私はしばらく前から<ハンギョレ21>を広げるのが恐ろしくなりました.
本に掲載された、ベトナム戦良民虐殺に関する記事を読む度に、恥ずかしく、息がつまります.
私の父は、1967年から1968年まで、ベトナム戦争に参戦しました.
まさに、貧困のためでした.
ベトナムに行けば、お金をたくさん与えるという言葉に、肺結核で死にそうだった兄の薬代のために、軍服務中だった父はベトナム行きを志願しました.
幸い、韓国にいるよりは多くの月給を受けとることができ、そのお金で兄の病気を治すことができました.
だも,
ベトナムから帰ってきて、母と結婚して私と妹を産んだ父の生は、そんなに平坦ではありませんでした.
退役した後、小さな事業を運営して裕福な家庭を設けた父でしたが、10余年前からは新規事業を始める度にずっと失敗してきて、家族の経済的責任は母と私にまわされてきました.
89学番(註:'88年大学入学)の私は、同年代のみんなが享受していた豊かさも,
正義を叫ぶ若さ(註:当時は民主化要求闘争が大学生たちによって繰り広げられていた)もなく、生活戦線にかり出されなければならなかったのです.
学費と生活費を稼がなければならないという圧迫感は、無能な父に対する憎しみに変わって、私たちを愛してくれた父を傷つけてしまいました.
父は、ベトナムに関する話は、ほとんどしません.
ベトコンは民間人の間に隠れていて、発見するのが難しかったということ,
ベトナムの良民たちは、韓国軍を非常に恐れたということだけが、私が聞いたベトナム戦争に関する話の全部です.
私は、父が捜索隊だったいうことと、猛虎隊だったということだけを知っています.
女の私は捜索隊がどんな任務を持った隊なのかは知りません. でも,
地獄の戦場から生きて帰ってこられた父は、生き残った彼らに国家が贈った勲章も捨てました.
なぜ、そうしたのかは知らないのですけれど,
私は父が良民を虐殺したような軍人ではないと信じたいのです.
まだ、父にベトナム戦良民虐殺に関する記事を見せることができません.
父がそこでどんなことをしたのか、いまだに聞けない私の気持ちが、毎週<ハンギョレ21>を広げることを恐ろしくさせたようです.
遅すぎる参加ではないことを願って、恥と長い間の迷いの末に、私の幼い娘の前で恥ずかしいおとなでないことを願う気持ちで、寄付の隊列に参加します.
有難うございます.
大峙洞から
ハンギョレ21 2000年 06月 15日 第312号 .
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