2015年04月03日

 最強の世界戦略は「親米・独立」C

 ●米・中・韓の侮りを招いた国益主義≠フ放棄
 外交関係は、国益の競争で、友好や善意をふりまくことではない――。
 日本の政治家は、国際世界におけるこの大原則を忘れ果てている。
 だから、ばかにされるのである。
 薩英戦争で、旗艦艦長以下、10人近い戦死者をだしたイギリスが薩摩藩に接近したのは、藩主をまもるために勇猛にたたかった薩摩藩士を高く評価したからで、日英同盟がむすばれたのも、イギリスが「義和団の乱」における日本軍(柴五郎司令官)の勇敢さと軍規のきびしさ、礼儀正しさに感嘆したからだった。
 サムライが世界で尊敬されたのは、命よりも忠誠心と誇り、勇気を重んじたからで、欧米使節団の岩倉具視が条約改正に失敗したのは、明治帝の委任状を持参しなかった不忠義な愚か者だったからである。
 国益をもとめることは、国家にたいする忠誠で、国際関係における最大の美徳である。
 一方、個人を国益に優先させるのは、売国奴のふるまいで、いくら相手国に媚び、利益を供与したところで、軽蔑されるだけである。

 河野洋平は、バンコクで開催された東南アジア諸国連合外相会議(1995年)に出席の途上、台湾に緊急着陸した搭乗機から降りず、バンコクの会議場で中国の銭其シン外相に揉み手で擦り寄って「私は台湾の土を踏みませんでした」とへつらった。
 村山富市は、側近に「戦争謝罪がわたし個人の長年の夢だった」とのべ、談話が、中国や韓国、アメリカから歓迎されたと胸を張った。
 中国や韓国が、日本を三流国扱いにして、常軌を逸した内政干渉をくり返すのは、政治家に、国益をひきうける度量がそなわっていなかったからで、韓国を訪問した宮沢喜一(当時首相)は、首脳会談(1992年)で合計8回謝罪するという離れ業を演じている。
 この愚かなる3人は、はいつくばって、靴を舐めるとよろこんでもらえると思い込んだようだが、相手は、国益を省みず、個人の信条や利害、感情に身をまかせる政治家を売国奴とみなし、軽んじ、徹底的にいたぶる。
 経済は一流でも、日本の政治が3流といわれるのは、野党のみならず、保守系の議員までが国益を省みず、個人的な信条や理想、イデオロギーを振り回すからで、個人の枠をこえて、国益のために邁進するのではなければ、政治家失格である。

 国際社会は国益のゲーム≠ナ、外交の延長線上に、戦争が控えている。
「ヤルタ・ポツダム体制」の打破という者がいるが、戦勝国が、敗戦国をしめつけようとするのは、あたりまえの法則で、これを打破するには、もういちど戦争して、勝つほかない。
 日・独の封じ込めと植民地の防衛を企図した大西洋憲章に対抗して、日本は、「大東亜会議(大東亜共栄圏)」を主催して、アジアの結束を図った。
 戦争には負けたが、アジアの植民地は解放され、日・独とも、戦後、国際社会に復帰して、それぞれ、大国になった。
 それが、国際社会のゲーム性というもので、「ヤルタ・ポツダム体制」の打破というスローガンは、鳩山由紀夫の友愛の精神や「平和憲法を世界に輸出しよう」という護憲派の戯言と同様、夢想にすぎない。

「ヤルタ・ポツダム体制」以上に日本を蝕んでいるのが、その夢想で、温床となっているのが現行憲法である。
 日本国憲法には、国家主権や国益にかかる条文が、一行もない。
 当時、主権をもっていたのが、憲法をつくったGHQだったからで、GHQが去ったあとは、国家主権が空位のまま、現在に至っている。
 国家主権が不在なところに、国家への忠誠がうまれるわけはない。
 そこに、宮沢・村山・河野の3談話がうまれた土壌がある。
 3談話は、国家とは無縁の個人的信条で、売国奴のつぶやきである。
 今夏、予定されている「戦後70年の安倍談話」は、国家の重荷を一身に背負う責任ある政治家の独立宣言でなければならない。
 国家や民族、歴史をまもりぬく決意が熱っぽく語られていれば、村山・河野談話に、あえて、ふれる必要はない。
 中国・韓国は、村山・河野談話が踏襲されていないと騒ぐだろうが、中・韓とは、国交関係がないにひとしいので、慌てることはない。

 問題は、アメリカだが、気遣って、卑屈な姿勢をしめすと、かさにかかってくるのが、外交という武器なき戦場のセオリーである。
 談話に「原爆投下や都市大空襲の悲劇をのりこえ――」という表現をいれておけば、アメリカは、沈黙する。
 アメリカがいちばん困るのは正義の国≠ニいう看板が壊れることで、南京大虐殺のデッチ上げは、原爆投下や都市大空襲を正当化するためのデマゴギーだった。
 日本が、アメリカの欺瞞を非難することは、当たらない。
 なぜなら、南京大虐殺や大東亜戦争侵略説、従軍慰安婦問題をふりまわしたのは、朝日新聞やNHKなどの反日勢力、日教組や共産党、市民プロなどの反日勢力で、黙認したのが、日本の外務省だったからである。
 アメリカが、真実をねじまげるのは、国益のためで、世界が緊張関係にありながら、一応、安定しているのは、真実が隠蔽され、ウソがまかりとおっているからである。
 情報戦で、国益が害われた場合、日本がやるべきことは、事実関係を明らかにすることだけで、相手国を非難することではない。
 イギリスBBC放送が米韓¥]軍慰安婦問題を世界に報じて以後、旧日本軍¥]軍慰安婦問題にたいするアメリカの対日批判がトーンダウンして、シャーマン米国務次官も、従来の性奴隷「Sex Slave」という表現をやめて慰安婦「Comfort Women」に言い換えた。

 日英同盟(1902年)後、日本が日露戦争に勝って、世界の一流国の仲間入りを果たしたが、これに危機感をもったアメリカが、イギリスに日英同盟破棄(=ワシントン条約)をもとめ、ここで、日米戦争の複線が敷かれた。
 このとき、日本が、南満州鉄道を共同経営するという桂・ハリマン協定をむすび、アメリカがもとめる満州利権を分け合っていれば、満州合衆国は、日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人・米人の六族協和となって、太平洋戦争につながるアメリカの対日経済封鎖はおこなわれなかっただろう。
 満州をアメリカに乗っ取られるという被害者意識は、国益を堂々と主張することができない負い目で、アメリカが、地政学的に隣接する日本を敵に回して、太平洋で隔てられた中国や満州をわがものにできるはずはなかった。

 国益を考えた場合、唯一の同盟国で、超大国のアメリカと事を起こすべきではない。
 かといって、属国関係になるのは、もっとわるい。
 属国関係になるのは、国益主義を捨てて、はいつくばるからである。
 国際関係において、国家に忠誠を尽くす国益主義は、善であって、いかなる国もこれを非難しない。
 なぜなら、国益主義は、私情を殺して、国家や国民のために、冷たい逆風にたちむかうことだからで、賞賛に値する。
 日米安保条約が機能しているのは、岸信介が、日本を属国扱いするアメリカと日本の左翼大連合≠ニいう二つの逆風に立ち向かった成果である。
 一方、村山や河野は、国益のことなど芥子粒ほども気にかけず、自己満足や自己愛などの個人的心情に従っただけで、軽蔑の対象にしかならない。
 謀略と悪意、力だけの国際社会のなかで、通用するのは、呪い、怯え、媚びる私的な感情を断ち切った、国家にたいする忠誠心、怜悧なサムライの魂だけである。
 それが、畢竟、国益主義なのである。
posted by office YM at 15:49| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする