ロールモデルになるような、各業界の第一線で活躍している方々をインタビューと年表で紹介するこのコーナー。第16回のゲストは、株式会社あそぶとまなぶ代表取締役で、経営コンサルティングや、大正大学で客員教授をされているくらたまなぶさんです。

くらたさんは、大学卒業後、編集プロダクションやフリーランスを経てリクルートに入社され、『とらばーゆ』や『フロムエー』『エイビーロード』『じゃらん』など14のメディアを創刊された“創刊男”の異名を持つ方です。1998年にフレックス定年退社した後は、経営コンサルティングの仕事をされ、2010年からは大正大学表現学部の客員教授もされています。くらたさんのこれまでの歩みについては、ぜひ年表をご覧ください。

前編後編

大きなミスをしたことがきっかけで、リクルートに入ることになりました

現在のお仕事は?

一つは経営コンサルタント。守秘義務契約があるので詳しくは話せませんが、私はまったく営業活動をしませんので、ほんの数社です。もう一つは大正大学表現学部表現文化学科の客員教授。表現学部表現文化学科というのは、具体的には日本大学芸術学部みたいなものだと思っていただくとわかりやすいです。大正大学はもともとお坊さんの学校で、仏教学部から始まって、そこに文学部ができて、最近表現学部ができたんです。大きくいうと映像と作家と編集者のそれぞれの志望者向けの学科があって、私はそこの編集者向けで、わかりやすくいえば、エディター養成講座の教育をやっているということです。企画の立て方だったり、タイトリングだったり、取材の仕方だったり、現在週2コマ教えています。

新潟での仕事は、新潟県内でベンチャーを起こすお手伝いをしています。ベンチャーにもいろいろあって、大企業の中の新商品開発もベンチャーだし、中小企業の社内開発や、新たに創業するのもそうだし、個人やSOHOでIT系だったり職人系だったり、それらすべてです。新潟県に産業労働部があって、県内の起業率を上げて廃業率を減らすという産業施策を担当しているわけですけれども、補助金をつけたりアドバイスをしたりというときに、外部メンバーとして審査したり、個別にアドバイスをしたりしています。2000年からなので、わりと長いですね。2003年には財団法人にいがた産業創造機構として業務が統合されて、今にいたります。

リクルートでは14媒体を創刊されたそうですが、最初はアルバイトとして入社され、その後に正社員となって『とらばーゆ』を創刊されたんですね。

正式にいうと、正社員になってから最初の配属先は、『とらばーゆ』ではなくて「新規プロジェクト」という配属でした。結果的にそれが『とらばーゆ』になったということです。その前にリクルートにアルバイトで入ったのは、借金をしたことがきっかけでした。フリーター時代というか、一応貧乏フリーランサーで編集プロダクションに所属はしていたんですけど、固定給をのぞまなかったので、業界でいうと原稿料払いにしてもらっていました。この仕事をしたらこれだけというふうに、仕事に応じて全部ギャラをもらおうと思って、その代わりにやみくもに働こうと思っていたんですけど、やみくもに働くことだけは満たすことができて、なぜかお金は入ってこないという(笑)。私が稼ぎ頭で、ほかに固定給の女性のスタイリスト志望とかがいるプロダクションで、私の稼ぎが固定給の人に全部まわってしまって「ごめん、また来月まで待って」と言われて、遅配みたいな感じで、「その代わり夜の飯はおごってあげるよ」とか、それはそれで腹へっていますから、ごまかされてしまっていました。

それで、ある仕事で、後にも先にも、私はリクルートに入ってからもそんなにミスをしたことはないですけど、そのときは大きなミスをしてしまいました。ある男性誌の表紙を飾る予定だった外国人の女性のヌード写真の35ミリのフィルムを持ち歩いていて、いろいろな雑用で電車やタクシーを使って移動しているときに、真夏で35度ぐらいの暑さでぼーっとしていたんでしょうね。京浜急行の品川駅で、電車の棚にフィルムを置きっぱなしにしてしまい、山手線に乗り換えてから、そこで気がついて、すぐに戻って品川駅の京急の事務所で確認してもらっても見つからず、結局終点の駅の事務所まで行って、なかったらそこの警察に行ってくれと言われて行ったんですけど、最終的に出てきませんでした。出てこないなら弁償だという話になって、1978年のことですけど、当時のお金で30万円ですから、今のお金でいえば100万円を超えていると思います。それで、そんなお金は持ってないので払えませんと言ったら、10万円に負けてやると。それでもそんなにないので、できるだけ早く返しますが、ここにいたら返せませんのでと嫌味を言ったんですけど(笑)、バイトをして返しますと。

それでバイトを探すために新聞の求人欄を見ていて、日本リクルートセンターという会社が社員とバイトを中途採用しているのを見つけて、相場よりも高かったので、面接に行きました。とても狭き門だったというのをあとで知るんですけれども、バイトにも当時まだ開発中だったSPIを受けさせるんです。今はSPIは有名になりましたけど、リクルートの創業者の一人が開発をして、それこそ磨きをかけて、自分のところの採用にも使うし、ほかの会社にも入社試験で使ってくださいと売り込んでいて。そんな狭き門をうまく通って入ることができて、『週刊就職情報』というメディアのバイトに採用されました。その後『ビーイング』に改名されますけど、中途採用の情報事業部のいちアルバイト制作で、その事業部の総人数がたかだか50名ほどでした。全体で4事業しかない1事業で、『リクルートブック』がたぶん400~500名、2番手の『進学ブック』がたぶん200名くらい、3番手が『ビーイング』で、4番手の『住宅情報』が創刊1周年になったかどうかでたぶん数十名。こんな段階のベンチャー企業で、でも日本経済はオイルショックを乗り越えて順調でしたから、私が入ってすぐに数十名が100名、200名に増えて、売り上げも倍々ゲームでした。ですから、私の個人のバイトで言えば、借金は即座に返せました。給料の遅配もありませんし、残業もいっぱいあって、忙しいとお金を使えないですから、出前をとって食べるぐらいで。飲み代も新橋で飲むぐらいで、レジャーしてるひまもなく、良循環といいますか、ベンチャーでもうかっているときはお金が稼げて使うひまがないということです。なおかつ何か企業の業績が目標達成をすると、すぐに寿司桶をとったり宴会をしたりする社風で、これは会社負担でしたから。それで借金をすぐに返して、編プロは私のことを仕事はできるとみなしてますから、戻ってこいよと言われましたが、「お世話になりました、こちらのバイトをそのままやりますから」と戻りませんでした。

バイトを始めてからほどなく、社員にならないかと言われました。もともとフリーランスをやろうと思って、そんな貧乏プロダクションでもやってたぐらいですから、社員になるのは抵抗があったんです。そのときの女性の上司が、神山陽子さんという『ビーイング』の編集長で、リクルートではその後役員になって、監査役になったあと退任するわけですけど、ずーっとお世話になって、今もお世話になっていて頭があがりません。その神山さんから社員にならないかと言われて、サラリーマンに抵抗を感じると言ったら、「一度もサラリーマンやってないじゃないの。なんでやってないのに、いやだとかフリーのほうがいいとか、そんなことが言えるの。いっとくけど、アルバイトでさえ相当狭き門で、なんとか入ったからいいようなものの、社員はすごい狭き門でそもそも受かるかどうかわからないのよ。受かってから、私は社員よりもフリーのほうがいいですよといくらでもほざきなさい」と言われて、「それはもっともでございます。チャレンジします。確かに受かってから言わなきゃいけないセリフでした」と。今思うとまっとうな口説き文句ですけれども、ある意味奮起するし、よし受けようと思いましたね。

それで「どうすれば受かるんですか。私でだめなことはあるのでしょうか」と聞いたら、いっぱいあると言われました。その生意気なスタンスがよくないし、ちょっと模擬面接でもやってみようかという話になり、喫茶店や飲み屋でなんども模擬面接をやって、今の発言はどうかとか、いろいろともまれて、なんとか採用試験に受かりました。受かりましたけど、あとから神山さんを通じて、当時で社長以下全役員でせいぜい7、8名で、役員の誰がどう言ったかは全部フィードバックが入ってきまして、当時平課長だった神山さんがそんな情報を仕入れてくるというのはすごいアンテナを持っていたんだと思います。たぶん直属の役員から聞いて教えてくれたんだと思いますけど、その直属の役員は二重丸で、神山さんからなかなかがんばっているバイトだよと聞いていたんでしょう。ほかの役員からは、面接のときの態度がどうもとか、いろいろあったようですけど、そういう意味では、私の中ではかろうじてすれすれで入れたのかなと思っています。

私の『ビーイング』でのアルバイトの期間はジャスト丸1年で、ちょうど明日から366日目というときに役員面接に受かったので、もしかしたらアルバイトは2年目に入らせないというのがあったのかもしれません。正社員として配属されたのが1年前のアルバイトで入った日とまったく同じ8月17日でした。まる1年働いてますから、『ビーイング』の職場しか経験してませんが、まだ数百名規模の小さい会社だったので、飲み屋に行けばほかの事業の職場の噂も聞くし、活躍している社員の話をバイトとはいえ社員との会話の中で聞こえてきますから、この会社は言い出しっぺがなんでもやるんだな、『住宅情報』は言い出しっぺが出したんだな、言い出しっぺが仲間を集っていって人事が形成されるんだな、サークル活動みたいだなと思っていました。実際に東大の学生がサークルみたいに始めた会社なので、そういうインプットをもらっていて、面接のときに何をやりたいかと聞かれて、新しいことをやりたいですと答えたら、そのとおりになって新規プロジェクトに配属されたんです。

その配属になった直属の上司が男性で、多田弘実さんといって名前から女性と間違える人がいますが、当時ジャスト30歳で、私がジャスト25歳で、30歳と25歳の二人のプロジェクトでした。ちなみにリクルートで30歳で課長というのはとても出世が早いです。その前は『ビーイング』の営業課長で、昇進が早いということはトップセールスマンということです。具体的には、企業をいっぱい回って、たくさん求人広告をとってきていているということで、それを1年間私はアルバイトとして見ていました。

配属になった初日に、当時就職情報事業部があったのは西新橋ですけど、その裏側にルノアールという喫茶店があって、朝からそこに行ってモーニングを食べようという話になり、「えーっ、そんなことをしていいんですか」みたいな感じだったんですけど、こう言われましたね。「くらた、新規事業で何もテーマが決まってないのに、会議室で会議なんかすると思っているのか」「そう思ってました」「そうしたいか」「いえ」「そうだろ。まだ朝も食べてないだろ」「はい食べてないです」「俺も食べてないよ」「でも他の人も食べてない人がいるんじゃないですか。これから営業に出る人や、広告をつくっている人たちに申し訳ないです」「それはもう既存事業で仕事があるんだから、食べてないのは自分の責任だ。新規事業でテーマが決まってないなら、せっかく腹が減っているんだから、それにかこつけてモーニングを食べても、それはさぼっているんじゃなくて、いったいこのテーマは需要があるのかどうかというミーティングなんだから」と。けっこう腑に落ちましたね。新規事業は既存事業と違って、喫茶店でお茶を飲むのも、モーニングを食べるのも、そこからアイデアを出すことにつながるんだ、これはいいと。実際におなかがへってますから、トーストとコーヒーをとってから「結局何をやりたいんだ。面接で『新しいことをやりたい』と言ったと聞いたぞ」「何をやるかと言われても、何も考えてないんですけどね。多田さんはお考えはあるんですか」「俺もまだないけどね。一応今日から始まるんだろ。だから、朝飯を食わずに通勤電車にゆられてつり革につかまりながら、お前と違って上司をやらないといけないんだから、俺から何か言い出さないといけないと思って、ああでもないこうでもないと考えたよ。それをちょっと言ってみようか。とりあえず海外旅行はどうだ」と。私はたまたま大学時代に海外旅行に5回行ってましたので、腹の底から「いいですねぇ、海外旅行というテーマは」と。

そんなやわらかいテーマでもいいのだとわかったので、ノーアイデアだった私が、初めてアイデアを思いつきました。大学の在学中に集英社の『週刊プレイボーイ』編集部でバイトをしていましたけど、編集部のななめ向こうには、『ノンノ』や『モア』の編集部がありました。どちらも当時発行部数が100万部を越えていた人気雑誌で、何を思いついたかというと「女性だな」と。それで「女性はどうですか」と。多田さんが「“海外旅行”といっても、ヨーロッパだ、ハワイだと行き先だけを考えてもいろいろあるし、目的を考えれば、留学があったり、ビジネス出張があったりする。お前が出した“女性”は、それこそ恋愛なのか結婚なのか、出産なのかファッションなのか健康なのか、いろいろあるだろう。煮つめていかないといけないぞ。でも今日のファーストミーティングで二つ出たんだから、まずはこのテーマを追跡しようじゃないか」と。それでルノアールを出て会社に戻るわけですけど、道すがら多田さんが「今後どちらかになるか、あるいはさっきいったようにブレークダウンして細かいテーマになるのか、あるいは全然だめで第三のものになるのか、いずれにしてもこれだというテーマが決まったら、マーケティングをしような」「マーケティングって何ですか」「こうやって調べることをマーケティングというのだよ」「ああ、そうなんですか」と。「私は海外旅行方面でちょっと聞いたり調べたりするから、君は女性というテーマを調べるのに、本屋を回ったり、あちこちに聞きに行ったりしてくれ」「わかりました」「ただしお互いばらばらに動くけれども、俺は女性と思ってピンときたら記事を買ったり人に聞いたりするし、君は海外旅行で何かあったらそれも調べておいて、お互い、ときどきキャッチボールしたり、資料をつきあわせたり、そういう作業をしよう」と。

私は、こういう新規プロジェクトは初めてとはいえ、『週刊プレイボーイ』編集部のバイトで、原稿取りとか、あれを買ってきてよとか、この資料を調べてくれとか、下働きをやってきていて、予備取材や資料集めもある意味ベテランになってましたから、即座にどうしたかというと、霞が関の官公庁の出版センターへ行って、女性白書や観光白書など、女性と海外旅行にまつわるありとあらゆる白書類を買ってきました。その帰り道でも書店で海外旅行関係の本や雑誌、女性なら裁縫、料理、ファッションなどの本や雑誌を見て、もっと絞っていかなければと思いました。いろいろな資料やデータを見て、多田さんともキャッチボールをしましたけれども、結論からいえば、海外旅行は早い段階で時期尚早だろうということになり、女性というテーマから絞り込んでいって、やっぱり得意分野の仕事関係がいいだろうと、「女性の転職」になっていった感じです。

期間としては、8月17日から2月22日で、ほぼ半年間で創刊にこぎ着けました。こうやって振り返ってみると短いですね。すごく濃密な感じで、毎晩ブレストやったり、見本を手作りでいろいろつくったりしてました。作業としてはいろいろなことがありますけど、要は女性に聞いて聞いて聞きまくり、多田さんやゲストスピーカーも含めてブレストを繰り返すというような、ヒアリングとブレストの繰り返しです。もちろん、当時はそういうやり方がいいと確信していたわけじゃないですけど、やっぱりテーマが「女性」だったのが大きかったんでしょうね。私は男三兄弟なので、もともとすごい女性コンプレックスがあって、女性のことはよくわからなかったので。お姉さんや妹がいると、ブラジャーを見ていたり生理を知っていたりしますけど、そんなことも皆目わかりませんので、当時は女性がこわくて敬して遠ざけてたりしてました。そこで「テーマは女性」と自分が言い出しちゃって、そこを突破しないといけないので、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、ありとあらゆる女性に聞きまくりました。当然とんちんかんな質問をして「そんなことも知らないの、バカ」「キャー」みたいな、いろいろなネガティブな反応も受けたりしながらやってましたね。

『とらばーゆ』は結局業界用語でいうと「即日完売」でした。創刊日に売り切れてしまう、店頭から消えてしまうという大成功でしたけど、こんなやみくもなやり方ではあったけど、うまくマーケティングになっていて、結局女性にこのような切り口でこういう転職情報をというのが当たったと言えば手柄になりますけれども。でも追い風として重要だったのが、2月22日の創刊日の前日、2月21日の朝日新聞夕刊の社会面トップの記事になったことです。「女性向けの転職雑誌が明日創刊」と。創刊を聞きつけて「珍しいですね、女性の転職ですか」と取材に来たんです。記者の方は労働業界の弱者である女性を救おうというメディアが登場するんじゃないかという視点だったのではないかと思います。正直、そんな思いはあんまりなかったですけど(笑)。ただ、ヒアリングのときに、ウーマンリブの集団にもいっぱい会って話を聞いてました。男女の差がありすぎるとか、賃金格差がありすぎるとか、新聞の求人記事を見せられたら男ばっかりで、たまに男女と出ていても、男の賃金と女性の賃金が10対6ぐらいで。

その新聞記事の追い風もあって、創刊日にバンバン売れていく状態になって、結果的には大成功でした。それで『とらばーゆ』を買っている人がたくさんいて、求人企業に応募者が殺到するわけです。応募して受かる人もいれば、もちろん採用ですから落ちる人もいる。応募する前に自分の望む求人がないと怒る人もいる。あるいは新聞で見ようが『とらばーゆ』で見ようが、男女の賃金が10対6なのが歴然と見えてしまいますから、「なんだこの低さは」と編集部にクレームがきます。つまり、大成功を収めたけど、そのクレームの数も尋常じゃなくて、電話も殺到しますし、ハガキも殺到します。できるかぎり応対をするんですけれども、「もっとちゃんとしろ」「賃金を増やせ」と言われて、「うちはメディアではありますけど、なんとか努力します」と答える状態でした。当時はまだ役職はないですけど、多田さんが編集長で、私は編集チーフとして副編集長的な立場で、クレームで言われたことを忠実にやるために、営業と一緒に企業に行かせてもらって、「読者からこう言われたけど、こうならないですかね」と話をしました。企業は企業で、営業に対して、「君は求人広告を載せれば応募者を増やせるといったけど、応募がこないじゃないか、どうしてくれるんだ」とクレームがあって、そこに営業が編集を連れていく理由があるわけです。私としても読者からクレームを聞いていますから、これはいいチャンスだと思いました。まさにメディアとして間に立つわけで、向こうは応募数を増やしたいし、私は読者代表として「給料があがれば行きますよね」とちょっと言ってみるわけです。「その予算はないなあ。ほかのところはいっぱい来てるの」「こちらは応募が殺到しているようです」「そこまでは出せないけど、あと1000円ぐらいは上げられるかな」と。「求人情報はお金だけじゃないですよ、たとえば福利厚生とか、休日とか、勤務地が選択できるとか、そういう付加価値があります。特典になるような要素をピックアップしてみましょうか」と。そのように企業と話し合いながら折り合いをつけていくと、じわじわではあるけど『とらばーゆ』に掲載するたびに、賃金がじわじわ上がり、付加価値がじわじわ高まっていきます。そうしないと採用競争に負けてしまうので。読者の望みにはまだまだ及ばなくて、読者からは「なんで賃金がもっと上がらないの」「なんでこういう記事がないの」とあいかわらずクレームはくるので、「お待ちください、なかなか企業も一気にはできませんけど、そのうち上がりますから」と応じて、落ちこぼれたテーマは記事として特集を組みながら続けていきました。

この『とらばーゆ』が創刊初体験ですけど、ここから14メディアを創刊してみて、実は共通することがあることに後で気づいたんです。何かというと、リクルートのメディアというのはテーマやマーケットは変わっても、必ず供給サイドと需要サイドを仲人しているんです。最初の『とらばーゆ』のときはわからずにやっていたんですが、読者と企業の狭間に立っていろいろな調整をしていくうちに、ノウハウやアイデアがだんだん蓄積していきました。リクルートの供給と需要の間に立つメディアの共通点は、求人の場合は、発行すればするほど、時給とか月給とかの賃金が上がっていくことです。たとえばアルバイトだったら1時間の時給が800円から850円になったり。それから住宅や旅行、結婚など、企業側から見ると販売促進につながるメディア、読者側から見ると商品につながるメディアの場合は、商品の値段が下がっていくんです。たとえば『じゃらん』でペンション紹介が見開きページに20件ぐらい並んだら、次の号では安いところに対抗しようと宿泊単価が1000円下がったりするんです。求人の賃金は上がる。商品の値段は下がる。つまり、リクルートはイデオロギーはあまり言うことのないタイプの会社ですけれども、期せずして求人系は労働組合の役割を担っていて、販売促進系は消費者連盟の役割を担っているということです。だからリクルートのメディアは、今は特にウェブになったからわかりやすいかもしれないですけど、メディアが市場になっているということです。メディアがマーケットに、あるいはコンビニの陳列棚になっていると思っていただくとわかりやすいですね。こちらのほうが安いなとか、同価格ならこちらのほうが付加価値が高いな、意外に得するなとか。

『とらばーゆ』と『ベルーフ』は「他人マーケット」、『フロムエー』は自分マーケット

次に『ベルーフ』を創刊された後、『フロムエー』は自分で企画されたそうですね。

私が創刊した14メディアは、きっかけは「自分」です。もちろん上司がいたりするんだけど、全部自分たちで企画したものです。ここでいう「自分」というのは、私がつくった造語があるんですけど、『とらばーゆ』は「他人マーケット」なんです。「女性」という意味で、男であるくらたまなぶではない他人さまの読者マーケットのメディアをつくったということです。多田さんと一緒につくりあげたという意味では自分たちでつくったわけで、マーケティング的には他人だという。二つ目の『ベルーフ』も技術者向けのマーケットを考えましたので、私は足し算はできても三角関数はわからないという完全な文系で、技術者は「他人マーケット」のわけで、だからこそ必死にヒアリングして、なるほど、そうお考えなんですかと、なんとかあとから感情移入して、その人たちにも満足いただけるような技術者向けの求人情報誌をつくることができたわけです。そうするとリクルートは言い出しっぺがやる会社ですから、2個成功させたら、より企画を通しやすくなるだろうという予感がして、それなら次は自分の得意分野をやってもいいんじゃないかなと思いました。その自分の得意分野をやることが「自分マーケット」ということです。集英社の『週刊プレイボーイ』でアルバイトをしていた話をしましたけど、学生時代にありとあらゆる短期バイトをやってまして、数えれば四十数種類はやってると思うんですけど、だからバイトについては経験は豊富だから一家言も二家言も持っていると思っていたんです。『とらばーゆ』がものにできて、その前に『ビーイング』で制作のアルバイトもやっていて、営業現場の声もたくさん聞いています。求人情報の中にバイトがあってもぜんぜんかまわないはずで、学生援護会が『アルバイトニュース』を先にやっているけど、リクルートが出したっていいんじゃないか、俺の得意分野だからと。

それで、実際に創刊にこぎ着けることができて、また『フロムエー』も即日完売になりましたけれども、ただ創刊のプロセスでは、今思うとだめだなというところがありました。何がだめだったかというと、ヒアリングやブレストの場面で鼻持ちならない発言をしていたんです。女性のヒアリングは謙虚にできたんですよ。コンプレックスから入ったので、誰に対しても「教えていただけますでしょうか」でオーケーだったんですけど、それは偶然に過ぎなくて、技術者の場合も私が文系だから謙虚にできたのは偶然に過ぎなかったんですけど、バイトの場合は俺のほうが上だと思っちゃったんです。たとえばヒアリングのときに、家庭教師しかしたことがないようなエリート学生に会ったりすると、「頭がいいから家庭教師をできるかもしれないけど、肉体労働をやったことはないでしょ」とか言っちゃって、「じゃあもう何も言いません」と言われて参考意見がとれず、ヒアリングにならなかったり。ヒアリングは一対一でやっていたらほかの誰もわからないですけど、社内の人間とブレストのときにも「それは頭のいいやつだけがやるバイトだろ」とか言っちゃって、「だから何なんですか。ブレストだから自由な発言じゃないんですか」と言われて、あ、しまったと(笑)。『とらばーゆ』をやっていくうちに、ブレーンストーミングでは否定してはいけないというのはわかってきていたんですけど、得意分野になるとそれを忘れてしまって。ヒアリングでは否定したら意見をもらえないし、ブレストでも否定したらアイデアが出てこないし、そういう大事なことを指摘されました。それで途中で反省して、女性や技術者と同じように、自分というのを棚に上げてやらないといけないと方向修正して、なんとか創刊にこぎつけました。

『エイビーロード』創刊号はミスだらけだったけど、ラッキーなデビューでした

『エイビーロード』創刊のときは、社長から頼まれて編集長を引き受けたそうですね。

頼まれたというのは、人事の発令が社長から来たということです。『とらばーゆ』のときに、海外旅行というテーマも出ていたことを話したと思いますが、同時多発的にほかからも海外旅行の企画が出ていて、結果として発令されたのは、他のセクションのプロジェクトでした。うちのグループでは時期尚早だと棚上げしていたんですけど、多田さん個人としては、リクルートで年末論文制度というのがあるんですけど、そこに自分で海外旅行の事業の論文を出していて、それで佳作か何かの賞をとっています。事業にはなっていないですけど、当然多田さん本人はうちのグループでやろうと主張していて、私も大学で5回も海外旅行に行ってますから意義があるなと思ってました。そんなときに、『フロムエー』の企画が通って配属になったんです。それで海外旅行は別のグループでプロジェクトが発足しました。こちらは編集担当の重役がいなかったんです。営業マン出身や制作マン出身の人間はいたけど編集経験のある人間はいませんでした。私は自分のグループで『とらばーゆ』『ベルーフ』『フロムエー』と3誌連続で成功させて社内でだんだん有名人になってますから、海外旅行のプロジェクトの人間は、私のところにもヒアリングで何度も来ていました。私は海外旅行のテーマも好きだし、「『とらばーゆ』のときにも実はいっぺんこのテーマが上がってたんだよ」と思いのたけをいろいろ話して、ブレストパートナーならこういう人がいるし、ヒアリングだったらマニアックな海外旅行だけじゃなくて、普通にグアムとかサイパンが好きみたいな人にも聞いた方がいいよとかアドバイスを続けていたら、このプロジェクトの当人たちが、当時社長だった江副さんに、くらたさんを引っぱってくださいと頼んだらしいんです。まだ若いベンチャーの時代だから、江副さんも「わかった」みたいなことを言って、即座に『フロムエー』の担当役員のところに話がいったようです。それでその役員からではなく、直接江副さんから『エイビーロード』を担当してもらえないかと内線電話が来たんですけど、その段階で私は社員になって3年目に入ったぐらいですから、若くはありますけど、リクルートで濃縮したサラリーマン人生を過ごしていて、組織社会でどうしてこうやってトップから話がくるかを想像することぐらいのことはできるようになってましたので、役員が断ったんじゃないかな、そうでなければ役員から話が来るはずだよなと思いました。

それで、どうしようかなと思って迷いました。本当は「ノー」と言いたいんです。なぜなら『フロムエー』を創刊したばかりで、『とらばーゆ』の発刊後の苦しみの話をしましたけど、『フロムエー』にも発刊後の苦しみがいっぱいあったんです。『とらばーゆ』は世間相場全体からいって、女性の活用がまだままならないというところ、給与金額や採用職種に多岐な広がりがまだないというのが労働組合的な媒体としての課題でした。『フロムエー』の課題は、先行していた学生援護会の『アルバイトニュース』は知名度が99%でしたから、1冊が分厚くてアルバイト情報がたくさん載ってましたけど、『フロムエー』はマーケティングと切り口とテレビCMもあいまって売れてましたが、企業がまだ効果を疑問視していて、アルバイト情報を載せたいという企業が少なかったことです。私はそのときは副編集長という役職をもらっていて、副編集長ですから営業の直接の責任者ではないですけれども、メディアの責任者としては、営業に一緒に行っていいから、いくらでも手伝うから、企業側にこういうふうにしましょうといくらでもアドバイスを授けるから、もっとアルバイト情報を載せてこんな薄っぺらいのをなんとかしないと労働組合の役目も果たせない、採用側でいうと求人センターの役目も果たせないという状況でした。だから社長からお声がかかっても、声をかけてくれるのはうれしいけど、本当は「ノー」と言いたかったんです。言いたいけど「ノー」というとメンツがつぶれるのは社長と役員のどっちだろうと考えて、とりあえずよくある手ですけど「ひと晩考えさせてください」と言って時間をもらい、悶々と悩みながら、いろいろ想像して、シミュレーションを書きながら考えました。神山陽子さんが上司にいて、その上に社長の次のナンバー2ぐらいの人がこちらの重役のトップにいて、その人は「くらたはまだまだ『フロムエー』と言うはずだぞ」と社長に言ったはずだよな、それで社長は「そんなこといってもこっちだってくらたが欲しいっていうんだからしょうがないだろ」って言ったのではないか。最後の最後はどんなベンチャー企業でも社長が上だから、役員は「私からくらたに言ったら『ノー』と言うに決まっているんだから、それなら直接言ってくださいよ」と言ったんだとしたら、この役員の顔を立てて「イエス」と言ったほうがいいのではないか。海外旅行というテーマはもともと好きなわけですし、自分他人でいえばかなり自分マーケットなわけです。自分が旅行に行く仕事じゃないけれども、かこつけて好きなところへ取材で行くこともできるかもしれないし、プロジェクトのメンバーからはもともと相談を受けていたので、彼らが直接部下になってくれるのならいいだろうと考えて、江副さんに「お受けします」と答えました。その後に役員のところにいって、忙しい人ですから席にいませんでしたけど、「社長からこんな電話があって、ひと晩考えて、本当に心残りがいっぱい山のようにありますけれども引き受けることにしました、よろしかったでしょうか」と、秘書にメモを書いてもらって置いてきました。その後役員から「すまんな。断ったんだけど、よく受けたな」という電話が入って、僕のシミュレーション通りだったというのがわかりました。社長から直接というのはそういう意味です。でも今思うと光栄なことですけどね。

『エイビーロード』もとても苦労しましたけど、午前中で完売まではいかなかったけど、当日完売でしたね。ただ私がいない段階でのブレストがまだままならない状況で、私が行って急激につくったものですから、正直言って14誌創刊した中では最悪の創刊号でした。というのは、誤字、脱字、ミスだらけだったんです。創刊スタッフ全員で付箋を貼りました。なぜならミスをした企業に謝らなきゃいけないし、読者からのクレームの電話に応対する人間がミスを共有しないといけないので。私は今創刊号を持ってませんが、このプロジェクトにいて副編集長を務めた平原彰子さんという女性がたぶん自宅に持っているんじゃないかと推察しますけど、創刊号にたこ足みたいな付箋が何百カ所もついているというひどいものでした。針のむしろを歩くようなクレーム対応で、特に旅行会社や関連企業に土下座して歩きました。まあでも「禍転じて福と成す」ということもありました。『エイビーロード』の編集長としては、これまでの求人と違って、旅行会社や航空会社とつき合わないと情報誌はつくれませんから、営業デビューしないといけなかったときに、何百カ所もミスをしたメディアを持って回るというのは、どう考えても得だったなと思うんですよ。針のむしろだったけど、デビューの仕方としては、頼まれずもせずにいっぱい声をかけられるという(笑)、「君ががくらたか」と怒鳴られながら、あやまっていると人柄が伝わるわけで、必死にがんばってあやまれば、「誠意は伝わったよ」とか「そもそも今後どうするつもりだ、この『エイビーロード』は」と、メディアの展開の抱負も語ることができます。いっぱい会話をする必要に迫られるし、たくさんの言葉のシャワーを浴びるし、クレームといっても相手も怒り続けるわけにもいかないから、今後の話にもなるし、広告を出してもらうクライアントになる旅行会社、航空会社、取材相手を一気にほぼ全社回ることができましたから。もしミスがなかったら、「さあ、創刊号に関係する人をリストアップして、電話していこうか」となるはずだったのが、その必要がなく、向こうから来いと呼ばれてるわけですから。つくづく今思うと、けっしてポジティブシンキングというわけではなく、ラッキーなデビューだったんじゃないかと思います。あやまっていて、それにはこうやってお答えしますとか、すぐ2号、3号の話がクレームの対応として続いていくし、それを続けているうちに1周年が来て、「あれはしかしひどかったね、くらたさん、創刊号は」「やー、1年前は本当にすみませんでした」って、それだけひどいミスだったけど、でも思い出話に変わって、じゃあ2年目の話をしましょうかと続いていくという感じでしたね。

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くらたまなぶ(株式会社あそぶとまなぶ 代表取締役) | 年表(自分史)創造コミュニティ Histy(ヒスティ)

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