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芦田均は「芦田修正」を意図したか

2012-02-10 01:47:38 | 現代日本政治
 3日の朝日新聞朝刊でこんな記事を読んだ。

防衛相答弁 また迷走
 「9条と自衛隊」あやふや

 田中直紀防衛相がまた迷走した。2日の衆院予算委員会は、1月の内閣改造による新任5閣僚を呼んだが、野党の質問は田中氏に集中。失言の範囲は憲法や自衛隊、沖縄の問題にも広がった。

 自民党の石破茂元防衛相が「自衛隊はなぜ合憲と言えるか」と問うと、田中氏は憲法9条をそのまま述べるなどの答弁。石破氏は、憲法制定時に9条案が修正され、持つことが禁じられる「戦力」が「国際紛争を解決する手段として」のものに限られると読めるようになった経緯を説明した。

 のちに自衛隊発足につながる「芦田修正」で知られる内容だったが、田中氏は「その点は理解していない。拝聴しながら理解したい」。後ろの席に座っていた閣僚が、驚いて田中氏を見つめる場面もあった。
〔後略〕


 これについては、7日に藤村修官房長官が記者会見で、いわゆる「芦田修正」は自衛隊合憲論の直接の根拠ではないと否定し、従来からの政府見解を踏襲するとしている。
 9日付産経「主張」より。

芦田修正 やはり9条改正が必要だ

 自衛隊と憲法の関係があまりに複雑すぎて、ほとんどの国民は理解できないだろう。

 衆院予算委員会で、自民党の石破茂前政調会長が憲法9条2項の冒頭に「前項の目的を達するため」と挿入された、いわゆる「芦田修正」が自衛隊合憲の根拠ではないかと指摘した問題だ。

 これに対し、田中直紀防衛相は「ご知見を拝聴してよく理解したい」と述べたが、藤村修官房長官が7日の会見で「直接の根拠」ではないと否定したように、政府は芦田修正を自衛隊合憲の根拠として認めていないのである。

 芦田修正は、連合国軍総司令部(GHQ)が示した憲法草案を審議する昭和21年の衆院の秘密小委員会で、芦田均委員長が提案した修正案を指す。

 「前項の目的」のくだりを挿入することで侵略戦争のみを放棄し、自衛のための「戦力」を持てるという解釈だ。芦田氏は自衛戦争、さらに国連の制裁活動への協力もできるとした。

 これに対し、歴代内閣は自衛隊は「戦力」ではなく必要最小限度の「実力」とみなしてきたが、極めて分かりにくい解釈である。

 芦田解釈を認めないまでも、このような考え方を政府は一部受け入れており、安全保障の専門家ですら合憲の根拠が奈辺にあるかを把握するのは容易でない。
〔後略〕


 ああそうだっけ。
 芦田修正については知っていたが、それが政府見解と異なるとは知らなかった。

 これについて、「石破もカン違い」といった指摘もあるが、石破が「芦田修正」こそが従来からの政府見解であると主張としたのならともかく、単に「芦田修正」に言及したにすぎないのなら、別に非難されるには当たらないだろう。
 野党議員が正確な政府見解を述べる筋合いはないのだから。

 ところで、芦田修正と聞いて、数年前に読んだ本のことを思い出した。

 小学館文庫で刊行されている『日本国憲法・検証 1945-2000 資料と論点』(監修・竹前栄治)というシリーズの第5巻『九条と安全保障』(古関彰一・著)より。

 このような修正を行った理由を、芦田は後年つぎのように書き記している(『毎日新聞』1951年1月14日)。「憲法第九条の2項には『前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない』とある。前項の目的とは何をいうか。この場合には国策遂行の具としての戦争、または国際紛争解決の手段としての戦争を行うことの目的を指すものである。武力行使を禁じたものと解釈することはできない。……第九条第2項の冒頭に『前項の目的を達するため』という文字を挿入したのは、私の修正した提案であって、これは両院でもそのまま採用された。従って戦力を保持しないというのは絶対にではなく、侵略戦争の場合に限る趣旨である。……私の主張は憲法草案の審議以来一貫して変わっていない。新憲法はどこまでも平和世界の建設を目的とするものであるから、われわれが平和維持のために自衛力をもつことは、天賦の権利として認められているのである」。
 芦田のこの主張は、時代が進んで自衛隊が創設され、憲法改正が政治問題となるなかで次第に注目されるようになる。こうしたなかで芦田は、こう主張する。「芦田修正」の根拠は、自分の日記に記してあるし、さらには「国会に密封して保管してある速記録には全部記録されているはずである」と述べるにいたり、もはや動かし難い事実として、その後の自衛のための戦力を合憲とする解釈や主張(自衛戦力合憲論)の根拠になった。
 ところが、芦田死後の1986年、『芦田均日記』(全8巻、岩波書店)が公刊されてみると、驚いたことにそうした記述はどこにもなかった。そればかりでなく、1995年、戦後50年を迎えて「秘密議事録」がついに公開されることになった。ところがここでも芦田修正がなされた部分の芦田の修正理由は、さきの主張とはまったく異ったものであった。芦田は九条2項に「前項の目的を達するため」を追加挿入する理由を次のように述べている。「(九条1項の)『国際平和を希求し』という言葉を(1項、2項の)両方の文節に書くべきなのですが、そのような繰り返しを避けるために『前項の目的を達するため』という言葉を書くことになります。つまり両方の文節でも日本国民の世界平和に貢献したいという願望を表すものとして意図されているのです」。
 芦田修正の目的が、生前に芦田が主張していたこととまったく異なるものであったことが、なんと半世紀を経てやっと解明されたことになる。
(p.70-72)


 それでも、修正を加えた時の芦田の真意は後に述べたとおりであり、議事録に収めされた発言は単なる方便であるとの見方もできるかもしれない。
 だがそれなら、日記に書いたとか議事録にあるはずだなどとわざわざ言う必要はない。はじめから、小委員会での発言は方便であった、本心は別にあったと言えば済む話である。
 普通に考えれば、これは芦田が変心したのだろう。もともと修正にそんな意図はなかったが、1950年以降再軍備が進められる中、上記のような解釈もできることに気付き、自分こそがこの修正によって再軍備を可能にしたのだとアピールしたかったのではないか。

 芦田は外交官から1932年に衆議院議員に転身し、政友会に所属。1942年の翼賛選挙では非推薦で当選した。戦後、自由党に参加するが吉田茂と対立し、離党して民主党結成に参加。1948年、片山哲を継いで連立内閣の首相となったものの、昭電疑獄によりわずか7か月で総辞職した上、芦田自身も逮捕、起訴された(1958年に無罪判決が確定)。同じく外交官出身の吉田茂への対抗意識も強かったようだ。
 「芦田修正」説は、再起を図るための手段の一つだったのではなかろうか。

 その後芦田は終生衆議院議員を務め、自民党にも参加したが、傍流であり続けた。1959年死去。

 外交史などに関する著作も多数あり、「インテリの文人政治家」〔注〕と称される。だがインテリで文人だからといって、権力欲から縁遠いとは限らない。戦後の芦田の行動からはむしろそれを強く感じる。
 外交官、あるいは著述家としての芦田についてはよくわからない(著作も読んだことがない)が、政治家としての芦田は、戦後期の行動を見る限り、好きになれそうにない人物だ。
 日記に書いたとか議事録にあるはずだなどと、その場限りの出まかせを述べてしまう芦田は、歴史の評価に耐え得ないと言えるだろう。


注 インテリの文人政治家
 渡邉昭夫・編『戦後日本の宰相たち』(中公文庫、2001)における芦田の章は「芦田均――インテリの文人政治家」と題されている。執筆は増田弘。
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政治
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