北京のランダム・ウォーカー

「アメリカに対抗しながら周辺を制圧する」中国外交を体現したAIIB---伊藤忠の大決断は日本企業生き残りの道となるか

2015年03月30日(月) 近藤 大介
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オーストラリアのハインツ・フィッシャー大統領(左)と習近平主席(右) 〔PHOTO〕gettyimages

習近平主席の意向を忠実に実行する「親信」の一人・王毅外相

中国を中心とした新たなアジアの金融秩序の構築とも言えるアジアインフラ投資銀行(AIIB)に、日本が、そしてアジア太平洋全域が揺れている。中国が加盟申請の期限を、3月31日に設定しているからだ。日本は参加申請を見送ったが、3月25日にはオーストラリアが参加を表明。翌26日には韓国とトルコが、28日には台湾も参加を表明し、36ヵ国・地域になった。

習近平政権はいったい、21世紀のアジアをどのような形に変えようとしているのか。そのヒントとなるのが、全国人民代表大会(国会)会期中の3月8日に王毅外相が行った、年に一度の内外記者会見だった。

王毅外相は、習近平主席の「親信」(側近)の一人である。王毅外相とも親しい中国外交部のある外交官OBは、次のように解説する。

「習近平と王毅は、同じ1953年北京生まれで、青年時代に習近平は陝西省へ7年、王毅は黒竜江省へ8年、『知青』(辺境農村での労働)に行かされた。王毅は北京へ戻って、旅行ガイド養成学校の北京第二外大日本語科に入るが、卒業した時はすでに28歳で、最年長の卒業生だった。ところがハンサムボーイだった王毅に、周恩来総理の外事秘書だった銭嘉東の娘、銭韋が一目惚れし、卒業と同時に結婚。王毅は岳父の権力で外交部へ就職できた。

入省後は、文化大革命で10年分、先輩外交官がいなかったことからたちまち出世し、30代半ばで日本課長、42歳でアジア局長、47歳で副大臣となった。2003年から2007年までは日本大使を務めた。

2008年に、アメリカ大使を務めた楊潔虎と外相の座を争って敗れると、中国共産党中央台湾弁公室主任を希望して、外交部を去った。これは、次代の指導者・習近平が福建省に17年間も勤務したことを睨んで、習近平人脈を掴むためだった。実際、5年間にわたり福建省の習近平人脈はすべて掴み、習近平時代を迎えた2013年3月に、外相となった。

このように同い年の北京生まれ、青年時代に苦労した太子党(革命元老の子弟グループ)ということもあって、習近平総書記の意向を忠実に実行する『親信』(側近)だ。つまり、王毅外相が発する一言一言が、『習近平の言葉』と考えてよい」

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