第二十話 別離の前に
今回短いです。
さようなら竜生 こんにちは人生
第二十話 別離の前に
ゴーダ管理官の突然の来訪の翌朝、まだ地平線の彼方に太陽がようやく顔を覗かせ始めた時刻に、私は村の南門へと足を運んでいた。
これまで魔法学院の長期休暇を利用してベルン村に滞在していたクリスティーナさんが、ガロアへと帰る為、その見送りに来たのである。
エンテの森とゴーダとのやり取りから、クリスティーナさんの祖父がベルン村を含めた北部辺境開拓の主導者に近しい立場にあったと窺い知れる。
その事を考えるとクリスティーナさんの出立を村人が総出で見送ってもおかしくは無いのだが、クリスティーナさんの性格を考えるとおそらく自分の出自は村人のほとんどに伝えてはいないだろう。
その証拠にクリスティーナさんを見送りに来たのは、個人的に親しくなった私の他に村長だけだった。
セリナもクリスティーナさんの見送りに来たがったのだが、あの蛇娘は生態として朝に弱く、クリスティーナさんの出立に間に合うよう起きるのは酷という事もあり、昨夜クリスティーナさんと二人きりで別れの挨拶を交わしている。
クリスティーナさんの格好は見慣れたフリル付きのシャツに黒革のズボン、その上にクロシカのマントを纏ったきりという出で立ちで、傍らには栗毛の牝馬の姿がある。
マントの合わせ目からは愛剣エルスパーダの柄が覗き、馬の鞍には旅行中の保存食や傷薬、着替えを詰め込んだ大きめの鞄が括られていた。
エンテの森で身に着けていた黒鉄の鎧を考えると、とても入り切るような大きさの鞄ではないが、内部の空間を拡張する魔法が付与された魔法の鞄なのだ。
クリスティーナさんは、村長と私の方を振り返って口を開いた。
「私などの為にわざわざご足労いただきかたじけない」
「なんのなんの。むしろクリスティーナ様のお見送りにこの老骨とドランだけで、むしろこちらの方が申し訳ないですじゃ」
「いえ、出立を知らせてはおりませんし昨晩の片付けで皆さんお忙しいでしょう。お二人に見送りに来て頂いただけでも、私には十分すぎるほどです。ドラン、君もこんな朝早くに起きなくてもよかったのに。というより私の出立の日を良く知っていたな」
「クリスティーナさんにさようならの挨拶もしない内に別れるのは嫌だったからね。それにこれ位の時間にはいつも起きているから、辛くは無いよ」
「そうか。この村で過ごした時間は決して長くはなかったが、何年、いや十年分くらいの密度の、そしてとても有意義な時間だったよ。特にドラン、君はとても面白い男の子だった。
もしガロアに来る事があったら魔法学院に私を訪ねに来てくれ。ぜひともガロアの街並みを案内させて欲しい」
「ふむ。機会があったら必ず訪ねよう」
「ああ、ぜひそうしてくれ。本当にこの村に来て良かったよ。少しは私も生きる張りのようなものができた。
それに昨日のゴーダ管理官の件で、私もいささか考えを改めさせられた。
さて、とあまり見送りを長引かせては忙しい二人に申し訳ないから、私は行くよ。本当にベルン村の方々にはお世話になりました」
風に運ばれた羽のように軽やかに馬上の鞍へとまたがり、私達へと頭を下げるクリスティーナさんに私と村長は頷き返した。
クリスティーナさんは颯爽と馬首を巡らせると、軽く鐙を蹴って馬を歩かせる。
ぽっくりぽっくりと馬蹄の音が重なって、クリスティーナさんがガロアへと続く南の道を進んでゆく。
一度こちらを振り返ったクリスティーナさんが手を上げて振るのに振り返す。
絶世の美女を描いた絵画の中から飛び出て来たような美女の顔に浮かんでいるのが、終始あどけない笑みである事が私にはとても嬉しかった。
クリスティーナさんとの間に結ばれた縁が今後どのような形で、私を運命の流れの中に飲み込むのかはこの時まだ分からなかった。
だがクリスティーナさんの特異な肉体と特異な因果を合わせて考えれば、私とクリスティーナさんが再び出会うのに、さして時間は必要ないだろう、と私は竜としての力を使わずとも確信を抱いていた。
時間にすれば一月にも満たない筈なのに、何年も一緒に時を過ごしたような親しみを感じるクリスティーナさんが我がベルン村を出立し、さらにゴーダが管理官の職を辞した報せが村に届いた後、私は実家の方へと顔を出していた。
ゴーダが村を来訪してから日夜考え続けていた事に結論が出て、それを父母と兄弟に伝える為だ。
前日に話があると父母には伝え、翌日の日が暮れて夕飯の支度が始まる頃にお土産の兎三羽とクロシカ二頭を持って行った。
私の実家は父母と兄夫婦、それにマルコの五人住まい。
兄夫婦の結婚が決まった時に家を増築しており、台所兼居間と父母、兄夫婦の寝室があり、マルコは小さい頃に兄弟三人で使っていた部屋に暮らしている。
竹や丸太を軸に藁を混ぜ込んだ漆喰と煉瓦造りの家は、王国のどこでも見られる平凡な造りだが、そこには確かに私が人間に生まれ変わってから過ごした思い出が存在していて、もしまったく同じ造りの家が百軒並んでいたとしても私が見間違う事は無いだろう。
父は実に寡黙で言葉少ないが、過酷な辺境暮らしで鍛え抜いた身体で畑を耕し、平原に棲息する鳥獣を獲り、村を襲う蛮族や魔物を返り討ちにしてきた男だった。
無数の傷跡に包まれた筋肉で形作られたその背中は、幼い私達に言葉以上に辺境で生きるとはどういう事か、男とはどうあるべきかという事を示してきた。
対するに母は表情豊かで話をするのが楽しくて仕方がないという性格をしている。
苦労ばかりの暮らしの中にあって、常に笑顔を絶やさず夫と子供らの面倒を見て来たこの方に、私は生涯頭が上がる事は無いと思っている。
実家を訪れた私を、いつもの見慣れた、そして安らぎを与えてくれる笑みを浮かべた母が迎えてくれた。
持ってきたお土産を受け取った母は、兄嫁のランと一緒に手早く捌きに外に出て、その間に私は居間の椅子に腰かけた父と兄、マルコと机を共にした。
既に机の上には麦酒や葡萄酒の酒瓶の口が開かれていて、私が椅子に腰かけるとすぐに赤黒い葡萄酒がなみなみと注がれた木製の杯が父から差し出される。
「よく来た、ドラン。お前が相談というのは珍しいが、取り敢えず飲め」
私が産まれてからこのかた、両手の指の数くらいしか表情を変えた事がなさそうな父から杯を受け取り、私は口元が緩むのを感じた。
机を共にした途端、酒を勧められるとは。見ればディラン兄とマルコもまったくこの父は、と言わんばかりに小さく笑っている。
「ふむん、では言葉通りに」
やや酸味のある葡萄酒に口を付け、そのまま一息に杯を空ける。
大酒飲みの父の血のお陰で、私の身体は竜種への変化などを一切行わなくとも、酒精に対して高い耐性を持っている。
咽喉を通り過ぎ、胃袋に流れ落ちて行く葡萄酒の感覚が絶えてから、私は杯を置いた。
「良い飲みっぷりだ。ディランもそうだが、お前も酒には強いな」
言うが早いか、父はすぐさま空いた私の杯に二杯目の葡萄酒を注ぐ。
「父さんの息子だからね」
極自然と私の口を突いて出た言葉に、父はほんの少しだけ岩石の彫像めいた顔の口元を緩めた。年に数回見られるかどうかという希少な父の笑みであった。
「そうか」
「そうだよ」
ほどなくして用意されていた料理を母とランを運んできて、未成人のマルコを除いた私達は改めて杯を傾け始めた。
私が親に相談をするというのは確かに珍しい事なのだが、何を相談しようとしているのか、父や兄が薄々と察している雰囲気があった。
やはり血の繋がった親兄弟という事なのだろうか。そう考えるとなぜだか私は喜びを覚えるのだった。
葡萄酒や麦酒の瓶を何本が空けてから、ようやく私は相談事を口にする決断をした。
親兄弟で酒を酌み交わす雰囲気の心地よさに、ついつい口を開くのが遅れてしまったが、このまま酒を飲むだけで終わらせるわけにも行かない。
「今日、話をしに来たのは、一度村を出てみようかと思ったからなんだ」
飲みかけていた麦酒を一気に呷ってから、父はいつもと同じ静かな口調で答えた。
「そうか」
一言呟いたきりの父に代わり、ディラン兄が毛虫みたいに太い眉の根元を寄せながら、私に質問をしてくる。
「ガロアにでも出て自由労働者になるのか? それともギルバートみたいに商人を目指すのか?
冒険者になると言うのなら、流石に危険だ。あまり歓迎は出来ねえぞ」
「どれもそれなりに魅力的な話ではあるけれど、取り敢えず魔法学院の入学の話を受けようかと思う。
成績次第では学費を免除して貰えると言う話だった筈だ。まずは試験に合格して入学できてからの話ではあるけれどね」
以前から私を魔法学院に、という話はマグル婆さんの息子でガロア魔法学院の教師であるデンゼルさんから打診されていた事だ。
加えて今ならばエンテの森の一件で魔法学院の学院長であるオリヴィエとも知己になれたから、入学に関して良い方向に大きく働く事だろう。
「魔法学院か。デンゼルさんと同じような道を行くって事か……」
デンゼルさんは父と同年代であり、また村を出て行った者達の中で最も大きな成功を収めた人物である。
私がそのデンゼルさんが残して行った道を歩こうとしている、とディラン兄は考えたらしく、寄せられていた真っ黒い眉毛が元の位置に少し近づいた。
人間ならば誰しも魔力は備えているが、魔法を行使できるほどの魔力を備えている者の数はそう多くは無い。
魔法は、日常生活はもちろん戦争などにも大いに関わるもので、多くの国々では魔法を扱える国民の発掘と教育に力を注いでいる。
我が王国においてもその事情は変わらず、魔法学院や王国の宮廷魔術師達は国内を巡っては魔力の素養に恵まれた人物を探し、眼鏡に叶った人材は積極的に勧誘している。
魔法学院で優秀な成績を収めて卒業すれば士官への道や宮廷魔術師団入りの展望が開けるし、あるいは大商人や地方領主などに召抱えられる可能性もあるから、勧誘が断られる事は滅多にない、と聞いている。
「デンゼルさんとなにからなにまで同じ道を行くつもりではないけれど、一旦は村を離れなければならない事は変わらない。
明日、マグル婆さんにガロアのデンゼルさんに連絡を取って貰い、試験を受けさせてもらうつもりだ」
「へえ、兄ちゃん、これまで村を出るなんてことは一度も口にした事無かったのにね」
炒った豆をぼりぼりと音を立てて口にしていたマルコが、これまでの私からは考えられない提案に、心底不思議そうな顔をしていた。
よく見なければ男とも女とも判別できない繊細な顔立ちにも関わらず、この弟の仕草や振る舞いは粗雑な所が目立つ。
あるいは自分が男であると主張する為に、わざとそうふるまっているのかもしれない。
マルコはただ女性的というだけでなく、繊細な美少女と言っても通用する顔立ちである事をそれなりに気にしているからな。
「マルコ、お前にも少しは関わりのある話だぞ。私が魔法学院に入学できたなら、その間、空く事になる家と畑はお前に世話を任せたい。
魔法学院を卒業した後、場合によってはそのままお前に譲るつもりなのだから」
「ええ!? でもぼくが家を出るのって来年の話だよ。兄ちゃんが魔法学院に入学したら、っていう話にしても一年早いよ」
「だからといって家と畑を放ったらかしにも出来まい。一年早まったからといって困る事もないだろう。村長も難しい顔はすまい」
マルコにして見れば私の手伝いをしていた事で勝手知ったる畑が手に入るのだから、悪い話ではないと思う。
一年早く家を出る事になって心の準備が追いついていない事と、既に私の手がある程度加わった家と畑だから、おさがりめいている事がマルコにとっては不満に感じられるかもしれないけれど。
マルコは相変わらず豆を口に放り込みぼりぼりと音を立てて噛む一方で、腕を組んで考え込み始めた。
ディラン兄は私の考えに肯定的なようで、悪くない話だと思うぞ、とマルコに声をかけている。
「まあ無理にとは言わない。村長に誰か別の人を手配して貰うか、最悪の場合放置しておいても構わない。村に帰って来た時に整理すれば良いのだからな」
「う~ん、でも兄ちゃんがあそこまで立派に耕した畑が荒れちゃうのは勿体ないからなあ。
でも、流石に魔法薬の材料の手入れまでは出来ないよ。それは兄ちゃんが処分するか、マグルお婆ちゃん達に手入れを頼むかしてね」
「ああ。大部分はマグル婆さんの家に預けるが、一部は魔法学院に持って行くつもりだよ。
しかしまだ試験を受けてもいないのに入学する前提で話を進めてしまったな」
「お前ならいつも通りの顔で合格したって報告してくるだろうよ」
少し呆れている様な口ぶりでディラン兄は言う。昔から難事を難でもない事のように解決したり、実践したりしてきた私の前科がこんな口ぶりにさせるのだろう。
これまで私達の意見に耳を傾けるきりで、ほとんど口を挟まなかった父が、自分の考えをまとめ終えて有無を言わさぬ口調で私達にこう言った。
「ドラン、お前は昔から普通なら考えない様な事を考え、実行してきた。随分と変わった子供を授かったものだと常々思っていたが、同時にお前がおれ達家族や村の皆の事を一番に考え続けてきた事も知っている。
そのお前が十分に考えた上で決めた事なら、おれは何も言わん。第一、お前はもうこの家を出て自分の家を構えた立派な大人なのだからな。
ただ一つ聞かせろ。村を出る事を考えるようになったのは、やはりこの間の管理官の一件がきっかけか?」
「ああ、父さんの言う通りだ。あの管理官の一件で村の中で全てが完結しているわけではない、村の外の世界との繋がりが齎す弊害というものを体験させられたからね。
ベルン村を管理する人間の心一つで私達の生活が大きく左右されると言うのなら、私がその管理する人間になろう、という考えを思いついた位だ」
私がそこまで考えた上で村を出ようとしている事までは、ディラン兄もマルコも考えが及んでいなかったようで、管理官になる――つまりは役人や貴族を目指そうとしているという私の告白に、ひどく驚いた顔を浮かべた。
兄弟が気付かぬ中、私の考えの奥底まで見通して見せたのは、やはり父といった所だろうか。
「お前はいつでも思い立ったらすぐに行動に移すからな。これでマルコが貴族になるとでも言いだしたなら、おれも拳骨の一つもくれて夢から醒ます所だが……」
「父ちゃん、ドラン兄ちゃんとぼくとで扱いが違いすぎない?」
マルコが下の唇を突きだし、ありありと不満を露わにして父に抗議するが、父はそれをまるっきり無視して話を続けた。
「お前はマグル婆さんに見込まれてみっちりと魔法を仕込まれている。
それに文字の読み書きや計算もすぐに覚えたし、頭の回転も頭一つどころか百も二百も他の者らよりずば抜けている。
こんな辺境の村の中で一番頭の出来が良いからと言って、街に行ってどこまで通用するとも分からんが、お前は昔から不思議となにかをやると思わせる子供だった。
今がそのなにかをやる時なのだろう。だからお前はお前の考える通りにするがいい。
だが忘れるな。お前はもう成人して家を出てはいるが、それでもおれにとっては掛け替えの無い子供の一人だ。
なにか辛い時や迷う時があったら、いつでもここに帰って来い。おれもアゼルナもディランもランもマルコも、いつでもお前を歓迎する」
私は父の愛情あふれる言葉に対して、すぐには返すべき言葉を見つけられなかった。
家族か。
竜であった頃にも他の始原の七竜らを家族と呼べなくも無かったが、やはり人間に生まれ変わってからの家族とは違うと言わざるを得ない。
無論リヴァイアサンやバハムートらも私にとっては大切な存在ではあるが、愛おしさという意味合いにおいては今の人間の家族に対し抱いている感情の方がはるかに強い。
何も言わずにいる私を見て、マルコがまたにやにやとこちらの癇に障る笑みを浮かべる。
「なになに、ドラン兄ちゃん、照れちゃってんの?」
「ふむ、その通りではあるが、お前のその顔はなにやら腹が立つな、マルコよ」
私は相変わらずにやにやと笑むマルコの頭を軽く小突いた。
「痛! ドラン兄ちゃん、殴る事はないんじゃないの?」
「兄に敬意を払わぬ弟には相応の報いだ。第一手加減はしている。父さんの拳骨に比べれば百倍も増しだろう。まったく、私は身内に甘い」
わざとらしく言う私にマルコはしかめっ面のまま、大げさに小突かれた頭を擦って見せた。マルコがふざけ、私が軽く小突いてそれを叱る。兄弟の間で何度も繰り返されてきた事だ。
魔法学院に入学したら、このやりとりも暫くはできなくなるのだと思うと、物悲しく寂しいものがこみ上げてくる。
「そう言うのは自分で言う事じゃないよ。おー、いてて」
不満を隠さずに口にするマルコを見る私の瞳は、きっといつもより慈しみに満ちていた事だろう。
私は母とランを交えて村を出た後の事を話し、酒を飲み、大いに食べ、陽気に歌い、そのまま家に泊まった。
この生まれ育った家で過ごした時間と思い出が、家族と村の皆の為になる事をしたいという私の想いをより強く、固いものに変えたのだった。
翌朝、実家を出た私は早速マグル婆さんの元を訪れて、ガロアに居るデンゼルさんに連絡を取って貰い、ガロア魔法学院に入学する為に必要な手続きを依頼した。
幸いだったのは元からデンゼルさんの推薦があった私は、入学試験を受験する為に必要な受験料を支払う必要がない事だった。
払えない額ではなかったが、魔法のみならず他分野における高等教育を受ける事の出来る魔法学院の受験料は、平民の収入で考えるとかなりの高額になる。
手痛い出費を免れた事に私は心の中で大いに安堵した。
狭い村であるから私が魔法学院の入学試験を受ける事はすぐに知れ渡るだろうから、改めて魔法学院入学の意思を伝える相手は多くはない。
村長の方へは父と母が報告をしてくれる手筈となっている。魔法学院に入学できて、村を離れる事となるとして、さしあたっての懸案事項は二つあった。
入学に関する雑事や慣れない魔法学院での生活、人間関係に気を取られ、瑠禹や龍吉、ヴァジェ達とこれまでのように頻繁に接触する機会が少なくなるだろう事。
そしてもう一つ。それこそが目下、私の頭を最も悩ませる懸念であった。
私は意を決し、目の前の扉を叩いた。
「セリナ、私だ」
「あ、はーい。今開けますよ」
ずるずると大蛇の這う音がした直後、閂を外す音がして開かれた扉の間から、絵にするのも難しいほどに美しいセリナの顔が覗く。
私を認めたセリナは、朗らかな笑みを浮かべて私を家の中へと招き入れてくれた。
「どうぞ、中に入って下さい」
「ああ、お邪魔するよ」
セリナの家の中は日を追うごとに少しずつものが増えていて、窓際にはフィオやマールから譲り受けた花々の鉢が置かれ、余った布と綿で作った小さなぬいぐるみが何体か棚や机の上に置かれていた。
部屋の中央にある座布団を敷いた樽椅子の上に腰掛けて、私はセリナが戻って来るのを待った。セリナが持ってきてくれたフラワーティーを一口飲んでから、私はどう切り出すか一晩悩んだ話題を口にした。
悩んだ割に思いついたのは正直に伝える、という愚直極まりない選択肢であったのが、我ながら情けない。
私は、対面にとぐろを巻いた下半身の上に腰を落ち着けるセリナの顔をまっすぐに見つめた。
口を開くのに若干の躊躇を覚えて、沈黙したままセリナの大ぶりの宝石を思わせる瞳を見つめている、セリナは所在無さ気に視線を彷徨わせはじめる。
ふむん、あまり正面から女性の顔を見つめるのはよろしくないか。もっともセリナの白磁の肌に朱の色にほんのり染まっているのを考えると、他にも理由はあるようだけれど。
「セリナ、忙しい所、突然お邪魔してすまない」
「いいえ、ドランさんならいつでも歓迎しますよ。事前に連絡してくれた方が助かるのは確かですけれどね、その、お片付けとかおめかしとかしないといけないですから」
最後の方はごにょごにょとセリナは小声で喋っていたが、私の耳はきっちりと聞き届けていた。わざわざ声を潜める位なら、口にしない方が賢明だぞ、セリナ。
顔を俯かせ、赤くなりながら小声で言うセリナの様子は、とても可愛らしく役得と思えるので、まあ、構わないか。
「ふむ、今日、こうしてセリナを訪ねたのは大事な話があるからだ」
「はい。どんなお話ですか?」
鉄の芯が通っているかのように背筋を伸ばし、居住まいを正して私の顔を見つめ返すセリナに、私は覚悟を決めて魔法学院の件を口にした。
「実はガロア魔法学院の入学試験を受ける事にした」
「えっとクリスティーナさんの通っている所ですよね。じゃあ試験に合格したら、ドランさんはクリスティーナさんと同じ学院に通う事になるんですね」
「ふぅ、む。そうだな。またクリスティーナさんと一緒に時を過ごせるかと思うと、今からでも楽しみだよ。それで私が入学が出来たら向こうの寮で暮らす事になるから、この村を出て行く事になる」
「そう、ですよね。聞いた話ですけれど、ベルン村からガロアまでは通える距離じゃ……あ。ドランさん、ここを出て行っちゃうんですか?」
私が魔法学院に入学するとどうなるか、という事を理解した途端、セリナの顔から笑みは消えて、先ほどまでひょこひょこと左右に揺れていた尻尾の先端は力なく項垂れ、青い満月の如き瞳には寂寥の色が浮かび上がり始める。
涙腺が脆く感情豊かなこの蛇娘に正直に伝えれば、このような反応をされるのは予め想像できた事であったが、実際に目の当たりにするとこちらの胸を締め付けられるような罪悪感がどっと押し寄せてくる。
「そうだ。別にこの村での暮らしが嫌になったとか、セリナや村の皆が嫌いになったと言うわけではないよ。
ただ村を離れてでもしたい事が見つかった。その為に、私は魔法学院に入学する」
「でも、でも、ドランさんが村を出て行ってしまうなんて、私はこれまで考えた事も無かったから、そんな突然言われても……」
既にセリナの瞳にはうっすらと涙の幕が浮かび上がり始めていて、このままではセリナが大粒の涙を零し始めるのは時間の問題であった。
「すまない。正直に言うと急に決めた事なのだ。だからセリナに相談する暇も無かった。
セリナを村に誘っておきながら村を出るなどと、自分勝手な話をしてしまって本当にすまない」
深く腰を折り頭を下げる私の姿に、セリナは震えそうになる声を必死に抑え、私に顔を上げるように言う。
「顔を、顔を上げてください。ドランさんにはドランさんのしたい事があるのですから、私の為にそれを我慢する事なんてないんです。
ドランさんが居なくなるのは、正直に言うと、とても、と、とっても寂しいですけれど、我慢しますから」
「セリナ……」
「あの、ドランさん。もし、もしも私がドランさんと一緒にガロアに行きたいって言ったら、行けるでしょうか?」
今にも零れ落ちんばかりに目尻に溜まっていた涙の粒を拭ったセリナの口から、思いもかけない提案が飛び出て来た事に、私は少なからず驚かざるを得なかった。
「私とセリナが一緒にガロアへか。そう、だな。
普通に考えればラミアがガロアのような都市に入る事は出来ないが、セリナはマイラールのお墨付きだし、バランさんや村長、レティシャさん達に紹介状をしたためて貰えば、あるいは……」
セリナと一緒にガロアに行く事は正直、私が村を出る事ばかりを考えていて言われるまで考えつきもしなかった。
おそらくセリナを連れて魔法学院に通うのには、いくつもの障害があるだろうがセリナが涙を流さずに済むようにする為ならば、労力を惜しむ必要は欠片もない。
セリナからの提案に私の頭が回転し始めた時、意を決した様子のセリナが両手で握り拳を作り、私の方へと身体を乗り出して力強くこう言った。
「わ、私はドランさんと一緒がいいんです! だから、ドランさんがガロアに行くのなら絶対に一緒に行きます!!」
顔を真っ赤にしてそう宣言するセリナに、私は思わず頬が緩むのを感じながら素直な気持ちを告げた。
「ありがとう。セリナと離ればなれになるのは私も寂しかったから、そう言って貰えるのはとても嬉しいよ」
私がそう言うと、セリナは自分がなにを言ったのか、そして何を言われたのかを理解したようで、耳の先まで真っ赤にして顔を俯かせた。まったく、セリナは可愛いなあ。
おそまきながら投稿いたしました。それにしても近頃なんだかさっぱり書けなくなってしまいました。

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