どこで読んだだれの文章なのか忘れましたが、「岡崎京子の漫画に出てくる女の子っていうのは、男と恋愛するのが好きなんじゃなくて、男と恋愛した話を女同士でするのが好きなんだよね」ということをいっていた人がいて、なんて的確な岡崎京子評なんだ! と思わず感動したことがあります。
というわけで今回は、3月31日まで世田谷文学館でやっている(やっていた)岡崎京子展『戦場のガールズ・ライフ』について感想を書いていくのですが、こんな展覧会をやるくらいなので、もう岡崎京子という人の漫画家としての地位は、揺るぎないわけです。ポジティブな岡崎京子評は探せば、いくらでもどこにでもあるでしょう。なので私は今回”あえて”、ネガティブな岡崎京子評というのを書いてみるつもりです。
岡崎京子の描いた”ガールズ”はどこへ消えたのか?
さて、岡崎京子の漫画に登場する女の子たちは、だれもかれもが強力なまでの”ガール”です。ここでいう”ガール”というのは、少女でもなければ、自立した女性でもありません。その間を揺れ動く、年齢でいうと、15〜22歳くらいの女の子たちです。彼女たちは社会に、世界に、とりわけ恋愛と男の子に対して、興味津々です。そして自分たちの「性」が、この世界で強い価値を生むことを知っています。でも同時に、その本当の怖ろしさや絶望を、理解していないようにも見える。退屈を恐れ、好奇心と欲望のままに行動し、ときに傷付きながらも、毎日を必死に生きています。
岡崎京子の描く漫画は、ゴダールやフェリーニ、小津安二郎など、数々の名作映画の影響を受けていることが見てすぐにわかります。彼女はゴダールの映画に登場するジーン・セバーグやアンナ・カリーナの似顔絵をしょっちゅう描いていて、映画批評家の四方田犬彦がそのなかの1つをアンナ・カリーナ本人に見せたところ、アンナが狂喜したなんて話も聞いたことがあります*1。しかし、とりわけ今回の展示でクローズアップされていたのは、ヴェラ・ヒティロヴァの『ひなぎく』でしょうか*2。
映画の影響を強く受けているせいか、岡崎京子の漫画の1コマを区切りとったときの吸引力は、他の漫画家さんの比ではない。とにかく圧倒的なんですよね。ポップでクールでかわいくて、でも少しでも目を離すとふっと消えてしまいそうな刹那的な美しさ。私はやっぱり岡崎京子といえば『ヘルタースケルター (FEEL COMICS)』だと思うのですが、彼女はそういう、”ガールズ”の危うさみたいなものを、なんとも上手く抽出して描いていると思います。
私はそんな岡崎京子の漫画に、昔からわりと親しんできたほうだと思うのですが、一方で、どうもこれらを「自分の物語」として読めない部分がありました。それで今回の展示では、そのことについてじっくり考えながら原画や雑誌の記事などを読んでいったのですが、その理由というのはたぶん、岡崎京子の漫画に登場する”ガールズ”たちはあくまで刹那的な存在であり、年をとらないからじゃないか、とピンと来たのです。岡崎京子の描く”ガールズ”は永遠に”ガールズ”であり、同じ漫画に登場する彼女たちの「母親」とは、隔絶された存在です。
だけど現実の女の子たちは、当たり前ですが年をとっていくわけです。22歳を超えた”ガールズ”はどこへ消えてしまうのかーー美への執着や好奇心に殺され破滅していく様子が描かれることもありますが、多くの場合、22歳を超えた女の子たちに対して岡崎京子は「ノーコメント」を貫いているように私には思えるのです。
いやいや待ってくれ。ちゃんと「その後」も描いてくれ。私たちは漫画の登場人物とはちがうから、22歳を超えても生きていかなくてはいけないし、人生は”ガール”じゃない期間のほうがずっとずっと長いんだ。
私が岡崎京子の漫画に抱いてきた違和感はおそらくこの部分にあり、アラサーになってしまった今はもちろんですが、まだまだ現役の”ガール”だった頃も、「なんかちがうぞ」と思っていたのでした。
地下鉄サリン事件があり、9.11があり、東日本大震災があった
思えば皆さんも生まれてこのかた退屈をし続けてこられたのではないでしょうか?
かつてお仏蘭西で一般大衆の方々のヤリダマに上ったマリー・アントワネットのセリフに「私は退屈するのが恐かったのです」とゆうのがあったそうですが、時移り所変わって’87のジャポンでは一般大衆の方々が「タイクツするのがコアイ」と言っておられますね。
『退屈が大好き (九龍コミックス) 』あとがき、p141
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また別の視点から考えてみると、岡崎京子というのは、1980年代から90年代にかけて活躍した漫画家です。1996年に交通事故に遭い休業されていることはよく知られている話ですが、もし今もまだ現役で作品を発表し続けていたら、それははたしてどんなものになっていたのだろうと妄想が膨らみます。
だけど、実際にはやはり90年代を最後に岡崎京子は作品を発表していないわけで、あくまでその枠のなかで考えると、岡崎京子の描いてきた”ガールズ”は、日々の退屈を憎み恐れながらも、その退屈をとてもとても信頼しているように思えるんですよね。要するに、この日常が良くも悪くも、ずっと続くと思っているわけです。自分たちの平凡な毎日を覆す決定的な出来事なんて、起こるわけがないと。だからこそ彼女たちは、好奇心の赴くままに恋愛をし、化粧をし、音楽を聴き、セックスをし、おしゃべりをし、そして傷付いていく。刺激を求めて右往左往する”ガールズ”は一見すると破天荒に見えますが、やはりそれは根底に、深い深い日常への信頼があるように思うのです。
しかし、2015年に生きている私たちは、そういった「日常への信頼」が、ことごとく破壊されるところを見てきました。1995年の地下鉄サリン事件、2001年のアメリカ同時多発テロ事件、それから2011年の東日本大震災、などなど。「ずっとこのままなんじゃないか」という恐怖と、その「このまま」が目の前で脆く崩れ去っていく恐怖。そのアンビバレントな恐怖を同時に抱え込んでいるのが現代に生きる我々であり、岡崎京子の「日常への強固な信頼」がベースになっている物語は、もう現代人を救済する物語としては機能しなくなっているのではないか、なんて私は考えてしまうのです。
※展示のラスト。『ヘルタースケルター』の1コマ
まとめ
それでもやっぱり岡崎京子の漫画には、パワーがあります。だけど、私たちはもう、「終わりなき日常」だと思っていたものが、終わるところを見てきてしまいました。だからこれはもう「古典」になってしまっているのではないか、「今の物語」としては読めないのではないかと、私は思い悩んでしまったのですがいかがでしょうか。
岡崎京子の描いた”ガールズ”はどこへ消えたのか?
それを「ノーコメント」のまま見過ごすことは、2015年に生きる我々にはもう、できないように思うのです。展覧会のコメントにもありましたが、岡崎京子とは”文化”ではなく”現象”であったーー日本がまだ日常と退屈を深く愛し信じていた頃の、美しく儚い記憶であり、記念碑はないかと思うのです。良くも悪くも。
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