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さようなら竜生、こんにちは人生 作者:スペ / 永島 ひろあき

第十話 死戦前夜

さようなら竜生 こんにちは人生

第十話 死戦前夜

 デオは狼人とアラクネの族長達とは、異なる瞳で私達の顔を見回して行く。そしてまたギオへと視線を戻して口を開き、重い声で話し始める。

「よく戻った。マールは無事見つかったそうだな。なによりだ。北の防壁での戦いも知らせは受け取っている。ディアドラ、よく戦ってくれた。敵は魔界の花の精だったそうだな」

 これまで口を閉ざしていたディアドラがおもむろに口を開く。ディアドラをしても黙ったままでいられる立場の相手ではないのだろう。

「ええ。皆の命を啜った外道とようやく顔を合わせる事が出来たわ。倒す事は出来なかったけれど、次こそは必ずあいつの息の根を止めて見せる」

「あまり血気に逸るな。お前は普段は冷静なくせに、一度頭に血が上ると視野が狭くなる」

「頭の片隅に留めておくわ。思い出すかどうかは分からないけれど」

「やれやれ……。ところでギオ、そちらの方々の事を紹介してくれるか? ヴライクやアルジェンヌも気になって仕方がない様子だ」

「おれはそこまで気にしちゃおらん」

「私は気になります。魔兵達との戦いに余計な諍いを招きたくはありませんから」

そういえばマール達と出会うまでの間に狼を何頭か斬り伏せたが、その事でヴライクをはじめ狼人達に悪印象を与えていなければ良いが……。
 逞しい体躯をもこもことした毛皮に包まれたヴライクの狼の顔から、胸の内を読み取ることは至難の技のように思えた。
 アルジェンヌは目を見張るほど精緻な刺繍が施された白い前合わせの上衣を纏い、緩く両腕を組んで八つの眼で値踏みする視線を隠さずに私達に這わせている。
 人間と同じ造作の赤い瞳の他に、額やこめかみなどに蜘蛛の眼が六つあり、いずれも感情のこもらぬ冷たい光を宿している。

「魔兵達に追われていたマールを助けてくれた者達です。族長達もベルン村はご存知と思いますが、その村からやってきた者達で、彼らの村の近くにこの森の者達が姿を見せた事を不審に思い、調べに来たと言っています。
 北の防壁での戦いでは彼らにとても助けられました。彼らがいなければ多くの者達が犠牲になっていた事でしょう」

「ベルン村か、懐かしい名前だな。確かにあの村の位置ならば魔兵に追われた者達が姿を見せてもおかしくはないか。魔兵達との戦いに助力してくれた事に、族長として礼を述べる」

 ギオの説明を受けて、私達に礼を述べるデオに私達はそれぞれに答えた。

「ふむ、私達も私達の事情があってした事。あまり気にしないで頂けると助かります。名乗るのが遅れましたが、私はベルン村のドラン」

「セリナです。ベルン村でお世話になっています」

「クリスティーナ。私はベルン村の者ではありませんが、ドラン達と故あって行動を共にしています」

「とんだ災難に巻きこんでしまったな。まずは座ると良い」

 デオ族長に着席を促され、素直に従って円卓に着く私達に奥の部屋から木製の盆に人数分の木のコップを乗せたエルフの給仕が姿を見せた。
 コップの中の液体はかすかに緑がかっていて、果汁を搾ったものらしい。一口含むと口の中から鼻孔の奥にまで、爽やかな香りが満ち溢れて気分を爽快なものにしてくれる。

「わざわざこのサイウェストまで来たのだ。何も伝えずに追い返すわけにも行くまい。ギオからはどこまで話を聞いているのかな?」

「このサイウェストの北に魔兵達の門が出現し、貴方達をはじめ森の者達を殺戮して回っている事、それと近隣の種族が力を合わせて魔兵達に反攻を計画している事までは」

「うむ。そこまで聞いているとなると改めて伝える事はほとんどないな。だが問題が無いわけではない。魔界の門が出現した影響でこの近隣の空間が歪んでしまい、我らウッドエルフの応援の到着が遅れているのだ」

「妖精の道が使えないと?」

 ああ、とデオは重々しく頷く。妖精の道というのはこの物質界とは別の世界である妖精界を介する事で、遠く離れた地へ距離を無視して移動できる特殊な道だ。
 高位の妖精種をはじめ森との親和性が高い一部のエルフなどが開く事が出来るのだが、それが使えず応援が来ないとなると手持ちの戦力で魔兵達の駆逐を行わなければならなくなる。

「ゲオルグと名乗った者が三日と期限を設けたそうだが、我らはこれに応じる気は無い」

 ゲオルグらとの戦いからさほどに時間は経っていない筈だが、既に三人の族長達との間で結論は固められていたようで、ヴライクやアルジェンヌらにデオの言葉に対する不服の色は無い。
 今回のような事態が起きる以前から、信頼の篤い関係を築いていたのだろう。

「三日では応援も間に合うまい。その為、我らは残った戦える者達を結集し、魔界の門を破壊して奴らをこの森と地上から追い払う」

 サイウェストのウッドエルフ達のみならず近隣の他種族の命運もかけて行われる戦いとあり、デオの表情が険しさを増し、表情を変えずにたたずんでいたアルジェンヌが口添えした。

「魔界の者達が地上に顕現していられるのは、門から存在を維持する為の力の供給を受けているからです。
 門を破壊すれば瘴気の漏洩も防げましょう。そうすれば後は森の自浄作用で、時を置けば元の姿を取り戻す筈」

 アルジェンヌの言葉に間違いは無い。魔界と地上を繋ぐ門の破壊は、魔界の者達を撃退する上で絶対に欠かす事はできない。
 だが門に近づけば近づくほど魔界に近づくことを意味し、魔兵達の力は増して逆に地上の生物にとっては過酷な環境へと変わる。
 敵が強くなると言うのにこちらは弱体化を余儀なくされるのだが、それはこの三人の族長達も承知の上での決断だろう。
 そうする事で出る犠牲も苦渋と共に受け入れたに違いない。

「奴らが三日の期限を切ったと言う事は、その三日で奴らにとってなにがしかの準備が整う可能性がある。
 存在を安定させる為の魔界化が完了するか、新たな軍勢が出現するなどの可能性がな。
 そうなる前に決着をつけなければ、この森の民達の未来は暗い闇に覆われてしまうだろう」

「貴方達の事情は分かりました。ギオとも話をしたのですが、私達はこのまま貴方達と共に戦うつもりです。
 こう申しては何ですが、魔界の者達との戦いとならば、場合によっては私の故郷や王国にまで類が及ぶ可能性もあります。それを看過するわけにはまいりません」

 既に私とクリスティーナさん、セリナの間では決定していた事だ。再び確認する事もなく断言する私に、クリスティーナさんとセリナから不平不満の声が上がる事は無かった。
 デオは森に住まう者達同士が協力して戦う事に迷いは無くても、森の外者達からの助力を受ける事には、ギオ同様に迷いがあるようで小さく唸って即答を控える。
 沈黙の帳が場に落ちるかと私が思った時、意外な事に狼人のヴライクは私達と共に戦う事を容認する意見を口にした。

「おれ達の力を侮るか、と言いてえ所だが、お前さん達の防壁での戦いを聞く限り、そういう口を利くだけの実力はあるみてえだな。
 デオよ、向こうから力を貸したいと言っているんだ。情けない話だがこれまでの戦いで、おれ達の戦士は随分と減っちまった。使えるモンはなんでも使わないと不味い状況だぜ」

 一般に狼人族は同族意識と縄張り意識が強く、よほどの事がない限りは他種族を頼る事を良しとはしない。
 森の民同士ならばまだ普段からの付き合いもあり、助力を得る事も吝かではなかったろうが、森の外から来た私達の力を借りる事を是とする意見を口にした事から、相当に彼らが追い込まれていると推察できる。
 ディアドラと同等近い力があればゲオルグらと渡り合えない事もないが、そこまでの強者は滅多に居ないと言う事だろうか。
 ヴライクの言葉にデオが思案する色を顔に乗せた所で、アルジェンヌが畳みかける様に口を開く。怜悧な光を宿した八つの眼は、すべてデオの顔を映していた。

「私もヴライクの意見に賛同します。ドラン、クリスティーナ、セリナ、貴方達の申し出は私達にとっては望外の幸運。
 無論只で助力を請うなどと図々しい真似は致しません。デオ、ヴライク、如何でしょう? 
 彼らの助力を請う代わりに戦いが終わった暁には、ベルン村の方々と交流を持つというのは?
 これまでは精々が木材を得る為に木を切り倒す事を黙認した程度でしたが、これからは我らアラクネの糸や狼人族が狩猟で得た獲物、ウッドエルフ達の育てている薬草や花で交易を行っては?
 規模こそ小さな範囲に留まりましょうが、今挙げた品々は人間の方々の間ではそれなりに希少価値のある品でございましょう。
 命を賭けた戦いをして頂くからには、それ位の対価は必要であると考えます」

 アルジェンヌからの提案は私個人としては願ってもない事だった。
 例え見返りが無かったとしても、魔界の者達との戦いに助力するのはやぶさかではなかったが、ベルン村にとって利益となる報奨が提案された今、私は人参を目の前にぶら下げられた馬のように新たな闘志が燃えるのを感じていた。
 ただラミア同様に繁殖に他種族の雄を必要とするアラクネ種の長として、アルジェンヌの提案には森の外の人間の雄と接触する機会を設けたいと言う目論見もあるだろう。

 さて我がベルン村の最大の金の成る木は、付近で採掘される魔晶石や精霊石の他にマグル婆さんとそのご家族、私が調合する魔法薬である。
 エンテの森にのみ頒布する薬草、魔法花の類が安定して手に入れば、より価値の高い魔法薬を調合して卸す事が出来るようになる。
 アルジェンヌの提案は私達の闘志を煽る以外にも、迷う素振りを見せるデオの背中を押す為でもあり、デオの顔からは迷いの色が消えていた。

「そうだな。それ位の対価を払うだけの事を求めているのは確かだ。では君達にはこのまま我らと共に戦ってもらう事としよう。よろしく頼む」

「微力を尽くしてご期待に応えましょう。所で今回の事態は人間の王国側に伝える手筈は整っているのですか? 
 人間から組織的な助力を得る事の危険性を憂慮されているとは思いますが、最悪の場合を想定すると王国の助成も視野に入れるべきと考えますが……」

 最悪の場合にはもちろんさせるつもりはないが、このままサイウェストと周辺の集落が陥落し、ウッドエルフの軍勢も敗れるような事になれば、魔界の軍勢はエンテの森を出て周辺諸国にも侵略の魔の手を伸ばすのは間違いない。
 魔界の軍勢に対して何の備えもしていない状況で、万が一にもそのような事態になれば大地には無惨な死体が累々と横たわり、河川は血の赤に染まる事だろう。
 確認しないわけには行かぬ私の質問への回答は、部屋の奥から姿を見せた女性が口にした。

「王国側へは私の方から連絡の手筈を整えてあります。御懸念なく、魔界の者達との戦いに集中してください」

 新たに姿を見せたウッドエルフに、私達はごく自然と視線を集中させる。金糸のごとく眩い髪を背に流し、纏うのは深緑色のローブ。
 切れ長の瞳の色はエメラルドの輝きに等しく、血が通っていないかのような白く透けた肌と、私が入室してもほとんど身じろぎしない様子から、女性エルフをモチーフとした美女の石像であるかのような印象を受ける。
 二十代後半と見える美貌だが、長命種のエルフである以上実年齢は外見から推し量れない。
 それを言ったら私の魂の年齢などはこの地上のどんな種族よりも長いものになるけれど。

 私達からの視線にもまるで動じた様子を見せず、ウッドエルフの女性は音一つ立てずにデオの右後ろにまで歩いてきてから足を止める。
 ヴライクやアルジェンヌ、ギオやフィオ達にとっては顔見知りのようで、誰だと誰何すいかの声が上がる事は無かった。
 私はギオかデオにこの女性が誰かと問おうとしたが、隣に腰かけていたクリスティーナさんが驚きの響きに満たされた声を上げた。この方がこうも感情を露わにした声を出す事は珍しい。

「学院長!?」

 血よりも深くルビーよりも艶やかな瞳を大きく見開き、クリスティーナさんは学院長と呼んだウッドエルフの顔をまじまじと見つめる。
 クリスティーナさん曰く学院長のウッドエルフは、ちらっとエメラルドの視線をクリスティーナさんの美貌に向けて、小さく窘めた。

「クリスティーナ、そのように声を荒げてはいけません。淑女のする事ではありませんよ。それとこの場では学院長ではなく、ただ一人のウッドエルフ。呼ぶのならオリヴィエとお呼びなさい」

「クリスティーナさん、こちらの方は?」

 セリナがちろちろと舌先が二股に割れた舌を覗かせながら、クリスティーナさんにこう質問する。

「私の通っているガロア魔法学院のオリヴィエ学院長だよ。ウッドエルフである事は知っていたが、ひょっとして学院長のご出身はこちらなのですか?」

「学院長ではなくオリヴィエです。質問に関してはその通りですよ。このエンテの森が私の故郷。
 随分前に森を出て外の世界で暮らしていたのですが、この様な事態となった事を知り駆けつけたのです。
 魔法学院学院長としての職分はきちんと果たした上での事ですから、そちらの心配は無用ですよ」

「は、はあ。そうでしたか……」

 クリスティーナさんはオリヴィエに対してどう反応するべきなのか分からない様子で、終始困った様な顔を浮かべている。
 ふむ、こんなクリスティーナさんを見るのは初めてだな、と私が珍しいものを見られた事に感心していると、セリナが顔を寄せてひそひそと小声で話しかけてきた。

「ドランさん、クリスティーナさんの言っているガロア魔法学院ってなんですか?」

「ふむ? 私達のベルン村の南方にある都市がガロアで、そこに魔法を教える王立の学院がある。都市から名前を取ったそこがガロア魔法学院というのだよ。
 ガロアは王国の北部でも主要な街道が交錯する地理で、北部各地の特産物や情報、お金が集まる北部随一の大都市だ。
 だから人間が多く集まるし、そうした者達の中から魔法を扱う素養のある者を勧誘し、王国に仕える魔法使いとして教育しているのだったかな」

 もっとも、魔法学院の生徒は貴族である宮廷魔術師の子弟やたまたま素養を持った大商人の親族やら、と財力と権力を持った後ろ盾のある者が大部分を占めると聞く。
 ただの平民では魔法学院に通う為の費用を賄うのはまず不可能であるし、魔法学院側が学費や生活費を負担する特待生として招く制度もあるそうだが、そこまで優秀な人材はそうそう見つかるものではないだろう。

「へえ~、じゃあドランさんも魔法学院の生徒に勧誘されるかもしれませんね。私が暮らしていたラミアの里にも魔法の得意な人達は居ましたけど、ドランさんはその人達と比べても凄いですもの」

「ふふ、ありがとう。そうだな、魔法学院に入学できて好成績を収めれば宮廷への道も開けるからね。生活の向上という意味ではそれを望むべきなのかもしれないな」

「ん~、でもそうなるとドランさんがベルン村を出て行かないといけなくなるから、寂しくなっちゃうな」

「そうだな。私も村の皆やセリナと別れるのは寂しい。まあ、辺境の農民には縁遠い話だよ」

 私は寂しげに形の良い眉根を寄せるセリナにそう言って慰めたが、実の所、ベルン村にはガロア魔法学院の関係者がおり、その方からガロア魔法学院への入学を何度か打診されている。
 今の所、私に魔法学院に入学する意思は無いが、村の将来に貢献できるかもしれないと考えると少し考え直す必要があるかもしれない。
 だが、今はそれを考えるのは後だ。魔界の者達を打倒する事こそが今、最優先に考えるべき事なのだから。

「取り敢えず、王国側への連絡はオリヴィエさんにお任せすればよいのですね?」

「ええ、私に任せておいてください。私以外にも以前に森を出た者達に可能な限り声をかけておきました。
 私を含め、皆が故郷の為に戦うつもりです。ドランさん達にばかり負担を強いる事はしませんよ」

「そうですか、でしたらなんとも心強い事です」

 それから私達はゲオルグ達の出現した魔界の門破壊の為に、明日の昼、太陽が中天に昇った時刻に残る戦力で出陣する事を伝えられ、デオの家の空いている部屋に泊めてもらう事となった。
 私達は一つの大部屋に案内された。家族や恋人でも無い成人した男女が、同じ部屋で一夜を明かすのは倫理的に許されたものではないが、今回のような場合は別だ。

 セリナは少し恥ずかしがったが、クリスティーナさんはまるで気にした様子もなく防具を脱いで寝台の上に腰かけていた。
 雰囲気や外見だけで言えばこの上なく典雅な美貌と気品を誇る女性なのだが、中身の方はどうにも貴族らしくなく、私達平民に近いものを持っているようだ。
 私が伝え聞く話から思い描いた貴族像が大幅に間違っているか、クリスティーナさんが一般的な貴族というものから大きくかけ離れているのか。勘だが後者のような気がする。

「クリスティーナさん、少し外に出てくる。すぐに戻るから」

 防具を外し、長剣も置いて外に出る私に、セリナのはーい、という元気の良い声が返って来た。
 用意してもらった部屋を出た私はそのままサイウェストの村の中へと出て、すかり夜の帳が下りた村の中を目的の人物を追い求めて進む。
 魔兵達が退いたとはいえ襲撃が無いとは言い切れぬ為、警備が緩められた様子は無く見かける人々は全員が緊張した雰囲気を纏っている。
 時折私に胡乱な成分を含んだ視線が向けられるが、防壁での戦いと族長達から私が味方である事は伝えられていたようで、すぐに視線の険しさは和らいだ。

 大樹の合間を縫って進む私の足は、ほどなくして無数の花々で覆われた一角に辿り着いた。
 ウッドエルフ達が日常生活で採取する花や草を栽培している場所らしいが、私はこの場所ではなくここに佇む人影に用があった。
 赤、白、紫、青、黄、緑、黒と色彩豊かな薔薇の咲く花畑の真ん中に、美しいと喩えるも愚かな黒薔薇の精――ディアドラの姿があり、私は薔薇を踏んでしまわぬ様に気をつけながら彼女に近づく。

「こんな夜更けに何の用かしら、ドラン?」

 ディアドラまで後十歩ほどの距離で金鈴を鳴らしたかのような声が私の足を止める。私の眼にはディアドラの長い黒髪ばかりが映り、彼女が今どんな顔をしているのかは窺い知れない。

「名前は憶えてくれたのだな。君を探していた」

「私を? なにかしら、私は今機嫌があまり良くないの。くだらない話をするようだったらお断りよ。さっさと戻って明日に備えなさい。私と違って人間の貴方には眠りが必要でしょう」

「お気遣い痛み入る。ところで、機嫌が良くないのは君の仲間達を殺した仇を見つけたからか?」

 ざわ、と風が無いにもかかわらず薔薇の花弁が一斉に揺れた。ディアドラの黒い影としか見えぬ全身から放たれた一瞬の殺意に、花弁を揺らしたものの正体だった。
 ふむ、ことラフラシアの事に関してはそうとう過敏になっているな。口を滑らせれば茨の鞭で一撃くらいはされる覚悟をした方が良さそうだ。
 殺意の収まった後に零れてきたディアドラの声は、冥界に響く亡者の声の如く凍えた響きを持っていた。

「ええ、そうよ。あの魔界の花の精の事を考えるだけで、おかしくなってしまいそうなくらい怒りが湧き上がってきているのよ、今の私は。
 だから、不用意に近づかないでくれるかしら、何をするか分からないわ。せっかく増えた味方を傷つけたくは無いの」

「ふむ、なるほど」

 そう呟いた時には私は既にディアドラの傍らに居た。私の接近にまるで気付かなかったディアドラからすれば、唐突に私が隣に出現したかのように感じられたようで、驚きと共に私を振り返る。

「いつの間に? いいえ、それよりも私が不用意に近づくなと言ったのは聞こえていなかったの?」

 眦を険しくするディアドラに私は彼女の瞳を見つめ返しながらこう答えた。ディアドラからすればすっとぼけた言い方に聞こえたかもしれない。

「だから十分に用意して近づいたとも。それなら良いだろう?」

「…………はあ、貴方、変わっているのね」

 根を上げたような溜息を吐くディアドラに、私は微苦笑した。私がよくされる類の溜息と台詞だったからである。
 私はそんなに変わり者かね。いや、中身が竜でありその感性と感覚が残っている間は、どうした所で人間としては変わり者か。

「良く言われる。すっかり言われ慣れてしまったよ」

「そう。貴方の周りの人間の苦労が思いやられるわ」

 そこまで言わなくて良いと思うのだが、ふむん。それきりディアドラは口を開くのを止めて、しばし私達は沈黙のままに時が流れるのに任せた。
 月は地上の血に濡れた争いなど知らぬとばかりに煌々と照って白々とした光を降り注ぎ、風は今は血の匂いを忘れて芳しい薔薇の香りと花々の密やかな囁きを運んでいる。
 言葉も無くただ月の光と風を浴びていると、魔界の者達との戦いは私達の見ている悪しき夢なのではないかとさえ思えてくる。

 だが魔界の者達との戦いは紛れもない現実だ。彼らとの戦いで多くの者達が傷ついて血を流し、傷を負い、命を失い、憎しみと悲しみがこの森の民の心を蝕んでいる。
 不意にディアドラが口を開いた。沈黙の時は、どのような働きを持ってこの黒薔薇の精の口を動かしたのだろうか。

「ラフラシアに殺された皆は良い子達だったわ。
 少し意地っ張りだったり、悪戯が好きだったり、ちょっとのんびりし過ぎている所のある子供達だったけれど、だからといってあんな死に方をして良い子は一人もいなかった。いなかったのよ。
 だから許せない。生き残った私があの子達の恨みを晴らさなければならないのよ。例えこの身を引き換えにしてでも、必ずあの女は殺す」

 ざわり、ざわり、と再び薔薇が悲鳴をあげた。風はディアドラの憎しみに怯えて吹く事を忘れ、月は雲に隠れてディアドラの凶貌を見る事を恐れた。
 黒薔薇の精は人間ならぬ美貌を誇るが故に、負の感情に心を飲まれた時には鬼気迫る威圧感を周囲へ放っていた。
 ディアドラの鬼気を浴びた私の肉体も、心臓の鼓動が自然とゆっくりとしたものになり、体温が氷の張る水中に没しているかの如く低下している。

 浴びるだけで肉体機能に異常を及ぼすほどの鬼気とは、ディアドラの憎悪のなんと深き事よ。
 ラフラシアの手にかかった花の精達は、ディアドラにとって親しい友でありそして家族のような存在だったに違いない。
 私も父母や兄弟がそのような目に遭う事があったならば、目の前のディアドラと同様の凶貌と危機を発する事だろう。

「そうか。ならその手伝いもしないとな」

 私はディアドラに復讐をしても死んだ者達は喜びはしない、復讐を望みはしない、といった類の言葉を口にはしなかった。
 ディアドラのしようとしている仇討ちを止める理由はなにもなかったからだ。せめてディアドラが命と引き換えに復讐を果たす事など無いよう、助力するべきだろう。

「あっさりとしているのね。顔を合わせた事も無かった私達にここまで力を貸してくれるのは、アルジェンヌの言った報奨が目当てだからかしら? それともここが落ちれば自分達の村にも累が及ぶから?」

「ふむ、ここは素直に言うとしよう。ディアドラの言う通り報奨は嬉しいし、村に累が及ばない様にと思っているのも事実。
 だがそれ以前に私は父母から困っている者がいたら、自分の出来る範囲で助けてあげなさい、と教わっている。
 エンテの森の民とは村の方でも付き合いのあった相手だし、私にできる事があったら力になりたいと思っている。
 例え報奨が無くても、たまたま旅をしていた時にこの事態に遭遇したのだとしても、私は君達の力となる事を選んだよ。信じるかどうかはディアドラに任せるがね」

「そう。貴方は、そうね……信じられそう、と言う事にしておくわ」

 ふむん。

「ドラン、貴方は変というか、不思議な人ね。貴方の眼を見ているとどうしてだか落ち着くのよ。まるで魂の底まで見通されているみたいな気分になって、でもそれが不快ではない。貴方、本当に人間?」

「ふふ、この身体は父母から賜った正真正銘の人間の身体だよ」

 妙に鋭いな。一応、嘘は言っていないぞ。私の肉体は紛れもない人間のものだ。
 ただ竜の魂の記録から、生前の肉体を再現したり強化したりできるだけで、種族としては人間なのである。
 自分で言っていても、まあ、正直怪しい所だという自覚はあるけれども。

「ふうん、少し気になる笑い方をするわね」

「気の所為だよ。それより話をしていてつい忘れそうになったが、ディアドラを探していたのは話をする為だけではなかったのだよ。ディアドラ、ラフラシアに傷を負わされているだろう?」

「……何のことかしら?」

「ディアドラ」

 語彙を強めたのでも無く、むしろ優しく言った私にじいっと見つめられて、ディアドラは小さく首を横に振るって自分の負けを認めた。
 しなやかなディアドラの右手の指が自分の首の付け根から臍までをゆるやかに撫でると、しゅるりしゅるりとドレスの生地が無数の小さな蛇のよう蠢いて左右に退いて行く。
 このドレスもまたディアドラの肉体の一部が変容したものなのだろう。
 そうして月光の下に露わになったのは、そこにだけ月光が集中しているかのように白く輝く豊かな乳房とつつましやかな臍の窪みがある腹部。
 そして乳房の真ん中から臍の真上までが干乾びて黒く変色した肌だった。一度触れればその感触を生涯忘れる事の無いだろう美肌は、今や見るも無残な醜悪な様相を呈している。

「本当になんでもお見通しなのね。心配しないで。戦いには影響は無いわ」

「そうも行かん。少し触っても?」

「ええ。こんな身体で良いのなら」

 ディアドラは小さく肩を竦めて、茶目っ気のある仕草でそう言った。黒薔薇の精と言う出自の為なのか、異性に肌を晒す事への羞恥心がさほどないらしい。
 私は繊細な硝子細工に触れるかのようにゆっくりと優しく、ディアドラの変色した肌に触れた。
 内側の半分ほどを惜しげもなく晒す乳房の真ん中から、形の良い臍の上まで指を滑らせれば、がさがさにかさついたディアドラの肌の感触が返って来る。
 単純に生命力を吸い取られただけでなく、魂そのものにも若干の衰弱が見られる。
 魂にまで影響を及ぼせるとなれば、あのラフラシアという魔花の精は、ディアドラ同様に花の精としてはかなり高位の存在のようだな。

「触っても楽しいものではないのではなくって?」

「そんな事は無い。ディアドラが魅力的過ぎて困る。私も健全な男だからな」

「あらそう? 私は艶事とは縁遠いからそういう風に扱われた事はあまりないのよね。一応、魅力的と褒めてもらえたと解釈すればよいのかしら?」

「そう解釈してくれて構わないよ。しかしもう少し異性に対して警戒心を抱いた方がいいな」

「そう言うものなのかしらね? ドリアードの皆は美しい少年や逞しい男との交わりを随分楽しんでいるみたいよ」

 ドリアードは樹木の精である。美しい女性と樹木とが融合した姿をしており、木々によって細かい種類も異なるのだが、このドリアードは他種族の男性と交合してその精を糧とする。
 また時には気に入った相手を自らの本体である樹木の中に引きずり込み、外の世界とは異なる時間の流れの中で愛を交わす事もある。
 その為、ドリアードは妖しい魅力に満ちつつも時に人間を惑わす危険な精霊として知られている。

「ドリアードはそう言う所のある精霊だから、あまり真に受けない方が良いぞ」

 どうもこの黒薔薇の精は随分素直と言うか純真な所があるらしい。これは街になど出たら悪い魔法使いかなにかに騙されそうだ。そういう意味ではセリナと良い勝負だな。
 そんな感想を抱きながら、私はディアドラの身体に竜種のそれへと変えた生命力を流し込む。ディアドラの身体は乾いた地面が水を吸い込むように私の生命力を吸って行く。
 するとディアドラの変色した肌の上に仄かな虹色の光が浮かび、見る間に黒に変わっていた肌が元の白へと戻って行く。

「! これは、ますます貴方が人間かどうか疑わしくなってきたわね」

「少し不思議な人間と思ってくれると嬉しい」

 私は名残惜しさを感じながらディアドラの肌から指を離し、小さく笑う。ディアドラはいたずらに詮索する事をよしとはせず、それ以上私の事について問い質しては来なかった。

「少し不思議な人間ね。そう言う事にしておいてあげる。それとありがとう。傷を治してくれて感謝するわ。
 この戦いが終わったらドリアードに倣ったお礼をしてあげましょうか? 男の人ってそういうのが好きなのでしょう」

「君のような女性が、例えからかう為でもそんな事を口にするのは感心できないな。それでは、私は宿に戻るよ」

「そう、貴方と話せて楽しかったわ。自分でも意外な事にね。良い夢が見られる事を祈っているわ」

「ありがとう。君も眠りが必要無いにしても、身体と心を休めた方がいい」

 それだけを告げて私とディアドラは今宵の逢瀬を終えた。夜は明日の死闘を目撃しなくて済むと安堵して深くなっていた。
 私達と魔界の者達の戦いを見なければならぬ明日の太陽は、今日の夜を恨む事だろう。



 ドラン達をはじめサイウェストの者達が眠りの国に旅立っている頃、サイウェスト北部に四つある魔界門の内、主たる最北の魔界門にゲオルグを筆頭にした四騎が集っていた。
 魔界門は断末魔の声が聞こえてくるような表情をした顔が無数に連なった枠に、光を吸いこんで跳ね返す事の無い、長方形の黒曜石が嵌めこまれたような形状をしている。
 その魔界門の前にゲオルグとゲレンが門番のごとく立ち、周囲には無数の魔兵達が蠢いている。周辺に木々は無く地面は濃い紫色に変色し、所どころではぶくぶくと泡だって弾けている。
 泡が弾ける度に胃の中の者を全て吐きださずには居られない様な悪臭が周囲に立ちこめている。

 魔界門の周囲は魔界からの浸食が進み、かつての森の生命に満ち溢れた姿を失っているが、月光ばかりは変わらず冷たく美しい光を注いでいる。
 静寂ばかりが満ちるかと思われた光景であるが、先ほどから腹の底まで響く様な轟音がひっきりなしに続いていた。
 ドランとクリスティーナに傷を負わされたゲオルードが、腹腔に溜めこんだ怒りを魔兵相手に八つ当たりでぶつけているのである。

 ぶおっと凄まじい音と共に槍が振るわれる度に、五体の砕けた魔兵と共に抉られた魔界化した土が宙を待っている。
 更にはゲオルードばかりかラフラシアも同様にドランとディアドラへの報復の念から、自らの尖兵である筈の魔兵を相手に八つ当たりをしており、岩の上に腰掛けたラフラシアの周囲には魔兵のなれの果てである塵が山積みとなっていた。
 玉座とは到底言えぬ岩の上に女王然と腰掛けたラフラシアの顔には、終始何の感情も浮かんでおらず、ディアドラ達と邂逅する時の為にあらゆる感情と力が溜めこまれているのは明白であった。

「まったくゲオルードもラフラシアも八つ当たりするにしても限度が過ぎるぞ。魔兵とて勝手に生まれてくるわけではないと言うに」

 苦々しく言い捨てたのはゲレンである。相棒の戦斧を地面に突き立て、それに寄り掛って楽な姿勢を取っている。
 顔こそ兜状に変形している為に表情は窺い知れぬが、人間だったら下顎を突き出して臍を曲げた顔をしている事だろう。
 ゲレンの隣のゲオルグはと言えば腕組みをした姿勢で沈黙を友としたまま、仲間の醜態にも動じた様子は無く、ゲレンはこいつ寝ているんじゃないのか? と疑うほどであった。

「おい、ゲオルグ、卿から何か言わんのか?」

 幸いにしてゲオルグからの返事はあった。どうやら居眠りを決め込んでいたわけではないらしい。

「二人とも次の戦いに備えて気が昂っているのだろう。好きにさせておけ。それにゲレン、お前とて彼らとの戦いを待ち望んでおるだろう」

「それはまあそうだな。あのクリスティーナという娘御は超人種と言う事を差し引いても、大した胆力と実力の持ち主だ。
 セリナとか言うラミアの娘もまだ鱗の固まりきらぬ子蛇と言った所だが、なかなか見所がありよる」

「ふふん、楽しげな声を出すではないか。わしもあのドランと言う男の事を気に入った。久しく憶えの無い戦いが出来ると確信しておるよ」

 こうまで断言するゲオルグが珍しかったのか、ゲレンはほう、と嘘偽りの無い感嘆の声を出した。
 ゲオルグとの縁は既に千年近いものになるが、こうまで特定の相手にゲオルグが入れ込む事は百年に一度あるかどうかだ。

「それは何よりだな。魔界や神界でもなければ楽しめるような戦いには恵まれぬと思っていたが、地上でこうも楽しめるとは望外の喜……」

 ひと際大きな爆音と共に三十近い魔兵が宙を舞って、ゲレンの言葉を中断させた。
 ええい、とゲレンはそれまでの上機嫌の仮面を乱暴に脱ぎ捨てて、戦斧を抜いてずんずんと地面を砕きながらゲオルードへと向かって行く。
 ほどなくしてゲレンとゲオルードの口論する声が聞こえてきて、ゲレンがゲオルードの頭を戦斧の腹で思いきり叩き、気を失わせてようやく徒な魔兵の消費は抑えられた。
 そんな仲間達の姿を瞳に映しながら、ゲオルグはまったく違うものを幻視していた。
 ドランと名乗ったあの人間の男が、戦いの最中で見せた戦闘能力。そしてそれを支えていた魔力と闘気。あれは、ゲオルグの記憶が正しければ間違いなく……

「かつて魔界の邪神と民を蹂躙し、虐殺し、戦慄なさしめた古の竜の力。
 その名を聞けば如何なる邪神といえども恐怖におののき、如何なる悪神さえ絶望の嘆きを漏らしたというあの御方ではあるまいが、竜が人間に姿を変えたかあるいは転生した個体か。
 いずれにせよ、血の滾る戦いが出来よう。さあ、早く来い。戦いを待ち遠しく思うのは、実に久しぶりの事ぞ」
ちょこちょこ変えております。
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