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さようなら竜生、こんにちは人生 作者:スペ / 永島 ひろあき

第十八話 水龍皇

さようなら竜生 こんにちは人生

第十八話 水龍皇


 ベルン村よりやや北方、いつも私がヴァジェと顔を合わせる空域よりも南の空の上で、私は鮮やかな青い鱗に覆われた体に、かすかな潮の香りを漂わせる水龍の瑠禹と対面している。
 足元には大地と空とを遮る広大な白い雲が海の如く広がり、私は太陽の光を満身に受けながら、瑠禹の主である水龍皇の龍吉からの招きに応じる答えを瑠禹に告げた。

 果たして瑠禹に話を聞かされた龍吉がどのような返答をしたものか、細かい所までは分からぬが、緊張に身を強張らせている様子の瑠禹を見れば、私に礼を失せぬように位は言ったのかもしれない。
 風の精霊力を受けて浮力を得て、大地の精霊力に感触して重力を無効化して空中に浮いたまま瑠禹と顔を合わせて話をしている間、私はふと思いついたことがあった。

「時に瑠禹や、龍宮城だったか? そこに連れて行きたい者がおるのだが、その程度の融通は利くかね?」

「ドラン様以外の方をでございますか。ええ、そう数が多くないのでしたら特に問題はないかと思います。
ただあくまで公主様の私的なお客様と言う事ですので、城の者達総出での歓迎と言うのは少々難しく、その点はなにとぞご了承くださいませ」

「なに、どこの馬の骨ともしれぬ竜に過ぎぬ身なれば、それでもなお身に余る光栄。分は弁えておるつもりだ。
 さてもう少し北上すれば向こうから勝手に私達の方にやってくるだろう」

 瑠禹は私の言葉から私の招きたい者が誰なのか察しがついた様で、あ、と一言漏らして私におずおずと問うてくる。

「ひょっとしてドラン様が招きたいというのは、以前お伺いした山脈に棲む深紅竜の方でございますでしょうか」

「うむ。ヴァジェという女竜めりゅうなのだがどうにも跳ねっ返りが過ぎる性格をしておってな。
 世界の広さと言うものを教えれば少しは大人しゅうなるだろう。
 龍吉殿のせっかくのご招待を利用する様な形で申し訳ないが、これも私なりの親心のようなもの。どうかお許し願いたい」

「公主様は御心の広い方ですから、よほど無作法な方でなければ大丈夫でございますよ。
 ですが深紅竜の方にとって、海中にある龍宮城は決して居心地の良い空間とは言えません。体調を崩される心配がありますが……」

 火竜の上位種である深紅竜のヴァジェの事、周囲を全て海水に囲まれた海中では確かに居心地の良い環境ではあるまい。
 だが竜語魔法には周囲の環境を自身に最適なものに変えるか、逆に周囲の環境に自身の属性を変化させるものもある。

 まだ若い成竜であるヴァジェが修得しているかはちと怪しい所だが、なんとなれば私がヴァジェに竜語魔法を施せばよい。
 そういえば格闘術やブレスの効果的な撃ち分けなど、戦闘の事ばかりを叩き込んでいて、竜語魔法についてはさほどヴァジェに教授してはいなかったか。
 良い機会だから今後は竜語魔法についても面倒をみる事にしよう。

「なに長居するわけでもない。その程度で体調を崩すほど可愛らしい女竜ではないさ、アレはな」

「ドラン様がそう言われるのでしたなら、わたくしが申し上げる事は御座いません。
 ところでそのヴァジェ様は、龍宮城の件は既に御承知の上なのでしょうか?」

「いや、これから言って聞かせる。典型的な火竜だから最終的には力で解決する傾向にある。
 逆に言えば自分より強い相手には従うのでな。言う事を利かせるのは簡単だ」

「まあ、ドラン様はお優しい方と思っておりましたが、意外と強引な所もおありなのですね」

 言葉通りに意外だという響きを交えて言う瑠禹の顔には、言葉ほどには意外そうではなく、青い鱗に覆われた顔もさして失望したような色はない。
私は悪戯を見つかった子供の様な気持ちで肩を竦めて問い返した。

「失望したかね」

「いいえ、殿方はそれ位の気骨がございませんと」

「ふむ、瑠禹は良い嫁御になりそうだな」

 私が思った事を正直に述べただけだが、瑠禹はこの様に飾らない称賛を受けた事があまりないのか、恥ずかし気に長い胴をくねらせる。
 セリナも照れた時はよく下半身の蛇体をくねらせるが、鱗を持つ者共通の感情表現なのかもしれない。

「おやめ下さいませ。わたくしめにはまだ早い話でございます」

「そうかね? 瑠禹を妻にと望む話はいくらでもありそうなものだがな。さて、そろそろヴァジェの奴を呼んでくるか。
 しかし、あれの気性ではまず間違いなくごねるだろうな」

 あまりにも簡単に烈火のごとく私に悪罵の文言を叩きつけてくるのが想像できて、私は胸中でこっそりと笑みを零した。
 ヴァジェは本当に分かりやすい娘で、どうにも本当に父親か祖父の様な気持ちに私はなってしまうのである。
 瑠禹を伴い白雲の上を飛んだ私達が目的である深紅色の鱗を持った女竜と遭遇するのには、いつもと変わらぬ手順で済んだ。

 方法は至って簡単でヴァジェの縄張りの中を適当に飛ぶだけだ。
 私が知る限り最も簡単な狩りの方法とたいして変わらない。ヴァジェが成竜である事を除けば、これほど簡単に獲物をおびき寄せられる狩りもあるまい。
 私と瑠禹がしばし北上してからその場に留まり、待ち受けているとすっかり慣れ親しんだ深紅竜の魔力と気配、匂いが私の知覚に触れる。瑠禹も、私に遅れて気付いた様である。

 ふむ、近づいてくる速度に感じ取れる魔力から、ヴァジェが今日も健康そのものである事が分かる。
 老竜へと至る脱皮の時期を迎えるまでまだ数十年か百年近い時間は掛るかもしれんが、この健康具合なら思ったより早く老竜へと至るかもしれん。
 以前南下して人間の村を襲わない様に、とヴァジェに言い聞かせた事があるが、ヴァジェは基本的にモレス山脈の動物か、北西の方角にある魔物の集落を襲って腹を満たしているらしく、人間は小賢しい上に肉の量が少ないという理由から滅多には襲わないらしい。

 一度か二度は食った事はあるようだが、過去の事を叱責しても仕方がない。私としてはベルン村と周辺地域に被害が及ばなければ、そう口を酸っぱくするつもりもない。
 最寄りのワイバーン乗り達の集落にも手を出していないようだし、ヴァジェによる人間への襲撃に関しては、あまり心配しなくていいだろう。

 これまでとは違い私の傍らに瑠禹が居る為にか、接近中のヴァジェが先制のブレスを吐いてくる事もなく、ヴァジェは下方から白い雲海を突き破り、千々に千切れて霧の様に変わった雲を纏いながら、私と距離を置いて翼を羽ばたかせて滞空する。
 ヴァジェの鱗と同じ色の瞳は、私の左方に居る瑠禹へと向けられて、属性の相反する水龍の存在に不愉快そうな色を一瞬浮かべた。
 瑠禹の方からもヴァジェが姿を見せたことで纏う雰囲気に、緊張感が増している事がひしひしと感じられる。

 ヴァジェの方はともかく瑠禹の反応はいささか予想外であった。いや、龍吉に仕える家系と言っていた通りなら、周囲には自身と同じ水属の龍しかいなかったのだろう。
 であれば火属の竜を見るのは初めての事かもしれない。それで多少は緊張しているのだろうか。

「白いの、その青い龍を連れて如何なる用向きか?」

 いつでもブレスを撃てるように咽喉元に火属性の魔力を蓄えたまま、ヴァジェは射抜くように鋭い視線と言葉で私に問いかける。相も変わらず刺々しい言動の娘よ。
 これは本当に番いを持たずに生涯を終えそうで、私はヴァジェの将来が本気で心配になった。

「ヴァジェよ、私とお前が初めて出会ってから幾度となくお前に色々な事を教えて来たつもりだ。
 その中でお前も私が教えた事を忠実に学ぶ姿勢を表には出さぬが、暗に示して私もお前に会いに来る甲斐というものを覚えている。
 しかしながらお前のその態度は相も変らぬ。それはそれでお前の個性かもしれんが、お前の将来が少なからず心配だ。
 なのでその鼻っ柱を折るなり凹ませるなりする為にも、お前に世界の広さと言うものを見せた方が良いと考えた」

「要らぬ世話を焼いてくるものだな。私が貴様の思い通りになるとでも思ったか? 世界の広さとは言うがそこな水龍一匹を連れてきてなんになる?
 お前と纏めて私の炎で焼いてくれるぞ。はん、親の膝下から離れた事もなさそうな小娘なぞ連れてきおって」

「なんて口の悪い方。ドラン様、わたくし、この方のことをあまり好きになれそうにありません」

 流石に瑠禹も侮蔑を隠さぬヴァジェの言葉には怒りを示した。
 ふむ、ヴァジェはさんざか自分を痛めつけた私だけにあのような態度を取るのかと思っていたのだが、私以外の龍を相手にも態度は変えないようだ。
 同じ年頃の女同士ならもう少し柔らかな態度を取るかと思ったが、これは裏目に出てしまったか。

 一方でヴァジェは瑠禹が私の名前を呼んだ事を聞き咎めた様で、瞼をピクリと震わせるや、全身から視覚化できるほどの深紅色の魔力が陽炎のように立ち上った。
 ヴァジェには私に傷を着ける事が出来たら名乗ると言っていたが、瑠禹には普通に教えていたからな。
 そこで互いの認識に食い違いがあるというか、とにかくヴァジェは私が瑠禹に名前を教えている事が気に食わないらしい。

「ほう、貴様はドランと言うのか。そうかそうか、ふん、ということはその水龍はお前に傷の一つも負わせたと言う事か。……面白い。どれほどのものか、私が確かめてやる」

「なにやら一方的に嫌われている様ですが、わたくしがなにかあの方の気に障る事をしましたでしょうか?」

「いや、実はヴァジェには私に傷をつけられた名前を教えてやると条件をつけていてね。ヴァジェはまだ私の名を知らぬのだ。
 であるのに瑠禹が私の名前を知っている事を、瑠禹が私に傷を着けられるほどに強いと解釈したのだろうが、すまぬ。余計な面倒に巻き込んだ」

「なるほど、その様な御事情がありましたか。ですが、わたくしも公主様にお仕えするものとして、侮られたままにしては公主様の沽券に関わります」

 何故だか瑠禹もヴァジェの戦意に応じる様に自身の魔力を高めており、周囲には大気中の水分を凝縮させた水球が無数に生じている。
 深紅竜のヴァジェと水龍の瑠禹とでは相性の面で言えば瑠禹の方が有利だ。
 だがヴァジェも私との模擬戦でずいぶんと戦い方を上達させている。

 魔力の同調と吸収に関してもまだ拙いが、それなりに扱えるようになっておりなかなか侮れないものを見せ始めている。
 この二体が激突すればその勝敗は私にもいま一つ読み切れない所がある。とはいえ、あまり呑気に構えて両者の戦闘能力の検証を行っている場合ではない。
 私は魔力を高めてお互いを睨みあう二体の間に体を割り込ませて、制止の言葉をかけた。

「止めぬか。ここでお前達が諍いを起こしても何も良い事はない。ヴァジェよ、私は今日瑠禹の主である龍吉より龍宮城へと招かれた。
 これはお前の見聞を広める良い機会と、お前を共に行かぬかと誘いに来たのだ。お前とて地上に残った数少ない古龍である龍吉の名は知っておろう。より高位の龍というものを一度見ておくと良い」

 流石にヴァジェも龍吉の名は知っているようで、私の口から出て来たその名前にわずかな驚きを覗かせて、口中の紅蓮の炎を鎮める。
 ヴァジェが再び口を開くまでの間には幾許かの間があり、どう応えて良いものかこの苛烈な性格の深紅竜にしても悩んだ様であった。

「……私が行く理由はあるまい。第一、水の中は好かぬ」

「そう言うな。はっきりと格が上の存在を知ればお前も少しは考え方を変える事もあろう。
 龍宮城は海の底ゆえ、お前にとっては慣れぬ環境であろうが竜語魔法を使えば良い。
 ふむ、ヴァジェよ、環境に適応するか、自分に環境を適応させる竜語魔法は使えるか?」

「……」

 竜なりにむすっとした顔にヴァジェが変わった事から、私は使えないのだと判断した。
 自分に適した環境に棲んでいれば使う必要に迫られぬ竜語魔法であるし、最近の若い竜達が修得していなくても仕方はなかろう。

「ならば私がお前の分も使えば問題あるまい。お前とて地上に残った龍族の中でも最強の一角に数えられる水竜皇龍吉殿を見てみたいとは思わぬか?
 せっかくの機会ぞ、これを逃せば龍皇に拝謁できる機会など千年か二千年は待たねば次は来ないだろう」

 ヴァジェは、うむ、と口ごもって随分と悩んでいる様だった。この深紅色の鱗をした女竜には珍しい様子を私はしげしげと観察した。
 瑠禹は黙ってヴァジェが決めるのを待っていたが、どことなくヴァジェを連れてゆくのを嫌そうな雰囲気を醸し出している。
 私から聞いていた話よりも実物のヴァジェの気性が荒々しいものであった事と、初対面から喧嘩を売られたのも同然だった事に、少なからず気分を害しておるのだろう。

「さて、如何する、ヴァジェよ」

「……よかろう。水龍皇龍吉様のご高名は私も耳にしている。直接拝謁する栄はなくとも、龍宮城とやらを一度見るだけでも良い経験にはなる」

「ふむ、よろしい。そう言うわけでな、瑠禹よ、私とヴァジェの二体、龍吉のお招きに預かろう。これから向かうとしてどれほど時間が掛るのだ?」

 どことなく機嫌が悪くなった様に見える瑠禹は、なぜだか淡々とした口調で私の質問に答えた。リシャを前にしている時のセリナに近い反応である。

「ドラン様の翼でしたなら、ここより南西の方角へ半日も飛べば龍宮城の上空へと到着いたします。
 そこからさらに海を潜り、龍宮城につくのに四半刻(約三十分)ほどかかりましょう」

 抑揚に乏しい声音で告げるや、瑠禹とヴァジェは互いに深紅と青の視線を交差させたかと思えば、つんと互いの顔を背け合った。
 なんともはや、一目顔を突き合わせて少しばかり言葉を交しただけで、互いの相性が悪いと心底から思いあっているらしい。
 女心は、人間であれ魔物であれ龍であれ、難しいものよ、と私は心中で嘆息せざるを得なかった。

 それから私達は渋々と言った様子を隠さぬヴァジェを交え、翼を並べてワイバーンや他の飛行魔獣の翼が届かぬ高空を飛んで行く事にした。
 道中で要らぬ戦いをするのはつまらぬ話であったし、生憎と私は腹が空かぬ分身体、ヴァジェも姿を見せる前に腹を満たしており、また瑠禹は地上の獣の肉は口にした事のない水棲の龍である。
 食料の調達を考えるならばロック鳥や飛行魔獣を道すがら食べる為に、もうすこし高度を下げる所だが、このように食事を必要としない状態だったので無意味な労力を避ける為に高度を取ったのである。

 所々雲海が途切れて眼下に広がる大地の様子がうかがえて、私がこれまで翼を伸ばさなかった王国の中央部や南部の光景が見える。
 延々と広がる大地の上に時々思い出したようにぽつりぽつりと人間の集落があり、人間国家の領内とはいえまだまだ人間の足が踏み言っていない場所の方が多かろう。
 時折石を積み上げた城壁に囲まれた大都市なども見受けられ、通り過ぎ去った都市のどれかは王都であったかもしれない。
 もっとも平凡な農民の子供として生まれ変わった私にとっては、ほとんど縁のない場所だ。
 精密に再現されたミニチュアの様な都市を見つめるだけに留めて、私は翼を止めることなく瑠禹の案内の元、龍宮城を目指して空を飛ぶ。

「そういえばヴァジェは元からモレス山脈のいずこかに棲んでおったのか? 父母もあそこにいるのか?」

 私と瑠禹からやや距離を置いた後方で翼を広げていたヴァジェは、首を振り返らせて問う私に詰まらん事を聞くとひとつ吐き捨ててから答える。そこまで露骨に面倒がらぬとも良かろうに。

「私はあの山脈よりも北の生まれだ。巣立ってから新たな住処を探して山脈に辿りついた。
 あそこは広大で環境も様々だ。私以外の竜もいるだろうが、精々老竜までだ。古竜はおらぬし、滅多な事で後れは取らん」

 ふむ、確かにモレス山脈には広大な湖がいくつか点在しているし、実際に水竜や地竜の類も少なからず棲息している。
 私が最初に接触したのがたまたまヴァジェだっただけなのだろう。
 ウェドロのような落ち着いた性格の竜が相手ならばともかく、血の気の多い若い竜の面倒をみるのはヴァジェだけで十分である、というのが今の所、私の正直な気持ちだった。

 モレス山脈の竜達の事を考えるのは今で無くとも良いか。私は意識を周囲の景色へと再度向け直す。
 人間に転生してからはベルン村とその周囲が世界の全てであった私にとって、瑠禹に連れられて遠出して見る地上の光景は、転生によってすっかりと摩耗していた感性に新鮮さを取り戻したいま、非常に心惹かれるものであった。
 時と状況が許すのなら翼を降ろして実際に見て回りたいものだが、竜が人里に姿を見せようものなら蜂の巣を突いたどころではない騒ぎになるのは火を見るよりも明らかである。

 それを理解する位の分別は私だって当然持ち合わせていたし、龍吉の待つ龍宮城への興味もまた山のように私の心の中にあったから、ついつい気持ちを逸らせて瑠禹を追い越しそうになるのを堪えなければならなかった。
 我ながら子供のようだと呆れるばかりである。まったく私を転生させようと考えた者にはいくら感謝してもしきれぬものだ。
 私がこのように弾んだ気持ちで日々を生きる事が出来るなど、いまもなお心のどこかで信じる事ができないほどなのだから。

 更に飛翔を続けて王国の港町から出ている帆船や、逆に寄港しようとしている船などを見物などしながら、青い海の上を私達は飛び続けた。
 かつては青い海原がまだ煮えたぎる溶岩の海でしかなった頃から見続けた私にとって、潮の香りがする風が吹く海はすでに飽きるほど見て来た筈であったが、不思議な事に改めて今見ると静かな感動が私の胸の中に広がってゆく。
 私の記憶の中にある海の風景と特に大きく変わる所はない。
 降り注ぐ太陽の光を浴びて煌めく広大な海面も、絶えず吹く風と潮の満ち引きで寄せては返す波も。

 なのに私の心は、初めて雄大な海を目の当たりにした少年の様な言葉にはできない感動がゆっくりと、岩に沁み入る水の様に広がっているのだ。
 ああ、空よ、大地よ、海よ、そして世界よ。お前はかくも美しかったのか。かくも雄大であったのか。
 私が一人感慨に耽っていると、先を行っていた瑠禹が進む事を止めて空中でその長い胴体をくねらせて、私とヴァジェを振り返る。

 どうやら、龍宮城の上空にまで到達したらしい。
 私の翼で半日の道行きであったから日は暮れ始めているものの、世界はまだ夕陽の色よりも青色が主だ。
 初めて目にする王国の中央部や南部を目にしていた為、時間はさしてきにならなかった。
 ここから更に海を潜って海底にある龍宮城を目指すわけだ。周囲に人間やその他の亜人種族の用いる船の影はない。

「これより海に潜ります。わたくしは問題ありませぬが、お二方は竜語魔法による肉体の保護をお忘れなく」

 私はこのままでも海底はおろか大気の層を突きぬけて太陽に突っ込んでも問題ないが、ヴァジェはそうも行かない。
 足元が島影一つ見えない海原に変わってからヴァジェはどうも落ち着かない様子を見せており、やはり深紅竜として視界を埋め尽くすほどの海が足元にあると気になってしまうようだ。

 これで海中に入ったらどうなることやら。
 私は気がそぞろになっているヴァジェに首を向け、喉の奥で小さく唸ってヴァジェの周囲の環境が深紅竜にとって最適なものに変わるように干渉した。
 ヴァジェの体の方を操作すれば後で要らぬ怒りを買うのは火を見るよりも明らかであるから、この様にしたのである。

「ほれ、これで不愉快さは消えただろう。今のお前なら海の底だろうが嵐の中であろうが、火山の火口のように居心地の良い場所と感じられるはずであろう」

 ヴァジェは少し驚いた顔をしたが口を噤んでそっぽを向くきり。礼の言葉の一つくらい口にしても罰は当たるまいに。ケチだな。

「深紅竜を相手に竜語魔法を一方的に掛ける。やはりドラン様は公主様がお気になさるだけの事はある方でございますね」

 瑠禹の感心しているらしい声に、私ははてと首を捻りそうになったが、つい先ほど自分のした事を省みて納得がいった。
 同じ成竜同士であるなら、上位種である深紅竜のヴァジェに対し、例え補助系統の竜語魔法であれ了承を得ずに一方的に掛ける事は難しい。

 ましてや普段から私に対して刺々しい態度を取り、敵意を抱いているヴァジェ相手では、まず抵抗されてしかるべきだ。
 それを私が一方的にヴァジェの意向を無視して竜語魔法をかけた事から、見た目通りの普通の白竜ではないと瑠禹は判断したのであろう。

「瑠禹の主殿には及ばん。これで私達の準備は整った。そろそろ龍宮城とやらを拝みに行こうではないか」

「はい。それと申し訳ございません。お伝えしていなかったのですが、龍宮城より公主様の迎えが参ります。
 迎えの者に乗って龍宮城まで御案内致します。ですから直接海の中を泳ぐ必要はございません。あ、話をすればなんとやら、迎えが参りました」

 なんだ、泳がずとも良いのか、と私が拍子抜けした矢先に瑠禹が眼下の海面を示し、つられた私とヴァジェが瞳を動かせば海の下から巨大な黒い影が急速に浮上し、海面を突き破って私達の目の前に姿を見せたではないか。
 まるで小さな山を目の前にしているかのように、成竜である私でも思わず圧力を感じるほど巨大な亀だ。
 その巨体も眼を惹くがなにより甲羅の中央に海中から現れたにもかかわらず、まるで濡れた様子のない一件の家屋が建っているのが特徴的である。

 上空から見下ろすと六角形の形をしていて、白い漆喰の壁に六本の朱塗りの柱で支え、屋根は王国では見られない、東方の瓦とかいうものを使っている。
 六角形の中央に向かって上弦の弧を描き、中央は黄金の尖塔のような形状をしていた。
 家屋を甲羅の上に乗せた大亀はというと四本の足は鰭の形状をしており、尻尾は長い白毛で口の辺りにも同じように白い髭が長々と伸びている。

 ある神が造りだした神獣の一種玄武を思わせるが、あれはたしか尻尾が蛇であったし色も黒かったから、この亀は玄武とは違う霊獣の一種であろう。
 龍宮城の送迎用の亀の大きさを前に、食い出がある、と農民の子供らしく食欲に直結した事を考えてしまったのは、私だけの秘密である。

「大きな亀だな。あの家屋の中で待てばよいのか? 巨人族でも入れそうだが私達では無理だな」

「龍の姿のままでは無理でしょう。ですが龍宮城に棲む龍達は普段はほとんどが龍人の姿になっておりますから、わたくし達も龍宮城に向かうに当たっては龍人か人間の姿を取らねばなりません」

 龍人あるいは竜人、ドラゴニアンと呼ばれる種族は読んで字のごとく龍の特徴を兼ね備えた亜人である。
 体の一部が竜ないしは龍のものに変わっている人間の姿をしており、亜人の中でも最高峰の魔力、体力、知力、霊格を備える。

 中には一時的に成竜などの姿に変わる能力を持つ者もいると言う。
 始祖は地上で暮らし退化していった龍と竜達が、知性だけは維持したまま巨体を失い地上に適応した果ての姿だとも、人間に姿を変えた竜族が人間と交わって作った子供の子孫だとも言う。

「ふむ、なぜわざわざ龍人に姿を変えてまで暮らすのだね? 龍族のみであるなら体の大きさは気になるまいに」

 瑠禹は幼子の質問に応える教師のように穏やかに笑い、私の疑問に答えた。

「龍宮城とは申しましても龍族のみならず人魚や魚人の方々も居られますし、龍のままの姿ではいささか空間を取ってしまいます。
 中には魚貝や海藻を口にして餓えを満たす者も居りますから、食事の量を減らす意味でも龍人の姿を取った方が、龍のままでいるよりも効率が良いのです」

「竜よりも人間と近しく親しい龍ならではの発想であるな」

「他の生き物と共生しようと考えた先人の知恵でございます。ではわたくしから」

 私が感心している間に、瑠禹は空中で龍から龍人へと姿を変えながら大亀の上へと着地していった。
 瑠禹の体は尻尾や四肢の先など体の末端から光の粒へと変わり、大亀へと降下している間に全身が光の粒に変わって形を変え、大亀の甲羅に立っている家屋の向かい合う龍の透かし彫りが施された翡翠の扉の前に降り立った時には、見目麗しい龍人の姿へと変わっていた。

 瑠禹は十代後半ごろの少女へと姿を変えていた。
 純白の雪の色をした絹様の上衣は肘から先で随分と生地を余らせているようで、そこになにか物が入れられるようになっているのかもしれない。
 腰から下は鮮やかな赤いズボンやスカートとも異なる東方風の装束であった。同色の帯でただでさえ細い腰をきつく締めていて、白い靴下の様なものとサンダルに似た履き物を履いている足首から下位しか露出はない。

 漆のように艶やかで深い色合いの黒髪は真っ直ぐに伸ばされて、瑠禹の小ぶりな尻にまで届くほど長い。
 その黒髪は柳眉の上で綺麗に切り揃え、左右の側頭部をまっすぐに流れる横の黒髪は腰のあたりまで伸びた所で毛先が切り揃えられていた。

 肌の下の血管が青く透けて見えるかの様に白い肌はきめ細やかで、それ自体が絹の様に美しい光沢を纏っている。
 星が封じられているかのようにきらきらと輝く青い大粒の瞳に、桜の花びらをくりぬいたような淡い色彩の唇、目と鼻と唇の小ぶりなそれらの配置は妙を極めたもので、人間であれば男女を問わず目を惹かれる美貌がそこにある。

 私を見上げる黒髪の美しい異国の装束を纏った少女の本来の姿が龍である事を証明するのは、黒髪の脇から先端を覗かせている鹿に似た龍の耳と頭頂部の両脇から斜め後方へと突き出ている節くれだった角、それに背中側の赤い帯の下部から伸びている青い鱗に覆われた尻尾だ。

 また時折わずかに覗く首筋や目元の辺りに、光の辺り具合かあるいは瑠禹の精神状態によって、青い鱗の様な文様が浮かび上がっている。私に向けてかすかに振られる手も指先に至るまでが、染み一つ、傷一つない繊細な人間の手に変化している。
 私達を見上げて小さく微笑む瑠禹に、私は見事な変化だと賛辞を贈りたい気分であったが、ヴァジェはそうでもなかったようだ。

「ちっ、わざわざ人間などに姿を変えねばならぬとは七面倒な事を考える」

 私の少し後ろに居たヴァジェは瑠禹に続いて空中で小さく咽喉を鳴らし、自分の巨体を炎で包み込みながら大亀へと降下する。
 一瞬、私の顔と海面をヴァジェが生んだ炎が赤々と照らし、私が炎の輝きにかすかに目を細める先でヴァジェの姿が変わる。

 重厚さを感じさせる鱗に包まれたヴァジェの巨躯を包んでいた炎が消えた時、瑠禹からやや離れた位置に素足を降ろしたのは、長身美駆の褐色の肌に血の色にも似た深い紅色の髪を持つ妙齢の美女へと姿を変えたヴァジェであった。
 瑠禹が気品ある清楚さを持った穢してはならない神聖さを纏う美少女であるなら、ヴァジェは躍動する生命の力強さと深紅竜が身の内に宿す炎の魔力と猛々しさを、擬人化した様な印象を与える。

 ヴァジェの皮膚が変じたであろうややピンクがかった布は、大きくせりだした乳房にぱんぱんに張りつめられて乳房の谷間と下の部分を露出したわずかな面積の胸着と、大きなくびれの下にある肉付きの豊かな艶かな腰回りを覆うきりで、ほとんど足の付け根までを剥き出しにした大胆を越えて破廉恥な品だ。
 慎ましく窪んだ小さな臍や足の付け根のすぐ下や鎖骨から肩にかけてまでを大胆に露出し、肘と膝から先は竜の四肢に近く、かろうじて人間のものと見える造作だが、五指は太く節くれだって鋭い爪を生やし、指先から二の腕と太ももの外側には肌に溶けるように深紅色の鱗で覆われている。

 背と尻からは大きさを縮小しただけの翼と尻尾が生え、ヴァジェのブレスを思わせる紅蓮の髪は毛先を緩く巻きながら、私の手にはあり余る大きな尻肉に届くまで伸びていた。
 潮風にそよぐ紅蓮の髪からは竜の姿の時と同じ角が鋭く飛び出し、末端に向かって尖るエルフのものに似た耳が人間と同じ位置で、紅蓮の巻き毛の中から飛び出している。
 縦にすぼまった瞳孔を持つ深紅色の瞳は変わらぬ猛々しさを残し、眦は刃で切られたかのように鋭く、すっきりと筋の通った鼻梁や血の紅を塗った様に紅い唇は、どれも挑戦的な形をしている。

 瑠禹とはまるで正反対の魅惑的な体つきと肌の下から溢れんばかりの生命力を辺りに撒き散らす、妖艶でそれ以上に苛烈な性分をなによりも外見で主張する美女であった。
 竜人と龍人に姿を変えたヴァジェと瑠禹は、お互いを憎い親の敵とでも思っているのか、一瞬睨み合ったかと思えば、首の骨が折れそうな勢いでそっぽを向き合う。
 本当に相性が悪いな、この二人。ヴァジェを連れて来たのは失敗だったろうかと私は遅まきながら思い至った。殺し合いを始めないだけましか。

 二人の相性はともかく変化は問題なく終わった以上、残るは私である。竜の分身体は問題なく作れるようになった私だが、さて分身体を人間の姿に変える方はどうだろうか。
 人間に変化と言っても、私が出来そうなのは本体である私の肉体を模倣する事である。
 甲羅の上に立つ二人が私をせかすような視線を送っていたので、私はどんな反応をされるやらと思いながら、分身体を構成する魔力と元素に働きかけて形状を人間のものに変える。

 瑠禹とヴァジェを真似る様にして空中で私の体は無数の光の粒へと変換され、甲羅の上で改めて集束し新たな形に変わる。
 同年代の男性らよりはやや背が高く、黒い髪に青い目とよく日焼けした肌を持った農民の少年に。

 あまり実感は無いが、母やアイリなどから言わせれば私の顔立ちはまあそこそこ良いらしい。
 人間の姿に変わったことを確認した私がふむ、といつもの癖を零して左右のヴァジェと瑠禹に視線を巡らせると、おおむね予想した通りの表情を浮かべて私の姿を頭のてっぺんからつま先までじろじろと見ている。

 いくら見られても姿は変わらんのだがなあ。
 例え人間の姿であっても中身まで拘らず、外見だけを人間にするのなら動かしても問題はない。私は無言の二人の間を縫って歩き、家屋の戸に手をかける。
 私の背の倍ほどの高さの巨大な翡翠の板から彫刻した扉は、感嘆の吐息を誘う芸術品そのものであった。私は扉に手をかけて、いまだぽかんとした顔で私の姿を見ているヴァジェと瑠禹に声をかける。

「入らんのか? 亀が潜れぬぞ」

 私の声に正気を取り戻した二人は慌てて私に続いて家屋の中へと足を踏み入れる。
 中は見慣れぬ東洋の様式らしく、墨だけで描いた掛け軸や奇妙に見える形状の花瓶などが置かれ、中央には六人ほどが席に着ける大きさの、巨大な珊瑚を加工したらしい円卓がある。

 黄金の香炉からは白い煙が立ち上り、家屋の中に潮の香りではなくかすかに甘みの混じる匂いが立ち込めている。
 円卓の傍らには茶器が置かれた台車が置かれていた。茶は客人の咽喉を潤す為の品であろう。

「ふむ、空間を操作して広くしてあるな。実質広さは無限にも等しいか。なかなか高度な竜語魔法を施してあるようではないか」

「あ、はい。まだ地上に真龍様達が残っていらっしゃった時代に竜語魔法を用いて建てられたものです。どうぞお掛けください。すぐにお茶の用意をいたします」

 まだ私の変化した姿に対する困惑は残っている様だが、瑠禹は台車に近づいて三つの白磁の茶碗に、同じく白磁に珊瑚の絵が描かれた急須から琥珀色の液体を注いでいった。
 新たに立ち込めた香りの良さに、茶の味に期待を寄せながら私が円卓の椅子に腰かけると、対面に座ったヴァジェがまじまじと私の顔を見つめながら口を開く。
 なお椅子は龍人の着席を前提としているようで、腰掛ける部分と背もたれの間に広く空間が取られ、尻尾はそこから垂らすようであった。

「お前のその姿は一体何の悪ふざけだ。お前とて竜のはしくれならば、なぜドラゴニアンではなく人間の姿などを完全に模倣する?」

 私とヴァジェの前に茶を置く作業を行っていた瑠禹も不服ながらヴァジェと同じ疑問を抱いているようで、椅子に腰かけた私をちらちらと見ている。そこまで気になるものかね?
 心地よい香りを立ち昇らせる茶器を手に取り、口に運びながら私は二人の疑問に解答を与えた。

「二人にはまだ伝えていなかったが、ここで茶を啜っている私は本体ではない。
 私の魔力と大気中の魔素、元素界から抽出した元素を用いて作った分身体だ。このように飲食もできるし、話もできるがね」

 二人がかすかに息を飲んだ。
 上位種深紅竜、水龍の貴種である二人にひけを取らぬどころから明らかに上回る力を持つ私が、分身に過ぎないと知れば驚きもしよう。
 二人の中では、本体の私がどれほどの力の主なのかと疑問が渦巻いていることだろう。

「あの、ではドラン様のそのお姿は一体どういう事なのでしょうか」

 ふむ、同胞が相手であるし、セリナ達に対してもまだ伝えていない事情をある程度伝えても構わぬだろうか。口の中に含んだ茶の味と、鼻の奥にすっと広がる芳しい香りに気持ちを落ち着かせて、私は更に口を開く。

「いや、少なくとも瑠禹とヴァジェよりは長く生きておるとも。ただ私は人間に転生した竜なのだよ。
 前世は竜であったが今生は人間として産まれている。この姿は人間としての私の姿なのだ。
 現状、私は人間として生きていて、これからもそうするつもりでいる。
 そなたらと顔を突き合わせていた竜の姿は、前世を懐かしく思い空を飛ぶ自由を満喫する為に作った仮のものなのだよ」

「ではその、ドラン様の魂は間違いなく竜のもので、人間に転生こそすれ、竜としての自覚と御記憶はお持ちなのですね。そしてその御姿はあくまでも人間としてのものであって、竜としては成竜であると」

 瑠禹はよほど私の実年齢が気になるのか、重ねて問いかけてくる。実際には成竜どころではないのだが、私の竜としての真名や姿を教えるわけにも参らぬから曖昧に頷いていた。 
 瑠禹はほっと安堵したようだが、なにか気になる事があったのだろうか? 見ればヴァジェも同様に私の年齢が気になっていたようで、腕を組み眉間に寄せていた皺がほぐれて消えている。

「それほど私の年齢が気になるものか? 年上の様に振る舞いながら実際には大きく年下であったなら、確かに気まずくもなるかもしれぬが……」

「あ、いえ、その、何と申しましょうか、ドラン様はとても落ち着かれた物腰の方ですし、ずっとこれまでわたくしよりも年上の方であると思いこんでいたものですから」

「まったく、驚かせるな。私より強い竜がガキなどとふざけた話だ」

 解せぬ。
 私が思う以上に私が年下である事は瑠禹とヴァジェに都合が悪いらしい。
 竜の格によっては老竜が子竜に敵わぬこともあるから、必ずしも年齢が竜の能力の優劣を決めるわけではあるまいに。
 私の実年齢問題は、私が人間に転生した竜であり瑠禹に同行しているこの私は分身体である事、人間としてはこの姿通りの年齢だが竜としては瑠禹達よりも年上である事を説明して取り敢えず決着を見た。
 私達はそれから玻璃を嵌めこんだ窓の向こうに見える海の風景を楽しみながら、話をして新しい茶を貰って咽喉を潤しながら、龍宮城に着くまでの時を楽しんだ。もっともヴァジェは黙って茶を飲むきりで終始黙り込んでいたが。

 厳重に竜語魔法による保護が施された家屋には海水が入り込む事も、水圧に軋む事もなく、潜水による振動や気温の低下などもなく、快適な空間が維持されていた。
 時間が経つにつれて深度が深まり、陽光が届かぬ事で窓の外に広がる光景はどんどんと暗くなり、時折発光性の深海生物の姿が薄ぼんやりと見えるばかりである。
 だが外の海の風景が暗闇に沈み始めてからそう時間を立たぬうちに、急激に窓の外の光景に光が溢れ、大亀の潜航速度が急激に緩められるのを感じる。
 どうやら龍宮城まであとわずかと言った所の様である。

 席を立ち四角い窓に顔を寄せて明るさを増した外を見ると、王国や近隣の諸国とはまるで様式の異なる巨大な城郭が大亀の向かう先に建てられている。
 海底の鉱物を用いて積み上げられた城壁は左右の端が暗い深海の果てに消えて見えず、この家屋の様な瓦屋根が用いられ、まるで地上のエンテの森を連想させる巨大な珊瑚の森が城郭の中にも外にも広がり、黄金や銀、翡翠や瑪瑙などで建てられた巨大な家屋の連なりが見えて、その果てもまた城壁同様に見ることはできない。

 地上のいかなる人間国家にも再現不可能と思えるほど、膨大な貴金属と資材とそして悠久の時を用いて建立された、途方もなく巨大で荘厳な海に住まう者達の城、それが龍宮城であった。
 海底の暗闇を煌々と照らしだす灯りの強さと、それ以上に冷たく暗い海底の圧力を越えて私の肌を打つ力が渦巻いている。
 瑠禹もそれを感じており、椅子の上から立ち上がると私達を振り返る。

「龍宮城に着きましたようでございます。
 申し訳ない事ではありますが、公的なお客様ではありませんので、正門からではなく私的なお客さまをお迎えする裏口からの入城となります。
 なにとぞお許しくださいませ」

「頭を下げられるような事ではない。このような機会にでも恵まれなければ龍宮城を訪れるような事はなかっただろうし、私もヴァジェを同行させる我儘を聞いてもらっておるからな」

 空になった茶器を戻して瑠禹の案内に着いて行く形で、私達は大亀の甲羅に建てられた家屋から外に出る。
 家屋の中に籠っていた甘い香りに変わって、家屋の外にはかすかに潮の香りを含んだ爽快な空気が満ちていた。

 見上げるほど巨大な建物の中に海水が引き込まれ、そこを通じて大亀は龍宮城の内外を出入りしているのだろう。
 家屋の外に出た私は大亀の周囲が真っ白い石畳みと白い壁、見上げるほど巨大な珊瑚が柱の代わりになっている船着き場の様な場所であった。

 辺りを見れば私達が乗ってきた大亀と同じ種類の大亀や豪奢な金縁の飾りや水晶板による補強が施された巨大な船が、何艘も舫われている。
 大亀の甲羅に船着き場の方から、朱塗りの桟橋が掛けられた。誰も操っている様子はなく、ひとりでに動く仕掛けになっているのだろう。
 見れば石畳みの上に来客用の品であろう、緋色の金糸銀糸による絢爛豪華な刺繍が施された絨毯が敷かれている。

 大亀の甲羅の上と桟橋を進む瑠禹に従い、私は相変わらず不承不承と言った顔をしているヴァジェと連れだって船着き場一つとっても広大な龍宮城へと降り立つ。
 くるぶしまで沈み込みそうな絨毯の感覚には、いまひとつ慣れないが悪くはない。

 白い大理石と透き通った水晶で出来た壁には、轟々と炎を燃やす黄金の燭台が一定間隔で配置され、水晶と黄金を惜しげもなく使い、私の拳ほどもある無数のダイヤモンドで造られた巨大なシャンデリアと共に、龍宮城の中から薄闇を払拭する光源となっている。
 シャンデリアひとつだけでベルン村をいったいいくつ買う事が出来るだろうか。
 古代から財を蓄えた無数の龍と海に住まう者達が力を結集した成果と考えれば、そう不思議なものではないだろうか。

 絨毯の脇には瑠禹と同じ東方風の着物と、周囲の灯りが透けて見えるほど薄い羽衣を纏った龍人や人魚達が列を作って腰を曲げ、頭を下げて私達を迎えている。
 龍人達は瑠禹と同じように角や耳、尻尾が龍である者達で、人魚は下半身が皆一様に魚であったが、中には二股に分かれている者、耳が人間と同じ形をしている者、魚の鰭状になっている者と大なり小なり外見に差異があった。

「公主様のお客様をお連れいたしました。ドラン様とヴァジェ様です。皆、失礼の無きように」

「はい、巫女様」

 巫女ともなれば龍宮城の中でも地位は高いらしく、女官達が瑠禹に応じる声には紛れもない敬意が強く聞きとれる。
 私に見せる子供らしさを払拭し、女官達からの敬意を受けるのに相応しい巫女らしい態度を取る瑠禹の姿に、私は孫娘の成長した姿に感心する祖父の様な気分であった。

 ま、外見が十六歳の少年では似つかわしくないことこの上ないだろうが。
 ふと私はやや後ろを歩くヴァジェが異様に大人しい事に気付き、少々顔色の悪い褐色の肌を持った美女に声をかけた。

「どうした、やはり海の中では調子が出ぬか」

「お前はどうしてそんなケロッとした顔をしていられる。静かで穏やかだがこれほどまでに強大な力が渦巻いておると言うのに。
 とと様とかか様でさえ及ばぬぞ、これは」

 どうやらヴァジェは龍宮城の中に渦巻いている龍吉やその他の竜達の力の影響を受けて顔色を悪くしているが、それよりも私はヴァジェの口にした言葉に少々耳を疑った。

「ふむ? とと様にかか様か。ヴァジェよ、そなたは父御と母御をその様に呼ぶのか」

 つい口元がヴァジェをからかうように笑っていたのは不可抗力である。
 ヴァジェはつい漏らしてしまった失言に気付き、はっと顔を強張らせて深紅色の瞳で私を睨みつける。瞳の中には怒りと羞恥が燃えていた。

「き、貴様、今耳にした事はわ、忘れろ。いいな!?」

 興奮のあまり言葉を震わせるヴァジェに、私は真摯な顔を作って頷く。うむ、しっかりと憶えておこう。

「それにしてもそなたのその反応、ここに連れて来た甲斐が早速あったということであるかな。よしよし、その調子でもう少し性格を丸くしような」

「お前は私のあに様かとと様か」

「また“とと様”と言っておるぞ。父母には可愛がられて育ったと見える」

 私の言い草がよほど気に入らなかったようで、ヴァジェはこめかみに青筋を浮かべて私を睨み殺さんばかりの視線をぶつけてくるが、私はさらりと流す。
 これ位の殺気は竜であった頃に神々から浴びせられたものと比べれば、どうということはない。

「ほれ、瑠禹が待っておる。さっさと行くぞ」

 私とヴァジェのやり取りが長くなるのかと心配そうに見ている瑠禹を顎で示し、私は竜の牙を露わにして歯を剥くヴァジェの前を歩く。
 口の端から燐光の様に火を噴き零すヴァジェの性格は、なかなか矯正できそうにないなと私は小さく嘆息した。先ほどは上手く行きそうだと思えたのだけれどな。
 瑠禹を先頭に私とヴァジェが続き、その両脇に女官達がしずしずと列を成して追従している。

 男の影は見えぬが、この女官達が世話役と護衛と私達に対する監視も兼ねていると言ったところか。
 龍吉の膝元である龍宮城に勤めているのだ。見た目通りの細腕の女官と言う事はあるまい。

 人魚、魚人も厳選された力を持つ女戦士であり、龍の女官に至っては改めて語るまでもあるまい。
 貴種である瑠禹ほどではないにせよ、それなりに強力な龍族であることには変わりない。

 現在地上に残っている人間種や亜人勢力では、この龍宮城を落とせる者達はいそうにない。
 ある程度位階の高い魔神や悪魔でも、本体が実体化しなければこれは随分と手古摺るだろう。
 瑠禹の道案内に従い、爆音を轟かせる滝や大渦の上に渡された黄金で出来た橋、一枚一枚が恐ろしく巨大な翡翠を重ね合わせて作った階段、薄紫色の水晶を削りだし精緻な細工を彫り込んだアーチなどを潜り、龍宮城の中を進む。

 予め私達の進路は通達してあったのだろう。案内役の瑠禹と女官を除いた龍宮城の住人達の姿は、影さえも見る事はない。
 あくまで私的な客人として招いている以上、余計な物を見せるわけにも行かんのだろう。

 ただ私やヴァジェは城内に無数の水場どころか激流や大河、湖に滝が巨大な規模で流れている事に意識を惹かれ、また龍宮城を構成する金銀などの貴金属や宝石の数々に竜としての本能を刺激されていて、すっかり内部の見学に夢中になっていた。
 大陸中の人間国家の財宝を集めても、とうていこの龍宮城の足元にも及ぶまい。壺の一つでいいから土産にくれないものかと、私は半ば本気で考えたものである。

 どれほど龍宮城の中を歩いたものか、やがて瑠禹は巨大な板状の黒曜石に黄金の龍の細工が板金された扉の前で足を止めた。黄金の指は五本。
 最も貴い血統を持つ龍のみが持つ指の数であり、例え装飾品であっても五本指の龍があしらわれたものを所有できるのは、やはり同じように王に連なる者のみ。

 扉の奥にこの龍宮城の主たる龍吉が居るのだろう。
 扉の向こうから感じられる力に当てられてか、ヴァジェが酷く緊張した様子で生唾を飲み込む音がいやに大きく聞こえた。
 ふむ、確かにヴァジェや瑠禹よりは強力だが、それほど身体を強張らせる事もあるまいに。
 流石に古龍とはいえ仮にも古神竜であった私からすれば、驚くほど力を退化させた子孫に過ぎないから、ヴァジェの様に龍吉の力を感じてもこんなものかとつい感じてしまう。

「公主様。巫女の瑠禹でございます。ドラン様とお連れの方をお連れいたしました」

 護衛らしい武官の影もない扉の向こうに瑠禹が恭しく頭を垂れて口上を述べると、そう間をおかずに扉の向こうから、音楽神の眷族が爪弾く調べの様に美しい声が返って来た。

「御苦労さまです、瑠禹。お客様をこちらへご案内なさい」

「はい」

 瑠禹は顔を伏せたまま扉を押し開き、室内に一歩を踏み入れる。
 特に礼儀に関しては詳しい事は聞いておらず、あくまで私的な客であるから多少の無作法は許してくれるそうだが、さてどこまで気を張ればよいのやら。
 ここに至るまで私達の左右に列を成していた女官たちは部屋の外で足を止め、顔を伏せたまま進む瑠禹の数歩後ろを私とヴァジェは歩いて室内に足を進める。

 黄色や桃色、青色にうっすらと染色された薄絹の紗幕が天井から下げられ、赤水晶が敷き詰められた床を歩く音を立てながら進んだ私達は、部屋の奥で朱塗りの象牙から彫琢した円卓と、珊瑚を加工した椅子に腰かけた龍人の美女の前に辿りついた。
 金細工の施された漆塗りの長櫃、箪笥、薄紫色の煙を芳香と共に立ち昇らせる黄金の香炉と、三十畳はゆうにある部屋の中の調度品は、そのどれもが王都の大貴族もおそらく眼を剥く値段もつけられない貴重品ばかりであろう。
 そして部屋の主たる龍人の姿を取った美女、三大龍皇の一柱、水龍皇たる龍吉は壮麗かつ華美な部屋の主に相応しい美貌と気品の主であった。

 膝まで届く豊かな黒髪は壁際で赤い火を灯す燭台の明りを煌々と照らしだし、青い水晶細工の簪を用いて後頭部で結われてから、龍吉の肩や背に沿って黒い流れとなって伸びている。
 人間の成人女性とさして変わらぬ体躯は縞絹の単衣の上に、白、青とそれぞれ染色され金糸と銀糸をふんだんに用い、繊維状に紡がれた宝石類が惜しげもなく使われた薄井いを重ねている。
 美女を例えるに絵に描いた様な、というものがあるが龍吉は絵にも描けず絵師が自身の非才に筆を折る他ない美女である。

 目鼻顔立ちの妙をどう言葉にすれば良いか、私の乏しい語彙では表せそうになかった。
 これは龍の姿に変わっても相当な美龍であろう。
 龍吉は私達に向かってにっこりと、友愛の情がたっぷりと込められている事が見て取れる笑みを向ける。
 この場合私達の方から話しかけるのが礼儀か、それとも話しかけられるのを待つのが礼儀か?

「皆さま、突然の招きに快く応じてくださり、お礼申し上げます。私が当龍宮城の主、龍吉と申す者。長い道行きにお疲れの事でしょう。どうぞおかけになって」

 席から立ち上がり、着席を進める公主に従い私達は円卓の席に着いた。
 ヴァジェは実際に目の当たりにした古龍屈指の実力者の柔らかな態度にどう反応すればよいかさっぱりと分からずに困惑していたが、私がさっさと椅子に座ったのを見て慌てて自分も席に着いた。
 龍吉を前にいつもと変わらぬ私の態度に、ヴァジェと瑠禹ははたしてどんな感想を抱くことだろうか。

「私はドラン。この度は高名なる龍吉御自らのお招きに預かり光栄の至り。田舎者ゆえ無作法もある事と思いますが、寛大なお心を持ってお許し願いたい。
 それでこちらはモレス山脈に住まう深紅竜のヴァジェ。龍宮城や公主への拝謁の栄に預かれれば、私の一存で同道させた次第。なにとぞお目零しを」

 あまり敬語を使った事がないので正しい使用法かどうかはまるで自信はないが、こちらが作法とはとんとと縁のない素性の主である事を知っていれば、いちいち目くじらを立てるような狭量な相手でもあるまい。
 ヴァジェは回廊での私に対する態度はどこへやら、すっかりかちこちに固まった様子で、ぎぎぎ、と錆びついた蝶番の軋む音が聞こえてきそうな硬い動作で頭を下げて会釈した。
 回廊にも満ちていた龍吉の力を直に対面したことでより直接的に感じ取り、彼我の実力差を明確に理解して萎縮しているらしい。
流石にこれだけやればヴァジェの性格も少しは角が取れるだろうか。

「この龍宮城に深紅竜の方に限らず火属の同胞が足を踏み入れること珍しい事。
 歓迎こそすれ眉根を寄せる必要はないでしょう。瑠禹、貴女もおかけなさい。今お茶を淹れましょう」

 龍吉手ずから茶を淹れるのを瑠禹は止めなかった。王侯貴族なら使用人に任せる事を自分でするのが公主であるらしい。
 大亀の背中の家屋に用意されていた茶器よりもさらに上等で、使われる茶葉の香りも天界にのみ頒布しているものに近い。
 地上ではこれ以上上等な代物を望むのはおそらく不可能だろう。
 龍吉手ずから淹れた黄色みがかった茶を一口含めばたちまち体中に爽快な気が満ち溢れて、体内の毒素が浄化される――といっても分身体の私には毒素など元からないが。紛れもなく神代の品であろう。

「ドラン殿、瑠禹からは良く話を伺っておりますよ。大変良くして頂いているとか。ですが貴方の魂はあくまでも竜のものですね?」

「ふむ、流石に察しの良い方だ。瑠禹らには伝えてあるが私は人間に転生した竜。現在は人間として生を得ておる」

 不遜ともとれる私の物言いにも、龍吉や瑠禹が柳眉を逆立てる事はなかった。
 どうにも他の竜に傅かれることはあっても、私の方が膝を折った事はないから目上の相手に対する態度というものがいまひとつ分からんな。
 ヴァジェは龍吉を前にしているとは思えぬ態度を取る私に、目を白黒させていたが少しは私を見直してくれるいいがな。にこやかな龍吉と私を中心に話をしていると、外で待機していた女官達が鈴を鳴らすのが聞こえてきた。

「あら、どうやら用意が整ったようですね。別室でささやかではありますが歓迎の宴を用意させて頂いております。どうぞそちらへ。女官達がご案内いたします。瑠禹、お願いしますよ」

「はい、公主様」

「ヴァジェさん、どうぞお楽しみくださいな。ところでドラン殿、貴方には少々お話がありますので、残って頂けますか」

「承知した。ヴァジェ、私がおらんでは心細かろうが、先に行っていなさい」

「う、うむ。先に行っている」

 いつもなら保護者の様な言葉をかける私に怒りを露わにするヴァジェだが、すっかり龍吉の放つ圧倒的な存在の格の違いに飲まれて、他所の家から借りてきた子猫の様に大人しい。これはなかなか面白いものが見られたものだ。
 龍吉の命を受けた瑠禹がヴァジェを案内して扉の外に連れ出し、別の部屋へ案内をするのを見届けてから、私は改めて龍吉を振り返る。
 瑠禹とヴァジェが姿を消すや否や、私の視線の先で公主は椅子を降り、床に膝と指を突いて頭を垂れる。
 まさか水龍皇が自ら頭を垂れ、床に膝を突くなどと、この龍宮の城に住まう誰もが見た事が無く、また想像もした事が無かっただろう

「無礼の数々、なにとぞご容赦くださいませ。最も貴き竜たる御方」

「ふむ。その物言いでは私の素性の細かい所まで察しがついているか。無礼などは気にせずに良いから面を上げよ。
 そなたこそがこの城の正統なる主であり、私はあくまでも招かれた氏素性の知れぬ野良の転生竜に過ぎぬ」

 龍吉の手を取り立ちあがらせて椅子に座れ、私は苦笑を刻みながら言った。
 龍吉はそれまでの穏やかな雰囲気を取り払い、龍吉を前にしたヴァジェ以上に緊張と畏怖に身を強張らせている。

「いつ私が“私”であると気付いたのだ。瑠禹には前世での名を告げてはいないし、姿も変えているのだが」

「私も貴方様を前にするまでは気付きませんでした。
 瑠禹より伝え聞いた幼き日の話から、あの場におられた方々のどなたかではと思ってはおりましたが、直接お目に掛りその魂の輝きと眼差し、力の胎動にあの日の事を鮮明に思い出し、よもやと思い至ったのでございます。我ら龍と竜族全ての頂きに座する貴方様の事を」

「そうか。だがいまの私は人間よ。たまたま竜の分身体を作り瑠禹とヴァジェとの間に縁を結ぶ事にはなったが、再び古神竜として世に姿を現すつもりは毛頭ないのでな。そこの所の事情は考慮してもらえるとありがたい」

「貴方様のご意向に背く事は致しませぬ」

「では二人きりの時はともかく余人の眼がある時は先ほどの様に、そなたを目上のものとして対するが構わんな? 私のこともドランと呼ぶようにな」

 龍吉は随分と戸惑ったらしく、口籠って見せた。

「それは、ですが…………いえ、貴方様のお望みとあればそのように致します」

「素直でよろしい。さてせっかく二人きりなのだし、少し話をしてから行くのもよかろう。龍吉よ、あの瑠禹はお主の娘であろう」

「……よくお分かりになられましたね」

「目元と雰囲気が似ている。瑠禹はそなたに仕える家系に産まれたと言っていたが、外の世界を巡るにあたって公主の血縁と分かれば、要らぬ諍いを招きもしよう。それを未然に防ぐためか?」

 龍吉は私を相手に隠しだてはできそうにないと諦めたのか、困った様な笑みを浮かべる。
それはとても魅力的な笑みで、人間の肉体から解き放たれて色恋や肉欲とは縁遠い今の私でも、おもわず眼を惹かれる笑みだった。

「左様でございます。愚かな女の浅知恵とお笑いください。瑠禹は私と今は亡き良人との間に産まれた一人娘でございます。
一通りの手仕事と武芸は仕込んでおりますが、どうしても母として良人の忘れ形見でもあるあの娘を甘やかして育ててしまいました。
 例え私の娘といえども、掟に従い外の世界に出さなければなりません。外の世界に出た時に私の娘であると知られれば、余計な色眼鏡で見られる事もありましょう。
 悪意というものを全く知らずに育ったあの娘では、力を悪用される危険性も小さくはありません。せめてそれを避ける為に私が瑠禹に言い聞かせました」

「ふむ、母心か」

「はい。ドラン様、もしよろしければ瑠禹に外の世界の事を教えてやってはいただけませんでしょうか。
 本来であれば私などが拝謁する事も許されぬ高貴なる御方に、頭を垂れても口にできるようなことではないのは百も承知しております。
 ですがどうかこの母の心を汲んではいただけませんでしょうか」

 椅子から立ち上がり再びその場に膝を折ろうとする龍吉の手を取って止めさせ、私は黒瑪瑙が自らを恥じ入るように美しい龍吉の黒い瞳をまっすぐに見つめる。

「私などで良ければ瑠禹の面倒は喜んで引き受けよう。ただ私もそう世間に詳しくはないぞ。
 人間に生まれ変わって十六年余りを過ごしたが、産まれた村の外へあまり出た事がないのだ。それでもよければ、だが」

「ありがとうございます。貴方様の庇護を受けられるのなら、娘を安心して外の世界に送り出す事が出来ます」

 そう言って龍吉はそこに光が灯ったかのような明るく美しい笑みを浮かべた。
 龍吉から娘である瑠禹の事を任されて話を一区切りさせた私と龍吉は、そろそろ瑠禹とヴァジェの待つ別室へ向う為に、龍吉の私室から回廊へと出た。
 私の態度が身分を気にしないのと瑠禹の事を快諾した事で気が解れた龍吉は、しきりにまだ地上に真竜や龍神が残っていた昔の事を、道すがら私に話しかけて来た。
 いまでは古龍の最古参格になった龍吉にとって、自分よりも格が高く古い話をできる私の様な存在は希少なのであろう。

「近頃では他の龍王たちともあまり話をする機会もなく、ドラン様のように昔語りをする事の出来る相手も減ってしまい、寂しくなってしまいました」

「ふむ、私が竜であった頃でもそうだったからな。いまでは更に数を減らしていよう。
 亜竜や瑠禹、ヴァジェの様な若い竜はいるかもしれんがすっかり古代の竜の力は衰えてしまったのか。なにやら寂しいものだな。瑠禹は純血の古竜のようであるが、父親は?」

「はい。私の亡き良人おっとは古龍の一種、蒼波龍(そうはりゅう)でした。かつて起きた高位の海魔との戦いで命を落とし、私のお腹の中に瑠禹の卵を残してこの世を去ってしまいました」

「そうか、辛い事を聞いてしまったな。だがなるほど、瑠禹が私に良く懐いてくれる理由が一つ分かった気がする。
 瑠禹は私に兄か父を見ておるのだろうな。それでは私がこの様な子供の姿を取っては驚くのも無理はない」

「あの子がドラン様に父の姿を。そうかもしれませんね。私の周りには人魚や龍の女官ばかり。
 殿方にしてもあくまで臣下の態度を取る武官や文官ばかりですから、ドラン様があの子にお取りになられた態度は、瑠禹にとって新鮮なものと映ったのでしょう」

 産まれる前に父親を亡くし、周りにも父親代わりになる男もいなかった事で私という存在がひどく新鮮に感じられたというわけか。
 なるほど、な。ならこれからは出来るだけその様に振る舞う方が、瑠禹は喜ぶだろう。
 龍吉の案内に任せて回廊を進むと、私達を迎えに来た女官達が左右の壁際にずらりと並んで待っている一角に到着し、海底に根を張る水棲の世界樹の幹から削りだした扉がひとりでに開いてその奥に私達を招く。

 あくまで親しい私的な客人をもてなす為の部屋だそうで、中はそう広くはなく一度に四、五人ほどが料理を囲むのに適した大きさの円卓が、豪奢な調度品に囲まれた部屋の中央に置かれ、先に向かっていた瑠禹とヴァジェが席に着いていた。
 ヴァジェは私の顔を見てほっと安堵し、瑠禹もまた母であり主でもある龍吉と私の姿に、引き締めていた口元をほころばせる。
 給仕を行う女官が控えているとはいえ、この二人では話が弾むどころか沈む一方だったろう。
 円卓の上座に龍吉が座り私が残っていた最後の席に座る。龍吉は私が上座を辞した事に随分とごねたが、これは私が押し通した。

「さて、お待たせしてしまいましたね。さあ、ヴァジェさん、ドラン殿、海の妙味珍味をご用意いたしました。龍宮城以外では滅多に出回らぬものです。ご存分に堪能くださいませ」

 食堂に控えていた給仕役の女官達が手押し車を押し、円卓の上に所狭しと私が見た事もない食材の数々を使った、どうやって食べればいいのかもわからない料理が並ぶ。
 精緻な飾り切りが施された蒸し野菜の数々に、食欲をそそる刺激臭を放つ、挽肉や白い固形物を具としたとろみのあるスープのようなもの、頭がついたまま揚げられた魚や、姿をそのまま残して白い身を切り分けられた魚もいる。
 酒精の匂いを漂わす蒸した貝類、魚介のすり身を団子状にしたのやら、私が人間として生涯を送る限りでは、到底縁のなさそうな豪華な料理ばかりである。というか豪華そうとしか分からない。

 主である龍吉の許しが出た以上、私が手を伸ばすのに躊躇する理由はない。
 龍吉と瑠禹の手元には二本の細長い棒が置かれていたが、私とヴァジェの手元には純銀の匙やフォークが置かれている。
 本来ならあの棒を使って食事をするのだろうが、不慣れな私達を気遣って匙を用意してくれたのだろう。
 ヴァジェは匙――スプーンさえ使った事があるか怪しいものだったが、緊張したままなりになんとか食事を進める事が出来ている様だった。
 恙無く食事が進む中、不意に龍吉が私に水を向けて来た。

「時にドラン殿、貴方は人間として生まれ変わった竜であるとか。人間として、あるいは竜として好いた方はおられるのですか?」

 なぜか場の空気がぴたりと静止した気がした。
 瑠禹の箸を握る手が止まり、慣れぬスプーンに苦戦しながらも口に魚肉団子を運んでいたヴァジェも、手の動きを止めて私に視線を向ける。
 ふむ、まあ正直に答えておくか。

「どうかな。好意や愛情を感じる女性なら幾人かいるが、広い意味での親愛や友愛のように思える。
 恋愛というのは以前も今も、私にはどこか遠く聞こえるものだよ」

 龍吉は私の言動に意外さを覚えたようで、袖で口元を隠して小さく笑う。私の言い分が思ったよりも初心に感じられでもしたのかね。

「さようでございますか。ドラン殿でしたら人間にしろ竜にしろ女人の引く手数多かと思っておりましたが」

「それは私を過大評価し過ぎている。私は繊細な乙女心というものがどうにも理解の出来ぬ愚か者だからね」

 龍吉にそう答えてから、私は私の腕くらいある蟹の足を折って殻の中に詰まっていた身にむしゃぶりついた。しかし蟹を食べると無言になるのはなぜだろうか。
 ヴァジェと瑠禹から寄せられる視線は痛みを感じるほど強いものであったが、それを紛らわせるために私は蟹の殻を剥き続けた。
 その後も私と龍吉を会話の中心としつつ食事はそのまま進み、最後に食後のお茶を頂いてから私達は龍宮城を後にする運びとなった。

 一泊二泊はしてもよかったかもしれんが、あまり居心地が良すぎてそのままずるずると長居してしまいそうなので、私は来た時と同じように船着き場の大亀の所へとヴァジェと共に向かった。
 土産として山ほどの金銀財宝が詰め込まれた小箱を渡され、見送りには瑠禹と龍吉が来てくれた。
 小箱には大亀の背中の家屋と同じ内部の空間を拡張させる魔法が施されていて、重量も小箱のものだけしか感じられない品であった。

「あまり大した御持て成しもできず、申し訳ありませんでした。ドラン殿、ヴァジェさん」

「い、いえ、そのようなことは」

 軽く頭を下げて告げる龍吉に、ヴァジェはうろたえた様に慌てて首を横に振るう。ふうむ、どうやら思った以上に薬が効いているらしい。
 普段からこれ位大人しくしていれば、ヴァジェでも将来番いとなる雄の相手を見つけられるだろう。
 しかし我ながら要らぬお節介を焼いたものだ。父や兄でも無いくせに将来の心配とは、これ以上ない位に要らぬお節介と認めざるを得んなあ。

「ヴァジェよ、まだそんなに緊張しておるのか。公主殿が瑣末な事を気にする様な狭量な方でないことくらい、もう十分に分かっていように。
 お前とて最低限の礼儀は弁えておったし、もそっと肩の力を抜いて御招きいただきありがとうございました、位言えば良かろう」

「……貴様は本当にどういう神経をしているのだ? 三大龍皇を前にしているのに、どうしたらそんな態度が取れる」

「自然体で居るだけだ」

 ふむ、と胸を張る私がよほど理解しがたいようでヴァジェは力なく首を左右に振り、この女竜には珍しい疲れ切った溜息を零した。
龍吉はそんな私とヴァジェの様子を見てくすりと品よく小さな笑みを零す。
 龍吉の傍らに控えていた瑠禹がおずおずと前に踏み出し、私の顔を見つめながら言った。

「ドラン様、わたくしが外の世界に旅立つ時には何かと頼りにさせて頂く事も多かろうと存じます。御迷惑とは思いますが、どうかよろしくお願いいたします」

「なに、公主殿からもよしなにとお願いされておるのでな。可愛い瑠禹の面倒くらいはいくらでも見ようさ」

「まあ、可愛いなどとその様な事は口になさらないでくださいまし。わたくし、照れてしまいます」

「ふふ、瑠禹がこうもドラン殿に懐くとはこの龍吉も驚いております。ドラン殿、重ねて瑠禹の事をよろしくお願いしますね」

「ああ。微力を尽くすとも」

 そして私達は龍宮城に来た時とは逆の順序を踏んで、海底に聳える巨大な城郭を後にしたのだった。
 大亀の家屋の中ではヴァジェは終始無言で手慰みに小箱をいじるきりだったが、海上に出て満天の星空の下でお互いに竜の姿に戻り、再び半日をかけていつも私と出会う空域に辿りつき、別れようとした時、私を呼びとめた。
 殺気を伴わずにヴァジェが私に呼び掛けてくるのは珍しいから、さっそく龍吉と対面させて、鼻面をへし折った効果が出たのだろうかと私は密かに期待した。

「ドラン、お前は、なんだ、その」

「その様に口籠るとは珍しい。なんぞ尋ね難き事でもあるのか?」

 我儘なほど実り豊かに育った美女から、本来の深紅の鱗を纏う竜に姿を戻したヴァジェは、もごもごと口を動かすばかりではっきりとした物言いをしない。

「うぅむ、お前、つが、番い、をだな、その……。ええい、面倒な。何でもないわ。次あった時は貴様を地べたに這い蹲らせてくれる。
 龍吉様に拝謁が叶った事は感謝してやらんでもないが、貴様との戦いは別なのだからな! 私は巣に帰って寝る。貴様もさっさと人間の家族共の元へ帰って寝ろ」

 そう言って私が声をかける暇もなくさっさとヴァジェは翼を翻して山脈の方へと飛んでいった。

「解せぬ。何が言いたいのだ、あの娘は? 第一寝ると言っても、昼真っ只中ではないか。ぐうたらな奴め」

 結局ヴァジェはいままでとたいして変わらなかったらしい。
 まあそれはそれであの娘らしいから、良しとしておこう。私はそう結論付けてこの白竜の分身体を構成する魔力を、本体へと還元した。

<続>
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