは輸送部設置の患者宿泊所を仮病院とする。
軍楽隊は京城守備の一戸少佐の隊に付属させる。また、米国軍艦ボルチモア、士官水兵30余名が陸路で入京するので、沿道で問題が無いようにと、大鳥公使より依頼あり。
この日隊長会議の際に、大島旅団長から訓示があった。それは以下のものである。
此挙実に我帝国の名誉に関す。然れども未だ宣戦の公布なし。故に浸りに戦を交ゆべからず。必ず我命を待つべし。
支那兵の薄弱素より云うまでもなし。然れども敵を軽んじ自ら侮るは敗を招くの基。将校たるもの慎まざるべけんや。
捕獲物は決して私すべからず。若し之れを犯すものあらば必ず軍律に問わん。若し夫れ大将を倒し其首を獲たるものは其所有品一切之を与う(差し出す)べし。
内国に在らばいざ知らず。外国に在りては一歩たりとも進むこと在て退くことなかるべし。縦令退くとも同じく敵中に入るべければなり。故に兵卒は進んで死するの覚悟あるべく、退て生くるの念を懐く勿れ。 |
7月25日
龍山を発し、果川県西南に露営する。病人はいない。
7月26日
午前4時発。水原府に進み正午に着く。米麦凡そ1日分と馬と牛3、40頭をここで徴発する。
(「徴発」の語に一般辞書の誤解あり。「徴発」とは物を入手することを意味するに過ぎない。その手段としては金を払ったり、交換したり、あるいは取り上げたりと様々。)
病人は4、5人。同地に兵站仮病院を置く。
大鳥公使から、外務督弁より公文を以て清兵撤回の依頼ありとの報あり。また、人馬雇い入れに関する統理衙門の告文を受領する。
7月27日
出発前に大隊長古志正綱少佐死去。(人夫駄馬53頭逃亡。糧食などを失う。)
午前4時水原出発。正午頃、振威県に着く。
同所で清兵副将聶士成が貯蔵していた、精米、薪、藁を見つけて徴発。凡そ1日分。
敵軍の歩兵1500、騎兵50が牙山方向から上土橋方向に進むのを見たと。
成歓駅の北方、敵の幕営4個発見。その人員凡そ3千から4千であろう。
29日に決戦することを期す。
前記のように糧食を得たとは言え、後続の兵站の見込みがない。作戦渋滞の恐れがなきにしも非ず。
通信所を置き、京城公使館の軍用電信と通信する予定。
我が騎兵、七原南方に於いて敵の騎兵を撃退する。土民達はこれを喜んだようである。
(その詳細は分からないが、実はこれが陸戦の最初なのかも。)
旅団の区分配置は次の通り。(略)(「軍隊区分」C06060163900〜にあり)
7月28日
午前4時前、前衛部隊が素沙場に向けて前進。続いて本隊も。
前衛は素沙場北方高地、本隊はその北側、本隊からの1個中隊は軍勿浦を占める。
土民の言に、牙山に敵は少数あるのみと。
敵の主力は成歓北方高地の斜面にあり。幕営は見ず。旗幟が多数立つ。我が兵が前進して素沙場に達するまで敵の斥候1人見ず。
明日の攻撃のために軍隊区分配置を決める。(「軍隊区分」C06060164500〜)
午後6時、諸隊長を会して明日の作戦計画の大要を告げ、今回の戦闘の勝敗は一に帝国の浮沈に関わることを諭告し、終わって火酒(ウォッカ類)を開け、遥かに両陛下の万歳を祝す。
この夜陰雨、稀に星光を見る。
7月29日
午前零時、左翼隊が先ず発し、素沙場から左に迂回して敵の側背に向う。
午前2時、右翼隊が発し、敵を牽制する目的で前進。
道路狭く粗悪にして暗黒のために前進ままならず。
午前3時5分、右翼隊が村落から敵の劇甚の射撃を受ける。敵兵は2営。旗2本あり。前衛中隊は田畑に散開し急射撃を行い、工兵中隊は後方堤防に拠る。敵の射撃最も盛んとなる。
午前3時半、雲間より月光漏れて左翼隊の行進少しく容易になる。
戦闘中の右翼隊は、敵の左翼に向って突撃す。午前4時10分にはこれを撃退する。村落各家屋内捜索、清兵2名を捕獲する。また、我が兵の死傷者も多し。
東天やや白し。
午前5時20分、左翼隊は成歓駅から東北7百メートルの高地に達し、大砲列を布いて発射を始める。同時に歩兵も前進して発砲を開始。これが左翼隊の戦闘開始であった。
午前5時30分、右翼隊は村落を出て成歓駅西北方高地に向って進撃。
午前5時50分、前進中の右翼隊、前方4百メートルに敵兵2百ばかり散開しているを見て直に発砲開始。
この頃、衛生隊と第2野戦病院は素沙場の南端に停止し、前進と開設の準備をなしつつあり。
左翼隊は前進し、成歓駅の芥子坊主山の敵陣地5百メートルまで近接する。この時敵兵が軍旗2本を立てて背後に迫らんとするを見るも、構わず前進し、敵陣地南方150メートルの高地を占めて猛烈の射撃を始める。
午前6時のその頃、第一線の部隊も2百メートルの距離に接近し、よって芥子坊主山の敵陣地を半ば包囲する形で十字砲火を集中し、戦闘最も盛ん。
陣地の敵は一時そこを徹っせんとしたが、その西方低地に群集する約6、7百の敵兵からの一部が増加して再び抵抗した。その他の敵は攻撃の激しさに動けず。
この頃から成歓駅の敵兵は、2縦隊となって退却し始める。それを軍勿浦の我が支隊が側面から射撃する。
午前6時8分、左翼砲兵隊は芥子坊主山の敵陣地に対する砲撃を開始。榴弾及び榴散弾を撃つ。その砲撃は猛烈で約百個の砲弾を費やす。
しかしこの時から敵の銃火も砲列線に向って多く飛弾す。
午前6時10分、背後に迫ろうとしていた2旗の敵に対し、中隊を派遣し、敵から距離5百の高地を占めて備えさせる。
この時、右翼隊は前方8百メートルの森林に敵兵4百の横隊に集合するを見て、直ちに一斉射撃をする。
午前6時20分、別動隊の東路独立支隊は、稷山県西北高地に敵兵あるを見て直ちに一斉射撃する。敵応射するも暫くして退却する。支隊は直ちにその高地を占め、その分隊が水田中を逃げる敵を追撃する。
午前6時30分、右翼隊と敵との射撃戦猛烈となる。
午前6時50分、右翼隊前方約1千2百メートルの高地にいる敵の砲兵は、分散する我が歩兵に対して榴弾を砲撃する。しかし各隊前進する。
同時刻、芥子坊主山の敵の射撃やや衰える。この機に左翼隊の第8と第6中隊が突入して遂に陣地を奪う。この時、背後の2旗の敵も退走する。
直ちに芥子坊主山脇下の3個の幕営を攻撃し、同じく別の2幕営をも攻撃する。
この頃、追撃のために進む右翼隊の我が砲兵に対して、1千4百メートルの距離の敵大砲4門が砲撃を始めるが、暫くして退却をする。歩兵は全線で敵軍を追撃する。
午前7時15分、右翼隊前方の2百人の敵兵が退却する。
午前7時半、右翼隊の砲兵は成歓北方の高地を占領し、敵が平澤東方を退却するのを尚も追撃する。
この頃、右翼隊は敵の砲兵陣地の傍らを過ぎて前進する。敵の砲兵の一部は大砲を放棄して牙山方向に敗走する。
騎兵は敗走する敵歩兵を襲撃して斬殺する。
午前8時、左翼隊の歩兵及び砲兵は水田を渡って平澤東方の高地に至る。
この頃、右翼隊は集合する。
これに於いて、成歓駅は完全に日本軍が占領。
敵は5個所の幕営を捨てて潰走しており、砲4門、小銃若干、弾薬多数、天幕90余、旗や陣営具その他雑品、死傷者を残す。(この中に、副将聶士成の書類があった。後述)
敵が最初成歓西方の高地を退去する時は、やや隊伍を組んでいるようであったが、追撃が急なので全く散乱したようである。その後我が軍が進行中、個人または数人で民家あるいは森林から、始終射撃した。また、韓人の服を掠奪してこれを着て山中に逃亡する者などがあった。また、背後に少数の遅留兵があり、敵営監視のために残した我が兵が各個で戦闘をし、敵を殺傷したとの報があった。
給養隊に糧食の搬入をさせ、戦勝を大本営と京城公使館に伝えるよう命じる。
午後零時半、大休止をする。給養隊から送って来た昼食を分配する。その時、暴雨あり。人馬皆濡れる。
右翼隊は牙山に向う。
午後4時、右翼隊は牙山に至り、夥多の軍需品を押収した。
同時刻、左翼隊は金城洞の東方に至って露営する。
7月30日
早朝、左翼隊が牙山に達する。
捕虜の供述によれば、昨日の敵の兵力は、7営(3500人)、蘆台の武毅軍5営、山海関の仁字軍2営であった。
敵の死傷者、500人以上。
戦利品 砲8門、その内閉鎖器のあるもの1門(?)、小銃約30挺、弾薬、天幕多数、軍旗30余、その他。
弾薬と運搬に適さないものは焼棄した。
敵は潰散したが、その多くは新昌県を経て洪州方向に遁逃したようである。
戦闘後の旅団の志気最も善し。
旅団死傷者
将校 戦死1人、溺死1人、負傷4人。
将校外 戦死9人、溺死23人、負傷50人[入院後に5人が死亡]。
(将校溺死について[戦闘中、氾濫に陥りたるもの]とその説明がある。他もそうなのであろう。)
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中でも「混成旅団戦闘詳報(C06060164900 )」は複雑すぎて、読んだり抜粋したりしながらも何が何だかさっぱり。
ただ「大島旅団報告(C06060164800)」を読むだけでは、清軍撃った、日本軍撃った、清軍逃げた、日本軍勝った、という感じで、なんだか清軍の弱さばかりが目立つ。
しかし、戦闘詳報を読むと、そんな単純なものでは到底なかったことが分かる。
各所に部隊を配置し、それぞれが活発に移動しながら戦闘をするのは清軍も同じ。時に日本軍の背後に回ろうとしたり、遠く榴弾砲撃を浴びせたり、或いは頑強に抵抗したりと。
もし豊島沖で沈められた高陞号の1千1百の兵と大砲10数門と、更にはあの清国雇いのドイツ陸軍歩兵少佐フォン・ハネッケンの指揮が戦闘に加わっていたなら、戦況は果してどうなっていたか分からないという迫力がある。
ただ日本軍の戦闘技術が、清軍をはるかに凌駕している雰囲気は伝わってくるものではある。
かつて清将が見ていた日本軍とは
7月29日、牙山の清兵は成歓の戦闘で敗走するが、その時の戦利品の中に副将聶士成の書類があった。
それには、戦争前の6月の記述があり、おそらく軍事日記か何かであったろう。以下はその抜粋である。
(「秘 統領聶士成書類中より抄訳 成歓役に於て分捕せし書類中より抜萃せしもの」C06060134200、より現代語に、()は筆者補足)
秘
成歓の戦役に於て分捕った書類中から抜粋したもの。
統領聶士成の書類から抄訳したもの。
24日[日本歴6月27日]の晩に、日本軍艦の浪速、武蔵の両艦が、運送船8隻[その内の七隻には兵約3000余人、馬278頭、砲6門を載せ、他の1隻には石炭を積み込んでいると]を護衛して仁川に着き、当夜直ちに上陸をした。
そして前に京城から仁川に来ていた日本兵150名は、その夜に京城に引き返した。
25日[日本歴6月28日]の明け方、日本兵900余名が到着した。総計、在韓の日本兵は約1万人に近く、馬は約7百余頭、砲は4、50門、その内京城内外にいる者の数は、現に4千余人あると。
また、聞くところでは、釜山にも兵が数千人おり、その意は測計り難い。
今もし我が兵を用いるとするなら、多数の軍艦で仁川口を占め、日本の軍艦を出港できないようにして、且つ大部隊の陸兵を海路馬山浦に上陸させ、東路で天安、安城、陽智、広州から漢江の上流を渡って(日本)兵の背後をつき、又、義州、平壌から陸路で兵を進め、両路から挟撃すれば進退路がなくなって戦わずして懾服(恐れてひれ伏すこと)するだろう。
また日本兵が恃むところは、地雷火[(欄外)原文 西洋銃があるが単発銃であって、地雷火に■む]の一技だけ。
その兵を見ると、何れもだいたい皆が幼弱であって、既に仁川と漢城間の進行にも疲れて弱る異常なもので、我が兵のように良く労苦に耐える者はいない。
もし両軍が相対して馳駆奔逐するなら、勝負の勢いは問わずして知るべきである。まして日本は外には強く見えても内面は弱いのであるから。
特に我が軍の自重して軽挙せぬことを知り、ことさら公使館及び商民を保護することを名に続々と大軍を送って韓人の胆を威嚇して従わせ易くし、並びに京城仁川間の要害に拠点して、我が方をして日本側の勢い既に成って兵力を用いることを難しいように思わせようとしていることは、再び琉球事件の狡智を働かせようとしているようなものである。
もし我が方が真に兵を用いれば、日本は必ず畏怖して和を請うだろう。
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聶士成は兵約1千を束ねる、日本で言う大隊長クラスの清将であるが、これは敵をあなどる、などと言う次元の言葉ではない。日本兵個人の外見を見て評価し、そんなもので肝心要の戦闘技術というものが見える訳でもないにも拘らず、このような断定を下す。前近代的な清国ならではの大国意識という尊大さが、いかに人の眼を曇らせるかの典型ではなかろうか。
ところで見た目といえば、先の戦闘詳報に「成歓の素沙場で、樋口少尉に朝鮮服を着せて馬夫の姿で斥候に行かせたが、真夜中になっても戻ってこない。皆な頗る心痛したが隊の出発の時になって帰って来た。よって服を着替える暇もなく、朝鮮服の馬夫の姿のままで中隊長代理として戦場に赴いた」とある。
う〜ん、日本軍部隊を馬上で指揮する朝鮮人馬夫と。清兵も見て驚いたろうなあ(笑)
師団となす
日本政府は、現在の混成旅団に対して更に1旅団を加えて1師団とすることに決し、師団長野津道貫中将と共に朝鮮国に派遣することを7月30日に大鳥公使に通達した。
(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p30、棒線は削除された文)
明治廿七年七月三十日起草 同年同月同日発遣 参謀本部に托す。
在京城大鳥全権公使 陸奥外務大臣
朝鮮政府に対する我冀望も御尽力に因て着々其歩を進め、総て好都合に相運様在候折柄、今般清国政府より更に多兵を朝鮮国え派遣せしこと確実に相成、其意全く我に抗敵せんとするものたること判然致候を以て、我よりも更に一旅団の兵を派遣して以て一師団を全成し、何時にても清国兵と対敵することを得べき設備を為置事に決定相成候に付、■閣下には此際朝鮮政府をして右増兵の義に付、何等疑念を挟ましめざる様充分御注意相成度、又場合に依りては朝鮮政府に向て、
帝国政府にて此回増兵せし所以は、全く朝鮮政府が断然たる内政上の改革を行うに当りて、清国政府が之を阻碍せんと試みることなきを保せざれば、更に多兵を朝鮮に派遣するは取りも直さず之に防碍を加うるものなれば、是等の防碍を阻格する為めにして、即ち朝鮮政府が革新の業を助くる目的なり、
との主意にて弁明可致成候。
将又、全師団派遣の節は師団長野津陸軍中将其他え出張可相成に付、是迄及訓令置候通之旨意に従われ、軍隊の進退及其他一切の事項総て是迄旅団長大島少将に対せられし通り、野津中将と御協議御決行相成候様致度、尚右の趣は大本営よりも師団長え同様の訓令可相成筈に有之候。
右申進候。敬具。
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清国政府が更に多兵を朝鮮国へ派遣することは、日本政府は早い内からその情報を掴んでいた。清軍は平壌に集結することも、そこから京城に向わんとするらしいことも。それらが愈々確実となったことによって、1個師団を編成してそれに対応させることにしたようである。
しかしこの後もまた兵站には苦しみ、釜山から上陸した部隊は買入れや雇い入れのための韓銭を、交換で得ることすら苦労することになる。
宣戦詔勅
8月1日、宣戦詔勅案を閣議に提出して裁可を得る。
(「宣戦ノ詔勅」A01200759500より、棒線は削除文、[]は訂正文、<>は挿入文。)
宣戦詔勅
右閣議に供す
天佑を保全し、万世一系の皇祚を践める大日本帝国皇帝は、忠実勇武なる汝有衆に示す。
朕、茲に清国に対して戦を宣す。
朕が百僚有司は宜く朕が意を体し、陸上に海面に、清国に対して交戦の事に従い、以て国家の目的を達するに努力すべし。
苟も国際法に戻らざる限り、各々権能に応じて一切の手段を尽すに於て、必す遺漏なからむことを期せよ。
惟うに朕が即位以来、茲に二十有余年文明の化を平和の治に求め、事を外国に構うるの極めて不可なるを信じ、有司をして常に友邦の誼を篤くするに努力せしめ、幸に列国の交際は年を逐うて親密を加う。
何ぞ料らむ清国の朝鮮事件に於ける我に対して、着着[著著]鄰交に戻り、信義を失するの挙に出でむとは。
朝鮮は、帝国が其<の>始に啓誘して列国の伍伴に就かしめたる独立の一国たり。
而して清国は毎に自ら朝鮮を以て属邦と称し、陰に陽に其<の>内政に干渉し、其<の>内乱あるに於て口を属邦の■[拯]難に籍き、兵を朝鮮に出したり。
朕は明治十五年の条約に依り兵を出して変に備えしめ、更に朝鮮をして禍乱を永遠に免れ、治安を将来に保たしめ、以て東洋全局の平和を維持せんと欲し、先つ清国に告ぐるに協同事に従わんことを以てしたるに、清国は翻て言を朝鮮の自主に托して[種々の■籍■]<種々の辞柄を設け>之を拒みたり。
帝国は是に於て朝鮮に勧むるに、其<の>秕政を釐革し、内は治安の基を堅くし、外は独立国の権義を全くせんことを以てしたるに、朝鮮は既に之を肯諾したるも、清国は終始陰に居て百方其<の>目的を妨碍し、剰へ辞を左右に■[托]し言を列国に構えて時機を緩にし、以て其<の>水陸の兵備を整え、一旦成るを告ぐるや直に其<の>力を以て其<の>欲望を達せんとし、更に大兵を韓土に派し、我艦を韓海に要撃し殆ど亡状を極めたり。
則ち清国の計図たる、明に朝鮮国治安の責をして帰する所あらざらしめ、帝国が率先して之を諸独立国の列に伍せしめたる朝鮮の地位は、之を表示するの条約と共に之を蒙晦に付し、以て帝国の権利利益を損傷し、以て東洋の平和をして永く担保なからしむるに存するや、疑ふへからす。
熟々其<の>為す所に就て深く其<の>謀略を推す[謀計の存する所を揣る]に、実に始めより平和を犠牲として其<の>非望を遂げんとするものと謂わざるべからず。
事既に茲に至る。朕、平和と相終始して以て帝国の光栄を中外に宣揚するに専なりと雖■、亦■[公]に戦を宣せざるを得ざるなり。
汝有衆の忠実勇武に倚頼し、速に平和を永遠に克復し、以て帝国の光栄を全くせんことを期す。
御名 御璽
明治二十七年八月一日
内閣総理大臣
各 大 臣
宣戦詔勅
右謹で裁可を仰ぐ。
明治二十七年八月一日
内閣総理大臣伯爵伊藤博文 花押
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冒頭宣戦の語に続いて「国際法」の語を添える。これ日本が近代国家としての戦争宣言を意味する。
また、「朝鮮は、帝国が其の始に啓誘して列国の伍伴に就かしめたる独立の一国たり」と。
これは、ご存知のように、近代条約である日朝修好条規を以って西洋列強国と同等の独立国の列に立たせたという認識。その後も鎖国を止めさせようと様々に助言し諸外国との仲介もして来た事実を示す。
もっとも、条約に限って言えば例えば米朝条約は清国主導で結んだものだが。しかしそれは条約文とは別の、照会文を以って朝鮮は清国の属邦であることを米国に認めさせたものであった。
で、「清国は事あるごとに朝鮮を属邦と称して、陰に陽にその内政に干渉し、今度の内乱があるに於いて、属邦の難を救うという言葉と共に兵を出した」と。
袁世凱のやり方を見ていると、朝鮮から派兵を求めたというよりも、求めさせたというのが適当でしょう。つまりは朝鮮が清国の属国であることを国の内外にはっきりと示すいい機会でもあったと。
で、「朕は明治15年の条約によって兵を出して事態に備えさせ、更に朝鮮から乱を永遠になくし、将来も治安を保たさせ、東洋全体の平和を維持させようとして、先ず、清国に共同でこの事を行うことを告げたのに、清国は言葉を翻して、朝鮮の自主に任せるなどと様々に口実を設けてこれを拒否した」と。
属国と言ったり、自主に任せると言ったりと、だいたい中国の宗主国意識というものはそんなもの。つまりは自分の都合のいいように様々に解釈したり理由をつけたりするということ。
そして、「我が国はこれに於いて朝鮮に勧めるのに、その弊政を改革し、内は治安の基礎を固め、外は独立国の権利と義務を全うするようにと告げ、朝鮮はすでにこれを肯諾したが、清国は終始陰で百方手を尽くして妨害し、その上更に言を左右にし、列強国に働きかけて時間をかせぎ、その間、海陸の兵備を整え、それが成るや直ぐにその力で欲望を遂げんとして、更に大兵を朝鮮の地に派遣し、我が国の軍艦を朝鮮海で攻撃するなど、殆ど暴挙を極めた」と。
そもそも天津条約の第2条の精神を振り返ると、日清両国は朝鮮国自らが治安を守ることができるように共に協力する、ということにあるのだから、日本はこの条約に沿うていることなり、一方、清はこの条約に背いていることになる。
すなわち、「清国の企ては、明らかに朝鮮国をして治安の責任の帰するところをなくさせ、我が国が率先して独立国の列に並ばせた朝鮮の地位を、これを表示する条約と共になきものとせさ、以って我が国の権利と利益を損傷し、東洋平和の永くあるを保障しないとすることにあることは疑えないことである」と。
つまりは、清国は「日朝修好条規」を亡きものにしたいのだと。確かにそうだろう。朝鮮国が自主独立の国であることを明記したものだし、清国としてはこれが目障りでしようがない。また、清国の暴挙は、朝鮮自ら治安の責任あることを無に帰させたと。ここのところは極めて重要。他国に頼る体質を助長させこそすれ、自国に責任をもつことすら放棄させたも同然なのだから。もっとも、後に朝鮮政府は日本政府に東学党の乱の掃討を依頼し、日本はそれを承諾して乱の掃討をすることになるが、ここは非常時且つ止むを得ないとしても、指導する教官また武器弾薬は日本が提供しても、掃討そのものは朝鮮兵自身にやらせるのが朝鮮自ら責任を果たすということに於いて妥当だったのではなかろうか。
で、「よくよくそのするところについて深く考えるなら、実は初めから平和を犠牲にしてもその望みを遂げようとするものであると言わざるをえない」と。
たとえば、明治17年朝鮮事変の事もあるし、天津条約の談判の時のことを思い起こしても頷けることである。李鴻章は、「我が国は戦争の用意に取り掛かるほかはない。我が国はフランスとすら戦争したぞ」と、日本が妥協しないなら戦争してもいいのだぞ、と露骨に言ったのであるから。つまりは清国は初めからそのつもりだったと言わざるを得ないと。まあ、明治19年には自慢の巨大戦艦を日本に入港させて威圧したこともあるし。李鴻章が「今度こそは日本を一撃せん」と放言もしたし。(ほんと李鴻章は短期短慮の人である)
そして、「事はすでにここに至った。平和を以って国の光栄とするを内外に宣言することを常とするが、また公式に戦いも宣言さぜるを得ない。よって、国民と政府の忠実と武勇に依頼して、速かに平和を回復し我が国の光栄を全うするように」と。
この時の宣戦布告の文章は、当時の日本国民をして最も共感と興奮をもたらしたものであったろうと思われる。以後、陸続として日本人義勇兵、義勇団の申し込みが政府に寄せられ、その処置に困惑するほどのこととなる。(従軍出願者取扱ニ付詔勅)
ところで、上記「宣戦詔勅」原文は文章の手直しなどされているのが伺えよう。じつは当然のことながら、この宣戦詔勅文は何度か草案が作成され修正され、ようやくこれに定っている。途中、相手国は清国のみならず朝鮮国もまた同じとする内容のものもあった(笑)
要するに内閣書記官長伊東巳代治は閣員の意見を受けて様々に作案したと。もし日清韓戦争案でも採用されていたら大きく歴史は変っていたろうが、まあ、ここまでの経緯を追って行くならそれは到底無茶な案であったことは歴然である(笑)
つまりは、成り行きのままに始めてしまった戦争であったからこそ、当初は方針を巡って相当混乱が見られたという理解が正解であろう。
そして同日(陰暦7月初1日)、清国皇帝も日本に対する開戦の詔勅を発した。
(「豊島沖ノ海戦及朝鮮政府ノ依頼ニ応シ在牙山清兵ノ駆逐並日清両国宣戦ノ詔勅公布ノ事」p18)
七月初一日奉上諭。朝鮮爲我大清藩屬、二百餘年、歳修職貢、爲中外所共知。
近十数年、該國時多内亂、朝廷字小爲懐、疂次派兵前往戡定も並派員駐紮該國都城、随時保護。
本年四月間、朝鮮又有土匪變亂、該國王請兵、援剿、情詞迫切、當即諭令李鴻章、撥兵赴援、甫抵、牙山、匪徒星散。
乃倭人無故添兵、突入漢城、嗣又増兵萬餘、迫令朝鮮更改國政、種々要挾、難以理喩。
我朝撫綏藩服、其國内政事、向令自理。
日本與朝鮮立約、係屬與國、更無以重兵欺壓強令革政之理。
各國公論、皆以日本師出無名、不合情理、勧令撤兵和平商弁、乃竟悍然不顧、迄無成説、反更陸續添兵、朝鮮百姓、及中國商民、日加驚擾。
是以添兵前往保護、詎行至中途突有倭船多隻、乗我不備、在牙山口外海面、開砲轟撃、傷我運船、變詐情形、殊非意科所及。
該國不遵條約、不守公法、任意鴟張、専行詭計、釁開自彼、公論昭然、用特布告天下、俾曉然於朝廷辨理此事、實已仁至義盡、而倭人渝盟肇釁、無理已極勢難再豫姑容。
着李鴻章、巖飭派出各軍、迅速進剿、厚集雄師、陸續進発、以拯韓民於塗炭、並著沿江沿海各将軍、督撫、及統兵大臣、整飭戎行遇有倭人輪舩駛入各口、即行迎頭痛撃、悉數殲除、毋得稍有退縮、致干罪戻。将此通諭知之、欽此。
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で、拙い翻訳が以下。
朝鮮は我が大清国の属藩として二百余年、貢を歳に修めていることは国の内外で知るところである。
ここ十数年この国では内乱が多発し、朝廷ではその都度派兵し、また都城に駐兵して保護に当った。
今年四月、朝鮮でまた土匪の変乱があった。この国の王が兵を請い援を求めること切なるものがあった。よってすぐさま李鴻章に令して兵を発して救援に行かせ、牙山に至って匪徒は散った。
この時、倭人は故無く兵を出して漢城に突き入らせ、続いて万余の増兵をし、朝鮮に国政を改めることを迫り種々の無理を要求した。
我が国は藩として服するを撫で安んじさせるが、その国内政治政令は自主とする。
日本は朝鮮との条約を立て、興国その属に係り、更に重兵を以て欺き脅迫して改政を迫るもその理は無い。
各国の公論も皆日本の出兵を名の無い不合理のものであるとし、撤兵を勧告し和平を呼びかけるも頑固に顧みず、反対に陸続と派兵をし、朝鮮の百姓及び中国の商民を日に驚き擾れを増させた。
これによって兵を派して保護に向わせたが、何と途中で突然倭船多数があらわれ、我が船が備えのないのに乗じて牙山外の海で砲撃し、我が運送舩をそこなわせた。その騙し討ちのような情況は図ることの出来ないものであった。
この国は条約に遵わず、公法を守らない。意に任せて我ままを張り専ら欺きを計り行い、血塗る事態を自ずと開いた。
公論明らかにして特に天下に布告する。
朝廷はこの事を弁理するに、実に已に仁と義を尽し、倭人が盟約に背いて血塗ることを始めたこの理不尽の極の勢いをもはや受け入れることが出来ないと、遂に結論した。
李鴻章が着し、厳しく装備して各軍を派出し、迅速に討伐し、雄師を厚く集めて陸続進発し、以って韓民が塗炭にあるを救い、また沿川沿海の各将軍を督励して軍大臣に厳に整えさせ、倭人の軍艦が各口に入ることがある時には、即ち迎えて痛撃を行い、数を尽して殲滅する。
決して罪を犯し背いて退くことなかれ。
将にここに諭告する。
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こちらは読んでて何故か微笑ましくなるものがある。
名こそ塗炭の韓民を救い、とあるが、何だか部族の大酋長が、やられたからやり返せと叫んでいるような感じがする。せめて「東洋平和のために」とかの語を載せて大義名分を掲げればよかったのに(笑)
それに昔から清兵が駐留すると強姦略奪が絶えず、よほど韓民にとっては塗炭の苦しみであったろう。(参考「清兵による強姦、掠奪、殺人について」)
日本、清、朝鮮を取り巻く世界情勢を見る時、隣国の属藩たるにこだわっている時ではなかったはずである。
日清の宣戦詔勅を比べると、いわゆる見識の高さに大きく違いがあるのは否めない。
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