ロールモデルになるような、各業界の第一線で活躍している方々をインタビューと年表で紹介するこのコーナー。第16回のゲストは、株式会社あそぶとまなぶ代表取締役で、経営コンサルティングや、大正大学で客員教授をされているくらたまなぶさんです。

くらたさんは、大学卒業後、編集プロダクションやフリーランスを経てリクルートに入社され、『とらばーゆ』や『フロムエー』『エイビーロード』『じゃらん』など14のメディアを創刊された“創刊男”の異名を持つ方です。1998年にフレックス定年退社した後は、経営コンサルティングの仕事をされ、2010年からは大正大学表現学部の客員教授もされています。くらたさんのこれまでの歩みについては、ぜひ年表をご覧ください。

前編後編

『じゃらん』創刊のときには「ネーミングの壁」がありました

その後、リクルート事件が起きて、その後に発足した「ニューリクルート30」の座長になったそうですね。

リクルート事件は、テレビ、週刊誌、日経朝日毎日読売全部のトップで報道されるみたいな状況だったのでご記憶はあると思うんですけど、リクルートの内部がどうだったかというと、当然ながら社長以下役員全員が入れ替わり立ち替わり検察に呼ばれて、ろくに役員会が開けないという状態で、オーバーに言えばですけど。その後江副社長からバトンタッチした位田社長という2代目社長が「ニューリクルート30」のメンバーを任命したわけですけど、二つのグループに分けて、一つは「人と組織」がテーマでした。社内的にはリクルートが30周年を迎えて、表コンセプトは「今後どういうリクルートにしていくか」ということ、裏コンセプトは、「事件なんか起こしてどうするの、今までどうだったの、何か反省したほうがいいんじゃないの」ということです。もう一つのグループが、私が所属した「事業と文化」で、こちらは事業系と文化系、風土系のことを考えて、ときどき横で連絡をしあおうということになりました。「人と組織」は関一郎という、そのあと人事の役員になった人が座長を務め、「事業と文化」は私が座長になりました。事件をどう思うか、今後のリクルートをどうしたいと思うかなど、社内の上下全部の人間にヒアリングして、それから有名無名、企業人文化人を問わず、社外のキーマンにも、リクルートをどう思いますか、反省点は、期待する今後のことはとか、いっぱい聞いて、それぞれの分科会でブレストしたり、共有したりして、そこから、これは廃止しましょう、これを新たにつくりましょうと役員会に答申して、何ヶ月後かに解散しました。

その後、『じゃらん』を創刊されたんですね。

『じゃらん』の元になるアイデアがポッと出たのは、『エイビーロード』の創刊日の夜です。創刊号は即日完売で大成功でしたが、さきほど言ったようにミスが多くて創刊日からクレームの電話が鳴りっぱなしでした。編集制作は女性が多いんですけど、みんな泣いていて、売れている感激の涙と、ミスをしちゃった悲しい涙の両方が入っているんですけど、でも、みんなあちこち出かけて、営業はクライアントのところへ行ったり、書店や売店へ行ってデモ販売で売ってみたり。夕方に戻ってきて、ミスは多かったですけど、祝杯をフロアであげました。その後午後9時ぐらいに外へ出て、創刊スタッフ全員といっても十数人ですから、小さな飲み屋の一角で乾杯するだけですけど、その席で、たしか副編集長の平原だったと思うんですけど、感激とミスで泣きながら、でもうれしい酒を飲んでますから、だんだん乾いていって、泣いたカラスがもう笑うかというような状態になったときに、確かこう言ったと思うんですよ。「海外が創刊できたんだから、国内も創刊できるんじゃないですか」って。即座に「それはある」と同調したと思います。特に祝杯をあげていて、気が大きくなってますから「やりましょう」「うちから国内のも出しましょう」と。つい先日までは、入稿が間に合わない、営業が受注できないとか言っていて、現在もクレームの電話は殺到しているけれども、売り切れているんだという気の大きさで、「国内もやりましょう」と盛り上がりました。それが1984年の10月1日のことで、『じゃらん』を創刊できたのは1990年という6年後なので、実はおいそれとはいかなかったですね。

延々と6年間考えていたというわけではないんですよ。ちょっと棚にあげておこうという感じで、『エイビーロード』から始まるかなと思っていて、実際に『エイビーロード』の部内でプロジェクトが発足したりもしてますけれども、私の判断するレベルの段階でも、まだ手をつけるのは早いかなという状態でした。簡単にいうと海外旅行よりもマーケットが広すぎるんです。海外のほうが地球儀では広く見えるんですけど、商売としてのマーケットは海外旅行よりも国内旅行のほうが広いんです。なぜかというと、海外旅行人口が当時1年間に5~600万人だったとすれば、現在は1800万人ぐらいですけど、当時も今も国内旅行は、5億人回と言われています。仮に1億2千万人が全員動いたとしても、1年間に3回ぐらい行っていて、もしかしたらもっと行っているかもしれないという。だから、いろいろあるんですけど、マーケットとしてはでかすぎて、商売がけっこうやりにくかったりするんです。細かく言うともう少しいろいろな理由がありますけど、もうちょっと企画を練ってみようか、もんでみようかというのを繰り返しながら、プロジェクトのメンバー構成もちょっとずつ変えながら進めていったので、それで時間がかかったんです。それは苦労といえば苦労ですけど、ちゃんと理性的にブレーキをかけたというのは、実際には何も苦労ではなくて、久しぶりにまたプロジェクトを再稼働してみようかといって、1989年の夏に再稼働してから半年間ぐらいで創刊しました。また久しぶりの即日完売で大成功でした。

『じゃらん』のときは、その創刊ぎりぎりのときにネーミングの壁がありましたね。リクルートの伝統として、誌名を社内募集するというのがあって、国内旅行をテーマにした情報誌を創刊しますけれども、ネーミング案をくださいといって、ちゃんと賞金付きで募集しました。ジャスト賞とか、ニアピタ賞とか。ジャスト賞はそのまま使った場合、ニアピタ賞はちょっと文字を修正して使った場合で、賞金といっても、ジャスト賞でもたしか1万円か2万円で、名誉のほうが大きいですけど、でも何千件という応募が来て、創刊スタッフが何百、100、50と絞っていって、20ぐらい残った中に「JALAN」というのが入っていました。「JALAN」はインドネシア語で「道」という意味ですけど、その欧文表示で候補に残して、最後の最後の3択から「JALAN」がいいと決定しました。読みとしては「じゃらん」で、メディア業界、雑誌業界の登録の類があるんですけど、そこに申請をして通り、ロゴを制作して、宣伝用のちらしや見本をつくって、営業の下回りをするときに、旅行大手はJTBと近畿日本ツーリストで、航空大手はJALとANAなんですけれども、私も営業課長と一緒に、事業部長兼編集長として回りました。そのときにJALは、「いいね、どんどん創刊号から参画しようじゃないか、メディア自体の趣旨にも賛成するし、広告主としても乗るよ」と大喜び。同じ日に時間を変えてANAへ行ったら、顔がパッと青ざめて、「これは何だ、けしからん」と怒るんです。何を怒っているのかさっぱりわからなくて、そしたらなんといったかというと、「ここまでがJALを指すんだろう、ここはうちなんだろう」と。ANAって2文字で出すときはANなんです。JALを2文字にするとJLなんです。業界でツーレター、スリーレターと言って、なんでも3文字に略したり、2文字に略したりします。たとえばロサンゼルスはLAか、LAXですね。だから旅行業界の人はこの誌名を見たときに、われわれがわざとやってるんだと思ったんでしょうね、JALとANAって言っているのだろうと。実際に名前を公募して本当にいいと思ってつけたんですけれども、でもそこでANAさんに初めて怒られて、私もそのときに『エイビーロード』を6年間やってましたから、なんで気がつかなかったのかなあと。私ももちろんツーレター、スリーレターは知ってましたけど、でもあんなに楽しく、3000候補ぐらいから、200、100とあたかも当然のように絞り込んだという意識になっていて、もともとユーザー感覚でやらないといけないと常に創刊のときは思ってますから、業界人的な考え方はわざと遠ざけていたのかもしれません。怒られたときに急に業界人に戻って、そうだその通りだ、そう思われて当然だと気づきました。必死に「違います」と言いましたが、向こうは、絶対に確信犯だ、そうやって取り込もうとしているんだろうと。「JALさんに行ったんでしょう」と言われて、正直だから「ハイ」と答え、「大喜びだったでしょう」って言われて、「ハイ」とは言えなくて、もう一度誌名の主旨を説明しましたが、「これはつきあえない」と。営業課長は「そんなことはおっしゃらないでください。くらたが言うように絶対うそではないので」「仮にうそじゃなくたってダメだ、JAL、AN、一番、二番みたいなことはありえない」「絶対にそんな意図はありません」といって、その日は帰ってきました。

『エイビーロード』出身者は、そう言われればそうだねと。『エイビーロード』を知らない人間は、ツーレター、スリーレターも知らない人が多いですから、そんなことを業界人は思っているんですかと。でも間違いなく「JALAN」というのはいいネーミングだし、もうちらしを作って何千万と発注して、宣伝広報面のコストもかかっているし、後戻りがきくのかと。ANAをどうするかという問題はありましたが、読者マーケティングから、しっかり「JALAN」はユーザーにとってもいいタイトルだとわかって選んでますから、結局王道を貫きましたよ。ユーザーにとっても「JALAN」はいいんだから、必死にANAさんにそういう意図はないと言い続けるしかないと。ANAさんにはその日から10日間は毎日行きました。あちらが忙しいと言っても行くぐらいの勢いで、社内応募で選んだというのはうそじゃないと3000の案を持っていったり。普通は社外秘の資料ですけど「リクルートさんはこんなに案が出るのか、すごいね」と、そういう好奇心もありますからね。そうすると向こうも「この案はいいね」と。でもまたふっと経営者の感覚に戻って。そうやって10日間日参をして、結局解決策はひらがなにするということでした。社内で話しても、若い女子社員が言うんですよ、「普通にユーザーから見てひらがなのほうがいいですけど」って。それが救いでしたね。実際にその後の創刊号の読者からは、「ツーレターもスリーレターも知らなかったけど、もともとひらがなのほうがいいですよ、インドネシア語よりも、かわいいじゃないですか『じゃらん』って」という反応でした。私はそれを一生懸命にANAに言うしかないと。現実に編集長としても腹に落ちてますし、すでにユーザー的にOKだと思っていますけど、ひらがなにしたらもっといいだろうと思って。ANAの方は眉間にしわをよせてましたけど、「まあいつまでも言ってたって、リクルートさんはこれで出されるというんだからしょうがないでしょう。ただし広告を出すかどうかは約束できませんよ」といってオーケーしてもらって、そうはいいながら広告も出してもらえました。もしかしたら最初に出そうと思ったよりは半減していたかもしれませんけど(笑)。ちらし、リーフレット類のコストはゴミ箱に捨てたことになりますが、今でも創刊メンバーで、あの欧文ロゴは貴重だから記念にとっておきますよと「JALAN」の束見本やキーホルダーを持っている人がいますよ。

1993年の10月には新規事業開発室長に就任されたんですね。

それまでは、ほかのリクルートの事業も全部そうですけど、言い出しっぺがやるんだといって、あとからゲマインシャフト的に組織が形作られるというやり方をしていました。「ニューリクルート30」をへて、新規事業開発室をつくろうと言い出したのは2代目の位田社長で、これから前向きにやっていこうというときに、いくつか出た戦略の一つです。「今までの言い出しっぺがやるという伝統は今後も活かせばいいし、くらたくんのようなヤツはこれからもラインでどんどん輩出するように仕向けていけばいい。今までと違うのは、全社的な組織として、新規事業を始めるときにどうしていいかわからない人がいたらアドバイスをしてください」と位田さんから頼まれて、位田さんに「100%スタッフにはしないでください」とお願いして受けいれられたので引き受けました。だからそのときの状態は、じゃらん事業部長兼新規事業開発室長です。

自分としてはどういうつもりだったかというと、じゃらん事業部長としての立場は妊婦あがりなんですよ。妊娠して、出産して、肩書きは偉くなってますけど、妊婦あがりみたいなものですね。副編集長や営業のメンバーに、新たなアイデアを出していけよという立場で、ライン長です。新規事業開発室長というのは、そこからリクルート全体を見渡しながら、妊娠、出産をうながそうという助産婦、あるいは産婦人科の役割です。それで、この新規事業開発室のメンバーに言ったのは、自分がアイデアを出して妊婦になってもいいし、全社スタッフの助産婦的な立場で、日ごろ現場を回って「それはいいアイデアですね、今度会議にかけてみましょう」と言って、出産準備に入るのを手伝う立場でもあるということです。

だから、新規事業開発室長になった後は創刊の数に拍車がかかっています。個人でやるときは、愛情とか情熱とか根性とか、徹夜も辞さないとか、そういう面でメリットはあるんですけど、デメリットはカラダが一つしかないということです。後半の助産婦としてのメリットは、やろうとなったら、あなたもやりなさいよ、あなたも出産しなさいよと、数を一気に増やせたことです。介添人はやりますけど、創刊から先は、私はパッと離れて、現実の手柄は編集長だったり、発案者だったりですね。

新規事業開発室長になってからは、8メディア創刊して、その中には創刊準備が長いものから短いものまでありましたけど、どれも創刊の手前までは、全部一緒になってヒアリングして、ブレストして、情報共有してますから、やっぱり人ごととは思えません。そういう意味で自分の履歴に出しています。新規事業開発室長時代に創刊したものって、お役所的な手柄にしようと思えば、ほかのものも全部書けますけど、それは良心として履歴には書いていません。書いた8個は創刊手前までは当事者として関わったものです。ただし創刊日以降に腹を痛めているのは編集長だったり、事業部長だったりなので、そこから先は自慢しないようにしています(笑)。たとえば『ゼクシィ』に関する話のときに、創刊前の苦労やコンセプトについては自信を持ってしゃべりますけど、1周年後に大リニューアルしてさらに成功したことについては、それは私ではなくて編集長の森川さゆりさんの手柄ですねという、そういうしゃべりかたをしています。

1998年にフレックス定年退社されたんですね。

フレックス定年というのは、その年の誕生日で45歳になるときに資格を満たした状態になります。役員を目指したいとか、逆に独立して何かをしたいというのは正直いって何もなかったんです。自分で言うのもなんですが、労働時間だけは誰にもひけをとらないで働いたので、正直なところカラダも悲鳴をあげていましたし、半分引退のような形で辞めていいよねと自問自答して辞めました。もちろん引き留められましたけど。辞めてから1か月ぐらいはゆっくりできましたけど、あとはいろいろ声がかかって、全部受けてたらまた同じ苦しみになってしまうので、新潟ならおいしいお酒が飲めるかもしれないといった視点で数社に絞って引き受けて、今に至っています。

私のキーワードは「ネガポジ変換」かもしれません

人生を改めて振り返ってみて思うことは?

これまでインタビューを受けた方は、きっとポジティブな内容が多いんじゃないかと思いますけど、私の場合はネガティブなものにひっかかり慣れているというのがありますね。フリーランサー時代に写真を電車の中に置き忘れたミスは、若気の至りだったとはいえ、やってはいけないミスでしたし、その結果借金したことはネガティブな現象だと思うんですよ。ただそれがリクルートに入るきっかけになりました。『エイビーロード』の創刊号がミスだらけだったこともネガティブな現象ですが、それがわざわざ営業しなくても、関連会社の方々と腹を割って話せるきっかけになりました。

たくさんの創刊をしてきて、創刊のノウハウで本に書き、講演でも言っているのは「不平不満を聞きなさい」ということです。今個人史を取材されながら、自分を振り返ってみて「あ、私はネガティブがきっかけになっているな」と思いましたが、もしかしたら「不平不満を聞け」というのが潜在意識にあるのかもしれませんね。人生で必ず何かネガティブなことがありますけど、それを裏返すといい出会いにつながったり、再発見につながったりすることがあるということです。今気づきましたけど「ネガポジ転換」は私のキーワードかもしれませんね。

ちなみに最近でいうと、2010年の10月21日に脳梗塞で倒れたんですけど、それがきっかけとなって今はカラダが健康になっています。脳梗塞になるというのは、いろいろ要因はあるでしょうけど、はっきりいってメタボです。つまり、高血圧だったり、高脂血だったり、具体的にいうと中性脂肪だったり、肝臓でいうとガンマGTPだったり。リクルート時代よりもヒマだといいながら、遊びの飲みも含めて夜更かししたり、お酒と一緒に辛いつまみを食べたりしていて、塩分は血圧をあげますし、中性脂肪は血をドロドロにします。今の私からは想像つかないかもしれませんけど、倒れたときの体重は、今より16キロ多かったんです。ただし見た目はそう見えないんです。なぜかというと、脳梗塞で倒れるような人には特徴があるんですけど、内臓脂肪型肥満といって、女性と違って皮下脂肪ではなくおなかに脂肪が集中していて、そこが悪い血流を回しているんです。そして脳でドロドロの血が止まってしまって、脳梗塞を起こすんですね。

自宅の風呂場で倒れて、家人がそばにいたからよかったんですけど、すぐに救急車を呼んでくれました。ちなみに脳梗塞って本人は意識があるんですよ。ひどいと即死することもありますけど、普通の脳梗塞は一瞬意識が5秒ぐらいとだえて、即座に意識が戻るんです。それで、そばにいる人が救急車を呼ぶと言っても、呼ぶな呼ぶなというのが男の特徴なんです。私も呼ぶな呼ぶなと言い続けました。外聞が悪いとか、寝ていれば大丈夫とか言って。家人は私の性格をよく知っていたので、絶対呼ばなきゃだめだと言って呼んでくれました。それで呼んだら病院に着いてすぐにCT、MITを受けさせられて、画像を見て即座に脳梗塞と診断され、そのまま家にも戻れずに緊急入院しました。絶対安静で、倒れてから一週間の間はずっと仰向けで寝た姿勢のまま、点滴の管をつなげて、自分では何もできない状態でした。

退院して、反省に反省を込めて、脳梗塞とは何か、メタボとは何かを猛勉強して、カラダを改造しました。凝り性なものですから。創刊のときと同じ作業ですけれども、旅行と決まったら旅行について、アルバイトと決まったらアルバイトについてものすごい勉強をしていたように、脳梗塞について猛勉強したので、正直いって現段階で、メタボや脳卒中、心筋梗塞まわりの知識は医者よりも詳しいかもしれません。なおかつ医者よりも私が勝っているのは、自分で実践していることです。「一人ためしてガッテン」というか、歩いてみたり、走ってみたり、泳いでみたり、食べたり、飲んだりしながら、数値を下げるものは下げて、上げるものは上げて、人間ドック的にいうと、オール5みたいな状態に保っています。でもまあ原状回復をしただけだと思ってますので、プラス今度はもっと前向きに、筋肉をつけるべきところにつけて、ファッション的にもきれいなカラダにしたいし、別にオファーする人はいないかもしれないけど、老人モデルをやってもいいぐらいのスーパーなカラダを目指してみようかなと。

友達から聞いたんですけど「無病息災」って四字熟語がありますよね。自分や家族に病気が一切ないように祈るわけですけど、「一病息災」という熟語があるそうです。メールに「くらたさん、脳梗塞から回復して、ジョギングや泳ぎもしているそうで、よかったですね、一病息災で」って書いてあって、私は最初その人が「無病息災」と間違えてるのかと思ったんですよ。それで間違いを指摘するメールを打ち返そうと思い、その前に一応確認しておかないといけないと思ってグーグルで調べたら、ちゃんと「一病息災」って言葉が出てきて、「一つの病気をやったおかげで、健康に目覚めること」という意味だとわかりました。ああ、その通りのことを言ってくれてるんだと思って、「いい言葉を教えていただいてありがとうございます。本当に一病息災で、今後とも勉強を続けるし、運動も続けますよ。栄養もバランスを考えて続けますよ」と返事しました。つまり脳梗塞で倒れたことがネガポジ転換で「一秒息災」となって、医学的にも食事的にも運動的にもとても勉強になりました。

「ダメなところ」を聞いて、不平、不満、不便を裏返すんです

将来の夢は?

大きい夢というのはあんまりなくて、もちろん爪の先のひっかき傷ぐらいには社会の役に立ちたいというのは、『とらばーゆ』のときから変わらずにありますけれども、それは今のコンサルの仕事でいえば、関わっている企業の企業活動を通じてということです。公の仕事でこれはというものはそんなにないですが、ただ毎年「○○元年」というのを続けてまして、完全にプライベートですけれども、ちなみに今年は「ピアノ元年」です。もう半年以上たっているのに、まだ1回も鍵盤を触ってないんですけど、そのかわりピアノにまつわる映画を借りてきていっぱい見てますし、ピアノにまつわる書籍もいっぱい読んでますし、ネット検索でピアニストとか教室とかいろいろ調べて、どういう講座があるか、どんな個人教師がいるかとか研究に研究を重ねていて、わざと「よし」と思うまで、まだ鍵盤を触っていないんです。友達にその話をしたらキーボードを譲ってくれたんですけど、それさえもまだ触っていません。「よし」と思ったらじっくり触るでしょうし、幼児のようにドレミから始めるでしょう。「○○元年」というのは、1年こっきりでやめちゃうものもあれば、ずっと続けるものもあるんですけど、たぶんピアノは来年も再来年も続けられるテーマだと思うし、弾けるようになれば、「ピアノ元年プラス○○元年」になるかもしれませんね。「クラシック元年」になるかもしれないし、「発表会元年」とか「コンサート元年」とか、そういう夢はあります。ピアノを軽く弾いてみたいな、聴かせてみたいな、拍手を受けたいなというのはありますね。このように毎年「○○元年」というのを決めています。

ちなみに2011年は「脳梗塞元年」で、だから詳しくなってますけど、「脳梗塞元年」といいながら、病気ばかり調べるわけでなくて、そこからウォーキングになったり、栄養になったりと、融通無碍で膨らませたりするんですよ。最初は「脳梗塞元年」ですけど、だんだんそれが「食事元年」とか「スイミング元年」で、私のなかで、栄養やスポーツとか入っているんですよ。今年は「ピアノ元年」にしてますけど、脳梗塞関連の書籍でもいいものがあればいまだに買ったりするし。

今後起業したり、新規事業を始めたりしたいという人にアドバイスするとしたら?

現在も個人的に相談を受けることがよくあって、必ず言うんですけれども、こうしたいという自分の思いを、言ってみなさいと言ったらすぐ言えるはずなんです、そういう方々って。書いてみなさいと言ったらすぐ書けると思うんですよ。それはそれでけっこうなんです。言ってください、書いてくださいと。私からのアドバイスは、こう思うんですって言ったり書いたりしたものを他人にぶつけてみてください、他人に見せてくださいということです。他人は誰かといったら、順番は決まっているんですけど、まずは好きな人に言ってください。好きな人が10人いるなら、好きな順に言えばいいです。超好きな人からやや好きな人、軽く好きな人まで、20人いたら20人、30人いたら30人。それで、好きな人に言うとほめられるかもしれませんけど、ほめられたら「ダメな点はないですか」と聞いてみてください。「悪い所を指摘してください」と。次に嫌いな人のグループに言ってください。その次に好きでも嫌いでもない普通の知り合いのグループに言ってください。誰に何人聞こうが「ダメなところはどこですか」と聞いてください。ここに結局は戻るんです。何百人聞こうが、求めることは、自分が思っている思い込みがダメな点は何かというのを指摘してもらうことです。そうすると二つ揃うんですよ。自分がやりたいこと、したいこと、実現したいことと、そんなものはダメだということ。この二つがあれば、いかようにでもツールに使えます。

初心の中にある憧れみたいなものには、いつでも立ち戻っていいんです。すごい背伸びした発言だったり、憧れでしかない、夢の夢のまた夢みたいなものかもしれないけど、とっておいたらいいでしょう。けれども、他人からの、そんなのはここがダメだろうという指摘は、すごく重要なダメ出しで、セットで持っておいて、批判された言葉は裏返せばいいんです。たとえば、もしコップ職人になってこういうコップをつくりたいって言ったときに「こんな背の高いコップはダメだよ」って言われたら、小さいコップをつくってみればいい。「ガラスのコップはだめだよ、陶器じゃなきゃ」って言われたら、陶器のコップをつくってみればいい。「コップ自体はダメだよ、皿をつくってみたら」って言われら、皿をつくってみたらいい。不平、不満、不便を裏返すということです。

もう一回縮めていうと、何かをやりたいと思っていたら、やりたいことを言ってみましょう、書いてみましょう。それを好きな人から順番に他人にぶつけて、ほめてもらうのはいいけれども、けなしてもらいましょう。けなしてもらったら、受けとめて、裏返してみましょう。受けとるのがけっこう難しいんです。受けとめる場合には反論してはだめですよ。ぜったい反論しちゃうんですよ。「コップなんかできるわけないよ」って言われたら、「いいじゃないですか、やろうと思っているんですから」と反論した瞬間にヒアリングにならなくなってしまう。だからむかつきながらも、「そうですか、コップじゃだめですかねぇ」って、相手の話をよく聞くことです。

前編後編

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くらたまなぶ(株式会社あそぶとまなぶ 代表取締役) | 年表(自分史)創造コミュニティ Histy(ヒスティ)

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