4年前の今日岩手県陸前高田市の住民が撮影した映像です。
(話し声と笑い声)笑い声も記録されています。
ところが2分後。
うお〜!津波が流れ込んできました。
そして…。
(サイレン)撮影していたのは地元の消防団員でした。
それから4年。
男性はあの時津波の事を甘く考えていたとずっと後悔してきました。
その教訓を多くの人に知ってほしいと映像をインターネットで公開。
「堤防越えっから!堤防越えてきたから!」。
これまでに170万回以上再生されています。
多くの住民によって津波が撮影された東日本大震災。
かつてない数の映像が残されました。
それが今人々の人生にどのような影響を与えているのか。
残された映像によって心の整理がつけられたという男性がいます。
津波で亡くなった父親と一緒に避難しなかった事。
そして最期をみとれなかった事を後悔し続けていました。
そんな時住民が撮った映像の中に津波から逃げる父親の姿を見つけたのです。
自らが津波に流されている映像を見つけ生き方を変えた人もいます。
全国に震災の体験を伝えている男性です。
「やだ人!」。
「人!」。
妻と共に津波で7キロ流されたにもかかわらず奇跡的に助かった姿が記録されていました。
「何やってんの!?」。
その映像を使って命の尊さを訴えています。
あの日の映像と向き合いその意味を問い続けている人たち。
一人一人の知られざる物語です。
岩手県釜石市。
4年前9メートルを超す津波が押し寄せました。
その様子をこの場所から撮影した映像があります。
連れてけ連れてけ!早く!猛烈な勢いで流れ込んでくる津波。
車を押し流していきます。
逃げろ逃げろ!上がれ上がれ!早く上に上がれ上に上がれ!家々ものみ込んでいきました。
その映像を生きる支えにしているという人がいます。
釜石市に住む…津波で父親を亡くしました。
自宅を流され仮設住宅で暮らしています。
震災の11年前に離婚した川端さん。
父親の高雄さんと2人で暮らしていました。
震災以来ずっと父親の死について考え続けてきました。
川端さんはあの日釜石市の高台に1人で避難していました。
その時の映像です。
地震のあと職場から自宅に戻り父親に避難するよう声をかけその後別々に行動しました。
ところが想像を超える津波が押し寄せました。
川端さんは父親は避難していると思っていました。
高台から戻る途中や避難所で父親を見なかったか聞いて回りました。
しかし来る日も来る日も見たという人には出会えません。
避難して助かっていると思っていた父親。
震災の1週間後自宅から100メートルほど離れたこの交差点近くで見つかりました。
ポケットから出てきた免許証が形見になりました。
父親はどのように亡くなったのか。
想像する毎日を送っていました。
震災から半年ほどが過ぎたある日。
川端さんは自宅近くで撮影されたあの日の映像があると聞かされました。
そこには父親の姿がはっきり映っていました。
必死に歩き生きようとしていた父の姿。
川端さんが映っていたあの映像を見たくないと思い続けてきた人もいます。
釜石市内で電器店を営む…映像は山口さんが撮影しました。
震災の3か月後津波の教訓を生かしてほしいと映像をインターネットで公開しました。
すると亡くなった川端高雄さんに関する声が寄せられるようになりました。
実は川端さんは山口さんとは家が隣同士。
小さい頃からよく声をかけてくれた気さくなおじいちゃんでした。
自分は本当に撮影していてよかったのか…。
うん…。
震災から3年半。
ずっと言えなかった気持ちを伝えようと亡くなった川端さんの息子芳之さんに会う事にしました。
お疲れさまです。
2人とも震災後別の場所に引っ越しあの映像について話をするのは初めてです。
そう言って下さると…。
映像を撮ってくれて感謝している。
山口さんが初めて聞く川端さんの思いでした。
(山口)ありがとうございます。
失礼します。
岩手県陸前高田市。
津波で壊滅した中心部では町全体をつくり替える工事が続いています。
この場所を襲う津波を撮影した短い映像があります。
高さ15メートル余りのビルの煙突の上から撮られました。
ああやべえ。
時間は僅か16秒。
画面は安定せず大きく揺れ動いています。
この映像に目を背けてきたものの2年前から繰り返し見るようになったという人がいます。
包装資材を扱う店を営む米沢祐一さんです。
米沢さんが映像を撮りました。
あの日陸前高田の中心部は15メートルを超える津波に襲われ町全体が水につかりました。
翌日店のあったビルの屋上から救出される米沢さんです。
ビニール袋をかぶり寒さをしのいで1晩を明かしていました。
しかし直前までビルに一緒にいた父節祐さんと母静枝さん弟の忍さんは亡くなりました。
生死を分けたのは全くの偶然でした。
地震のあと米沢さんは片づけのため店に残りました。
一方両親と弟は一足早く指定避難所だった市民会館に避難します。
しかし市民会館は津波にのまれ3人は命を落としました。
米沢さんはビルの屋上に駆け上がり煙突の上に避難して奇跡的に助かったのです。
今も残る米沢さんのビルです。
足元まで津波が押し寄せるギリギリの状況で撮ったのがあの16秒の映像でした。
震災後米沢さんは映像を全く見る事ができなくなりました。
実は3月11日の午前中米沢さんはこの神社で亡くなった両親と幸せいっぱいな時間を過ごしていました。
(祐一)転ばないようにね。
(静枝)行くぞ!一歩一歩。
この日は1か月前に生まれたばかりの娘多恵ちゃんのお宮参りでした。
母静枝さんは自らが作ったリボンを多恵ちゃんにつけてくれました。
このあと多恵ちゃんは米沢さんの妻の実家に向かい助かりました。
これあの…実際…。
母が作ってくれたねリボンなんですけど。
こんな感じなんです…。
すみません…。
16秒の映像を見るようになったのは震災2年後ある出来事がきっかけでした。
そのころの米沢さんです。
震災の日にお宮参りに行った多恵ちゃんは2歳になっていました。
月命日の度に両親と弟が亡くなった市民会館で手を合わせていました。
ところが新たな町づくりのため市民会館は壊される事になりました。
家族を近くに感じてきた場所が無くなる。
米沢さんはつらくて見られなかった映像に向き合おうと決心したのです。
そして多恵ちゃんが4歳になった今。
亡くなった家族との思い出が刻まれた町はすっかり姿を変えました。
米沢さんは月命日の度に映像を見ています。
(米沢)これですね。
「ああやべえ」。
「ああやべえ」。
一人一人に生き方を問いかける3月11日の映像。
今それを多くの人に見てもらおうという動きが広がっています。
2年前の3月11日につくられた大船渡津波伝承館です。
これまで全国から1万人余りが訪れています。
津波を撮影した齊藤賢治さんが映像を見せながら経験を伝えます。
家々を根こそぎ流していく津波。
何が防潮堤だよ!あ〜!
(叫び声)「ああ〜!あ〜っ!ああ…。
収まってくれ!収まってくれ〜!」。
津波が撮影されたのと同じ場所で映像を見てもらおうという試みもあります。
「津波の教え」と記された石碑。
データを読み込みここで撮影された映像を見る事ができます。
こんな所で押せばいいの?いや押さんでいい。
QR出るんで…。
出ました。
松原を全部のみ込んで家一軒一軒を押し流してるんですね。
ここには20メートルを超える津波が押し寄せました。
あの日の映像が人々の記憶を呼び覚まします。
自分たちが映されていた3月11日の映像を見て生き方を変えた夫婦がいます。
(淳)大崎市から来ました安倍といいます。
安倍淳さん志摩子さん夫婦です。
全国の学校などを訪ね震災の経験を語っています。
それを今度みんなが情報として発信する時…。
非常に本当は長い映像なんだけど…。
話の中で映像を見てもらいます。
「やだ人!」。
「人!」。
「うそ!」。
映っているのは自分たちの姿です。
「何やってんの!?」。
壊された家のがれきに乗った2人が津波で川を流されていきます。
「どこまで流れていくの…」。
海沿いの町で生まれ育った夫の淳さん。
震災後生き残った事に負い目を感じてきました。
安倍さんの仕事は海と深く関わっています。
潜水機材を使って水中の調査や土木工事を行っています。
その専門知識を生かして震災前子どもたちに地震の時に逃げる事や海に落ちた時の対処方法を教えていました。
ところが安倍さんの住む地区に10メートルを超える津波が押し寄せたあの時。
夫の淳さんは子どもたちに教えていたようには行動しませんでした。
海から200メートル離れた会社の事務所にいた淳さん。
その場所にとどまり写真を撮っていました。
1年前に津波警報が出た時ここまで津波が来なかった事などから大丈夫と思っていたのです。
避難せずに生き残った自分。
しかし教えていた子どもの中には避難したにもかかわらず亡くなった子もいました。
淳さんは姉のように慕っていたおばも亡くしました。
あ〜。
おばちゃん…。
おじいさんおばあさん…。
麻生さんもまた車で避難しましたがその途中津波に遭いました。
気持ちの整理がつかない淳さんに転機が訪れます。
知り合いを通じてこの場所から撮られた映像に自分たちが映っていると知ったのです。
津波が来て建物ごと流された安倍さん夫婦。
意識がもうろうとする淳さんを妻の志摩子さんが励ましながら7キロにわたって流されていきました。
そして津波の引き波が始まる寸前川岸にたどりつきます。
消防団に救われ奇跡的に助かりました。
2人は繰り返し繰り返し映像を見ました。
自分たちはなぜ生き残ったのか。
生き残った自分たちは何をすればいいのか…。
そして決心をします。
妻の志摩子さんはその気持ちを映像を撮った住民に伝えました。
「震災ではたくさんの人が動画を撮りましたが人が流されている姿は放映されません。
亡くなっているからです」。
「『今生きている私達』だからこそ放映されて世の皆様が見ます」。
「私達の務めは津波の恐ろしさと破壊力の強さ悲惨さそして自分達のまちがいを世に広める事と思っています」。
震災から1年。
映像を使って自分たちの経験を伝える事を始めたのです。
月に2回ほど全国各地に出かけ話をしている安倍さん夫婦。
皆さんこんにちは。
皆さんこんにちは!
(一同)こんにちは。
先月東京の女子大学を訪ねました。
皆さんにですねちょっと自分たちの体験をお伝えできればなというふうに思っています。
何て言うんでしょうね…2人は4年前の経験を語ったあとに自分たちが映ったあの映像を見てもらいます。
非常に見たいと思ってですねお願いしてもらったものです。
ちょっと見て下さいね。
「やだ人!」。
「人!」。
「何かいるよ!」。
「うそ!」。
「何やってんの!?」。
「だから家が崩れてるの」。
あの…そういう思いがありましたね。
(志摩子)ありがとう。
そんなふうに感じてくれたんだったらよかったなと思います。
被災地で住民たちが撮影し残してきた3月11日の映像。
震災から4年。
人々の心に深く刻まれています。
「人!」。
「何かいるよ!」。
あの日の映像は私たちに生きる事の意味をこれからも問いかけ続けます。
2015/03/30(月) 00:55〜01:45
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「“あの日の映像”と生きる」[字][再]
震災当日、多くの住民が津波の映像を撮影した。それから4年、その映像を撮った人や映っていた人、残された家族はその映像に向き合い、どう生きるべきか葛藤を続けている。
詳細情報
番組内容
震災当日、多くの住民が津波の映像を撮影した。それは貴重な教訓を未来につなぐものとなったがそれから4年、映像を撮った人や映っていた人、そして残された家族はその映像に向き合いながらどう生きるべきか葛藤を続けている。亡くなった家族のことを忘れまいと映像を見続けている人。自分が津波で流される様子が記録された映像を使って、全国で命の尊さを訴え続けている夫婦…。あの日撮影された映像にまつわる、知られざる物語。
出演者
【語り】上田早苗
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番
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