2人の息子をモスクワ大に留学させ、住居は高級マンション。吉田清治の不釣り合いな生活は何を物語るのか…“強制連行”で民潭と交わした覚書。取り仕切っていたのは、南鮮の謀略機関だ。 「変ですね。そんな部屋はありませんよ」 マンションの管理人は少し訝しげな表情で、そう言った。今も昔も、該当する部屋番号はないという。衝撃的な事実の判明。吉田清治こと吉田雄兎の自宅は、存在していなかったのだ。 東京都品川区上大崎2丁目「目黒西口マンション」2号館105号室 ▽吉田清治の旧自宅マンション 南鮮・天安市に「謝罪の碑」を建立した昭和58年(’83)当時、吉田雄兎は現JR目黒駅前のマンションに居住。謝罪パフォーマンスを大々的に報じた朝日新聞紙面には、ご丁寧に部屋番号まで掲載されていた。 しかし、管理人の説明によれば「105号室」は存在したことがない…このマンションの1階部分は、駅前の商業地という立地条件もあって、現在は主に店舗用になっている。 ▽裏手から眺めたマンション低層階 裏手に回って確かめると、そこには塀が密接し、殆どスペースがないことが判った。低層階はオフィス施設で、約30年前も構造は同じだろう。朝日記事に紹介された「105号室の吉田宅」は幻であった。 「『女子てい身隊』名目で前線に送られた慰安婦は5−7万人にのぼるといわれる。このうち約3分の1が敗戦までに死亡したと推測される」朝日新聞1983年12月24日 存在しない部屋番号を掲載した朝日の記事は同時に、そんなデマも垂れ流している。笑止千万。当時の朝日は、本社にほど近い吉田の住所を正確に記す取材力すらなかったのだ。 一方、当時の吉田の居住地までも捏造だったとは思えない。だからこそ、ミステリアスな印象を覚える…現地を訪れて判ったのだが、明らかに高級マンションの部類だ。 【印税数十万円の優雅な住まい】 「その頃住んでいた都内のマンションには頻繁に記者が訪ねてくるようになりました」(週刊新潮’14年9月18日号) ▽昭和58年当時の吉田雄兎(FNN) 吉田雄兎の長男は、そう回想する。2作目の小説『私の戦争犯罪』を出版した昭和58年当時の話だ。ちなみに、この長男は、養子に迎えた4歳下の朝鮮人・李貞郁とは別の人物である。 参照:H26年1月27日エントリ『吉田清治の息子は朝鮮人…在日成り済まし説を追う』 前年の昭和57年秋、朝日新聞が大阪市内で行われた講演を大々的に報じた際、吉田は文京区・千石4丁目に住んでいた。捏造紙による宣伝のスタートを契機に、生活は劇的に変わった模様だ。 文京区・千石と同じく、白金に接する目黒周辺も山の手エリアだ。駅前にそびえるマンションは現在、家賃が月額20万円レベルで、一般サラリーマンが気軽に住めるような物件ではない。 ▽吉田が暮らしていたマンション 今から30年以上前であっても、当時はバブル景気の入り口で、都心部の不動産価格は急激に高騰していた。このマンションが決して手頃な物件でなかったことは確実だ。 「父の証言が政治問題になっても、たいして本は売れず、父が手にした印税はせいぜい数十万円程度でした」(前掲誌) 2作目の小説は、金学順裁判を始め、慰安婦捏造で重大な役割を担ったが作者の実入りは微々たるものだった。その6年前に出版した小説デビュー作もセールス的には大失敗していた。 ▽昭和52年出版の小説デビュー作 「講演料は最高でも5万円、大抵は数千円でした」(前掲誌) 小説の出版後、吉田雄兎の元には講演依頼が舞い込むようになったが、それで急に羽振りが良くなかったわけではないようだ。実際、長男によれば生活は苦しく、自分が支えるしかなかったという。 盛大に矛盾している。吉田雄兎自身の収入が少なく、長男が結婚すら出来ない程、生活は優雅とは程遠いものだった…それなのに何故、都心一等地の高級マンションに住居を構えていたのか? ▽笑顔で“加害”語る吉田(JNN) 息子宅に同居していただけとも解釈できるが、当時の吉田に「スポンサー」がいたと考えられる。理由は体裁である。南鮮・捏造碑の設置にあたり、メディアや反日組織が吉田行脚を始めることが予想された… そこでは、吉田がそこそこリッチな暮らしをしている必要があったのだ。生活が困窮していれば、一部の者はカネの為に嘘を吐いていると疑ったろう。訪ねた先が高級マンションであれば、疑いは掻き消える。 ▽目黒駅前マンションのエントランス この偽装ライフもまた慰安婦捏造を支えた舞台装置のひとつだったのではないか…ちなみに3年後、昭和61年7月の朝日新聞記事によると、吉田は千葉県北部の我孫子市に転居している。 そして、実態と矛盾する吉田の生活ぶりは、高級マンション暮らしのミステリーが初めてのケースではない。 【家賃滞納の苦境で連続ソ連留学】 「高校生活を終えた後、私は自らの希望もあって、ソ連のモスクワ大学に留学しました」(前掲誌) 吉田雄兎の長男は、衝撃的な履歴を明かす。ゴルバチョフら有力な政治家を輩出したソ連の名門・モスクワ大に留学した経験があるという。年齢から推定すると昭和42年頃である。 半世紀近く前のことだ。庶民の子女が旅行気分で留学するような現在とは時代背景が違う。外貨の持ち出し制限などもあり、海外留学のハードルは高く、多くの困難が伴うものだった。 ▽1963年当時のモスクワ大学 長男がモスクワ大に留学した当時、吉田雄兎は北九州市・門司にあった「小野田セメント」の子会社で住み込みの管理人をしていた。その前は、家賃が払えず、下関市内を転々とする有様だったという。 家賃の支払いに四苦八苦する生活と子供の留学…これも矛盾が甚だしい。しかも、長男に続いて次男もモスクワ大への留学を果たしたという。住み込み暮らしと子供2人のソ連留学は余りにも不釣り合いだ。 ▽小野田セメント門司工場(file) 滞在ビザの発給はもとより、入国すら限定的だった旧ソ連。西側諸国への留学とは大きく異なり、たとえ学力や財力があったとしても特別な人脈がなければ不可能だった。 この時、吉田雄兎はどのような人脈を誇っていたのか? 秦郁彦氏の履歴調査によると、吉田は昭和45年頃、門司の「日ソ協会」で役員を務めていたという。 「日ソ協会」は、昭和32年に設立された文化交流・親善組織で、留学生の派遣事業も行っていた。このルートを使って息子はモスクワに渡ったと見られる。 ▽ソ連共産党の日本語機関誌 しかし、役員といっても地方支部の幹部に過ぎない。クレムリンと共謀関係にあった代々木や社会党幹部でさえ、子供2人をモスクワに送り込むケースはなかっただろう。 長男・次男の連続留学が説明通りであれば、当時の吉田雄兎は、ソ連共産党から格別の待遇を受けていた人物と見なすことが出来る。だが、それも一時的なものに過ぎなかったようだ。 【モスクワ追放の転落劇】 「労組が『こっちには、息子をモスクワ大学に留学させたバリバリの共産主義者がいるんだぞ!』と経営者側を突き上げ、そのせいで両親はクビになってしまった」(前掲誌) 留学から2年、失職した両親の面倒を見る為に長男はモスクワから日本に舞い戻ったという。名門大を退学してまで帰国する必要があったのか…当時、父・雄兎は50代半ばで働くことは可能だったはずだ。 息子が退学した本当の理由は、両親の失職などではない。吉田雄兎の立場に大きな変化が起きたのだ。ソ連共産党サイドが吉田を切り捨て、その為に息子2人がモスクワから追放されたと推測する。 ▽吉田清治こと吉田雄兎(読売) 「日ソ協会」はソ連崩壊後も「日本ユーラシア協会」と名称を変えて現存するが、協会の沿革には暗部が存在する。中ソ対立の煽りを受け、昭和40年に「日ソ協会」は分裂。ソ連派は新組織に流れた。 いつから吉田が「日ソ協会」と関わっていたか詳細不明だが、息子をモスクワに送った当時は、明らかにソ連派だ。それが息子の留学中、中共シンパと見なされる言動・行動が発覚したのではないか… 2人の息子がモスクワ大を追われた後の昭和45年頃、吉田は門司の「日ソ協会」役員を務めていた。一見、矛盾があるが、当時の協会は、名称とは裏腹に親ソ連派がいないという倒錯した状態だったのだ。 ▽TV出演でも実名は伏せられた(JNN) クレムリンの覚えめでたい吉田雄兎であったが、中ソ対立を経て、関係は完全に断絶したと見られる。だが、長男が解説している通り、吉田がバリバリの共産主義者であることに変わりはなかった。 これまでの調べによると吉田雄兎は、昭和22年4月に行われた下関市議選に代々木(日本共産党)から立候補し、得票129票で落選。その後も党員だった見られるが、代々木側は党籍をひた隠しにしている。 吉田が代々木やモスクワとどのような関係にあったのか…それは一連の小説出版や捏造話の講談・パフォーマンスに関わってくる重大な問題だ。 【“強制連行”で民潭と覚書】 ソウルに近い南鮮・天安市に吉田雄兎が設置した“謝罪の碑”がある。昨年夏の朝日新聞による吉田清治の社葬後も、この捏造碑は文面そのままに残っている模様だ。撤去されたという報道はない。 ▽吉田が自費で建てたとされる捏造碑 吉田がこの場所を訪れ、派手な謝罪ショーを演じたのは、冒頭の記事で紹介した通り、1983年(昭和58年)の暮れことだった。碑文に記した名前は「清治」で、いきなり嘘がある。 売れない小説を2作発表しただけの人物が、南鮮に碑を建てたことに誰しも違和感を覚えるだろう。もちろん現地に案内し、発案・準備に関係した大きな組織があった。それが民潭だ。 「現在東京の品川区に居住しておられます吉田清治という方(略)在日本大韓民国婦人会中央本部とも覚書を交わされてまして、送還事業の協力を求めて、現在真剣に取り組んでおられる」 昭和60年3月8日に開かれた衆院予算委でのやり取りだ。この婦人会は昭和20年代に創設された民潭の下部組織。捏造碑の建立にあたって、吉田雄兎は「覚書」を交わし、支援を受けていたのである。 参照:第102回国会衆議院予算委員会第1分科会議録(PDF)(26頁に当該の質疑) ▽民潭直系の婦人会(file) 「覚書」の内容は分からない。当時、吉田は「強制連行犠牲者遺骨祭祀送還協会」という実体不明の組織で会長の職にあった。民潭が“強制連行”を捏造する為にデッチ上げた協会に違いない。 「民団と朝鮮総連の両方から依頼が来るのは俺だけだ」(前掲誌) 吉田は長男に対し、そう豪語していたという。総連も民潭も“強制連行”の捏造で対立することはなかった。双方に都合が良かったのだ。しかし南鮮入国は、民潭の判断だけでは実現しない。 吉田の背後には、もっと大きな組織が蠢いていたのだ。 【南鮮に招かれた共産主義者】 南鮮国内では70年代まで反共法が社会全体を覆っていた。朴正煕が作ったこの法律は、共産主義を賛美する者を徹底的取り締まるもので、朝日新聞など極左陣営は「天下の悪法」と批判していた。 反共法は80年末に廃止されるが、国家保安法に吸収されただけで生きていた。吉田雄兎が捏造碑を建てた83年当時は、今と違って厳しく適用され、代々木幹部や活動家が南鮮入国することはあり得なかった。 ▽全権を握った全斗煥陸軍少将 特に吉田は共産党候補として選挙に出た経験もあり、ソ連とも特別な関係にあった。加えて、小説出版後には総連に招かれて講演も行っている。こうした経歴を見逃すほど南鮮の情報当局は甘くない。 しかも83年12月の吉田の南鮮訪問は、個人的な小旅行ではなかった。日本のメディアを引き連れ、国立公園内で催す政治パフォーマンスだ。その身元に関して、より慎重な調査が行われたはずである。 ▽捏造紙の南鮮謝罪ショー告知記事 南鮮の諜報機関・安企部(旧KCIA)が「うっかり」していたのか…違う。安企部は吉田の履歴を知ったうえで、民潭を表のパイプ役にし、南鮮・天安市に案内したのだ。 安企部によるコントロールを解く鍵は、今も撤去されずに残る恥ずかしい捏造碑に刻まれている。プロパガンダ用語である“強制連行”の四文字。この“強制連行”のデマ宣伝を操ったのが安企部であった。 ▽国立墓地の「望郷の丘」慰霊碑群 謝罪ショーで不自然なのは、慰安婦を完全に無視していることだ。同じ年の7月に吉田は“慰安婦狩り”をメーンにした小説2作目を出版。朝日新聞の支援を受け、捏造慰安婦をテーマにした講談で稼いでいた。 ところが、南鮮公演で吉田が土下座した相手は、樺太で死亡した出稼ぎ工の遺族を自称する者たちだった。安企部は当時、男性の労務者を反日謀略の中心に据え、慰安婦は付け足し程度に過ぎなかった。 ▽“遺族”に土下座する吉田(朝日) “強制連行”という捏造史は、総連の朴慶植が拡散したものだが、民潭も追従する。不法入国の履歴を消し去るのに都合が良かった。そこで南鮮政府は、済州島虐殺などの黒歴史を隠す為に積極的に後押しした。 吉田雄兎は捏造慰安婦だけではなく、朝鮮男の“強制連行”でも「実行責任者」を詐称した人物である。そのことで南北の在日組織から「唯一の加害者」と祭り上げられた。 1960年代、吉田はクレムリンと緊密な関係を保ち、やがて切り捨てられた。そして80年代には南北朝鮮から重宝される“告発者”となった。いずれも極秘エージェントなどではなく、表の存在だ。 「職業的詐話師」 吉田清治こと吉田雄兎は、そう命名された。しかし、虚言癖のある男がホラ話を吹聴し、大新聞がまんまと騙されたといったレベルの問題ではない。 出稼ぎ工の史実を嘘で塗り替えた“強制連行”のデマ宣伝。その女性版として再構成され、奇怪な進化を遂げて今に至るのが、捏造慰安婦なのだ。 〆 最後まで読んで頂き有り難うございます クリック1つが敵に浴びせる銃弾1発となります ↓ ************** 【side story】 長らくの休止、申し訳ありませんでした。暫くの間、国外にいました。本エントリーは、昨年10月にアップする予定だったものです。捏造慰安婦関連ではお休み期間中の“宿題”がかなり残っているような…なお、この記事も「朝日新聞編」につづく模様。 毎度のこととは言え、エンジンかかるのが遅いと思いますが、よろしくお願いします。 |
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「わが軍」と「俺の女」
予算委員会の質疑で安倍首相が発した「わが軍」の一言に、野党議員が発狂する。軍隊とはけしからん、自衛隊ではないかと、批判の声を上げる。 このニュースはたぶん海外で報道されないだろう。幼稚な揚げ足取りに過ぎず、報道価値がない上、野党の主張が理解不能だからだ… ...続きを見る |
愛国画報 from LA 2015/03/25 11:21 |
「恨めしくて死ぬに死ねない、日本が謝罪してこそ恨みを晴らせる」…慰安婦被害者キム・ポンドク
韓国の自称強制連行従軍慰安婦キム・ポンドクが、支援者に語ったそうです。「日本が謝罪するならば、歌を歌って踊りもします。 私たちは恨めしくて死ぬに死ねない。日本が謝罪をしてこそ死んで目を瞑ることができる。私の恨みを晴らせるのはそれが一番じゃないですか」。 旧帝国日本軍に拉致連行されて慰安婦にされたと嘘を吐き続け、勝手に恨み辛みを極限まで募らせて日本に謝罪させたら死ねるとは、一体どんな世界観(この場合死生観?)なのだろうと、その人としての「価値観」の違いに驚きます。嘘を吐いたら死後、地獄に落ち... ...続きを見る |
きらやまと・さらいにこ 2015/03/26 00:40 |
「いずも」就役、海自史上最大の“空母型”護衛艦 中国など周辺諸国を刺激する可能性 TBS
護衛艦「いずも」が、遂に配備されました。「いずも」が登場したのは、無能キチガイルーピー鳩山政権が発足した直後の事でした。山岡賢次民主党国対委員長(当時)が、「外国人参政権」を国会に提出しようと動き始め、レン・ホーが「事業仕分け」で、スパコン京、はやぶさ2、次期固体燃料ロケット予算など、将来に向けた科学技術予算を悉く切り捲っていた最中、「ひゅうが」と並走する22DDHのCGと言う形で、一般日本国民の前に現れました。どれだけ勇気付けられたか判りません。私を含む多くの日本国民は、もう日本は、「在... ...続きを見る |
きらやまと・さらいにこ 2015/03/26 00:40 |
韓国兵務庁、国民一人ひとりのためのオーダーメイド型パンフレット「息子を軍隊にどのように送り出すか」を...
反日ハンター・神功正毅です。韓国兵務庁が国民一人ひとりのためのオーダーメイド型パンフレット「息子を軍隊にどのように送り出すか」を発刊したそうです。YAHOO!ニュース/兵務総合 ... ...続きを見る |
反日ハンター 2015/03/28 14:43 |
「東方」敗れたり!マツタケ不正輸入容疑で朝鮮総連議長宅がガサ入れされる
反日ハンター・神功正毅です。デモや街宣の警備が緩慢で京大熊野寮へのガサ入れも警視庁や大阪府警に頼りっきりの京都府警が久々に仕事をしました。京都府警がマツタケ不正輸入容 ... ...続きを見る |
反日ハンター 2015/03/28 19:13 |
内 容 | ニックネーム/日時 |
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今か今かと待ち構えておりましたので、一番投稿は気分がよろしいもので。 |
お帰りなさいませ 2015/03/24 18:30 |
『日本・ロシア協会 - Wikipedia』 |
名無し 2015/03/24 18:31 |
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yohkan 2015/03/25 11:23 |
このたびも素晴らしく中身の濃いレポートをありがとうございます。 |
em 2015/03/25 15:59 |
こんな事があろうかと、RSSリーダーに登録したままにさせて貰っていました(笑) |
空我 2015/03/25 18:55 |
もう無断休筆4回目ぐらいになるので、古い読者の皆様におかれては「またか!」といった印象かと。 |
アネモネ 2015/03/25 21:00 |
アネモネさんお帰りなさい。TB頂かなければ、「東アジア黙示録」復活を知らず仕舞いになる所でした。又もや、半年コースですねw。 |
生良大和 2015/03/26 00:50 |
アネモネさん お帰りなさい。 |
風来坊 2015/03/26 07:48 |
李小牧が新宿区議選に出馬へ・山口組と関係・民主党の帰化した元支那人「歌舞伎町の毛沢東になる」 |
ミンス党 2015/03/27 02:24 |
フジテレビの朝鮮人監督は、tsunami luckyと書かれた名刺を、よく見ないとわからないように、ドラマ画面に写して喜んでいた。 |
反キムチ 2015/03/28 20:44 |
いよいよ朝日新聞を糺す国民会議が「朝日新聞を糺す百万人署名」をスタートさせました。 |
恨日 朝日新聞 2015/03/28 20:47 |
何か事故にでも巻き込まれたのかと心配してました。とにかくよかった。。。 |
ヒロ 2015/03/30 01:42 |
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