祝、外道選手/プロレスラー生活25周年
僕は東京の専門学校を卒業しましたが在学中はプロレスや格闘技観戦が好きでバイト代のほとんどを観戦費に使っていました。今から25年前の1990年3月、僕は卒業にあたり社会人になると頻繁に格闘技観戦も出来なくなると思い行ける範囲のものは全て観戦しようと思いました。
その頃メキシコのルチャリブレというスタイルのプロレスを直輸入したユニバーサルプロレスが旗揚げされ都心からは遠かったですが東村山市まで観戦に行きました。
メキシコのレスラーの他に日本人レスラーが4名参加してシングルマッチ2試合が組まれました。
新日本、全日本、UWFの当時のメジャー団体の選手に比べ体つきや技術など学生プロレスの延長のように見えました。そこに出場していたブルドックKT選手は趣味が転職とパンフレットに書いてあり何年かしたら社会人になっているんだろうな…と思いました。
月日は流れ僕は新卒で入社した会社で大阪に配属になり2年後長野市に戻りました。長野市に戻ったのでプロレスや格闘技観戦から遠ざかっていました。
その頃長野県出身でスポーツメーカーに勤めていた中牧昭二氏が桑田投手とスポーツメーカーの癒着を暴露した本を出して有名になりプロレス入りをしました。
中牧昭二氏はウイングという団体に所属しましたが旧東部町で凱旋興行が行われメインイベントに出場しました。対戦相手は先に書いたユニバーサルプロレスの東村山市興行に出場していたブルドックKT選手改めて外道選手、クーリーショージ選手改めて邪道選手でした。
外道選手と邪道選手は赤いシャツを着てそこに白い布を被せ日の丸を描いていました。専門学校の卒業記念で見て以来久々の外道選手と邪道選手でしたが…
中牧昭二氏がプロレスが下手でカミソリを出して自ら額を切っているのが客席から見え客席から見えない場所でドタバタやり流血しているのを見てセンスがないな…と幻滅しました。
僕が見た限りでは外道選手に良いイメージは無かったですが僕もしばらくプロレス観戦から遠ざかり昨年9月に21世紀になり初めて生観戦しました。
外国人レスラーは迫力がありリング狭しと飛び技を使うレスラーに感心しながら見ていましたが外道選手は彼らに見劣りする事なく立派なレスラーになって胸熱でした。
外道選手はレスラーとして順調なスタートではなくそもそもプロレス入りのきっかけはビートたけし氏がプロレスに参入してたけしプロレス軍団TPGを作りそのオーディションを受けてからでした。
たけしプロレス軍団はファンにソッポを向かれあえなく撤退しましたがビートたけし氏が気まぐれで作ったようなチャンスを生かして25年後にはメジャー団体のリングに上がりあっぱれだと思いました。
外道選手はプロレスのギャラだけでは食べていかれない時代もあったと思いますがプロレス愛と成功したい向上心で生きてきたのかと思うと感激しました。
外道選手、ユニバーサルプロレス東村山市興行から25年お疲れ様でした。これからも若い選手に負けないようにプロレスを盛り上げて欲しいと思います。外道選手の活躍を願っています。
2015年04月02日 Posted byプラネマン at 23:06 │Comments(0) │まり子さん
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