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さようなら竜生、こんにちは人生 作者:スペ / 永島 ひろあき

第十七話 龍宮への誘い

ちょっとカニバ描写ありです。
さようなら竜生 こんにちは人生

第十七話 龍宮への誘い


 ヴァジェとの遭遇からも分かる通りに、モレス山脈には私が知らなかっただけで何体もの我が同胞が棲息している。
 深く暗い洞穴の奥には岩石を思わせる鱗を纏った地竜が寝息を立て、複雑な地形の山脈を吹き抜ける風を翼に受けた風竜が空を飛び、澄み切った湖では翼の退化した鰭を動かして水竜が泳いでいる。
 おそらくヴァジェも山脈のどこかにある洞穴に住まいを設けて暮らしているのだろう。

 ヴァジェや瑠禹との遭遇以来、私は時折暇を見つけては村での農作業や狩りと並行して分身体を山脈などに飛ばし、空中散歩をするのが日課となっていた。
 その日課のお陰で私はモレス山脈に住むヴェジェ以外の竜らと知己を得る事となった。
 麗らかな日差しの降り注ぐある日、私はモレス山脈に大小無数に点在する湖の一つに降り立って、その湖に住むある水竜と話しこんでいた。

 幸いにして既に老竜になっていたその水竜は、ヴァジェとは違って温厚かつ知的な性格をしており、唐突に姿を見せた私を相手にしても敵意を見せるような事は無かった。
 この新しい知己となった水竜は名をウェドロと言い、蛇のように細長い胴体は陽光を青く染めて煌めく青い鱗で覆い、四肢と翼はそれぞれが退化して大きさの異なる六枚の鰭が生えている。
 淡い肌の色に近い皮膜を持った鰭は空を飛ぶ力を失っているが、その代わりに水中では音よりも早く泳ぐ事を可能とし、また竜語魔法を用いれば翼が無くとも空を飛ぶ事も出来る。

 ウェドロは今では数が少なくなってしまった知性ある竜で、竜言語はもちろん私が人間として使用している大陸公用語も流暢に操る事が出来た。
 標高の高い場所にあるこの湖でどうして公用語を学ぶ機会があったのか問うた所、湖底と繋がっている地下水脈を通じて山脈の外に出た事があり、そこで人間や妖精族などと交流を持って学んだのだそうな。
 モレス山脈には何体もの竜種が棲んではいるが、わざわざ話をする為だけに尋ねて来るような者は少ないらしく、縄張りを奪う為でもなく単純に話をする為だけに尋ねてくる私を、ウェドロは快く迎えてくれている。

 また鏡のように澄みきった湖には水竜以外にも人魚が棲んでおり、ウェドロはこの湖の主として、またその人魚らの守護者として共に暮らしている。
 この湖に住む人魚らは上半身は人間に近しい姿ではあるが、耳は鰭のような形をしており、首には水中で呼吸する為の鰓があり、指と指の間には水掻きが生えている。
 腰から下は魚のソレであり、湖の水と近しい色合いの鱗に包まれている。人魚の大部分は海を生息地としている為、彼女らのように山脈の湖に居を構えている者達は珍しい。
 おそらくまだこの山脈が海の中に在った頃に付近に棲息しており、その後の地殻変動や天変地異などでこの山脈に取り残された者達の子孫なのだろう。

湖で獲れる魚や藻類、珊瑚などを採取して暮している人魚達は、自分達を“ウアラの民”と呼んでおり、今は湖の畔に降り立った私と水面から顔を覗かせている水竜の様子を遠巻きに見ていた。
 人間の視力では向こう岸が見えないほどに広いこの湖だから、数百人に上る人魚達と水竜が共に暮らす事が出来たのだろう。
 ウェドロと私の会話は次第にこの山脈に新たに居を構えた新参者――深紅竜のお嬢さん、つまりヴァジェへと変わった。
 ウェドロの声は私の母と同じ年ごろの女性のようで、穏やかな気性と相まって耳にするとどこか落ち着く響きがある。

「そう言えばドラン、貴殿はあの深紅竜と顔見知りだとか」

「ヴァジェの事か? 顔見知りと言っても売られた喧嘩を買った程度の付き合いに過ぎんが、ウェドロもなにやら因縁を着けられた事があるのか?」

「そういうわけではないが、ずいぶんと張りつめた様子で空を飛んでいる姿を湖の中より見かけたものでのう。
 あれがここに来たのは最近の話であるが、まだ親元を離れたばかりで心細いのであろう。それを誤魔化す為に虚勢を張っているように見受ける」

「ふむ、私もウェドロと同じ意見だな。あれは元々気性が激しいようではあるが、いささか無理をしている風にも見えた。
 ウェドロとは棲む場所が違うから顔を合わせる事は無いのだろうが、あの調子ならば風竜や地竜達には食ってかかっておるかもしれんな。力を計り間違えて怪我などしなければよいのだがな」

「その言い方はまるで娘を案ずる父親のようだの、ドランや」

「ウェドロこそ種の違う竜の娘を相手に、随分と案じている様に見えるぞ」

「なに、年を取ると若い者に要らぬお節介を焼いてやろうと考えてしまうもの。
 もっとも貴殿もヴァジェとそう年が変わらぬように見受けるのに、はて、なぜだがお節介を焼こうとは思わぬ。むしろ私と同じか年上の相手と話をしているかのようであるぞよ」

 ふむ、鋭いな。実際私が若いのは肉体年齢だけの話であって、精神の年齢はこの地上の全ての竜種よりも年上だ。
 ましてや十六歳の若々しい人間の肉体から離れた今の私は、あるがままの魂の状態が晒されているに等しいから一層老成した雰囲気になってしまう。

「その方が気楽で良かろう。それに噂をすれば何とやらと人間達の言葉にあるが、そら、話題の主が空を飛んでおるわ」

 私が視線を頭上へ向けるとウェドロもそれに倣って鎌首を持ちあげて頭上を見上げ、私に気付いて射殺すような視線を向けて来るヴァジェに気付く。
 遠目に見てもヴァジェの全身から闘争の気配に満たされた魔力が炎となって噴き出し、天空に竜の形をした小さな太陽が生じたかのよう。

「ドランや、一体どれほどあの娘御を辱めたのかえ。この距離からでも私の鱗を打つほどの熱が届いておるわいな」

「別に辱めてなどおらんよ。初心な娘に恥辱を与えるような趣味は無いのだからな」

「ならば良いが、なにぶんと男と女の事じゃなにがどう転んで奇異な目が出ぬとも限らぬ。あまりひどい目に遭わす出ないぞよ?」

「分かっておるよ。そろそろヴァジェが痺れを切らしそうだ。今日の話はここまでとしておこう。ではな、ウェドロよ」

「うむ。貴殿もつまらぬ怪我などせぬようにな」

 軽く翼を打ち、ウェドロが首を出している水面を揺らして私はその場を飛び立った。
 流石にヴァジェも見知らぬ水竜と話をしている所に挑みかかって来るほど短慮ではなかったが、私がウェドロとの話を切り上げて自分に向ってきているのを知ると、全身から放出していた炎の量と熱を更に増して闘志を高め出す。
 この前の敗戦がよほどヴァジェの自尊心を傷つけたようだが、にしても私と遭遇したら即座に戦闘態勢を整えるほど意識される事になるとは、自分の行いがどんな形で返ってくるのか分からぬものだ。

「この間ぶりだな、ヴァジェ。ずいぶんと怖い顔を……」

「お前と話す事など、私には無い! 過日に受けた屈辱、万倍にして返してくれるわ!!」

 私の言葉を遮ったヴァジェは、自らの言葉を現実のものとすべく開いた口腔の奥に紅蓮の炎を滾らせる。
 ふむっふん。親元から離れて神経を尖らせているにしても、これはいささか過敏に反応し過ぎだろう。
 いっそ背を向けて関わりを持たぬようにしようか、とも考えたが、せっかく出会った相手だ。縁をこれっきりで終わらせては勿体ない。
 私はヴァジェの気が済むまで相手をすることを決めて、この分身体を構築する魔力を励起させ、戦闘態勢を整える。

「灰も残さんぞ!」

「私でなければそうなったかもしれんな」

 ごう、と目一杯開かれたヴァジェの口の奥から、火竜の上位種である深紅竜ならではの高温の火炎が私を目がけて吐きだされた。
 人間の操る耐火魔法など十人がかりで施したとしても、気休めにすらならない熱量だ。
 私は視界を埋める火炎を紙一重の距離で回避し、そのまま火炎を吐き続けるヴァジェへと迫る。

 当然、ヴァジェは私を火炎で燃やさんと火炎を吐き続けながら、私の後を追って首を動かす。
 青い空にヴァジェの吐く火炎が私の後を追ってあちらへこちらへと伸び、周囲の大気にヴァジェの火の属性を帯びた魔力が散逸して行く。
 一向に火炎が当たらず、私との距離が急激に詰まっている事から、ヴァジェは火炎の放射を中止し、周囲に散逸した自分の魔力といまだ燃えている火の粉への干渉を行い始める。
 ふむ、この前の戦いで私にやられた事をきちんと学習しているらしい。善き哉善き哉。

「これなら避けようがあるまいっ!」

 勝利の予感に浮かれるヴァジェの咆哮と共に、私の周囲の空間が一斉に突如として生じた紅蓮の炎に飲み込まれる。
 ヴァジェが周囲に散逸していた魔力と火の粉を触媒にして、わずかな時間の誤差も無く鋼鉄を蒸発させるほどの熱を持った炎を生じさせた。
 ヴァジェが生じさせた炎は瞬く間に私の全身を包みこみ、私の周囲に炎に包まれていない空間はなかった。
 痛みと共に教えた事ではあるが、この短期間でここまで扱えるようになった事は称賛に値する。
 だが私はヴァジェに称賛の言葉ではなく、落胆させる言葉を口にしなければならなかった。

「避けようはないが、防ぎようならあるぞ、お嬢さん」

 私は全身の鱗にヴァジェの放った火炎を上回る高熱の火炎を生じさせ、ヴァジェの火炎を一切寄せつける事は無かった。
 単純に魔力の障壁で防ぐなり、空間に穴を空けて火炎を何処ともしれぬ異世界に放逐するなりすれば、ヴァジェの放った広域を一斉に燃やす火炎を凌ぐ事は出来る。
 私が火炎を持ってヴァジェの火炎を防ぐ選択肢を取ったのは、今のヴァジェにとって自分と同系統の、かつ格上の竜との戦いが最良の経験となるだろう、と考えたからである。

「ええい、白竜の分際で私を相手に火を使うか!」

「種族の特性はもちろん重要であるが、外見を裏切る手合いが世に居る事を知らねば思わぬ所で痛い目を見るぞ、お嬢さん」

「そのように上から見下した物言いばかりをして、だから貴様は気に入らんのだ!」

 再びヴァジェは全身に炎を纏う。ただし今度は紅蓮の色ではなく鱗と同じ深紅の色をした炎であった。
 おそらくヴァジェの出し得る最大熱量の炎であろう。ヴァジェの深紅竜の魔力が練りこまれた炎は、物質界、星幽界の垣根を越えて万物を燃やす真の竜種の炎。
 私の振る舞いがヴァジェの逆鱗をこれでもかという位に刺激してしまったようだ。さて、では目障りな年長者らしく、血気盛んな若者の相手をして見せようではないか。

 私はヴァジェから仕掛けてくるのを待ち、その都度ヴァジェの攻撃を防ぎ、避け、時に反撃を織り交ぜて戦い続けた。
 私達の間には無数の火炎が時に弾丸、時に集束された線、時に放射状に放たれて、青く抜けた空の一角を深紅と白の二色の炎が染め上げる。
 おそらくヴァジェにとって自分より火の扱いに長けた竜種は父母や兄弟などの親族だけだったろうが、白竜でありながら自分以上に火炎を扱って見せる私に対し、驚きを隠せないでいた。

 それでも火炎を使って私に攻撃を仕掛け続けるのは、ヴァジェの深紅竜としての矜持の故か。
 だが全霊を持って放つ炎が私の鱗にすら届かず、時には逆に私の炎に自分の炎が焼き消される事が続けば、気位の高いヴァジェも流石に火炎を持って挑み続ける事の愚を悟る。
 ヴァジェはこのまま勝ちの目の見えない火炎の応酬を続けるか、あるいはそれ以外の――例えば肉弾戦に持ち込んで私と戦うか、逡巡の迷いを見せた。

 ふむ、火の扱いに関してはもう十分にやった所、次は取っ組みあっての戦いにするか。
 私はヴァジェの迷いを見逃さず、周囲への大気への干渉を行い、翼の一打ちで急加速。風の砲弾と化した私は、ヴァジェに手を伸ばせば届く距離まで、ヴァジェに反応を許さずに接近する。
 近しい体格の相手との戦いに慣れていないヴァジェは、全力を込めて腕や尻尾を振るい、私の喉笛に牙を突き立てんと首を伸ばしてきたが、間合いを詰められた事への動揺から余分な力が込められている為に回避する事は容易かった。

 巨人種でも一撃で首をへし折られる腕の一振りを掻い潜った私は、伸びきったヴァジェの左腕に組みつき、その勢いと体重を活かしてヴァジェを空中で仰向けに倒した。
 組みついた体勢のまま、翼を動かし、重力への干渉も並行して行い、無理な体勢のまま私とヴァジェの双方を空中に浮かべ続ける。
 ヴァジェが首を伸ばして私に火炎弾を叩き込もうとするのを、私は組みついたヴァジェの左腕に足を絡め、曲がらぬ方向に体重をかけて苦痛を与えることで制した。
 そのままぎりぎりとヴァジェの左腕を締め上げてヴァジェが降参するのを待っていたのだが、しばらくヴァジェは絶え続けたものの、流石にヴァジェも左腕を壊されては堪らぬと、尻尾を使って私に降参の意を示してきた。
 ぺちぺちとヴァジェの尻尾が弱々しく私の足を叩く。

「ぐ、ぐぬぅぅううう……」

「む、すまぬ、少し力を入れ過ぎたか」

 私は短く謝罪の言葉を吐いてから締め上げていたヴァジェの左腕を解放し、軽く翼を動かしてふわりと体を離す。
 ヴァジェはまだ痛みが骨の髄まで残っているのか、仰向けに倒れていた体を起して左腕をしきりに擦っている。噛み締めた牙の間からは苦痛を堪える唸り声が零れている。
 私の前と言う事で痛みを必死に堪えるヴァジェの傍らに近寄って、私は苦痛を堪える為か前屈みになっているヴァジェの顔を覗きこんだ。

「骨が折れてはおらん筈だが、腱を痛め……」

「ぐるうぉああ!!」

「ふむ」

 首を伸ばして覗きこむ私に、隙を見出したヴァジェが私の首根っこに牙を突きたてようと身を翻そうとするのを、私はヴァジェの脳天に手刀を叩き込んで抑え込む。
 演技が下手過ぎて見え見えである。ヴァジェに腹芸は無理だと確信させるに十分すぎる大根役者ぶりであった。

「がっ!?」

「殺気を抑える位の芸当はせんと、そんな演技では騙される者はおらぬぞ。ヴァジェよ、そなたはいささか直情的に過ぎるな。
 老竜の年頃になれば落ち着きは得られるであろうが、今の内から頭に血が昇らぬように自制せぬと冗談ではなく寿命を縮めかねんぞ」

「つぅ、私の命は、私だけのものだ。お前にとやかく言われるものではない。第一、私とさして変わらぬ外見の貴様が、分別臭い年寄りめいた事を口にしても、説得力などないわ」

 最古の竜であった私の言動に、まだ若いヴァジェが年寄り臭さを感じるのは仕方のない事だが、なまじ分身体の外見がヴァジェとそう年齢の変わらぬ成竜であることも、ヴァジェの反発を買う理由の一つになってしまっている。
 最初に出会った時に少々こてんぱんにし過ぎたのか、ヴァジェは私の顔を見るとすぐさま頭に血の気を昇ってしまい、自制する前に挑みかかってしまうようだ。

 ただまあ以前私が口にした戦い方の工夫は頭の片隅で考える程度の事はしているようで、前回と同じように私が翼を畳んで急制動をかけて背後を取ろうとする動きには反応していた事から、私の口にしている事を完全に無視しているわけではないらしい。
 若者の成長は早い。私の言う事を学んで手強さを増すヴァジェの姿に、私は若者の特権だなと感慨深さを覚える。

「しかしヴァジェよ、お前のその気性では番いとなる雄が見つからぬぞ。母御と父御に孫の顔を見せてやろうと殊勝な事は考えておらんのか?」

 それこそヴァジェの父母の様な気持ちで問う私に、ヴァジェは何を言っているんだこいつはと盛大に深紅色の鱗で覆われた顔に浮かべた。
 人間に換算すればリシャより一つ二つ上と言った所のヴァジェにとって、まだ自分が母親になるという事に対する実感はまるでないのだろう。

「夢にも考えた事はないわ。第一お前に心配される様な事でもない!」

「だからその短気を直せと言うに。取り敢えず元気は有り余っておるようだが、もう一戦構える気にはならぬし、今日はこれ位で切りあげるとしよう。ではヴァジェよ、またな」

「次こそ貴様の全身を紅蓮の炎で包んでくれる」

「それは楽しみだな、お嬢さん」

 私のお嬢さん発言に、ヴァジェが口内に紅蓮の炎を溜め込むのが見えて、私はやれやれと言う代わりに翼を大きく広げてその場から飛び上がり、瞬く間に背後のヴァジェは小さな深紅色の点に変わった。
 見る間に小さくなってヴァジェが、私の姿が見えなくなってもなお虚空に私の姿を思い描いて睨み続けるのが容易に想像できた。
 ふむ、なんとも元気なお嬢さんである。これはもうしばらく付き合って、鍛えてみるとしよう。



「ねえ、ドラちゃん」

 白一色に染まった上も下も無く、右も左も無く、方向という概念が意味を成さない空間に、黄金の髪を長く伸ばし、褐色の肌と炎を閉じ込めたような赤眼に黒衣のドレスを纏った女がいた。
 破壊と忘却を司る邪悪なる大女神カラヴィス。
 人間の創造神の一柱である大地母神マイラールと対を成すと言われる女神であり、数多存在する魔界の邪神達の中でも有数の力を持つ悪神。

 悪しき神とはいえ神であるが故に人間の規格をはるか越えた美女の姿を取ったカラヴィスは――この女神は定まった姿を忘れる事、破壊する事で変幻自在に姿を変える――腕の中に抱えた少年の左頬に手を添えた。
 黒い髪と青い瞳を持ち、まずまずといった顔立ちの少年はドラン。
 かつてカラヴィスと幾度となく互いの全存在を掛けた戦いを行い、そして友誼を交わした奇妙な竜の生まれ変わりの少年である。

 カラヴィスは心から愛する者への慈しみと親愛に満ちた仕草でドランの頬を愛撫し続けるが、されるがままのドランがわずかも反応する事は無い。
 星の広がる空の果て、形を持たぬ世界の真理、亡者蠢く冥府の底まで見通す事の出来るドランの瞳は、カラヴィスの美貌を映す事は無く、ただただ白ばかりの世界を虚しく映していた。
 それにも関わらずカラヴィスは心から愛し、心から憎み、転生を望み、滅びを望んだドランへの愛撫を止める事は無い。

「ここにはぼくとドラちゃんの二人っきりだよ。素敵だねえ。
 永遠処女のマイラールも戦馬鹿のアルデスも姉を敬う事を知らないケイオスも、誰もぼく達の愛の巣に土足で上がり込んで来るお邪魔虫はいないんだもの。
 ああ、ドラちゃん、ドラちゃん、ドラちゃん。君が死んでくれて本当に良かった。君が生まれ変わってくれて本当に良かった。
 君がこうしてぼくのものになってくれて本当に幸せだよ。君がもうぼくに牙を向ける事が無くなって本当に不幸だよ」

 絶えずドランの頬を愛撫し続けていたカラヴィスの手がぴたりと止まり、心臓を抉りだした直後のような赤色の爪を生やした指が、ゆるゆるとドランの左耳に伸びる。

「ああ、ドラちゃん。君が死んでしまっている間、ぼくはこれまでにないほどに喜びに胸を躍らせ、そしてすぐさま底知れない悲しみと寂しさと、いや、いやいやいや、到底言葉では言い表せない何かに襲われてしまったよ。
 なんて事だろうね、ドラちゃん。ぼくはぼくにとってマイラールやケイオス以上に煩わしく目障りで憎らしくて邪魔な筈の君の事が、大大大大大大大好きになってしまっていたんだよ?
 笑える話じゃないか。破壊と忘却を司る女神たる、このぼくが! 大邪神カラヴィスが! 唯一破壊する事も忘れる事も出来なかった君に心奪われ愛してしまうなんて!
 ふふ、しかもそれに気付いたのは君が愚かしくも人間にわざと討たれてしまった後だったんだ。
 ああ、冥府の底で眠るでも無く何処とも知れぬ場所、何時とも知れぬ時に君が転生すると知った時の、失ったと思ったものがかろうじてこの手の中に残っていたと理解した時のあの歓喜! 狂気にも等しいあの喜び!
 君が転生を果たすまでその姿を見る事も声を聞く事も叶わぬと知った時の、この胸に溢れる寂寥を埋める術がないと知った時のあの嘆き! あの己が身と魂を億兆の肉片に裂いても忘れられぬ虚しさ!」

 ドランへと転生するまでの間、胸の内に溜めこんだあらゆる感情を堰を切った様に吐きだしながら、カラヴィスはどこまで美しく無垢な笑みを浮かべたままであった。
 カラヴィスの黄金に濁った瞳は魂の抜けた人形の如く虚ろなドランの顔を映したままであったが、不意に黄金の瞳に汚濁に近い感情の色が束の間浮かび上がった。
 ぐっとドランの左耳を摘むカラヴィスの指に力が込められた。もしこの場に第三者が居たならば、次に起こる事を想起してぞっと背筋を凍らせることだろう。

「だからだからだからドラちゃん、君はもうぼくの目の前から消えないでおくれ。君が居なくなってしまっては、ぼくは、そう、生きる張りがないのさ。ぼくの魂は君の存在を絶対に必要としているのさ。
 ああ、だから、ドラちゃん、ああ――」

 カラヴィスの爪の先端がわずかにドランの耳に食い込む。

「ドラちゃん、だからぼく以外の誰かの――」

 耳の皮膚を突き破ったカラヴィスの爪の先端に少しずつ血が纏わりつき、元より鮮血色の爪が新鮮なドランの血に濡れている。
 自分の指先を濡らすドランの血のぬくもりと感触に、カラヴィスは背筋に走る快楽に身を震わせた。

「声を聞く耳なんて要らないよね」

 ぶちり、ぶちり、と生の肉を引き剥がす音が二度。

「ぼく以外の誰かと口づけする唇なんて要らないよね」

 ぶちり。

「ぼく以外の誰かと言葉を交わす舌なんて要らないよね」

 ぶちり。

「ぼく以外の誰かを見る眼なんて要らないよね」

 ぐちゅ、ぶつり、ぐちゅ、ぶつり。

「ぼく以外の誰かに触れる指なんて要らないよね」

 ぼきぼきぼきぼきぼきぼきぼきぼきぼきぼきぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶち。
 そして、ああ、カラヴィスの口の中からぐつ、ぐつ、と弾力のあるものを咀嚼する音が、ぐちゅぐちゅ、とたっぷりと水気のある柔らかな物を咀嚼する音が、ごくり、そして噛み砕いたそれらを嚥下する音が……。

「ああ、ドラちゃん、ドラちゃんの血は暖かいね。なんて力強く、生命に満ち溢れているんだろう。まさに至高の甘露だよ。
 ああ、ごめんね、ドラちゃん。ぼくばっかりじゃ不公平だよね。ドラちゃんの血と肉とがぼくのものになるのなら、ぼくの血と肉もドラちゃんのものになるべきだよね」

 そう言うとカラヴィスは自ら左手首を口元へ寄せ、ゆっくりと唇を開く。開かれてゆく唇の間から純白に輝く白い歯が覗き、そして、一切躊躇う事無くカラヴィスは自分の左手首に噛みついた。
 ぶつ、と皮膚を噛み破る音が、ぶつり、と神経や肉、血管を噛み破る音が、ぐちゅぐちゅ、と溢れ出る血潮の水音が、そしてぶちぶち、と連続して肉を引き剥がす音が休みなく続く。

 唇の周りを真っ赤に染めたままカラヴィスは頬を膨らませ、自分自身の肉を何度も何度も咀嚼し、おもむろに唇も舌も無くなり眼球を抉りだされて血塗れになったドランの口に自分の口を重ねる。
 カラヴィスが口の中に貯めた邪悪なる女神の血肉が口移しでドランの口を移り、重ねあわされた口の合間からドランとカラヴィスの血が混ざりあいながら滴り落ちる。

「あは、あは、あはあはははは!! ああ、ドラちゃん、ドラちゃんの血と肉とがぼくのお腹の中に在るよ。ぼくの血と肉とがドラちゃんの一部になったよ。
 あははははははあははははははっはははははははドラちゃんこのまま一つになろうかああそうだそうすればもうぼく達が離ればなれになる事は無いよそうだそれがいいぼくと君とはこれからもうずっと永遠に世界の終わるまで時の流れが果てるまで神たるぼくらに真の終焉が訪れるまでああその永劫永遠に一つだ一つだよ愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している――ああ、愛しているよ、ドラちゃん!!」

「ふむ、気持ちは嬉しいが断る」

「へ?」

 在る筈の無い答えにカラヴィスがぽかんと間抜けな顔を浮かべたその瞬間、カラヴィスの背後から世界の全て照らし出すほどの凶悪で強烈な虹色の光が発生し、カラヴィスをその腕に抱える血塗れのドランごと飲み込み、跡形もなく消し飛ばした。



「まったく、私の夢の中に何時の間にやら入り込んでいると思ったら、なにを私の写し身など作って気味の悪い事をしておるのだ、カラヴィスよ」

 カラヴィスと再会したのと同じ我が夢を媒介した世界の中で、私は古神竜としての姿を晒しながら、首から下が吹き飛んだカラヴィスを相手に詰問した。
 カラヴィスはゆるゆると吹き飛んだ身体を再生させながら、けらけらと楽しげに笑う。

「あははは、いやあ、ドラちゃんと再会出来てからこっちずっと気分が高揚していてね。ついついあんな事をしちゃったってわけ」

 そう言う間にカラヴィスは私に吹き飛ばされた体の再生を終え、傷一つない姿で私の目線と同じ高さにまで浮かび上がると、その場にごろりとだらしなく横になる。

「というかアレはなんの真似だ? お前にあのような趣味があったとは記憶しておらぬが……」

 私の問いにカラヴィスはこれ以上ないほどに晴れやかな笑み浮かべて答えた。

「あれはね、ドラちゃんが死んじゃっている間にぼくが考案したその名も“病みごっこ”だよ!」

「病み……ごっこ?」

 カラヴィスがなにを言っているのか理解できず、反応に窮する私に対し、カラヴィスはうきうきとした調子で言う。こんな奴だったろうか、ふむん。

「そーそー、愛も行き過ぎれば相手への依存になるからね。そんな感じでぼくがドラちゃんさえ手に入れば他には何も要らない。
 ぼくとドラちゃんを邪魔する奴は皆消えちゃえってな感じになったらどうなるかなあって暇つぶしに始めたのさ。これが思いの外楽しくってね。つい最近までやってたんだよ。
 それで人間に生まれ変わったドラちゃんの姿を確かめる事が出来たから、今度は人間のドラちゃん版でやってみたの。
 せっかくだからドラちゃんにも見てもらおっかなと思って、わざわざドラちゃんの夢に再び介入して見たりしましたン」

 なあにが、しましたン、だ。私は何も言えずに絶句した。

「…………」

「どうこれだけぼくに愛されて幸せでしょう、ドラちゃん。えっへん」

 えっへんとか自分で言って胸を張って威張る始末。こういった面倒臭さというか、雰囲気を読まぬ所は相変わらずだが、どうにも相手をさせられる側としては疲れるな。

「はあ、今回は何時にも増して疲れる事をしてくれる。生憎と私は自分そっくりの肉人形を食されて喜ぶ趣味は無い。私の目の届かぬ所で一人遊びをする分には文句を付けぬが、わざわざ私の目の前でその遊びをするのは以後謹んで貰いたいものだな」

「ええ? いいじゃないさ、これくらい。ぼくとドラちゃんの仲でしょ? それにせっかく転生したっていうのにドラちゃんてば、ぼくが見つけるまで顔を見せにも来てくれなかったじゃないさ。
 そのくせいまじゃ竜と龍の女の子達を相手に鼻を伸ばしているみたいだしいー? いくら温厚で知られたぼくにも我慢の限界ってもんがあるの。
 あんまりぼくをないがしろにするようだったら、あのヴァジェって子と瑠禹って子に悪戯しちゃうからね!」

「ふむ、カラヴィスよ、お前の言い分は分かった。だが、本気ではないと分かってはいるが、我が知己に対し危害を加えんというその言葉、徒に口にはせぬ事だ。もちろん本気ではないのだろう?」

 これ以上の悪意ある言動は許容できぬと言外に含めて告げる私に、カラヴィスはそれまでの侮蔑と嘲笑と悪意を底に秘めたふざけた態度を取り払い、困った様に小さく笑う。

「参ったねえ。久しぶりだから今一つ調子が掴めないのかな。そうかー、ドラちゃんはあれ位の言い方でもそこまで怒っちゃう方だったけかー。
 ふふふ、いいよ、それでも今は気分がいいからね。今の言葉は無し。本気じゃ無かった。冗談だって事にしておいてよ」

「そうか、ならば何より。お前に与え得る限りの苦痛を与えるという労苦をせずに済んだ」

「おー、おっかない。まあ、ドラちゃんの機嫌を損ねちゃったみたいだし、今日の所はこれで引き上げるよ。
 ドラちゃん、たまにで良いからぼくっていう友達の事を思い出して欲しいね。大魔界のぼくん家はいつでもドラちゃんを歓迎するよん」

「気が向いたら行くよ」

「絶対だよ。ぜーったい来てね!」

 はいはい、分かった分かった、と私が気の抜けた返事をすると、カラヴィスはまだ納得しかねる様子ではあったが、不承不承この夢の世界から姿を消して行く。
 いちいち夢の世界に介入されてはおちおち眠る事も出来ない。となれば本当にカラヴィスの所に顔を出す必要があるかもしれないな。
 まったく退屈とは縁の無い悪友ではあるが、久しぶりに会った所為か煩わしさと鬱陶しさの方が百倍増しに感じられるのが問題だな。


 そしてカラヴィスが私の夢の中に土足で上がり込んで来て、実に不快というか不吉な行いをしてから数日後の事。
 村での日々とはまた別に私は定期的に成体の白竜を模した分身体で、ベルン村周囲の空の散歩とヴァジェへの戦闘方法の教授――ヴァジェからすれば捉え方は随分と違うだろうが――を、継続的に行っている。
 ベルン村での日々の充実もあって空を羽ばたく竜体の私も気分は意気揚々と弾んでおり、ヴァジェが見たら呆れた顔をしたかもしれない。

 空中で思わず輪を描いて見せようかと私が翼を羽ばたかせた時、ヴァジェよりも早く南西の方角から憶えのある気配と姿が近づいてきたのを感じた私は、翼の羽ばたきを止めてそちらへと進行方向を転じた。
 私が白竜の分身体を通じて知り合った二体の同胞の片割れ、龍巫女の瑠禹である。
 方向を転じてからお互いを目指して進んでいた事もあり、そう時間をかけずに私は空で瑠禹と出会った。

「瑠禹か、壮健なようでなによりだ。どうしたね、ああ、龍吉殿に例の話でもしたのかな?」

 青く晴れ渡った空の下、白い雲海の上で私は青い鱗の美しい竜の巫女に問い、清楚とした美しい巫女はこれまで私に見せた事のないどこか緊張を帯びた顔つきで答えた。

「はい。ドラン様より伺いましたお話を主にお伝えした所大変懐かしがられて、ぜひともドラン様とお会いしたいと。どうか私と共にわたくしどもの城へ来てはいただけませんでしょうか?」

 ふむ、よもや龍吉公主が憶えていてくれたとは。
 まあ、ドランである私が至高の地位にあった竜と同じ個体であるとまでは考えは及んでおるまい。
 おそらくだがあの場に居た古竜や真竜の系譜のものと考えているのだろう。
 地上に残る知恵ある龍の中でも特に名高い龍吉公主との縁、結んで置いて損はあるまいと、私は緊張した面持ちで私の返答を待つ瑠禹に、承諾の意を伝えた。

「構わぬとも。名高き龍吉公主に直に拝謁出来る栄誉は、滅多にあるものではなかろう。この身に余る光栄なことだ」

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