慶良間:1945年3月26日米軍上陸 集団自決慰霊祭
毎日新聞 2015年03月26日 23時29分(最終更新 03月27日 00時39分)
太平洋戦争末期の沖縄戦で集団自決が起きた沖縄県・慶良間(けらま)諸島の座間味(ざまみ)島で26日、座間味村主催の慰霊祭があった。惨劇の記憶は、70年たった今もあせることはない。「戦争だけは絶対にいけない」。参列した遺族ら約100人は不戦の誓いを新たにした。
米軍は1945年3月26日、座間味島に上陸した。当時6歳だった上里和子さん(76)=那覇市=は島東部の浜辺にある防空壕(ごう)に家族5人で逃げ込んでいた。そこに別行動をしていた教師の父親が手りゅう弾を持ってきた。
両親は上里さんに晴れ着を着せようとしたが「着れば殺される」と抵抗した。両親が家族を輪にしようとするのを「死にたくない」と叫んで逃げ出した。何度も同じようなことがあったが、そのたびに逃げ出したという。
上里さんは防空壕を転々としている途中、くわをかざして子どもを追いかける女性や、両足をつかんで子どもを岩にたたきつける男性を見た。
27日に米軍が上陸した渡嘉敷(とかしき)島では、住民は28日に島北部の北山(にしやま)に追い詰められた。当時7歳だった新崎直恒(なおつね)さん(76)=那覇市=も家族4人で避難していた。
「バーン」。突然、斜面の上で爆発音がし、叫び声が響いた。続いて至る所で爆発し、パニック状態に。「死に装束」として晴れ着を着させられていた新崎さんの目の前でも村職員が手りゅう弾を使おうとした。「普段から教えられていたようにみんなで一緒に逝くという感覚だった」
しかし、手りゅう弾は何度たたいても爆発しなかった。血の海となった周囲には多くの遺体が横たわり、手や足を吹き飛ばされた人がうめき声を上げていた。おのや棒で身内を手にかける人もいた。
米軍が迫る気配に、無事だった新崎さん一家は逃げたが、山一つ越えた場所で寝ていた29日未明、砲弾がさく裂。31歳だった母親と生後8カ月の妹は即死し、3歳の妹も13日後に亡くなった。穴の中に隠れていた新崎さんは無傷だった。「極限状態で、悲しいという感覚はあまりなかった」という。
上里さんと新崎さんは戦後、ともに教師として子どもたちに平和の大切さを訴えてきた。そんな2人も、あまりにもむごい光景を目の当たりにし「戦争のことは思い出したくないし、話したくない」と口をそろえる。