日清戦争下の日本と朝鮮(7)
(参照公文書などは1部を除いてアジ歴の史料から)
軍国機務処大臣弾劾 10月2日、大臣達を弾劾するとして、守門将金基泓なる者が上疏に及んだ。 その八奸とは、金宏集、金允植、朴定揚、金宗漢、安駉壽、金嘉鎮、趙羲淵、権濚鎮であり、いずれも軍国機務処の要人であって開化派の者たちである。 朝鮮では古来からの慣例として大臣の地位にある者は、上疏があった場合はその当否はともかく一応辞表を出して裁可を待つことになっていた。 ところが上疏した金基泓を取り調べてみると、「一丁字を解すること能わざる者」であり「本来上疏など認む可き文筆なきもの」であり、誰か他の者から教唆されての行為であることは明らかであった。それはもちろん、大院君が李允用を処分することに失敗したことからの巻き返しであることは間違いないことと思われた。 7日に受電した陸奥外務大臣は、すぐに伊藤総理と井上馨内務大臣にそれを知らせた。(「明治27年9月17日から明治27年10月23日」p23) 朝鮮国王は国家多事の際にこれでは国政進行上妨げがあるとして、上疏者金基泓を法務衙門に移して拘禁し厳に処分することを命じ、大臣始め諸官には懇篤なる諭旨を下して再三留任を勧告したので、大臣等は8日には主務に復し、軍国機務処も漸く会議を開く運びに至った。 ところで、大鳥の報告には見当たらないのだが、「渡邊砲兵少佐付属横山又三郎通信」中の「壮衛正領官禹範善の上疏大意」には、他に壮衛正領官禹範善による上疏があったとして、以下のようにその大意が記載されている。即ち、 ・ 軍国機務所は無要の長物なり。亟(すみや)かに廃すべし。 禹範善と言えば、かつて明治15年の朝鮮別技軍の教錬所参領官であり、後に兵を率いて王宮に突入した訓練隊第2大隊長であり、王妃閔氏を殺害したのは自分であると人に漏らしたために暗殺されると言う人物である。
大鳥圭介解任、井上馨が公使に さて、日本政府が大鳥公使の更迭止む無しの意向を定めたのもこの頃であったろうか。それについては、「蹇蹇録」の「第十一章 朝鮮内政改革ノ第二期」p8〜10 と、「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録
松本記録」の「1 前編 2」p52、53 に詳しい。 いずれにしろ、朝鮮改革の実が一向に挙がらないのは大鳥の力不足であるとの声が強かったと思われるが、実際、この上朝鮮政府内をどうにか纏め上げて改革に向かわせる、つまりは大院君の国政への口出しや王妃の隠然たる画策を止めさせ、独立と開化の路線を進めさせるには、大鳥ではその地位や力量では心もとなく、ここはやはり井上のような元勲クラスの重鎮且つ辣腕を振るう人物と交代せねばならない時期ではあったろう。 かくて明治27年10月15日、井上馨特命全権公使の京城駐箚と大鳥圭介の解任の裁可を経て、10月25日、井上馨は数名の随行者とともに仁川港に到着した。 ただちに仁川領事館で公使出迎えに特派された外務協弁金嘉鎮と談話。井上は儀礼の挨拶に終わらず、以下のように執るべき要点を述べた。 ・ 我が国開戦中にて国事多端、身は内務大臣で一時の暇はないが、数万の軍兵を出して血を流し莫大の財を費やす中に、朝鮮内政改革による独立の実を挙げさせる目的で来た。 ・ 改革は頗る困難の大業である。王家一致、当局者同心協力、一意一心を以って当らねばならない。 ・ 私怨、私利、権勢、それらを争うようでは到底改革の望みはない。自分はどの党この党と偏ることはしない。 ・ 第一に王君主陛下、第二に中宮陛下、第三に大院君と、その間柄が最も親密となって、まず王室が強固とならねばならない。王室が強固でないのは政府が強固でないからである。 ・ 最早、今日のような好機会は再び来ないだろう。にも拘わらず改革の実効を見ないなら、貴国の前途は察するに国歩艱難の極に再び至るだろう。
李呵Oへの直言 さて井上公使は早々に執るべきことに着手。政府内外要人らと対談また情報収集に努めた。
李呵Oこそ王族の1人でありながら、自分の国がどのような状態に置かれているかを顧みることもせず、ひたすら自家の利欲、権力争奪に汲々とする張本人の一人である。これぐらいの直言でしおらしくなるような李呵Oではない。彼はこの後も全く識見に乏しい人物らしい生き方を続けていくことになる。
金允植外務大臣との対談 次いで同日の午後3時、金允植外務大臣と対談。
「顧問官聘用と外債募集の件」とは、朝鮮政府が西園寺公望侯爵差遣の返礼として日本に行かせた(10月13日仁川発)報聘大使(義和王子 李堈 高宗庶子 当時18歳)の随行者に、日本での顧問官聘用と外債募集を委任していた件である。 どうやら、金允植も依然として積極的な開化派ではないようである。人物評にあるように、どちらかと言えば大院君派ではなかろうか。
米国医師、王妃閔氏を語る 10月26日、仁川領事館にいた井上公使を訪ねて米国ワールド新聞記者クリールマンなる者が来た。その時に同記者は、王妃の智略というものは朝鮮政府の改良にとって軽んじられないものであると語った。よって井上は米国公使館書記官ドクトル・アルレンスがかつて医師として王妃に接近した人なので、秘書官の斎藤修一郎を10月28日に同館に訪問させた。なお米国公使も同席しての対談である。
えらく友好的な米国側であるが、前に日本政府を誤解していたのと関係あるかもしれない。それと言うのも7月の開戦前に、どうやら米国務長官は日本が朝鮮に対して開戦をすると誤解していたらしい。(「明治27年6月29日から明治27年9月8日」p37」) 米国駐箚特命全権公使栗野慎一郎は、米国公使が日本政府に申し出たものは、国務長官からの電信訓令を米国公使が変更したものであり、その他米国各紙の記事からも考えて、国務長官は、日本政府が朝鮮国に向かって開戦せんとするものであると誤解しているようである、と報告している。 しかし王妃閔氏が支那の血筋の人であるとは興味深い話である。 明治15年(1882)の大院君の乱(壬午軍民の乱)に於て、清国はその罪を問うて大院君を清国内に拉致して軟禁した。それは3年の永きに及んだが、その間、王妃閔氏と清国政府との間で確執があったというのである。おそらく、当時露国に密使を派して接近したことなどを言うのであろう。よって清国は、明治18年10月に大院君を朝鮮に戻し、再び朝鮮駐在とさせた袁世凱を以って強力に干渉したために、国王王妃は殆ど空位の座にあるも同然の10年間となったと。
異例の国王謁見 10月28日午後3時、井上馨は国王に謁見。唯に大鳥と交代を告げる国書奉呈の儀式に留まらず、2時間余りにわたって意見を呈する異例の謁見となった。 まず井上は国王とは10年来の再会である事を述べ、井上の京城駐箚、大鳥の解任、天皇陛下の親書などを呈出した。
先に秘書官斎藤修一郎は「井上伯は議院の演題に立って弁ずる器ではないが、互に膝を交えて対話するなら、その誠意を人の心に深く感じさせる特質の人である」などと言っていたが、どうしてどうして演説を以ってしても充分にその誠意を感じさせずにおかないものがある。後の陸奥宛親展でも井上は、「・・・肺肝を吐露し続々懇切に奏上し、殆ど二時間余の長きに渉り、殿下には余程感激あらせられたる様見受申候」と述べている。(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/7 1894〔明治27〕年10月29日から明治27年10月30日」p3) さて、ここで井上は王室の強固、政府協同一致を重ねて説き、改革の実を挙げねば国の独立は望めないことを苦言と共に呈している。後に下関に於ける日清講和条約訂結によって清国に朝鮮の独立を認めさせることになるが、問題は朝鮮国自身が果たして確乎とした独立の意思があるのか、また独立国たる内実を整えるのか、そのための改革に実効ある取り組みをするのかということであったろう。その為に日本国は、 また言う。 筆者もまた同感である。日朝近代史に興味ある方は「篤と御考究」あれ。 しかし井上馨は伊藤博文よりも尚も一段と直言して憚らない、要するにつけつけと物言う人であることがよく分かる。そしてこれはまだ序の口であった。
英国総領事と対談 井上は翌日10月29日午前には英国総領事兼外交事務官ヒリヤーと対談し、政府の朝鮮に対する意向を日朝略歴も交えて伝え、理解を求めた。 ヒリヤーの話では、朝鮮の税関は清国の英国人総税使の部下から分かれた者達が担当し、その多くは英国人であり朝鮮国税関事務長も英国人であること、従って英国政府は税関組織を変更するのは反対であること、また、かつて英国合同企業が鉄道敷設、鉱山開発の契約を朝鮮政府と結んだが、その契約期限が既に過ぎたので全く放棄した、とのことであった。 まさに先に国王謁見で井上が述べたように、「皆、国として自国の利益と勢力を経営するのに汲々とするのは当然の務めである」と。
今日も頑固な大院君 同日29日、昨日の答礼として大院君が公使館を訪問した。勿論、井上のことであるから答礼の挨拶で終わらせるはずもなく、またも長時間の対談となった。(原文テキスト全文はこちら) 冒頭大院君は、日本公使が度々代わるから親密の交際が続かないのが遺憾であると述べ、一番の古株である杉村濬書記官を見ながら、「同氏は余と反対の人だから余は好かない。なにとぞ閣下(井上)とは永く交際することを望む」などと、いきなりの嫌味を放った。 その他にも孟子の句を述べたりして相変わらずの大院君であったが、まあこの時もう75歳だから今更変わるはずもなし。以下、対談の抜粋要約である。
大院君と井上は案外性分が合うかもしれない。どちらも遠慮がなく言いたい放題。 後に金宏集との対談の中でも井上はこの時の事を以下のように述べている。 やはり追究の手加減はしたようである。 そしてこの後、泣けることに王妃に直接謁見して舅たる大院君への孝養を尽すことを諄々と説く井上馨なのであった。はあ。
井上馨報告 大院君との対談を終えた井上は、同日に陸奥外務大臣に親展を以って報告。(原文テキストはこちら) ・ 談話に対して国王は感激されたようであった。大院君は聞きしに違わず中々の老獪であった(英文電報には old fox と)。 日本の外交官が、この国の支配層の暴虐非道振りについて記述した報告は、その数こそ多くはないが充分その実情が窺えるものである。中でも一番詳細なのは、すでに全文を掲載したが、やはり明治12年の在釜山港管理官の山ノ城祐長の建白にあるものだろう。
これで乱が起きないほうが不思議。
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