スポーツのしおり
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【経済】<甦る経済秘史>幻の紙幣、原画あった 終戦直後の新円切り替え2015年3月30日 11時20分 第二次大戦の終戦直後に発生した急激なインフレを抑える「新円切り替え」を実施するため、日本銀行が発行した新紙幣を決める際の候補となった原画五十三点のうち十二点が、現在も残っていることが分かった。当時は民間企業も図案の作成に加わり、そのうちの一社、大日本印刷(東京)が五年前に社内で見つけ、本紙の取材に公開した。当時の原画は戦後の混乱で散逸し、現物が確認されるのは初めてだ。 十二点はいずれも採用されなかったが、現在の千円札の肖像である細菌学者、野口英世の肖像の十円券もあり、連合国軍総司令部(GHQ)の意向を背景に武人などを用いた戦前の図柄から大きな方針転換があったことがうかがえる。 機密性の高い紙幣のデザインや印刷は政府が行うのが通例で民間企業が関わったのは戦後ではこの時だけ。一九四五(昭和二十)年十一月、千円から一円までの六つの額面に対し、大蔵省(現財務省)印刷局と指名を受けた四つの印刷会社が図案の原画五十三点を提案した。残る四十一点の行方は不明で、印刷物などで図案が判明していたのも数点だった。 大日本印刷による原画は二〇一〇年ごろ、社内資料から見つかった。同社が日銀に提出した原画十三点のうち千円券、十円券など計十二点が台紙に貼り付けられて保管されていた。 最もサイズの大きい千円券は横十七センチ、縦七・五センチで現在の千円券より二センチ横幅が広い。最小の一円券は横一二・四センチ、縦六・八センチだった。図柄は野口英世のほか、薬師十二神将の一つ、伐折羅(ばざら)大将とみられる仏像(千円券)などが水彩で描かれている。同社は偽造を防ぐ彩紋の作成技術が高かったため、国の指名を受けたとみられる。 戦後のインフレは深刻な社会問題となった。政府は預金封鎖に踏み切り、国民の手持ち現金も強制的に預金させ、新しい札で少しずつしか引き出せないようにし、お金の流通量を減らし、インフレを抑え込もうとした。 GHQは図案に厳しい注文をつけ五十三点中、採用されたのは他社が作成した五円札の一点だけ。十円札などは大蔵省がGHQと密接に調整しながら作成した。千円券と五百円券はGHQが「高額紙幣はインフレを助長する」と反対、発行自体が立ち消えとなった。 ◆野口英世の肖像案驚き <元大蔵省印刷局業務部長で一般財団法人印刷朝陽会事務局長の植村峻(たかし)氏の話> 終戦直後に日銀が発行した当時の紙幣は「新円切り替え」のために構想され、GHQとの困難な折衝を経て発行された。終戦直後の混乱を反映しており、候補図柄が新たに十二点も判明した意義は大きい。今日の千円札にある野口英世が肖像に取り入れられていたことは驚きで、デザインの先見性がうかがえる。 ◆戦前の武人肖像消え 作成から七十年の歳月を経て見つかった日銀A券の原画十二点は、仏像や風景などを図柄とし、神話のモチーフや武人の肖像を用いた戦前の紙幣とは大きく異なる。日銀A券は半分以上を民間企業が刷ったとされる。戦争のツケである激しいインフレに対応するため、民間の力に頼らざるを得なかった当時の通貨行政の苦境を映し出す。 (小柳悠志) 大蔵省(現財務省)が、同省印刷局(現国立印刷局)と四つの民間印刷会社に新日銀券の図案作成要領を示したのは、終戦から三カ月後の一九四五(昭和二〇)年十一月。当時、物価は急騰しており新券発行を急ぐために提出期限はわずか二週間後に設定された。 図案作成を指示された会社は、その後の紙幣印刷も受託。大日本印刷の場合、秋田市の高等女学校の講堂も借用して極秘に十円券を刷った。大蔵省のいくつかの印刷工場は空襲で焼失。機密性の高い銀行券作成を民間に委ねるのは、終戦直後という特殊事情がなければ、あり得なかった。 ヤマトタケルノミコトや、大化の改新で功のあった藤原鎌足らを肖像に用いた戦前と異なり、大日本印刷提出の図案は伐折羅(ばざら)大将や、白いハトなどを題材にした。唯一の人物の肖像が、野口英世。「新時代に即応する斬新さ」との大蔵省の選考基準を踏まえつつ、連合国軍総司令部(GHQ)が軍国主義の象徴とみなした戦前の図案を避けたようだ。 元大蔵省印刷局工場長で紙幣の歴史に詳しい植村峻(たかし)さんは、今回明らかになった図案から三、四人の職人が関わったと分析。「二週間で十二枚を描くのは時間的に厳しい。新札計画の慌ただしさがうかがえる」と話す。 だが、大蔵省に寄せられた図案は、GHQから、戦後の日本にふさわしくないとして図案変更の指示を受け続け、他社が提出した弥勒菩薩(みろくぼさつ)の図案も「戦争に敗れた日本人の悲痛の感情を表している」として退けられた。大蔵省は時間的余裕がなかったため、百円札では戦前から通用していた聖徳太子像の入った札を転用。「聖徳太子は平和主義の象徴」と主張し、GHQを納得させたとされる。 民間企業も巻き込むドタバタの末に、日本政府は四六年二月十七日から旧円は強制的に銀行に預金させ、新円でしか引き出せないようにしたが、預金引き出し制限によって、国民の生活には大きな痛みが走った。物価高の根本原因であるモノ不足も長引き、インフレ抑制策としても効果は薄かったといわれる。 大日本印刷は、見つかった原画の一般公開は予定していない。 (東京新聞)
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