第十九話 転機
さようなら竜生 こんにちは人生
第十九話 転機
深紅竜のヴァジェと共に水龍の巫女瑠禹の案内で水龍皇龍吉の元を訪ねてから数日、私は竜の分身体でヴァジェと瑠禹、それにモレス山脈に住む竜族らとの親交を深める一方、人間としてはいつも通り村で日々の糧を得る為に働き続けていた。
我が王国のほとんどの村々では、長男以外の男子が十五歳になれば家を出て幾許かの土地を得て自分の家を持つ。
私もその慣例に従って独り暮らしを始めて既に一年と少しばかり経っているのだが、最近はセリナがよく顔を見せては私の畑仕事の手伝いをしてくれる事が多い。
その代わり、セリナが私の手伝いをしてくれるのに反比例して、弟のマルコが私の所に手伝いに来る事は滅多に無くなった。
マルコも来年で十五歳になるのだからそろそろ独り立ちの準備を整え、今後どのように暮らしてゆくかの算段を密にするべき時だから、私の所に顔を出す頻度が減ったのは少し寂しい事を除けば別に構わない。
ただ時折村を歩いていてすれ違った時や遠目に姿を見かけた時に、なにやら訳知り顔で私とセリナを見てくるのには少々苛立ちが募りもする。
あの女顔の弟は、十中八九私とセリナの関係を勝手に邪推して勝手に確信して勝手に楽しんでいるに違いない。
最近、私がセリナと一緒に行動していると、村の皆からの視線に微妙に微笑ましいものが混じるようになっているし、まったく困った弟を持ったものだ。
さりとてセリナとの関係をなんでもないと言い回るのが得策とも思えなかった。
村に来てから、セリナが最も長く共に時間を過ごしているのが私である事は紛れもない事実である。
それに私自身がセリナの内面は言うに及ばず、ラミア種が忌避される最大の原因の一つである人蛇混合の外見に関して、人間の上半身と大蛇の下半身を気にしていないどころかむしろ好もしく感じているのもまた嘘偽りのない事実だ。
セリナの事を好きか嫌いかで分類するのなら、まず間違いなく好きに分類するし、好きか大好きかで分類するのならこれもやはり大好きに分類する。
つまり私はセリナに対して、恋愛感情かどうかはともかく極めて大きな親愛の情を抱いていると言う事だ。
そしてセリナの方も私に対してはかなりの信頼と親愛の情を抱いてくれているのは、まあ、自意識過剰かもしれないが肌で感じている。
こうして改めて考えてみると、マルコがあの腹の立つニマニマとした顔をするのも仕方がないような気がしないでも無い。
私とセリナが互いに好き合っていると思われても仕方がない程度には、普段の私達は意識していない所で親しげにしている、という事なのだろう。
ふむん。さて、私とセリナの今の関係は何であろうか? 少なくともまだ恋愛関係にまでは発展していない。
出会い方はいささか奇異なものであったが、その後から今に至るまでの行動などを振り返ってみるに、戦友、友人、仲間、恩人……とちらほらと思考の海に関係を表す単語の泡が浮かんでは弾けて消えて行く。
どうにも私とセリナの関係を表す適切な語彙が浮かんでは来ない。
先ほどの分類の話で考えれば、大好きなのは間違いがないがそこから先の、大好きと女性として愛している、との分類になるとどちらに分類すべきか判断しきれない、と言った所だろうか。
竜であった頃にはこれっぽっちも考えた事のない類の思考に、私はさっぱり答えが出せそうになかった。
そんな私だが、両親や幼馴染のランと結婚したディラン兄の仲睦まじい姿を見ていて、ふと魂が竜であるにも関わらず羨望の念を多少なり抱く事もある。
既に独り立ちしている事もあり、ごく稀にだが両親から結婚はするのかと匂わされる事がないわけではない。
もし、仮に私がセリナを伴侶にと選んだら……ふ~む、まあ、魔物相手という事で多少眉を潜めるかもしれんが、家族は大して反対もしないだろう。
まずセリナはちゃんと向き合えば誰にでも好かれる良い性格の娘であるし、辺境で何より重視される“使えるかどうか?”という点においてもなんら不足が無い。
ラミアが人間と結ばれる事もある魔物と知られているのもあるだろうが、魔物を伴侶に迎える事位、ベルン村のというか辺境の事情を考慮すれば、比較的瑣末な事なのである。
それにセリナ個人は偉大なる大地母神にして我が最良の友たるマイラールのお墨付きだ。
セリナ本人の人好きのする性格と相まって、村で危険視する者は既にいない。
つまりは私がセリナと夫婦になる事は、ベルン村側の事情では特に問題は無いのである。
ただこれまで聞いたセリナの話から察するに、どうもセリナは夫となる相手を見つけたら故郷に連れ帰って一緒に暮らす事になっているらしい。
仮にベルン村に留まり続けるのならセリナの両親か、引いてはラミアの里そのものと交渉する必要もあるだろう。
もっともそれ以前に大事なのは私がセリナを一人の女性として愛しているのか、それとも普遍的な意味での愛情と親しみを抱いているのか、そしてセリナの私に対する気持ちである。
少なくとも私がセリナへの感情を問われたのなら、一人の女性として好いている、愛している、と即答できる程度には自分の気持ちをはっきりさせてからでないと、セリナに告白するような事は無い。
自分の感情をはっきりと理解できていない曖昧模糊としたまま流されるような状態では、セリナにとってこれ以上ない不誠実な対応しかできないだろう。
まあ、全て私が勝手にそう考えているだけであって、現実の問題としては肝心のセリナの方が私をどう想っているかに全ては掛っているのだろうけれども。
セリナがあくまで私を異種異性の友人としてしか見ていないのに、私が勝手に舞い上がっているだけなら、これはもうとんでもない道化だったという事になる。
ふむ、いや、しかし私はなぜこのような事を考えているのだろうか。傍から見たら一人でこんな事を考えている私は、これ以上ない位に気持ち悪いのではなかろうか。
私にとって人間としての婚姻は果てしなく縁の無いようなものとして、これまで滅多に考える事も無かったのに。
麗らかな春の日差しにまどろんだ所為で、いつもとは違う事を考えたのかもしれない、そう結論付けて私はそれ以上考えるのを止めた。問題を先送りにしただけのような気もするが……。
さて私の将来の婚姻に関してはこれで考えるのは止めるとして、ベルン村に移住してきてからのセリナは、ラミアとしての能力から特に狩りに珍重されている。
だが狩りの無い時や手の空いている時になると、セリナはまず私の所に顔を出して手伝いをしてくれている。
ベルン村に移住するきっかけを作ったのは私であるし、村の皆もセリナの世話役は私と見ているから特に何か言われるような事は無い。
いつもなら主食である麦をはじめとした雑穀類や豆、芋を世話する所なのだが、今日の私は、エンテの森で出会ったディアドラに譲って貰った黒薔薇の世話をしていた。
この黒薔薇は魔法花の一種で種から花開くまで育て、枯れない様に世話をするのは非常に難しく神経を使う繊細な薔薇、というのが普通の黒薔薇の話である。
だが私が譲って貰った黒薔薇の種は、その種を産んだ――という表現で良いのか確信は持てぬが――ディアドラが特別に力と想いを込めた種だ。
その為か、私に与えられた土地の中で特に日当たりの良い所に埋めた黒薔薇の種は、種を植えた私も驚きを禁じ得ない速さでぐんぐんと成長していった。
周囲の土地の滋養を吸い尽くしそうな勢いで黒薔薇は成長し、畑に植えて半日後にはすでに芽を出し、一晩経ったらすでに茨が伸びて互いに絡み合い、二日経ったらもう黒薔薇の蕾が出ていたのである。
私は大急ぎで黒薔薇専用に調合した専用の栄養液と粉末状に砕いた地精石と魔晶石、それに家の裏に山と積んである堆肥を撒いて、黒薔薇の急激な成長によって畑の滋養が吸い尽くされないよう対処しなければならなかった。
数ある魔草妖花の中でも黒薔薇は貪欲に他の生命や栄養を奪い、花開く薔薇であると知ってはいたが、私の知識にある黒薔薇よりも随分と速い、というよりも貪欲な成長ぶりだ。
凄まじい勢いで成長するからすぐに魔法薬の材料になる事と、十日に一度村を訪れる商隊に出荷しやすいという意味では助かるが、いやはや、ディアドラはどんな想いをこの黒薔薇の種達に込めたのやら。
いくつもの大輪の花を咲かせている黒薔薇達に水をやる私の横で、手伝いをしに来てくれたセリナは、白い手に鋏を持ち一輪、二輪と黒薔薇を切って左手に提げた網籠に入れて行く。
手ずから編んだ麦わら帽子を被り、青い空か降り注がれる春の陽光を受けて金の髪を輝かせるセリナの姿は、下半身が巨大な蛇の魔物である事を忘れさせるほどに清楚で健康的な美しさに満ちていた。
私の場合、降り注ぐ陽光を濃緑の色に染める鱗に覆われた大蛇の下半身も好もしい。
「皆綺麗に咲いていますね。育てるのは随分と大変みたいですけれど」
「黒薔薇は命を吸う魔花だからな。世話が大変なのは分かっていた事だよ。ふむ、とはいえここまで貪欲だとは思わなかった。
だがその甲斐あってどれも綺麗に、そして魔力に満ちて咲いている。これならガロアの魔法ギルドや魔法学院に良い値をつけて貰えるだろう」
「香りもとっても素敵ですね。香水が作れたらきっと大人気になりますよ」
そう言ってセリナは夜の闇を切りぬいて形を整えたような黒薔薇に鼻先を寄せて、形の良い鼻を小さく動かして黒薔薇の芳しい香りを堪能する。
「悪くない提案だが、実際に香水を作る為にはもっとたくさん育てないと難しいな。確か、香水一瓶分に畑一つ分の花が必要な筈だ。
それに黒薔薇の香水には自然と誘惑と魅了の力が宿る。せっかくの提案に水をさすようだが、希釈の割合を間違えれば余りに危険という事で、確か製造と販売に重度の制限が設けられているはずだ」
マグル婆さんに教えられた魔法薬や魔法具製造の際の注意点の一つに、王国北方の魔法関連の品の流通を牛耳っているガロアの魔法ギルドとの付き合いの仕方があり、私は教わった掟を思い出しながらセリナに答えた。
「ゆ、誘惑と魅了ですか。ディアドラさんはとってもお綺麗な方でしたから、黒薔薇にその力が宿るのも分かりますね。…………誘惑と魅了っていうと、や、やっぱり媚薬とか惚れ薬とか?」
いや、なにをそこで頬を赤らめるのかね、セリナさん。媚薬とか惚れ薬とか口にするのが気恥ずかしいのかな。
だったら口にしなければいいのにと思うが、それとも誰か媚薬を使ってでも仲を深めたい相手でも居るのか……ふむ。
「調合の割合を間違えればそういった効果が表れる筈だ。だが人心を操るような魔法薬の調合には免許が居るから、無免許で調合しようものなら重罪となる。
簡単な魔法薬ならともかく、人心操作の魔法薬調合の免許を持っている人はそうは居ないだろう。そう思うのだけれど、魔法学院ではどうなのかな、クリスティーナさん」
私はセリナと一緒に黒薔薇の世話の見学に来ていたクリスティーナさんに話を振った。
魔法学院の春の長期休暇を利用してベルン村に滞在しているこの方だが、そろそろ休暇も終わりという事で、近頃は村の中でも特に親しくなった私かセリナとよく行動を共にしている。
案外、寂しがってくれているのかもしれない。
サイウェスト村で過ごした夜の宴で、どうもクリスティーナさんは学院に友達が少ないらしい事が発覚しているから、なおさら私にはそう思えてならなかった。
ひらひらとしたフリルの着いた白いシャツと、肌にぴっちりと張り付いて起伏に富んだ身体の線を浮き上がらせる黒革のズボン姿のクリスティーナさんは、指先に摘んでいた黒薔薇の花弁を手離してこちらを振り返る。
「うん、あまり私も詳しい方ではないのだけれど、確か学院の薬学部の教授方や学院長であれば免許は持っている筈だ。
学生で上級の調合の免許を取得しているのは五人居るかどうか、だったかな? 私もある程度は魔法薬の調合は出来るけど、それも日常生活で役に立つ程度のものだけだ」
「私もまだマグル婆さんにそこまでは習っていないから、黒薔薇の香水作りは当面出来そうにないよ。
そうでなくともこれだけ綺麗に黒薔薇を咲かせる事が出来たのだから、魔法薬の材料にするにしろそのまま出荷するにしろ、期待はできる」
「ディアドラさんやマールちゃん達には申し訳ない気もしますけれど、エンテの森から出てきた珍しい獣の毛皮とか牙とかもかなりの量がありますから、いつもよりまとまったお金が入るって村の皆さんも喜んでいました」
「ああ、毛皮にしろ魔法薬にしろ貴重な財源だ。ベルン村の辺りは王国直轄領だから、他所より税率は低いが、決して余裕のある生活を送れているわけではない。稼げる時に稼いでおかないと」
さる貴族の主導で北部辺境の開拓が行われていた間は、ベルン村からの税の徴収は免除されていたのだが、開拓が中止となった今ではきっちりと税を納める義務が生じている。
その為、春は私達にとって大事な収穫期であると同時に、税を納めねばならない憂鬱さとも戦わなければならない季節であった。
いっそ税が無くなればいいとは思うのだが、魔物の襲撃や自然災害があった時に救援の人員と物資を用意し、また街道を整備して橋を架けるなどの治水事業を行うには、国のような集団がどうしても必要となる。税とはその対価なのだ。
村落のような小集団では成し得ない大きな事を成す為には、少なくとも今はまだ人間社会には国家のような枠組みが必要だろう。
前世の記憶をひっくり返してみても、国家や種の枠を越えた社会制度を構築し得た者達はそんなにいなかったし、今の地上世界の技術水準や精神的成熟度を考えればこれから先、まだ千年か万年単位で国家という概念に収まり続けるだろう。
少なくとも私が人間としての天寿を全うするまでは、今のこの王国のお世話になる事は間違いない。
今度商隊が村に来るまでの間に出来るだけ状態の良い黒薔薇を揃えておこう、そう思考を切り替えた私が一輪ずつ黒薔薇を入念に観察し始める横で、なにやら考え込んでいる素振りを見せていたクリスティーナさんが私に声をかけて来た。
「う~ん、ドラン、どうも勘違いしている節が見受けられるから言っておくが、ベルン村は決して貧しい村ではないよ」
「ふむん?」
あまり実感の湧かないクリスティーナさんの言葉に、一体何を根拠に、と私は首を傾げていつもの口癖で問い返していた。
「私は小さい頃に王国内の色々な所を歩いて回っていて、国内の村や町を見て来たがそれらと比べれば、ベルン村は周辺に危険が多いが生活そのもの、端的に言えば食生活などはむしろ裕福なくらいだよ」
「そうなのかい?」
言われて過去を振り返れば、少なくともこれまでに村が飢餓に見舞われた事は無いな。
それは私が父母の腕に抱かれ、人間として生きてみようと決意してから、近隣の地脈や精霊力の調和に干渉して、ベルン村近隣の気象を掌握して旱魃や水害、地震、嵐などの天災が発生しない様に制御していた事。
加えて大地そのものの生命の流れである地脈を活性化させ、荒野然としていた近隣の土地が滋養に富み、生命が育まれやすくし続けているからだ。
ただ精霊石が発生しやすくなるように精霊力に干渉した時には、誤って地盤を捲る様な大嵐、近隣のみならず王国そのものを分割しかねない大地震、大陸を水没させかねない豪雨を間違って引き起こしそうになった事がある。
あの時ばかりは下手な悪魔や邪神よりも私の方がよほど世界を破滅の危機に陥れかけた、と猛省した苦い思い出だ。
実際にそれらが起きるよりも前に制御を取り戻し、事無きを得たのがせめてもの救いではあった。
私が不意に脳裏によぎった過去の失敗に少し眉根を潜めるのに気付かず、クリスティーナさんはこれ以上を求めるべくもない形の頤を縦に動かす。
「そうなのだよ。ドランはあまり近くの村々を回ったりした事は無いのか?」
「ベルン村の外に出る事は滅多にないな。隣村にしても、たまに祭りの手伝いや親類縁者の祝い事や葬式に顔を出す位だね」
ほとんどの農民は一生を生まれ育った村から離れずに暮らす。
私の場合、初めて得た両親や兄弟家族の事が好き過ぎて心配し過ぎて、余計に村から離れなかった所為もあって、他の村人と比べても他所の村の事をあまり知らなかったりする。
私は思わぬ所で自分の無知と無関心さを思い知らされて、恥じ入る気持ちが胸に湧きおこった。
「そうか、となると他の村に顔を出したとしても何かしら特別な日が多かったわけか。
私がベルン村に来た時は、以前聞いた話と比べて村の人達が随分余裕のある生活を送っているようで驚いたものさ。
税が低く抑えられている事を考慮しても、だ。かつてはやせ細った荒野だったと言う土地にも関わらず、畑に実っている作物はどれも大きく肥えていて、量もたっぷりとある。
猛獣や魔物の出没する頻度は流石に随分と多いが、村の人達はすっかりそれに手慣れていて危なげなく対処しているし、それに村の子供にしろ大人にしろ食事が足りずに痩せこけている者の姿が無い。
何処の村だって少しくらいはそういった姿の者が居るのが当たり前なのにね。だからドランの口から、この村が貧しい、というような言葉が出るとどうも違和感を覚えるのさ」
普通、貴族の子女がこんな事を口にしようものなら、私達の育てた麦を何の苦労もしないで口にしている癖に何を言うのか、と私ならず農民なら腹を立てそうなものだが、クリスティーナさんの言葉にはこれ以上ない実感が宿り、非常に説得力があった。
前々から感じてはいたが、クリスティーナさんは生まれた時から貴族の暮らしを送ってこられたわけではなさそうだ。
まっとうな貴族の家に産まれた者が、幼い頃から王国のあちらこちらを転々とする生活を送る事はあるまい。
「誰かに言われて初めて気づける事もある、といったところか。
ふむ、王国で一番の辺境だし命の危険も多いから、てっきりベルン村の暮らしが最も過酷なものと思っていたのだけれど」
「いや、確かに魔物の姿を見かける事は多いし、命の危険が他と比べて多いのは否定しないよ。ただ土地が思ったより豊かなのだなとそう感じただけさ」
「ふふ、別に悪い気はしないよ。豊かであるのならそれにこした事は無いのだからね」
少し慌てた素振りでクリスティーナさんが弁明の言葉を口にするが、別段、私にクリスティーナさんを責めるような意図はない。
むしろ、これまで自分の住む村の事にしか興味を示さなかった自分の視野の狭隘さを恥じ入るのみであった。
クリスティーナさんにはその自分を恥じ入る私の態度が、自分が私を責めているように感じられたのかもしれなかったけれど。
あくる日、朝からやけに村が騒がしいのを、私は黒薔薇に水をやりながら肌で感じ取っていた。
普段なら皆がそれぞれの家の畑や、ささやかな果樹園、あるいは川で漁に勤しんでいる筈なのだが、それをしている者の数が少ない。
更に私に奇妙だ、と感じさせたのは村に広がる慌ただしい雰囲気の中に、不安と困惑の感情が混じっている事か。明らかに悪い方向に向かっている雰囲気だ。
私の嫌な予感が的中している事を証明するように、道の向こうからバランさんの部下の一人であるクレスさんが、険しい顔立ちで我が家に向かっているのが見えた。
普段は陽気なお調子者で、村の皆からの信頼も厚い青年なのだが、ころころと良く変わる表情を浮かる顔には、これまで見た事の無い険が浮かんでいる。
そしてクレスさんの黒い瞳は黒薔薇に水をやる手を休めた私を確かに見つめていた。
私に何か用があるということか。
クレスさんは、私を前にして少し口を開くのを躊躇する素振りを見せたが、やるせないように首を左右に振ると、私の顔をまっすぐに見つめてこう言った。
それは普段の気さくな態度を押し込めた兵士然とした口調であった。
「ベルン村のゴラオンの息子ドラン。村長の家まですぐに来い。北部辺境区ベルウィル地方第四等管理官ゴーダ・シャトル様がお呼びだ」
ベルウィル地方と言うのはザノン村やボルエラ村、ベルン村を含む北部辺境区の最北部一帯を指す。
管理官というのは王家の直轄領の管理の為に、それぞれの地方の領主の代わりに王政府から直接派遣された役人の役職名だ。
最上級職は総督で以降第一等、第二等、第三等、と数字が大きくなるにつれて管理を任される地区が狭くなる。
第四等管理官となると精々村落をひとつかふたつ管理する程度だったろうか。言ってしまえば木っ端役人である。
志がありそれに見合う能力のある人物が役職に就けば、担当地区に住まう人々の未来は明るいがその逆となるとこれは少々目もあてられない事に往々にしてなりやすい。
北部辺境の開拓は責任者の体調不良を切っ掛けに頓挫し、その為我がベルン村以北の開拓は中止されている。
開拓が中止され、援助も絶えた為ベルン村はこれまでお偉い管理官様の興味を引く事もなかったのだが、その管理官の命が下ったとなると、ここ最近の村の変化が興味を引いてしまったと推察できる。
まだ断言はできぬが、どうにも身から出た錆か自業自得という結果が待っている予感が、私の胸の中で加速的に膨らんでいった。
苦渋の色を浮かべるクレスさんの言葉に従い、私はクレスさんと二人で村長の家を目指した。
短い道中、クレスさんは終始無言で、どうやらこれは碌な事にならないようだと、私は胸中で溜息を吐かざるを得なかった。
特に未来視や運命を詠むといった行為を行ったわけではなかったのだが、私の嫌な予感は的中したらしい、と村長の家がある中央広場に来た時点ではっきりと分かった。
広場に目をやれば村長、村長の娘であるシェンナさん、バランさんとその部下の皆さん、マグル婆さんといった村の重要人物達とセリナの姿がある。
ここまでは私にとっても見知った人達であったから、一様にしてその顔が浮かないものである事以外は、何も問題はない。
問題があるとすれば広場のど真ん中に停められた黒塗りの箱馬車と、その近くに設置された椅子に腰かけた見知らぬ人物、更にその周囲の完全武装した兵士達である。
兵士達は総勢十名。全員が全身鎧と長槍で武装し腰帯には長剣を刷いている。
私にとって看過しえないのは、あろうことかセリナをぐるりと囲んでいつでも長槍の切っ先を突きこめる体勢にある事だ。
私は心の片隅に憤怒が激しく燃え盛るのを感じ、それが表出せぬよう強く意識しなければならなかった。
私の理性を振り切った感情の爆発は、魔界の大魔王や邪神が完全なる力を持って地上へ顕現するのと同等か、それを上回る規模の災厄が発生するのと意味を等しくする。
私は木材を組み合わせて布を張り、絹様の布で綿を包んだ椅子に深々と腰かける壮年の男性が、第四等管理官のゴーダ某であろうと目星を付けた。
おそらくは官服と思しい灰色の衣服はどこもかしこも布を余らせてだぼだぼとしていて、どうにも不格好だ。
頭部を飾る白髪はたっぷりと油を使って纏められていて、気味が悪い位に輝いていた。
頬や首元の肉は削いだように痩せこけていて、顔色はお世辞にも血色が良いとは言えない。申し訳程度の肉が着いた唇は薄く開かれて、こればかりは綺麗な白い歯並びが見えた。
私にとって人間に生まれ変わってからこのゴーダ管理官のように痩せこけた、それこそ針金のようなとしか表現しようのない人間を目の当たりにするのは初めての事であった。
おりしもクリスティーナさんが言ったように、我がベルン村では少なくとも私が生まれてからは、日々の糧に困る様な状況に陥った事は無く、餓死者を出した事は無かったのだから。
なにより私はゴーダの瞳の濁り具合が気になった。
確かに濁ってはいるがそれは生来の人品の卑しさや醜悪な欲望による濁りというよりも、自暴自棄から来る他者への無関心や自己嫌悪が醸造した濁りと見受けられたからだ。
ゴーダから視線を外すと、私はゴーダの周囲には彼に次ぐ地位か立場にあると思しい二つの人影を注視した。
一人は下半身が栗色の毛並みを持ったしなやかな肉付きの馬で、腰から上には妙齢の美女の上半身が繋がっている半人半馬のケンタウロス種の女性である。
燃える様な赤い髪を後頭部で結わえて、背中に流しそよ風に毛先が揺れている。
馬体から人間の上半身に至るまで鈍く輝く鋼鉄の鎧で固めており、右の馬体には長大な円錐状の騎槍が留められ、両腰には使いこまれた跡のある短剣が一振りずつ。
ケンタウロス種は主に広大な草原や平原に棲息しており、人馬一体の肉体構造を有している為、疾走しながらの弓の扱いやその爆発的な脚力と瞬発力を活かして騎槍や短槍を構えての突撃を得意とする。
一糸乱れぬ連携で素早く戦場をかけながら矢を射かけ、集団でまとまってランスを構えて突撃するケンタウロスの戦闘能力は極めて高く、敵に恐怖を味方には畏怖を与えるとしてよく知られている。
また種全体の傾向として、自己に厳格で戦士たる事を誇りとする傾向にあり、傭兵ないしは騎士として人間主体の国家や社会に身を寄せる者も多い。
ケンタウロスだけで構成された騎士団なども国によっては存在することが表す様に、ケンタウロス種と人間との付き合いは深く長いものだ。
明らかに一段も二段も装備の質が違うことから、このケンタウロスの女性が兵士達の上役に当たる人物なのであろう。
やや眦の鋭い琥珀色の瞳はわずかに咎める色を浮かべてゴーダを時折見つめている。どうやらあまり気の合う仲ではないようだ。
先ほどから腰に下げた愛用の鉄槌の長柄を苛立たしげに指で叩くバランさんが、女ケンタウロスに視線を送っている。
この場の兵士達のまとめ役であると同時に、おそらくはガロアにおけるバランさんの直属の上司なのだろう。
女ケンタウロスはバランさんの視線に気づく度に、やや申し訳なさげに眉根を下げていた。
厳つい上に不機嫌になっているバランさんと妙齢の美女の対比であるから、おそらく理はバランさんにあるにしても見ているこちらの胸が痛む光景である。
残りの一人はレティシャさんと同じマイラール教の白い質素な貫頭衣を纏い、レティシャさんの首飾りよりやや複雑な意匠が凝らされた教団の首飾りを下げた、五十代近いと思しい女性である。
流石に皺は目立つがそれも柔和な雰囲気の一つとして機能していて、泣きじゃくる赤子も頭を撫でられるだけで泣き止んで、とびっきりの笑顔を浮かべる。
そんな印象を受ける女性だ。
ちらほらと白いものが混じる黒髪を首の後ろで束ねて、女ケンタウロスとは違いはっきりとゴーダに非難と色合いを含んだまなざしを向けている。
その隣でレティシャさんが不安げに佇んでおり、おそらくこの初老の女性神官はレティシャさんがガロアに居た頃に大変お世話になったと言う先生に違いあるまい。
先生の話をする時のレティシャさんはとても優しい顔をされていて、いつか会ってみたいと考えていた方だ。
ふむ、どうやらこの広場にいる王国側の人間で、はっきりと敵と認識していいのはゴーダだけのようだ。
ケンタウロスの女性は立場上仕方がなくといった雰囲気であるし、女性神官は態度で村側の立場を示している。
さて私よりも先にセリナ達が呼びつけられ、兵士に囲まれているような状況になった経緯はいかなるものかと私が考えていると、先ほどから私を睨みつけていたゴーダが億劫そうに私を呼びつけた。
「お前がドランか。こちらに来い」
逆らう意味はない。村長達から心配する視線を向けられる中、私はどんな理不尽が口を開いて待っているのやらと少々重い気持ちでゴーダの前まで進んで足を止める。
私が足を止めるのを待ってから、ゴーダは傍に控えさせていた従士らしい色白の少年から錫の杯を受け取って、中の液体を一息に喉の奥に流し込んだ。
ぷん、と強い酒精の匂いが私の所まで届く。
朝から酒を飲んでいるのか。
見れば顔には朱の色が上り、零れる吐息には濃い酒の香りがある。
更にその他の食べ物の匂いが混じっていて、反射的に顔を顰めるのを堪えなければならなかった。顔を顰めたら顰めたで難癖をつけられそうだ。
「ふん、気に入らない顔をしているな。お前だな? この村に魔物を招き入れ、不遜にも国王陛下からお預かりしておる神聖な土地へ汚らわしい魔物に足を踏ませたのは」
ふむ? 死後も永遠に救われぬ最も罪深いものが落とされる地獄に行きたいのか、この男。
聞き逃すわけに行かぬ暴言に、理性の枷を吹き飛ばしになる感情をなんとか抑え込んだ。
いわゆる所の異端審問ということだろうか。
だがそれはマイラール教をはじめ、人間の崇める善なる神を信仰する高位の聖職者にのみ許された、極めて厳格な管理下に置かれた行いである。
資格の無いものが異端審問を行えば、それは王族に対する殺傷行為や謀反にもならぶ最大の罪と数えられるほどだ。
言葉の選別を間違えれば、縛り首か断頭台の露と消えるのはゴーダの方である。
失言を誘うべきかと私が逡巡した時、レティシャさんの傍らに居た女性神官が非難をゴーダに浴びせた。
「ゴーダ管理官! すでに証明した筈です。神託を受けたレティシャのみならずマイラール教の司祭である私もまた、母なるマイラールの審判によって彼女が邪悪な魔物ではないと!」
セリナがバランさん達と相対した時にレティシャさんが受けた神託とは異なり、審判は己の信仰する神に疑問に対する答えなどを直接問う高位の奇跡である。
それが出来ると言う事は、初老の女性神官は司祭と言ってもその徳の高さは位階以上のものがありそうだ。
「パラミス司祭、わしはなにも偉大なるマイラールのご判断を疑っておるわけではありませぬ。
ただ国王陛下よりこの地区を管理する聖なる権利を委ねられた卑小の身としては、いかなる危険の芽も摘んでおかなければなりませぬからな」
「ですが、貴方のその物言いは」
「もう結構ですぞ。魔物共の善悪を確かめたいという貴女のたっての願いは既に聞き届けた筈。これ以上貴女の出番はありませんな」
悔しげに口を噤むパラミスと言う司祭の様子と、不安と心配の二色の視線で私とセリナ達を見つめるレティシャさんの様子から、私は大体の所を察した。
おそらくレティシャさんから村に現れた魔物と神託の件を知らされたパラミス司祭は、可愛い弟子の成長を確かめる為にいつかはベルン村を訪れるつもりだったのだろう。
その矢先にゴーダのベルン村視察の事を耳にし、雲行きが怪しいと考えて同行を申し出たと言ったところか。
セリナ達を邪悪な魔物と断じて処理しかねないゴーダを牽制する為に、レティシャさんが受けた神託と、実際にゴーダの目の前でマイラールに審判の奇跡でセリナの善悪を問い、邪悪にあらずという答えを得てゴーダの凶行を止めたのだろう。
審判の結果が邪悪と出ればいまのこの光景も変わっていただろうが、セリナが断じて邪悪な魔物でない事は私が何より知っているし、ましてやマイラールがその様な判断を下すわけもない。
ゴーダはつまらなさそうにセリナを見つめた。
「まあそこまで言われるのでしたなら、これ以上問い質しはしますまい。だがその魔物の分も税は納めて貰うぞ、村長?」
「はい。それは間違いなくお納めいたします。ゴーダ様」
硬い声音で答える村長の杖を握る手が白く変わるほど力が込められて、震えているのを私は見逃さなかった。
改めてセリナを受け入れてくれる判断をし、いままたこの上ない侮辱の言葉に怒りを抱いてくれている村長に、私は心の中で深く頭を下げる。これから先、一生村長に頭は上がるまい。
一方で私はゴーダの言葉の数々に血が上っていた頭を冷やしていた。
募った怒りがある一定の量を越えると、それ以上の感情の激発を抑える為に精神は却って落ち着く様に出来ているらしい。
「さて、魔物は偉大なるマイラールの思し召しもある故、王国の法に反さぬ限りにおいてはわしが目溢しをしてやるとしよう。
慈悲深き陛下ならば国民の権利である税さえ納めるなら、魔物とて受け入れてくださろうからな。
だが捨て置けぬ話はまだある。近頃エンテの森に住む亜人やエルフ達がこの村に顔を見せていると聞く。
そしてエンテの森の品々がこの村を経由してガロアに入り込んでいるともな。王国は民が富を蓄える権利を保障しておる。
だが開拓期にも積極的な交流の無かったエンテの森の民達との接触を、正式にガロア総督府の認可を待たず図った事は看過しがたい越権行為だ」
「お言葉ですが管理官様、その件に関しましてはガロア魔法学院学院長オリヴィエ殿より、総督府に報告があった筈です」
ゴーダはぴくりと眉を動かして、気に入らぬ様子で私の顔をまじまじと見つめる。
「確かにな。オリヴィエ殿はエンテの森の出自ゆえかの方から報告があった。だがベルン村からもまた仔細に報告があって然るべきであろう。
少なくともわしがわざわざ足を運ばねばならなくなる前にな。
さて、ドラン、わしの耳にした所、お前がエンテの森の民達と交流を持つきっかけとなったそうだな」
「はい。その通りです」
「いかなる意図を持って森の民達と接触を図った? 総督府の目を謀り王国へ納めるべき税を秘匿し、他の民達が額に汗を流す横で己らの私腹を肥やす為か?」
「決してそのような意図あっての事ではありません。
オリヴィエ殿からの報告を確かめていただければ全て分かる事ですが、エンテの森に起きた火急の事態に微力ながら助力し、その事に恩義を感じてくれたエンテの森の方々と互いの為に交流を持っただけの事です。
管理官様が言われるような恐ろしい事を考えてなどおりません。無論、彼らとの交流の中で得る事の出来た富に関しても、王国の定めた厳正なる法に則り、納めるべき税をお納めいたします」
「農民の分際で随分と賢し気な物言いをする。かつてこの地はアルマディア侯御自ら陣頭に立ち、切り開いた土地故王家からも格別のご配慮があった。
だがその特権に胡坐をかき、畏れ多くも王国を謀る様な動きがあるのならばそれを見逃す事は出来ぬ。
果たしてお前が口にした通り、この村の者達に後ろ暗い考えがないなどとどうやって証明するのだ?
ラミアなどという恐ろしい魔物を引き入れ、これまで縁の無かったエンテの森の民らと結託し、辺境の地である事を隠れ蓑に悪しき考えを抱いていないなどと」
ゴーダの言葉に、槍に囲まれたセリナが悔しげに顔を俯かせ、きゅっと拳を握りしめるのが見えた。
ぎちぎちと理性の蓋が軋む音を立て、押し込めている怒りの感情が爆発しそうになる。
感情が表に出ぬよう必死に抑え込みながら、私はゴーダに反論した。
「あまりにお言葉が過ぎます、管理官様。彼女は確かにラミアではありますが、この村に来てから誠心誠意村の皆と共によく働いてくれています。
ましてやパラミス司祭様が行ってくださった奇跡により、偉大なるマイラールの審判においても善なる者と保証されたのではありませんか。
また加えてこの村の者達に国の父たる王家に逆らおうなどと、口にするにも恐ろしい事を考える者は居りません。ただ一日一日を懸命に生きているだけなのです。
どうかそのようなお言葉を口になさらないでください」
「なんだ、結局証明など出来ぬと言う告白か。いくら言葉を重ねた所で一体どれだけの信頼をお前の言葉などに置く事が出来るというのだ。
つまらぬ言葉を重ねる位ならば、いっそその通りだと己らの非を詫びたほうが潔いわ!」
私の言動は余計にゴーダの怒りを買うだけに終わり、酒精が頭の隅々にまで行き渡り赤ら顔になったゴーダは、空の杯を私の顔面目がけて思いきり投げつけてきた。
周囲の人々がゴーダの行いにあっという顔を作る中、私は避けようと思えば避けられる杯を敢えてそのまま受けることにした。
これで少しでもゴーダの留飲が下がればよし、避けるか受け止めるかしても余計にゴーダの苛立ちを募らせるだけなのだから。
だが私の額のあたりに当たる筈だった杯は、私の左から伸びてきた繊手に掴み止められて当たる事は無かった。
「クリスティーナさん」
先ほどまで姿の見えなかったクリスティーナさんが、咄嗟に杯を掴み止めてくれたのだ。
愛剣エルスパーダを腰に佩いた私服姿のクリスティーナさんは、杯を掴み止めた右手をゆっくりと降ろしながら、私を振り返った。
「あえて避けるつもりは無かったようだが、友人が傷つく所を見過ごす事は出来なかった。君からしたら余計な真似かもしれないが、許してくれ」
「いや、私の為にしてくれた事ならば、私から言う事はお礼の言葉だけだよ。ありがとう」
「ん、そうか」
ほんの少し嬉しそうに笑むと、クリスティーナさんは表情を引き締めてゴーダを睨むように見た。
人間離れした美貌の主であるだけに、クリスティーナさんが敵意を持って睨みつければ、そこには人ならぬ者の如き迫力と威圧感が生まれる。
ゴーダの顔色は見る間に風に晒されたしゃれこうべを思わせる色へと変わった。
顔色が変わっただけではない。ゴーダの瞳に、突如現れた闖入者に対する警戒や不快、恐怖の念が浮かぶよりも早く、なぜここに、という疑問が浮かび上がるのが見て取れた。
「ゴーダ管理官殿、私はガロア魔法学院に籍を置くクリスティーナと申します」
「クリスティーナ? 魔法学院の生徒、それにその銀髪赤眼……となれば、よもや噂の?
どうしてここに、いや、そうかその血筋ならばこの村を訪れる事もおありか」
どうやら初対面の相手同士らしいが、ゴーダの方が一方的にクリスティーナさんの事を知っているらしい。
このゴーダの反応から察するにクリスティーナさんは貴族の中でも、特にガロア近隣に力のある家の出身なのか。
それに如何に貴族の子弟とはいえ王国の役人に対し、こうまで威圧的な態度に出られる事を考えれば、あながち間違った考えではなさそうだ。
「いま着いたばかりですから詳しい経緯までは存じ上げませんが、なにやら管理官殿はドランに、ひいてはこのベルン村に疑惑を抱いておられる様子」
「う、うむ。オリヴィエ学院長殿より報せがあったとはいえ、エンテの森の民達と交流を持つなどこれまで無かった事。その仔細なる所を確認する必要がありますのでな」
「仰る事はごもっとも。しかしながら私の見た所、厳正なる調査を成されるよりも前に管理官殿の私見のみで疑いを掛けておられる様子。
私は所詮学生の身分でありますが、民を治める身分にある者のはしくれとして、管理官殿の御振る舞いはいささか見過ごせぬものがございます」
「クリスティーナ殿、如何に貴女といえどもわしは国王陛下より職務を預かりそれを遂行する責任を持つ身。
御自分の言われたとおり、学生に過ぎぬ貴女が要らぬ口を差し挟まぬ事こそが賢明ですぞ。
気の進まぬ事ではありますが、御父君にこの場で起きた事をご報告差し上げねばならなくなります。それは貴女の立場を考えれば好もしくはありますまい」
一瞬、クリスティーナさんが息を飲んだ。家族と折り合いが悪いのか? それが出会った当初のクリスティーナさんの心を陰鬱の霧に飲み込んでいた理由か?
クリスティーナさんは少しだけ長く呼吸をし、それで迷いを振り払ったようだった。
「お好きなように。管理官殿、ドランとこの村の方々の潔白は私が保証します。
この村に滞在している間、私がこの目で見てきたここの人々は、管理官殿が言われるような事を考えた事もないような方々ばかりです。
セリナ……ラミアの少女がこの村に住む事も、エンテの森の民達と交流を持つ事もこの村ばかりでなく、大きな視野を持って見ればガロアにとっても有益な事の筈。貴方とてそれはお分かりなのではないですか」
「魔法学院の学生にしか過ぎぬ貴女がどう言葉を重ねた所で……と言いたい所ですが、他ならぬ貴女であるが故に、その言葉を無視する事は致しかねますな。
貴女は本当に分かっておいでなのか? 貴女ご自身の立場と責務と影響を。今ならまだ貴女が口にした言葉を聞かなかった事にも、御父君にお知らせせずに済ます事も出来ますぞ」
「二言はありません」
きっぱりとわずかな迷いも感じさせずにクリスティーナさんは答えた。ゴーダはしばしクリスティーナさんの美貌を見つめ、それから疲れた溜息を零した。
そこには既に自分からは失われた若さや活力、あるいは清廉な心など様々なものを持ち続けるクリスティーナさんへの羨望が混じっている様に私には聞こえた。
「ご立派な御覚悟ですな。ですがそのような生き方を続けては、直に貴女は破滅を迎えるでしょう。貴女のお立場に対し貴女のご気性は余りに清廉潔白に過ぎる。
個人として好もしく感じられはしても、それが通用する世界に貴女は身を置いてはいないのだから」
「私は天に召された母に恥じる事の無いよう生きているだけです」
「死者は喜びもしなければ励ましてもくれませぬ、ましてや慰めなど。ただ置いて行った者の胸に空虚な穴を穿つばかり」
ふむ? ふと零されたゴーダの言葉には、皮肉や虚言とは言い切れぬ実感が伴っていた。
生きることさえ鬱屈に感じられるほどの虚しさ、寂しさのような感情。クリスティーナさんばかりでなく、この男にもなにかしらの事情があるのだろうか。
「それでも、私は私の心の中に生きる母から顔を背けるような事は出来ないのですよ」
迷わぬクリスティーナさんの言葉に、今度こそゴーダの心が折れる音が聞こえた気がした。
「そうですか。そこまで言われるのならば、よろしい。貴女に免じてこれ以上追及する事は致しますまい。しかしゆめゆめ忘れてはなりませんぞ。
この村がガロアや王国にとって不利益となる事を起こしたなら、その時は貴女がその責任を問われる事となるのです。いつの日か、貴女は今日の出来事を後悔するかもしれませぬ」
「自分の意思ですべきと思った事をしたまでです」
「その強さが羨ましく感じられますな。さて今日の所は引き返すといたしましょう。おい、急ぎ帰る支度をせよ。もうこの村に用は無い」
ひどく疲れ切ったゴーダの言葉に、従士の少年やケンタウロスの女騎士、それに兵士達は少し驚いた顔を浮かべてから、行動に移った。
クリスティーナさんとの問答でゴーダの気が変わった事はありがたいが、共にやって来た彼らからすれば気紛れとも思えるゴーダの気の変わりようについて行くのは、それなりに苦労があるのだろう。
ゴーダはさっさと馬車に乗り込み、兵士達は女騎士の指示に従って隊列を組んで行く。
その様を眺めていると従士の少年がこちらにやってきて、クリスティーナさんが手に持っていたままだった杯を受け取るや、おもむろに私に対して小さく頭を下げた。
「ゴーダ様が本当に申し訳ない事を。主人に変わって謝罪します」
マルコとそう年の変わらぬように見える少年は、心からと分かる声音と態度で謝罪の言葉を口にする。
身分と立場を考えれば到底あり得る事ではなく、私はいささか面食らったまま少年からの謝罪を受け入れた。
「いえ、管理官様の言われる事には一理ありました。お疑いになるのも無理はありません」
「そうだとしてもあの御振る舞いは度が過ぎたものでした。君と村の方々には申し訳ない事を。それにクリスティーナ様、貴女様にもとんだ御無礼を。どうかお許しください」
「いや、私もドラン同様気にはしていないよ。学生に過ぎない私が身の程を弁えぬ事を口にしたのは事実だ」
「申し訳ございません。御父君の耳に今回の事が届かぬよう、私がなんとしても主人に働きかけますのでどうかご安心を」
「ん、そうして頂けると正直助かるかな。自分のした事を後悔はしていないが、先の事を思うと少しばかり気が滅入っていたものでね」
はい、と少年は返事をして出立の用意を整えつつある馬車へと戻っていた。馬車に乗り込む寸前、再びこちらを振り向いて深く頭を下げて行った。
嵐の如くやって来た管理官一行が去ると、兵士に囲まれて動けずにいたセリナが真っ先に這い寄ってきて、私を力づくよく抱きしめてくる。
「おっと、こらこら、セリナ。抱きつくのは良いが不意を突くのは止めなさい」
「だって、私の所為でドランさんや村の皆さんにご迷惑をかけて。それにドランさんが矢面に立たされて、杯だって投げられたじゃないですか。
クリスティーナさんが受け止めてくれたから良かったですけれど、当たっていたら血が出てもおかしくありませんでした」
ぐすぐすとセリナの啜り泣く声と離れたくないとばかりに抱き締めてくるぬくもりに、私はささくれだった心が癒されて、幼子をあやす様にセリナの背中に手を回し頭を撫でた。
「よしよし。私はもちろん村の皆がセリナが良い子である事を知っているよ。今回のような事があっても嫌いになどなりはしないさ。だからもう怯えなくていい。槍を突きつけられて怖かっただろう」
セリナは私の首筋に顔を埋めた小さく左右に顔を振った。
「確かに怖かったですけれど、それ以上にドランさんが傷つく方がずっとずっと怖かったです。本当に、本当に無事でよかった」
「そうか、私の心配をしてくれたのか。ありがとう、セリナ。それにクリスティーナさんも。お陰でずいぶん助かりました。ですが良かったのですか? どうやらかなり不味い事になりそうな気がしますが」
セリナの頭と髪を撫でる手は休めず、私がクリスティーナさんに水を向けると、クリスティーナさんはおどけた調子で両肩を竦めて見せた。
この方にしてはずいぶんと砕けた仕草だが、それもまた人間とは思えぬ美貌に不思議と似合っている。
「なあに、なんとかなるさ。これまで何度か人生に行き詰まった事はあったけれど、何時だってなんとかなったし、なんとかしてきたからね。今回のことだって大丈夫だよ」
どうやら私達が余計な気を回さない様に意図的に明るく振る舞ってくれているらしい。ならばその事に気づかないふりをするのが、クリスティーナさんの善意に報いる方法だろう。
「そうですか。そうならば良いのですが、なにしろ私達が原因の事ですからね。なにか力になれる事があったら何でも言って下さい。今回の事でクリスティーナさんは私の恩人になったのですから」
「恩人か。むしろ私の方が君やこの村の人達には恩を感じているくらいだけれどな」
小さく呟かれたクリスティーナさんの言葉の真意を測りかねていると、杖を突きながら村長が私達の方へ歩み寄って来て、クリスティーナさんへ深々と頭を下げた。
「申し訳ございません、クリスティーナ様。我が村の事で貴女様のお手を煩わせる事となってしまいました。貴女のお爺様に何とお詫びすればよいやら」
「顔を上げてください。私の意思でした事です。祖父も笑って許してくれるでしょう。それよりも村長殿、ドランとセリナの事ですが」
「おお、その事でしたらご心配めさるな。二人とも私にとっては孫と孫娘同然。村の者は皆家族でしてな。悪い事をしたわけでもない家族を叱る理不尽は致しませぬ」
「そうですか、それが聞けて安心しました。私の大事な友人に咎めがあっては夜も眠れません」
「ほっほ、ドランとセリナとは随分と馬があったようですな。しかし、ゴーダ様も以前はあのような方ではなかったのですが」
「村長は昔の管理官様の事を?」
セリナをあやし続けている私が村長に問うと、村長はやるせなさそうに首を縦に振る。
以前からあの管理官がこの村の担当ならば村長と面識があるのは当たり前の話だが、村長の口ぶりからは、あの管理官がまるで別人のようになってしまったと言う様な響きがあるように聞こえた。
「お前さんが産まれるより前は、この村に随分と心を砕いて下さった方でのう。
まだ北部の開拓が行われていた頃から随分と助けて下さったのだが、幼い御子息を流行り病で無くし、相次いで奥方様を失くされてからはすっかり塞ぎこまれ、あのように酒に溺れるようになってしまったのじゃよ。
おまけに御子息が亡くなられた時、あの方はこの村に来ていて死に目に遭う事が出来なかったのじゃ。
その事を大変お悔やみになられ、奥方様が亡くなられてからはこの村にとんと関心を見せぬように振る舞われるようになったのじゃ。
今日のように村に来る事も数年に一度あるかどうかじゃからな。おそらくこの村に来ると御子息が亡くなられた時の事を思い出してしまうのじゃろう」
なるほど、な。北部の開拓に心を砕き熱を入れていた間に子の死に目に遭えず、奥方までも相次いで失ったとは。
あの瞳の濁りは立て続けに襲って来た悲劇に心が耐えきれなかったが故に、募り積もった濁りだったと言う事か。
思いがけぬゴーダの事情を知らされて、クリスティーナさんも私もセリナも口にする言葉は無かった。
その日の夜の事。管理官の突然の訪問と退去にてんやわんやした一日ではあったが、夜も更けて月が空に輝く時刻になれば、流石に静寂を取り戻し、私は村の皆から慰めと励ましの言葉を受けてから床に就いた。
一旦は怒りの静まった私ではあったがいまだ心の奥では怒りの感情が燻り続け、また村長から聞かされたゴーダの身の上話への憐みもあって、容易には言葉にし難い精神状態に陥っていた。
ゴーダに鉄槌を下すべしと主張する私と憐みから許してやれと主張する私。相反する両者が心の中で声を上げ続け、私はどちらにも判断を下せぬまま夜になっていた。
「ふむ、このままでは眠れそうにないな。どちらにせよ一度ゴーダの顔を見てから決めてみるか」
今一度あの憎たらしくも哀れな管理官の顔を見れば、私の決意定まらぬ心も定まるのではないか、そう考えた私は竜の分身体を作る要領で意識を肉体から離脱させ、ガロアに居を構えるゴーダの元へと跳ばす事にした。
昼間の出来ごとで憶えたゴーダの魂の気配を目印に、意識をそのすぐ傍に飛ばせば掛る時間は皆無に等しい。
寝台の上に横たわる意識の無い肉体を見下ろしていた私の意識は、ゴーダの魂の気配を認識した次の瞬間にはその頭上へと跳んでいた。
一瞬で風景を変わった世界を確かめるべく、私は意識を周囲全てに巡らせる。既に私の意識はベルン村からゴーダの居室の中へと移動を終えていた。
それなりに広いゴーダの部屋には空になった酒瓶がいくつも転がり、中にはまだ中身が残されたまま転がっているものも多い。
ゴーダ自身は広いベッドの上に寝転がり、悪夢に魘されているのか脂汗を滴らせて苦しげな顔を浮かべている。
酒瓶が転がっている他は特に荒れ果てた様子もない居室であったが、開かれたカーテンから差し込む月光が、私とゴーダ以外の人影を照らし出していた。
それは月光を透いて浮かび上がる二十代半ばほどの婦人の霊であった。
茶色い髪を結いあげ、儚げな顔立ちには悲しみの色が濃く、一層儚げな雰囲気を印象深いものにしている。
婦人が纏う緩やかなガウンは、生を失ったその時に纏っていた品だろう。こけた頬や隈のある目元を見るに、病の末に生を終えたのであろう。
私は村長から聞かされていた話から、この婦人の霊がゴーダの無くなった奥方に違いあるまいと察した。
通常、生物が死んだ時は冥界からの使いである死神が死者の魂を冥界に運ぶが、強い未練や霊的な制約によって霊魂がそのまま地上に残る事がある。
この場合は夫を残して逝く事への悔恨が、婦人の霊を現世に留めているのだろうか。
婦人は突如姿を表した私の意識に気付き、悲しみばかりの表情に驚きと恐怖を浮かび上がらせた。
今の私は人間ではなくカラヴィスと出会った夢の世界の時と同様、生前の竜の姿を取っている。
物体に左右されぬ意識の状態だから、ゴーダの居室から大部分がはみ出した間抜けと言えば間抜けな姿なのだが、竜を前にすれば生者であれ死者であれ平静ではいられない。
婦人はその場から一歩も動けなくなって、私に見開いた目を向けている。
「貴女がゴーダ管理官の細君か?」
これ以上怯えさてはなるまいと、私は務めて穏やかな声音で婦人の霊に問いかけた。
「あ、貴方は主人となにか関わりのある方なのですか?」
生きている間も死んでからも遭遇するとは夢にも思わなかったであろう竜を相手に、婦人は主人の名が出た事から勇敢にも言葉を交わす決断をした。
「ベルン村の事でいささか」
「ずっと主人が管理を任されていた村の事ですね。なぜ竜である貴方がかの村と関わりがあるのか不思議ではありますが、ですがベルン村と縁のある方ならば主人をお恨みの事でしょう」
「恨みとまでは言わぬが、憤慨が半分ほどは。どうしてくれようかと迷い、本人の顔を見れば決意が定まるかと思って来たが、よもや亡くなった細君がいまだこの世に留まり続けているとは思いもしなかった」
「ここは最後に私と主人が別れを告げた場所なのです。私は子を失くし、私自身もまた死に運命を委ねる事で一人になる主人の身を案じ続け、その結果こうしてこの場所に留まり続けているのです」
「地縛霊か。ならばこれまでゴーダ管理官の姿を?」
「見守ることしかできなかったのです。子供と私を失った主人は生きる希望を失い、酒毒に溺れて只日々を生きるだけの無気力な人間になってしまいました。
これまで仕事に情熱を燃やし一人でも多くの民により良い暮らしをと切に願っていた主人が、今のような姿に堕ちてゆくのを見守ることしか……」
この場に縛られた霊であるが故に、聖職者に見つかる事もなく魂が天冥に召される事もなかったのだろう。
「全ては私が悪いのです。子が死した時、主人を必要以上に責め苛んでしまった。その事で主人は己を責め続け、さらには私までが先に死んでしまった。
その事で今度はベルン村の方々にまで累が及んだのでしょう? この部屋に戻って来てから、主人は今日の己の振る舞いを悔み、嫌悪し、酒に逃げて自らを苛むばかり。
おお、私が、私があの時、主人を責める事をしなかったら! 私が主人を一人残してしまわなかったら、こんな事には!!」
病に侵されてやせ細ったままの手で顔を覆い、咽び泣く婦人の姿を見ているうちに私の心に著しい変化が訪れていた。
参ったな、このような姿を見せられてはゴーダに怒りの感情をぶつけることなどできそうにない。ゴーダの顔を見て決めようなどと、思わぬ方が良かったのか思って良かったのか。
これから私のしようとする事を知ったら、またカラヴィスや竜界の兄弟達に甘い奴めと笑われる事だろう。特にカラヴィスとアレキサンダーには。
「ご婦人、私は正直に言えばゴーダ管理官に鉄槌を下さんという考えがあった」
「それは、それはどうか、どうかお許しを。主人の無礼は私がいかようにもお詫びします。すでに死せるこの身ではありますが、お怒りをお沈めくださるのなら千に引き裂いて下さっても構いません」
「はやとちりなさるな。私はどうにも情に絆されやすい性格をしていて、一度死んだにも関わらず、いやむしろ一層絆され易くなったようだ。
ご婦人、私の力で一度だけゴーダ管理官と話が出来る様にして差し上げる。その時に貴女の想いを全てご主人に伝えると良い」
「そ、それは願ってもない事でございます。しかしなぜそのようなご温情を私と主人に賜ってくださるのですか?
竜である貴方がベルン村と関わりがあると言うのも私には理解できぬ事ですが、貴方のお怒りを買う振る舞いをしたらしい主人を憐れみ下さる事も、私には分かりません」
「さて、な。一人残されたご主人や残してしまった貴女の気持ちが分かると言うわけでもない。強いて言えば――」
父母が悲しみに嘆く姿を知った子供の気持ちが分かるから、だろうか。それは私が人間に生まれ変わった事で、初めて親を得たからこそ理解の及ぶ事だった。
どちらにせよ私自身どうしてここまで肩入れをするのか、正確には分かりかねると言うのが一番正直なところだった。
私は上手く言葉に出来ないもどかしさを噛み締めながら、婦人の霊に左手を向ける。
「今からご婦人をゴーダ管理官の夢の中へと送り届ける。何を話すのか、伝えるのかは御自分でお決めなさい。お互いに心行くまで話せたなら、自然とご婦人は在るべき場所へと導かれる事だろう」
白い光に包まれて徐々に婦人の霊は姿を消して行く。現世に縛られる繋がりを断つ代わりに、婦人の霊の繋がりをゴーダ管理官の夢の世界へと接続し直しているのだ。
「ああ、これまでただ主人の姿を見ることしかできなかったというのに、この様な僥倖に預かれるとは。竜様、貴方にはどれだけ感謝してもしきれません」
「礼の言葉は不要。早くご主人の所へ行かれるがよろしい」
「はい、はい! このご恩は百たび生まれ変わろうとも決して忘れません」
なにを大仰な、と私が思っている間に婦人の霊はその姿を消し、夢の世界でゴーダと再会したのが分かった。これから先はあの夫婦の問題だ。私が口出しすべき事ではない。
まったくゴーダに怒りをぶつけるか抑え切るか決める為に来た筈が、とんだ事態に流転したものだ。
もう私の中にゴーダに対する怒りは無く、私は疲れた、しかしどこか満足げな溜息を吐いて、意識を寝台の上に横たわる肉体に戻してそのままさっさと寝ることにした。
それからゴーダ管理官が職を辞し、隠居して妻子の冥福を祈る日々を過ごす事になったと言う報せが届いたのは、二日後の事だった。
合わせて私達へ私的な謝罪の文書が届き、突然の事態にセリナは随分と驚いた顔をしていた。
婦人とゴーダが夢の中で何を語りあい、伝えあったのかは私も知らぬ所ではあるが、きっと良い結果を迎える事が出来たのだと、私は根拠もなくそう確信していた。
きっと婦人の霊は今頃冥界にある天国で子供の霊と再会している事だろう。冥界を管理する神々は罪の無い死者には優しいのだから。
そして今回のゴーダ管理官の来訪に端を発した事態は、これまで漠然とこの村で一生を終えようと思っていた私の考えに転機を齎す事になった。
治める者の心得如何で私達、治められる者の暮らしは左右されて、時には納得しがたき理不尽を押し付けられる事もあると言う事が、今回の事でよく分かった。
ならば、今後その理不尽を押し付けられない為には、どうすれば良い?
この問いの解答の一つは、自らが治める側の人間になる事。私は人間に生まれ変わってから初めて、畑を耕し家族と共に過ごす村の暮らしを捨てる考えを抱いたのだった。
<続>
ふとドランがヒロインを攻略するのではなく、ヒロインがドランを攻略する感じになっているな、と書いていて思いました。皆様はいかが思われますか?

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