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合同会社琉球の未来
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てぃーだブログ › 合同会社琉球の未来 › 中国古典を活用 › 昨日の続き(五十三回目)

2015年04月02日

昨日の続き(五十三回目)

昨日の続きで「古の真人」の解説を紹介しよう。
まずは内容をみてみよう。

古の真人

一、風貌は高く聳(そび)えて崩れを見せず、
足りないようでも満ち足りている。

二、きちんと整っているが偏屈ではなく、
広く開かれた心を持つが、
飾りたてたところはない。

三、晴れ晴れとしていかにも楽しげだが、
ためらいがちにやむを得ぬという風である。

四、内から湧き出すものを表情に現しつつ、
ゆったりと奥深い徳を湛(たた)えている。

五、おおらかで世俗の人に見まがうようでも、
けた外れの遠大さで何ものにも
規制されることがない。

六、ひっそりと静かな世界を志向するのか、
うっとりと言葉さえ忘れたようだ。

次にこのような真人が、支配者となった場合、
どうなのかを述べている。

支配者としての真人

一、刑罰を主体とする。→
死刑も安らかに施行するということだ。

二、礼儀を補助とする。→
礼儀、慣習的な規範でもって政治を行なえば、
スムーズな支配が行われていく。

三、知識を以て時宜を判断する。→
やむを得ず事を行なう場合を考えてのことである。

四、徳によって自然に随順する。→
両足揃った人と丘に登るように、
知らず識らずのうちに
目的を達することができるであろう。

これらのことは、真人には自然のことだが、
世俗の人間は、
真人が努力して行なっていると考えている。
要するに真人にとって、
好むことも、好まないことも、ともに一つである。

又、一つのものは一つだが、
一つでないものも又一つである。
すべてを一つとする立場は
天のともがらとなることであり(天の徒と為る)、
一つでないとする立場は
人のともがらとなることである(人の徒と為る)。

かかる天の立場と人の立場が混然と融和した存在、
それを真人というのである。
ここでいうすべてを一つとする立場とは、
万物斉同の境地に立つことであることは
言うまでもない。

福永氏に言わせれば、『絶対世界の住人
になることだという。
そして一つでない立場とは、
世俗の世界の住人』になることだという。

真人は、絶対世界にいながら、
世俗の世界をも生きる人間であり、
融和のとれている人間だという


今日の話は内容を整理するのに苦労したが、
福永氏と興膳氏の「荘子」を参考にした。
今日の話にある「荘子」の描く真人というのは、
あまりにも現実から離れていて、
理解し難い感じがする。

私が思う真人というのは、
あらゆる事態に遭遇しても、
それを在るがままに受け入れ、それに随順して、
臨機応変に対応していく。
そして絶対世界と世俗の世界を自由に行き来して、
何ものにも捉われず生きている人を想像するのだ。

いずれにしても、今日の話は読者にとって
理解し難いことかも知れない。


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Posted by 合同会社琉球の未来 at 09:19 │中国古典を活用

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