第十五話 親愛なる邪悪
さようなら竜生 こんにちは人生
第十五話 親愛なる邪悪
『地上に生きる全ての竜種はその起源をたどれば、ある一体の竜に辿り着く。
始祖竜、始原竜と呼ばれる竜である。
始祖竜とは世界がまだ出来上がったばかりの、天と地と海と空と時が溶けあっていた時代から生き続けていた、始まりの竜。竜種の源となる竜。哀れな一人ぼっちの竜。
世界とも言えぬ形の世界と等しく長い時を生きた始祖竜は終わりの見えないまどろみの中、ふと気付くと周りに自分と混沌以外の何かが生まれ始めている事に気付いた。
それは混沌の渦が吐き出す、浮かんでは弾けて消え、消えてはまた浮かぶ泡玉から産まれた人の神、獣の神、森の神、夜の神、昼の神、精霊の神、光の神、闇の神をはじめとした最も古く最も純粋で最も偉大な第一の神々である。
始祖竜は初めて自分以外の存在に気付き、驚きのあまりにまどろみから覚醒した眼で次々と混沌から産まれる神々を見続けた。
第一の神々もまた始祖竜には気付いていた。
だが混沌から産まれた自分達と違い、最初から混沌と共に存在していた始祖竜にどう接して良いのか分からず、始祖竜が自分達を見る様に神々もまた始祖竜を見るだけであった。
始祖竜が神々を見続ける間、神々は混沌からだけでなく神々自身からもまた産まれるようになり、次々とその数を増やしていった。
例えば精霊の神は火、水、土、風、時、空、氷、雷、光、闇などの精霊とそれらの王を産み、精霊達の住まう世界を作った。
神々の数が増えるにつれて時に神と神がいがみあう事もあったが、この頃はまだ神同士で滅ぼし合うようなことのない平和な時代であった。
やがて神自身が新たに神を産み、さらにその神が自分達の下僕となる新たな生命や、天と地と海と時間と空間、生と死と運命などを作り始め、混沌は姿を変えて徐々に秩序ある姿形へと落ち着いて行く。
その様にしていまある世界と神と地上に生きる種族が作り始められたころ、始祖竜の心には徐々に変化が表れ始めていた。
多くの仲間や同類に囲まれる神々を見続けている間に、果てしない羨望と孤塁の存在である自分に寂しさを覚えたのである。
始祖竜は神々のように自分自身から新たな竜を産む事が出来ず、始まりの時から変わらず唯一無二の不変なる存在として、まだ混沌としていた世界の中心に漂い続けていた。
どうして自分には彼らや彼女の様な自分以外の同胞が居ないのか? どうして自分はただ自分のみの存在であるのか?
始祖竜は考え、思い、悩み、苦しみ、そしてある時思いついた。
新たに竜を産み出す事が出来ないのなら、自分自身を細かく裂いて無数の竜と変えよう。
そしてこの混沌と混ぜ合わせる事によって、それぞれがそれぞれに魂と心を持った違う竜にしよう。
そんな事をすればいまある始祖竜の心が消えてなくなるかもしれなかったが、自分しかいない孤独にすっかり疲れ果てていた始祖竜は、自身の消失への恐怖よりも周囲の神々に対する羨望の想いの方が強かった。
始祖竜はすぐさま自分の翼を千切り、尾を断ち、牙を折り、首を切り、目を抉りだし、自分自身を数え切れないほど小さく裂いていった。
神々は始祖竜の突然の行いに大いに驚いたが、それまで始祖竜の事を遠巻きに見守るだけで始祖竜の心を知る事は無かった為、どうすればよいのか分からなかった。
やがて始祖竜がこれ以上自分を小さく出来なくなるまで、始祖竜が自分自身を裂くのを見続けるだけであった。
始祖竜の身体が数え切れぬほどの小さなものとなり、肉や骨や血潮が周囲の混沌と混ざり合い始めると、神々の見ている前でそれらは始祖竜が望んだ通りに、数え切れぬほどの小さな竜と変わって世界に産声を上げ始めた。
鱗の色も翼の数も首の長さも大きさも違う無数の竜達が産まれる光景は、それを見守っていた神々を驚かせ、世界を創造する腕を神々が止めた為に大地が落ちて、海の水が溢れ、空が蓋となることで世界はいまある形に固まったという。
無数に千切られた小さな血肉から産まれた竜達は、始祖竜とは比べ物にならないほどか弱い存在であったが、それでも第一の神から産まれた第二の神と同じほどに強く、それらは神なる竜――神竜、あるいは龍の神――龍神と呼ばれた。
始祖竜の小さな肉や骨の欠片、砕けた鱗、零れた血潮からは神竜と龍神が産まれたが、より大きな塊からは第一の神々さえも上回る強大な力を持った四柱の古神竜と三柱の古龍神が産まれた。
尻尾からは四翼一頭一尾零眼紫鱗の古龍神“全てを圧し壊す”ヒュペリオン。
翼からは|十二翼一頭八尾翠眼緑鱗《じゅうによくいっとうはちびすいがんりょくりん》の古神竜“何よりも速き”ヴリトラ。
瞳からは七翼六頭十尾黒眼灰鱗の古龍神“涯と頂きを見通す”ヨルムンガンド。
牙からは十翼一頭二尾金眼銀鱗の古神竜“貫けぬものなき”アレキサンダー。
四肢からは零翼一頭一尾蒼眼青鱗の古龍神“朽ちることなき”リヴァイアサン。
頭からは二翼一頭一尾銀眼黒鱗の古神竜“縛られることなき”バハムート。
そして自らを裂いてもなお脈打つ事を止めなかった始祖竜の心臓と魂からは、すべての竜と龍の頂点に君臨する、最も強大な力と始祖竜の想いを受け継いだ竜が産まれた。
すなわち六翼一頭一尾虹眼白鱗の古神竜“全にして一なる”――――――である』
つまりは前世の私である、と心の中でだけ呟いて私は締めくくり、村の北東から南西へと流れる川辺に集まった子供達に、物語の終わりを告げた。
時折私はこうして村の子供達を集めて、古の、それこそ第一の神と呼ばれる古き最高位の神でもなければ知り得ない、世界創成期の頃や神々の大戦の物語を私の創作として聞かせている。
物語の大筋は実際に私が体験し記憶している事実なのだが、言っても信じて貰えるわけもないので私の作り話である、と前置きをしてから聞かせている。
最初は弟のマルコが三歳かそこらの頃、面倒を見ていた私が普通のおとぎ話では芸がないな、と口にしたのがはじまりで、訥々とした私の語り口がよほど真実味を帯びているのか、私の知らぬ所で私の物語は当時、村の子供たちの間で広まっていたらしい。
そんな事を知らぬ私が、いつもの通りにマルコに家の軒先で戦神アルデスと私の百日百夜にもおよんだ大喧嘩の話を語っている所に近所の幼い子らが来て、自分達にもお話を聞かせてとせがんだ事が切っ掛けとなり、その内にこうして多くの子供を相手に話をするようになった。
子供の娯楽の少ない農村であるから、私が訥々と前世を振り返りながら語る物語は、純朴な村の子らにとって吟遊詩人が竪琴の調べと共に語る英雄譚のごとく聞こえたのだろう。
当初物語を聞きに来るのは十歳かそれ以下の年の子供だったのだが、いつのまにやら私より年上の連中も話を聞きに来るようになっていた。
変わった子供として村の子供の輪から微妙に外れていた当時の私の評価は、この物語のお陰で多少持ち直し、子供たちの中心人物であったリシャとディラン兄の助けもあっていまでは避けられるような事もなくなっている。
この事からも分かる様にリシャには昔から助けられている。これは足を向けては寝られないな、と随分と前に何度も思ったものである。
川辺の平たい石の上に腰かけた私を中心に、扇状に子供らが思い思いに親しい者同士で固まって、腰を落ちつけるか立ったまま私の話を聞いていたが、私が話は終わりだと告げると何人かは手を上げて、物語の続きや疑問に思った事を質問してくる。
「ねえドランさん、竜って他にはどんなのが居るの?」
一番前の列に陣取った出っ歯のサマンの質問に、私はふむといつもの癖を一つ零してから答えた。
「竜の格は古神竜、古龍神を頂点に、神竜、龍神、そして神竜と龍神から産まれた真竜と真龍の順に下がる。ここまでの竜が神代から生きた竜だ。
竜のみならず混沌の時代に産まれた神は、地上で生きるにはあまりに強大過ぎた。
その力を振るえば地上が容易く壊れてしまうほどに強く、それゆえ地上が出来てからも神々は地上に降りる事は控えて、天界あるいは神界と呼ばれる世界で暮らしていた。
それは竜も同じで真竜以上の竜達は地上で生きるには余りに強すぎたのだ。
地上で生きる事を決めた竜達は自らの力を抑えて暮らす様になり、やがて竜達の子孫の中には全力を振るっても地上が壊れない程度の力を持つ、弱い竜達が産まれるようになり、それらの真竜の次の位階にある竜を古竜という。
竜は地上で生きるには弱くなるしかなかったのだ。そうして古竜が産まれ数を増やし世代を重ねると、徐々に竜はより弱く、より小さく変わっていった。
これらの竜が今で言う所の大部分の竜だな。後は竜の年齢によって幼竜、子竜、成竜、老竜などが存在する。
まあ人間と同じで赤ん坊から子供、大人、老人が居るということだな。
後は火、水、風、地、雷、氷、光、闇などの属性を持った者や中には病を撒き散らす疫竜、数多の毒を体内に備える毒竜などが産まれ、更には亜竜と呼ばれる竜でありながら他の生き物の特徴を備えた亜種も存在している。
ただ大型の爬虫族と亜竜は混同されることもあるから、間違えないように」
流石に竜の事となると私の舌は随分と滑らかになってしまい、自分でも意外な位に饒舌になっていた。
サマンは途中から話についていけなかったのか眼をぱちくりさせている。
子供たちの姿の中には川辺でとぐろを巻いた尻尾の上に子供を乗せてあげているセリナや、村の小さな子供達の引率役でもあるレティシャさんの姿も今日は見受けられた。
教団の象徴をあしらった首飾りと白い簡素な貫頭衣姿は変わらぬが、私の物語に時折首を傾げながら、微笑ましく見守っていてくれた。
マイラール教における神話と多少の食い違いがあってもおかしくはないから、私の話と神話での齟齬がレティシャさんの中で引っ掛かっているのだろう。
物語を語るにあたって私の創作だというのはレティシャさんにも言ってあるから、物語を中断させてまで注意する事もなく、最後まで聞いていてくれたから私としてはありがたい。
以前、どうしてそんなにいろんな話を知っているのかとレティシャさんに聞かれた時に、色々と物語を想像するのは楽しいと答えると、そう言う年頃なのよね、と呟いてそれきりレティシャさんが私に疑問を挟む事はなくなった。
なぜか微妙に気まずい気持ちになったのだが、今に至るまでその理由は分からないままだ。レティシャさんが生温かい目で私を見ていたからだろうか?
そして今日はいつもとは違う顔ぶれも観客達の中には見受けられた。
エンテの森に住むウッドエルフの少女フィオとその友達である妖精マール、そして黒薔薇の精であるディアドラの三名である。
先だってのエンテの森での戦いからサイウェスト村をはじめとした森の民達がベルン村との交流を始めており、主に物々交換ではあるが交流が持たれる様になった。
フィオ達はベルン村に交易の為の荷を持ってきた者達と共にやってきていて、私やセリナ、クリスティーナさんと他愛のないお喋りなどに興じる事が多い。
村の子供らとレティシャさん達が家や畑に戻って行く中、その場に残っていたフィオ達がぱちぱちと拍手をしながら私達に近づいてくる。
「私としては精霊神様か始まりのユグドラシル様の事を、ドランがどう語るのか興味があるかな」
「マールは何でもいいですよ。クリスティーナのお歌もとっても素敵でしたけれど、ドランのお話も楽しいです」
無邪意に喜んでくれるマールの姿は、いつ見ても、そして誰が見ても微笑みを誘われるものがある。
「ウッドエルフにとっては確かに精霊神やユグドラシルの事が気になって当然だろうな。また次の時までに考えておくよ。ところでサイウェストや森の方はどうだい?」
「うん、それは大丈夫よ。他の部族から人も物もたくさん送られてきているし、森の浄化も順調に進んでいるもの。それにベルン村の方に興味のある子も多くって、いつも誰がここに来るかで揉めている位よ」
「ふむ、辺鄙な所ではあるがそれでもエンテの森の中とは、随分と違う世界だろうからな。特に若い者達にとっては興味を惹かれるのも無理は無い。
幸い村の方も戸惑いがあったのは最初だけで、すぐに歓迎の雰囲気に変わったしね。後は村に来る隊商の人達との交渉がうまく行けばいいがな」
エンテの森の民達と交易で手に入る品は、いずれも人間種が多数を占める我が王国では珍しい品だ。好事家ならずとも多少の無理をしても手に入れたいと思う事だろう。
問題は我が村を訪れる隊商の人達は顔馴染みで縁も深いからまだいいが、ベルン村とエンテの森の民との交易を知った他の商人達が、暴利を貪らんとやって来る事だ。
村長を始め、この北部辺境開拓初期にろうたけた商人達との交渉を経験した古株の村人たちならば、一方的に搾取される事にはなるまいが、やはり専門家がいないのは不安要素となる。
「ガロアの方でオリヴィエ様が伝手を頼って情報収集とかしてくれるって仰っていたから、ある程度は大丈夫じゃないの? 外に出て行った人達も出来る限りは協力してくれるそうよ」
「そうか、これではますますオリヴィエさんに頭が上がらなくなる」
「魔法学院に入学しなさいって誘われたら断れなくなっちゃうかもしれませんね~」
日向ぼっこをして身体が温まり、心なしか機嫌の好いセリナの言葉を否定しきれず、私はふむんと唸らざるを得なかった。
「セリナの言う通りかもしれないな。魔法学院で得られる知識と肩書は、正直に言えばかなり魅力的ではあるが、今はまだ離れる気にはなれんよ。
そうなったら長期間村を離れなければならなくなるし、それにセリナと離ればなれになってしまう」
太陽の暖かさに眠気を誘われたのか、うとうととしていたセリナだったが、私の言葉を聞くとピンと尻尾を立たせて目を醒ましたようだった。はて、なにかセリナの気を惹く様な事を口にしたかな?
「ええ! ドランさんと離れなくっちゃいけなくなるんですか!?」
セリナは掴みかかって来るような勢いで私に這いより、困惑をまざまざと愛らしい顔立ちに浮かべ、私の顔を覗きこんで来る。
「おそらくだけれどね。魔法学院に招かれるのは私だけだろうし、セリナを連れては行けないよ。
こう言ってはセリナに申し訳ないが、ラミアが堂々と街中を歩くのはひどく難しい。
人間に害を成す事があり、強力な魔物として知られている以上、ガロアのような都市にセリナを連れて行ってはセリナの身が危ない」
「でも、でもぉ、ベルン村に連れて来て貰ったのも、村の人達とも仲良くなれたのも、全部ドランさんのおかげです。
人間さんの事があんまり怖くなくなったのだってドランさんのおかげで、私はまだ少しも恩返しが出来ていないのに離ればなれになっちゃうのは、凄く寂しいし、嫌です」
しゅんと力無く倒れる尻尾と、悲しげに顔を俯かせるセリナの姿はひどく私の胸を苛んだ。
「セリナ、もし私が魔法学院に入学したらと言う仮定の話だよ。まだそうと決まったわけでもないのだから、いささか話が飛躍し過ぎだ。セリナにそう言ってもらえるのは、とても嬉しいけれどね」
「あ、そ、そうでした。オリヴィエさんに誘われたわけでもないんでしたっけ。ごめんなさい、私ったら勝手な思い込みで騒いでしまって」
「いいさ。ちょっとした勘違いや思い込みは誰にだってあるものだとも。
ただ将来の夫君を探さなければならないセリナにとっては、他種族の男性が多く居るガロアにはいつか行って見たいだろう? 私も魔法学院云々は別としていつかは、という興味は持っている」
「えっと、確かにガロアみたいな大きな所には行ってみたいですけど、旦那様探しはもういいかなーなんて、考えていたりいなかったりしていてですね……」
これまでの悲しげだった様子から一転、セリナは恥じらうようにもじもじとはじめ、ちらちらと私の顔を見ては視線を外し、視線を外してはまた見つめると言う事を繰り返す。
口にした言葉も最後の部分はほとんど聞こえない様な小声であったが……ふむん。
セリナの様子からどこかほんのりと甘酸っぱさを感じらせる雰囲気が醸し出される中、フィオはにやにやとどこかいやらしく笑い、マールは良く分からないと言う顔で取り敢えず笑み、そしてディアドラが悪戯を思いついた、というしたり顔をする。
「もし魔法学院に入学する事になったら、セリナが駄目と言うのであれば私が代わりについて行ってあげましょうか?」
くすくすと鈴を転がすような美しい笑い声を立てながら言うディアドラに、もじもじとしていたセリナが再び尻尾を立てて反応する。
「なな、なんでディアドラさんが出てくるんですか!?」
「ドランには個人的な借りがたくさんあるし、意外と寂しがり屋さんみたいだしね。人間の世界にはあまり興味は無いけれど、ドランのお伴なら楽しくやっていけそうでしょう?
それにラミアは駄目でも黒薔薇の精なら大丈夫なのではなくって? 少なくとも私はそれほど人間と違う外見はしていないもの。でしょう、ドラン?」
「ふむん。確かに花精ならラミアほど危険視される事は無いだろう。まあ、ディアドラほど美しいとまた違った意味で危険かもしれんが、知った顔が一緒なら私としても助かるよ」
「ほら、これでドランの許可は下りたわね。セリナ、ドランの事は私に任せて貴女はベルン村に留まりなさいな」
「だ、駄目です、そんなの。ドランさんとは私が一緒に行くんです! ディアドラさんがドランさんと一緒に行くのは、ぜーったいに駄目です、認めませーーん!!」
「あら、どうしてかしら? ドランは私がいいって言っているのよ。一緒に行けない以上、貴女はベルン村で待っているしかないわ」
いや、別にディアドラがいいとまでは言っておらぬが、もちろんディアドラに不満があると言うわけではないが……。
「えっとえーっと、それは、ううう~~~」
セリナはディアドラに明確な反論が思いつかないようで、小さな握り拳を作った両手を胸の前に持ってきてう~う~と唸るきりだ。
このまま放っておいたら、そのまま茹ってしまいそうなくらいに顔が赤くなっている。
茹クラーケンは聞いた事があるが茹ラミアは聞いた事がない。
しかし、あまりに興奮している所為か、セリナは私の魔法学院入学は仮定の話だ、と言う事をまた忘れてしまっている。
素直な性分だからなのかもしれないが、ディアドラにからかわれているだけだと言う事に気付くのには、もうしばらく時間が掛りそうだった。
それからディアドラにからかわれているのに気付いたセリナが大いに臍を曲げ、その曲がった臍を直す為に村で唯一の宿屋兼酒場である魔除けの鈴亭で、セリナの好きな料理を相当奢る羽目になってしまった。
ついでにフィオとマールとディアドラも好き勝手に注文し、私の財布は随分と軽くなってしまったが、セリナの百面相はそれに見合うだけの価値があったと思えたので、私はそう気にはならなかった。
交易の為に村に来たエンテの森の民達は魔除けの鈴亭に宿泊するか、村の中の広場なりで野営をしてゆくのだが、その日はセリナの家に泊まる運びとなり、魔除けの鈴亭を出た所で私達はそれぞれの家に向かった。
*
セリナ達と別れた後、実家に寄り父母と兄夫婦、弟と夕食を共にしてから家に帰った私は、今日も平穏無事に過ごせた事に充実感と満足感を覚えて、安らかな気持ちで眠りの床に就いた。
懐かしい母の味に舌堤を打ち、血を分けた家族との語らいに心和み、人間に生まれ変わったからこそ味わう事の出来た幸福は、私にこれ以上ない安らぎを齎してくれる。
だが、また明日を精一杯生きる英気を養う為に、安からな眠りの闇に落ちる筈の私の意識は、明瞭さを保ったまま現実世界とは異なる世界へと移っていた。
「私の夢に介入するとは。夢か眠りを司る神、にしてもこうも簡単にできるほどの力は無い筈だが……」
私は白一色の空間が広がる場所で本来の六枚の翼と白い鱗、それに虹色の瞳を持った古神竜の姿で佇んでいる。
なにもかもがあやふやで曖昧で虚と実の境目が存在しない、確かさが感じられない世界である。
自然な肉体的欲求に従い、床に就いたのは私自身の意思だが、その私の眠りを媒介にしてこの世界に引きずり込んだ者がいる。
偽らざる本来の魂の姿を出せる解放感はあるが、知らぬ所に招かれた事への不愉快さはある。さて、何が出る? 確かある人間の国では……
「鬼が出るか蛇が出るか、とか言うのだったか」
「君がそんな諺を知っていたとはね。いやあ、ひっさしぶりドラちゃ……」
私の目の前に滲むようにして姿を見せた女の影に、私は一拍の間も置かずに全属性の魔力を混合させたブレスを放った。
私の瞳と同じ虹色に輝くブレスはすぐさま女の影を飲み込み、時も空間も因果も一切合財を完全な無へと帰す七色の光の奔流はこの奇妙な世界の彼方まで伸びて行く。
いかんな、咄嗟にいささか強めのブレスを放ってしまったが……いや、まあ、いいか、あいつだし。あの女の影の正体は――
「ひっどいなあ。出会い頭にいきなり虹のブレスはないんじゃない? あれ、現実世界で吐いていたらえらい事になってるよ」
「あらゆる世界をまとめて消し飛ばしてもそなたは滅びるまい。すまんな、そなたと最後に出会った時は戦っていただろう? ずいぶんと手古摺らされた記憶からついな」
「つい、で世界を崩壊させるような攻撃をしないでよ。ぼくじゃなかったら危ない所さ、ドラちゃん」
「重ねて詫びる。すまぬ。そして久しいな、我が友にして最悪の敵たるカラヴィスよ」
私の眠りに介入しこの虚実の境目が曖昧な世界に引きずり込んだのは、悪神の中で最高位に位置する第一の神の一柱、破壊と忘却を司る大女神アル・ラ・カラヴィスであった。
波打つ豊かな黒髪と肌の下の血管が青く透けて見える白い肌、血を塗りたくった様に紅い唇は常にだれかをあざ笑うかのように歪み、金色に輝く瞳は相対した者の心の全てを暴き立てようと隙を伺っているかのようだ。
およそ完璧という形容を用いる他ない豊かな肢体の調和と造作の完成度を誇り、宇宙原初の闇を切り取って繕った満点の星々を内に閉じ込めた闇色のドレスを纏っている。
大きさとしての対比はカラヴィスが私の掌に乗る位で、カラヴィスが人間と変わらぬ大きさだとするなら、私は竜の成体となる。
「ぼくの名前を親しみを込めて呼んでくれるのは君位のものだね、ドラちゃん。君が生まれ変わるのを首を長くして待っていたよ。
にしても生まれ変わる前でも後でもドラちゃんって呼べる名前になるなんて、不思議なものだね。ふふふ、神である筈のぼくでさえ分からない事が世界にまだまだあるもんだ」
と言うとカラヴィスは本当に自分の首を伸ばして、私に息が掛る位の所まで顔を近づけてくる。
「言われてみればそうもそうだが、よく私を見つけたな。といっても私が人間に生まれ変わってから十六年と幾月か経ってはおるがな」
「ドラちゃんが生まれ変わるまでも結構経っているけどね。ほら、こないだドラちゃんがちょっとだけ魔界に降りてきて暴れたでしょ?
そのお陰でドラちゃんの生まれ変わりに気付けたってわけ。そこから先はぼくのドラちゃんへの愛と執念で見つけたってわけさ」
「ふむ、そういうそなたは相も変わらず壮健な様であるな。地上ではマイラールの方が勢力で勝っておるが、あまり関係はなさそうだな。しかし、また姿を変えたのか?」
「ふふ、それはそうさ。ぼくが司るのは破壊と忘却」
伸ばした首を戻してその場でくるりと回転したカラヴィスは、今度は逆立った赤い髪が本物の炎を噴き出し、青銅の肌を持った女怪に姿を変える。
「ぼくはぼく自身さえも忘却する。自分の姿を忘れるなんてしょっちゅうさ。過去の自分の企みを忘れて未来の自分の手で壊してしまう様なおっちょこちょい」
さらにもう一回転。炎の髪は毛先に人間の顔を持った奇怪な髪の毛と変わる。そのくせどの毛先にも一つとして同じ顔は存在しないのだ。
そして青銅の肌は毒々しい濃い紫色に染まり、大小様々な瞳がその紫色の肌に無数に開いて行く。
「そんなぼくだからうっかり世界を忘れて世界を壊してしまうかも。皆気を付けなきゃ知らない内に世界が無くなってしまうよ?」
三度目、カラヴィスは最初に私に姿を見せた時の黒髪と金瞳を持った美女神へと姿を戻す。やれやれ、相も変わらず落ち着きのない女神よ。
「狂言回しもそこまでにしておくがよい。カラヴィスよ、古き我が友よ、人間に生まれ変わりし我を呼び寄せたのはいかなる理由があっての事か? 旧交を温める為というのならば、喜んで応じよう」
旧友が元気のあり余っている事が分かり穏やかな気持ちで問う私に対し、カラヴィスは私の鼻先の上に乗ってきてうつ伏せになった寛いだ体勢で口を開く。
他人の鼻の上で何を寛いでおるかね、この大女神は。
「なあに、答えは一つさ、ぼくの愛しいドラちゃん。憎いドラちゃん」
カラヴィスはうつ伏せの体勢から立ち上がり、そのまま私の正面へと瞬間移動し、笑みを深いものへと変える。
「ああ、ドラちゃん、ドラちゃん!
悪しき神にあまねく恐怖と絶望を与える神をも超越した竜! 幾歳、無限、永劫、悠久の時の流れの中、ぼくを無限回殺した怨敵、ぼくを無限回楽しませてくれる愛しき友!!
ぼくは君の滅びを願ってやまない。瞼を閉じればいつとても君が死の淵に落ちた果ての骸が像を結ぶ!! ぼくは君の生あることを願ってやまない。
君がいなければぼくの心には冷たい風が吹く、ああ、寂しかった、悲しかったよ、ドラちゃん。
君が生まれ変わりまたこうして会う事が出来て、この胸は溢れんばかりの喜びに満ちている! 歓喜に弾んでいる!! ぼくの心は憎しみに疼いている! 殺意に突き動かされている!!」
ぐにゃりとカラヴィスを中心として白い世界が急速に歪み始め、色と言えぬ色に染まり、無数の生き物の眼が瞬き、唇が浮かび上がり、耳が出来上がり、指が伸び、鮮烈な赤に濡れた臓物が空間を埋めて行く。
私の夢を媒介とした構築されたこの世界は、まがりなりにも私の支配下に在る世界だった。
だがいまや急速にカラヴィスへと支配権が移り、私を除く全てがカラヴィスのものへとなってゆく。
ああ、カラヴィスよ、我が友よ、我が怨敵よ。これがお前の望みか。これが私に与えんと願っていたものか。
「ドラちゃん、今度こそこのぼくの手で君に完全なる滅びを! 冥府での眠りに就く事もない完全なる滅びをあげる。君を殺して良いのはぼくだけさ、君を滅ぼして良いのはぼくだけなのさ!!」
いまやカラヴィスは輪郭だけを残して顔も身体も星々の瞬く闇に飲み込まれ、ただ口と目とがあるべき場所に炎のような輪郭だけが燃えている。
この世界はもはや私の夢からカラヴィスそのものへと変わっていた。私はカラヴィスの胃の中に飲まれたも同然の状況に追い詰められていた。
「君が生きている事が憎らしいよ、ドラちゃん。君が生きている事が嬉しいよ、ドラちゃん。ああ、愛しているよ、ドラちゃん!! 破壊と忘却を司る女神の愛を、君に!」
絶頂の頂きさえ越えた歓喜と憎悪に突き動かされ、邪悪なる女神としての本性を露わにしたカラヴィスが、ついにあらゆる方向から私へと襲いかかって来た。
世界そのものが私を目がけて襲いかかって来るのに対し、私はただいつも通りにこう呟いた。
「ふむ」
そして――
「なんだよ、ドラちゃん強いじゃん! 転生したんだから弱くなっているんじゃなかったの!? ぼく、本気だしたのに何もできなかったんですけどっ!!」
「そんな事を言われてもなあ。そなたほどの大女神が相手となれば私とて本気で応じなければなるまい」
「そーれーがおかしいよ! そりゃドラちゃんは強いよ!? 死ぬ前のドラちゃん相手にしていた時、ぼくはまるで歯が立たなかったからね。
でもさでもさ、わざと人間に討たれるような心理になった上に、人間に生まれ変わって腑抜けていたドラちゃん相手なら、これはイケるって思うでしょ、そりゃあ誰だって思うよ!
なのになにこの強さ! ドラちゃんさあ、もっと空気読んで弱くなっておこうよ!!」
と、私に一方的に蹂躙されたカラヴィスが、ばんばんと私の鼻を両手で叩いた。
私との別離の間に貯め込み醸造していたあらゆる感情と共に襲いかかって来たカラヴィスであったが、それなりに本気で応じた私によって呆気なく返り討ちにあい、早々に降伏する事となった。
カラヴィスの敗北によって周囲の世界の支配権は再び私に戻っており、今は最初のころの白一色の世界に戻っている。
カラヴィスは再び私の鼻の上に寝転がると、自分から襲いかかって来たというのに怒り心頭と言った様子で頬を膨らませ、顔を真っ赤にして抗議してきている。
私はドレスがぼろぼろになり、髪は所々で焦げて艶を失い、褐色の肌のあちこちに傷を作ったカラヴィスを諭すように声を掛けた。
「まあ、そう言いたもうな、カラヴィスよ。そうは言っても私が弱くなったのが確かな事は、先ほどの戦いで良く理解できたであろう」
「ん~~まあ、確かにドラちゃん、随分弱くなったなあ、とは思うよ。
でもそれは前世と比較しての話であって、結局敵わない強さなのは変わらないってどういう事? ぼく、これでも一応は最高位の神様なんですけど」
「なに、それなら簡単な話だ。転生して弱体化した今の私でも、そなたよりは強いと言うだけの話よ」
「えーえーえー、確かにいやって言うほど思い知らされたばかりだけど、なんか納得できなーい」
「そう言うな。それにこの強さとて今生の間だけの話。
この人間としての生を終え、また別の何かに生まれ変わった時は、さらに我が魂は劣化し、振るえる力は著しく小さなものとなろう。
我が魂に絡みつく転生の呪い、これはもはや同化したも同然故、私の全能力を持ってしても解呪が出来ぬ。そして転生の果てには我が魂の完全なる消失が待っているようだ。
そなたがなにもしなくとも、この呪いによって私はいずれあらゆる次元から存在を消す事となるだろう」
「ふ~ん、そっか、ドラちゃん、ぼくがなにもしなくってもいつかは消えていなくなっちゃうのか、そっか、そっか」
「なんだ、喜びの舞いでも踊り出すかと思うたが、あまり嬉しくはない様子だな」
「それは心外だよドラちゃん。ぼくはドラちゃんに憎しみを抱いているけれども、同様にドラちゃんに対して友情と愛情をたっぷりと胸一杯に抱いているからね。
ドラちゃんがいなくなっちゃうっていうんなら、それはそれでやっぱり寂しいもんなのさ」
「先ほどは本気で私を滅ぼそうとしておきながら、よくもそのような事を口にできるな」
前世で最後に会った時から全く変わっていない友に私は呆れたが、それ以上に友の変わらぬ様子が嬉しくもあり何とも奇妙な心情に陥っていた。
そんな私の心の内を悟ってか、カラヴィスはしたり顔になった。なにやら上手い反論でも思いついたらしい。
「じゃあさ、ドラちゃんは自分を本気で滅ぼしにかかったぼくを、どうしてこの程度で済ましておくのさ?」
「そうさな。まず私はそなたをこれまで数え切れぬほど滅してきたつもりだが、実際にはいま目の前にお前が存在していることから分かるように、完全に滅ぼせた事は無い。
精々が一時的に殺すか、何も出来ぬほど弱体化させ封印する程度だ。どうした所でそなたを滅ぼせぬ事は、良く理解している。
それにそなたに対して私は奇妙な友愛の情を感じてもいる。そなたは到底許し難い悪行を重ねた邪神であるが、同時に掛け替えのない友であるとも思っている。
なるほどこうして言葉にしてみれば、確かに私もそなた同様に矛盾した感情を抱いているようだな」
「そゆことだよん」
「だよん?」
「だよんだよん」
ころころと笑いながら言うカラヴィスに、およそ神と呼ばれる存在に相応しい品格や威厳というものは欠片もない。
これがカラヴィスの持ち味ではあるが、カラヴィスを信奉する信者達がこの有り様を見たら、即座に信仰を捨てるのではないだろうか。
「まー今日はドラちゃんがまだ正攻法じゃどうしようもないくらい力を残しているって確認できたし、ついでに旧交を温める事も出来たし、痛い目には遭ったけど得る物の方が多かったと言う事で」
「私は安眠を妨害されて堪ったものではないがな」
「ごめんごめん、ドラちゃん。ほら、お詫びに女神様のキスだよ」
言うや否やカラヴィスは私の鼻にぶちゅぶちゅと音を立てて熱い口付けをしはじめる。
額面通りに受け取るのなら謝意からの行動ではあるが、笑顔の裏で何を考えているのか時に自分自身でさえ分からぬ厄介者だからな、こやつの場合。
「分かったからそう音を立てるな。ちと下品であるぞ」
私は鼻の上のカラヴィスを摘みあげて、目の前に持ってきて正面から見つめて窘める。
「まったく、もう少し神らしく振る舞う事を憶えよ」
「そんなのぼくじゃないやい。ふふ、でも今日は久しぶりにドラちゃんと会えて嬉しかったのは本当だよ? マイラールと雌雄を決する時には是非とも立ち合って欲しいね。
じゃあドラちゃん、今日はそろそろお別れしようか。寂しいからって泣いちゃ駄目だぞ?」
「そなたがようやく去る事への喜びの涙なら流すかもしれんな」
「あっははははは、相変わらずドラちゃんってぼくに容赦ないなあ、辛辣~~。まあいいや、また近いうちに会おうね。じゃ、バ~イ」
カラヴィスはそう言って私に向けて投げキスをして、摘み上げていた私の爪の間から姿を消していた。
マイラール以来久方ぶりに再会した神々の知り合いであったが、今回だけでなく色々と面倒事を持ち込まれそうで、平穏という言葉は今の私からははるか彼方に存在しているのだろうなと嘆息せずにはいられなかった。
<続>
次に竜と龍を出す予定です。

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