挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
さようなら竜生、こんにちは人生 作者:スペ / 永島 ひろあき

第十一話 魔性の森の進軍

さようなら竜生 こんにちは人生

第十一話 魔森進軍

 ディアドラとの会話を終えてデオに用意された部屋に戻った私を、クリスティーナさんとセリナにマールとフィオを加えた四人が迎えてくれた。
 扉から入って左右の壁際に寝台が二つずつあり、壁には花の活けられた花瓶と花の上で踊る妖精の透かし彫り細工のランタンが飾られている。

 板張りの床の上に巧妙精緻な刺繍の施された厚手の絨毯の上に横になり、たっぷりの綿や繊維状に解した植物の茎を包んだクッションに身を預けて、セリナ達はゆったりとくつろいだ姿勢を取っていた。
 大きく間取りを取られた窓には瀟洒なレースのカーテンが引かれて、カーテンを透かして差し込む月光は淡い白に染めているかのように見える。

「マールにフィオも来ていたのか。夜更かしをすると肌に良くないと聞くが」

 フィオはゆったりとした薄緑色の寝間着に着替えていた。
滑らかな光沢の美しい生地は、エンテの森固有の蚕の糸を用いた品だろうか。
 袖や襟には薄い布地がひらひらと何重にも飾られている。

 今後このような品が交易で手に入るようになったら、好事家の多い都市の方で珍重されてかなりの高値で取引できるかもしれない。
 そんな世俗的な考えが私の頭の片隅で産声を上げる一方で、フィオは私の言葉に手に持った木製の杯を持ち上げて答える。

「大丈夫。ファレエナの蜜入りのこのフラワーティーを飲めば、いつまでも綺麗な肌のままでいられるのよ」

 そう答えるフィオの肌にはおよそ染みや汚れ、ニキビの類は一切見られない。
 ウッドエルフに限らずエルフ種は総じて見目麗しい種族であるが、日常の飲食物もその美貌を支える重要な要素と言うわけか。

「ふむ、まだ肌に気を使う様な年頃ではないだろうに」

「女の子はちっちゃな頃から綺麗でいたいと思うものなのよ、ドラン」

 つんと澄ました顔で言うフィオの様子が面白くて、私は小さく肩を竦めながら答えた。

「それは一つ勉強になったな」

 おそらく実年齢三桁を越えているだろうウッドエルフが女の子ね。まあ、外見だけで言えば私とそう変わらぬ位にしか見えぬし、フィオの言い分を否定する事もないだろう。
 私が空いている椅子に腰かけると、気を利かせたセリナが丸盆に杯と湯気を噴くスープ皿を二つ乗せて渡してくれた。

 良く見れば杯とスープ皿には絡み合う蔦や木の枝とそこに実を結ぶ様々な果実、それを啄ばむ小鳥や花々といった精緻巧妙な彫刻がなされている。
 一枚一枚克明に彫りこまれた小鳥の羽や、今にも風に揺れそうなほど瑞々しく見える花弁など、いずれも素晴らしい技量の匠が腕を惜しまずに技を振るった賜物だろう。
 森の暮らしの中でウッドエルフの民達が培った芸術と美意識のごくわずかな一部に、私は接しているのだ、と不意に思った。

「ドランさん、どうぞ。今日のお夕飯ですよ」

「ありがとう、セリナ。フィオからの差し入れかな」

「ええ。私達と一緒に戦ってくれる人がお腹をすかせていたら大変だからね」

「とっても美味しいですよ。クリスティーナさんもセリナさんも美味しいって言ってくれたです」

 フィオの膝の上に葉脈製と思しいハンカチを敷いて腰を下ろしたマールが、両手に食べかけのクッキーを持ったまま、満面の笑みを私に向けてくる。
 純真無垢と言う言葉がこれ以上ない位に似合う小さな妖精につられて、私は自分の口元が小さく笑みを形作るのを感じた。

「マールのお墨付きなら信じられそうだ。では、ありがたくいただこう」

 皿は野菜がごろごろと入った澄んだスープと甘い匂いのする粥のようで、昼に干し肉とパンを入れただけの胃袋はぐう、と鳴いて空腹を主張する。
 どちらもこのエンテの森で採れる特有の食材を使ったウッドエルフの日常食なのだろう。

 既にフィオやセリナ、クリスティーナさんは食事を終えていたようで、彼女達の皿は空になっている。
 スープには塩や胡椒などの味付けはほとんどされていない様だったが、野菜から出る甘味や旨味といったものが複雑に絡み合い、素朴ながら実に味わい深く毎日飲んでも飽きる事は無いだろう。

 乳粥の方はとろとろになるまで煮込まれた麦の淡白な味わいに、わずかに香る程度に入れられた蜂蜜の甘味が優しい味わいを引き立てていた。
 一口含むだけで舌の上から瞬く間に口中に麦の風味と蜂蜜の甘味とが広がり、ほっと心から安堵の息を吐く味わいが口ばかりか心の中も満たして行く。

「心の安らぐ味だな。これはいくらでも食べられそうだ」

「ふふ、気に入って貰えたのならなによりだわ。クリスティーナなんてあっという間に食べちゃったのよ。綺麗な顔をしているのに気持ちのいい食べっぷりだったわ」

「恥ずかしい所を見せてしまったよ」

 とクリスティーナさん。美貌の白面に少し恥ずかしそうにはにかんだ笑みを浮かべている。
 エンテの森に来るまでの間は簡素な保存食ばかりだったから、食欲が捗るのは私も同意するが、この方は外見を裏切ってなかなか食の太い方らしい、と私は短い付き合いで理解しつつあった。

「クリスティーナさんは、見た目はほっそりとしているのに食は太いようだからね。良くそれだけ引き締まった体型を維持できるものだと感心するよ」

「太りにくい体質なのさ。それに鍛錬を欠かした事は無い。食べた分はきっちりと動いて消費しているつもりだし、今日は良く動いたからしっかり栄を養っておかないといけないからね」

「でもクリスティーナさんは本当に腰はきゅっと締まっているのに、出る所は出ていますよね。同じ女性としてすごく羨ましいです」

「それを言ったらセリナも同じだと思うが」

 やや遠慮がちにクリスティーナさんはセリナに返事をした。
 あまりこういった会話に慣れていないのか、それとも同年代の同性と話した事が少ないのか、クリスティーナさんの舌の動きは寒さに凍えているかのように鈍い。

「私はどちらかという精気が主食ですから、あまりお腹や二の腕に余計なお肉は付きにくいんです」

「私からすればクリスティーナもセリナも十分、おっぱいは大きいし腰も綺麗にくびれているようにしか見えないけどね。
 私達エルフはどうしても身体が華奢に出来ているから、筋肉はある程度つける事が出来ても、二人みたいに出る所が中々出ないのよ?」

 フィオはぺたぺたと自分の腰やら胸やらをぺたぺたと触り始める。男の目の前でやるにはいささかはしたない、あるいは無防備な行為だ。
 さてフィオの体つきを見てみれば、なるほど確かに寝間着の胸元は控え目に隆起しているのみで、クリスティーナさんやセリナのように山なりの曲線を描いているわけではない。
 その分、フィオの手足はすらりと流麗な線を描きながら伸びていて、きめ細やかな肌に覆われた手足はわずかに力加減を誤まれば簡単に折れてしまいそうなほど華奢に見える。

 野に咲く花のように可憐で儚げな印象は、それもまた一つの美の形態ではあるが、フィオとしては今少し豊満という言葉に恵まれた体つきが良いらしかった。
 そう言えばオリヴィエ学院長もローブに隠れて分かりにくかったが、お世辞にも豊満とは言えない体つきをしていたな。

 私が無遠慮にフィオの薄い寝間着に包まれた体を見ていると、私の視線に気づいたフィオとクリスティーナさん、セリナが非難の色を淡く含んだ視線で私の全身を貫いている事に気付く。
 色欲に突き動かされてフィオに視線を向けたわけではないのだが、この視線から察するにどうも女性陣にはそのように捉えては貰えなかったらしい。

「ドラン、人の事をじろじろ見るのは止めて貰えるかしら? あんまり褒められた事ではないと思うの」

「君も成人した男子だしそういう事に興味があるのも理解はするが、もう少し時と場所をだね……」

 フィオは言葉ほどに怒った様子は無く私をからかう様な口調で、クリスティーナさんはと言えば気まずそうに視線を彷徨わせて、やんわりと私を窘める。
 口を動かさずにいたセリナはむすっと少し頬を膨らませて、縦に窄まった瞳孔で私の顔に穴を開ける意図がある様な視線を向けている。
 マールばかりが私達のやり取りを気にせずに、クッキーの残りを小さな口で齧っていた。

「やましい気持ちで見ていたわけではないよ。フィオは他の誰かを羨む必要は無いだろうな、と思っていただけだ」

「ふーん。まあそういう事にしておいてあげましょうか。男一人に女四人じゃ、私達がドランをいじめているみたいだしね」

「え、フィオはドランさんをいじめていたですか?」

 これまで話の輪に入っていなかったマールが、フィオの言葉に素っ頓狂な声を出して頭上の親友の顔を仰ぎ見た。

「そういうわけじゃないわよ、マール。言葉の綾よ、綾。本当にいじめてなんかいないってば」

 ならよかったです、と心から安堵した声を出すマールに微笑を誘われて、私達はしばし森の外と内側の世界とについて語り合った。
 話の花は爛漫と咲き誇り、今日初めて会ったばかりの私達の親愛の情を大いに深めてくれたが、話の矛先がクリスティーナさんに向かった段になると花は萎れざるを得なかった。

 クリスティーナさんはベルン村南方の都市ガロアに在る魔法学院に在籍し、そこで寝起きをしている事とベルン村へは春期の長期休暇を利用して滞在している事、血縁者がベルン村と縁の深い人である事までは話してくれた。
 だが自分の詳しい素性や魔法学院での暮らし以外の事を話す流れの中で、クリスティーナさんの朱唇は開く事を躊躇い、舌の上に言葉を乗せる事を明らかに忌んでいた。

 ベルン村の誰もが――村長と一部の村人は察している様だったが――問わずにおいた、この銀髪赤眼の美貌の剣士の素性はいまだ開陳の時ではないのだろう。
 幸いだったのは、そんなクリスティーナさんに無理を強いてまで話を聞きだそうとする者がこの場には居なかった事だろう。
 クリスティーナさんが物憂げに表情を曇らせるのを見て、セリナが話の矛先を自分へと移し替えた。気の利く女の子だと私は感心した。

「私はですね、モレス山脈の南側の山腹にあるジャルラというラミアの集落から出て来たんですよ!」

「そうなの? サイウェストの近くには蛇人はいるけどラミアはいないから、興味があるわ」

 セリナが意図的に変えた話の流れにフィオが乗っかり、クリスティーナさんは彼女らの気遣いに憂いを小さな溜息に変えて吐いた。
 その間にもセリナの話は続いていた。ラミアらが集団としてどのような社会を構築し、生活を営んでいるか、というのは少なくとも人間の世界ではまだ明らかならぬ所である。
 それはウッドエルフにも同じ事らしく、フィオはすっかりセリナの話に興味津津の様子だった。

「ラミアと他種族の男性と、その子供達で暮らしているんですね。
 モレス山脈には他に色々な亜人種族が暮らしているから、時々そういった方々と物々交換をしたりしているんですよ。
 アルジェンヌさんとは甲殻の色が違うアラクネさんにスライムさんとかハーピーさん。
 それに最近だとリザードさん達が近くの湖にお引っ越ししてきましたし、結構竜さんの姿も見る事があるんです。
 山脈はとっても広いから全部を知っているわけではありませんけれど、それでも湖に棲んでいる水竜さんや、時々空を飛んでいる風竜さん、洞窟の奥でまどろんでいる地竜さんが居るのは確かですね」

 アラクネ、スライム、ハーピー、いずれも時に人間を食料として胃の腑に収めることもあるが、意思疎通の可能な種族とされている。
 セリナに頼んでラミア達に仲介して貰えば、モレス山脈のこれらの種族達との交流の道が開く時も来るかもしれない。

 今はそれを考えるべき時ではないが、頭の片隅に留め置いて損のある話ではあるまい。
 この時、私の脳裏にはエンテの森の獣人達やウッドエルフ、モレス山脈のアラクネやハーピー、スライム、リザードらがベルン村に集い、種族も文化も歴史も異なる彼らが親しげに言葉を交わし合い、金品を交換し、飲食を共にし、学問に着いて論議する姿が思い描かれていた。

「ジャルラは代々ラミアの女王が治めるんですけど、これは世襲ではないんです。立候補か推薦のあった人達を、他の人達が入れ札で選んで女王を決めるんですよ」

「選挙って奴ね。私達エンテの森のウッドエルフは、ユグドラシル様の御声を聞く巫女姫様と、巫女姫様を補佐する各部族の族長達の議会があるわ。
 巫女姫様はユグドラシル様の代弁者であらせられるから、滅多な事で政事には口を出されないけどね」

 思いの外私にとって実りのある話は、月がさらに地平の彼方に傾くまで続くのだった。


 魔界の者達との戦いさえ無ければ、夜を徹して続く勢いだった熱のある話が名残惜しげに終わり、眠りの床に就いた後、私は朝の訪れと共に意識の覚醒を迎えたのだが……

「ふむ、苦しい」

 なんだか苦しかった。まるで四方八方から目一杯抱きすくめられているかのようだ。
 手足を動かしてみれば四本の手足のどれもがかすかに動かす事が出来るだけで、自由とは程遠い状態にある。
 うっすらと瞼を開けばカーテンを透かして差し込む朝陽に部屋の中が照らし出されていて、ベルン村の寝床で嗅ぐのとは異なる匂いの空気に満ちている。

 このサイウェストでは、どこに行っても芳醇な花々と木々の混じり合った匂いで肺を満たす事が出来る。
 そしてそれらとは異なる別種の、背筋の奥の方や下腹部を疼かせる芳しい匂いが私の間近から発せられていた。

「むにゃむにゃ」

 寝ぼけての事なのか、セリナが私の身体に獲物を締め殺す大蛇の様に――と言ってはセリナに悪いかもしれないが――大蛇の下半身を巻きつけていたのである。
 私の身体はセリナの下半身に巻きつかれて寝台から半ば浮かんだ状態であったが、我ながらよくもまあこんな体勢で熟睡できたものである。
 同じ部屋に居る二人に対し、まるっきり警戒していなかったのもあるが、おそらくセリナ自身も意識せずに行った行為だからだろう。

 セリナの下半身は斯くの如くであったが、では上半身はと言うと私の首に手を回していて、私をぬいぐるみかなにかと勘違いでもしたのかぎゅっと抱きしめ、私の首筋に顔を埋めていた。
 先ほどから私の雄の部分を刺激している匂いは、異種族の異性を魅了し誘惑するラミアが自然と放つ体臭なのであった。

 鉄の精神でも無ければこの匂いだけで思考は朦朧と煙り、耳を擽る誘惑の囁きや頬を優しく撫でる指の感触に理性はたちまちのうちに蕩け、妖美なる人蛇の魔物の餌食となるのである。
 とはいえ、むにゃむにゃと心地よい寝息を立てているセリナのあどけない顔を見ていると、眠れるこの蛇娘がそのような危険な魔物とは思えない。
 それもまたラミアと言う種が獲得した、獲物に警戒をさせない為の罠なのかもしれないが。

「起きたか、ドラン」

「おはよう、クリスティーナさん。まだ陽は昇ったばかりと思うが、早起きだね」

 私もクリスティーナさんも防具を脱いだだけの格好で眠っていたのだが、私達より先に起きていたクリスティーナさんは寝台に腰かけて、セリナに絡みつかれている私に随分と柔らかになった笑みを向けている。
 既に顔を清め、身だしなみを整えたものか、ともすれば本物の銀さえくすんで見えるクリスティーナさんの銀髪は金糸で刺繍の施された青いリボンで束ねられ、防具を身に着けて長剣を腰に佩けば、即座に闘争の場に赴ける様子であった。

「少し興奮しているのか、いつもより眼が冴えて仕方が無くってね。後は寝ぼけたセリナが君の寝台に潜り込む音で目も醒めたかな。
 まさか私も居るこの場所で君を襲うわけもあるまい、とは思っていたがただ寝ぼけているだけだったみたいだから、止めなかったんだ」

「多分、人肌のぬくもりを求めたのもあるだろうが、それ以上に無意識の領域で戦いに備えて精気を補充しようとしたのだろうね」

「というとひょっとして?」

 わずかにクリスティーナさんの美しい眉間に疑いの皺が刻まれる。時にラミアが命を奪うほど獲物の精気を吸う事もある。
 意識してか無意識なのかはともかく、万が一にもセリナが私の命を脅かすほど精気を吸っては、とクリスティーナさんが危惧するのも仕方は無かったろう。

「ふむ、少しずつだけれどセリナに精気を吸われているよ。戦いに支障をきたすほどではないから、心配はしなくて大丈夫だ」

 時折セリナの下半身がずりずりと私の身体を擦る様に上下し、無数の鱗が絶妙な力加減で擦れる感触は腰が抜けそうになるほどの快楽を私に与え続けている。
 掠める様に私の首筋に触れるセリナの頬や髪、唇もまたそれぞれが異なる感触を持って私の全身を誘惑し、性的快楽と共に精気の放出を促して、眠れるセリナは自分でも知らぬ内に私の精気を啜っていた。
 戦いになる前に精気を分け与えておくつもりだったが、この様子なら必要はないだろう。

 私は少し顔を伸ばせば唇に吸いつける距離にあるセリナの顔をじっと見た。
 かすかに震える瞼を縁取る金糸の睫毛、朝陽の中にあってなお映える朱唇の艶やかさ、すっと伸びた鼻梁の線の典雅な美しさは、見る者から人ならぬ魔物への忌避の念を忘却させるに足る美しさ。
 白い頬に掛る幾筋かの黄金の髪を払ってやりたかったが、私の腕はセリナの下半身によって拘束されたままだった。
 私とクリスティーナさんの話す気配に、セリナはようやく目を覚ましたようだった。睫毛の震えが大きなものとなり、うっすらと瞼が開かれて青く濡れた瞳が私の顔を見る。

「んんん……ん、あれ? どらんしゃんだ」

 まだ眠りの霧が意識に掛っているようで、セリナは舌ったらずな調子で私の名前を口にする。
 自分が寝る前の状況と吐息が掛るほど近くに私の顔がある現在の状況との違いが、まだ飲みこめていないらしい。
 セリナが朝の目覚めに時間が掛るのは前から知っていたから、私は急かす事無くセリナが状況を把握するのを待った。
 クリスティーナさんも余計は口を挟む事はせずにいる。

「おはよう、セリナ。良く眠れたか?」

「はい、よくねむれました」

 とは言うものの、まだ眠たいのかセリナは口を左手で隠して、ふわあ、とあくびを漏らして眼の端に涙を浮かべる。
 眠たい眼を擦り、徐々に眠気が取れたセリナはようやく自分と私の状況に気付き、びくっと一つ大きく体を震わせた。
 震わせるのは良いのだが、それに合わせてきゅっと大蛇の下半身を一締めするのは止めて欲しかった。私は潰れた声が出そうになるのを堪えなければならなかった。
 もし口から声を出していたら、セリナが罪悪感を抱くのは間違いなかったから。

「あのぉ、どうしてドランさんが私の寝台に……」

 おそるおそるセリナは口を開く。羞恥と困惑の混じるセリナの声に、私は淡々と事実だけを伝えた。

「私がセリナの寝台に、では無くてその逆だよ。そら、セリナの寝台はあちらだろう?」

 私が顎を示す先を見て、私の言う事が事実と悟ったセリナの顔はあっという間に赤くなり、耳の先まで赤色になった。

「あのあのあの、ご、ごめんなさい。ああ、どうして私がドランさんの寝台に入っちゃったんでしょう。すす、すぐに出て行きますから」

 セリナは私の全身に絡みついていた下半身の拘束を解いて、藪に居た所を突かれた蛇のように私の寝台から離れ、真っ赤になった顔を両手で挟みこんであうあうと唸り出した。

「私としてはなにも誤ってもらうようなことではないけれどね。さあ、まずは顔を洗って朝食と行こう」

 私が軽くセリナの頭を撫でて朝食に誘うと、セリナはまだ頬に赤色を残しているものの、実に可愛らしい仕草で首を縦に動かした。



 その後、ギオやフィオと合流し、朝食を済ませた私達は入念に魔晶石や各種の精霊石、武具の準備を行い、地上世界の闘争など知らぬ素振りで太陽が中天にかかる少し前に、サイウェストの村の広場に集まっていた。
 見上げるほどの大樹が無数に乱立するサイウェストの村であるが、その木々の中でもひときわ巨大で天に枝葉を広げる巨木が広場にその雄大な姿を誇示している。
 このサイウェスト近辺の木々の中で最も古く大きな木で、ギオ達が長老と呼んでいる木だと言う。

 その長老の木が聳える広場に、老いた者、幼い者、怪我を負った者、彼らを守る為に残る戦士達を除き、ゲオルグらと魔界門を討つ為の戦士達が総出で列を成している。
 ウッドエルフの族長デオ、狼人の族長ヴライク、アラクネの族長アルジェンヌらが戦士達の視線を惹きつけている。
 私達はギオらと共にウッドエルフの戦士達の中に紛れている。するとディアドラとオリヴィエが私達に気付いてこちらに近づいてきた。

 ディアドラもオリヴィエも昨日見た時と同じ姿で、身に纏っているドレスも肉体の一部であるディアドラはともかく、オリヴィエは戦闘に備えて衣服を変えるかと思ったが、手に杖を持っている位で昨日見たローブを今日も纏っていた。
 私とそう変わらないオリヴィエの背丈とほとんど同じ長さの杖で、世界樹の枝を削りだし、地・水・火・風・氷・雷・光・闇・時間・空間と十種に及ぶ精霊石を埋め込んだ品である。おいそれと手にできる品ではあるまい。
 オリヴィエが歩いて来た方を見てみるとそこには一風変わった一団がおり、ウッドエルフや狼人などエンテの森に住む種族ではあるが、身に纏っているのが外の世界で誂えたと思しい装備なのだ。

 彼らがオリヴィエ自身を含む、森の外に出て行った者達なのだろう。
 森の外で様々な――おそらくは知らない方が良かった事の方が多いだろうが――経験を積んだ彼らは、戦士として頼りになるに違いない。

「クリスティーナ、調子は良い様ですね」

「がく、いえ、オリヴィエさん。ええ、特に問題はありません。今からでも戦う準備は整っていますよ」

「それなら何よりです。まさかこの様な時、この場所で貴女と会う事になるとは思っていませんでしたが、無理をしてはいけませんよ。
 貴女はまだ若い。あたら若い身そらで命を散らす事も無いのです。いざとなったら戦いの場から退いてお逃げなさい。
 私達がもし敗れる事があったとしても、その時はウッドエルフの本国か王国の軍勢が魔界の者達を退ける事でしょうから」 

 まるで感情を持たぬかのような彫像めいた印象は変わらぬが、どうやらこのオリヴィエというウッドエルフの魔法学院学院長殿は、生徒の身を案じる程度には思いやりを持った人物であるらしい。
 それに対し、クリスティーナさんはどこか晴れ晴れとした顔で答える。だがその潔いと見える顔が、私の心に不穏な波紋を起こした。

「どうかそのようなお気遣いはなさらないでください。オリヴィエさん、私はこれまで心の空を覆っていた灰色の雲がいささかなりとも晴れた気分なのです。
 この何のためにあるのかさえ解らなかった命と、人より多少恵まれた力を使うべき時を見出す事が出来たのですから。この命を賭して地上に在ってはならぬ魔性の者共を討ち果たしましょう」

 これが私の感じた不穏の正体だった。クリスティーナさんは言葉の通りゲオルグらとの戦いに、本当に命を賭けるつもりでいるのだ。
 もちろん自暴自棄ややけっぱちになって、命を粗末にするつもりは無いのだろうが今のクリスティーナさんからは、力加減を間違えればすぐに壊れてしまう様な繊細な硝子細工を連想させる危うさがあった。
 その危うさがクリスティーナさんのこれまでの人生の中で育まれたものであるのなら、陰鬱で眼をそむけたくなる様な経験を経て来たのだろう。

「クリスティーナ、貴女が魔法学院に入学してからずっとその暗く翳った心は変わらぬままですね。
 教師を名乗る身としては貴女が生きる甲斐、あるいは歩むべき道を見つける助けとなるべきなのですが、こればかりは私の未熟、非才なる事を呪うしかありません。
 昨日見た時は少し明るい顔をしている様に見えたのですけれど」

 生徒を教え導く教師たる身ながら、ただ一人の生徒を導く事も出来ぬ苦悩にオリヴィエの柳眉はかすかに曲げられた。
 クリスティーナさんはオリヴィエに対して、自分の言うべき事は言ったという態度で何も言わなかった。
 それからオリヴィエはなぜだか私の方へと視線を転じた。私にクリスティーナさんの事でも頼むつもりなのだろうか。

「ベルン村のドラン、貴方のお陰かクリスティーナは私の記憶にあるよりも少し明るい表情を浮かべるようになっていました。まずはその事に感謝を。
 それと貴方の事はデンゼルより耳にしていますよ。貴方が断りさえしなければ、とっくの昔に貴方は学院への入学試験を受け、ともすればその時に面識を得ていた事でしょう」

 オリヴィエの言うデンゼルとはリシャやアイリの伯父に当たる人物で、マグル婆さんから魔法の才を受け継ぎ、十代の頃にガロアに渡って後に魔法学院の教職に就いたベルン村の出世頭である。
 年に二、三度ベルン村にお土産をたくさん持って帰って来るのだが、その折に私はマグル婆さんから紹介されてデンゼルさんの知己を得て、しばしば魔法学院への入学を勧められるようになっていた。
 ガロアの魔法学院に奉職して既に二十年近いデンゼルさんは、学院長であるオリヴィエと言葉を交わせる地位にある様で、オリヴィエの私を見る目は力量を推し量ろうとしている様にも、人となりを見透かそうとしている様にも見えた。

「デンゼルさんにはせっかくのお誘いを断り、申し訳ない事をしていると思っています。デンゼルさんはお元気でしょうか?」

「ええ、実に熱心に教鞭を振るっていますよ。研究の方にも随分と熱を入れている様子。もっともマグル殿からはいつまで独り身でいるつもりかと、せっつかれているようですね」

「マグル婆さんの子供で結婚していないのはデンゼルさんだけですから、仕方無いと言えば仕方ないのですが……」

「そうなのでしょう。ドラン、もし貴方の気が変わって魔法学院に入学する意思を持ったなら、いつでもガロアにお出でなさい。
 クリスティーナにとっても見知った顔が増えて喜ばしい事でしょうし、優秀な生徒が増える事は一人の教師としても嬉しく思いますよ」

 私は考えておきます、とだけあまり気乗りしない風を装って返事をした。
 クリスティーナさんは私が魔法学院入学云々と言う話題に、興味をそそられたようで詳しい話を聞きたがる素振りを見せていた。
 知り合いが魔法学院に増えるかもしれないのが嬉しいのだろうか? ひょっとしてクリスティーナさんは、あまり魔法学院の中に心を許せる者がいないのかもしれない。
 オリヴィエは、それでは、と小さく言って外から戻って来た者達の所へと足を向けていた。

 戻って来た者達の中でもオリヴィエは古参かあるいは筆頭格らしく、こぞってオリヴィエに話しかける者達の姿が見受けられた。
 いささかならず失礼な事を私が考えていると、私とオリヴィエの話が終わるのを待っていたディアドラが声を掛けてくる。
 ディアドラは昨日話をした効果があってか、幾分穏やかな雰囲気を纏っている様に見えた。
 昨夜、私の精気を供給されラフラシアから受けた傷を癒し、まさに万全の調子のようだ。

「おはよう、ドラン、クリスティーナ、セリナ。昨日の事だけでも十分に戦ってくれたのだから、今日の戦いまで私達に付き合う必要は無いのよ」

 つっけんどんなようにも聞こえるが、これがディアドラなりに気を遣っての言葉である事を分からぬ者は私達の中には居なかった。

「それは水臭いというものだ。私達の為の戦いでもあるし、昨日提示された条件は咽喉から手が出るほど好条件だしな。
 ディアドラはラフラシアを倒して皆の仇を取る事、そして彼女らの分まで生きる事だけを考えればいい」

「生憎と仇を取る事だけで頭は一杯なの。生きる事については仇を取ってから考える事にするわ。貴方達の方こそ自分達の命を大事になさい。
 森に生きる者が森の為に命を懸けるのは当たり前だけれど、そうでない者達がそうする必要は無いのだから」

「私達を気遣ってくれるか。ディアドラは優しいな。だがこれは森以上にこの地上と魔界という異なる世界に生きる者達の戦いだよ。森に生きる者達ばかりに流血を強要は出来ん」

「今更、余計な事を口にしたみたいね。貴方の意思がそこまで固いのなら何も言わないわ。ただ、命だけは大事になさいな」

「ああ。せっかくの命だからな」

 そう、竜として死した後に思いもかげずに得る事の出来た、生きる甲斐のある人間としての命なのだ。
 ディアドラは言いたい事は言い終えたようで、クリスティーナさんとセリナにも声を掛けて、二言三言言葉を交わし始める。
 二人との会話を終えた私は改めて広場を見回した。大雑把にだがウッドエルフが二百、狼人が百五十、アラクネが百、そしてそれ以外の種族の戦士達が更に百ほどは居る。

 これまでの魔兵達との戦いでこれでも減ったのだろうが、エンテの森西部のごく一部だけでも、これだけの亜人達が住んでいたのか。
 戦士以外の者を含めれば数はさらに増えるだろう。
 ウッドエルフ達はギオが身に着けているのと同じような、植物を利用した具足や武具で身を固めており、短槍や長剣の武装はもちろんだが弓矢を手にしている者の方が多いようだ。

 狼人は皆等しく逞しい体躯を持ち、私より頭一つも二つも長身で、獣脂を纏い太刀筋を鈍らせる毛皮と強靭な肉体は天然の鎧と言って良く、手足に簡素な防具を着けているだけで鎧の類は身に着けていない。
 跳躍中でも別方向へ転じられるほど三次元的機動を可能とする身のこなしと俊敏性を最大の武器とする彼らにとっては、動きの妨げとなり俊敏性を損なわせる鎧は無用なのだ。
 その代わりに彼らに伝わる呪術の紋様が毛皮のあちこちに塗料で記され、魔力を秘めた鳥の羽や獣の皮、鉱物などで作られた装飾品を腰や手首、首に着けている。

 そして百のアラクネ達は巨大な蜘蛛の下半身には狼人らと同様に魔除けの紋様が記されているきりで防具の類は帯びておらず、たおやかな美女の上半身はウッドエルフらの物と似通った防具を纏っている。
 アラクネはラミアと同様に始祖は人間の女性であり、そして奇しくも同じように女性しか存在しない種族なのである。
 種の繁殖の為には異種族の男性が必要で、始祖が人間であった為に最良の伴侶は人間種族の男性と言われている。

 持久力と言う点では狼人には譲るものの俊敏性では上回り、また微細な体毛はかすかな大気の流れから敵の動きを察知し、八つの瞳がほぼ全方向を視界に収める為、その戦闘能力は極めて高い。
 またラミア同様に肉体と魂に種族単位で呪いが受け継がれているが為に、魔法使いとしても高い適性を生まれつき備えており、一人ひとりが強力な魔法戦士なのである。
 蜘蛛足の先端は研ぎ澄まされた刃の如く鋭く、人間の上半身の方にも剣や槍、魔法の触媒となる杖を帯びている。

 恐るべき魔界の悪鬼共との戦いを目前に控えて、様々な種族の戦士達が緊張に息を飲んで咳一つ立てずにいる中、三名の族長達が自分達の戦士を見回し、風の運ぶ枝葉のざわめき以外は静寂が支配する広場が一層静かになった。
 三人の族長達の中で第一声を発したのは、デオだった。物静かな印象を受けるウッドエルフの族長であるが、今は木々を震わせる迫力と威厳とを持った声音が広場に木霊する。

「戦士達よ、エンテの森の恩恵と共に生きる民よ。
 あの忌まわしき魔界の者達がこの地に姿を見せてより、多くの同胞がその毒牙に掛り、我らの森に還り、森もまた奴らに冒涜され今も悲鳴を上げている。
 彼らの嘆きを私は忘れん。彼らの怒りを私は忘れん。彼らの憎しみを私は忘れん。
 森に生きる全ての同胞よ、今こそ死せし者達の無念を、そして我らの怒りの鉄槌を魔界の悪鬼共に下す時ぞ!」

 私達を除くウッドエルフや狼人の戦士達がデオの演説に応えて、腕を振り上げて一斉に声を上げる。
 それはサイウェストの隅から隅まで響き渡り、木々を震わせ魂を鼓舞する鬨の声であった。
 自分達の掛け替えのない故郷の地を侵す悪鬼共を打ち倒す為、誇りと命とを賭して戦う者達の魂の咆哮であった。

 これまでの戦いと森の木々と花々、風からの情報によって魔界門は主たる門が最北にあり、それ以外の補助としての役割を果たす門が三つ、主門の南にある。
 私達を含む一団はまず補助の役割を果たしている三つの門の攻略を行う為に北上し、在る程度進んだ後に戦力を三分して三つの門を同時攻略する。
 三つの門を攻略後に再び戦力を合流させて、最大の戦力で防衛しているのは間違いない主門を攻略と言う手筈になっている。

 魔界化した森に近づけば近づくほど、正常な森の恩恵を受ける事は出来なくなる為、補助門を攻略し、森に漂う魔界の瘴気をある程度薄める事が重要視された為に、このような計画となった次第である。
 森の木々らが語りかけてくる声に注意を払いながら進む一団の中で、私達は先頭を行く狼人族の集団の中にあった。
 ギオはウッドエルフの戦士隊の一つの指揮を任され別行動中だが、その代わりと言うわけなのかフィオが同道している。

 三つに分けた戦力の内訳は、オリヴィエら外から戻って来た戦い慣れた者達、最も強い力を持った花精であるディアドラ、そして望外の増援となった私達に、同じ構成の戦士達百八十前後がそれぞれに割り振られている。
 私達の進む先で木々が自ら左右に退いて道を開いて行き、戦いやすいよう場所が整えられて更に木々の警告によって待ち伏せなども全て無為に終わる。
 敵が魔兵だけであるのなら数がこちらの二倍いようが三倍いようが、まず勝てると私は踏んでいる。といってもこれは尋常な森の範囲に居る間の話に限るが。

 問題はゲオルグ、ゲレン、ゲオルード、ラフラシアの四体だ。あれらはまさしく一騎当千の強者。
 こちらも相応の実力者でもって当たらなければ、無闇に犠牲者を出す事となってしまう。
 竜化させた私の知覚能力は私達の進軍を知った魔界の者達が早速動きを見せて、四つの門に一体ずつゲオルグらが布陣しているのを捕捉していた。
 私、ディアドラ、クリスティーナさんが一対一で戦って勝ちの目がある戦士で、オリヴィエや外から戻って来た者達などは未知数の所があるが、その他の戦士達では多数で掛らねば勝てまい。

 先に進めば進むほど魔界の瘴気の濃度が増し、それまで近づいて来た春の息吹に揺れる濃緑の森の風景が、赤や黒、紫に青、黄と尋常ではあり得ぬ混沌とした色彩へと変化してゆく
 青々とした葉が生い茂っていた枝には、かさかさに枯れ果てた葉や、ぐじゅぐじゅと泡を噴く腐肉のような葉が付き、木々の幹には断末魔の表情の如き紋様が浮かび上がり、どろりと粘っこい腐汁が滴りだす。
 これらは全てほんの一例にすぎず、森の木々や大地、風との親和性が高いウッドエルフらにとってこの環境は苛酷そのもので、私達の隣を進むフィオは見る見るうちに顔を青ざめて行く。

「フィオちゃん、大丈夫? 無理をしないで少し休む?」

 背を丸めて瘧に掛った様に震えるフィオを、セリナがひどく心配そうに見るが、フィオは返事をせずに震える手で腰の袋から乾燥した薄紅色の葉を取り出すと、それを口に含んで咀嚼し始めた。
 振り返って見れば他のウッドエルフ達も似たような薬草や葉を口に含むか、精霊に呼び掛けて瘴気を浄化して対応している。
 気付け薬か強壮剤としての効能のある葉なのだろう。
 ほどなくしてフィオの顔色は元の色づきを取り戻し、身体の震えも収まりだした。

「……うん、大丈夫。はあ、正直こんなに辛いとは思わなかったけど、放置していたらもっとひどい事になって、森の全てとその外にも広がってしまうのでしょう? 
 だったらここで多少の無理無茶をしてでも、魔界の汚らわしい連中を倒しておかないといけないわ。
 これまで死んだ者達の為にもこれからこの森で生きて行く者達の為にも」

 フィオだけでなくこの場に居る全ての戦士達も同じ思いの下に集い、恐るべき魔界の者達との戦いに身を投じているのだろう。
 私達も彼らの想いに応えるだけの戦いをして見せねばなるまい。フィオの覚悟のほどを目の当たりにして、セリナは小さく息を飲んだ。

 あどけなさを残すフィオの顔は、この時ばかりは鬼気迫る凄まじい顔をしていた。
 男も女も若いも老いも関係ない。
 今ここに居るのは、故郷と同胞を守る事に己の全存在を懸ける覚悟をした一個の戦士なのだ。

「フィオちゃん……」

 セリナはフィオの見せた覚悟と気迫にそれ以上何も言えず、そして言う事も許されなかった。
 私達の進む先から無数の瘴気を纏う魔兵が近づいて来たのだ。数は二百ほど。まだまとまって行動している私達の方が倍以上多く、数の上ではなんの不利もない。
 おそらくこちらの戦力を試す為と動きを計る為の派兵だろう。
 私達の先を行く狼人族の戦士達の毛が一斉に逆立ち、彼らの全身から獣気が立ち昇って戦闘態勢がにわかに整えられて行く。

 私達の後方のアラクネやウッドエルフ達もそれぞれの武具を構え、精神を集中させて魔法行使に必要な精神状態を整える。
 既に魔界化した森の中に足を踏み入れており、従来の森からの援護を受ける事は出来ない所にまで来ていた。
 私達の構成だと魔法行使には困らぬ面々が揃っており、初撃に放たれるのはアラクネとウッドエルフらの攻撃魔法だ。
 その後第二次攻撃として、弓矢による攻撃がなされてそれからようやく狼人族をはじめとした白兵戦に移行する事となる。

 馬車が八台ほどすれ違える幅の道の向こうから姿を見せたのは、人馬が一体となったかのような姿の魔兵ガナフ。
 後塵の向こうには剛腕の魔兵ザルツや刃の爪を持った魔兵ゼルトの姿が見える。

 まるで一つの生き物のように統一された動きを見せるガナフの突撃でこちらの戦列を崩し、ザルツとゼルトで乱戦状態に持ち込む意図が見えた。
 だが集団魔法に対する備えが成されているとは言い難い動きだ。
 魔兵が備える対魔法防御能力を集団とする事で高めているとはいえ、こちらのように弓矢や魔法を扱える兵種が居ない。

 こちらの魔力を消耗させる為の布陣かもしれないが、こちらのやる事に変わりはないか。
 私、クリスティーナさん、セリナ、フィオもほぼ同時に魔法行使の為の呪文詠唱を始める。

 私が脳裏に思い描くのは天空より十数本の光の槍が降り注ぎ、魔界の尖兵どもを無慈悲に貫いて行く様であった。
 魔界化した森の中故、神々に語りかける神聖魔法や精霊魔法の類は行使しにくい状況にある。行使するのならば自らの魔力を用いる理魔法が適切だろう。

「光の理よ 我が声に従え 世界を遍く照らしだす光よ 森羅万象貫く槍となり 我が前に立つ敵の全てを屠れ セレスティアルジャベリン!!」

 一瞬、私達の頭上の光が薄れて暗闇が広がり、私が先ほど思い描いた通りに巨大な光の槍が二十本以上形作られる。
 世界を照らす光を思い描いた通りに集束し、さらに自らの魔力を混ぜ込む事で光の持つ熱量を莫大に増幅させ、敵対者を物理的にも霊的にも焼き滅ぼす光の槍を作り出す。
 あらゆる生物にとって死角となりうる頭上より降り注いだセレスティアルジャベリンが、他の魔法よりも数瞬早く全力疾走するガナフの先頭集団を直撃する。

 ゲオルグやゲオルードも串刺しに出来る巨大な光の槍は、串刺しにするのと同時にガナフらに一切の抵抗を許さず焼き滅ぼし、眩い輝きの中に消滅するガナフの影が狂い踊る。
 後続のガナフらも疾走を止めるのが間に合わずに、自ら死出の旅に出るかの如く次々と大地に突き刺さった光の槍に激突してゆく。
 セレスティアルジャベリンが消滅した時にはガナフの七割近くを屠る事に成功し、残ったガナフや他の魔兵達は完全に足を止めた状態になっている。

 そしてクリスティーナさんを始めとした他の魔法が、動きを止めて格好の的となった魔兵達に降り注いだ。
 それは研ぎ澄まされた風の刃であり、巨大な大地の槌であり、天から降り注ぐ雷の矢であった。
 これほど無数の魔法が一斉に唱えられた事は、この森の歴史を振り返って見ても久方ぶりの事だったろう。
 瞬く間に魔兵達は存在を維持できぬほどの深手を負って、すぐに禍々しいその姿を跡形もなく消して行く。

 第一撃となる魔法の最後の一つがようやく終わった時、あろうことか私達に襲いかかって来た魔兵は一体残らず姿を消していた。
 私が事前に思っていた以上に魔法を扱える者が多く、そして行使された魔法が強力であった為なのだが、これではこの後に続く魔兵やゲオルグらとの戦いに残すべき魔力まで使ってしまうのではないか、という不安が私の胸に巣くった。
 怨敵を前に過剰なまでに攻撃性を発揮して、必要以上の力を使ってしまっている、か。
初めての実戦を迎えた初心者はいまいが、状況を考えれば無理もないのだが、それでは彼らの身が危うくなる。

「思ったより大したことないわね」

 とフィオは強がるように言ったが、それは武器を構えていつでも敵の戦列に突撃する用意を整えていた狼人族の戦士達も、同じような事を口にしていた。
 魔兵達を呆気ないほどに葬れた事への安堵もあるのだろうが、これからの戦いに備えて自身の戦意を鼓舞する為でもあろう。
 私達の力を結集すれば、例え魔界の悪鬼共が相手であっても決して負けはしない。この戦いに勝てる、と彼らは自身に言い聞かせているのだ。



 その後も散発的に襲い来る魔兵達を退けたサイウェストの戦士達は、予てからの取り決め通りに戦力を三分し、それぞれが補助の魔界門破壊の為に更に奥へ奥へと、魔界化した森の中を進んだ。
 サイウェスト側が戦力を三分化させた事を察してからは、こちらへの襲撃は鳴りを潜めてそれぞれの魔界門の防衛に戦力を集中させ、万全の布陣で待ち構えつつあった。
 その中の一つにドリアードをはじめとした樹木や草花の精霊を交えた一隊があり、そこには黒薔薇の精ディアドラの姿も当然あった。

 ドランから精気を提供されてラフラシアに負わされた傷も完全に癒えたディアドラは、いよいよもって仇敵が近付きある事を感じ取り、自然と魔力を昂らせて魔界の瘴気さえものともせずに先頭に立って進んでいた。
 全身からは漆黒の魔力が粘度の高い液体の如く溢れだし、ディアドラの後に続く他の精や戦士達さえ、近づく事を避けるほどの鬼気が発せられている。
 森の魔界化はいよいよ進み、なんらかの防御措置を施さなければたちまちのうちに瘴気に当てられ、心身が衰弱してその場から一歩も動けなくなり死んでしまうだろう。

 だがそれは同時に破壊しなければならない魔界門が近づいている事の証左でもあった。
 森の木々や森中を吹き抜ける風の声は絶え、もはや森からの援護は完全に望めない状況。
魔界の環境に近づいている事で、魔兵やゲオルグらの力は北の防壁での戦いよりも確実に増している。
 これだけの悪条件が揃っているが、それに臆する事も二の足を踏む事もディアドラ達には許されてはいなかった。
 なにより、ディアドラの胸に燃える報仇の思念は冥界で罪人を燃やす浄罪の炎の如く、仇を討つまではいっかな薄らぐ気配さえ無い。

 ふとディアドラは昨夜のドランとのやり取りを思い出した。自分が憎きラフラシアに負わされた傷を癒し、ディアドラの復讐を肯定し、そして生きろと言った人間(?)の男。
 仇を討つ事ばかりを考えてその後の事はまるで考えはしなかったが、どうしてだがいよいよというこの状況で、ディアドラはドランに言われた事が鮮烈に胸の中で蘇る。

「そうね、貴方の言う通り生きる事を考えてみるのも良いでしょう。でもそれにはなにより、あの女に報いを与えた後でなければ、私の時は止まったまま進む事をしない」

 異形の様相を呈する森の中を一時も足を休めずに進んだディアドラの足が止まる。
 魔界化した森の中の開けた場所に辿り着いたディアドラ達の目の前に、数百のもの言わぬ魔兵を従えたラフラシアが居た。
 丸一夜をドランとディアドラへの憎悪と報復の念を研ぎ澄まして過ごしたラフラシアの全身からは、ディアドラに勝るとも劣らぬ凶の気配が空間を圧するかのごとく四方へと放たれている。
 ラフラシアの口元が、不意に三日月に歪んだ。笑み、である。あどけない、無垢な、しかしどうしようもなく邪悪な感情を秘めた矛盾した笑み。

「一夜ぶりね、黒薔薇の精。あの人間の男はこちらには来なかったようね。残念だわ。貴女ともども私が精一杯御持て成しをしてあげたかったのだけれど」

「ドランは今頃お前のお仲間を血祭りに上げている事でしょう。せっかくの御持て成しだけれど、私一人でお相手するわ。
 あら、頬の傷を治さなかったのね。素敵よ、貴女にとぉってもよく似合っているわ。だから、昨夜言ったようにもっと沢山傷を着けてあげる」

 ざわっと両者の間を凍えた風が吹いた。
 それはいよいよもってディアドラとラフラシアの放つ鬼気と凶気とが最大限に高まり、餓えた獣が互いに相手を食らい尽くさんと争うように鬩ぎ合うが為に吹いた風であった。

「やぁってごらんなさいよおおおお!!」

 漆黒の薔薇と吸命の魔花とが、もはや憎悪を抑えぬままに激突した。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ