たかじんのそこまで言って委員会 2015.03.29


テニスの錦織圭選手、サッカーの香川真司選手、直木賞作家の朝井リョウさん、女優の桐谷美玲さん。
この4人の共通点とは。
答えは、平和元年生まれ。
そう、彼らは皆、崩御の翌年から、112人の宮内庁職員が、2億円の国費と、24年の歳月をかけて完成させた、昭和天皇実録が、ついに、刊行開始された。
昭和天皇実録は、明治34年のご誕生から、昭和64年の崩御に至るまでの87年間、激動の時代を生きた昭和天皇のご事跡、そしてそれにまつわる日本の政治、社会、文化などが余すところなく記述され、そこにはこれまで知られていなかった、昭和天皇の生きたお姿と、その時代が生き生きと記されている。
ことしは戦後70年の年にも当たり、戦前は現人神、統治権の総らん者として、戦後は人間宣言を経て、国の象徴として生きた昭和天皇のお姿が、どう描かれているかが注目されているが。
昨年12月23日、81歳の誕生日を迎えられた天皇陛下は、宮内庁から奉呈された昭和天皇実録について、こう感想を述べられている。
大変に困難な時代を歩まれた昭和天皇を改めておしのびするよすがになろうと思っています。
今回のそこまで言って委員会は。
昭和天皇実録で明らかにされた、満州事変や二・二六事件、太平洋戦争での軍部暴走への昭和天皇の苦悩、原爆投下から終戦に至る重大な局面などを振り返りながら、昭和天皇と激動の時代について、いま一度、考えてまいります。
この番組でしかできないところまで踏み込みながら、きょうはお届けしてまいりたいと思います。
結論できないわけでしょ。
そんなことできますかって。
人間だから。
昭和天皇を、優秀な天皇だとは思ってなかった。
9条と引き換えに皇統を維持する。
本日は今年度を締めくくるにふさわしいまさしく大ネタ中の大ネタであります。
折しも、おととい、昭和天皇実録の刊行が始まりました。
何せ、何せ、長大な文書ですから、全部読んでるという方は、まだいないはずであります。
そんな中、この番組では一足早く、実はこんなことが書いてある。
こういう新しい事実が浮かび上がる。
あのとき、この決断は、背後に何があったのか。
ほかの恐らく番組では、絶対にできない、この番組でしかできないところにまで踏み込みながら、きょうはお届けしてまいりたいと思います。
本日の専門家の皆さんです。
まずご紹介しましょう。
当番組ではおなじみ、天皇史研究の権威である、モラロジー研究所教授の所功さんです。
よろしくお願いします。
できましたね、天皇実録。
本当ですね。
待ちに待ったというか、こんなに早く活字になるとは思いませんでしたけれども。
今回出たのが1巻と2巻ですか。
そうですね。
数年かけてなさるようですけれども、大体、従来あれは、普通は1万円とか2万円くらいの高価なものが、今回は2000円を切るんですよ。
1冊が。
津川さん、異様な反応を見せましたが、どうしました?大丈夫ですか?
僕はよく本、買ってますけどね、2000円切る?
そうです。
全部で一万何ページが。
1万何千ページがいかにすごいかというと、今度新刊が出る、私の本でも、全部で400ページぐらい。
またそんな。
お隣ご紹介いたします。
昭和天皇伝で司馬遼太郎賞を受賞されました、京都大学大学院教授の伊藤之雄先生です。
よろしくお願いします。
まさしく昭和天皇の権威中の権威と。
どうもありがとうございます。
20年ぐらい、ずっと昭和天皇を研究していて、あらゆる資料を見尽くしたと思ってたんですけれども、やはり宮内庁には、まだまだ奥にある資料がありまして。
じゃあ、今回の実録の中には、そんな専門家でも、あっ、こういう話だったのかというのがたくさんありますか?
あります。
そのあたりね、きょうは聞かせていただきたいと思います。
これまでの私の昭和天皇像が、さらになんていうんですか、正しかったんだという感じがしましたね。
なるほど、著書、昭和天皇伝の価値は、また上がったということですか?
そうですね。
本、横から出さなくたって。
こちらです。
どうもありがとうございます。
名著ですね。
名著。
そしてそのお隣です。
代表作、逆説の日本史シリーズがもう、日本の歴史というとこの方です。
作家の伊沢元彦さん。
このお三方と討論していただきます、本日の委員会の皆さんです。
そして、お久しぶりの登場は、1年ぶりですね、女優の北川弘美さん。
ありがとうございます。
もう、今回はアンケート書く時点から、頭から湯気が出るんじゃないかというぐらい、難しかったです。
そうでしょう。
きょうはね、正直私もね、これ、宮崎さんかなんかに司会代わってもらって。
何言ってんですか。
何言ってるの。
ちょっと逃げ腰になろうかと。
昭和天皇実録、これ実録というのは、竹田さん、どういう意味があるんですか?
実録というのは、歴代天皇ごとに陛下がお隠れになると、そのあとに実録の編さんの係ができまして、長い間、時間をかけて天皇のご事跡を公式に記録しておこうと。
もともとさかのぼれば、日本書記ですからね。
ざこばさん、知ってました?実録ってそういう意味なんだ。
私、実録っていうと。
どんぱち?
そう、どんぱち。
仁義なき戦いですよね。
朝日芸能かなとか。
そういう実録の世界。
違う。
違うんですよ。
ということで、まいりましょう、まずは昭和天皇ご誕生、これ、114年前ですね。
そして日本のまさに分岐点となった、あの出来事までをじっくり見てまいります。
ばんざーい!
昭和天皇は明治34年4月29日、大正天皇の第1皇男子として、東京・青山の東宮御所でご誕生になりました。
御名を浩仁、ご称号は迪宮。
明治45年7月30日、明治天皇の崩御により皇太子となられ、大正15年12月25日、大正天皇の崩御に伴い、第124代の天皇となられました。
戦後70年のことし、昭和天皇を語るうえで、決して忘れてはならないのが、当時の日本が直面したあの戦争です。
昭和天皇はあの戦争にどのように関わられたのでしょうか。
昭和天皇の生涯を記録した、全文1万2000ページ超に及ぶ昭和天皇実録には、その知られざる姿も記されています。
即位まもない昭和3年に起きた張作霖爆殺事件では、暴走した軍部への甘い処分を巡り、昭和天皇は、当時の田中義一総理を叱責。
辞任を迫るという異例の発言をされましたが、実録には、その後、ご心労のため居眠りと記述されており、昭和天皇の苦悩される姿が浮かんできます。
苦悩といえば、昭和6年の満州事変。
翌年に起きた、海軍青年将校たちによる五・一五事件などを経て、国家主義の動きが高まる。
昭和11年には、陸軍皇道派の青年将校たちによるクーデター、二・二六事件が発生。
このとき昭和天皇は、速やかに暴徒を鎮圧せよと命じ、ためらう陸軍当局に対し、自分が近衛師団を率いて鎮圧に当たると言い放ったとされていますが。
昭和天皇実録によると。
26日水曜日、この日未明、第1師団・近衛師団管下の一部管下の一部部隊が、侍従長官邸、総理大臣官邸、内大臣私邸、大蔵大臣私邸・教育総監私邸、前内大臣宿舎等を襲撃し、警視庁陸軍大臣官邸等を占拠する事件が勃発する。
午前5時45分、当番侍従、甘露寺おさながは、当番高等官宮内事務次官高橋敏雄より侍従長官邸が軍隊に襲われ、侍従長、鈴木貫太郎が重傷を負った旨の連絡を受ける。
続いて、内大臣私邸が襲撃され、内大臣斎藤実が即死した旨の連絡を受ける。
6時ごろ、甘露寺は、皇后宮女官長、竹屋志計子を通じ、お目覚めを願う旨を言上する。
ついで各所に電話連絡し、総理大臣官邸等の襲撃につき、情報を得る。
6時20分、ご起床になり、甘露寺より、事件の報告を受けられる。
と、詳細に記述されており、昭和天皇が、みずからが最も信頼する老臣を殺傷することは、真綿にてわが首を絞めるに等しい行為であると、決起部隊を暴徒と見なし、速やかな鎮圧を命じたこと、事件の早期終息をもって、禍を転じて福となすべきと語り、御みずから暴徒鎮定に当たるご意志を示されたことなどが記され、宮中の張り詰めた緊張感が伝わってきます。
この事件以降、軍部の発言権が増大し、盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争が勃発。
まもなく米英両国との関係も悪化。
昭和15年にドイツ、イタリアとの三国同盟を締結し、その対立は決定的なものとなります。
そして昭和16年7月30日、永野修身軍令部総長は、対米戦争の勝利の見込みはおぼつかないが、国交調整の不調と石油の枯渇を理由として、この際、打って出るほかないと主張。
これに関し、昭和天皇は翌31日、かくては捨て鉢のいくさをするにほかならず、誠に危険であると述べられたと、実録には記されています。
開戦に向け、さらに一歩踏み出した9月5日の閣議決定。
帝国国策遂行要領を巡っては、杉山元参謀総長と、永野軍司令部総長を呼び出し、強いことばで繰り返し質問され、要領の第1項に、対米戦争の決意があり、第2項の外交手段を尽くすよりも前に記されていたことに対し、外交を主とし、戦争準備を副とするよう、入れ替えを臨まれました。
さらに、無謀なるいくさを起こすことあれば、皇祖皇宗に対して誠に相済まないと述べられたとのこと。
その翌日の午前会議では、会議のまさに終了せんとするとき、天皇よりご発言ありと、通常は口を開かない天皇が異例の発言をされたことが記され、昭和天皇は、平和を求めたとされる明治天皇の和歌、よもの海みなはらからと思う世になど波風のたちさわぐらむと読み上げられ、異例の対応に、近衛文麿総理らは、黙り込むしかなかったと記されています。
会議後、昭和天皇は木戸幸一内大臣に、外交工作に全般の協力をなすようと、真意を語られましたが、その思いとは裏腹に、対米交渉は決裂。
12月1日の御前会議で、ついに開戦が決定。
昭和天皇は会議後に面会した杉山、永野両総長に対し、開戦の決定をやむをえないことと話し、陸海軍は十分に強調するよう命じられました。
そして12月8日。
大日本帝国天皇裕仁の名によって、宣戦布告の詔書が発布され、日本はアメリカ・ハワイの真珠湾を攻撃し、イギリスとアメリカに宣戦布告。
太平洋戦争が始まりました。
そこで皆さんに質問です。
昭和天皇実録、太平洋戦争開戦に至るまでの昭和天皇の心情や行動について、どう思いますか?
北川弘美さん。
切ない。
もう正直、昭和に生まれても、昭和天皇のことを考えたことってほとんどなかったんですけれども、ちょっと資料読ませていただくと、今まで持っていた、どうして戦争を止められなかったんだろうという疑問よりも、誰もが天皇を存在しないような、存在しているのに見てくれないとか、存在の意味を持ってくれないような状況だったのかなと思って、自分がいるのにいないって思われてしまう切なさとか、むなしさっていうのは、本当になんか、悲しいなっていう思いでしかなかったので、切ないというひと言にしてみました。
なるほどね。
そのあたりはどうなんでしょうね。
所さんは、今の話を聞いて、どう感じました?
そういうふうに受け取られる方、かなり…いっておられるのは、やはり、陛下のお気持ちは、終始一貫してるんですけれども、実際上、明治以来、立憲君主として、統治権の総らん者ではありますけれども、憲法の条規に従って、行われるしかないとなると、大きな制約があるわけですね。
だから、ご自身の思いと、実際上の運用との間に、だんだんだんだん統治権も、統帥権もそごをきたしてくる、それをなんとか埋めたいというお気持ちはあるんですけれども、それをいろんな事情があったにせよ、なかなかそれが縮まらないどころか、どんどん離れていった。
それがまさにおっしゃるように、切ない思いを持たれたと思いますね。
伊藤先生はどう見てますか?
そうですね、私も切ないと感じられた、感じていただけると、昭和天皇もあの世でまあ、ちゃんと分かってもらってるんだと思うと思います。
というのは、天皇というのは、明治からずっと私は天皇の動きを研究してきているんですけれども、いったん決まった政策をだめだとは言えないというか、言わないことにずっとなっているわけなんですね。
そうすると、何で影響力を及ぼすかというと、木戸内大臣に言ったように、この戦争はあまり望まないんだと、個人的に話すと。
しかし、それは結局、陸軍とか、内閣とかがそのように動かなければ、これどうしょうもできない。
そこで天皇は悩むんですね。
今までの慣行、明治天皇以来の原則を破って、専制君主的にこれはやめようと言うか、それとも今までのようにふるまうか、すごくブレながら悩む。
しかしやっぱり、結局最後まで、お前、やめよとは言えなかった。
言ってしまうと、今度はそんなこと言うんなら、陸軍大臣やってられませんよと、もう降りますと。
だから、そう簡単ではないんですね。
そういうふうにやめよと言えばよかったと思うけども、やめようと言ったら内閣が崩壊したりとか。
明治憲法下で、統帥権、陸海軍をすべてコントロールする力は天皇にあったと書いてあるのに、その内閣の大臣が1人やらないって言ったら、それでもう、組閣ができないって、政治が動かなくなるんですか?
明治憲法、2つあって、統帥するということと、天皇は大臣のほしつに基づいて行うと、手助けに基づいて行うとあるんですね。
だから勝手にやれないんです。
明治憲法を守ろうとすれば。
だから、明治天皇の作られた明治憲法を破棄してやってしまうと、そこまでの覚悟がないと、戦争止められないんですね。
そこですごく悩んだ。
すみません、ちょっと質問いいですか?彼はこれまでにない軍人としてのエリート教育を受けて、少なくとも軍隊の大元帥っていうんですか、一番上の位にいらした方ですよね。
軍人としてのエリート教育はほとんど受けていません。
鉄砲の撃ち方も習っていませんし、明治天皇は習っていますけど。
私が持っている資料には、これほどきちんとしたエリート教育を軍部のエリート教育を受けた人はいないとあるんですけれども、違うんですか?
それは間違いだと思います。
しかも大元帥でいらっしゃるって、そういう情報なんですが、違うんですか?
大元帥は大元帥ですけれども、いったん軍が決めたことは、それに逆らってはいけないというそういう慣行の下でずっとやっているわけなんです。
じゃあ、リーダーシップはないんですね。
なんか勘違いされてるんですけど、戦前って、なんか天皇主権で、天皇のひと言で政治がいかようにでも動いたかのように勘違いされるんですけども、先ほどから先生方がおっしゃっているとおりですね、天皇がみずから国策を決定したというのは、明治維新から現在までまあ1.5回。
2回。
2回だね。
1回はたぶん終戦のとき。
二・二六事件のときですよ。
二・二六事件と終戦の御前会議。
これは昭和天皇ご自身が述懐されておりますけれども、この2回だけは立憲主義の範ちゅうの外にいかざるをえなかったというじゅっかんをされております。
それからもう一つ、VTRにもありましたけれども、例の1928年、張作霖爆殺事件ですね。
VTRにあったとおり、田中義一首相を叱責して、それがきっかけで田中内閣が崩壊するわけですよ。
きっかけというか。
その経験に対して、要するにあれは若気の至りだったと、あれ以降は私が自分自身が反対であっても、内閣がそうじょうしてきたものは差異化するようにと、決心したんです。
上奏したもの。
決心したって、そういうご発言があると。
当時、お年は20代、30代前後ですね。
そういうときに、やはり政治家なり、軍人なりの助言とか、ほしつということは必要であったし、それがたとえ、言論のさいおんじあたりが立憲君主制をしっかり守ってくださいっていって。
ブレーキをかけるんですね。
ご自身、心ならずも引いてしまわれたということになると思います。
なんか戦争始めたのがいけないとか、戦争を、開戦を決断をしたのがいけないとかいう風潮がよくあるんですけれども、そんなことを言ったら明治天皇が日ロ戦争の開戦を、あれを裁可なさるわけです。
あれをもし与えてなかったら、今、日本はないわけですからね。
結局、なんでいわれるかというと、結局は負けたからであって、だから、戦争を開戦した、そのこと自体を是非すること自体がおかしいと思います。
昭和天皇が決断して開戦したんじゃなくて、政府、あるいは軍部が決めたことをさいかしたということ。
そうです。
先ほどからの誤解というか、ちょっと補足をしておきますと、二・に六とか終戦の決断で昭和天皇は決断してるんですけれども、あれは、政府が崩壊してるんですね、二・二六っていうのは。
それから、終戦ももう五分五分で、どっちにもつかないと。
だから、一丸となって政府がきちっと軍部の決めたことには正面から異を唱えない、唱えることは立憲君主制を逸脱すると。
そこはちゃんと押さえておいていただかないと。
例外条項であったと。
例外状況であって。
例外状況なんですね。
ビックスさんという人おっしゃいますね。
あの方が言ってることは。
間違いですね。
間違い。
説明してください。
私が読んだのはどういうことかというと、天皇は直接には立憲政治を重んじて、今、説明してくださったような表向きはそういう態度を取ってらしたけど、結局は、全部采配なさってたっていう、そういうことを書いてるんですね。
やっぱり戦争犯罪人としての責任はあると、犯罪人とはいいませんけれども、責任があるということをおっしゃってるんですね。
戦争犯罪うんぬんはまた後で出てくると思いますけれども、とにかく、国家の意思決定へのプロセスなんですけれども、内奏と上奏と2つあるんですね。
政治家とか責任者が陛下に何かを申し上げる機会が内奏と上奏とありまして、内奏というのは、事前にこんな感じですというふうに申し上げる。
そのときは陛下も果敢に、いや、それは納得できないとか、大丈夫なのかと、いろいろとご喚問なさるわけです。
ところが最終的に上奏という手続きは、それは差異化を伴うんですね。
陛下から裁可を伴う。
これ、上奏の手続きが手続きが行われたときは、一度もこれを陛下が拒絶なさったことはないんですね。
だから今、田嶋さんのおっしゃったのは、陛下がいろいろとおっしゃったというのは、それは内奏のときに果敢にそれも見てもどれも常に平和を常に望むお気持ちの表れなんですけれどもね、そのことを言ってるんだと思います。
それはよく分かるんだけども、そういう公的な上奏を拒むというような、そういうことではなくて、ご自身の意向を影響力として、与えられると。
これは例えば、…をお詠みになる。
日米開戦の直前の御前会議で、先ほど、などて雨風のたちさわぐらむというお歌をお歌いになって、皆が黙ったというのがありましたが、これが例えば、満州事変のときにもね、歌会始で、あめつちの神ぞ祈る、朝なぎの海のごとくに波立たぬようという、平和を祈念されるぎょせいをお作りになっている。
こういうことの意向というのは、影響力というのは、周りの側近や重臣たちに伝わらなかったんでしょうか。
伝わっていたと思うんですね。
例えば、日ロ戦争開戦のときも、政府と軍部が開戦を決定するわけですけれども、そのときに明治天皇が、戦争を避ける方法は本当にないのかというごかもんがあって、そこでいったん、取り下げてもう1回組み直すわけですよ。
それで、だから陛下がこういうお気持ちだということを、それぞれ重臣たちがそんたくして、それで努力するんだけども、それでももう開戦やむなしという形で、また今度上奏手続きをしたときに、これは裁可になったということので、だから、陛下といくら和歌とか、そういうことをおっしゃっても、何もそれ響かないということはないんですね。
例えば、東条。
東条、非常に影響を受けましたよね。
東条首相も、当時はしゅせんはとして、戦うぞという人だったんですけれども、内閣総理大臣に任命されて、陛下から平和を模索せいというおことばがあったときに、それに従って動き回ったということがあるので、ただ、陛下としても直接、ああせえ、こうせえとおっしゃるんじゃなくて、今、先ほどおっしゃったように、最終的に国策を決定する御前会議で、天皇としてできるぎりぎりのことは、和歌を詠むことという、ここがポイントだと思うんですね。
和歌を詠んで、しかし、周りの人間に下向かれたり、そっぽ向かれたりすると、もうどうしようもないですよね。
これだけど、今までの話で井沢さん。
一つね、今、話が一気に日米開戦までいっちゃったんだけども、問題はやはり、私は今、日中戦争と呼ばれているものだと思うんですよ。
なぜかというと、あれ、確かに日本と中国との戦争なんですけれども、当時、国家意思の決定としてやってるんじゃないんですね。
陸軍がかってに支那事変、上海事変というような形で、勝手に起こしてる。
もうあの時代から実は、陸軍って、アンコントロールなんですよ。
それこそ太平洋戦争の開戦についても、アメリカがハルノートというのを突きつけてきて、中国から得た権益全部捨てろっていったんで、やむをえずということになった。
だから、そもそも太平洋戦争の原因に、いわゆる日中戦争がある。
ところがその日中戦争を天皇をないがしろにして、陸軍が勝手に動いて、戦争状態にしちゃったって、だからそこが大日本帝国の欠陥なんですよね。
井沢さん、僕もぜひ、そこを聞きたいんですけども、アンコントロールになったところ、要するに、下克上で中堅幕僚たちが作戦を起案して、やっぱり上層部をいわばたたいて、尻をたたいてどんどんいくということになっていくと、読んでおりますが、どうしてそんなアンコントローラブルな状況になってしまったのか。
一つはこれ、昭和天皇実録、いくら読んでも書いてないことなんですけど、そこが暗に言ってることは何かっていうと、軍部は昭和天皇を優秀な天皇だと思ってなかったということ。
つまりそうだから二・二六事件を起こすわけですよ。
つまり天皇はだまされてる。
悪い側近がいて、その思いどおりになっている。
だから俺たちがそれを殺せば、目覚めるだろうというのは、本人の判断を実は、信頼してないわけですよ。
ところが、後から見ると、天皇の判断っていうのはむしろ正しくて、それに従っていたほうがよかったんだよね。
これ、軍が暴走したのは、そもそも陸軍ってそのもの考えちゃうと見えてこなくなると思うんですけど、日華事変が勃発したときに、まず日本の政府も軍部もそれから統帥部も拡大に反対だったわけですよ。
もちろん天皇もそのお考えだった。
ところが、現場で、いや、だって今撃たれたから撃ち返さなきゃとか、いや、ここを今たたかなきゃだめだとか言って、現場が動いちゃったわけですよ。
だから、陸軍というものが組織的に一体となって動いていたんじゃなくて、現場で動いちゃったんですね。
だから今風に言うと、RE・ルール・オブ・エンガーザメンと、全然順守されなかった、あるいは交戦規則そのものがはっきりとした形でなかったということですね。
ちょっとよろしいですか。
日中戦争の拡大については、もちろん現場にもそういうのがありますけれども、やはり、中国の軍事力がかなりあのころ強くなってきてるんですね。
だから、増長する中国に対して、もっと軍事力が強くなる前に、たたいてしまえという空気が、まあ、昭和10年、1935年ぐらいから陸軍中央に出てくるんですね。
だから、蘆溝橋で起こってしまうと、現場にもそういう空気がありますし、中央もいけということで、最近の研究はそうなってます。
当時の問題というのは何かというと、やっぱりね、非常に政党政治などが不全化して、機能不全に陥っていて、総理自体、天皇ではなくて、総理自体に、もう威信がないわけです。
コントロール能力がどんどんどんどん落ちていってるわけ。
その背景の中で、今度は大衆社会が広がっていって、メディアなんかね、現在の歴史学的な調査ではリットン調査団というのは日本にとってかなり有利な側面というのもあった。
ところが当時の…を見たら、リットン調査団なんて絶対に許せない。
そういう論調ばっかりだったわけ。
おっしゃったように、日本のマスコミっていうのは、新聞ですね、過去の新聞っていうのは、まさにポーツマス講和条約以来、戦意をあおって、例えば、最高のリーダーである天皇が何を考えているかなんていうことを伝えようっていうことの関心がなくて、あおるほうは。
そう、あおるほうばっかりやった。
戦前も戦後も同じですよ。
方向は逆だけど。
井沢さん、朝日新聞でちゃんと言ってください。
朝日とか毎日とかですね。
それは別にここが何テレビだからとかそう言わないんじゃなくて。
たとえ朝日新聞というのは。
当時、読売は弱小新聞です。
間違いなく。
満州は生命線で守らなければいけないという歌、朝日新聞の募集で作っています。
あるいは爆弾さんゆうし、肉弾さんゆうしの歌を毎日が募集で作ってます。
ですから、そういう戦意高揚、日本を戦闘集団にするということを、ものすごく空気作りに戦前の大新聞は。
しかしね、新聞っていうのは、大体、大概こういうふうになるんですね。
朝日だけじゃなくて、読売も満州事変のときに支持していますし、だから、それを中央政府がいかにコントロールしていくかという。
ところが中央政府も先ほど申し上げたように、力が弱ってたわけ。
皆さんに
皆さんに同じことを聞きますが、敗戦に向けての流れを、どこがで誰かがとめることができたのか。
どうですか?皆さんどうお考えですか。
どこで止められたかっていったらもう東条内閣ができたときは、誰がどこのポジションって無理だと思います。
もし止められるとしたら最後のチャンスはないしん論と北進論だと思うんですよ。
つまり、石原莞爾は北を守れ。
それが敵だと。
…軍の?
満州事変の立て役者。
だから、いしはらかんじがやっちゃったわけですね。
そしたら東條英機は自分も功を挙げたいと思って、りゅうごく方面でやらかしちゃったわけですよ。
そのときに石原莞爾はやめようと言って、ソ連が敵なんだといったわけですね。
ところが大丈夫だっていって、東條英機は拡大させちゃった。
残念なことに、秩父宮って、昭和天皇の弟宮が陸軍にいらっしゃったんですけど、あの方は石原莞爾と非常に強くて、東条をけん制させる立場だったんです。
ところが、秩父宮が結核で病に倒れてしまって、そしてこの南新論、北進論の論争は、東條が勝っちゃったわけですよ。
それでなんしんしたらABCD包囲網、そしてアメリカと開戦になっちゃったわけ。
だからもし避けられたとしたら、石原莞爾なりがうまく勝ってくれるか、もしくは秩父宮ととにかく、東條英機が中国で拡大するというここを阻止することさえできれば、あの戦争に至らなかったはずなんですね。
ざこばさん。
やっぱりなやまはったと思いますよね。
決断できないわけでしょ?
そこが難しいところで、さっきからそれが議論になってるわけで。
権力がないわけです。
あるのかないのかが分からない。
権威があって、権力がない。
歴代、確かに平安時代終わったあとは、日本は権威と権力の分離、まさしくこれが日本のある意味、伝統の根幹にある。
日本史の特徴といってもいいと思います。
明治以降は、必ずしもこれが権威と権力が分離したとは言えなくなってくるわけですよ、明治以降。
そんなことはないですよ。
だって天皇が政治決断をしたのなんて1回か2回しかないわけですから。
制度としては天皇は権力を振るわないような制度を伊藤博文が作ったんですね、明治憲法で。
それのほうが永続するという、非常に賢い制度設計だと思いますけど。
情報は陛下には必ず入れないかんのですか?
基本的にかなり入ってます。
けど、やっぱり黙っておこうというのがあるんですか?
結構情報が入ってなくて、弟宮の高松宮殿下が陛下のお耳には入ってないから、お伝えしますとか言って、いろんな情報を入れたりしてるんです。
どんな組織でも一緒です。
それ、ざこばさんの弟子かてざこばさんには言わんとことか絶対ある。
まあ、うちはあると思います。
しかしね、それでもあの時期に、一番情報を持ってるのは天皇なんですね。
たとえ軍は軍の情報を持っているけれども、海軍は陸軍の情報を知らないし、陸軍は海軍の情報を知らないし、という中で、もちろん秘密にしておく情報もあるんですけれども、一番やっぱりたくさんの情報を持っている。
だからよけい、だから苦悩するんですね。
となると、やっぱり情報が日本で一番集まっていた人物だということになると、リーダーとしてという話にまた、戻ってしまうんですが、残念ながら戦争は始まってしまいます。
昭和天皇がそのときどう語り、何を思ってらしたのか。
2つの原爆、
昭和天皇実録によると、昭和天皇から終戦ということばが出てくるのは、実は太平洋戦争中ではありません。
真珠湾攻撃2か月前の昭和16年10月13日、昭和天皇は戦争終結の手段を最初から十分に考究し置く必要があると述べられています。
また、敗戦ということばも、開戦前に口にされており、11月30日に弟宮とたいせんされた際に、親王より統帥部では戦争の結果は無勝負、または辛勝と予想している旨の言上あり。
これに対して天皇は、敗戦のおそれありとの認識を示される。
と、実録には記されています。
太平洋戦争開戦後、昭和天皇は大元帥として、参謀から次々とあがる戦果の報告に、まんぞくのいをしめし軍を鼓舞し、軍の作戦についても具体的に意見されるようになりましたが、一方で、心の内を話せる側近には、つらい思いを吐露されており、昭和17年6月、日本はミッドウェー海戦で敗北。
戦況は暗転し、12月11日、昭和天皇は侍従らに、戦争をいかなる段階にて終結するかが重要と語られ、翌12日、伊勢神宮を参拝し、速やかに最後の勝利を収め、東亜の天地が安定し、ひいては世界の平和が回復するよう祈願されたとのこと。
ところが、政府、軍部は天皇の意に反して、総力戦に突き進んでいきます。
昭和19年7月、サイパン島で守備隊が玉砕し、海軍省に特攻部が設けられた9月26日、天皇から和平ということばが出ます。
側近の木戸幸一内大臣に、ドイツ屈服等の機会に名誉を維持し、武装解除、または戦争責任者問題を除外して、和平を実現できざるや、領土はいかんでもよいと語られたのです。
しかし、有利な条件付きで和平をするには戦況の挽回が不可欠で、よく昭和20年2月14日、近衛文麿元総理からの上奏で、勝利の見込みのない戦争の早期終結を訴えられるも、昭和天皇はいま一度選果を挙げなければ、粛軍の実現は困難と述べられました。
ところが、いま一度の戦果は挙がらず、木戸内大臣から事態はいよいよ重大となりつつあり、万一の場合のご覚悟をと言われた翌3月10日。
東京大空襲で首都は焦土化し、3月末には沖縄戦に突入。
敗色はますます濃厚となりました。
5月8日、同盟国ドイツ軍が無条件降伏し、6月22日、昭和天皇は総理、陸海軍大臣、参謀総長らに、戦争の終結についても速やかに具体的研究し、実現に努力するよう明白に伝えられましたが、7月26日、米英中の3国が、占領の実施、領土の縮小や戦犯の処罰などを列挙したポツダム宣言を発表し、全日本軍の無条件降伏を要求。
これに対し、鈴木貫太郎総理は本土決戦をかたくなに主張する軍部の要請を受け、黙殺するのみと発言し。
そして昭和天皇は終戦を聖断されました。
昭和天皇実録には、その前後の経緯が分刻みで記述されています。
ソ連が対日参戦した8月9日午前9時55分、昭和天皇は木戸内大臣に、速やかに戦局の収拾を研究・決定する必要があると表明されました。
その後、長崎に原爆が投下され、10日午前0時3分、急きょ、終戦を検討する御前会議が開かれました。
終戦をご聖断された14日、警戒警報発令中の午後11時25分から、みずから終戦を国民に伝える詔書を録音され、15日の正午、ラジオから流れるご自分の詔書朗読、いわゆる玉音放送を、皇居内の地下防空施設でお聞きになられました。
宮内庁は、昭和天皇実録の編集に当たり、確実な史料に基づき、ありのままに基本方針としていますが、史料により内容が異なる場合は、可能なかぎり検討したうえで、両論を併記した部分もあり、例えば昭和20年9月27日、連合国最高司令官、ダグラス・マッカーサーとの第1回会見。
赤坂のアメリカ大使館にいるマッカーサー元帥を訪ねた昭和天皇は、戦争の全責任を負う者として、私自身を委ねるためお訪ねしたと述べられたという。
この有名な発言は、マッカーサーの回想記にはありますが、外務省と宮内庁が2002年に公開した公式記録には、この発言は含まれておらず、昭和天皇実録では、戦争責任への言及がない公式記録の全文を載せる一方で、マッカーサーの回想記の一文も引用し、両論併記の形となっています。
昭和天皇とマッカーサーとの会見についての記載が不十分であることについて、現代史家の秦郁彦氏は、こう分析しています。
通訳を担当した奥村勝蔵氏の判断で、削除されたのではないか。
あの時点で、天皇が自身で戦争責任を認めたとなると、東京裁判の法廷で裁かねばならぬという話にされてしまう危険を考え、記録に残さなかったのではないか。
またみずからの命を投げ出して国民をかばおうとされる昭和天皇のおことばに、マッカーサー元帥は胸を打たれ、アメリカ政府は占領政策を円滑に進めるためにも、立憲君主である天皇の戦争責任を不問に付すことにしたという後世に伝えられる話も、今回の昭和天皇実録には登場しません。
昭和天皇が崩御された直後、共産党の宮本顕治氏は、赤旗のインタビュー記事で、旧憲法下では、昭和天皇に統帥権があり、侵略戦争の開始、それから、その戦争を引き延ばしたという点においても、彼の役割は顕著などと批判したが。
昭和天皇は晩年、自分は立憲君主たらんと行動してきた。
それに拘泥しすぎて開戦を防止できなかったのかもしれないと述べられました。
これが戦争責任論に対する昭和天皇のお答えだったのかもしれません。
そこで皆さんに質問です。
昭和天皇実録、終戦に至るまでの昭和天皇の心情や、戦争責任論について、あなたはどう思いますか?
ご意見さまざまですが、田嶋さん、権力の在り方がよく分からない。
昭和天皇は皆さんからそうやって責任がないって、国民から言っていただけたら、本当にうれしかったと思います。
ですけれども、天皇みずからがマッカーサーに対しても自分は責任があったとおっしゃって、今のVTRでも、やっぱり、ご自分で責任を感じてらっしゃるということは、やっぱり昭和天皇としては、非常にまっとうな人間性を持った方だと思います。
ですけど、私としては、やっぱり、一国のリーダーであって、もう一つ勝たなければいい終戦を、敗戦を迎えられないって考えた、そこが私が一番なんか残念だ。
あの2つの原爆、落とさないで済んだのにっていうその思いがなくならないんですね。
そこのところが、私はすっきりしません。
いったん始まってしまったと、これどこで止めるのかと。
それはもう、勝つことはできないけど、大きな打撃を与えれば、講和を申し込んできて、日本も負けない形で、収まったらいいなって。
要するにあれですね、日露戦争型の、日露戦争やったときに本気で別にロシア帝国を乗っ取ろうと思ったわけじゃなくて、ロシアに勝って、いい条件で和解すると。
ロシアの戦争でそれがうまくいったんで、アメリカと戦争始めて、別にアメリカ乗っ取ろうというわけじゃないけど、いい条件下で和解ができるとっていう。
1つ教えてください。
陛下は、若いときにアメリカやヨーロッパにいらしてたんですか?アメリカにいらしたことあるんですか?行ってないですね。
大きな致命傷ですね。
アメリカに行ってらしたら、あのすごい繁栄と、物量の間に勝つとはひと言も思わなかったと思います。
ところがですね、
実際に、どうですかね、ミッドウェーで勝ってたらとかいう話になったら。
ミッドウェーで一気にだめになった。
とにかくね。
その話をしだすとね。
日本は結構強かったので、十分、日露戦争のような短期決戦で。
国力全部ひっくるめて考えてないでしょ。
日露戦争だって、国力こんなちっちゃかったんですよ。
日本は、それでも短期決戦で勝ってた。
…。
あのときの陸軍も海軍も短期決戦だったら勝つと思った。
ところが、負けたかというと、下手くそなんですよ。
あの戦争、もし僕が指揮してたら勝ってましたよ。
ちょっと待って。
言っていいことと悪いことがある。
どういうことかって。
教科書どおりにやってれば、負けない。
だって敵の偵察機に発見されたら、全機出撃しなきゃいけないって、もう基本中の基本なんですよ。
もう、発見されたらすぐ空襲受けるわけだから、すぐ飛び立たせる、爆弾抱えたまま飛び立ったらごう沈ですよ。
だからそこへ全機出撃ってやればよかったのに、魚雷かちゃとかやってて、やったわけですよ。
下手くそなんです。
それはさ。
そんな戦術の話じゃなくて、さっき竹田さんがおっしゃったとおりなんだよ、南仏、要するに今のカンボジアとベトナムの所だけでも、あそこに出ていったときに、要するに石油が欲しいから出ていったわけだけど、そのすぐ下には、英領、マレーというのがあるし、そのベトナムの対岸には、すぐ目の前にはフィリピンがあって、そこは米国の植民地だったんだから、それがイギリスは、ものすごい刺激するっていうのは分かってたんだから、そこの判断ですよ。
よくある議論で、いや、あの戦争は確かに負けたけれども、開戦はしょうがなかったんだと。
あれだけ周囲に包囲されたら、打って出るしかしょうがなかっただろうっていう。
…しなければ、アメリカ、イギリスをあれほど刺激することはなかった。
だけど経済封鎖は戦争行為そのもの。
だから。
それは…。
まだ違う歴史がありえたのかどうかということなわけですよ。
私はやっぱりね、やっぱりね、国際連盟を脱退してしまった。
これ、イギリスが妥協案を出したにもかかわらず、それをのまなかったという、そこらへんあたりから私はおかしくなってきてると。
日本は今もそうだけども、外交下手なんだよ。
また、そういうことを言う。
すみません、お三方にお尋ねしたいのは、VTRの中で、昭和天皇が開戦前にこれは負けるんじゃないかと思ってらしたと、それはどういう根拠に基づく、あるいはどういう情報に基づくんですか?
一つは、開戦シミュレーションをやったんですよ。
猪瀬直樹さんが書いてますけど、それで辛勝であったり、負けるという結果が。
図上演習を、大規模ものをちゃんとやってるんですね。
それからそういう問題ももちろんありますし、もっと根源的な問題は、昭和天皇はやっぱり日本の生産力について、かなり正確な情報を知ってたんだと思います。
もちろん、開戦時は日本海軍のほうが優位ですよ。
でもアメリカ、すぐにどんどん航空母艦とか戦艦を作ってくる。
それからレーダーもいいの作ってくるっていう。
だから、直感的になんかこのアメリカという大国に対して、こんな戦争したって、勝てないんじゃないかということは感じていて、そういう意味では、即位したときにはまだ未熟な20歳代の後半のリーダーだったですけれども、さまざまな満州事変などの苦悩を経ながら、いろいろ情報も蓄積してくると、開戦のころには、政府とか全体を動かす力はないけれども、相当の判断力があるんですね。
それがそこの戦争は負けるんじゃないかと、だからすごく辛いんです。
ちょっとね、昭和天皇が若いころは未熟だったと言われますけれども、私は必ずしもそうは思わないのは、中学、高校時代は、特別に7年間、東宮ご学問所という所で、大正3年から10年まで勉学されるんですが、これちょうど第1世界大戦の最中なんですねそのときに普通の強化以外に、軍事講を、毎週陸軍、海軍から聞いておられて、非常にその欧州において、第1次世界大戦がどのように始まり、どのように進展しているかとか、よくお分かりなんですね。
まして大正10年にヨーロッパに行かれまして、実際、戦勝国を回られましたけれども、戦勝国でもこれくらいの悲惨な状況になっておるということを体験して帰ってこられるわけですね。
特に…時代には、今度実録にも出てますけど、非常に詳しく、頭上演習などをして、言ってみたら戦争ごっこをされるわけです。
だから軍事技術というよりも軍事知識は非常に正確で、そういう意味で、戦争をなんとか避けたい、もしも始まったら、どうして終わったらいいか、非常に早くからお考えだったと思います。
そういう意味で、非常に成熟した知識なり、あるいは英知を持っておられたのが、制度的に制約をされたりして、実際そのとおり進んでいかなかったということが、冒頭出てきた、まさに切ない思いにつながると思うんですけれども。
私が未熟って言ってるのは、ちょっと定義し直しますと、所先生と全く同じで、当時の同世代の青年としてはすごくいい教育を受けて、優れているんですね。
そういう点は史実もあると思います。
ただし、20代の後半で、田中義一とか、なんとか軍のいろいろ、老かいなのをどう扱うのかという、いわゆる本当の政治ですね、政治のやっぱり、そこまではいい助言者がいなくて、うまく行動できなかったんです。
要するに天皇陛下に政治力がなかったということですか?
そうですね、なんの訓練も。
そのひと言?
ほとんどされてないので、そうするとやっぱり正義感に走ってしまうんですね。
正しいことを実現しようとして、うまくコントロールできたらいいんですけれども、やっぱり必ずしもいかないときには、次善の策を考えるという、そのへんがやっぱり20代の後半の天皇にはまだ身についてなくて、まさに田嶋さんのおっしゃるように権力の在り方が分からないと。
いわば徐々にですけれども、軍とかそういうものが学級崩壊状況といってもいいと思いますね。
とはいえ、天皇に資質を求めること自体が僕は間違いだと思うんですよ。
天皇が資質があればいい政治が、天皇に資質がなければだめな政治がと、そんな2000年歩んできてないんですよ。
今だってもちろん陛下は大変資質の高い方だけだけれども、陛下の資質のあるなしで日本の政治の生き方が変わるという事態はないわけですよ。
ちょっと待って。
だけど…。
それもすばらしいとこなのよ。
田嶋さん、だから権威はあるわけでしょ?
名前で戦ってないです。
みんな天皇陛下万歳で亡くなったわけでしょ。
違います。
テレビのことばっかり勉強して、なんにも分かってない。
よい天皇だったか悪い天皇だったかとか、未熟だったかというのはよく分からないんですけれども、感情とか意思とかそういうものをある場所に置いておいて、天皇として、どうあるべきかっていうのを一生涯考えてこられた方なんだなという想像になりまして、一人間として、すばらしいかというよりも、天皇という職務ということばが合うかどうかは分からないんですけれども、それをまっとうされたかたなのかなという思いで、神という表現を使わせていただいたんですけれども。
今、神って話ありましたけれども、天皇が神かといったら神ではなくて、現人神なんですね。
人なんだけれども、神としての資質や、神としての考え方をそのまま受け継いできた人なんですね。
だから、そこには何かおうみ心民のために国をたて、その国を栄えさせることにより、民が平和で豊かであるという、そこをずっと貫徹してきた、そこに神々しいものが見える。
それを現人神。
神なのか、神でないのか、このあとのコーナーで人間宣言に踏み込んでいきますが、その前に、さっきの話でいうと開戦に至る道筋においては、まだ20代で若かったけれども、やっぱり終戦に至る道筋では、もう円熟期でいろんな情報があって判断できる立場だったということを前提にすると、先ほどの田嶋さんの疑問なんですが、なぜ原爆が落とされる前、なぜ東京、大阪の大空襲の前、もっと言うなら沖縄戦の前、もっと言うならば裁判玉砕の前、せめてミッドウェーの開戦で負けたぐらいで、兵を引くという判断がどっかの段階で誰かができなかったのかという、これはどうなんでしょう。
これは、陸軍、海軍がそれを言うことを聞かなかったら、もう本当に天皇の残っている正統性である権力もなくなってしまいます。
それを恐れたんだと思います。
二・二六のときでも天皇は、鎮圧せよということを言うんですけど、3日間、鎮圧に動かないわけですね。
3日間ですよ。
これはやっぱり怖かったんだと思います。
そういう実際体験して。
それよりも、ミッドウェーからサイパンに負けていく過程の中で、当時の海軍の参謀たちは、要するに敗戦というか、負けてる状況は分かってるにもかかわらず、連合艦隊の司令長官ですら、近頃、一体戦はどうなっているのかと言って、戦の現況すら分からない。
連合艦隊司令長官がですよ。
そんな状況で、天皇陛下は一体どこまで情報をちゃんとあったんだろうか。
ミッドウェー海戦の敗戦は、わりあい早く知ってると思いますね、そういうのは。
基本的には、天皇の下には正しい情報は上がってなかったと。
上がってなかった?
上がってなかった。
そうでなければ、弟宮があれほどまで陛下に情報を入れなければと言って走り回るなんていうことはありえない。
結局、太平洋戦争は敗戦ということで終わりました。
その後、この問題について、昭和天皇は本音で、どう考えてらしたんでしょうか。
終戦のよくとし、昭和21年の元日、44歳の昭和天皇が出された詔書には、みずから天皇の神格化を否定する一文が盛り込まれていました。
珍となんじらこのの間のちゅうたいは、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説とによりてしょうぜるものにあらず。
天皇をもってあきつみかみとし、かつ日本国民をもって、他の民族に優越する民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず。
俗に人間宣言と呼ばれるこの詔書は、GHQ主導で発布されたものであるといわれているが、時の総理、幣原喜重郎から詔書の草案を示されたとき、昭和天皇は冒頭に近代日本民主主義の起源である明治天皇が示した五箇条の御誓文の趣旨を加えるよう所望されました。
76歳のとき、昭和天皇は、当時をこう回想しておられます。
神格とかそういうことは二の問題でした。
民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は、決して輸入のものではないということを示す必要があった。
日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないために、あの宣言を考えたのです。
激動の時代においても、昭和天皇の御心は常に国民と共にあったことが伺えます。
そして、昭和22年5月に施行された日本国憲法によって、天皇の地位は、大日本帝国憲法における統治権の総らん者から、国民統合の象徴になりましたが。
新憲法施行の経緯について、昭和天皇実録によると、昭和21年2月22日、去る13日に国務大臣、松本烝治は、連合国最高司令部民政局長、コートニー・ホイットニーほかと面会し、ホイットニーより最高司令部作成の憲法草案を示され、これに基づく憲法起草を要求される。
この要求を受け、日本側は、GHQに、日本国憲法の草案を提出。
GHQはこの草案を改正したうえで、それを日本側の自主的な案として速やかに発表するよう求めてきました。
そこで幣原内閣は、勅語を仰いで同案を天皇のご意志による改正案とすることを決定したと記されています。
この記述に対して、産経新聞は、GHQの行為は、被占領地の法律尊重を定めた、ハーグ陸戦条約などに反する国際法違反になり、GHQが改正案を日本側の自主的な案として発表するよう求めたのも違法性を認識していたからにほかならないと断じています。
一方、こうしたGHQの押しつけに、昭和天皇はどんなお気持ちだったのでしょうか。
そんたくするものの、昭和天皇実録に、ご反応の記載はありません。
ただ、新憲法が施行されたとき、昭和天皇はこんな歌を詠まれています。
うれしくも国のおきてのさだまりてあけゆく空のごとくもあるかな。
人間宣言をされた年の2月から、昭和天皇は国民を激励すると、戦災の爪痕が残る全国各地への訪問を始められました。
それはまだ新憲法施行の前年のことでしたが、昭和天皇は、みずから国民と共に歩む、新たな皇室像への一歩を刻まれたのです。
そこで皆さんに質問です。
昭和天皇実録、終戦から新憲法施行に至るまでの昭和天皇の心情や行動について、どう思いますか?
ふっと思ったんですけれども、津川さん、津川さんは、役者として、昭和のいわゆる歴史上の人物、ずいぶんやってらっしゃるでしょ?
東條と松本烝治。
東條英機も?
プライドでやってます。
松本烝治は憲法はまだかって、NHKのドラマで、すばらしいドラマです。
今聞いてて、胸の痛い話ばっかり。
僕の責任みたいに。
やっぱり役者として演じるときには、感情移入されるわけですか?
そうですよ。
やっぱり、似せるんじゃなくて、魂演じたいと思いますから、だから周りの状況っていうものを、よく考察して。
津川さん、プライドの映画のときに、批判をする人も結構いたじゃないですか。
そのことについてはどういうふうに受け止めていらっしゃいますか?
それはああいう現状ですからね、僕が一番思ったのは、あっ、批判する人が多いと客が入るんだと。
そっちか。
だからやっぱり映画は批判されるのが。
おっしゃるとおり!番組ってね、クレームが多けりゃ多いほど、視聴率高いんです。
憲法は、アメリカから押し付けられてたって言われてるんですが、その内容を見ると、全くごく普通の民主主義で、明治憲法のエッセンスに沿ってますし、政府案はマッカーサーに否定されますが、その背後に民間で憲法を研究してた人たちの案をよしとして、アメリカはいいじゃないかって、参考にすることを決めたぐらいで、ここに、その当時、アメリカから押しつけられた憲法の内容みたいなものがあるんですけれども、これは今の本当に、普通の民主主義の理屈なんですね。
だから産経新聞が言っているような、押しつけられて、内容がとんでもないというようなもんじゃない。
普通じゃない条項があります。
9条です。
9条は近代国家の憲法として、こういうものを持っているのは日本だけです。
だから9条と引き換えに…。
今田嶋さんがおっしゃった民間でいろいろ作られた憲法、民間憲法の中にも、9条の戦争放棄などとうたったものは一つもありません。
でも、天皇陛下は9条と引き換えに、皇統を維持する、天皇制の中にいるということを決められたわけですよ。
ちょっと。
そこはどうなんでしょうか?教えてください。
アメリカが皇統維持を約束したという事実はないんですね。
ポツダム宣言を読んでも、どこを見ても、日本の国の在り方は、日本人が決めろってことが書いてあるだけで、日本は皇統互助を約束しろと求めたけどアメリカは無視したわけですよ。
それで、…。
それで9条を引き受ける。
9条じゃなくて。
戦争しないってこと?
9条を引き受けるなんてことは、その段階ではなんの話もしてない。
田嶋さんの言ってることは論理的におかしくて、例えば、1条なら分かりますよ。
皇統維持と引き換えに、日本国の統合の象徴となることを決意したと。
これならまだ話は分かるけど。
9条は全然別のマターの話ですよ、それと、田嶋さんのおっしゃっていることで一番おかしいのは、先ほど、彼も言ったけれども、あれ、特殊ですよ。
この憲法は。
だってアメリカにも、それを押しつけたといわれるアメリカにもイギリスにも国の交戦権は否定してない、軍隊持つことは認めてる。
それは2000万人の人を殺したからですよ。
アジア人と日本人含めて。
2000万人の、1700万人のアジア人と300万人の日本人を殺した戦争は、この大殺人集団じゃないですか。
ひと事のように言ってる。
政府と同じこと言ってるじゃないの。
あんたがたも日本人なんだよ、ひと事のように言ってるけどよ。
スターリンとか毛沢東とかはもっと。
それは日本のことを話してるんであって。
世界の憲法と比べて特殊か。
いいってことじゃないでしょ。
一般的かということを話して。
でも日本は日本の事情によって、憲法を作ったわけですよね。
しょく罪を込めて。
一般的な憲法じゃないですよ。
確かに、非常に特殊な憲法であることは間違いないんですが、ただ、さっきの憲法が出来たときの歌を聞くかぎり、現行憲法に関して、昭和天皇はそれほど否定的ではなかったイメージを持ちますけど、いかがですか?
そうですね、だから、このへんの切り替わり方がやっぱり相当円熟した政治家というか、政治家であるっていうか、やっぱり結局、ソ連とか中国とか、どういうふうに行動するか分からない。
だからその前にもう憲法を作ってしまおうというのがマッカーサーたちの考えであって、立憲君主ではだめだということで、そういうふうな圧力というか、指導があったので、やっぱりこれはもう、その状況をよく理解して、自分は後でそういうことば出てきますけれども、象徴天皇ですね、そのころそんなことばありませんけれども、象徴天皇となって、国民と共に、国民の象徴となって、国の復興に尽くそうという。
憲法というものは近代国家においては必要なものですから、出来た明治憲法、出来た今の憲法を前提として、それを順守していくことが、国の秩序、あるいは繁栄を保障するものだということをお考えですから、もちろん、恐らく明治憲法に対しても、今の憲法にもいろいろなお考えをお持ちであっても、まず国家として憲法が出来たことを喜ばれることは当然だと思います。
それよりももっと私が個人的に思いますのは、占領軍は確かにああいう草案を作るときに一体何を参考にしたかといえばいろいろありますけれども、結構、明治憲法を参考にしたと思うんですよ。
なぜかといえば、第1章天皇という章にして、第1章から第8章まで天皇に対する規定をまず頭に置くということ自体、そうでもしなければ、日本国民は納得しないだろう。
そこで僕、ぜひ聞いておきたいのは、立憲君主制というものを、憲法が君主を定めている、規定を持ったそういう君主であると、こういうふうに考えるのであれば、今の日本国憲法であっても、立憲君主制の一部だというのは間違いですか?正しいですよね?
今の憲法は立憲君主制の一つのバージョンなんですよ。
ですよね、ただし明治憲法と比べれば、君主の役割がずいぶん軽くなったと。
それについて、昭和天皇は、いわば安どしたというか、空の明けくらむなんて、そういう気持ちだったんじゃないかと思います。
そうだと思います。
帝国憲法と今の憲法…。
だからあえて言いますと、今の日本の在り方が、君主制の国なのか、共和制の国なのかって議論がありますけれども、明らかに今の憲法を今おっしゃられた文脈で読めば、日本は立憲君主国だと思うんですね。
そのことをはっきりしておく必要があると思います。
帝国憲法から日本国憲法に切り替わったことによって、天皇の在り方がなんか根底から変わったかのように表現されますけれども、緻密に見ていくと、実は天皇の法的権能というのは、戦前と戦後であまり変わってないんですよ。
だって、いまだに内閣総理大臣を任命するのは天皇だし、最高裁判所の長たる裁判官を任命するのは天皇だし、選挙だってなんだって、天皇の公示がなければ法律で一つ、天皇が公布しなければ法律にならないわけですよね。
これって、実は。
竹田さんね、ずばり、最近出ているある小説によれば、天皇陛下が総理大臣を任命しない場合だってありうると。
ありうる。
そういうことだって書いてあるのは、これなんかまさに立憲君主であるからですよね。
そうです。
もし国会が首班指名しても、天皇陛下がいや、こいつだけは嫌だっていうことをもしおっしゃったならば、その人は法的に総理にはなれないわけですね。
それから任命しない場合もありうると。
そうです。
そうでなければ無意味なものを憲法に書くわけがない。
ちょっとちょっと…。
×××まで総理に任命されたんだから。
現行憲法で天皇が嫌だと言って、はんこつかないって言ったら、はんこつかないっていうことは可能なんですか?
ありません。
可能です。
人間として。
人間ですから。
拒むことはできます。
憲法ではどう書いてある?
法的にはできませんが、物理的にはできます。
国誓に関する権利を有しないと書いてありますから、それは無理なんですね。
違います、内閣総理大臣を任命することは国政に関する権能でしょう。
第7条に書かれているもの以外は国政に関する権能を有しないというわけで、内閣総理大臣の任命は誰がどう見たって国政に関する権能ですよ。
それがなければ内閣総理大臣になんないんだから。
制度上の問題と、現実的な問題、ちょっと切らさなきゃ、今の憲法のよしあしでなくて、実際上、国政の最高機関が国会だと定められておって、天皇は国政に関する…と書いてある以上、陛下がどう思われようと、国会で首班指名したものを、陛下は、内閣の承認に基づく国事行為の一環として、総理に任命されるという、法的手続きを取られる役割が残ってるんですね。
それは非常に重いと思うんです。
それはそのとおりです。
国会で多数決で、要するに多数決で首班指名しますけれども、賛成した人だけの総理ではなくて、全国民のための総理になってもらうためには。
所さんの言うことはね。
陛下が任命されるという法的手続きいるんですよ。
所さんが言うのは、法的にはそういうふうになっているというだけであって、日本の憲法学会では、もし天皇が内閣の助言と承認に反して国事行為を行った場合の法的効果がどうなるかという議論があるんです。
あります。
ありますけど、でもそんなことできますか?
いや、だから人間だから、押さないということはできるわけでしょう。
そんなことしたら。
竹田さん何を言いたいの?
認めないことだって。
結局、何を言いたいの?人間だってことを言いたいの?
要は何が言いたいかっていうと、帝国憲法における天皇の法的権能と、現憲法における天皇の法的権能は、あまり変わってないんです。
全く一緒とは言わないけども、じゃあ、何が変わったかというと、重臣たちの権限がなくなったんですね。
つまり次の内閣総理大臣は重臣たちが決められたんです。
今はできない。
今は国会で決めなきゃいけない。
だから権限を落としたのは、重臣たちである。
その重臣たちの法的権限は国民に移ったんです。
天皇の法的権限は戦前戦後で実はあまり変わってないです。
逆に今の話って、例えば、天皇にとんでもない人間が天皇がなったときに、今みたいなことを始めたときに、現憲法下では防ぎようがないから、じゃあ、完全な共和制にしたほうがいいんじゃないのっていう方向性に向かっていきかねない。
むしろその逆なんですね。
例えば、イギリスではこれベトーって言うんですけれども、君主がもう政治的プロセス、決まったものは最終的に拒否権によって止めることをベトーっていうんですけど、イギリスでは800年ぐらい、発動されてないわけですよ。
日本でも昭和天皇だってそうじゃないですか、政治的プロセスで決まったものを自分がひっくり返すということをずっとしなかった。
ただ、最後の最後、ポツダム宣言受諾のときだけは動いたわけですよね。
だからむしろ、天皇にベトーが実はあるんだと、何百年に一度でも行使されるようなものじゃないけれども、それがあるのだということが、絶対に重要なわけで、いざというときに最後、例えばもしいきなりね、じゃあ、内閣総理大臣が中国に宣戦布告して攻め込めと言ったときに、じゃあ、天皇が分かりました、分かりましたって、全部、さいかするのかっていう話。
さすがに…。
ちょっと極端やわ!
だから何百年に一度なんですよ。
だからそれが何百年に一度なんですよ。
それは信任、お互いがお互いに信認をして、通常は発動されない。
ところがめちゃくちゃなことが起きるときに最後。
そのめちゃくちゃというのはないとしましょうよ。
それがあるということが重要で。
それはもう入れました。
もし、天皇が自動的に全部はんこ押すんだったら…。
そのへんの議論は、実は国会で議論されたことがあって、否定されてるんですよ、そこは。
理論的にはあるといっていいけれども、実際的にはそれはない。
ありえるかありえないかは。
はっきり否定されてる。
今度の実録で、大事なことは、昭和史以前の、明治34年のご誕生から、大正15年までのその約25年間というのが非常におもしろいんですよ。
おもしろいですね。
あそこは。
なぜかというと、それはほとんどあまり出てこなかった。
例えば、小さい頃に、まず何がお好きだったんですかというと、歴史と生物なんですよ。
小学校4、5年生のときに、自分は歴史が好きで、誰が好きと言えば、天智天皇と、豊臣秀吉だと。
それからもう一つは…を見ておって、実は残念なのは、裏切り者がいると。
これはゆゆしくないということを5年生ぐらいで言っておられるんですね。
だからずっと歴史がお好きで、ちょっとここに出しましたけれども、実は昭和天皇が東宮御学問所というところで、白鳥くらきちという先生が、約6年間、実際7年間にわたって国史、日本の歴史と東洋史と西洋史をご進講なさるんです。
それは特別教育なんですけれども、それをみずから、東洋史の専門家である白鳥先生が書かれた教科書が全部残っておりまして、これを見ますと、まさに神話の昔から、神武天皇の時代から明治天皇に至るまでが、実に丁寧に書かれておって、それが実によく出来ております。
問題は、それを、まさにその白鳥先生が本当に世界史的な視野で教えておられるんですね。
そういう意味で、昭和天皇の形式はまさに本当に歴史を踏まえ、そして世界を見て、いろんなことを考えておられたということがよく分かります。
奥ゆかしい。
何が奥ゆかしいかというと、普通こういうときは自分の本しか出さないのに、自分の本じゃないのに、2015/03/29(日) 13:30〜15:00
読売テレビ1
たかじんのそこまで言って委員会[字]

総力スペシャル!昭和天皇と激動の時代▽番組史上最高の論戦!“戦争責任”は誰に?▽あの敗戦は避けられた?知られざる歴史の“真実”▽「人間宣言」と日本国憲法

詳細情報
出演者
【司会】
辛坊治郎

津川雅彦
田嶋陽子
桂ざこば
加藤清隆
長谷川幸洋
宮崎哲弥
竹田恒泰
北川弘美
【ゲスト】
所功(モラロジー研究所教授)
伊藤之雄(京都大学大学院教授)
井沢元彦(作家)
番組内容
総力スペシャル!昭和天皇と激動の時代
番組史上最高の論戦!専門家も知らなかった歴史の“真実”に迫る
▽二・二六事件、満州事変、そして開戦・・・軍部の“暴走”と昭和天皇の“苦悩”
▽あの敗戦は避けられた?“戦争責任”はいったい誰に?
▽「人間宣言」と「日本国憲法」
スタジオ観覧募集
隔週金曜日の収録に、100名の観覧者を募集中。希望の方は、住所・氏名・年齢・電話番号を明記、ハガキでご応募下さい。
〒530−8055 
大阪中央郵便局私書箱1050号
「そこまで言って委員会」観覧係
番組ホームページ
http://www.takajin.tv/

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バラエティ – その他

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