(「韓国王妃殺害一件 第一巻 分割4 B08090168300」p9より。判読困難な部分は「日本外交文書」の該当文によった。()は筆者)
明治廿八年十月八日朝鮮王城事変之報告
機密第三六号 十一月十五日接受
明治二十八年十月八日王城事変の顛末に付具報
今回当地に起りたる事変の性質及其顧末に関しては、小村弁理公使よりの具報及其他公私の報告により、已に詳細御承知相成候事とは存候え共、尚為御参考、本件に関し小官の実地見聞したること、及び職務上取計いたることを左に開陳具報致候。
扨て先般三浦公使新たに在任せられ候に付ては、乍延引歓迎の意を表する為め、客月七日午后七時より当館にて晩饗を供せんとし、同公使を始め、杉村、日置両書記官、日下部外交官補、国分通訳官、及堀口領事官補に案内状を発し侯処、瘁i杉)村書記官は或朝鮮官吏と前約ある故を以て之を辞し、国分通訳官も亦来客の前約ある故を以て之を辞したれども、他の四人は之を承諾致侯。
然るに翌日約束の刻限に至り、三浦、日置、日下部の三名は来館致候え共、堀口は時刻を遅るヽこと凡そ三十分間に及ぶも尚来会せざるに付、人を遣わし其下婢に尋ねしめたるに、同人は夕景より荻原警部と共に乗馬して他行せし侭、未だ帰館せずとの事に付、小官も同人の為め頗る心配致し、堀口は未だ充分乗馬の経験なきにより、若しや郊外に於て落馬負傷し、之が為め帰館の後るヽに非るかと申し侯処、其時三浦公使は小官に向ひ、堀口の行先は自分良く承知せり、心配するに及はず云々との事に付、小官も深く之を尋究せず、直ちに食卓に就き、食事を終り、凡そ九時半頃に至り一同解散致候。
其後、小官は十時頃に至り、寝室に入りたりしが、間もなく三浦公使は書翰[別紙第一号写の通り]を以て、堀口等は自分の用を以て遠方に遣わしたり。其事柄は翌朝に至り話すべき旨申来り候処。此時小官は未だ堀口の行先きを承知致さざりしも、過日来閔泳駿入城の噂頻りなりし折柄に付、三浦公使の命により荻原警部と共に其情況偵察の為め城外へでも出張せしならんか、兎に角公使の用向を帯び、他行せしものならば、別段心配するに及ばざる事ならんと想像致候え共、たとい如何なる用向にもせよ、小官部下の官吏を公使が勝手に使用するは不都合なる義と存候に付、翌日に至らば後日再び如此不都合無之様、三浦公使に面談し、尚お堀口等へも訓戒致し置く積りにて、其侭就眠致候。
翌八日払暁、小官は銃声の連発に驚かされ、俄かに飛び起き窓外を望めば、王宮の方面に当り猶数発の銃声を聞き付け候処、前日来、屡巡検と兵丁との間に争闘ありたるに付、又々引続き争闘を試みたるならんか、去りながら銃器を用ひて相闘うは実に容易ならざる義と相認めしに付、兎に角人を遣わし其実情を偵察せしめんと欲し、先ず荻原警部を起さんとしたれども同人は在宅せず。次に堀口領事官補の宅を伺うに此亦不在なり。依って荻原と同居せる大木書記生に向って其故を尋ぬるに、今朝大院君入闕につき、堀口荻原両人とも之れに随行せりとの事に付、小官も非常に驚き入り、茲に始めて三浦公使が前晩来堀口等を如此事に使用したることを知り、尚お巡査の人員を点検するに、此又警部に随行したる者数名ありたるを認めたるにより、益々事の容易ならざるに驚き、三浦公使に面会し、其実情を確めんと欲し、小官は直ちに公使館に向って馳せ行きしが、途中日置書記官に出遭いたるにより、其概略を聞かんと欲したれども、同書記官も亦、所謂寝耳に水の有様にて少も之を承知せず。
且つ三浦公使始め杉村書記官は已に参内せりとのことに付、日置書記官の言に従い、公使官付新納海軍少佐の宅に立寄りしに、同所には少佐の外に柴四郎及熊本県人佐藤敬太の両人来会せ居り。佐藤は前夜来、他の壮士輩と共に先ず岡本柳之助等と龍山に会し、其より相率いて孔徳里に至り、大院君を擁して王宮に闖入したる顛末をば、三浦公使に報告する為め今正に王宮より帰来し同処に立寄り、其始末を物語り中なりしに付、小官も亦之を傍聴し、稍々其要頷を得たり。
夫れより小官は一旦帰館せしが、警部に随行して大院君と共に王宮に入りたる当館巡査等は、午前八時頃より続々帰館し、或は微傷を受けたるものあり、或は衣服に鮮血の染みたるものあり、或は刀を折りたる向もありて、頗る殺伐の状を呈し居りしが、堀口及荻原等も亦巡査等と互に相前後して午後三時頃迄に悉皆帰館致侯。
依つて小官は、不取敢堀口領事官補及荻原警部に向い、今回の事件に関係せる顛末を相尋ね候処、堀口の申立に、今回の事は全く三浦公使の命に出でたるものにして、前日の夕刻、三浦公使に面会したる時、公使は自分に命ずるに、今回弥々大院君を入闕せしむるに付ては、已に万事岡本と打合わせ置きたるにより、今夜入京の筈なる同人[岡本は一両日前帰朝すると称し下仁せり)と龍山に相会し、別紙の通り同人へ申伝うべしとて、大院君入闕の方法及び善後策に関する数箇条の箇条書を示し[其箇条は堀口より已に原外務次官へ内報したる筈なり]且つ曰く。
他に何人か王宮内の模様を熟知せる者を連れ行くべしとの事に付、荻原警部こそ然るべしと答えたるに、然らば同人並に事に慣れたる巡査等をも適宜撰択の上、之を伴い即刻出発すべしとのことに付、今夕は領事の晩餐へも招かれ居り旁、以て一応領事へ協議致したしと返答せしに、決して之を他言すべからず、領事へは自分より可然言訳を致し、不都合無之様取計い置くべきに付、心配するに及ばず、即時出発すべし、とて公使より強いての訓命有之侯に付、已むを得ず小官に断りなく荻原警部等と共に馬に跨り、龍山指して出で行きたり、との事に御座候。
又荻原警部の申立も之と略同一にして、七日夕刻公使の召に応じ公使館へ行きたるに、今回の事に付ては、堀口を補佐し岡本と協議して行うべしとの沙汰有之。尚お之と同時に杉村書記官よりも岡本と衝突を起さざる様注意ありたる趣きに御座侯。
依って小官は堀口荻原等に対し、若し小官にして之を前知したらんには、決して斯る事に関係せしめざりしに、前以て之を小官に聞知せしめざりしは甚だ遺憾なり。併し今後はたとい公使の命と雖も、最早一切本件に関係すること相成らざる旨申達候。
然るに同日正午十二時過に至り、三浦公使も王宮より帰館したるを以て、直に之れに面会致候処、其時公使より聞取たる趣きによれば、
近来王妃を始め閔党の輩、露国と結託して益々勢力を逞うし、内政改革の業は漸を追うて悉く破壊し、我士官の養成せる訓練隊も亦閔党の策により故らに巡検等と争闘を惹起さしめ、之れを口実として遂に訓練隊を解散し、且つ其士官は悉く捕えて之を殺戮し、閔泳駿を入れて国政を執らしめ、万事露国に依頼して我に離反せんと計画し、将さに本日を以て先ず訓練隊の解散に着手せんとしたるより、最早躊躇すべき時にあらずと認め、曩きに岡本柳之助を介して打合わせ置きたる大院君を起たしむる為め、弥々七日の夕刻を以て、一面には岡本堀口等を孔徳里に遣わし、大院君の入闕を勧め、壮士輩をして之を護衛せしめ、又た一面には訓練隊の一部及守備兵の一部をして途中より同君に従い之を警衛し王宮に導かしめたりしが、入闕の際王宮を護衛せる侍衛隊と同君一行との間に衝突相起り、多少の騒擾ありたれども、間もなく鎮定に帰し、国王及び世子宮は安全なり。但し王妃は騒擾の際、或者に殺害せられ、其他宮女二三名、訓練隊聯隊長洪啓薫、及宮内大臣李耕植、及び兵卒一名も亦殺害せらるヽに至れり。
而して自分は今早朝国王の召により参内し、大院君列席の上謁見を遂げ、本件に関する善後策を奏上し置きたり。然るに本件を実行するには当初朝鮮人のみを使用する筈なりしも、韓人のみにては到底目的を達し能わざるにより、已を得ず日本人を用ゆることに相成りたり。又最初は客月十日をもって此事を行う筈なりしも、漸次機密漏泄の患あるのみならず、八日に至れば訓練隊は弥々解散せられ、其武器は悉く取上げらるヽことヽなり、事情頗る切迫したるにより、已むを得ず急に七日より着手せしにつき、万事手違を生じ種々の不都合を来したり。併し日本人特に公使館員領事館員並に守備隊の人々之れに関係せしこと公然と相成侯ては甚だ面倒につき、飽迄之れを隠蔽せざるべからず。依って至急居留民の重なる者を頷事館に召集し、今回の事件は全く大院君派と王妃派との争闘にして日本人には関係なし、尤も守備兵は王城内に於ける騒擾を鎮定する為め入城せりと弁明し、種々の風説に迷わざる様諭達し、尚お小官部下の官吏を戒め、決して之れに関係せしことを口外せざる様取計うべし云々とのことなりしが、小官も当時如此事実は可成之を隠蔽致し置く方可然と存候に付、兎に角三浦公使の命に従い夫々内諭致置き候。
然るに尚お三浦公使の直話、堀口頷事官補荻原警部並に今回の事件に関係せる当館巡査及其他確かなる節より探聞したる所によれば、抑も今回の事変は全く大院君及三浦公使の計画に基きたるものにして、大院君と王妃とは平素犬猿も啻ならざる問柄なる上に、近来同君は一層王妃の専横を憤り、機会もあらば再び入闕し、王妃を始め其党与を排斥せんとて時機を俟ちつヽありし折柄、三浦公使も亦当国に対する政略上、到底王妃を除くにあらざれば内政改革の行われざるは勿論、当国に於ける我勢力は全く地を払って去ること旬月を出でざるべく、而して之を除くには大院君の勢力を利用するより外に途なきものと思い、窃かに岡本柳之助を遣わし[岡本は昨年七月廿十三日の事変に当り大院君を擁して入闕せしめたる以来、同君と頗る懇意の問柄となれり]、大院君の内意を伺わしめたるに、同君は若し三浦公使にして余の志を達せしむるならば如何なる条件にても承諾すべしとのことに付、其後岡本は三浦公使と大院君との問に立ち、数回の往復を為したる末、公使は岡本をして、大院君は入闕の後決して政事に容喙せざること、李呵Oは直ちに日本へ留学せしむること、及其他重要なる案件をば認めたる誓書を大院君より受取らしめ置きたり。
然るに其後堀口領事官補は三浦公使と大院君との問に斯る計画あるべしとは知らず、其友人鮎貝房之進なるものと共に偶然同君を訪問せしに、日本領事館より来れる人なりと聞き同君は窃かに裏門より之を通し、面会の上雑談中詩文の応答を為したりしが、其時同君の賦したる一篇の詩中、自分も再び入闕して政事に与りたしと思えども自分を輔佐し呉るべき知己なきに苦む、との意を寓したるにより、堀口も亦試みに其韻に和し、君にして若し志あらば必しも輔佐の人なきを慮うるに及ばざるべし、との意を寓したる一詩を賦し之を示したれば、同君も頗る満足の色あり。李呵Oを呼出し之を堀口等に紹介せしが、告別に臨み大院君は堀口に向い、子は岡本柳之助なる者を知れりやと問うにつき、堀口は之に対して、然り予は彼と懇意なり、と答えたり。大院君曰く、本日子と応答の事は、若し他日発覚せば子の累を来すやも計られずに付、今之を焼き棄つべしとて、当日の筆談書類及詩文の認めある書類は悉皆堀口の面前にて焼き棄てたり。
依て堀口は稍大院君の挙止を怪み、帰って之を三浦公使に告げたり。
然るに其後大院君は、其信任する洪顕鉄なる者を屡々堀口の宅に遣わし、三浦公使に面会の出来る様取計い呉れ度しとの事に付、堀口は其都度之を公使に伝言せしも、公使は未だ其時機到来せず、若し其時機を得ば我より進んで面会を求むべきに付、暫らく俟たるべしとて、毎に其面会を拒絶せしが、客月七日に至り大院君は弥々せき込み、例により洪顕鉄を遣わし堀口に告ぐるに、本日は是非共三浦公使に面談致したきことあり、若し面会を拒まるヽならば公使は余を疑うものと見傲すの外なし、とのことにつき、堀口は之を伝言する為め夕刻三浦公使を訪いたりしが、其時公使は已に翌早朝を以て事を挙げんと企て居りたるを以て、実は斯々の方法を以て今夕より弥々大院君を入闕せしむることに着手する筈に付、直ちに龍山へ行き岡本と会合すべしとのことなりしかば、堀口は茲に始めて公使の計略を知れり。
是より先き大院君は岡本より聞く処によれば、自分は今回入闕の企に付ては三浦公使も賛成を表し之を応接する筈なれども、堀口を以て其内意を伺うに甚だ冷淡なるが如くに思はるヽにより、同君も少しく疑を起し、若しや岡本が自分を欺きたるにあらざるや、三浦公使は果して自分を輔くる積りなりや、と訝かり始めたり。而るに三浦公使は已に岡本をして大院君より誓書迄取らせ置きたる事なれば、時機さえあれば何時にても之れを利用し得べく、且つ之れを利用するには可成苛立たせ置く方、却って好結果を奏すべきことと認めたるにより、其計画を知らざる堀口に対しては故らに冷淡を装おい置き、陰かに乗ずべき時機を伺い居りたりしが、客月七日に至り前記の事情により急に其計画を実行することに相成りたり。
扨て堀口、荻原等は三浦公使の命により渡辺、境、横尾、小田、木殿、成相の六巡査を率い[但し平服着用]、七日夕景より当地を発し龍山に趣き、同所に於ける本邦人荘司章なる者の宅に於て、岡本が仁川より来着するを待ち受け居りしに、国友重章、佐々正之、安達謙造、藤勝顕、月成光、山田烈成、其他凡そ二十余名の本邦人も亦各兇器を携え、京城より同所に来会し、種々の評議を凝したりしが、其夜深更に至り、岡本も漸く龍山に到着したるより、一同相率いて孔徳里に趣きたり。
時已に夜の十二時頃なりしかば、門扉堅く閉じて入ることを得ず。依って荻原警部は渡辺巡査に命じ、横尾巡査の肩に乗り墻壁を越えて門内に入り、内部より之れを開かしめたるにより、一行の者は直に邸内に進入せり。其時予ねて警衛の為め其筋より同邸へ派遣せる十余名の総巡巡検等は、之を強迫して一室に押込み、外部より堅く之れを封鎖し、其外出を制止し、尚お其着用せるそ(ママ)制服制帽を剥取り、之れを我巡査に着用せしめたり。
斯くて他の人々は門内に入り俟ち居る間に、岡本は其通弁人鈴木順見を伴い、大院君の居室に入りて之と面会し、凡そ二三時問も評議の末、弥々出発することに決し、同君が轎に乗じて出門するや、岡本、堀口、荻原及其他の人々一同轎の前後を擁し、西大門を指して向いたる途中、一群の訓練隊に遇い、此亦大院君の護街に加わりたりしが、同刻我守備兵の一部分も亦行軍を名とし、西大門外に於て同君の一行を迎うる筈なるにも拘わらず、該地に至るも未だ日本兵の来らざるにより、暫時俟ち合わせ居りしが、已にして日本兵は途を誤り南大門より出て行きたること相分りたるに付、更に使を派して之れを西門外に呼集め、始めて同君の一行に加わらしむる杯、随分時間を徒費せるが為め、其一行が西大門より入城し王宮の正門即ち光化門に達したるときは、已に黎明の頃と相成りたる趣きに御座候。
然るに荻原は部下の巡査を率い、同君一行の前に進み、先ず光化門前に於ける我守備隊の兵営より予ねて用意せる梯子及斧等を領収し、之れを用いて該門の近傍より高壁を乗り越し、門内に入りて番兵を追い払い、内部より鎖錠を解き、之れを引明けしかば、門外に到着せる大院君一行の者は俄かに吶喊して門内に突入せしが、其奥に於ける幾多の中門は、一行の先駆者たる巡査等が其携えたる梯子を以て一々墻壁を踰越し、内部より之を開きたるにより、一行の者共は其後に従い、或は剣を振い、或は銃を放ち、頗る混雑を極めつヽ、宛然百姓一揆も同様なる勢を以て一度にどっと後宮迄押寄せけり。
此時宮闕内の処々に集り居りたる侍衛隊の兵士は非常に狼狽し、悉く其制服を脱ぎ棄て恰も蜘蛛の子を散すが如く何れへか逃げ失せて片影を止めず。
国王宸殿の近傍に宿直せし当国政府雇にして侍衛隊の教官たる米国人「ゼネラル・ダイ」の如きは、最初光化門辺に閧声の起るを聞き、此れ啻事ならずと思い、俄かに部下の兵士を招き之を其附近に配置し、一令の下に兇徒撃退の準備怠りなかりしが、右の兵士等は日本人の剣を振って近寄るを見るや否や、此亦敵に向って一発の銃を放つ暇なく直ちに列を乱して逃散し、之を制止せんとせし同教官すらも逃兵の為め突き飛ばさるヽに至りしと云う。
然るに後宮に押寄せたる一群の日本人等は、外より戸をこじあけて内部を伺うに、数名の宮女其内に潜み居ることを発見せしかば、此ぞ王妃の居間なりと心得、直ちに白刃を振って室内に乱入し、周章狼狽して泣き叫び逃げ隠れんとする婦人をば、情け容赦もあらばこそ皆な悉くひっ捕え、其中服装容貌等優美にして王妃とも思わるべきものは直に剣を以て殺戮すること三名に及べり。去れども彼等の中には真に王妃の容貌を識別し得る者一人としてなかりしのみならず、既に殺害せられたる婦人の死骸及尚お取押え居る者の相貌を一々点検するに、其年配皆な若きに過ぎ、予て聞き及びたる王妃の年令と符合せざるを以て、是れ必定王妃を取逃したるならんと思い、国友重章の如きは尚お残り居る一婦人を捕え、室内より縁側に引ずり出し、左手に襟髪を攫み、右手に白刃を以て其胸部に擬し、王妃は何処にありや、何時何処に逃げ行きたるや、杯と邦語を以て頻りに怒号すれども、邦語に通ぜざる宮女の事なれば、何を云うのか又何と返答すべきやを知らざるにつき、唯徒らに号叫して哀を乞うのみなりしが、旁に居合わせたる堀口は国友に向い、斯る残虐を行うべからずとて之を制止したれども、更らに聞き入るべき模様なく、荻原の叱責により始めて其暴行を中止せり。
此時最早日出後なりしが、曩きに部下の侍衛隊に逃げられ唯独り残り居りたる米国人「ゼネラル・ダイ」は其近傍に佇立して本邦人の暴行を目撃し居りたるより、或者は直ちに彼を殺害すべしと叫ぶあり。又某守備隊士官は堀口に向い、彼洋人を此処より退去せしむるは君の任務なり、宜しく速かに之を他に避けしむべし、とのことにつき、堀口は同人に向い仏語を以て速に此処を立退くべしと請求したるに、「ダイ」曰く、
自分は米国人なり、日本人の命に従う能わず、と退去を肯ぜず。山田烈盛も亦英語をもって之と応答を始めたりしが、其後間も無くして同人は一時現場を立去り、暫あって再び出で来り傍観せり。尚お同人「ダイ」と共に王宮内に宿直せる露国人「サパチン」なる者も亦隠かに之を傍観し居れりと云う。
然るに他の壮士輩は王妃を逃したると聞き処々捜索を始め、終に国王の居室に迄踏み込まんとせしが、此所には国王始め世子宮も亦居らせられ、何れも頗る御恐怖の御様子につき、荻原は直に国王の御座に進み、御安心あるべしと告げ、狂い犇めく壮士輩に向い大手を張って大字形をなし、此処は国王陛下の宸殿なり、立ち入るべからず、と号叫し、其乱入を制止したりしかば、予て大院君より国王及世子丈けは必ず助命し呉るべしとの依頼ありたるとかにて、一同異議なく其場を立退きたりしかば、国王及世子は身を振わして荻原の両腕に取りすがりつヽ、頻りに保護を頼み給ひたり。
斯くて本邦人の乱入者は処々に王妃の所在を捜索中、或る宮女の言により、王妃は頬の上部に一点の禿跡ありとのことを聞き、已に殺害せる婦人の屍を点検するに、其内壱名は果して頬の上部、即ち俗に米噛みと称する部分に禿跡の存する者あるを発見せるにより、之を他の宮女数名に示したるに、何れも皆王妃に相違なしと云い、後ち之を大院君に告げたるに、同君も亦必ず其王妃なるを信じ、手を拍って頗る満足なる意を表されたり。
其後間もなく三浦公使は、杉村書記官、国分通訳官を伴い参内し、大院君列座の上国王に謁見し、何事か奏上する所ありし趣きなるが、王妃の屍は三浦公使の入闕後、公使の意に出でたるや否や詳かならざれども、荻原の差図により韓人をして或門外の松林中に運び行かしめ、薪を積んで其上に載せ、直ちに之を焼き棄てたりと云う。
而して之を焼き棄つる際、王妃の腰に掛り居りし巾着の中を探りたるに、朝鮮国王より露国皇帝に向い、露公使「ウエーバー」氏留任を依頼する書状の原稿にして王妃の自筆に成れるもの二通を発見せしかば、荻原は之れを鈴木順見に渡したりとか聞及候。
而して小官は其後公使館に於て杉村書記官が之れを其机の引出しより取出し居るを一見せしが、当時尚麝香の香馥郁として鼻を衝けり。
而して其写は即ち別紙第二号及第三号写の通なり。
又た王妃及び前記せる宮女の外に殺害せられたる者は、訓練隊大隊長洪啓薫、宮内大臣李耕植、及侍衛隊の兵士一名にして、他には韓人中一名の負傷者も無かりしが、侍衛隊の士官玄興澤は、王宮内に於て一時本邦人の為めに捕えられたるも遂に逃れ去りたり。然るに右の人々は皆本邦人の手に掛り殺害されたるには相違なかるべきも、日本人中何人の手に殺されたるや未だ判然せず。
去れども王妃は我陸軍士官の手にて斬り殺されたりと云う者あり、又た田中賢道こそ其下手人なりと云う者あり、横尾、境両巡査も何人かを殺傷せしやの疑あり、高橋源次も亦慥かに或る婦人を殺害せり。其証憑は即ち別紙第四号写の如し。洪啓薫は、我陸軍士官之を殺害したりとは信ずべきが如し。侍衛隊の兵卒壱名は多分我守備隊の銃弾に斃れたるものなるべし。白石巡査は事変の当日南大門に於て大院君一行の入来するを俟ち受け居りしが、銃声を聞き王宮に馳せ附けたるも最早事終りたる後なりし故、前記の殺戮には与からざりしが如し。
扨て今回の事変は前記の如く、大院君及三浦公使の共謀に基き、多勢の人々王宮内に乱入し、終に王妃を始め其他の人々を殺戮するに至りたる次第なるが、其関係者は朝鮮人中にも、現軍部大臣趙義淵、訓練隊大隊長禹範善、李斗璜を始め、其他大小の人員数多有之。
而して本邦人中にも亦、公使館員、領事館員、守備隊将校、朝鮮政府雇官吏、及び居留人民の一部之に関係致居候処、日本人が之に関係するに至りたるは、皆直接又は間接に三浦公使の教唆に基くものにして、其間に立ち、最も斡旋の労を執りたる者は杉村書記官なり。同書記官は、単に三浦公使と之れに使役せられたる本邦人との問に尽力したるのみならず、亦同公使と有力なる朝鮮人との間に奔走したるものにして、国分通訳官は十月六日以後同書記官と金宏集及び其他の人々の間に二三回通弁として使役せられたる由聞及候。又大院君と三浦公使との間に専ら往復協議したる者は、前記の通り岡本柳之助にして、堀口も亦大院君と公使との間に斯る陰謀あるべしとは知らず、屡々大院君の依頼を受け、三浦公使と会合致度旨を同公使に取次ぎたり。柴四郎は、三浦公使の股肱となり総ての計画に参与し、旁ら壮士輩の繰縦に従事したるものと認められ候。
然るに前記の方法により王妃殺害の計画を実行することに決したるは、果して何時なりしや確と判然不致候得共、之に関係せる居留民等の教唆を受けたるは七日の夕刻にして、堀口等が龍山出張の命を受けたる時の前後なりしとのことなり。
尤も三浦公使の直話によれば、今回の事は極めて秘密にして顧問官等へは勿論、七日の朝に至る迄は杉村へも秘し置きたりとの事に御座候え共、杉村、国分両人共六日の日に於て其翌夕催すべき小官の宴会を辞したるより考うれば、同人等は其時已に本件を謀りつヽありしものと察せらる。又た三浦公使が小官の招待を辞せざりしは、其計画の発覚を患いたる故にあらざるかと推測せられ候。
尚又訓練隊教官にして守備隊附宮本少尉は、九月二十七日を以て訓練隊大隊長禹範善と共に訓練隊を率い、龍山に於て演習を行いしが、其時禹範善は悄然として同少尉に向い、予は昨年東学党征討以来今日に至る迄永く足下の懇切なる教訓を受け実に感謝の至りに堪えず。左れども余が訓練隊を率い足下と共に演習を行うは最早今回が最後となれり。遺憾極まりなしと申すに付、同少尉は怪んで其故を問いしに禹曰く、我訓練隊は最早旬日を出でずして解散せらるべく、而して其将校は悉く厳刑に処せらるべき筈に付、余は可成速かに逃亡して一身を全うせんと欲する耳。此事は決して他言せざれども、足下には永く教訓を受けたる恩あるを以て余が衷情を打明かし置くなりとの事なりしが、翌二十八日、禹は訓練隊教官石森大尉を訪い何事かを相談し、十月三日に至り禹は馬屋原少佐、石森大尉と相伴いて三浦公使を訪問せりとのことなれば、三浦公使が王妃排斥の方法として大院君を利用せんと試みたるは果して何時に始まりしや審かならざれども、岡本は最初より之に関係し、訓練隊及守備隊を利用せんとしたるは十月三日前後にして、楠瀬中佐及馬屋原少佐等が本件に与かりたるも亦此時ならんと推測致され候。
左れども我軍人軍属が何時如何にして本件に関係し、如何なる挙動に及びたるやは、今回当地へ出張せし田村中佐より巳に詳細の事情を其筋へ報告したる義と存候に付、茲に詳述不致候。
然るに今回の事は三浦公使が頗る秘密に計画したるは固より論を俟たざる次第なれども、之を実行するに当り小官の部下に属する堀口領事官補、荻原警部及び巡査等を使用せるに拘わらず、小官に一言の相談なきのみならず、却って之を小官に隠蔽せんと試みたる所以を推測するに、抑も当地は御承知通りの場所柄にて、内外人の別なく不義不正の手段を以て種々の計画を行うもの頗る多く、常に百鬼夜行の有様を呈し居候処、如此地方に於ては小官が其職務を適当に施行せんとするには、如何なる人に対し如何なる事を処するにも、皆剛直を以て主義本領と為さヾるべからざるの必要を認めたるにより、小官当地着任以来平素一般人民に対するに剛直を以てするは勿論、公使書記官等に向っても亦此主義を枉ぐることなく、時々其命を聴かず之と抗論したることも往々有之候に付、若し本件の如き権謀的の計画を小官に覚らしめ候ては、却って其実行を妨害するならんと、三浦公使、杉村書記官等に於て懸念せし故ならんかと存ぜられ候。
扨て十月八日の朝、王宮内に於て日本人が殺戮を行いたる時は已に白昼なりしなり。米国人「ゼネラル・ダイ」と露国人「サバチン」とは、其現場に在って之を目撃せり。且つ同日王宮内の事変を聞き直ちに参内せし露国公使を始め、門外に群集せる数多の朝鮮人は、兇器を携えたる日本人三三伍々群を為して光化門内より出で去るを認めたり。
之れに関係せる日本人等は、帰宅後直ちに他の人々に向い公然と自己の功労を吹聴するに至れり。而して日本人が之れに関係せしことは最早蔽うべからざる事実となれり。
去れども三浦公使及び其他の日本官吏が之に関係せしことは、直ちに外国人等に知れ亘らざりしが如し。小官は数日前晩餐に招かれたる答礼旁、翌九日午后四時頃、英国総領事「ヒリヤー」氏を訪い、又た其帰途独国副領事に面会したれども、両氏とも本件に日本人の関係せしことは已に承知せしも、我官吏の関係せしことは未だ聞知せざる模様なりしなり。
然るに小官は事変の当日其顛末を聞知するや否や、是れ我外交上実に容易ならざる出来事なりと相認めたるにより、三浦公使に向って其善後策を尋ねたるに公使曰く。
朝鮮政府部内の事は、大院君に於て一切其責任を帯ぶる筈に付、毫も心配するに及ばず。唯外国公使等が日本人の関係せしことを非難するの患あれども、右は大院君と平素私交ある日本人等が同君入闕に付、其請に応じ之れに随行せしものなりと弁解すれば足れり。而して若し已むを得ずんば其内数名を重刑に処し、尚二十名許退韓の処分を行うべきのみ。
本件に関係せし壮士中、藤勝顕、月成光外壱名の如きは如何なる重刑に処せらるヽも異存なしと申し居れりとのことに付、小官は更に公使に向い、今回の事変に関係せし日本人の多くは、閣下を始め其他の公使館員領事館員並びに守備隊士官の一部も亦之に関係せることを承知せり。若し其事実他に漏泄し、諸外国人の耳に達したらんには如何せらるべきやと反問しけるに、公使曰く。我官吏の関係せることに付ては当人は勿論他の関係者をして厳重に其秘密を守らしめ、たとい法廷に於て審問を受くると雖も決して之を口外せしめざる様取計い置く積りなり、との事なりしが、其後当地に於ける本邦人の新聞通信員等は、公使の旨を受け柴四郎の旅宿に会し、本件に関し通信の仕方を協議一定せり。
当時小官も本件の処置方には誠に当惑致侯に付、直ちに電信を以て詳細の事情を具報し、御電訓を請わんかと存候いしも、三浦公使を始め其他の本邦官吏が之れに関係せる事実公然と相成侯ては、我帝国政府の不面目此上なく、其処分法に付ても益々困難を来すべく、且つ三浦公使に於ても務めて其形跡を掩わんと試み居り候際に付、小官に於て若し公然之れを摘発するときは、外交上如何なる不都合を来すべきやの懸念も有之候に付、公使と相談の上、本件に関する報告は、悉く公使館より提出し、当館よりは別段提出せざることに取極め、若し此にて不都合ならば何分の御電訓有之度旨申出候え共、其後何たる御回答も無之候に付、一時之に関する公報の提出方を差控え候。
併し本件を如何処分するにもせよ、当局者に於て実際の事情を承知致され居ること最も肝要と認め候に付、小官は事変の当日直ちに一書を認め、其実情を原外務次官迄内報致し置き、其後尚お二回同次官へ内報致し置き候のみならず、亦堀口領事官補をして詳細なる事情を認め、之れを同次官迄内報せしめ置き候。
然るに本件に関する犯罪者の処分方は可成速かに着手するにあらざれば、犯人等漸次逃散するのみならず、証拠堙滅の患も有之候処、本件関係者は前記の通り、独り居留人民壮士輩に止まらず、三浦公使始め杉村書記官、及び小官の部下に属し、犯罪人の逮捕審問処罰方に関しては、小官の手足として使用すべき堀口領事官補以下、荻原警部及び最も有用なる巡査は、悉く本件に関係致し居り候に付、其処分方には頗る困難を相覚え候え共、兎に角三浦公使と計り便宜の処分を行う積りにて、十月十日を以て本件は三浦公使の意見に従い処分致しても差閊え無きや否や、電信を以て伺い出候処、右は今回の事件取調の為め当地に出張する小村政務局長の到着する迄、務めて穏便の手段を執り、他日の煩累を胎さヾる様注意すべき旨、御電訓有之候。
然るに事変後既に数日を経て日本人の之れに関係せしこと最早隠れなき事実に相成候にも拘わらず、尚お当館に於て公然其取調に着手不致候ては、外国人に対しても甚だ不体裁に付、十月十二日に至り、先ず警察官をして関係者の口供を取らしむることに致候処、杉村書記官は其意を国友重章に伝え、関係者中甘んじて我警察の取調を受くべき者の姓名を撰出せしめたるに、即ち別紙第五号及第六号写の通り申出で、尚お取調を受けたる節は別紙第七号の通り、同一の申立を致すべき様彼等の間に申合わせしめたり。
而して彼等は警察の取調を受くる以上は退韓又は多少の刑罰に処せらるヽの覚悟は致し居り侯処、是れ皆柴四郎等の取計により、大院君より報酬として貫い受けたる金六千円の分配に与かる約束を以て之を承諾せしめたるやに聞及び侯。
而して此等の人々が我警察の取調に応じ陳述したる口供は、即ち別紙第八号写より第十九号写迄の通りに御座候処、是れ固より虚構の供述に過ぎざれども、只管穏便を主とする為め強いて推鞠も不致、其儘小村局長の来着を待ち受け居候。
然るに翌十三日に至り退韓の処分は甘んじて受くべきも、刑辟に触るヽが如きは断じて辞せざるを得ずとの議論、前記人々の間に相起り、且つ公使館の処置に対し頗る不平を抱き、我々をして刑辟に触れしむるに至るは畢寛公使館の措置其宜しきを得ざるが故なり。若し我々を刑辟に陥るヽ如きことあらば、我々は公使館の秘密を発くべし、公使館に乱入すべし、公使館員をぶん擲るべし、杯と苛激の言を発する者有之候より、三浦公使も大に之を持余し、此輩に対し速かに退韓を命ずべき旨、別紙第に十号写の通りなる私書を以て小官へ申越侯。
依って小官は直に右の通り取計い可然や否や、電信を以て伺い出置き、尚お三浦公使へも其趣きを通知し、退韓処分は其筋より何分の訓令有之候迄、差控え置く方可然と申遣わし置き候処、同日夕刻に至り同公使は更らに別紙第二十一号写の通りなる私書を以て、速かに退韓処分を行うべし、其責任は一切自分に於て引受くべき旨申来り候条、此時小官は三浦公使に面会し、小官が職務上行いたることに関しては小官自ら甘んじて其責任を負うべきに付、必ずしも閣下を煩わすに及ばず。唯本国政府の訓令を待たず如此処分を決行致候ては、責任の何人に帰するを問わず我国の外交上恢復すべからざる不都合を来すやの懸念なきにあらず。依って小官は兎に角其筋の訓令を俟つの外なし。而して若し此れが為め何等の不都合を来したらば其責任は小官自ら負担すべし、と陳弁致侯処、同日は其侭と相成、翌十四日に至り、退韓処分は小村到着迄見合すべしとの御電訓有之候。
依って翌十五日小村局長の入京を待ち受け、直ちに面会して本件の顛末を陳述し、至急何分の指図有之度旨申出侯。
然るに小村局長到着の節は、陸海軍参謀官、憲兵、巡査、安藤検事正等、之れに随行致し侯に付、一同奇異の念を起し侯え共、其後間も無く本件関係者は退韓と一決し、当館に於て岡本柳之助外二十余名に対し、在留禁止を申渡し侯に付、彼等は退韓処分のみにて可相済義と心得、梢安心の模様なりしが、此際安藤検事正は突然帰朝の途に就きたりしかば、再び疑怖の念を起し、退去を躊躇する者あるに至りしも、小村公使より柴四郎に申含め、可成一時に多数の退韓者を引纏め下仁せしむることに取計い候に付、彼等は案外容易に当地を退去致候。
而して其後も尚本件関係者十余名に対し在留禁止を言渡し候処、此等も亦小官に於て或は説諭し或は強迫を加えたりしかば、別段の面倒を惹起すことなくして下仁致候。
然るに本件に関係せし堀口領事官補、荻原警部、及び巡査六名は予てより帰朝の電命小村局長の許に到達せるを小官に於て聞及候へ共、同局長の取計により故らに之を当人等に通知せず、極めて秘密に致置き、事実の探偵方及居留民に対する退韓処分方に関して、小官に於て平素の如く彼等を使用致候処、他の関係者は皆之と事を共にしたるものなるが故に、却って好結果を奏し候。依って他の関係者の処分略相済み候時に至り、小村公使の差図により始めて之れに帰朝の命を相伝え、至急出発せしむることに取計候。
茲に今回の事変に関係の嫌疑ある者、並に直接之と関係なきも、向来当地の安寧を妨害するに至るべきものと認めたる廉を以て、当館及仁川領事館に属托して退韓を命じたる者の原籍姓名を挙ぐれば、則はち別紙第二十二号の通りに御座候。
以上開陳せるは、今回の事変に関し、小官が自ら見聞せし事項及職務上取扱いたる事項の顧末に御座候処、抑も今回の事変は実に意外中の意外なる出来事にして、壮士輩の取締方に付ては予て御訓令の次第も有之、充分厳密に其挙動を注意し、苟も疑うべきものある時は世間の論難批評は勿論、杉村其他の公使館員及星、岡本を始め、其他顧問官連中の請託をも顧みず、断然之れに向って相当の処分を加うる事に取計来候に付、近来は不穏の輩も追々減少し、其残留せる者も亦閉息して兇悪を逞うすること能わざる様相成居候処、今回は計らずも意外の辺に意外の事を企つる者有之。独り壮士輩のみならず数多の良民及び安寧秩序を維持すべき任務を有する当領事館員及守備隊迄を煽動して、歴史上古今未曽有の兇悪を行うに至りたるは、我帝国の為め実に残念至極なる次第に御座侯。
別紙本件に関する証憑書類及電信往復[本省の分は除く]相添此段及具報侯、敬具。
在京城一等頷事 内田定槌
明治二十八年十一月五日
外務大臣臨時代理
文部大臣侯爵 西園寺公望殿
機密第三十六号添付書類 (貼紙)[内田より草野検事正へ送りし甲第一号]
別紙第一号写
過刻は御馳走に預り御懇待忝奉謝候。其砌申残し置候、堀口等の事は、晩景より他の用事にて遠方派遣し候間御含置被下度。委細は明朝御談可致と存候乍延引前件如此御座候。不備。
七日夜 梧樓
内田殿 貴下
奥様へ宜敷御礼相煩願候。
(欄外)別紙第二号写
朝鮮国王より露国皇帝に送りたる国書原稿 其一
敬白朕之良兄弟
俄羅斯国
皇帝陛下交好有年報聘尚遅殊用勧悵現我国以政不得人受侮亦滋貴派来公使革貝才徳兼備多所咨訪実為両国之幸近聞有移駐清国之説此雖塗聞惟我地壌相接関係付与他等必使革貝久留我国俾有襄助益致両国之敦睦至以為盼使維
陛下宏猷隆盛化理清明更希深念大局無孤此言
開国五百四年朕御極三十二年五月二十三日(日本歴7月15日)在漢陽宮中
陛下良兄弟
姓諱 御璽
(欄外)別紙第三号写
同
親書業経脩送今聞
貴公使革貝移駐墨西哥全権撫念大局不勝虞憂朕咨詢日滋輔益既多須定物国全権仍久留昭
陛下相済之誼為希
朕御極三十二年閏五月二十九日(日本歴7月21日)朝鮮漢陽
御衘
俄国皇帝陛下
別紙第四号写
拝呈仕候、昨夜来失敬仕候、陳者今朝は粗暴之挙止実以慙愧之至に御坐候
宮中口吟
国家衰亡非無理 満朝真無一忠臣
宮中暗澹雲深処 不斬讎敵斬義人
実に面目次第も無之、只今迄憂鬱罷在候処、今一友の話に依れば、或は王妃なりと。然共疑念に堪えず候故此儀真否御承知に御座候わば御一報被成下度奉万願候。
十月八日 高橋源次
再拝
鈴木重元様
呈梧下
別紙第五号写
拝啓、先刻之御話に従い色々評議の末、別紙の人名は何時御召喚有之候共、差支無之候間左様御承知可被下候。尚願くは明日直ちに御開始有之候様希望仕候。先以書中草々如此御坐候。頓首
十月十一日夜 国友重章
杉村 濬殿
[別紙]
(12名の名簿。省略)
別紙第六号写
(先の名簿に1名追加。省略)
別紙第七号写
一 私交上○○君の依頼を受けて随行入闕したる者なり。而して右は全く自己の意思に出でたり。
一 依頼の趣意は、単に随行と云うことなりのも、○○君の真意は蓋し途中安心の為め同行を求めしことならん。我々も亦之を黙諾して応ぜしことなり。
一 途中、宮門に至る迄は何事も無かりしが、光化門前に至りて朝鮮兵相互の小戦興れり。右小戦は、蓋し訓練隊が強て入闕せんとしたるを侍衛隊又は宮中巡査は中より之を拒み終に争戦に及びたることと思考せり。是時我々は唯○○君に危害の及ばざらんことにのみ注意せり。
一 ○○君入闕の趣意は、全く榜文と同様の事なりし。而して我々は之を黙諾して随行したるものなり。
一 ○○君同行の時、朝鮮人も多数随行し、其中日本服を着したる朝鮮人も大分見受けたり。
一 宮内に於て騒擾興り之が為めに三の死傷者あるを目撃したり。然れども右は全く韓服若くは和服の朝鮮人等之を為せしことにして、且つ現に朝鮮人の抜刀にして人を殺害するを見たるものあり。尤も未明及び困難の際なれば明白にに之を認むるを得ざりし。
一 我々の内にも自防及び大院君防衛の為め抜刀したるもの見受けたるも、其誰たるかを詳にせず。天明の後、見物の為めか多数の日本人及び洋人を身受けたり。但し其人名は詳ならず。
一 大院君無事入闕し且つ騒擾も鎮静に帰したるに付、同君に別れを告げて退闕せり。
調 書
問 何時の住所氏名並に年齢職業は如何。
答 京城南大門通り会覧坊佐々正之方 片野猛雄 明治元年十一月生 無職
問 汝本籍地身分並に出生地は
答 熊本県託麻郡大江村大字大江四百二十四番地 士族 出生地は原籍に同じ
問 これまで処刑を受けしことありや。
答 ありません。
問 本月八日、大院君入闕に付、汝が随行したる始末を申立よ。
答 本月七日、国友重章は大院君より入闕するに付、途中護衛を依頼せられ、其節国友より通知を受け、又た私も大院君とは間接の交際もあれば、大院君の邸に至り随行したり。
問 入闕の途中何事もなかりしか。
答 途中は無事なりしも、宮城門前に至り大院君護衛の訓練隊と宮中の侍衛隊と争闘を始めたり。依て私は大院君の傍らを護衛をなし居る内、宮内に入りたれども騒擾止まず。朝鮮人等抜刀して争闘せし為、大院君の傍を離れず防衛せる内、終に鎮静し大院君は無事入闕せられたるに認めたれば、夫れより帰宿したり。
問 宮城内に於て死傷者は認めざりしか。
答 一二名の死傷者を認めたり。然れども未明なりし故詳細に分らざるなり。
問 日本人にして争闘せしものなきや。
答 争闘せしもの認ざりし。
問 他に申立これなきか。
答 ありません。
右は片野猛雄の陳述を録取し読聞せたるに、事実相違なきに依り、奉職と共に署名捺印せり。
明治廿八年十月十二日 於日本領事館
警部 荻原秀次郎
片野徳雄
(以下各人ほぼ同様の内容につき略す)
別紙二十号写
壮士処分之事に付、種々協議致させ候処何分六ヶ敷、強て決行為致候ては、反って激昂之余り官庁の名義に相関し、大不体裁を来すの虞不少。依って三十名以上に治安妨害を目途として至急退韓の処置に出で候事、良策と存候。尚御勘弁の上御考按致承知度、小村来着迄には是非共大体片付置度存候。右御含加此御坐候。不備。
十三日 梧樓
内田領事殿
貴下
別紙第二十一号写
今朝御談致置候通り、壮士輩之内情甚面倒にて、若し遷延しては反て大変の不面目を来すの虞有之候間、速に退韓之御処置に御一極可被下候。小村の来否に不関候。此大責任は拙者引受、御迷惑は不相煩候。後日政府より彼此面倒御身に及候時は公使の命令に応じ、如此に致候と一意に拙者に御譲被下不苦候為其至急早々。不備。
十三日 梧樓
内田殿
別紙第二十二号
退韓者姓名表(略)
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