これらの記事は、元々韓国の雑誌「ハンギョレ21」誌の記者が自ら取材し、韓国・ハンギョレ21誌の決定で掲載したものです.当"風窓"webに翻訳・掲載しているものは2001年12月17日現在では以下の通りです.

2001年9月374号
[報道 その後] 大統領も “ごめんなさい ベトナム”
2001年4月356号
[特集] ‘ごめんなさい ベトナム’ ファッション登場?
2000年12月339号
[特集] ‘ごめんなさい ベトナム’ 世界へ!
2000年6月312号
勲章を捨てた父
99年12月287号
ベトナムの熱い感動!
99年11月282号
兄さんの重荷を減らしてください
韓国とベトナムの読者の手紙 
99年10月278号
報道 その後‘ベトナムの怨みの霊を記憶しなさい’
99年5月256号
ああ, 震撼の韓国軍!

2000年6月ハンギョレ21 312号

勲章を捨てた父


私はしばらく前から<ハンギョレ21>を広げるのが恐ろしくなりました. 本に掲載された、ベトナム戦良民虐殺に関する記事を読む度に、恥ずかしく、息がつまります.

私の父は、1967年から1968年まで、ベトナム戦争に参戦しました. まさに、貧困のためでした. ベトナムに行けば、お金をたくさん与えるという言葉に、肺結核で死にそうだった兄の薬代のために、軍服務中だった父はベトナム行きを志願しました. 幸い、韓国にいるよりは多くの月給を受けとることができ、そのお金で兄の病気を治すことができました.

だも, ベトナムから帰ってきて、母と結婚して私と妹を産んだ父の生は、そんなに平坦ではありませんでした. 退役した後、小さな事業を運営して裕福な家庭を設けた父でしたが、10余年前からは新規事業を始める度にずっと失敗してきて、家族の経済的責任は母と私にまわされてきました. 89学番(註:'88年大学入学)の私は、同年代のみんなが享受していた豊かさも, 正義を叫ぶ若さ(註:当時は民主化要求闘争が大学生たちによって繰り広げられていた)もなく、生活戦線にかり出されなければならなかったのです. 学費と生活費を稼がなければならないという圧迫感は、無能な父に対する憎しみに変わって、私たちを愛してくれた父を傷つけてしまいました.

父は、ベトナムに関する話は、ほとんどしません. ベトコンは民間人の間に隠れていて、発見するのが難しかったということ, ベトナムの良民たちは、韓国軍を非常に恐れたということだけが、私が聞いたベトナム戦争に関する話の全部です.

私は、父が捜索隊だったいうことと、猛虎隊だったということだけを知っています. 女の私は捜索隊がどんな任務を持った隊なのかは知りません. でも, 地獄の戦場から生きて帰ってこられた父は、生き残った彼らに国家が贈った勲章も捨てました. なぜ、そうしたのかは知らないのですけれど, 私は父が良民を虐殺したような軍人ではないと信じたいのです.

まだ、父にベトナム戦良民虐殺に関する記事を見せることができません. 父がそこでどんなことをしたのか、いまだに聞けない私の気持ちが、毎週<ハンギョレ21>を広げることを恐ろしくさせたようです. 遅すぎる参加ではないことを願って、恥と長い間の迷いの末に、私の幼い娘の前で恥ずかしいおとなでないことを願う気持ちで、寄付の隊列に参加します. 有難うございます.

大峙洞から


ハンギョレ21 2000年 06月 15日 第312号 .


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これらの記事は、元々韓国の雑誌「ハンギョレ21」誌の記者が自ら取材し、韓国・ハンギョレ21誌の決定で掲載したものです.当"風窓"webに翻訳・掲載しているものは2001年12月17日現在では以下の通りです.

2001年9月374号
[報道 その後] 大統領も “ごめんなさい ベトナム”
2001年4月356号
[特集] ‘ごめんなさい ベトナム’ ファッション登場?
2000年12月339号
[特集] ‘ごめんなさい ベトナム’ 世界へ!
2000年6月312号
勲章を捨てた父
99年12月287号
ベトナムの熱い感動!
99年11月282号
兄さんの重荷を減らしてください
韓国とベトナムの読者の手紙 
99年10月278号
報道 その後‘ベトナムの怨みの霊を記憶しなさい’
99年5月256号
ああ, 震撼の韓国軍!