第十三話 堕神と転生竜
さようなら竜生 こんにちは人生
第十三話 堕神と転生竜
ゲオルードの肉体と霊魂の完全な消滅を確認し、私は治癒と守護の陣内に居るディアドラを振り返った。
私の竜種としての魔力と生命力に満たされた陣に居る事で、ディアドラは急速に失った魔力と生命力を回復し、ほぼ全快の状態であった。
いまだ色違いの皮膜を持った六枚の翼を背に生やす私に、ディアドラは驚きに満たされた視線を向けていたが、不意に黒瑪瑙の瞳に柔らかな光が浮かび上がり、妖艶な唇はどこか無邪気な子供っぽい笑みを形作る。
「昨日の夜に貴方を変わった人間だって言ったけれど、ここまで変わっているとは思わなかったわ」
からかっている様な、あるいは呆れている様にも聞こえるディアドラの声の調子に、私は心のどこかで身構えていた自分が、ほっと安堵の息を吐くのを感じた。
目の前の黒薔薇の精に恐怖の籠った視線を向けられる事を、私は知らぬ内に忌避していたのである。
「これの事かい?」
私は折り畳んでいた背中の翼を軽く動かして見せた。ばさばさと音を立てる翼に、ディアドラは興味深そうな視線を隠さない。
「そうね。それもあるけれど竜種の魂に人間の肉体なんて、まるで考えもしなかったもの。
本物の竜を見た事もないのに、それより先に人間に生まれ変わった竜の転生者に出会うなんて、そちらの方が余計珍しいというものでしょう」
「否定はせんが、案外、君も前世までの記憶を浄化されているだけで、前世かその前の生が竜であった可能性もないわけではないぞ。輪廻転生とはそういうものだ」
「それを言ったらきりがないわね。ところでコレは何時になったら解除してくれるのかしらね」
そう言ってディアドラはつんつんと右の人差し指で陣の見えざる壁を突いて見せる。
じいっとこちらの魂まで吸いこみそうな瞳は半眼に細められ、普段の妖艶極まりない姿からは想像の出来ない子供っぽい一面が姿を覗かせていた。
思いがけずあどけないディアドラの仕草にふっと力を抜いて笑みを浮かべながら、私は長剣の切っ先で陣の外枠に触れて、それまで内外を完全に遮断していた陣を解除する。
陣を構成する円と竜語文字は無数の白い光の粒子へと分解され、わずかな時間、ディアドラの全身を地上から天へと降る雪のように彩った。
「あら、雪みたいで綺麗ね。降る方向が逆だけれど、ふふ」
「気に入って貰えたのならなによりだが、さて、あまりゆっくりと話をしている場合でも無い。
これで残る強敵はゲレンとゲオルグだが、ゲレンはクリスティーナさんとセリナに任せるとして、ゲオルグとは私が決着をつけてくる」
「私も行く、と言いたい所だけれど、その翼がある以上は貴方に追いつくのはとてもではないけれど無理そうね。抱えて行ってくれるなら一緒に行けるのだけれど?」
ディアドラはそう言うとそっと私の両頬へと自分の両腕を伸ばし、まるで夜の闇と共に男の枕元を訪れて惑わす淫魔の如く甘く囁きかけてきた。
ディアドラ自身にそういった意図はないのだろうが、人間ならぬ桁外れの人外の美貌の主であるが故に、まるで魅了の魔法を使っているかのように艶めかしく妖しい。
人間としては健全な男性である私の肉体は、ディアドラの視線、指、唇の動き一つ一つに誘惑されて、魔界化の危機が差し迫った状況を忘れてしまいそうになっていた。
雄の本能に突き動かされそうになる肉体を精神でねじ伏せ、私は頬に触れているディアドラの手をそっと離した。
後ろ髪を引かれる、という言葉があるが今の私の肉体はまさに全身の体毛がその状態にあるといって良い位に、ディアドラに惹かれていた。
美しすぎると言うのも時には問題になるものだな。
ほんの少し力を込めるだけでいとも簡単に手折る事が出来てしまいそうなほど、ディアドラの手はか細く柔らかで、自分の手の中に一輪の薔薇を握っているかのような気さえした。
相手は黒薔薇の精であるから、その感想も間違いではないのだろうけれど。
「すまないが、ゲオルグとは私一人の方が戦いやすい。それにまだここには魔兵が残っている。
ウッドエルフ達の為にもディアドラはここの魔兵を残らず片付けてくれた方が助かる」
「そう。貴方が言うのならばそうなのでしょう。さっきの戦いを見る限り、ドランならどんな敵が相手でも負ける事はなさそうだから、違う心配をさせてもらうわ。あまり力を使いすぎて森を壊さないでね?」
ディアドラの冗談に私は自分でもはっきりと分かる位に破顔した。我ながら珍しい事だった。
「十分に気を付けよう。助けを申し出ておいて自分が破壊者になってしまっては、本末転倒だからな。ではそろそろ行く」
「ええ、武運を祈っているわ、ドラン」
「ありがとう」
感謝の言葉だけを残し、私は翼を広げた。まずは周囲を囲む壁を崩して、ここにある補助の魔界門を壊し、それからゲオルグとゲオルグが守る魔界門を破壊する。
オリヴィエや族長達が率いている一団はゲオルードが居なかった事もあり、魔界門の破壊と魔兵の駆逐をほぼ終えている。
こちらを心配する必要はないが、クリスティーナさんとセリナ、ギオとフィオ達の安否が脳裏をちらりと過ぎった。
*
ドランが安否を気遣ったクリスティーナ達は、ドランが離脱した後も順調に進軍を続け、出くわす魔兵の群れを危なげなく倒して行った。
戦士として先天的に高い適性と恵まれた身体能力を有する狼人族、複眼による広い視野と八本の足の俊敏性に加え魔法をも操るアラクネ、木々の声を聞き精霊の助けを受けるウッドエルフらは、かねてより親交の篤い関係であったこともあり、異種族合同での戦いに関しても、さして問題なく意思疎通と連携が行えた為である。
進むにつれて周囲の魔界化が深刻化し、ただ留まっているだけでも精神と体力を削られる悪環境ではあったが、それを見越して持ち込んでいた薬や、大地や風の精霊の力を借りて瘴気を浄化する事で、彼らは騙し騙し一歩、また一歩と異形と化した森の中を進み続けた。
クリスティーナやセリナという望外の援軍も、三種族の戦士達に人間とラミアに対する認識を改めさせるほどの戦闘能力を披露し、常に先陣を切って魔兵を蹴散らす戦いぶりによってわずかな時の間に認められていた。
敵がただ魔兵のみであるのならば、ドランが抜けた所で彼らが魔界門を破壊するのは単に時間の問題でしかなかった。
だがドランが危惧したように魔界からの侵略者は、魔兵だけではなかった。
順調な足並みで進んでいた彼らは、いよいよ魔界門を目前に収めた地点で、目下最大の敵に道を阻まれたのである。
苦悶の声を上げ針金のように病的に痩せ細った人間が絡みあい、門の形を成している魔界門は戦場としやすいように木々を伐採された開けた場所に聳えていた。
周囲の木々は根こそぎ斬り倒されるか引き抜かれるかしていて、一か所に無造作に山と積まれている。
身を隠す場所も、盾とするものもなにもない場所でエンテの森の民達は魔界門を包囲するように展開し、魔界門を守る魔兵達へと向けて雨霰の勢いで矢と魔法とを放っていた。
「どうしたどうした。エンテの森の民よ、貴様らの攻撃はこの程度か、ええ!?
ふはははは、このような生温い攻撃では何日続けた所でこのゲレンに傷は付けられんぞ!!」
闇そのものが形を成したかのような黒の巨人ゲレンは、自身の巨体を目指して殺到する矢と魔法を右手の巨大な斧の一振りで呆気ないほど簡単に打ち落とし、薙ぎ払って見せる。
嵐の中に放り出された小舟、いや木の葉のように矢は微塵に砕かれ、放たれた風の刃や岩石の槍、炎の砲弾は数え切れぬほどの破片に粉砕され、ゲレンの甲冑状の肉体には破片のただ一つとて届かない。
そればかりかゲレンが斧を振るった事で生じた刃風は、そのまま勢いを増して周囲を囲むエンテの森の戦士達に襲い掛かり、何人も吹き飛ばして陣形を大いにかき乱す。
「ふっふっふ、雑兵ではこの十倍の数を用意したとしてもおれは倒せぬ。おれを倒したければ一千の兵よりも一人の勇者を連れてくるが良い」
斧を肩に担ぎ、ゲレンは昨夜戦った強者たちが出てくるのをいまかいまかと心待ちにしていた。
周囲の魔兵達は徐々に森の戦士達に討たれて数を減らしているが、所詮魔兵は捨て駒であり時さえあれば補充の利く駒でしかない。
エンテの森の戦士達だけならば、魔兵が全滅したとしてもゲレン一人で返り討ちにできる自信があった。
周囲を囲まれたこの状況も、ゲレンにとっては多少煩わしさを覚えるだけで、窮地と呼ぶには値しなかったのである。
ウッドエルフの一部隊を率いていたギオは、自分達の弓や精霊魔法がまるで通じぬゲレンの姿に、どうしようもない無力感と悔しさに苛まれて歯を食い縛り、眉間に険しい皺を刻んでいる。
狼人族やアラクネの戦士達も果敢に立ち向かってはいるものの、山を前にしているかのような威圧感を放つ巨体に反し、ゲレンの身のこなしは風のように素早く、両種族を上回る身のこなしを見せて、一矢を報いることも出来ずにいる。
問題なのは立ちはだかる強敵ばかりではなかった。魔界化した森の深部まで来た為に、例え戦わずとも居るだけ瘴気対策の為の薬や魔力を消耗し続けている。
攻めあぐねて時間を浪費するだけでも、エンテの森の戦士達にとっては真綿で首を絞められている様なものだ。
そうともなれば焦って迂闊に前に出てしまう者が何人か出るのが必然というもので、今も他の戦士達の制止を振り切り、焦燥に美貌を焦がしたアラクネの戦士が弾丸のような跳躍でゲレンの足元に斬りかかる。
黒い甲殻に黄色の線が三本入った、年若いアラクネである。
肩口で切り揃えた青い髪の中に時折赤い六つの蜘蛛の目が覗き、人間と同じ造作の目には自分の故郷を穢す敵への憎しみと怒りが渦を巻いていた。
蜘蛛足が爆発的な跳躍力を与え、アラクネは両手で握った黒光りする槍を突き出した構えで、ゲレンの踝へと迫る。
その姿に気付いたギオや他の部隊の者達が、同じように突っ込んで返り討ちにされた仲間達の姿を脳裏に思い描き、口々に制止の叫びを上げる。
「いかん、一人で突っ込むんじゃない! 彼女を援護しろ」
ギオの声が耳に届くのとほぼ同時にギオの部下のウッドエルフやアラクネ達はその用意を整えていたが、皮肉にもアラクネの俊敏性が援護の手が間に合うよりも早く、ゲレンの間合いにアラクネの少女を運び込んでいた。
「やあああ!!」
「ふん、小虫か。潰す手間が面倒よな」
熟練の戦士でも気付く間こそあれ反応するのが難しいアラクネの動きではあったが、ゲレンは地を這う小さな影の如きアラクネを見失うことなく捕捉していた。
無造作に、それこそ自分にたかる小さな虫を人間がいくらかの煩わしさと共に掃うのと同じ感覚で、右手の斧をアラクネの正面に突き落とした。
斧の先端を下に向け、それを真っ直ぐ下に突き落とす。
言葉にすればたったそれだけの動作であったが、アラクネにとっては自分に落ちてくる斧は生と死との境界を定める審判者にも等しい。
自分の槍が届くよりも早く、敵の斧が自分の身体を押し潰す。
残酷だが揺るがし難い現実をアラクネの少女の心が理解した時、やや釣り目がちでくりくりとした瞳を恐怖の色が塗り潰した。
だが焦ったアラクネの女戦士がまた一人、新たな犠牲者となる運命を、そのアラクネの右横から駆け抜けてきた銀色の風が防いだ。
己が落ちるよりもほんのわずかに速くアラクネの少女のか細い腰に腕が回され、銀色の風はそのまま大きく横に飛ぶ。
地面に突き刺さった斧を中心に蜘蛛の巣状に罅が四方へと広がり、地面が大小の塊に吹き飛んで、力も技も使われていないと見えた一撃が二階建ての家屋くらいなら跡形もなく吹き飛ばす威力があったことを証明していた。
ゲレンが身体ごとアラクネの少女とその救い主たる銀色の風――クリスティーナを振り返った。
唇を真一文字に引き締めたクリスティーナを見て、ゲレンの瞳に喜びの光が瞬いた。ゲレンにとって大本命たる敵が、ようやく姿を見せたのである。
「怪我は無いか?」
クリスティーナは鮮血を凝固させたように赤い瞳をゲレンに向けたまま、左腕に抱えていたアラクネの少女を地面に下ろした。
生死の交差する一瞬に唐突に姿を見せた救い主へ、アラクネの少女はしばし呆然とした視線を向けていたが、やがてゆっくりと口を動かした。
「は、はい。大丈夫……です」
「そうか、ならよかった。あの者との戦いは私が引き受ける。君は下がりなさい」
心ここに非ずといった調子のアラクネの少女の声に、クリスティーナはゲレンから視線を外し、ふっと柔らかな笑みを浮かべ幼い子供を諭すような優しい口調で言った。
クリスティーナの人間離れした美貌と柔らかな笑みと声、そして死を間近に感じた窮地を救われた事で、アラクネの少女は魂まで奪われた様な瞳をクリスティーナに向けていた。
瞳は潤み、死の息吹を浴びた筈の頬は薔薇の色に染まりつつあった。
このアラクネの少女がクリスティーナにどのような感情を抱いたのか、誰の目にも明らかであろう。
クリスティーナはここに至るまでの戦いで、先陣を切ると同時に窮地に陥った者達を助ける戦い方を第一に置いており、このアラクネの少女に限らず何名かの窮地を救っている。
そうしてクリスティーナに救われた者達は種族や性別を問わず、このアラクネの少女と同じような表情を浮かべ、熱い視線をクリスティーナに向けていた。
クリスティーナの腕から解放されたアラクネの少女は、今居る場所が死と言う名の大穴に渡された一本の綱の上にも等しいという事を忘れ、胸の奥を熱く疼かせる感情に支配されていた。
「はい、言われたとおりにします。私、イジェリです。ありがとうございました、お姉様」
「ああ、早く下がりなさい」
お姉様? と内心で首を捻りながら、クリスティーナは再び赤い瞳をゲレンへと戻した。
この様子ではイジェリを始め、自分が助けた者達の心を奪ってしまっている事に気付いてはいないらしい。
魔界の斧騎士は斧を両手で握り、水平に構えてクリスティーナが振り返るのを黙って待っていた。
ゲレンとクリスティーナが対峙する前後で、ギオや他の戦士達が命じた援護の矢や魔法は放たれていない。
クリスティーナの技量を昨夜の防壁での戦いで目にした者達が、慌ててそれを止めさせたのだ。
クリスティーナに近しい技量の主でも無ければ、援護の筈の矢や魔法が却って邪魔になってしまうと理解していたからであり、そしてその判断はきわめて正しいものだった。
愛剣エルスパーダの切っ先を右下段に流し、クリスティーナは全身に自分の意思と魔力とが寸分の狂いなく通るのを確認しながら仕掛ける機を伺った。
エンテの森に来る時に身に着けていた鎧は今も着用しているが、目の前の斧騎士相手では気休めにもならない。
一撃も受けずにどうにかして目の前の斧騎士を倒すしかない。クリスティーナに課せられた勝利条件は、困難なものと誰しもが認めよう。
「おう、クリスティーナとやらよ。お前の仲間共は余計な横槍をせぬだけの分別があるようだな。十分に食い、十分に眠り、十分に英気を養ったか?
おれはお前との戦いを楽しみにしていた。こちらも魔兵共に手出しはさせぬ。存分に命の削り合いと行こうではないか、超人種の女よ」
「楽しみに待って貰っていたのは光栄ではあるが、超人種などと聞いた事もない言葉を押し付けられても困るな。だが、今回ばかりは決着を着けずに終わらせるわけには行かないだろう。私も持てる力の全てでお前を倒す」
「はっはっはあ、そうよ、そうでなくてはつまらん。おれさえ倒せばここの魔界門を破壊する事は容易かろう。だがおれを倒す事こそが最難関の問題よ。
そうら、一刻も早くおれを倒さねばこの森はますます魔界と化して行くぞ。時が経てば経つほどこの森の者達の故郷は失われてゆくのだ。それを心して掛って来い」
「言われなくても分かっている。分かっているから、こういう戦い方もさせてもらう!」
水に沈むように腰を落としたクリスティーナが、前傾姿勢で正面のゲレンへと駆ける。
踏み込む一歩がクリスティーナの身体を押し出し、ゲレンが言う所の超人種の肉体は人間の規格を超える速さを与える。
純銀の長髪を翻し、燦然と輝く陽光は銀の髪に砕けて無数の真珠と変わり纏わりついた。
そのクリスティーナの頭上を、幻影の大蛇がしゃっと鋭い吐息と共にゲレンへと襲い掛かった。
クリスティーナの背後に陣取っていたセリナが、無言の呼吸でクリスティーナが駆けだすのに合わせ、ラミア種の固有魔法を発動させたのである。
「ジャラーム!!」
「ぬはははは、もちろんラミアの娘、セリナと言ったか。お前の事も覚えておったわ。こちらはもとよりお主ら二人と昨夜の続きをするのが目的。一騎打ちなどとは一言も口にはしておらん。望む所よ!」
人間ならまとめて三人も四人も丸飲みに出来る大蛇を、魔力と呪いで形作られた幻影とはいえ、ゲレンは巨大な岩を荒々しく削ったような左拳をまっすぐに突き出し、大蛇の頭部を殴り飛ばす事で応じた。
幻影の大蛇の頭部はまるで頭部の内側で爆発が生じたかのように吹き飛び、見る間に大気に溶けるように消えて行く。
飛び散る大蛇の血肉が溶け消える中を、クリスティーナは走った。体躯の差からゲレンの腰から上に刃を届かせるのは極めて難しい。
自然とクリスティーナの狙いはゲレンの下半身、特に脚部へと絞られる。
ゲレンにとっても自分の半分以下の背丈しかない相手を、それも俊敏に動きまわる相手を狙うのは同じ体格の者を相手にするよりも難しい事ではあったろう。
だがそれを補って余りある体力と頑健さ、そして一撃で必殺となる破壊力がゲレンにはあった。
既にエルスパーダの刀身に刻まれた魔法文字と、柄に嵌めこまれた魔晶石は青い光を放ち、その刃に凄まじい切れ味を付加している。
強靭なるゲレンの肉体といえども、この魔剣をクリスティーナが振るえば斬る事が出来るのはすでに昨夜の戦いで証明済みだ。
恐れを知らぬ様子で正面から迫りくるクリスティーナに対し、ゲレンは斧をこちらも馬鹿正直に正面から叩きつけた。
振り被る動作は無く、肩と肘と手首とを連動させて最小限の動作。この境地に至るまで一体どれだけの戦場を駆け巡り、どれだけの屍の山を築いた事だろうか。
巨人族の屈強な戦士も絶命しよう斧の一撃を、クリスティーナは二歩分右にずれて避けた。
風を抉る勢いで斧が自分の左側を通過し、抉られた風に銀髪が根元から引きちぎられそうな勢いで煽られる。
頬を打つ風に皮を引き剥がされそうな気さえした。
斧との刹那の交錯を終えたクリスティーナは、疾走の勢いをそのままに駆け抜けざまゲレンの左足の脛を思いきり斬りつけた。
人間の胴体ならば例え鎧を着こんでいても水を斬るように両断する、クリスティーナの人外の斬撃である。
だが流石にゲレンはクリスティーナの一撃を、右足を軸に左半身を引く事で回避し、刃が過ぎ去った後にはその軌跡をなぞるように左の回し蹴りを放つ。
ごお、と風の唸る声を伴い放たれたゲレンの左回し蹴りは、クリスティーナが一瞬前まで居た空間を薙ぎ払い、原型を留めぬ肉塊に変える事は無かった。
かろうじてゲレンの左回し蹴りよりもクリスティーナが駆け抜ける方が早かったのだ。
ゲレンは左回し蹴りの勢いをそのままに巨躯を回転させ、自分の背後に回ったクリスティーナを振り返る。
回転の中心軸となったゲレンの右足は、凄まじい回転の速さと勢いに地面を抉り、踝までが地面に埋まっていた。その動作の最中、既に二発目の魔法の詠唱を終えていたセリナの蛇眼が、ゲレンを射抜いた。
「地の理よ 我が声に従い 見えざる頸木と鎖とを解き放ち 天より降り注ぐ災厄を形なせ」
昨夜見せたのよりも強大な魔力を、全身から陽炎のように立ち昇らせるセリナが両腕を頭上に掲げ、魔性の響きと旋律を持った詠唱を進めて行く。
すると次第に周囲の土や岩が一斉に浮かび上がり、それがセリナの頭上にまるで見えない穴が開いて吸い寄せられているかのように集まって行く。
見る間に土の集合体は大きさを増して行き、ゲレンの三倍はあろうかと言う巨大な岩塊を作りあげた。
重力と引力とに干渉し、大気中の塵や地面の土や岩を材料にして作り上げた岩石を敵に落下させる、上位の地属性理魔法である。
「ガイアストライク!!」
セリナの頭上に形なし、大地に大きな影を落としていたが岩石が、セリナが両腕を振り下ろすのに合わせ、岩石は身震いするかのように数度震えた後、飛燕よりも早くゲレンを目がけて落下する。
高度と距離こそさしてないとはいえ、これだけの巨大質量が高速で激突すればいかなゲレンとてただでは済むまい。
本来であれば大軍勢か城砦破壊用に用いられる攻撃魔法なのだ。
ゲレンにいつでも斬りかかれるようさほど距離を置いていなかったクリスティーナが、セリナの行使した魔法にえっという意表を突かれた表情を浮かべ、慌てて距離を開いた事からもその威力のほどが伺える。
自分を完全に覆い尽くす大きさの岩塊に視界を埋め尽くされながらも、ゲレンは悠然と構えて怯えの色はわずかも無かった。
多くの戦場と長い時を共に過ごした斧を両手で構え、その尖端を大きく右後方に退き、刃に闘気と魔力とが集束されてゆく。
「小癪な魔法を使いよるわ。ぬええええいいいいいいい!!!!!」
轟ッ! と音を立ててゲレンの斧を漆黒の燃える炎が包みこんだ。それは燃えさかる炎の視覚的形状を取ったゲレンの闘気と魔力に他ならない。
物質化し、質量を持つに至るまで圧縮された莫大な量の闘気と魔力とを纏い、斧は落ち来るガイアストライクの大岩石に叩きつけられる。
いくらこの魔界の斧騎士とはいえ無謀な、だがもしかすれば、とクリスティーナは相反する考えを抱いたが、その答えはすぐさま最もわかりやすい形で提示された。
鼓膜が破れるような轟音にわずかに遅れて、ゲレンの斧が叩きつけられた箇所から大岩石に亀裂が走り、大岩石の形状を固定し動かしていたセリナの魔力諸共に大小無数の破片へと砕かれたのである。
ゲレンの凄まじい一撃によって砕かれたガイアストライクの破片が、森の戦士や魔兵といった敵味方を問わず周囲に降り注ぎ、クリスティーナとセリナとゲレンの死闘を見守っていた者達が大慌てでさらに距離を取るべく離れて行く。
天空より無数の岩石を周囲に振らす攻撃魔法が発動したかの様相になる中で、クリスティーナはそれらを縫うようにして疾駆し、渾身の一撃を放ち硬直状態にあるゲレンへと斬りかかった。
ぞっとするほどすぐ傍を、ゲレンの一撃で砕かれ赤く熱せられた岩石が落ちてくるのにもかかわらず、クリスティーナの美貌が恐怖に翳る事は無かった。
風の精霊でも逃げられそうにない速さと巧みな身のこなしで迫るクリスティーナに対し、渾身の一撃を放った直後の硬直状態にあったゲレンは回避するも防御するも遅きに失した。
風の速さで迫り、それ以上の速さで振るわれたエルスパーダは、ゲレンの右脹脛の裏を斬って黒血を噴き出させた。
クリスティーナはそのまま淀みの無い動作で第二撃を見舞う。
左から右へと振るったエルスパーダの切っ先を翻し、今度は右の向う脛へと刃を叩きつけるべく腹腔に気合を溜めこむ。
「そう易々とはなあ!!」
エルスパーダを振る一瞬前、クリスティーナは硬直状態から脱したゲレンが斧を振りかぶる動作に気付き、動き始めていた肉体に攻撃から回避へ転じるよう全力で命令を出す。
ゲレンは斧を右手一本で握り直し、斧の先端で地面を擦るような上弦の月を描く軌跡で斧を振るう。
クリスティーナからすると、途方もなく巨大で分厚い斧の刃が振り子のように襲いかかってくるかのように見え、さしたる抵抗も無く真っ二つにされる自分の姿が容易に想像できた。
「させません! タイタンフィスト!」
セリナの怒声が戦場に響き渡った瞬間、ゲレンの正面の地面が見る間に隆起するやゲレンの巨体に匹敵するほど巨大な拳が形作られて、斧を振るう最中のゲレンを真っ正面から殴り飛ばす。
「ぐおお!?」
これにはゲレンもたまらず吹き飛んで、重々しい響きを立てながら地面の上を何度も跳ね跳んだ。
それでも最後には軽やかに空中で回転し、足から地面に着地して見せたのは流石と言うべきだろう。
強打され、全身に走る痛みに顔を顰めつつ、ゲレンは少なからぬ驚きに襲われていた。
「むうう、面妖な。魔蛇の魔力に竜種の魔力が微量だが混じっておるわ。ふふ、思った以上に面白い敵と巡り合えたか!」
セリナのガイアストライクから続けての上位魔法の連続行使に、クリスティーナもまたゲレンとは違った驚きを覚えていた。
クリスティーナの把握していたセリナの実力では、ガイアストライクから次の魔法を発動させる為には、まだいくばくかの間を置かねばならぬ筈だったからだ。
「大したものだな。昨日の時点でも十分凄かったが、今日はまるで別人じゃないか、セリナ」
「なんだか自分でも分かりませんけど、今日はものすごく調子がいいんです。ドランさんから貰った魔晶石と地精石のお陰もありますけどね!」
そう言ってセリナは好調の種明かしに、両手に握っていた魔晶石と地精石をクリスティーナに見せた。
ドランがディアドラに告げた万が一の備えである。
魔晶石はドランが自身の魂から抽出した竜種の魔力の結晶体であり、さしずめ竜魔晶石とでも呼ぶべき特殊な品であった。
また今朝がたセリナには、寝ぼけて吸っていた精気とはまた別に、ドランから改めて精気が与えられている。
セリナに吸収しやすいようにドランが調節した精気によって、セリナの心身はかつてないほど好調となっていた。
竜魔晶石と特別な精気によって、今のセリナは生まれ持った本来の魔力をはるかに越えた量の魔力を扱う事が出来るのだ。
その為か普段は温厚で大人しい気質のセリナが、今回ばかりは身の内に滾る力を持て余して、普段よりも好戦的かつ攻撃的になっていた。
「まだまだ行きますよ! 我が血に流れる魔蛇の毒血よ 我が魂を縛る魔蛇の呪いよ おお 我は忌まわしき汝らに請いたもう 呪いの咆哮を挙げよ 毒を撒き散らせ 生命を憎め」
セリナの身体から噴き出す赤紫色の魔力の強大さに、クリスティーナとゲレンとがそろってはっと目を向けた。
今この瞬間も竜魔晶石からセリナへは膨大な魔力が提供されていて、セリナはほとんどラミアの皮を被った竜にも等しかった。
赤紫色の魔力は一つの身体に八つの首を生やした多頭蛇を形作る。
昨夜の戦闘でゲレンを相手に使った七つ首の多頭蛇の、さらに上位に位置するラミア種固有魔法。
現状、セリナの扱える固有魔法の中でも最強の呪文の一つであった。
「エウン・ジャラーム!!」
実際のヒュドラさながらの巨躯を誇るエウン・ジャラームは、多頭蛇でありながら竜種の魔力を漲らせ、魔界化した風と大地を魔蛇の呪いで浸食しながらゲレンへと迫る。
魔法の標的にされていないクリスティーナでさえ、思わずぞっとしたものが背筋に走る迫力と呪いの塊であるエウン・ジャラームを前に、ゲレンはそれこそ人型の山脈の如く不退転の気迫を持って斧を構えて迎えうつ。
赤黒い鱗からやはり赤黒い魔力を残火の如く放出しながら、エウン・ジャラームは八つの首から呪毒の液を滴らせてゲレンへと襲いかかった。
「ぬうん!!」
これまでの幻影の大蛇がゲレンの斧や拳によって呆気なく砕かれたのに対し、エウン・ジャラームは竜種の魔力が混合している事に加え、もはや幻影とは思えぬ密度を持っている事で、一撃二撃を受けても砕ける事は無かった。
ゲレンは、呪毒の息を吐きながら噛みつかんと迫る首を斧で払い、四肢を拘束しようと絡みついてくるいくつもの首を手で打ち、足で蹴り飛ばして牽制する。
呪毒液が触れる端からゲレンの甲冑状の肉体は真っ黒い煙を噴き、瞬く間に糜爛し、腐れ落ちて行く。
頭と首に牙を突き立てようとしてきた三つの首を纏めて左脇で抱え込み、大蛇の赤黒い魔力で皮膚を焼かれながらも、ゲレンは一息に力を込める。
ぼこっとゲレンの左腕が明らかに一回り巨大化し、赤黒い鱗と骨とが纏めて砕ける音が連続し、それだけに留まらず三つの首はゲレンに抱え込まれた所から断たれた。
腕を占めて無理矢理に断たれた三つの首は、魔力に分解される事なくそのまま地面に落下し、ぐちゃぐちゃに崩れている断面から真っ赤な血を溢れさせる。
びくびくと大きく痙攣する三つの首を解放したゲレンが、残る五つの首も落とさんと殺気にぎらつく瞳を向けた時、エウン・ジャラームの背中を駆け登るクリスティーナの姿が飛び込んできた。
ゲレンにとっては猛毒として機能したエウン・ジャラームの魔力は、セリナの精密な操作によってクリスティーナにはなんら害を及ぼしてはいない。
クリスティーナごとまとめてエウン・ジャラームを叩き割ろうと、ゲレンは斧を振りあげようとしたが、その動作をセリナは見逃さず、残る大蛇の首の内二つがゲレンの右腕に絡みつき、内一つがゲレンの二の腕に呪毒の牙を深々と突き立てる。
「おおお!!」
力強くエウン・ジャラームを蹴ったクリスティーナは、弦から放たれた矢のごとく宙を飛び、すれ違いざまにゲレンの右頸部を斬った。
首の三分の一近くを斬られたゲレンだが、それでもなお絶命には遠く、ふん、と小さく唸るやその脇腹に八つの穴が開き、その穴から先端が鋭く尖った黒い杭のような棒が飛び出て、エウン・ジャラームを串刺しにする。
串刺しにされたエウン・ジャラームがまるで生ある者の如く苦悶に震え、その背中からは赤黒い多頭蛇の血に濡れた黒い杭棒が飛び出ていた。
エウン・ジャラームの輪郭から徐々にぼやけて行き、竜種の魔力混じりの八つ首の大蛇が虚空に溶け消えて行く。
「あれは、まさか肋骨!?」
自分の持つ最強の魔法の一つを打ち倒したモノの正体に気付き、セリナは青い蛇眼を見開いて、ゲレンの脇腹から伸びる真っ黒い肋骨を凝視した。
「ふふん、察しが良いな。ちょっとした肉体操作よ。この甲冑とておれの皮膚を硬化させたもの。骨くらいは操作できるのよ」
ゲレンはさして自慢するでもなく言い、脇腹から伸ばした肋骨の先端をセリナへと向ける。やや湾曲した肋骨は脇腹に戻る事は無くそのままセリナへと一気に伸びた。
八本の脇腹は大気の壁を貫いてセリナへと迫る。セリナは魔法の詠唱を急遽打ち切り、蛇の下半身で地を這い、一本二本と黒い肋骨による串刺しを避ける、避ける、避ける!
だが黒い肋骨はただ真っ直ぐ伸びるだけではなく、素早く動くセリナの後を追って空中で曲がり、細く枝分かれしながら美しい蛇娘を執拗に追い続けた。
「しまっ」
「殺ったぞ、蛇娘よ!」
四本、五本、六本と避け続けたセリナだったが、どんどんと数を増やす肋骨をついに避けきれず、前後を肋骨の槍に挟まれて逃げ場を失ってしまう。
一本一本が大盾や大鎧もあっさりと貫通するだけの鋭さの肋骨だ。セリナが展開できる魔法障壁では、その全てを防ぐ事は出来ない。
逃げ場がない事を悟ったセリナの身体が死の予感に硬直し、無惨にも人蛇混合の身体にいくつもの穴が開けられるかと見えたその直前に、セリナがまだ手に持っていた竜魔晶石がそれまでとは違う白い光を発した。
「え、わ、ドランさんから貰った魔晶石が守ってくれた?」
ドランが保険として渡しておいた竜魔晶石は、セリナの生命の危機に反応して見事にその役割を果たし、セリナに迫っていたゲレンの肋骨を見る間に消し飛ばしてみせる。
竜魔晶石の放つ白い光を絶対不可侵の境界とし、白い光の内側にはほんのわずかも肋骨は進む事が出来ず、次々と白い光の中に塵と変わって行く。
「ぐおおおおおお、これは神代の竜種の…………!!」
竜魔晶石の放つ拒絶の白光は肋骨を通じてゲレンにも痛打を与え、ゲレンは肋骨の槍を脇腹から切り離して、即座に竜魔晶石からの激痛を遮断せざるを得なかった。
わずか一瞬で体内を蹂躙した竜種の魔力に、ゲレンはゲオルグの漏らした呟きを思い出していた。
あまりの激痛を堪え切れずゲレンはたたらを踏み、戦場にあるまじき致命的な隙を作ってしまう。そして、それを見逃すほどクリスティーナは甘くは無かった。
「はああ!!」
「ええい、ぬかったか!?」
こちらに背を見せるゲレンに、クリスティーナは大地を蹴り、風を纏って一時的に飛翔力を得て斬りかかる。
狙いはゲレンの頭部。縦に二つに割るか、首を刎ねるか。そうでもしなければこの魔界の巨騎士の命運を断つ事は叶うまい。
休みなく心身を蝕む竜種の魔力に耐えながら、ゲレンは重心を崩しつつも背後に迫るクリスティーナへと風を巻いて回転し、斧を叩きつけた。
当たれば肉体が千と散り、万と砕ける威力で斧を振り切ったゲレンは、空を切った手応えとわずかに斧の重量が増した事に違和感を覚え、すぐさまその正体を悟った。
クリスティーナは空中で斧を回避するでもエルスパーダで受けるでもなく、斧の刃に着地し、斧に施されている精緻な装飾のわずかな凹凸に指を引っ掛けてしがみつくという芸当をしてのけたのである。
ゲレンが斧に漲らせた闘気と魔力に凹凸を掴む左手を焼かれながら、クリスティーナは焼かれる苦痛を噛み殺して、一気に駆けだした。
昨夜はゲレンの左腕を駆け登ったが、今度は斧から伝って右腕の上をクリスティーナは駆ける。
ゲレンは昨夜と同じように身体を回転させてクリスティーナを振りほどこうとしたが、クリスティーナの足は昨夜よりもより早く、そしてセリナの魔法がゲレンを阻んだ。
「地の理よ 我が声に従え 我が敵を縛る堅牢たる鎖となれ アースチェインバインド!」
魔界化した土が見る間に一つ一つの輪が巨大な鎖となり、それぞれが意思を持った生物の如く鎌首をもたげてゲレンの全身を縛る。
何重にも絡みつき、ゲレンを拘束するその様は、さながら無数の大蛇が獲物を絡め取っている姿のようにも見えた。
ゲレンの力ならばこの大地の生きた鎖とて、瞬く間に引き千切れよう。だがその瞬く間がこの場に限っては生死を分かつ間であった。
クリスティーナは駆けた。
セリナが生み出した絶好の機を逃さず、ゲレンが身動きできぬ間を無為にせず、一歩を踏みしめる毎にゲレンの闘気に肉を焼かれながら。
主の戦意と闘志に呼応し、クリスティーナの手の中のエルスパーダは一層青い光を強めている。
陽光を跳ね返すほどに眩い輝きを放つエルスパーダを、クリスティーナは今日ほど頼りに感じた事は無かった。
「覚悟!」
「ぬええええいいい!!」
身じろぎも出来ぬゲレンは、しかし額の内側からどんな軍馬に乗っても扱えぬ騎上槍を思わせる角を出現させた。
額を突き破った角は黒い血を滴らせながら、迫りくるクリスティーナの顔面を貫くべく伸びる。
お互いに向けて迫る両者に背筋の凍る交錯の瞬間が訪れた。
ゲレンの黒血を纏う角をクリスティーナは半身になって回避し、青いリボンで束ねた銀髪が数本、角に貫かれて宙を舞う。
間一髪でゲレンの最後の抵抗を回避したクリスティーナは、一切の躊躇なくエルスパーダを振るう。
分厚い鉄、弾力のある肉、そして骨をまとめて断つ手応えが刃を通じて伝わり、クリスティーナの視界に刎ね飛ばされたゲレンの首が映る。
ゆっくりと落下しつつあるゲレンの首とクリスティーナの視線とが交差し、クリスティーナはゲレンの首が笑んだ様な気配を感じ取った。
「見事、見事なり!」
実に心底から満足した声を挙げてゲレンの首は地面に落ち、本来在るべきではない世界で死を迎えた為に見る間に形を失って崩れ始め、同様に崩れ始めたゲレンの身体からクリスティーナが飛び下りた時には、一握の砂さえ残ってはいなかった。
クリスティーナはゲレンの最後を見届けてから、ゆるゆると糸のように細く息を吐く。
まだ魔兵が残っているとはいえ、目下最大の敵を倒した事からクリスティーナはわずかに精神を弛緩させる事を自身に許した。
もちろん周囲を警戒する意識は残した上での話である。
補助の魔界門破の最大の壁であったゲレンが倒れた事に、周囲のエンテの森の戦士達から数瞬の間を置いて一斉に喝采の声が上がった。
クリスティーナとセリナとゲレンとの戦いを、固唾を呑んで見守っていた森の戦士達が雄叫びを挙げて魔兵の掃討に一斉に動き出す。
ゲレンとの戦いで乱れた呼吸と消耗した魔力とを回復する為に、クリスティーナが深い呼吸を繰り返していると、こちらは竜魔晶石の恩恵もあってさほど消耗していないセリナが心配の顔色で近づいてきた。
「大丈夫ですか、クリスティーナさん。なんとか倒せましたけれど、二度と戦いたくない相手でしたね」
ドランからお守り代わりに貰った竜魔晶石を大事に両手で胸元に抱き締めるセリナに、呼吸を整え終えたクリスティーナが周囲へ視線を走らせつつ応えた。
表情はいまだ戦場のただ中とあって険しく引き締められているが、セリナへ応えた声音は優しく柔らかく、なによりも温かみがあった。
「私は大丈夫だ。私の人生であんな敵と戦う事になるとは思わなかったよ。ところでセリナこそあれだけ強力な魔法を連発するとは、また無茶な事をしたな」
「ドランさんから貰った魔晶石のお陰でへっちゃらです。それに朝にずいぶん精気を分けて貰いましたからね。これだけ頑張れたのはドランさんのお陰です。えっへん」
にこにこと笑うセリナの表情を見て、クリスティーナはまるで惚気話を聞かされているみたいだな、と心の片隅で思ったがそれは口にしないでおいた。
そういう場でも時でも無いのは分かっていたからだ。逆にセリナはゲレンを倒した事で少し気を抜き過ぎているようで、クリスティーナは釘を刺すべきかなとも迷っていた。
「私達は勝てましたけれどディアドラさんとドランさん達は大丈夫でしょうか?」
笑顔から一転して表情を曇らせたセリナの心配に、クリスティーナは首肯して同意を示す。
ここに向かう途中、オリヴィエ学院長達が向かった先に居たゲオルードの移動をどうやってか把握したドランは、ごくわずかな説明をしただけでクリスティーナ達とは別行動をしている。
「ドランなら大丈夫、と根拠なしに思っていたが、ゲレンの手強さを身を持って味わうとやはり気になるな。
だが、別々に行動している以上、私達は彼の無事と強さを信じるしかないよ」
「……はい。そう、ですね。ドランさんの強さは良く知っているつもりです。ドランさんなら、うん、きっと大丈夫」
「ああ。さあ、私達も戦いに加わろう。ここの魔界門を破壊して、他の皆と合流しないとな」
セリナにそう答えながら、クリスティーナは自分の胸の中にだけ秘めている疑問を再び脳裏に浮かばせた。
――しかし、ドランが私達と別行動を取って少しした時に感じたあの感覚は何だったのだろう?
それはドランが自らの肉体に竜の翼を生やし、肉体機能の大部分を竜化させた瞬間と一致していたのだが、ドランはその事を知らずまたクリスティーナも感じたものがなんなのか知る由も無かった。
ドランの竜化と同時にクリスティーナの身体を襲った感覚がなんなのか、それが分かるのは少なくともこの時ではなかった。
*
クリスティーナさんとセリナがゲレンを倒した、か。
私は六枚の翼を羽ばたかせ、眼下の地面に着地しながらクリスティーナさん達の勝利と残りの補助の魔界門も全て破壊された事を確認した。
これで残るは主たる魔界門とゲオルグのみ。
だが補助がないとしても主たる魔界門さえ残っていれば、世界を魔界化させる事は出来る。
魔界から更なる強敵がこちら側にやって来るよりも前に、そしてこれ以上エンテの森が異形の姿に変えられるよりも早く、魔界門を破壊しなければなるまい。
魔兵達の気配は数百と感じられるが、魔界門からはいずれも距離を置いている。
おそらくゲオルグが私との戦いに余計な邪魔を入らせないように配置したのだろう。
私は、サイウェストの村の長老の木にも負けず劣らず巨大な魔界門を前に立つゲオルグを見下ろしていた。
周囲に木々は無く地面は平らに均されているが、もっとも魔界化が進んでいる事もあり、風には瘴気と魔力の濃度が高く、魔界門の真上には灰色の雲が広がり紫色の雷が時折閃いている。
魔界門自体はぴたりと閉じているが、地面も所々で心臓のようにどくんどくんと膨れ上がっては縮み、時折赤やら黄やら紫やらと様々な色の液体が滲み出していた。
一口に魔界と言ってもその環境は様々だが、共通してこの主物質界の住人にとっては住むに堪えぬ過酷な場所である。
翼の一打ちごとに瘴気を掃って緩やかに降下してくる私を、ゲオルグは黙って見上げていた。
昨夜とは纏う闘気の質と気迫とが違う。ある種の覚悟を決めた者特有の雰囲気を、私はひしひしと感じた。
「お前の仲間達とその他の魔界門は全てこの世界から排除されたぞ、ゲオルグ」
「いずれも死力を尽くした戦いの果てに待っていた結果なれば、それを嘆く必要はありますまい。
我ら等しく闘争に輝く生と死の交錯と輝きに魅入られた悪鬼なのですから」
ゲオルグの私に対する態度は、明らかに昨夜での好敵手と見込んだ相手へのそれとは異なっている。
私に対する畏敬の念さえ感じる事が出来た。これは、私が竜からの転生者であるという事以上の何かを知ったのかもしれない。
だからといって私がする事に変わりは無いが、潔ささえ感じられる態度の敵に私もまた自身の態度が変わるのを実感した。
「その潔さをもっと別の形で活かせる事が出来たなら、お前達と敵対する事も無かっただろう」
「そのように言って下さるか。しかしながら自ら望み選んだ選択の結果でしてな。同情も憐憫も無用とお心得頂きたい」
「ならば、そうする事としよう。お前は私が討つべき敵。それ以上でも以下でも無い」
「そう来なくては。この両の眼にはかつて目にした貴方様の戦いぶりが焼き付き、今日に至るまで色褪せる事も薄れる事もありませなんだ」
「私の魂が何者であるか知ってなお戦いを挑むとは、戦闘狂という人種か。度し難いな。
おのれの無力を噛み締めて滅ぶのみぞ。かつて多くの悪しき神や魔の者達がそうであったように」
私が畳んでいた翼をゆっくりと広げ始めるのを見て、ゲオルグは三本の剣に手を伸ばす。
ゲオルグがかつて眼にした前世の私と比べれば、人間に生まれ変わった今の私はどうしようもなく弱ってはいるが、だからといって闘争の歓喜に魂を狂わせた狂戦士に敗れるほど落ちぶれた覚えは無い。
ゲオルグが全身から闘気を無数の煙のように立ち昇らせながら、三本の剣を抜く。硬質の鞘鳴りの音が尾を引いて私の鼓膜を揺する。
「ふふ、だからこそ戦う価値があると言う事がお分かりになりませぬかな。全力を尽くしてなお敵わぬ相手だからこそ、己の生命と魂を燃やす事が出来るのです。
かつてお仕えした戦神アルデス様と貴方様の戦いを見た時より、貴方様といつか刃を交える時をと願っておったのですよ」
「どこかで見た覚えがあったが、アルデスの元眷属か。曲がりなりにも善なる神の眷属が、今や魔界に堕ちた戦闘狂とは。アルデスは眷属の手綱を握るのが上手くは無いようだ」
「戦の最中に血に酔いしれる事、そして命の削り合いをする事に無上の喜びを覚えました故、神界より追われる事となりました。
さて、思わぬ所、思わぬ時に夢にまで見た貴方様との戦いの機を得た以上は、不十分な力しか振るえぬような場での戦いは望む所ではありませぬ。
よって貴方様にとっては甚だ不本意でしょうが、共に魔界へと堕ちて頂きますぞ」
ゲオルグの声と同時に魔界門を中心とした四方に一瞬一瞬で色を変える光の柱が天へと伸び、頭上の雲に達すると四本の光の柱が互いを結びあい、私は光の立方体の中に閉じ込められた。
だがゲオルグの狙いはこの光の立方体の中に私を閉じ込める事ではない。
それまで閉じていた魔界門がゆっくりと左右に開き、その奥に魔界へと繋がる空間の通路が覗き見えた。
魔界の瘴気を孕んだ風が吹きつけ、光の立方体の内部の空間が徐々に通常の空間と隔て始めているのが感じられた。
「さあ、我が魔界の領地へとお越しいただきましょうか、古の神なる竜よ!」
やはり、一時的にではあるがこの立方体内部の空間を魔界へと転移させるつもりか。時間制限付きの術式のようだが、中々豪胆な真似をしてくれる。
だが、他の者達からの横槍がないと言う事と他者の眼を気にせず戦えると言う点においては、私にとってもありがたい。
私がそう考えている間に、立方体内部と外部の空間が完全に断絶され、私とゲオルグは悪しき神々の世界である魔界へと、音も無く震えもなくただ静かに転移した。
「応じてもいないのに無理に招くとは、礼儀がなっておらんな」
空間を越える時に伴う軽い酩酊感と浮遊感の直後、立方体を取り囲む世界の雰囲気が明らかに変わっていた。
頭上を見上げれば見渡す限り様々な色彩に変化する空間が広がり、無数の光とも闇ともつかぬ何かが瞬いている。
それは数多の小魔界であり、あるいはこの大魔界に存在する太陽や銀河なのだ。
地上へと視線を移せば、広がっているのは荒涼無辺の言葉そのままの荒野であった。
「領地と言ったがなんとも寂しい場所に招かれたものだ。城の一つも無しとは」
白い埃があるか無きかの風に運ばれ、さらさらと私達の足元を流れて行く。
ほどなくして光の立方体が解かれ、私は完全に魔界に来た事を実感した。
随分と久しぶりに来たが、よもや人間に生まれ変わってからも来る事になるとは、まったく未来とは何が起きるか分からぬものだ。
「元々我らは流れの傭兵のようなものでしてな。王侯貴族のような暮らしとは無縁でありますので、何卒ご容赦を。
それにここは我らが私闘に用いる場なのですよ。趣の無い光景はどうぞお許しを。
では我がもてなしをどうぞお受け下さい。始祖竜の心臓、始原の七竜が一柱、神魔殺し、七彩の災厄、虹の滅び、悪しき神々より最も恐れられし竜よ!!」
魔界の瘴気と魔力とがゲオルグの全身に充溢し、その全身に亀裂が走って溶岩のように赤熱した体内が覗く。
無数の裂傷から血が溢れずに傷口が留まっている様にも見えるが、ゲオルグの変貌はさらに進み、巨体が一回りさらに大きくなり、全身に走った亀裂からは体内に収まりきらぬ闘気が目に見える濃度で噴出する。
両肩や頭部、肘からさらにねじくれた角が伸び、ゲオルグの本来の姿と力とがここに露わとなった。
「その意気やよし。お前の望みを叶えてやろう。ただし対価はお前の全存在の消滅だ」
「貴方様と刃を交えられるのならば、その程度の対価、支払うに迷い無し。されど、ただ負けるばかりと思いたもうな。その傲慢を我が剣を持って断ってくれようぞ!!」
私もまた翼を広げ、長剣に竜種の魔力を充溢させて交戦の用意を整え終えた。
ゲオルグが動く。本来の力が発揮できる魔界で、ゲオルグの力は昨夜とは比較にならぬ領域にまで高められている。いや戻っていると言うべきか。
ゲオルグの全身から放出される闘気はもはやそれ自体が武器として機能し、地上世界の存在では触れた者の霊魂まで破砕するだろう。
瞬く間に私との距離を詰めたゲオルグが大上段より振り下ろす三本の大剣。
「ふんんっっ!!!」
「はぁ!」
私の長剣――竜爪剣がまとめて三振りの大剣を弾き返す。
と同時に私とゲオルグの力と力とが衝突しあい、それは衝撃波となって周囲へと広がって魔界門の聳える荒野の大地は砕け、私達を中心に辺り一帯が大きく陥没する。
ゲオルグが弾かれた大剣を再び私へと三方から叩きつけて来るのを、三振りの内二振りは竜爪剣をもって弾き返し、首を刈りに来た横薙ぎの一閃は身をかがめて避ける。
身をかがめて避けた私に向けてゲオルグは左下腕の盾で殴りつけに来たが、私はこれに合わせて右の前蹴りを叩きつけて応じた。
私の蹴りを受けた盾は大きく窪み、その持ち主ごと大きく後方へと吹き飛んで行く。
荒野の中にぽつぽつと聳えていた岩山と激突しながら、ゲオルグは私から大きく距離が開いた場所で地面に足を突きさし、減速を懸けてからようやく止まる。
ゲオルグは上の両腕に握る大剣を天へと突き上げる。すると切っ先に黒雲が生じるやそれは見る間に広がって、荒野の空を全て埋め尽くした。
「天よ鳴け、天鳴殺!」
ゲオルグの命じるがままに黒雲に占められた空は鳴き叫び、闇色の雷が黒雲の中に煌めく。
更に下の右腕の大剣が地面へと突き立てられる。その大剣からも莫大な力が足元の地面を流しこまれ、瞬く間に大地もまたゲオルグの支配下へと変わる。
「地よ轟け、地轟殺!」
ゲオルグの大剣が突き立てられた場所を震源とし、荒れ果てた大地が立っている事もままならぬ地震が起きる。
六枚の翼を持って空を飛ぶ私に地震は意味を成さぬが、このまま終わるわけもなかろう。
私がゲオルグまで百歩の距離に詰めた時、いよいよもって黒雲の雷は数を増し、大地の震えは際限なく強まって行く。
そしてゲオルグは天を指していた大剣と大地に突き立てていた大剣を引き抜き、それぞれの切っ先を私へと向ける。
裂傷の走る兜の奥で光るゲオルグの瞳には、既に私に対する畏敬の念は無く、全力を持って屠るべき敵への闘志のみが輝いていた。
「受けい、天地双殺!!」
ゲオルグの叫び声と共に天からは雨の如く無数の黒雷が私を目がけて降り注ぎ、大地は無数に砕け散って巨大な大地の砲弾と化して私を目がけて撃ち出される。
魔界に満ちる魔力とゲオルグ自身の力を触媒としたこれらの攻撃は、私達が戦っていたエンテの森の最西端の一角を丸ごと吹き飛ばして余りある破壊力を持っていた。
私は降り注ぐ黒雷を避け、下方から打ち出される巨大な岩の砲弾を時に竜爪剣で斬り裂いて進み続けた。
ゲオルグの意思によって放たれた黒雷は通常の自然法則から逸脱したもので、私が回避した後も弧を描いて、私を追い雷の牙で食らいつかんと迫って来る。
大地の砲弾もまた同じで、重力の作用を無視した砲弾は私の頭上へと放たれた後、黒雷同様に私を追って来る。
いつまでも追いかけっこをしているわけにも行くまい。
私は背後をくるりと振り返りざま、竜爪剣に込めていた魔力の抑制を解放。
私の抑制を離れた竜爪剣の魔力は一挙に解放され、切っ先に至るまでの長さが頭上の黒雲を貫くほどに伸びる。
「まとめて斬り裂く!」
百万の雷を束ねたかの如く伸びる我が竜種の魔力の剣は、一気に天から地へと振り下ろされて、私を追っていた黒雷も大地の砲弾も、さらには頭上の黒雲に足元の砕けた大地さえもまとめて斬り裂く――というよりは飲み込んだ。
鼓膜を貫いて脳髄も震わす轟音の果てに、頭上の黒雲も足元の大地も私の竜爪剣によって真っ二つになり、そればかりか溢れる魔力によってそのまま大地は果てに至るまで崩壊して、無限に広がる万色の空間へと落下して行く。
大地は私の一撃でその面積の半分ほどが無くなり、頭上の黒雲は完全に消え去った。
再び魔力を抑制し元の大きさと長さに戻した竜爪剣を手に、私は今度こそゲオルグへとの距離を詰めるべく翼を羽ばたかせる。
「流石に容易くは行かんか。それでこそ、それでこそ待ち望んだ甲斐がある。我が三剣の閃光、見切れるか、三千大閃殺。けええええああああ!!!」
私へと向けて突き出されたままだった三振りの大剣が眩く光を発したその瞬間、大剣は一振りにつき一千の閃光の刺突と変わり、私の正面に閃光と化した切っ先が壁となって迫りくる。
物理的にも霊的にも万物を貫く閃光の切っ先を、私は長剣を左肩を跨ぐように構え、同じく左腕も五指を開いて右肩の上を跨ぐように構えて両腕を交差させる。
左腕に施している竜種への変異をさらに推し進め、私の左腕は肘から指先に至るまでが見る間に竜種の腕へと変わる。
皮膚は白い鱗へと代わり、指先には太く鋭い鉤爪が伸びた。
交差させた両腕を閃光よりも早く振り下ろし、私は眼前にまで迫っていた三千の閃光の刺突をまとめて粉微塵に砕く。
三千の閃光の刺突を粉砕した私は、両腕を振り下ろした姿勢から咽喉奥でぐうるるる、と野太い竜の唸り声を挙げる。
それは高位の竜種のみが扱う事の出来る、森羅万象、世界の法則の全てを己の意思で塗り潰す竜語魔法。
私は自らの声帯と肺腑、口内を前世のそれへと造り替えた。咽喉の部分を竜種へと変えた私は、口内に魔力を集中させて、圧縮と増幅を施した魔力を吐く。
竜語魔法と並び竜種の最大の武器の一つである竜のブレス。それを私はゲオルグを目がけて吐いたのだ。
「ぐるぅあああ!!!」
大きく開いた私の口の中には竜種の鋭い牙がずらりと並び、その口腔の奥からは真っ白い輝きが溢れだし、白い霧のようなブレスが私の前方の空間へと伸びる。
空中に散逸していた閃光の破片と大気中の瘴気を一切合財消滅させ、私のブレスはゲオルグの巨躯を飲み込まんと勢いを増す。
これに対しゲオルグは左下腕の盾で自らを庇い、さらに周囲の空間が唐突に陽炎が生じたかのように歪むと、歪んだ空間はゲオルグの盾の前方へと更にねじれながら集積して行く。
周囲の空間を引き寄せ圧縮し、ゲオルグは歪んだ空間の分厚い盾を作りあげたのだ。
空間そのものを盾とする以上、いかなる刃とて刃そのものか使い手が空間に作用する力なり技術なりを持たなければ、決して貫く事の出来ぬ無敵の防御が成り立つ。
だが時間も空間も、あらゆる物質を、あらゆる霊なるものを焼き尽くすのが真の竜種の吐息。
人間への転生による劣化を強いられたとはいえ、かつては竜種の最高位にあった我が吐息は、空間だろうが時間だろうがいまだ燃やすだけの力は残している。
その証明にゲオルグが展開した多重歪曲空間の盾は、私の光の霧のブレスに触れた端から刹那よりも早く燃えて焼滅してゆく。
間もなく全ての空間の盾が燃え尽きた時、ゲオルグは両上腕の剣を前方に振るうや歪曲した空間に裂け目が生じる。
ゲオルグはゆっくりと広がる裂け目に躊躇なく自分の身体を躍らせる。そして間をおかずに私の頭上に時空の揺れが生じる。
「こちらに跳んできたか」
私はブレスの放射を即時に中止し、頭上を仰ぎ見る。七色の輝きを宿した私の眼は、頭上の空間が×字に斬り裂かれ、その奥よりゲオルグの巨体が落下してくるのを捕捉した。
「御首級、頂戴仕る!」
「お前にくれてやるほど安い首ではない」
びょう、と大気を斬り裂いてゲオルグの大剣が私へと三筋の軌跡を描いて迫る。どの刃も、戦神の眷属神であった悪鬼が振るうに相応しい迅さと破壊力と鋭さがあった。
だが肉体の竜化と竜種の魔力の込め方も十分に把握できた。反撃と行かせてもらおうか!
竜化させたままの私の咽喉からは、戦に昂る竜の唸り声が零れ出る。
「ぐるあああ!!」
竜爪剣の一閃。私の右半身を叩き潰しに来たゲオルグの左上腕の大剣を、刃の半ばから木っ端微塵に砕く。
「ぬうう、まだまだあ!」
続いて隕石の如く落ち来るゲオルグの右上腕の大剣を、私は完全に竜と化した左腕で打ち払う。
こちらは本物の竜の爪は、五筋の軌跡を描いてゲオルグの大剣を六つに斬断。更に左腕を翻して五指を揃え、私は剣の如く並べた竜の爪でゲオルグの右上腕を肘から断つ。
そして三振り目。ゲオルグの右上腕の大剣は後方へと引き絞った体勢から、紫電よりも早く、そしてその紫電をも散らす勢いで突き出してくる。
それを私はさらに速い一閃を持ってゲオルグの大剣を握る手首ごと斬り飛ばす。
私に斬り飛ばされたゲオルグの右手が、大剣を握ったまま虚空をくるくると回転しながら飛んで行く。
断たれた右肘、右手首から血が噴き出すよりも早く、ゲオルグは苦痛もものともせずに左下腕の盾で殴りかかって来る。
私の視界を埋め尽くすゲオルグの盾に、私は両手で握り直した竜爪剣を真っ向から振り下ろした。
「我が全霊……」
私の振り下ろした竜爪剣の軌跡に沿い、ゲオルグの盾が、盾を握る手が、そして軌跡の先に在ったゲオルグの巨体の頭頂から股間までが、縦一文字に走った線に沿って上下にずれ始める。
それに遅れてゆっくりと、水が滲むようにして黒い血が溢れだす。
「ついぞ及ばず!」
溢れだす黒血がばしゃばしゃと滝のように落ちて大地を濡らし、私の一閃によって真っ二つになったゲオルグの身体が左右に分かれながら仰向けに倒れた。
私は緩やかに息を吐く。
ゲオルグが私を魔界へと引きずり込んだ術式は、魔界門とこれまで吸いあげたエンテの森の生命と、ゲオルグ自身の魂を糧に発動していたものだ。
ゲオルグ倒れた今、あくまで一時的に魔界へと引きずり込んでいたにすぎないから、術式は破綻し、多少の時間の経過と共に魔界門の辺り一帯はエンテの森へと戻されるだろう。
魔界門の破壊は地上へ戻ってから、か。
私は仰向けに倒れたゲオルグの頭部へと近づいた。私の一撃で肉体のみならず霊魂に至るまで真っ二つにされたゲオルグだが、まだほんのわずかに生命の灯火は残っていた。
「お、み……ごとに……ござい、ます。や……はり……敵わ……ぬ、御方か」
「貴殿も見事な気迫と闘志であった。アルデスに勝るとも劣らぬものがあった」
「おお、おお、その……よう、に……言って下……さ……るか。世辞とはいえ、光栄……にござ……います」
「しかしながら地上の罪なき民を無惨に殺した報いは受けねばなるまい。堕ちた戦神よ、私の振るった刃は貴殿らに命奪われた森の民の振るった刃と思え」
「は……その……よう……に心得……ま…………」
生命の灯火が完全に消えたゲオルグは、最後の言葉を言いきるよりも早く肉体の消滅が始まり、白と黒とが入り混じる光の粒子と変わって魔界の瘴気に消えて行った。
堕ちた戦神の最期の姿に、私はせめてもの敬意を表し、長剣を鞘に納めて瞑目した。
ゲオルグ達に命奪われたエンテの森の民よ、そなたらの仇はこの手で討った。故に、せめてこの瞬間、ゲオルグに敬意を表する事を許して欲しい。
次話でエピローグとプロローグのようなものを挟みます。

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