旧いつも一緒・Legacy of Ashes・OUT OF EDEN・ハムレットの水車小屋・ゲームの達人
2015/3/27
働く者の眠りは快い/満腹していても,飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。(コヘレトの言葉:第5章12節)
青春の日々にこそ,お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。(コヘレトの言葉第12章1節)
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ロトは詐欺商法?
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/837.html
これが賤民資本主義の罠なのです。
宝くじ人脈
http://timetide.way-nifty.com/jprofile/2014/12/post-497d.html
宝くじの闇
http://timetide.way-nifty.com/jprofile/2015/03/post-1a2f.html
宝くじの利権
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ロト抽選機の特許=NHK
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中国の宝くじ抽選不正疑惑
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日本ハーデスって何〜〜に?
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ロトの番号は筒抜け
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/1811
1. 貧困大国・日本
政府がどんなに否定し、事実から人々の目を背けさせようとも、私たちは格差拡大を、容易に目でみて、耳で聞き、肌で感じることができるようになっている。そのことを最も明確に示すもののひとつは、貧困層の増加だろう。
貧困層の増加は、何年も前から研究者など一部では注目されていたが、この事実を広く知らせることになった最大の功績者は、なんといってもOECDである。
2005年に公表された「1990年代後半におけるOECD諸国の所得分配と貧困」と題されたレポートは、可能な限り各国の最新のデータ(国によって多少の違いがあるが、ほぼ2000年前後のもので、日本は2000年)を用い、これを相互に比較できる形に変形して、所得格差と貧困率の比較を行った。その結果は、多くの日本人にとってショッキングなものだった。
まず所得格差について見てみよう。図表3・1は、OECD諸国の経済格差を、ジニ係数という指標で比較したものである。
ジニ係数は、国際比較や時系列比較によく使われる格差の指標で、最大値が1で、最小値は0。つまり、その国の富を一人の独裁者がすべて独占しているというような、最大限に格差の大きい社会の場合に1、逆に全員の所得が等しいという、まったく格差のない社会の場合に○の値をとる。もちろん、現実にはジニ係数が1や0になることはなく、ほとんどの社会では0.2から0.6の間に収まる。
ただしジニ係数は、どのようなデータを使うかによって値が変わってしまう。第二章で触れたように、再分配前所得(当初所得)と再分配後所得のどちらに注目するかが重要だが、それだけではない。世帯所得に注目するのか、それとも個人所得に注目するのか。世帯所得に注目する場合、世帯による人数の違いを考慮するかしないか。ジニ係数はそれぞれ違ってくるので、注意が必要である。
OECDがここで用いているのは、当初の世帯所得から税金などを引き、年金や社会保障給付を加えた再分配後所得を、家族の数によって調整したものである(調整の仕方については後述)。こうするとジニ係数が全体に小さめに出ることになるが、国際比較には適した方法だといえる。
日本のジニ係数は0.314で、OECD平均の0.306より大きく、★27ケ国中10番目である。しかし、日本よりジニ係数が大きい9ケ国には、トルコやメキシコ、ポーランド、ポルトガルなど、先進国とはいいがたい国が多い。ジニ係数が日本より小さい国に目を向けると、ドイツ、フランスをはじめとする大陸ヨーロッパの代表的な国々の多くと、北欧諸国のすべてが並んでいる。★日本は先進国の中では、かなり経済格差の大きい部類だということができる。
次に、貧困率をみてみよう。貧困率にはいくつかの計算方法があり、一義的には決まらない。それは「貧困」をどのように定義するか、たとえば所得がどこから下の場合を「貧困」と呼ぶのかという問題があるからである。
この境界線のことを★「貧困線」というが、これを人々の生活実態に即して正確に算出しようとすると、最低限度の生活に必要な消費財の量とそれぞれの価格を計算し、人々の可処分所得と比較するという、かなり面倒な作業が必要になる。コメは日本では必需品だが欧米ではそうではないというように、必要不可欠な消費財の中身は国によって違うし、物価水準もさまざまだから、これでは国際比較はほとんど不可能に等しい。
このため国際比較研究では、次のような簡便な方法が用いられる。
まずジニ係数と同様に、再分配後所得を家族の人数で調整する。調整するといっても、家族の数そのもので割るわけではない。家族の数が二倍になっても、必要不可欠な生活費は二倍にはならないからである。
そこでよく便われるのは、家族数の平方根で割るという方法である。この場合、たとえば年収300万円で一人暮らしの人と、年収600万円で四人暮らしの人は、600÷√4=300だから、同じということになる。これは、けっこう実感に合うといってい
いだろう。このように世帯所得を家族数の平方根で割ったものを、「等価所得」という。
次に、等価所得の中央値を計算する。
中央値とは、所得の多い人から少ない人までを並べたとき、ちょうど真ん中に位置する人の所得のことである。平均値ではなく中央値を使うのは、第二章でも述べたように、所得や資産の場合には平均値がごく一部の高額所得者や大資産家に引っ張られて、上の方に偏るからだ。
そして、中央値の半分以下の所得しかない人々を「貧困層」と定義する。「中央値の半分」というこの基準は、あくまでも便宜的なものにすぎない。しかし実際に計算してみると、生活保護基準を使った場合とほぼ一致していて、けっこう現実的である。
たとえば京都大学教授の橘木俊詔は、東京の生活保護基準を用いた場合、日本の貧困率は15.8%になるとしているが、これはOECDの15.3という数字とほとんど一致している(橘木俊詔『格差社会』)。ちなみにOECDの報告書では、等価所得が138万円未満の場合を「貧困」としている。つまり、一人暮らしならば138万円、四人家族なら276万円以下しか所得がない場合が「貧困」ということになる。
図表3・2は、こうして算出された貧困率を国際比較したものである。日本の貧困率は15.3%で、OECD平均の10.2%を大きく上回り、27ケ国中の5番目。しかも日本より高いのは、米国を除けば先進国とはいえないメキシコ、トルコと、人口わずか400万人のアイルランド。
新聞などでは、日本の貧困率が先進国では米国に次いで第二位だ、というふうに書かれることが多かったが、これはこの三ケ国を考慮に入れていないからである。つまり「主要先進国」の中では第二位ということだ。経済格差は「大きい部類」だが、貧困率は「世界第二位」。ここに、日本の貧困の深刻さが現れている。ちなみに15.3%ということは、単純に人口をかけると約1950万人。オーストラリアやスリランカの人口とほぼ同じである。
しかも日本の貧困率は、急速に上昇している。OECDの報告書によると、日本の貧困率は1980年代半ばでは11.9%、1990年代半ばでは13.7%だった。これとは別の方法によって、貧困率の変化をみたのが、図表3・3である。用いたデータは「就業構造基本調査」の個票データで、調査対象は15歳以上である。
2002年の貧困層は、約1634万人。15歳以上人口に占める比率でいうと、15.4%である。1992年が1206万人(11.9%)だから、10年間で428万人も増えたということになる。性別に見ると、貧困層は男性より女性の方がはるかに多く、女性は貧困層の6割近くを占めている。10年間の増加数をみても、女性の方が多い。
★女性を中心に、膨大な貧困層が蓄積されつつあるということがわかる。
最近、「ワーキングプア」という言葉がよく聞かれるようになった。「働いているのに貧乏な人」という意味である。ワーキングプアが注目されるひとつの背景には、「働いていない人は貧困でも当たり前だが、働いている人が貧困なのはよくない」という認識があるように思われる。
このような見方は、働きたくても働けないお年寄りや失業者の窮状を無視することにつながりかねないという点で問題だ。しかし、現役で働いている人々の内部の格差拡大を雄弁に物語る事実としては、ワーキングプアの問題はたしかに重要である。その規模は、いくつかの統計からもうかがい知ることができる。
たとえば★人事院の「民間給与実態調査」によると、年収200万円以下の給与所得者は981万人(2005年)で、とくに小泉政権の時期にあたる最近5年間の増加は157万人と著しく、しかもそのうち★年収100万円以下の増加が59万人をも占めるのが注目される。
ただし、このなかには夫が正社員として勤めているパート主婦や、中高所得の親と同居するフリーターなども含まれる。そのすべてが生活困難な貧困層だとはいえないから、実態を正確に把握するためには、世帯全体の収入を考慮し、等価所得にもとづいて計算する必要がある。
図表3・3の下半分は、先に示した貧困層全体の中の、有職者のみを集計したものである。★これがほぼ、ワーキングプアとみてよい。その数は2002年で534万人。10年間で75万人の増加である。男女別では女性の方がやや多く、増加幅も大きい。しかも、その後になって「小泉改革」が本格化したことを考えると、現在ではこれと比べても大幅に増加しているとみた方がよい。もちろんこのほかに、これらワーキングプアと同居している子どもたちや無職のお年寄りがいるわけである。
計算方法をいろいろ変えてみても、日本の貧困率はだいたい15%台になることが多い。したがって、この数字には十分根拠があるといっていい。★日本は米国に次ぐ、世界に冠たる貧困大国なのである。
2. 「普通の暮らし」を営めない人々
前章で、経団連副会長・柴田昌治の「飢えて死ぬような人がたくさん出るのはいけないが、そこまでひどい格差ではない」という暴言を紹介したが、同じような感覚をもつ人々は少なくない。その日の食べ物にも不自由した昔の貧困に比べれば大したことはない、というのである。
あるいは、格差が拡大したとか貧困が増えたといっても、それは物質的な問題で、精神的に豊かならいい、という声も聞く。
格差社会をテーマとしたNHKの討論番組に出演したホリエモンこと堀江貴文は、格差拡大をどう考えるかという質問に「問題はない」と答えた上で、「格差といわれているのはお金の問題だが、生活の豊かさは収入とは比例しない。自分は年収200万だったこともあるが、生活の充実という点ではいまと変わらない」などと話していた(「日本のこれから・格差社会」2005年4月2日)。
東大卒が売り物のタレント・菊川怜などは、「『格差社会』をどう生きる?」というテーマのインタビューに答え、国連難民高等弁務官事務所のスペシャルサポーターとして訪れたケニアの難民キャンプで、子どもたちが政治家になりたい、医者になりたい、サッカー選手になりたいなどと将来の夢を語るのを見て、「難民の子たちと接することで、経済的に豊かだから、生活が自由だから幸せというわけではないんだということがわかりました」などと語っている(「週刊ダイヤモンド」二〇〇六年九月二日号)。あまりにも幼稚なコメントだが、発想はホリエモンと同じだ。
もちろん発展途上国の場合であれば、貧困層全体を減らすことより、食うにも困るような極貧層の救済の方が優先される場合はあろう。また日本でも、餓死の危険にさらされている人々はかなりの数に上ると思われるものの、それは15%前後にも上る貧困層の一部にすぎまい。そして、経済的に豊かだというだけで人が幸福になるものでないというのは、一般論としてはわざわざいうまでもなく、当たり前のことである。
問題は、貧困がさまざまな意味で生活のチャンスを奪うということである。第二章で触れた英国の実業家、ラウントリーに代表される初期の貧困研究は、★生存のための必要カロリー数をもとに貧困を定義していた。当然、この場合には貧困線は非常に低いものとなり、貧困層の範囲はかなり限定される。
これに対して、現代の貧困研究を代表する英国の社会政策学者・ピーター・タウンゼントは、★標準的な生活様式、つまりその社会で一般的な慣習になっている生活の仕方を送ることができるかどうかを基準として、貧困を定義した。彼はこの立場から、人々の生活状態について詳細な調査を行っているが、その設問の中には「子どもを医院に連れて行ったことがあるか」「保険に入っているか」「親戚や友人を家に招いたことがあるか」「ふだん肉を食べるか」「晴れた日と雨の日それぞれに使う靴をもっているか」などという項目が入っている。
いずれも餓死するかしないかに関わるようなものではないが、こうした行動をするのが普通の生活様式というものなのであり、ここから脱落している状態を「貧困」とみなすのである。
国によって生活様式は違うから、日本で調査する場合には日本の生活様式を前提とした調査が必要になる。実際、いろいろな工夫をした調査が行われている。これらの調査では、収入額や耐久消費財の所有状況などのほかに、「冠婚葬祭への出席とご祝儀」「晴れ着や礼服の有無」「正月の習慣」など、いかにも日本的な習慣も項目に含まれている場合がある。晴れ着や礼服がなければ、冠婚葬祭や正月の集まりにも出席しにくいから、普通の人付き合いをすることが困難になっていく。これが、貧困というものなのである。
そして多くの研究では、生活保護基準の前後のある線で、耐久消費財の所有率や、普通の生活習慣をとることのできる人の比率が大きく下がるということが明らかにされている。これが、貧困と他の人々を分かつ「貧困線」である。
最近のニュースを見ていると、この貧困線を割り込む人々が増加していることをうかがわせるものが少なくない。
貯蓄のない世帯は、1987年にはわずか3.3%だったが、2005年には23.8%と調査開始以来最高になり、2006年も22.9%と高止まりしている(金融広報中央委員会「家計の金融資産に開する世論調査」)。生命保険への加入率は、1994年の95.0%から低下を続け、2006年には87.5%となった。しかも解約理由や加入しない理由では、経済的理由の割合が多くなっている(生命保険文化センター「生命保険に関する全国実態調査」)。
乗用車の普及率は1993年に80%台に乗り、2003年には86.4%と史上最高を記録したが、その後は伸び悩み、2007年には83.9%まで低下している(内閣府
「消費動向調査」)。
日本経済新聞社が首都圏に住む20代の若者を対象に行った調査によると、乗用車の所有率は2000年の23.6%から13.0%へと10ポイント以上も低下し、また「乗用車が欲しい」人の割合も48.2%から25.2%に激減しているという(「日本経済新聞」2007年8月22日)。
貯蓄や保険は、生存するために必須というわけではないが、安定した生活を送るためには不可欠のものだろう。乗用車も、大都市の中心部ならともかくとして、いまやほとんど生活必需品である。「普通の暮らし」に必要な財や備えをもたない人々が増えているのである。
3、若者の中に形成されつつある巨大な貧困層
若者の内部の格差が急速に拡大している。この格差拡大とともに、若者の中に巨大な貧困層が形成されつつある。その中心は、もちろんフリーターたちである。
フリーターという言葉が生まれたのは1987年で、生みの親はリクルート社のアルバイト情報誌「フロム・エー」の編集長だった道下裕史である。道下によると、この言葉には「人生を真剣に考えているからこそ就職しない」「夢の実現のために自由な時間を確保しようと、定職に就かずに頑張っている人」という意味が込められていて、「フロム・エー」の大事な読者層でもある彼らを応援したかったのだという(道下裕史「フリーター生みの親が語る」「Works」65号)。
リクルートは、東宝東和に協力して『フリーター』(横山博人監督:1987年)という映画まで制作している。金山一彦、鷲尾いさ子、羽賀研二などが出演。映画のPRのキャッチフレーズは「近頃、社会を自由型で泳ぐ奴らがいる」「バイトも完全就職も超えたいま一番新しい究極の仕事人・フリーター」というもので、若者たちがフリーターとしていろいろな経験を積んだ後、新しい発想でビジネスを始めるというストーリーだった。
現在のフリーターとはイメージが違うが、厚生労働省の推計によれば、当時のフリーター人口はわずか79万人。バブル経済が本格化するころで、希望すれば正社員として採用されるのはさほど難しくなかったはずだから、あえてフリーターを選んだ若者たちも多かったのだろう。
しかしフリーターの実態はその後、急速に変わっていく。道下も認めているが、それは「企業に正社員として就職できなかったため、バイトや派遣といった雇用形態を余儀なくされている人」へと変質していくのである。実のところ、ある時期までは「フリーターは束縛されたくない若者たちが好きでやっている」というイメージが強く、フリーターの増加がなかなか社会問題として認知されなかった。
このイメージを大きく修正させたのは、2003年の『国民生活白書』(内閣府)である。『国民生活白書』は2005年にもフリーター問題を取り上げているが、これらによると、現在フリーターである若者のうち、72.2%までがもともと正社員希望であり、パート・アルバイトを希望していたのはわずか14.9%にすぎない。とくに男性では、パート・アルバイト希望は8.0%で、ほとんど例外に近い(女性では19.9%)。フリーターは若者たちにとって積極的に選んでとる道ではなく、あくまでも不本意な選択なのである。
非正規労働者として働くフリーターたちの賃金は、きわめて低い。勤続年数が長くなれば多少は賃金が上昇する可能性もあるが、それも30歳代には頭打ちとなり、生涯賃金は男性が約6500万円、女性が約5000万円で、正社員の27%程度にすぎない(UFJ総合研究所「増加する中高年フリーター」)。雇用も不安定で、失業するリスクも大きい。現実に第一章で見たように、その一部はホームレス化しつつある。
さらに見逃せないのは、フリーターは出身階層の上でも下層的性格が強いということである。教育社会学者の耳塚寛明らか二I校の都立高校を対象に調査したところによれば、高校卒業後にフリーターとなった生徒の比率を家庭の類型別に見ると、ホワイトカラー世帯出身者では14.4%であるのに対し、ブルーカラー世帯出身者では31.3%。しかも両者の差は、年とともに大きくなり、格差が拡大傾向にあるという(耳塚寛明「誰がフリーターになるのかー社会階層的背景の検討」、小杉礼子編『自由の代償―フリーター』所収)。
なぜ、こうなるのか。最大の原因は、低所得世帯の子どもたちには、大学進学という逃げ道がないことである。就職難の中、多くの高校生は「やりたい仕事の求人がなかった」「就職試験に受からなかった」という理由で就職から進学へと進路を変更している。こうした現状を追認するかのように、高校の教員たちも、就職が決まらない生徒に進学を勧める傾向があるという(安田雪『働きたいのに・・・高校生就職難の社会構造』)。
ところが低所得世帯の子どもたちには、このような逃げ道がない。少子化によって大学定員には余裕が出てきているから、学力の壁はだいぶ低くなっている。一部の受験産業では「Fランク」などという言葉も使われているが、試験を受けさえすれば合格可能な大学も出てきている。
しかし、入学して教育を受けるためには学費を払わなければならない。自宅の近くに適当な大学があるとは限らないから、住居費や生活費の負担も大きい。だから大学に進学できるかどうかは、生まれた家庭の豊かさによって大きく左右される。実際、大学進学率を父親の職業別に見ると、経営者・役員の場合で52.0%、管理職・専門職などホワイトカラーの場合で、45.7%に上るのに対し、販売・サービスやブルーカラーでは17.1%、自営業者でも26.4%にすぎない(JGSS調査データから算出。「あとがき」参照)。こうした差は、成績の同じ程度の若者たちどうしで比べても、基本的には変わらない。
学費の安い国立大学があるではないか、という人もいるかもしれないが、いまでは国立大学もかなりの学費を取るし、自宅から通学できる場所に国立大学があるとも限らない。しかも国立大学は、私立大学に比べると入試難易度が高いことが多く、かなり成績のいい若者たちしか受け入れていない。だから成績が人並みかそれ以下の若者は、家が豊かなら私立大学に進学できるが、貧しければ就職先を探すしかない。そして高卒就職難の中で、就職とは多くの場合フリーターになることを意味するのである。
こうした下層的性格は、「ニート」と呼ばれることも多い若年無業者にも共通している。内閣府の研究会の分析によると、若年無業者のいる世帯には高所得世帯が少なく、低所得世帯が多い(内閣府「若年無業者に関する調査」。「ニート」というと、「やる気のない若者」というイメージとともに、「家が豊かで働く必要がない」という偏った見方がされることが少なくないが、これは明らかに事実に反するのである。
2007年初め、政府はフリーターの数が1年前より14万人減って187万人になったと発表した。これは★明らかなまやかしであり、「フリーター隠し」に他ならない。そもそも政府は、派遣労働者をフリーターに含めていないからである。
現在、非正規労働者の中で最も増加しているのは派遣労働者だ。その数は2005年の段階で255万人。1年前に比べて30万人近くも増え、その賃金は大幅に低下している(厚生労働省「労働者派遣事業報告書」)。かつては専門性の高い分野に限定されていた派遣労働が、原則自由化されたからである。若者たちでは、非正規労働の主流がアルバイトから派遣に移りつつある。派遣など非正規労働者をすべて含めれば、フリーターの数は一貫して増加しているのだ。
それだけではない。政府のいうフリーターには、正社員を希望する失業者や求職者が含まれていない。これらの若者だって、生活に困ればアルバイトもするから、事実上フリーターとはっきりした違いはない。若年無業者だって、その多くは働いた経験があるか、条件が整えば働く意志をもっている。これらを含めると、どれくらいの数になるか。私の推計では550万人で、在学者と既婚女性を除く35歳未満の若者の28.7%に上っている(詳しくは拙著『階級社会一現代日本の格差を問う』参照)。
同じ政府でも、内閣府はかつて、派遣労働者や求戦中の若者たちをフリーターに含めて417万人とする推計結果を公表していた。しかしこの数字は、最近ではあまり使われなくなっている。
しかも重要なことに、これらの若者たちも毎年、年をとっていく。★政府の定義ではフリーターは34歳までだから、35歳になると統計から消えてしまうのである。現実にはフリーターは、その境遇から抜け出せないままに次第に年をとって中高年化し、他方では新しく学校を卒業したり退学したりした若者たちがここに含流して、毎年拡大を続けていく。
政府は「再チャレンジ」などというが、現実にはきわめて困難であることについては前章で述べた。
もうひとつ重要なことは、これらの若者たちが結婚することも子どもを生み育てることも難しい状況におかれているということである。
慶應義塾大学の研究グループの調査によると、25〜29歳の独身フリーターのうち5年後に結婚していたのは、男性で28.2%、女性で38.0%だった。正社員ではそれぞれ48.3%、46.6%だったから、フリーターの結婚率は男性で正社員の6割弱、 女性でも約8割である(酒井正・樋口美雄「フリーターのその後一就業・所得・結婚・出
産」)。これとは別の厚生労働省の調査では、3年前に独身だった非正社員男性のうち、これまでに結婚したのは6.3%。正社員は15.2%だから、約4割にすぎない(厚生労働省「21世紀成年者縦断調査」)。
たとえ結婚できたとしても、子どもを生み育てることは難しい。年収400万円未満の世帯では、子どものいない世帯の比率が20.7%で、これは年収400万以上の世帯の約2倍である(内閣府『国民生活白書』2005年)。
これらの若者たちは、格差拡大の最大の犠牲者だといっていい。たまたま学校を出たころ、企業が正規雇用を縮小させていて、安定した職に就く機会を奪われた。やむなくアルバイトで食いつないでいると、キャリアがないとみなされて中途採用の機会も奪われた。収入が少ないので、結婚することも、子どもを生み育てることも難しい。仮に子どもを生み育てるとしても、教育費の負担は難しいだろう。こうして彼/彼女らの多くは子孫を残すことがないし、また残したとしてもその貧困が、次の世代に持ち越されていく。そんな巨大な貧困層が、日本の社会に形成されつつあるのである。
4。単身女性ワーキングプアの激増
若者たちと並んで貧困化しているのは、単身女性たちである。高齢化が進むとともに、夫に先立たれて一人暮らしをする女性たちが増えている。そのかなりの部分は貧困層になる。しかし近年の顕著な変化は、女性ワーキングプアの激増である。ワーキングプアが増加していて、その過半数が女性であることについてはすでに述べた。ところがその多くは、単身女性なのである。
図表3・4は、ワーキングプアの数を男女別・配偶者の有無別に見たものである。これをみると明らかだが、配偶者のいるワーキングプアは、男性で164万人から162万人、女性で101万から104万人と、ほとんど変化がない。増えたのは、男女とも単身者だけである。とくに女性は、この10年間に40万人近くも増えている。これら単身ワーキングプアの年齢をみると、男性では35歳未満の若者が多く、女性では50歳以上の中高年が多い(総務省「就業構造基本調査個票データ」から算出。「あとがき」参照)。
そのかなりの部分を占める離婚経験者は、とくに多くの困難を抱えている。ずっと単身の女性であれば、学校を出た時点で比較的安定した職業に就いている可能性も高く、子どももいないことが多い。ところが離婚経験者の場合、離婚前には専業主婦だったりパートタイマーだったりする場合が多いから、生活するのに十分な収入を得るのが難しい。そのうえ、子育てに費用がかかる。だから、新たに職を探すことが必要になることも多い。
厚生労働省の「人□動態社会経済面調査」(一九九七年)によると、離婚を経験した女性(ただし調査対象は親権者のみ)の多くは離婚の前後で新たに仕事に就いたり、より収入の多い仕事を求めて転職したりする。新たに就職した人が20.1%、転職した人は23.4%に上り、年収のあった女性の比率は、離婚前は54.9%だが、離婚後には92.8%と跳ね上がる。
しかし、新たに就業した人の62.1%はパート・アルバイトで、その平均年収はわずか136.8万円。運良く常勤の職に就職できた一部の女性の場合でも、平均年収は198.5万円にとどまる。前者は一人暮らしでも貧困層だし、後者は子どもが一人でもいれば貧困層である。そして73.0%もの女性が、離婚によって経済的な悩みが生じたとしている。ちなみに、離婚によって経済的な悩みが生じたとする男性は28.6%にすぎない。離婚が生活に与えるインパクトは、女性の方がはるかに大きいということがわかる。
ただし、ずっと単身の女性にも、貧困化の波は押し寄せている。
一昔前まで、結婚経験のない女性は、既婚女性に比べると学歴が高く、ホワイトカラー比率が高く、女性の中では比較的高給の部類であることが多かった。彼女らの多くは、自分の収人でなんとか生活することができたし、結婚退職によって収入の道を断たれるのを避けるために、あえてシングルを選んだか、少なくとも何か何でも結婚しようとは考えなかった女性たちであることが多かった。男性よりは収入が少ないし、けっして豊かだとまではいえないのだが、ある種の「独身貴族」といえないこともなかった。
しかし、こんな生き方ができたのも、学校を出た直後に正社員として就職するのが当たり前の時代だったからである。未婚女性も希望すれば、そして「まだ結婚しないの」などをはじめとするセクハラに耐えてさえいれば、正社員のまま働き続けることが不可能ではなかった。しかしいまでは、正規雇用を一度も経験せずにフリーターとなる女性たちが激増している。男性フリーターほどではないものの、結婚は難しい。
それというのも、雇用が不安定化する中で、男性の側も妻が働き続けることを望むようになっているからである。妻が働いていれば、万が一勤め先が倒産したり、あるいはリストラされた場合でも、なんとかしのいでいくことができる。2005年には、結婚相手に専業主婦となることを望む未婚男性の比率は12.5%にまで低下した(国立社会保障・人口問題研究所「結婚と出産に関する全国調査」)。
これまで、中高年までシングルであり続ける男性には建設労働者などのマニュアル職が多く、下層的性格が強かった。ところがいまやシング女性も、シングル男性と同様に下層的性格を強めつつあるのである。
5。貧困が生み出す破滅と死
貧困は、さまざまな形で社会問題を引き起こし、そして死を生み出している。病気、犯罪、殺人などの多くが、貧困と関係している。
2007年の夏は、全国的に猛暑に見舞われた。熱中症で亡くなる高齢者が続出したが、その多くはエアコンのない部屋に注んでいた人々だった。都内の福祉事務所に勤める教え子から聞いた話では、熱中症というふうに報道はされていないものの、この夏はエアコンのない家に住む生活保護受給者に、亡くなる人が続出したという。これも貧困の生んだ悲惨な出来事のひとつである。
メタボリック症候群、糖尿病などの「生活習慣病」が、豊かさが生み出した病気として注目されている。しかし、依然として貧困こそが、病気による死の最大の温床であることを忘れてはならない。そもそも日本のような先進国では、貧困が糖尿病による死に結びつく傾向がある。
東京23区で最も所得水準が低い足立区は、糖尿病による死亡率が全国平均を大きく上回っている。区の担当者はその理由を、「お金をかけずにおなかがふくれる食材を多用する食生活で、子どものころから肥満率が高い」うえに、「症状が悪化するまで受診しない傾向もある」からだと説明している(「東京新聞」二〇〇六年九月一六日)。
図表3・5は、経済状態別に健康状態が「悪い」と感じる人の比率を見たものである(JGSS調査データにより算出)。
経済状態は、貧困線以下を「貧困層」、貧困線よりは上だが平均以下の場合を「相対的貧困層」、平均から平均の2倍までを「相対的富裕層」、平均の2倍以上の場合を「富裕層」とした。
40歳未満の場合には、経済状態による違いはほとんど見られない。しかし40歳以上になると、健康状態が「悪い」とする人の比率が、まず貧困層で跳ね上がる。次いで60歳以上になると、貧困層とともに相対的貧困層でも大幅に増加する。これに対して富裕層では、忙しい仕事から引退したためなのか、むしろ健康状態は改善するらしい。
貧困は、悲惨な殺人も生み出す。たとえば、高齢化とともに増加してきた介護殺人事件。ここには、介護の負担という問題と貧困とが重ね合わされている。
2006年2月1日、54歳の男性が京都市の路上で86歳の母親を殺し、自分も死のうとしたが死にきれず、首から血を流して倒れているところを発見された。
母親は約10年前から認知症の症状を示し、男性は介護をしながら派遣社員として勤めに出ていた。ところが症状が悪化したため、男性は仕事を辞めて介護に専念することにし、生活保護を申請したが、失業給付金を受けていることを理由に受理されず、仕事を探すうちに経済的に行き詰まってしまった。最後の日、男性は母親に「もう生きられへんのやで、ここで終わりやで」と語りかけ、母親は「そうか、あかんか」と応じたという。
2007年2月、大阪市で病弱の夫を放置して餓死させたとして、50歳の妻が保護責任者遺棄致死の疑いで逮捕された。主婦は前年の1月下旬から、寝たきりの夫が衰弱して食事をしなくなったことに気付いたが、診察を受けさせていなかった。国民健康保険はその前の10月で切れていた。
夫は会社勤めの後独立して事業を始めたが倒産、再就職したものの体調を崩して退職し、その間に消費者金融から100万円を借りていた。主婦は、昼間は工場で働き、夜と週末は焼き肉店やお好み焼き店でアルバイトと、深夜まで働き通しだったという。警察の調べに対しては、「時間もお金もなく、頼る人もいなかった」と供述している。
いずれのケースも、貧困が関係している。そして生活保護が、それを必要としている人々をちゃんとカバーしておらず、また保険料を滞納すると問答無用で無保険状態に突き落とされるという、行政側の要因も垣間見える。
経済的な格差の拡大が、自動的に貧困を生み出すわけではない。低所得の人々の経済水準はそのままで、高所得者の所得だけがますます上昇するというタイプの格差拡大もありうるからである。
しかし日本では、経済格差の拡大が低所得層の所得の減少と、高所得層の所得の増加という形で進み、貧困層を激増させてきた。それは、もはや経済統計上の量的な問題を超えて、日本社会を危険水域に導いているように思える。
第一章 格差社会の風景
3 増加する「みえないホームレス」
雷門と浅草寺、仲見世の商店街で知られ、江戸時代から変わらぬ賑わいを見せる浅草。地下鉄の出口を出たら、雷門へ向かう人混みを横目に、隅田川岸を北上してみよう。しばらくすると川に沿って、ダンボールで作られ、青いビニールシートで覆われた「家」が林立するのをみることができる。ホームレスたちの住居である。
このあたりは東京最大の寄せ場、つまり日雇労働者とその雇い主が集まる場所だった山谷に近く、墨田区の調査によると、川の東岸の墨田区側だけで500人以上のホームレスが生活している。その大部分は、50代から60代の男性だ。9割近くの人が仕事をしているが、一ケ月の収入が5万円以下という人が85%を占める。こうしたホームレスは、国が把握しているだけで東京都に4690人、大阪府に4911人、全国では1万9564人いるという(厚生労働省『ホームレスの実態に関する全国調査報告書』二〇〇七年)。
しかし現実には、広い意味でのホームレスの数は、これよりはるかに多いと考えた方がいい。というのは若者を中心に、野外ではなく、簡易宿泊所、ネットカフェやマンガ喫茶などで寝泊まりをする人々が増えており、決まった住居がないという意味で、これらの人々もホームレスと考えられるからである。
簡易宿泊所といえば、山谷や大阪の釜ケ崎に集中する「ドヤ」と呼ばれる施設を思い浮かべる人も多いだろう。しかし最近では、主に若者を対象とした新しい簡易宿泊所が増加している。その最大手は、東京の都心部に宿泊施設を展開するエム・クルー社である。
エム・クルー社によると、その事業は「コンストラクション」と「レストボックス」の二つからなる。まず同社は、主に中小の工務店を顧客として、建築・土木作業現場の軽作業・雑工事を請負っている。そして、この現場に送り込む登録スタッフを生活させる宿泊施設として、「レストボックス」と称する宿泊施設を経営しているのである。
宿泊施設は近日オープンのものも含め、2007年8月現在で21ケ所。いずれも池袋、新宿、渋谷、上野、秋葉原など都心部の駅から徒歩圏内の貸しビルにあり、登録者は1900人に上る。利用者は家賃が払えない20代、30代が中心で、「家なき若者」のよりどころになっているという。基本的には男性専用だが、女性専用の宿泊施設も1ケ所ある。
部屋は二段または三段ベッドを備え付けた多人数の相部屋が中心で、同社はこれを「レストボックス・デイリーアンドシェアー」と呼ぶ。つまり、「日払い相部屋の休息箱」というわけだ。宿泊料は、一泊1780円が中心。同社の請け負う日雇作業に就くのが基本条件だが、他の仕事をしたり求職活動をしたりするのもある程度までは自由で、ここから同社は、自社の事業を「フリーター・求職者支援事業」と称している。
ここに住むのは、たとえばこのような人々だ(「プレジデント」二〇〇七年七月二日号より)。
Aさんは大学を中退した後、地方のアパレルメーカーに就職、会社の東京進出とともに上京した。待遇は悪くなかったが、休みのない激務に耐えかねて退職。派遣会社に登録し、日雇の倉庫整理などで働いたが、収入は大幅に減少。家賃を払うために消費者金融に手を出し、借金が膨らんで家賃を滞納し、ある日鍵を付け替えられて閉め出された。こうして派遣の仕事を続けながらホームレスとなるが、警備員や警官に追い立てられる生活に耐えられず、レストボックスに転がり込む。アパートに引っ越そうにも、交通費すら出ない派遣ではまとまった金が残せるはずもなく、「どうしようもなかった」という。
それでは、現在の生活はどうか。派遣会社から受け取る日給は7000円。所得税や交通費を天引きされると、手取りは6000円に満たない。ここからレストボックス代として約1800円を支払い、さらに食費、銭湯代、コインランドリー代などを払うと、ほとんど何も残らない。
派遣先から受け取る派遣料金からピンハネし、さらに宿泊代まで取り上げた張本人であるエム・クルー社長の前橋靖は、こう言ってのける。「毎日1000円残せば1カ月2万円貯金できると話しても、『そうは言ってもね』と自分を甘やかしてしまう。望む日給は現実より遥かに高く、理想と現実のギャップを埋める手だてももたなければ、就きたい職業に自分を近づけることもしない。社会の仕組みも悪いが、個人にも責任がある」(同「プレジデント」)。社会の仕組みや個人の責任を云々する前に、自分たちの収益がどこから来ているのかを考えた方がいい。
レストボックスは、後で述べるネットカフェと並ぶ家のない若者たちの溜まり場として、しばしばテレビでも報道された。取材した人から私が聞いた話では、こうして報道されるたびに多くの若者たちが、「俺たちはそんな惨めな存在だと思われているのか」とショックを受け、レストボックスから退去したという。しかし前橋は、意に介していないようだ。「テレビなどでレストボックスが紹介されると、客観的に見られるからか、利用者の何割かがレストボックスを後にする。ここに長く居続けてはいけない。その意味では我々は居心地の悪さも提供することになる」(同「プレジデント」)。このように前橋は、若者たちを惨めな状況におくことによって、彼らの自立を促しているのだと強弁する。貧困を食い物にする企業―まさに「貧困ビジネス」というほかはない。
さらに、ネットカフェやマンガ喫茶などに寝泊まりする若者たちがいる。厚生労働省の調査によると、その数は全国で約5400人(『日雇い派遣労働者の実態に間する調査及び住居喪失不安定就労者の実態に間する調査』)。報道内容や民間団体の調査結果などをつなぎ合わせると、その実像が浮かび上がってくる。
首都圏青年ユニオン(主にフリーターを組織する労働組合)などで構成する「全国青年雇用人集会実行委員会」(以下、「実行委」と略記)は2007年春、全国10都市の34店舗のネットカフェで聞き取り調査を行った。その結果、76%にあたる26店舗から、長期滞在の利用者がいるという回答を得た。報告書はインターネット上で公開されているが、店舗の観察では次のような具合である。
○16席あるが、ほぼ毎日泊まる人が4人いる。30代から50代。長い人は四ケ月いる。大きなバッグをもっている。(東京、亀有駅前)
○週6曰くらい、ほぼ毎日泊まっている35歳くらいの人がいる。若い人でも、毎日日中にきている人が何人かいる。もしかしたら、夜勤いて日中休んでいるのではないか。(亀有駅前)
○ネットカフェに寝泊まりする人は三年前くらいから業界では問題になってきていたし、 社会問題になるのは遅すぎるくらい。ウチの店も、いまはいないが昨年夏には三ケ月以上滞在している青年が2人いた。2年くらい前からは、ネットカフェにも行けず、
ファミリーレストランでコーヒー1杯で夜を明かす人も出てきた。(東京京急蒲田)
○大きな荷物を待った常連さんは、10人くらいはいます。割引チケットを活用している方が多いです。(神奈川横浜西口)
○長期滞在は常連さんで20人ぐらいはいる。30〜40代が多い。自分は働き始めて8ケ月だが、ずっと泊まりに来ている人もいる。みんな日雇の仕事で、日当で生活し ているという感じ。(神奈川川崎駅前)
★長期滞往者には、次のようなケースがある。
○この半年間ほとんど毎日泊まっているという27歳男性。実家にはいづらく、しかし 派遣なのでアパートを借りるほどの収入がない。1年くらい働き続けたら正社員になれるといわれているが不安。
○2年くらいずっとネットカフェに泊まっているという20代男性。専門学校を出てテ
レビ局のアシスタントになったが、一日中働かされ、時給に換算すると400円程度 で、心も体も疲れて退職。次の仕事では収入が大幅に減り、アパートの契約更新がで きずネットカフェヘ。現在はテレビ関係の深夜アルバイトで、夕方4時にネットカフェを出て朝まで働き、朝6時にネットカフェに帰ってくる毎日。月収は20万円ほどあるが、仕事が不安定なために、いつ収入がなくなるかわからず、アパートを借りようと思わない。
○週五日間ネットカフェに泊まるという30代女性。3年前、夫の暴力を苦に家を出てネットカフェ暮らしを始める。週三日のパートと、ときどきする夜のアルバイトで、
月収は9万円。週末は安いホテルに泊まっているので、辛くはないという。(以上 「実行委」調査より)
○ネットカフェを転々とし、体調が悪いときは3000円前後のカプセルホテルに泊ま るという30代男性。派遣会社に登録し、テイッシユ配りや倉庫の仕分けなどで週5 日働き、日当は7〜8000円。体重は10キロ減り、背骨が曲がり、痔にも苦しんでいる。最近は「なぜ生きているのか分からなくなってきた」。「朝日新聞」2006年11月2日夕刊)
○この一年はほとんどネットカフェに泊まるという20代男性。夜間、日雇労働者とし
て土木の仕事をし、雑費を引かれた後の収入は7000円ほど。アパートを借りるだけのお金は残らない。(「東京新聞」2007年4月24日)
インターネットカフェは、「インターネットタウンページ」に掲載されているものだけで、東京に181ケ所、神奈川県に85ケ所、埼玉県に58ケ所、千葉県に65ケ所ある。またインターネットカフェとマンガ喫茶に関する情報収集をしているウェブ・サイト「カフェマン」によると、東京23区内のインターネットカフェとマンガ喫茶は450ケ所に上っている。先にも紹介した厚生労働省の調査によると、東京23区内のネットカフェに週半分以上寝泊まりする人々は、約2000人。ひとつのネットカフェやマンガ喫茶に、平均して4、5人の「ネットカフェ難民」がいることになる。
これら新しいタイプのホームレスは、公園や河川で生活するホームレスと違って、自然に目に飛び込んで来るというものではない。その意味で「みえないホームレス」といってもいい。しかし、気をつけてみればその姿は目にすることができる。どこの駅前にもネットカフェやマンガ喫茶はあるし、東京の主だった駅の近くにはレストボックスがある。
町を歩いていると、学生というにはちょっと年齢が高めの若者たちが、少々くたびれた普段着で歩いているのをみることが多くなった。ああ、フリーターなのだなと、何となく見分けがつく。街角で携帯電話をのぞき込んでいる若者たちの何人かは、日雇派遣の情報メールをチェックしているはずだ。そして彼らは翌朝早く、どこかの駅前でマイクロバスに乗せられ、その日の仕事場へと運ばれていくのである。
2015/3/27
http://2006530.blog69.fc2.com/?mode=m&no=418
★山県有朋が死んだ時、石橋湛山は『死もまた社会奉仕』と言った。
前にも紹介したが、ウイキペディア百科の山縣有朋の項には、こうある。
「・・・その死に際しては、当時、新聞記者だった石橋湛山(後の首相)は山縣の死を、<死もまた、社会奉仕>と評した。また、別の新聞では<民抜きの国葬>と揶揄された。
注:山縣有朋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
以下で痛烈に批判される人々も一群の「社会奉仕派」だろう。
『財界にっぽん』2001年7月号 より。
★新緑放談 日本は賎民資本主義≠ゥら脱却せよ
―日本衰退の一因はジャーナリズムの堕落 国際コメンテーター 藤原肇
関連記事:賤民資本主義
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/399.html
21世紀の薩長同盟を結べ
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/575
普通の暮らしを営めない人々
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3196
その関連記事=倉本圭造
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/576
試し読み
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/582
最新著『夜明け前の朝日』(鹿砦社)で日本のジャーナリズムの堕落と、日本社会の退廃を鋭く指弾した米国在住の国際コメンテーター・藤原肇氏は、バブル経済以降の日本の資本主義は、裏と表が逆転した構造になっており、その実態はマックス・ウェーバーの言う賎民資本主義≠セと指摘し、二一世紀に日本が新生するには、その賎民資本主義からの脱却、ジャーナリズムの奮起が欠かせないと主張する。(文中敬称略)
●貧しくなってきた日本の中産階級
私は年に数回ほど日本に戻って来るが、この春の帰国でとても強く感じたのは、この国がものすごい閉塞感に覆われていて、日本人がまるで元気がないという点である。
しかも、いちばん驚いたのはハンバーガーやフライドチキンという、米国でジャンク・フード≠ニ呼ばれている店が、半額セールをやっていたことだ。私はカナダやアメリカで三〇年ほど暮らしたが、ジャンク・フードの店で食べたのは二度で、それはこの種の安くて手軽なレストランの本質が、資本主義社会における炊き出し≠セと考えるからだ。
もし、ジャンク・フードの食事処がなければ、アメリカ社会では暴動が起きるだろう。アメリカはキャピタリズムの本家だから、カネを払うことで安く食べさせてやれば下層階級も資本主義に参加している気分になり、暴動を起こさないだろうということで、ジャンク・フード制度が編み出されたし、巧妙なやり方でビジネスとしても成功している。
つまり、最初は下層民むけの炊き出しのようなものが、ビジネスとして各地に普及したことで、中産階級の子供たちも食べ始めるようになった。日本にもジャンク・フードの店が進出して、フランチャイズを派手に展開しているが、日本には昔から蕎麦屋やラーメン屋があり、アメリカ風の炊き出しは必要としないのに、今や日本の街角はジャンク・フードに席捲され、不況のせいで価格破壊を実践している。
このような米国式の炊き出しが流行するのは、日本の中産階級が貧しくなったためであり、四〇〜五〇歳代の日本人に話を聞くと、住宅ローンや教育費に追われポケットマネーに乏しくなり、本を買う余裕もなくなったという。デフレによる価格破壊が進行しており、通年にわたって大安売りする時代性の中で、日本中がバッタ屋になったような感じだ。
しかも、日本社会の老人化が進んでおり、全体的な活力の低下が目立っているが、都心で乗るバスの乗客の大半が老人だし、中曽根や宮沢が未だに影響力を行使している。老害が最も目立つのは政治の世界でもあるが、同じ番組に二〇年も出ている評論家など、マスメディアの世界にも共通しており、人材を育てる指導性の欠如を物語っている。
●日本人が知らない外国人の対日観
老害大国は財界人の高齢化にも反映しており、長期にわたって財界団体の役職を務めることで、勲何等などという勲章がもらえるために、それを目指して居座る老人が多いが、官僚による民間人の買収という弊害面を持つ、生存者叙勲は廃止した方がよさそうだ。また、銀行が多くの相談役を抱えているが、巨額の不良債権を作った責任者も含んでおり、公的資金を受けている以上は犯罪的だから、経営刷新と合理化の断行が不可欠である。
しかも、次代をになう人材が育っていないので、各界で人材が払底しているのは明白であり、さまざまな制度疲労がそれに加わって、昨今の酷い亡国現象となって現れている。自民党もコレといった人材がいないため、小渕の後に森喜朗のようなお粗末な男を首相にして、世界中から侮蔑と嘲笑を買った具体的な例は、『夜明け前の朝日』の中に報告して置いたが、世界から日本がどう見られているかに関して、日本人はあまりにも愚鈍であり過ぎるのではないか。
香港の『ファー・イースタン・エコノミック・ルビュー』という英文経済誌は、記事の見出しに「MORIbund Giant」と書いていたが、このモリバンドという言葉は「くたばり損ない」を意味する。また、ボストンの「クリスチャン・サイエンス・モニター」紙は、辞任を控える森の訪米した日のコメントに、「ローマの町が燃えている時に、バイオリンを弾いていた暴君ネロと同じだ」と書き、緊急事態を放置したままノコノコ訪米した、無能な首相の恥さらし朝貢を潮笑していた。
韓国の金大中より先にという面子に基づいた、森の表敬訪問はブッシュに迷惑だったが、愚鈍な政治家の恥さらし外交の出し物は、竹下の後を継ぐ出雲名物「安来節」であり、オカメとヒョットコの顔見世興行になった。アメリカ側はお調子者の麻生太郎を引っ張りだし、筋金入りの右翼政治家のプロモートを通じ、将来への布石まで打ち終えてしまった。
国家主義的な麻生や単細胞の石原都知事を挑発して、日本がアジアから孤立する立場を強めれば、日本の混迷はさらに強まるだけであり、危機を操る上で有利になるというワシントンの戦法に対して、残念ながら日本人は誰も気づいていない。しかも、既得権と利権だけが政権維持の原動力であり、国際社会での役割を自覚しない自民党政治は、誰が新総裁になっても泥船政治が続くというのが、日本を見つめた冷徹な世界の認識である。
身内の恥を日本のメディアは報道しないし、記者クラブで仕上げた提灯記事の氾濫の中で、日本人は外国での日本の評判を知らず、民族として感受性の劣化が進んでいる。しかも、かつての日本人は『菊と刀』の中でベネディクトが、「恥を知る民族だ」と敬意を持って指摘したのに、昨今の日本人は恥に対して鈍感になっている。
●日本社会を支配した賎民資本主義
中曽根バブルで狂乱を演じた日本の資本主義は、マックス・ウェーバーの定義だと「パリア・キャピタリズム(賎民資本主義)」だが、それは社会の全域に営利と欲望が蔓延して、寄生する者が社会を食い物にする状態を指す。こうした社会の中心に位置を占める存在は、先ず第一に乞食や詐欺師が来るのであり、続いて盗みや横領を罪悪と感じないで、私益の蓄積に忙しい政治家や商人が並ぶが、談合で税金を分捕ったゼネコンを始め、最近の農民たちもきわめて日本的な寄生集団である。
不良債権の山を築いたノンバンクの実態は、普通の銀行がカンバンを塗り替えてバブルに踊り、公的資金で尻拭いしたものであり、銀行自身が税金に寄生するという点で、賎民資本主義の中核的な役割を演じている。さらに、最近の大都市で流行っている金券ショップも、サラ金の滞納者のクレジット、力ード悪用や、企業がまとめ買いした切符や切手などを使った、横流し金融による賎民資本主義の一端である。
私は『平成幕末のダイアグノシス』(東明社)の中で、日本のスキャンダルの核心に迫るためには、(1)暴力団人脈(2)同和集団(3)半島人脈(4)ホモ仲間||に注目して、この四つのタブーを下敷きにして解析しなければ、問題の中心に肉迫できないと指摘した。それらはかつて日本の闇社会を構成していたが、中曽根政権の時代に裏と表が逆転して、バブル炸裂の頃に多くのスキャンダルを生んでおり、その諸相は最新著の『夜明け前の朝日』の中に、具体的なケースを実名と共にレポートしてある。
かつて自民党の幹事長を務めた野中広務は、水平社の全国大会に京都府副知事として出席し、自分が同和の出身だと明言した勇気ある人だが、数年前の『ロサンゼルス・タイムス』が全面を使って、野中の政治姿勢と役割について記事にした。「必勝」と書いた白鉢巻をした野中の写真と共に、記事の中に頻繁に「Buraku」の文字が並び、その日の私の電話は絶え問なく鳴り続けたが、英字新聞が日本のタブーを大々的に報道した。
私はアメリカ人たちの質問に答える形で、同和や部落という言葉の意味を解説したが、野中が部落出身であることをバックに、永田町で大きな権力を握った経過に関しては、外国のジャーナリストに見透かされている。社会の下積み層が現世に救済を求め、政治力を通じて達成を試みる公明党と組んで、強引に政権の保持を狙う自民政治の実態が、世界中に暴露されるに至ったという真実は、考えて見れば実に恐ろしいことではないか。
しかも、自民党の政務調査会長である亀井静香が、イトマン事件の主役だった許永中と義兄弟で、裏の世界と緊密なことは周知の事実であり、そんな人物が総裁候補に名乗りを上げたのだ。闇と結ぶ人物が表の世界に乗りこむ状況は、経済社会だけでなく永田町をも包み込み、それを日本人が放置していることに関して、外国のジャーナリズムは知っているのである。
●先物市場で消えた数十兆円と元首相の死
ジャーナリズムが果たさなければならない使命は、権力者たちの逸脱と権力乱用の監視だが、四つのタブーを恐れて記事にしないために、それが堕落と腐敗の大きな原因になっている。タブーの壁に挑んで国民の知る権利に応えない限り、KSD事件のような犯罪は防げないし、信頼に基づいた明るい社会を築くために、税金を食い荒らす悪質な行為を断ち切って、賎民資本主義から脱却することは望めない。
石油産業は二〇世紀を支配した最大の産業で、私はアメリカで石油ビジネスの中に生きたから、情報の取捨選択の面では鍛えられている。だから、訪日の機会を通じて外国の特派員と意見を交わすし、読者の多くが日本の新聞記者たちだから、五日もすれば情報交換による収穫のお陰で、ほとんどの分野に精通することが可能だ。
一昨年の春の訪日の時の体験談になるが、元首相の竹下が埼玉医大病院に入院した後で、竹下は既に死亡しているという噂を耳にした。この死亡説はあり得る話だと感じたし、莫大な利権を整理して処分が終われば、タイミングを見て発表される予想したが、死亡の発表は皇太后の逝去の時期に重ねて、総選挙直前のどさくさ紛れの中で行われた。
これに類似する奇妙な噂を聞いた経験があり、それは昭和天皇が崩御した時のことだが、東京に先物市場を開設することに関連して、天皇の死亡発表を遅らせたと言う人に会い、その時の首相が竹下登だったのは興味深い。連関分析は『夜明け前の朝日』の記事に譲るが、特派員にそれとなく真偽のほどを打診したら、「鋭いカンだが、他言は無用だ」と忠告を受けたので、不気味な印象を持ったことを覚えている。
その後になって断片的な情報が活字になったが、その時に先物市場を使った操作によって、数十兆円のカネが日本から消えたために、それが現在に続く大不況を生んだと言うし、その真相は何十年かしないと分からないだろう。でも、最近の「新潮45』の誌上で東京女子医大の天野医師が、ロッキード事件の時に児玉誉士夫の国会証言を阻むために、上司の命令で薬物を注射したと告白して、口塞ぎの謀略が二〇年振りに明らかになった。
●迫力のある記者がいなくなった
私の母方の郷里は島根県だし墓は松江にあり、親戚が教育者で教育委員長を始め教師が多く、竹下と同じ松江中学の同窓生もいるから、墓参りを兼ねて丹念な取材活動が可能になる。竹下登の墓所は掛合上町の浄土真宗・専正寺だが、竹下の死についてどの程度を知っているかと思って、地元の新聞記者に取材を試みた時のことだ。
県庁のある松江には各紙の支局があるが、まともに取材に応じた支局長は皆無だし、県庁の記者クラブで記者に取材を試みても、「何も知りません」「それはちょっと…」と逃げ腰ばかりだった。自分たちが取材する時には強引にやるくせに、逆に取材される立場になると意気地がなくて、知らぬ存ぜぬで発言をしたがらないのだ。
次に県警本部の記者クラブに取材に行ったら、どこの社の記者に会うかをいちいち聞かれるし、広報担当の警官がつきまとって監視した。
かつてペパーダイン大学の総長顧問を務めた私は、世界各国の大学を訪ねて総長と議論した時に、中国の大学では政治委員が学長の隣に陣取って、自由な発言が阻害されたので迷惑したが、日本の警察は全体主義の共産中国と同じ感覚で、記者クラブ会員の番犬のつもりでいる。
私の名刺の肩書きは「フリーランス・ジャーナリスト」であり、どこの国でも「大臣に会いたい、取材は一五分でいい」と言えば、それなりに対応してくれるというのに、日本の新聞は支局長でも面会の予約を要求し、役人根性に毒されて「病膏盲」で嘆かわしい。
それでも掘り下げ取材ができないわけでなく、やる気があれば大手新聞の記者以上であり、『夜明け前の朝日』にも書いたように、竹下の最初の妻の政江の首つり自殺の原因は、義父に強姦されたことくらいは掘り出せる。
また、家系図を縦に読む日本人の盲点を逆手に取れば、竹下登は古い造り酒屋の息子にしても、父親の勇造は出雲の印刷屋の武永家から、竹下家に婿養子で入った事実がある以上、もともとの出身が済州島だと検証するくらいは、地元ジャーナリストたちの義務ではないか。
未だはっきり確認し終えたわけではないが、先物市場の開設と同時に巨額のカネが消え、そこに平成大不況の原因があるという説について、ジャーナリストたちが徹底的に取材を行い、真相がどこにあるか解明して欲しい。第四の権力と言われるジャーナリズムが、立法、司法、行政の三権を監視する役割を放棄すれば、日本は本格的な混乱と衰退に向かうだけであり、そんな具合に祖国の運命を損なってはいけない。
●衰退した日本人の評価能力
平成日本を包む閉塞状況を打開するためには、根本的な教育改革が絶対に必要であり、低迷した大学を改革する上での決め手として、無能な九五%の教授たちのリストラを断行し、有能な五%の教授で大学を再構築することだ。大学がダメだと、その上で大学院大学を重ねても、それは屋上屋のムダな営みに過ぎなくて、大学院大学の教授が大学教授より偉いわけではないし、量よりも質の充実が優先のはずである。
ヨーロッパでは幾つかの大学が共同作業の形で、大学院大学を開設しているのに対して、日本では各大学が競って屋上屋を積み重ねるが、枠組の再構築に改革の眼目があるはずだ。しかも、小学校、中学、高校、大学のそれぞれの次元で、教育の仕事は自己完結しているのであり、教師として上下の差別があるわけではない。
勲章や文学賞にも似たような側面があり、勲何等という格付けは時代錯誤に他ならず、審査員の選抜基準の著しい劣化に問題がある。
白川教授に文化勲章が慌てて授けられたが、ノーベル化学賞の受賞が功績の追認になり、外国の評価で初めて価値に気づくようでは、文化勲章の審査員の問題意識の低さと共に、節穴だった目を見事に証明したのである。
芥川賞や直木賞も文学作品の質には無関係で、審査員がポルノ好きの時はポルノ小説に、賞が与えられも誰も不思議だと思わないし、審査員の質の悪さは疑問視されなかった。
評価能力のない人たちが審査員になったり、実力がないまま指導者の椅子に座ることが、日本の社会全体の水準を大幅に低下させ、ひいては亡国現象を強める原因をつくっているのに、それに気づかないで権威を冒涜し続ければ、日本はニセモノの掃き溜めになってしまう。
最近の日本はニセモノ天国の輸出大国だが、隣国に迷惑をかけた愚劣な事件に関して、台湾の新聞に寄稿した記事の結語を紹介する。
「…現在の日本は前代未聞の大掃除の時期であり、時には粗大なゴミや汚物が海外に流出して、悪臭ふんぷんとした[台湾論]が漂着するにしても、その時は汚物入れに投げ捨てて始末し、美麗島の平和を保っていただきたいと切望する」
日本周辺に位置するアジア諸国の人たちは、アメリカ人より日本のことを深く理解しており、彼らが反感や嫌悪観を持つ愚行を犯せば、日本の立場は悪化し孤立するばかりだ。
本当の実力と尊敬に値する品性を誇り、正義感に燃える誠実な人がトップに立ち、文明を担う一員として責任を果たさない限りは、二一世紀の日本に活路は開かないだろうし、夜明けの明るい光輝に映えるのは困難である。
4月11日・談
内容(「BOOK」データベースより)
「朝日」を語らずして日本のジャーナリズムは語れない!わが国を代表する巨大メディア「朝日」に対する批判とエール。
内容(「MARC」データベースより)
政治・経済において前代未聞の閉塞状況を迎えた平成幕末・日本。今こそジャーナリズム精神の復活が必要だ! わが国を代表する巨大メディア「朝日」に対する批判とエール。「夜明け前の朝日」が果たすべき責務を論ずる。
2015/3/25
「深淵を覗く時、深淵も君を覗きこんでいる」という有名な言葉はニーチェの「善悪の彼岸」にある〜だから深淵を覗かない方がいい。絶望するだけだから
目次にあるように「三種の神器と小野寺直」からお読みください。全部この記事まで繋がっています......。中には嘘っぽいとか本当かな?とか色々ありますが管理人としては独自の見解を申し述べます。落合莞爾氏や中丸薫女史の言っていることとも違います。京都裏天皇にはイルミナティの血流が入っているのです。イルミナティは非嫡出子(庶子)を養子に出す習慣があります。そして堀川辰吉郎の湧いて出るような潤沢なお金は一体どこから出ていたのでしょう。
以下は近現代皇室の系譜であるがデタラメもいいとこだ....
http://kingendaikeizu.net/kingendaitennouke.htm
ここにも皇族一覧がある
http://kyukouzoku.web.fc2.com/contents/itiran-tennou.html
堀川辰吉郎をWikiで読むと皇室詐欺とかなんとか誹謗されている.......
下の画像の後半になぜか管理人の23歳の頃の写真が〜もっとみるをクリック
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E5%A0%80%E5%B7%9D%E8%BE%B0%E5%90%89%E9%83%8E
血は水より濃い
http://quasimoto.exblog.jp/15341056/
千種任子(ちくさことこ)
http://www.geocities.jp/japanischekonigsfamilien/japan/122-tenji4.html
千種任子の第三皇女 1881年生まれ 1883年3歳で死亡
http://www.geocities.jp/japanischekonigsfamilien/japan/122-t3.html
千種任子の第四皇女 1883年生まれ 同年 8ヶ月で死亡
http://www.geocities.jp/japanischekonigsfamilien/japan/122-t4.html
柳原愛子
http://www.geocities.jp/japanischekonigsfamilien/japan/122-tenji3.html
第三皇子 大正天皇 1879年8月31日生まれ
http://www.geocities.jp/japanischekonigsfamilien/japan/123.html
仮に千種任子が柳原典侍とほぼ同時刻に堀川辰吉郎という皇子を産んだとするとその後千種任子は明治天皇の下で第三皇女第四皇女を産みいずれも死亡している。中矢伸一氏の言う「その後千種任子」の行方は判らない発言と矛盾する。しかし考えられるのは千種任子が二人の皇女を失った悲しみに堀川御所へ行き堀川辰吉郎の育ての親として奉仕したいと天皇に直訴し許可が下りたのではないか。もう一つ考えられるのは明治天皇の相手が身分の低い女官であったか明治天皇とは関係のないエドモンド・ロスチャイルドのある女官との庶子であったかどうかだ。顔を見るとイシュマエルでありはっきりと混血八咫烏と判るのだが。
管理人注:明治天皇の皇統譜には第三皇子が大正天皇であるが第四皇子が千種任子との子堀川辰吉郎とは全く出ていないのはなぜか?実際には典侍というのは,天皇側近の女官のうち,最高位の職名のこと(男子の侍従に相当)。宮中では典侍(すけ)と呼ばれる。典侍の下には奏任官の権典侍があり,さらにその下に,掌侍,権掌侍,命婦,権命婦,女嬬と続く。典侍とそれ以下の位の女官には,おのずから身分の差があった。典侍は上流貴族階級の出身と決まっており,下級貴族や士族出身の権典侍や掌侍などから典侍に昇格することはできなかった。侍妾と呼ばれるこれらの女官たちは,それぞれが天皇の寵愛を受けて皇子・皇女を生んだ。」
「皇統譜(民間の戸籍台帳に相当)には明治天皇の皇子・皇女,及びその御生母として記載されている(下記の皇統譜参照)。がこれを見れば判るように,皇子・皇女はいずれも5人の典侍・権典侍から生まれている。その5人とは〜葉室光子(初花典侍),橋本夏子(糸桜権典侍),柳原愛子(早蕨典侍),千種任子(花松典侍),園祥子(小菊典侍)の5人である。逆に言えば,皇子・皇女を生んだ典侍・権典侍しか,皇統譜には記載されていないわけだ。現実にはこの5人の公式な侍妾の他にも,天皇の寵愛を受けた女官はいたはずである。現に大正天皇を産んだ柳原二位局(愛子)は女官として赤坂離宮に住んでいたが天皇は彼女の美しさに惹かれ,強引に宮中に呼び産まれたのが大正天皇である。ということは皇子・皇女を産まなかった典侍,権典侍が何人かいた一方で,皇子・皇女を産んだ掌侍以下の女官,あるいは天皇付き以外の無位無冠の女官も何人かいた可能性はあるわけだ。そうなると,皇統譜には記載がないが,実は歴とした明治帝の御子息であるという人物が実際にいたとしても不思議ではない」
「堀川辰吉郎の生母について,噂はこう告げている。明治天皇の御代,柳原典侍が大正天皇を出産された時,実はあるもう一人の女官もやはり皇子を産み落とそうとしていた,と。宮内庁職員や古い皇室関係者(多くは故人)の中には,これを事実として信じていた人々も少なからずいたらしい。宮中の古くからのしきたりで,天皇の子を身ごもったのが掌侍以下の女官である場合,出産は皇居内ではなく,たいてい自分の郷里か,天皇側近などからあらかじめ指定されたところで,行われる例になっていたためである......このもう一人の女官は榊原典侍よりも一,二分ほど早く,健康な皇子を産んだ。明治天皇は4人の皇子・皇女を続けざまに失った後だったので,もしその女官が男の子を産んだら先例を破って,その子を皇太子にしようと考えていたらしい。しかしたまたま,一分違いで柳原典侍が皇子を生んだので,不詳の方はたちまち退けられ,その子も皇籍から抹殺されてしまった」
「また,その皇子を産んだのは掌侍以下の女官ではなく,やはり典侍と呼ばれる身分の高い女官だったという,別の噂もある。その女官とは,具体的に実名を挙げれば花松典侍,すなわち千種任子ではなかったかと言われている。つまり同格の女官がほぼ同時期に皇子をあげたということだ。両皇子の誕生と同時に,その女性と柳原典侍との間に激しい暗闘が巻き起こり,結局,勢力の強い柳原派が勝利をおさめて,自分の子を皇太子とすることに成功した。もう一人の皇子は,皇太子でなくとも当然親王になれるはずだ。だが,柳原派から狙われて生命さえも危険になったので,天皇はあえて皇籍を与えず,密かに民間に下げ落としたというわけである。たしかに,当時,柳原・千種両典侍が天皇の寵愛を受けることを競い,それに伴って宮廷内が二派に分かれ,すさまじい闘争を繰り広げたのは事実であるようだ。最終的に千種側が決定的な敗北を見たことも,たんなる噂ではないらしく,柳原典侍がその後,いわゆるファーストレディとして宮中に君臨したのにひきかえ,千種典侍の晩年については伝えられていない」
管理人注:管理人はパラノイア(妄想狂)ですのでパラノイア的に妄想すると堀川辰吉郎の「育ての母」として知られる福岡の堀川千代なる女性は京都の堀川御所から彼の養育のためにきた女であること.......ここでパラノイアに火がついた〜彼女こそ堀川辰吉郎産みの母千種任子ではなかったか,と。そうでない場合エドモンド・ロスチャイルドが産ませた相手だったのかもしれない。
大霊脈という本は中矢伸一氏によるものであるが大部分は作家の故:森川哲郎氏の筆による「不思議な人物・堀川辰吉郎一代記」によるもので後半は中丸薫女史の本からのまとめによる。それによると「堀川辰吉郎が京都の堀川で生まれたことは彼自身も明言していたらしい。実母の素性はよく判らないが,関係者の証言によれば,おそらくは皇子争いで柳原二位局に破れた千種任子であろうと言われている。堀川辰吉郎はこの世に生を享けてまもなく,「育ての母」に預けられることになった。それが福岡の堀川千代なる女である。戸籍上は,井上薫伯の兄・重倉の,五男ということになっている」
「堀川辰吉郎は,戸籍上は,井上肇伯の血を受けて生まれたことになっている。それが何らかの理由で井上姓を名乗らずに,福岡の名家・堀川家を継ぐことになったと,表向きは言われている。ところがこの堀川家なるものが,果たして実在したのかどうか疑わしい。」
「生前,堀川辰吉郎と親しかった作家の森川哲郎氏によれば,辰吉郎はこの点について,私の生まれは京都の堀川ですと明言したそうだ。そこで氏がでは,堀川とは堀川御所のことですかと尋ねると,そんなことはどうでもいいじゃありませんかと,それ以上の回答を避けたという。当時,堀川御所には,西郷隆盛の宮中大改革(明治4年,皇居の東京移転に先立ち,政治にクチバシを入れそうな「大奥」勢力をハージした)にひっかかった女官たちが残っており,明治帝行幸の際,彼女たちや臨時に出仕する御所周辺の公卿の娘たちと接触するチャンスがなかったとは言えない。彼女ら”不詳”の女官(侍妾)たちは,出産が近づくと郷里に返されるならわしであった。東京移転後の宮中にいた女官の約半数は京都出身,しかも堀川出身であったという。彼が,堀川姓を名乗るのも,そんなところに由来するのかもしれない」
関連記事:中丸薫と堀川辰吉郎の誇大妄想革命〜分析力は大したものですがここの管理人は主婦の方です。
http://hiro-san.seesaa.net/article/250626011.html
関連記事:大霊脈という本が届いた
http://hiro-san.seesaa.net/article/250625957.html
3種の神器
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/951.html
関連ないようですが:白洲次郎とは何者か その1
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/720.html
白洲次郎とは何者か その2
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/721.html
白洲はジグムント・ウオーバーグの庶子であることは間違いないだろう
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/701.html
これが彼らのやり方である。落合莞爾氏でもイルミナティに関しては詳しくはないと思う。Winthrop RokefellerはParty Girlとの間に男の子をもうけイルミナティの習慣に従ってその子を養子に出した。その子は後に第42代米国大統領となったWinthrop Rockefeller Clintonである。ヒトラーの祖父はソロモン・ロスチャイルドでありスターリンはエドモンド・ロスチャイルドの庶子であり,プーチンはギィ・ロスチャイルドの庶子である。このように考えると以下が浮かんだイメージである......。
鬼塚英明氏によると〜孝明天皇と皇子は伊藤博文や岩倉具視によって薬殺された。そして大室寅之佑とすり替えて明治天皇とした。その理由は二人共日露戦争に反対であった。これではロスチャイルドは到底納得できない。
もう一つは....
フルスロットル 煩悩くんより
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-date-201203.html
「質問」
評論家・落合莞爾の「疑史 堀川辰吉郎と閑院宮皇統」によれば、孝明帝は下記の「堀川戦略」を立てられたそうですが、これは本当ですか?
・六条堀川の日蓮宗本圀寺の境内に秘かに堀川御所を設ける。
・孝明帝は時期を見計らって崩御を装い、そこに隠れる。
・皇太子・睦仁親王は遁世して堀川御所に隠れ、新天皇には南朝系人物が入れ替る。
・孝明帝の女官らの多くは新天皇に仕えず、堀川御所に入る。
・公家と少数の女官らが皇居で新天皇に仕える。
・この事態に対応するため、新天皇の宮廷を改革して女官を遠ざけ、閑院宮皇統の徳大寺実則が側近として近侍し、事情を知るごく少数の武官が侍従として警護する。
(回答)
ありえそうな話です。というのも鹿島説では岩倉具視が手引きして長州下忍の伊藤博文が厠で惨殺したとありますが、岩倉も一応公家であり、中の下の公家(羽林)ではあるが、摂関家をトップとした公家ヒエラルキーの中で果たしてそこまで大胆なことをするか? 鹿島説の怪しい部分です。鹿島説はメーソンに属する西園寺が盛んに流した話ではないだろうか。実際、伊藤博文を暗殺した安重根はそれ(天皇惨殺)を暗殺の理由として口にしていますが、本当に暗殺したのは欧米勢力です。安重根はJFKのオズワルドと同じ役割を与えられていたと思われる。つまり、陽動及び隠蔽です。それ以外にも堀川御所説が妥当と考えられる話として、世間ではキワモノ扱いされている堀川辰吉郎の子・中丸女史は明らかに残置国家・北朝鮮や公安とも親密であり、間違いなく背後にヤタガラスが憑いていると思われます。若き頃、世界要人とのインタビューが可能だったのも裏天皇を奉じる皇統奉公衆が裏で手配したのだろう(笑)。
ということですが.....。
『そういう意味で、皇統譜というのがあって、その中に明治天皇、堀川辰吉郎、そして、私の名前が全部あるそうです』と中丸女史は言いますが「あるそうです」=「ないそうです」は同じで皇統譜にあるはずはない。
これは1912年即位し1926年わずか47歳で亡くなった大正天皇のビデオですが生前公家の娘九条節子(くじょう さだこ)〜後の貞明皇后と結婚し男子が次々と誕生(3分22秒)とあり3分56秒には4人の男の兄弟(後の昭和天皇 秩父宮 高松宮 三笠宮)が生まれたとありますが実は大正天皇には子種がなく西園寺八郎が節子と強引にXXXXをやってしまった。しかしこれは鬼塚説であり中丸薫女史の言う「昭和天皇は明治天皇の子」説がどうも正しいようです。そうすると明治天皇48歳の時の子供が1901年に生まれた昭和天皇ということになる。九条節子17歳の時である。こういうことは皇統譜には絶対に出ないことで宮内庁はそういうことを隠すための組織。
明治天皇の系譜は一応こうなっている
目次はここ
http://www.geocities.jp/japanischekonigsfamilien/japan/122.html
第一皇子 稚瑞照彦尊 葉室光子 即日死亡
第一皇女 稚高依姫尊 橋本夏子 即日死亡
第二皇女 薫子内親王 柳原愛子 1年半で死亡
第二皇子 敬仁親王 柳原愛子 10ヶ月で死亡
第三皇子 嘉仁親王(大正天皇) 柳原愛子
第三皇女 韶子内親王 千種任子 3歳で死亡
第四皇女 章子内親王 千種任子 8ヶ月で死亡
第五皇女 静子内親王 園祥子 1年2ヶ月で死亡
第四皇子 猷仁親王 園祥子 9ヶ月で死亡
第六皇女 昌子内親王 園祥子 41年竹田宮恒久王と結婚
第七皇女 房子内親王 園祥子 42年皆川宮成久王と結婚
第八皇女 允子内親王 園祥子 43年朝香宮鳩彦王と結婚
第五皇子 輝仁親王 園祥子 9ヶ月で死亡
第九皇女 総子内親王 園祥子 大正4年東久邇宮稔彦王と結婚
第十皇女 多喜子内親王 園祥子 4ヶ月で死亡
養子 第十代有栖川宮 威仁親王 幟仁親王
養子 第二代華頂宮 博厚親王 博経親王
養子 第二代小松宮、東伏見宮 依仁親王
明治天皇画像
『大正天皇に子種が無いと分かって、明治天皇が貞明皇后との間に設けた皇子が昭和天皇・秩父宮・高松宮であり、大正天皇と同様に御3方共に子種が無かった。三笠宮は明治天皇の崩御後に誕生ということで種違いの兄弟』2CHより
こうなると皇統譜がいかにいい加減なものか分かります。堀川辰吉郎が千種任子を母とした明治天皇(大室寅之佑)のご落胤なのか京都御所で孝明天皇が女官(侍妾)か千種任子に孕ませたのか=あるいは当時の京都御所はロスチャイルド家の支配下にありましたから管理人の推察するにはエドモンド・ロスチャイルドが千種任子あるいは女官に孕ませた子でありイルミの慣習に従い井上肇の下に養子に出したが名前は堀川を名乗った。その後一般大衆は京都御所内のことなど一切知りませんから若宮として世界中を駆け巡り資金はロスチャイルドから無尽蔵に出ていたということだろう。国の内外では(明治天皇の)プリンスとして通用した話だが堀川辰吉郎の顔を見るとイシュマエルの顔立ちであるとだけ言っておこう。
中丸薫女史のいう実母の中島成子はいわゆる堀川にとっても中島にとっても不倫の子であり性豪であった堀川辰吉郎が国内外につくった数百人の庶子の内の一人に過ぎないという結論になる。そうすると「私は明治天皇の孫です」とは数百人の内の一人と言い直さなければならない。
明治天皇の産みの母中山慶子
明治天皇は中山慶子が鍵
http://ameblo.jp/64152966/entry-11373379484.html
『さらに鬼塚氏は興味深いことを書いている。
明治天皇の生母とされる中山慶子(つまり孝明天皇の種をもらった女性)の墓が東京・文京区の豊島ケ岡墓所にある。ところがこの明治天皇の生母の墓を、明治天皇を始め皇族まで誰も参拝に行っていないのだという。現在の中山家当主は、鬼塚氏の問い合わせに「生母に関しては箝口令がしかれていて、一切答えられない」と言ったそうだ。これはつまり、明治帝がやはり孝明天皇と中山慶子の子ではないことの証明である』.....当たり前ですね,崩御を装って孝明天皇は生きていたのです。つまりすべて孝明天皇の陰謀だったということでしたがこれは落合莞爾氏の見解。
中島成子のことは以下に詳しい
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3187
http://2006530.blog69.fc2.com/?mode=m&no=633より
疑史(第53回)上原勇作(5)の章末はまた、堀川辰吉郎への言及だった。
「・・・上原の背後には杉山茂丸が、その杉山の陰には貴公子・堀川辰吉郎が居た。後年の上原が頭山満・中野正剛ら玄洋社勢力を秘かに、しかし有効に使役していたことがその何よりの証拠である。結局、堀川こそ日本近代史の最大の謎と言ってよく、堀川を無視しては何も見えてこないのである。」と。
ウィキペディアにも項目はあるが、それは略し、ここでは、中丸薫の著にみえる「堀川辰吉郎」を紹介していくことにする。
順不同になるが、手元のものから、始めていく。
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●『この国を支配・管理する者たち』(徳間書店 2006、2、28刊)
★日本の皇室
曰本が敗戦したときに、マッカーサーは日本の皇室は廃止するといっていたようです。それを父堀川辰吉郎がマッカーサーに出会って、それをすると曰本の最後の一兵まで戦うから、それは避けて、皇室、天皇を通して間接統治にしないと、この国はおさまりませんということで説得したそうです。
そのとき、3つの方法があった。皇室を廃止するというのが第1チョイスです。第2チョイスとして、アメリカの間接統治。もう1つは、ほうっておけば自然になくなっていくという方法です。
今、宮内庁はその方法をとっていて、皇族のために何かをするという気持ちはないのです。宮内庁は本当に表面的なことしか知らないで、顔はアメリカ政府に代表される闇の権力のほうに向いている。そういう意味で、あの中はこれからが本当に大変です。
ホリエモンは闇の権力の使いっ走りだから、曰本の皇室は廃止したほうがいいんじゃないかとはっきりといい出しているようです。
私からいわせると、曰本の皇室は、ヨーロッパの黒い貴族が勝手に自分たちは皇室だとつくったようなものとは違う。制度としては、天照大神の神託を仰ぎながらやってきている。よそとは比較できない。
個人的には、ロスチャイルドもロックフェラーも、皇室に対するあこがれはものすごくあるのです。自分たちにはないものがあるから、すごくあこがれています。 p144 ーサーは日本の皇室は廃止するといっていたようです。それを父堀川辰吉郎がマッカーサーに出会って、それをすると曰本の最後の一兵まで戦うから、それは避けて、皇室、天皇を通して間接統治にしないと、この国はおさまりませんということで説得したそうです。
★ ロスチャイルドヘ呼びかけ
金融のことも含めて日本の隅々まで知り尽くし、日本を憂えるグループが、4年ぐらい前、私に長い手紙をよこしたことがあるのです。「あなたが本当の日本のプリンセスだから、日本を救うにはロスチャイルドにお願いしたらどうですか。日本は経済的にこんなことになっているんですよ」と、事細かく書いてきた。それも日本文と英訳と両方で来たものがあって、私もちょうどロンドンに行っていたから、ロスチャイルドは今何しているんだろう、あの人が変われば世界も変わるし、一緒に平和運動でもやったらどうだろうと思って、電話をかけたのです。ケンブリッジ・オックスフォード大学のクラブがあって、そこに泊まっていましたから、そこから電話したら、ロスチャイルドが出てきました。
「あなたは最初に会ったときから、すごく神を信じていて、うらやましいと思いました」とかいろいろいっているから、「ロスチャイルドさん、あなたが変われば世界が変わる。私と一緒に世界平和をやっていこうよ」といったら、「私はもう84歳になっちゃって、腰が痛くてこれから病院に行こうと思っているんだ」と悲しい声でいうわけです。この人が世界を牛耳っているなんて本当かなという感じでした。
「ところで、日本の憂国の士、日本の国情をよく知る人が、金融的な面で日本を助けてほしいというので、私に出してきた文献があるから、これからファクスしようと思うんだけど、できる?」というと、「ホテルだとダメだけど、オックスフォード・ケンブリッジ大学のそこからなら大丈夫だから、してください」というので、彼らが書いたものを出したのです。
次の日に、秘書から、「あなたさまが下さったそれを読んで、ロスチャイルド氏は次の日にアメリカに飛び立ちました」と聞きました。グリーンスパンと話すためでしょう。
その後、私が日本の皇室側の人から聞いたことは、ビクター・ロスチャイルドさんが、「日本にいる本当の意昧での霊脈、血脈を通してのプリンセスはプリンセス中丸しかいないということを聞いているけれども、本当ですか」と今の天皇に電話したそうです。そうしたら、今の天皇は、「そのとおりです」といったそうです。それをある方から私にいわれて、「皇室の皆様は貴女のことをすごく心にとめていますということです」と言われました。 p146
★皇統譜
高松宮妃・喜久子様は、今生きていらっしゃれば94歳ですが、2005年の初めのころ、葬儀が出ました。あの方は徳川家からいらしていて、政(まつりごと)も含めて、そういう一切にはすごく詳しい。皇室の中には、宮内庁が持っている系統図のほかに、皇統譜というのがあるそうです。あることに関して、今の皇太子が喜久子様のところに行って、「中丸薫様とお会いすることについて」とお聞きしたときに、喜久子様のほうが皇太子に対して、「それはあなたが辞を低くして、正面から中丸薫様をお迎えする。そういう立場の方ですよ」といわれたそうです。
それを皇太子がみずからだれかに伝えたという形で、私はお聞きしたのですが、その意味は、皇統譜にきちんと書いてある。例えば昭和天皇は、私たちは大正天皇の子供と思っていますが、そうではないのです。昭和天皇は明治天皇のお子なのです。
彼を育てた人が、やはり明治天皇のお嬢様の1人、しのぶという人で、「しのぶ、この子はやがて天皇になる人だから、おまえが育てなさい」といって育てさせたというのを、私は家族から聞いています。でも、それは宮内庁の系統図には載っていない。
そういう意味で、皇統譜というのがあって、その中に明治天皇、堀川辰吉郎、そして、私の名前が全部あるそうです。私は、5歳のときに中国から、山梨に帰ってきてから養父母の松村正之夫妻の籍に入っています。そこまでの籍は、私は皇統譜にあるそうです。それも最近聞いたことなのです。
育ての父の何回忌かが甲府であって、親戚にみんな集まってもらったときに、私を預かるに当たって、7代前までの戸籍抄本を取り寄せてくれといわれた。日本人は普通2〜3代前までがやっとで、7代前は大変です。私が大人になって、子供もいて、家族を持ってから、「そういうことがあったんですよ」といわれました。 p149
★皇室の政(まつりごと)
雅子さんに対して、日本の天皇家に嫁入りするということがどういうことか、政の大切さ、その由来をきちっと教えてあげる人がいないというのが、ちょっと気の毒です。だから、雅子さんは、そういうことが余りよくわからなくて、皇室外交などといっている。
天照大神からのメッセージを受けて、政をちゃんとやることが一番大切です。そこをきちっと雅子さんにも語ってあげる人がいないのが残念です。
皇室典範というのがあって、天皇家は象徴となっている。皇室外交といって世界に出たら、政治にかかわることになってしまう。プライベートなら、向こうから呼ばれたときは、世界どこに行ってもいいという解釈になっているようです。そういう意味で、宮内庁ももっと気をきかせて、どこかの国からのご招待とか何かつくって、外に行ける機会をつくってあげればいいのです。雅子さんはそこまで知らなかったかもしれない。
例えば入江侍従長は、私も皇室に行くたびにお会いしましたが、昭和天皇に最後までぴったりくっついていらっしゃった。あるときからそういうシステムがなくなってしまって、官僚とか警察庁出身の人が宮内庁長官になった。あの辺から、皇族の人たちのスケジュールを自分たちがつくって、自分たちが動かすんだみたいになってしまって、ちょっとお気の毒かなという感じがあります。
あれだけ世界を自由に歩いていた人が、あの狭いところに十数年いることは苦痛です。考えられない。だれでも病気になってしまいます。 p151
コラムE もうだいぶ前になりますが、私は、東京で、キッシンジャーがエドモンド・ロスチャイルドに鼻であしらわれている姿を目撃しています。デビッドーロックフェラーから庇護を受け、当時大統領専用機で世界を閑歩していたキッシンジャーも、ロスチャイルドにとっては、単なる使用人に過ぎなかったのです。そこに、ロスチャイルドとロックフェラーの実力の差というか、地位関係が表れているのを見る思いがしました。
コラムF 初代ロスチャイルドのアムシェルは、紙とインクのコストしかかからない通貨を自ら発行し、政府に貸し付けるのが一番儲かると気付いた。人工的に金融恐慌、不景気、飢餓、戦争、革命を創造することこそが、ロスチャイルド家成功の秘密である。彼らが繁栄する一方で、国家と国民は、利子の支払いと重税のダブルパンチで、次第に疲弊していく。19世紀初頭のナポレオン敗北の裏で、情報操作によって、その富を数百倍に増大させたのを嘸矢として、彼らの資産は英国銀行の預金の大きな部分を占める。この銀行はロスチャイルドの銀行であり、世界の銀行の利子率を決定するばかりか、相場をも動かしているのです。
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●『中丸薫という生き方』 (徳間5次元文庫 2008、1、31刊)
*原著:『人間の使命とは何か』(三五館 1999、8月刊)
★実父が明治天皇の実子であると知ったとき・・・
p86〜
時はさかのぼりますが、私が自分の出生を知ったのは高校生のときでした。まだ甲府にいた中学生の頃、いつものように電報を受け取りに玄関に出ると、電報配達員が怪訝討そうな顔で言ったのです。
「お宅には、毎日のように電報が来ますね。どういうわけですか?」
毎日というわけではありませんが、荒川堤下の私の家には、本当によく電報が配達されました。いまのように、日本中たいていの家に電話があって、ダイヤルを回せば話ができる時代ではありません。もっとも早い連絡方法といえば、電報でした。
しかし、私の家に届けられる電報は、どう考えても、大至急の用件とは思えないのです。父に渡すと、一読して、それっきり忘れたような顔をしています。電文は、〈7ヒマデ トウ午ョウ「テイコクホテル」 ニタイザイスル〉とか、〈15ヒマデ キョウト「ミヤコホテル」ニイル〉とか、自分のいる場所を知らせてくるだけで、だからどうという用事があるわけではありません。それでいて、よく旅行をする人と見えて、移動するたびに克明に電報で通知してきます。それも国内ばかりか、ワシントンやパリからも電報は届きました。
発信人は誰なのか、この電報の意図するところは何か、私にはわかりませんでした。両親にたずねると、「おじいちゃまからの連絡だよ・・・」というだけです。その名は堀川辰吉郎。
彼は、私の両親に、常に自分の所在地を知らせ続けていたのです。
やがて、その「堀川のおじいちゃま」に、私はときどき招かれて会うようになりました。いつもその人は、帝国ホテルや、京都の都ホテルというような、一流ホテルの最高の部屋に滞在していました。日本国じゅうを歩き、突然、アメリカやパリに飛ぶこともあったようです。よほど特別の場合をのぞいては、紋服と袴に白足袋でした。小柄でほっそりとした体格でしたが、澄んだ瞳には深い光があり、言葉では言い表せない威厳がありました。秀でた鼻梁と、その下のカイゼル髭が八の字にピンと跳ねているので、それが威圧感を与えていたのかもしれません。ところが話し出すと、じつにやさしくて、身のまわりの世話をする秘書や、ホテルのボーイたちにも、まったく差別のない丁寧な言葉づかいでした。食卓でのマナーも、会話も、身のこなし1つにしても優雅で、私は「おじいちゃま」に会った日には、なにか特別な気持ちになるのでした。
1958年の末頃でした。帝国ホテルの一室を、母と一緒に訪れた私に辰吉郎は唐突に、私が彼の実子であることを静かに語り始めたのです。辰吉郎は、明治天皇の血を受けていて、生涯、国家的な仕事に明け暮れていたこと、そして、この父母の間にただ1人生まれた私に、大きな期待をかけていることなどを、心に染みわたるような声で話してくれました。
後になって私は、周囲の人たちから、さらに数々の逸話、秘話を聞かされました。その話の内容は、いつも凛乎としていた父の風貌と重なって、私の内部に深く浸透しました。そして後の74年、私は勧められるままに、「文藝春秋」に父の思い出を書きました。その小文には「明治天皇の落とし胤」というタイトルがつけられました。
その文中、事情の許すかぎり、私の知り得た父とその周辺について明らかにして、次のように書きました(以下原文表記、ルビは補足)。
* * *
現在の皇室には、大奥などという制度もないし、そのための施設も完全に消滅している。皇居にお仕えする女官たちは、ほとんど既婚女性で、自宅から通勤し、一般のオフィスレディと変わりがない。しかし戦前までは、皇居内の宮内庁と道灌堀をはさんだそのあたり、紅葉山のふもとに、「お局」と呼ばれる建物があった。敗戦直前の1945年5月25日の夜、空襲で皇居が炎上したとき、このお局も焼失したが、これは明治天皇が京から遷都されたとき、お供してきた多くの女官たちが、平安の昔そのままに、江戸城に移り住んだ明治宮廷大奥の跡である。
かつて、高い板塀に囲まれたここには、建坪1200坪に及ぶ3棟の長屋が建ち並び、その一の側と二の側には奏任女官以上、三の側には女嬬以下の、いずれも両陛下のお身のまわりに奉仕する女官たちが、それぞれ針妙や下女を数人ずつ召し使って、女性だけの別世界を形づくって暮らしていた。明治の御代には、その総数2百数十人であったという。男子禁制、まったくの女護が島で、ここから百軒廊下という長い廊下が並び、両陛下の居間や寝室のある内儀、お常御殿につながっていた。
宮廷のこうした後宮制度は、皇位継承のため、皇子を多くもうける目的によるものだったが、明治天皇も、皇后(昭憲皇太后)のほかに幾人もの側室がいた。その数はつまびらかでないが、葉室光子、橋本夏子、柳原愛子、千種任子、園祥子という5人の側室に15人の皇子、皇女をもうけられたことは、戸籍台帳にあたる。皇統譜にも明らかだ。
管理人注:これらの文章は中矢伸一著「日本を動かした大霊脈」に書かれており中矢氏が中丸薫氏の著作から大部分引用したものと思われる。
昭憲皇太后にはお子さまがなかった。大正天皇をお生みになった柳原愛子二位局も、はじめは明治天皇の母君の女官だったが、皇太后をご訪問になった明治天皇のお目にとまって、典侍として宮中大奥に移り住んだといわれる。この柳原典侍が、後に大正天皇となられる皇子をご出産になったのは、1879年(明治12年)8月31日のことである。だが、その同じ日、大正天皇のご誕生より数分早く、やはり大奥で1人の女官が男の子を生んだ。
それが、権掌侍・千種任子であった。千種任子は、正四位千種有任と大納言四辻公績(よつつじ・きんいき)の娘・正子との間に長女として誕生され、若くして禁中にあがった。皇統譜によれば、明治14年と16年に内親王をもうけている。いっぽうそれに先だって、柳原愛子典侍は、明治8年と10年に親王をお生みになっているが、それらのお子さんたちはすべて夭逝され、明治11年秋に、再び明治天皇のお胤を身ごもられた。
ちょうどその時期に、千種任子権掌侍も懐妊,それでなくても宮中大奥では、柳原・千種の両局は、ことごとくに反目し、激しい暗闘があったようだ。その上両女性が同時期に妊娠したのだから、大奥は二派に分かれた。その結果、決定的な勝利を得たのが柳原典侍だった。
柳原典侍のお子は、皇太子・明宮嘉仁親王となられたが、千種任子の子供は、大奥で生まれたあと、皇籍も与えられず、秘密裏に井上馨侯爵の手で民間に下り、井上候の兄嫁の縁戚にあたる九州出身のある女性が、生涯をかけて傅育することになった。その子供が私の父、堀川辰吉郎である。もしも、千種任子の生んだ子を、明治天皇が皇子としてお認めになれば、大奥内の暗闘が激化し、ついには宮中に混乱が生じかねない。そうお考えになってのご処置だったのだろう。
明治天皇が崩御されて、大正天皇の代になると、こうした皇室の大奥制度は急速に改革され、さらに昭和天皇となると完全に排除された。
堀川辰吉郎は、幼いときから大変な腕白で、★学齢期に達すると学習院に入学(☆院長は乃木希助)したが、あまりに自由奔放、型破りな言動で同級の華族の御曹司たちを閉口させるので、退学させられている。とにかく一般の子供たちとは違う天衣無縫な行動の連続で、まるで野に放たれた虎か竜の子でも見るようだった、と当時を知る人は語っている。
★ウィキペディアによると:生後まもなく☆福岡の堀川家に預けられ、頭山満や井上馨の庇護を受けて育つ。校長への暴行や動物虐待、さらにはヤクザを相手取っての放火事件など腕白が過ぎて福岡じゅうの小学校をたらい回しにされ、やがて学習院中等科に入れられたが、ここでも女学生の前での公然猥褻事件や皇族への暴行傷害事件など問題行動を繰り返して放校処分を受けた。・・・
当時の福岡県知事はおそらく、〔茂丸ライン〕の安場保和。(後藤新平の岳父)
安場保和 1886年2月25日 1886年7月19日 (県令)
安場保和 1886年7月19日 1892年7月20日 (県知事)
福岡に帰ってからも、それは変わらず、学校から幾度となく放逐されそうになった。だが、そうしたとき、乗り出してきて事態を収めるのが、井上候の命を受けた県知事だった。また玄洋社の総裁・頭山満が出てくることもあった。ふつうでは考えられない巨大な実力者の庇護が、つねにこの少年の上にはあったのだ。
辰吉郎は少年の頃、当時発行されたばかりの百円や十円、一円の日銀券を懐中につっこんで歩いていたという。そして友人の中で金に困っている者があれば、札束をつかみ出し、数えもせずに与えて恬淡としていたというのである。当時、百円といったら、ものすごい大金だ。腕のいい大工や左官の一日の手間賃が60銭、下男の年給がわずか3円50銭。この時代に、数百円もの現金を、10代の少年が懐中にしていたのだからこれは尋常なことではない。
「男子たるもの、・・・お金に執着するようではいけません。お金など母がいくらでも送ってあげます。思う存分、好きなように使ってごらんなさい」
育ての母は、つねにそう言って教え、そのとおりに実行していたようだ。世間の常識の枠から踏み出して、あなたは胸を張り、独自の生き方をなさい。そうすべきなのです・・・と、傅育したその女性は言いたかったのかもしれない。
後年、私の知る辰吉郎も、金銭にはまったく無欲で、その点だけとって見ても、神様のような人だった。又は財布を持っていなかった。私がコロンビア大学に留学していたころ、幾度かニューヨークに訪ねてきてくれたが、ある日、一人でふらりとバスに乗ってしまい、途中で車掌に切符を買うように言われて、はじめて無一文だったことに気づき、そこでバスを降りてホテルまで歩いて帰ってきたことがある。
それでいて、国家的な仕事をするときには、どこからか湧いてくるように莫大なお金が集まる。しかもその仕事を成し遂げたとき、報酬は取らないから、無限の預金を多くの人の心の中に積んだも同然で、恬淡としながら、じつに豊かに生きていた。
私は、この父からたった一度だけ、金銭について言われたことがある。
「政治家が差し出す金は、たとえ一銭たりとも受け取ってはならない」
座談の中で、ふとそう言った。しかし、いま、国際政治について発言する立場にいる私にとって、この父の一言は千鈞の重みになっている。
こうした父の金銭感覚は育ての母の苦労によって養われている。皇室から生計費は出ていたようだが、彼女の理想を育てるためには、とうてい十分ではなかった。その苦労が明るみに出たのは、彼女が病気で倒れたときである。その病床の下から百数十通の借用書の控えが出てきたのだ。それは時の総理大臣・伊藤博文を始め、井上候ほか、明治政界の重鎮からの借金を書き留めたもので、当時のお金で数十万に及んでいたという。
こうした特異な環境の中で奔放に育てられた辰吉郎の資質を上げたのは、頭山満だった。辰吉郎は、少年の頃から頭山満に愛されて、10代の半ばを過ぎると、その主宰する玄洋社に入門し、ここで厳格に教育された。
頭山満は、1944年(昭和19年)に89歳で没したが、若くして自由民権運動に挺身し、要望した国会が開設されると、やがて大アジア主義を唱え、玄洋社を組織。日本の大陸政策の発信源とも言われた。
少年時代に辰吉郎はこの玄洋社に入門したが、頭山自身彼を側からけっして離さず、自ら厳しく教え導いた。すると辰吉郎は生まれ変わったように武術に励み、3年足らずのうちに、柔道、剣道ともに三段という腕前になった。同時に学問にも打ち込んだので、やがて頭山門下では頭角を現し始めた。
日本はその頃、日清戦争に勝って日清講和条約を締結したが、ロシア、フランス、ドイツの三国から干渉を受け、条約で得た遼東半島の返還を余儀なくされていた。頭山は辰吉郎に日本と中国の長い歴史を説き、彼のアジアヘの夢を語った。アジア各国の独立が成し遂げられなければ、白人たちの植民地になってしまうという危機感を頭山は強く抱いていたのである。
さらにその頃、中国では孫文が革命の戦旗を掲げていた。清朝の腐敗堕落と専制支配を打破し、漢民族を救おうと、1894年、興中会創立宣言をした孫文は、清軍に追われてロンドンに亡命、やがて帰国して兵を挙げ、祖国再建のために活動中であった。頭山満は、この孫文を支援して新中国を誕生させ、それによって大アジア主義の理想を達成しようとしていた。
1899年、孫文は再度挙兵に敗れて日本に亡命し、横浜に本拠を置いた。日本の有志たちは裏から支援を送ったが、そのもっとも強力な保護者が頭山満だった。初対面のその日から頭山は孫文と深い絆を結んだようだ。そして2人が会談する席には、つねに辰吉郎もいた。そして翌年、機至ると広東へ帰る際、孫文は頭山満に、辰吉郎を同行させてもらえないかと願い出た。
「どうぞ、お連れ下さい」
頭山は即座に頷いたという。孫文の意図するところを、頭山は早くも見抜き、それはまた彼自身が考えていたことと一致したためでもある。辰吉郎を同行すれば、革命軍の中に【日本の皇族】が参加しているということになり、それは孫文の革命に対して、日本が援助しているという強い証拠になるであろう。そのとき辰吉郎は★20歳だった。
(★とすれば、辰吉朗の生年は1880年ということになるが、ウィキペディアによると・・・
戸籍上は1891年生まれとされるが、当人は1884年生まれと自称しており・・・という。)
そして辰吉郎は、孫文と共に中国大陸に潜入した。
孫文はかたときも辰吉郎を身辺から離さず、最高の礼で遇したという。また重要な会議や会談にはいつも辰吉を伴い、自分の上席に座らせた。革命内部には、
「日本の皇子だそうだ。日本は孫文援助のために秘密裏に派遣されたらしい。この革命には日本がついている。絶対成功するぞ」
そんなささやきが交わされはじめ、やがて外部へと広まっていった。辰吉郎は激烈な革命闘争の中で、孫文の片腕として命がけの活動を開始し、生死を共にしていく。
私はそうした青年の頃の父の写真を1枚だけ持っている。黒紋付の襟にかぶるほどの蓬髪と鼻下から顎にたくわえた髭。それは、理想の達成にいのちを賭ける、そんな明治の若者の素朴さに溢れている。まっしぐらに行動に走ったその純粋さは、時代が下るにつれて、軍部の大陸侵攻に利用されていくことになる。
1900年6月、義和団事件と同時に、華南広州にあった孫文は、いまこそ好機と挙兵するが、計画の不備と武器の不足が原因でたちまち背走した。そのとき辰吉郎はその首に孫文と同額の懸賞金を賭けられていた。敗北は死を意味する。孫文と辰吉郎は手を取り合って敵中を逃げた。
12月上旬の暮れ、追ってくる清兵の一団から必死に走った2人は、農家の土塀を越え、道に沿って流れるクリークの岸辺に茂芦の中に躍り込み、身を伏せた。そしてそのまま滑るようにクリークの濁った水に沈んで、敵兵が目の前から消えるのを待った。華南とはいえ、12月の水は冷たい。息をひそめて水に沈んでいた数十分は、死との対峙でもあった。
この年の5月10日、日本では皇太子・嘉仁親王(大正天皇)が、九条節子(さだこ)と結婚され、その奉祝で沸き立っていた。また、1912年7月30日には、明治天皇が61歳で崩御され、大正天皇がただちに即位されたことも、辰吉郎は中国の広野で聞いたのだった。
1925年、孫文が志なかばで病いに倒れ、北京で逝去した後も、辰吉郎は孫文の理想を受け継いで働いた。だが、日本の対中政策は彼の意志に反し、ますます露骨な侵略政策へと進んだ。
1931年、満州事変が勃発したとき、辰吉郎は蒋介石や張景恵たち要人と会談し、戦火をおさめようと奔走するが、軍事力の介入と弾圧で、その意図はほとんど骨抜きになってしまった。満州問題が国際連盟で論議の対象になり、欧米諸国がこれを非難すると、日本の世論は沸騰し、列強の横槍だと怒ったが、横暴なのは日本の軍隊だと辰吉郎は言い、こうした施策が日中両国の関係を破滅させるだろうと憂いていた。
「いま、満州問題が国際連盟に提訴されるに至って、日本の上下をあげて、対中国政策の是非を論じ、大騒ぎしているが、なぜ日本人はこうなる前に、中国問題に対して真剣な目を注がなかったのか。現在の熱意の十分の一でもいい、日露戦争直後から、日本国民が中国の民衆の状態を考え、おたがいの親和を図ろうと努めていたら、このような事態を招くことはなかったのだ。今日となっては、遅まきながら国民一体となって、日中両国百年の親和のために、国家の大計を立てるほかはない。まず、日本が思い切った譲歩をすることだ」
当時、辰吉郎はそう論じ、サンフランシスコの「日米特報」が報じている。
満州建国後、辰吉郎が中国の民族主義団体「紅卍会」の会長に推されて就任したのも、軍閥の専制に対抗するためだった。1935年、彼は大木遠吉、鈴木三郎のあとを受けて国粋会の第三代総裁となったが、ここでも拡大し続ける日華事変の戦火をまず終息させよ、と軍部に激しい非難を加えた。国粋会は軍の忌諱にふれて解散を命じられ、さらに太平洋戦争中は、各界の平和主義者とともに反軍閥運動を続けたため、彼は東條政府下の憲兵に狙われ、ついに中国大陸に潜行して、身をくらますまでになっている。
私の母、中島成子は、抗日救国運動の激化する中国にあって、難民救済事業に献身していた。北京の彼女の邸宅は、二千人の客が宿泊できて、浴室だけでも27室あった。これを開放し、彼女はトラックで運ばれてくる中国の難民たちを収容していた。
私が中国で生まれて45日目、盧溝橋事件が起こった。すると中島成子は関東軍の要請で、即刻、旅立つことになった。その頃、大陸各地に割拠していた地方軍閥の将領たちに対し、彼女は隠然とした影響力があり、関東軍はそうした彼女の手腕を利用しようとしたのだ。
中島成子は、生後45日の私を、当時北京大学教授だった松村正之とその妻・ちかに託し、産褥の疲れも癒えきらない身を馬上にして、硝煙の中を東奔西走した。 p98
* * *
敗戦後の父については、海外の新聞を読むことで、おおよそのことがわかりました。
1945年、連合軍に占領された後、GHQが発した戦犯容疑者逮捕命令によって、国粋会総裁だった経歴を問われ、逮捕されています。そして、ほどなく釈放。その後は、人類すべて同胞、平和主義を訴えて、世界連邦運動の先頭に立っています。1951年初頭、アメリカで世界連邦政府大会に、日本民間代表として参加していますし、そのほか数十回にわたって世界各国を訪問し、各国の名士と交誼を結んでいます。
私が母に連れられて、一緒に食事をしたり、旅行するようになったのは、それからのことです。ところが、「おじいちゃま」と呼んでいたその人が、いったい何を考え、どんな仕事をしているのか、中学生になったばかりの私には、想像もつきませんでした。
1951年の2月15日付の「セントルイス・ポスト・ディスパッチ」に掲載された記事を読むと、父は、「毛沢東、蒋介石の両中国首脳と、米ソの首脳が一堂に会して、いまこそ相互の利益のために協議することが必要だ」と語り、「毛沢東は、単にモスクワの操り人形たるには、あまりにも賢明である」と評しています。このとき父は、アメリカに向かう途中、台湾によって蒋介石と会談しています。
1951年といえば、朝鮮戦争が始まっており、この年の元日、北朝鮮軍と中国軍(共産軍)が38度線を越えて南下し、国連軍は、撤退を余儀なくされたソウルを奪回するため、血戦を繰り広げていたときでした。2月1日、国連総会では、中国政府を侵略者とする非難決議案を採択しています。こうした折に、アメリカで毛沢東の偉大さを口にし、両中国と米ソの4首脳会談の必要性を説くことは、かなり高い視点から、世界の動向を見通していなければできないことです。
私は、父からこんな話を聞いていました。それは、孫文が北京で病没した1925年3月頃、中国共産党の幹部だった毛沢東が、蒋介石の国民政府軍に捕らえられ、危うく殺されそうになったことがあったというのです。その場に父がいました。父は当時32歳の毛沢東を見て、
「これは将来、中国のために偉大なことを成し遂げる男だ。助けてやれ」
そう言って、縄を解き、自由にしたというのです。もしそれが本当なら、毛沢東は堀川辰吉郎をいまも忘れていないかもしれません。できることなら、毛沢東自身に、その事実を確かめてみたいと思いました。
そして1968年、私は「文藝春秋」誌の企画で、『中国の赤い星』の著者、エドガ―・スノー氏と対談をしましたが、そのときこの話をして、父の写真をスノー氏に託し、もし毛主席に会う機会があったら、確かめていただけないだろうか、と頼みました。
アメリカ人でありながら、もっとも中国を愛し、理解し、毛主席の信頼を受けていたジャーナリストのスノー氏は、その申し出を快く承諾してくださいました。その直後、中国入りした氏は、私にそれを電話で報告してくださったのです。
「毛主席は、お父様を覚えているそうです。あの話は本当だと。私は堀川氏のことを忘れない、とおっしゃっていましたよ」
そのときすでに父は没していましたが、私はあらためて父の白髭の顔を思い浮かべ、その伝説的ともいうべき生涯を偲びました。
また、父は、「不殺生・非暴力・非武装」の平和祈願で有名な、日本山妙法寺の山主・藤井日達上人の依頼で、毛主席宛に添書を書いたこともありました。
世界各地に仏舎利を建て、平和を祈り、原水爆禁止運動や基地反対運動にも積極的に参加している藤井日達上人は、中国へ行きたいと言って、私の養母、松村ちかを通して父にその方法を相談されました。父は無造作に筆を執り、「藤井日達上人をご紹介する。御引見を賜るよう」という意味の手紙を書き、「毛沢東殿」と宛名しました。それを懐中に、日達上人はモスクワから北京へ入ったそうです。言うまでもなく、日中間に国交はなく、日本人が中国に入国することなど、考えられなかった時代です。それが、父の添書一本で許されたのです。まったく父は、不思議な力を持っていました。
私はコロンビア大学に在学中、ニューヨークに父が来ると、数日間一緒に過ごしました、が、そんなときウォルドルフ・アストリア・ホテルの廊下を父と歩いていると、すれ違う外国女性が、壁際に身を寄せて会釈し、私にそっとささやきかけたものです。
「あの方は日本のプリンスですか?」
鼻下の白髭と、紋付袴に威儀を正した姿が、事情を知らない外国人にまで、なにかを感じさせたのでしょう。
また、その後、私が日本から海外へ出かけるようなときには、たとえ夜中でも時間があれば父は必ず羽田空港まで見送りに来てくれました。それもロビーや送迎デッキではなく、飛行機のタラップの下まで来てしまうのです。
「もしもし、どこへ行くんですか?」
出国管理の係官などが、出発ゲートを悠然と通り抜ける父を呼び止めたりすると、父は何やらパスポート大の紙片をちらりと見せます。すると、係官は頭を下げ、
「失礼いたしました。どうぞ。お通りください・・・」
ある日、私はその紙片を見せてもらったことかあります。それは、警視総監の自筆の証明とでもいうべき書類で、「堀川辰吉郎先生をよろしくお願い申し上げます」といったことが毛筆で記されていました。警視総監の更迭があるたびに、新任の総監が必ずそれを書いて届けにくるらしいのです。
こうした特別の待遇を受け、国の内外に人知れぬ影響力を待っていた父が、戦後、その力を最大限に発揮した仕事といえば、1951年9月8日、ようやく調印にこぎつけたサンフランシスコ講和条約会議の舞台裏工作でした。8月31日、吉田茂全権をはじめ、講和会議に出席する日本全権団が、羽田空港を出発しています。その1ヵ月前、父はアメリカに飛んで、全権団とは無関係のような行動をとりながら、吉田茂全権を補佐するため、全力を傾注して舞台裏の工作を続けていたといいます。
国際会議というものは、表面よりも裏側の根回しが大切であり、そこにもっとも腐心が必要となります。ことに対日講和条約の調印国は、日本の他に48カ国。ソ連、チェコ、ポーランドは、これは新しい戦争のための条約だと言って調印を拒否していました。わが全権団は被告の立場でありながら、新しい日本の運命を決めるこの会議に、各国の提出する賠償などの過酷な条件をそのまま呑むわけにはいきません。卑屈にならず、とはいえ虚勢を張らず、日本の立場を正しく理解してもらうよう説得する必要がありました。父は各国全権団の中の旧知をたどり、陰ながらの努力を重ねていたのです。p104
そして9月8日、対日講和条約が無事調印されました。敗戦の焦土から這い上がって日本はようやく独立国となりました。
外国からの特需もあって産業は活気づき、自立への足がためは急速に進んでいました。
そのとき私は14歳、任務を果たしてサンフランシスコから帰国した父に久しぶりに招待されて、甲府の家から上京し、ホテルのグリルでテーブルを囲みながら、その人をまだ父とは知らず、ただ楽しく談笑していたのでした。父はどんなときも、自慢めいた話は決してしませんでした。p105
http://2006530.blog69.fc2.com/?mode=m&no=634
●『中丸薫という生き方』(徳間5次元文庫 2008、1、31刊)<続>。
★生みの親、中島成子との再会を果たす
ある日、松村の父が私に、中島成子という女性の見舞いに病院に行くようにと言いました。その人は、かつて中国から東京まで飛行機で連れてきてくれた人であり、私の名前を付けてくれた人でもあると、聞かされていました。
それまで、対日戦意を阻害した戦争犯罪人として北京で投獄されていましたが、それが中国側の人たちの訴えでようやく無実が認められ、釈放されて帰国したというのです。
「戦争中、中国には匪賊、馬賊が横行していたが、中島さんが呼びかけると、いっぺんに3500人ぐらい、合計7500人が銃を棄てて帰順してきたものだ。中島さんはいつも、匪賊や馬賊は戦争孤児だと言って、彼らを収容し、自立できるように教え導いて、難民救済のために献身していたのだよ」
そう説明されて、私が中島の「おばさま」のお見舞いに出かけたのは、1957年2月の寒い日でした。12年間にわたる北京での獄中生活での疲れがいっぺんに出たのでしょう。日赤中央病院に入院していました、私は花束を持って病院の門をくぐりました。松村の両親からは「名付け親」だと聞かされていましたから、そのときはまだ、その人が生母だなどとは夢にも思わなかったのです。
父から聞いた番号の病室を探して、ドアをノックすると、「どうぞ」と力のない声が返ってきました。さして広くない個室で、窓際のベッドに青白くむくんだ顔の女性が上半身を起こし、枕に身を持たせかけるようにして、こちらを見ていました。その枕元に男性が―人いましたが、これは外務省の役人でした。中島成子の帰還を連絡された岸信介首相が、政府を通じて彼女を迎え、入院させたので、役目として付き添っていたのだと後で聞きました。
「董です・・・」
名乗ると、病床の女性は大きく目を見張り、私を見つめました。まだ50歳になるかならずのはずですが、すっかり老け込んだその顔が、見る間に歪んでいきました。私は吸い寄せられるようにベッドに近づいていきました。
幼いとき、この人に抱かれたり、飛行機で日本海の上を飛んだりした記憶がはっきりと甦って、私はその手を握りました。途端に、彼女の瞼から堰を切ったように涙が溢れ落ちました。すると、私もたちまち視界がぼやけて滲み、熱いものが頬を伝わりはじめました。私たちは、一言も語りませんでした。ただ、黙って泣きました。外務省の人が、驚いて私たちを見比べ、すぐに廊下へ出ていきました。
「ずいぶん、大きくなったのねえ・・・」
その人は、むせび泣きながら、ようやくそれだけ言いました。そして、私の握った手の上に手を重ね、堅く締め付けて、いつまでも身を震わせていました。
私は家へ帰ると、その夜、松村の父母にこの話をしました。中島の「おばさま」は、ただ泣くばかりで、私たちは会話らしいものも交わさず、手を握り合っただけだったことを。私もお見舞いの言葉すら忘れて泣いてしまったと話し、そして首をかしげながらつぶやいたのです。
「私、不思議でしょうがないの。自然に涙が溢れてきて、泣きながら、どうして私は泣くのかしら? と思ったくらいなの。ねえ、おかしいでしょう」
「そう、そうかい・・・」
松村の父はくぐもった声でそう言っただけでしたが、その目は潤んで、『涙の露が小さく光っていました。母はうつむき、急いで目頭をおさえたのです。私の胸に、これまで考えてもみなかった思いが湧いて、それが急速に膨れあがったのは、このときでした。
「私、あしたもお見舞いに行く・・・」
「うん、そうしてあげなさい」
翌日、私は日赤へ急ぎました。病室には、中島成子と同年輩の女性がいて、彼女は成子の故郷、栃木県の同村の生まれで、古い友人だと言いました。そして廊下の流しで茶碗を洗いはじめたのですが、私はその側を離れず、中島成子のことを矢つぎ早にたずねていました。
「ねえ、中島さんは小さい頃、勉強はできたんですか?J
「ええ、それはもう、ずっと級長さんでしたよ」
根堀り葉堀りたずねるうち、私のもしかしたら? という感じは、いっそう強くなり、揺るぎのないもののように思われてきました。その質問で疑問を拭えたわけではありません。ただ、茶碗を洗っているその女性が私を見る目つき、口ごもる話し方、それらのすべてが、なにかを私に伝えてくるのです。それにも増してベッドの上の中島成子と向かい合うと、私たちの間に奔流のように激しく通い合うものが感じられるのでした。
結局、私は真実を知りました。3日目、やはり病院に行かずにはいられなくて、病室をノックすると、最初の日にいた外務省の人が出てきました。彼は私の顔を見ると、目礼して席を外したのですが、その表情の中には、中島成子から私と彼女の関係を知ったに違いない雰囲気がありました。
私は見舞いを終えた後、廊下でこの人に直接聞きました。やはり、中島成子が私の生みの母でした。私は一瞬茫然となりましたが、同時に松村の父母がこれまで私に尽くしてくれた数々の厚情を考え、涙ぐまずにはいられませんでした。
それにしても、私にとって、突然知らされたこの現実は重いものでした。そしてやがて日が経つにつれて、自分には両親が2組あったことを幸せだと思うようになりました。その4人が、それぞれ非凡なものを持つ、私が心から敬愛できる人たちであったことを、心から神に感謝せずにはいられませんでした。
この幸運を与えられて誕生し、ここまで育てられた私が、いい加減に生きていいはずはありません。これからどんな苦しみが降りかかってくるかわかりませんが、私はそれを跳ね返し、必ずこの人生を意義あるものにしよう。自分自身にそう誓い、コロンビア大学に留学することにしたのです。
●『中丸薫という生き方』 <了>
*************
●『闇の世界権力をくつがえす日本人の力』(徳間書店 2004、2、29刊)
★日中友好に奔走する両親のもとに生まれた私 p199〜
輪廻転生や因果についてより理解できるよう、ここで少し私自身の話をしましょう。
私の人生はとても数奇で、密度の濃いものだと思っています。普通なら何回かの人生に分けて体験するようなできごとを、1回の人生で凝縮して体験しているような気がします。
私は北京で生まれました。父が孫文の片腕として長い間行動をともにしていたため、母・中島成子も中国に渡っていたのです。父・堀川辰吉郎は、明治天皇と御側女官の権典侍・千草任子(ちくさことこ)との間に生まれ、井上馨に預けられた後、政財界の重鎮だった頭山満に教育されました。そして、自由民権運動に挺身する頭山満、伊藤博文らと行動をともにし、中国で革命活動を行っていた孫文が、日本に亡命して頭山のもとへかくまわれたのが縁で、孫文の片腕として中国に渡りました。
孫文は父の姿を見て一目で気に入り、「日本の天皇の血を引く方がついてくだされば、革命は成功する」と言って、父が中国へ渡る許しを頭山に請うたそうです。父としては名誉な話でした。しかし、そのために父の首には孫文と同じだけの賞金がかけられ、中国の大地を孫文とともに駆け回ることになったのです。幸い、革命は成功して、孫文は中国からも台湾からも、「中国の父」とたたえられているのは皆さんご存知のとおりです。
一方、母は母で、抗日運動が高まる中国大陸において、日中両国の対立によって急増する難民の救済事業に貢献し、北京の屋敷は2000人を収容できる難民宿泊施設と化していました。母は私をおなかに宿していたときも、内蒙吉徳王政府工作のため、馬にまたがってゴビ砂漠を往復したといいます。その血潮を、おなかの中にいた私も感じたに違いありません。なぜなら私も後に結婚して最初の子どもを宿したとき、飛行機を乗りついで世界中を飛び回ってレたからです。
私が生まれたとき、北京の屋敷には大きな長持で20棹にも達する豪奢な反物や珠玉の装身具など、中国の富豪たちからの高価な祝いの品が、次々と運び込まれたそうです。私はまるでお姫様のように扱われていたのです。
ところが、生まれて45日目で盧溝橋事件が起こり、日中関係は不穏な雲行きに包まれました。中国から絶大な信頼を得ていた母は関東軍(日本軍)に必要とされ、私は母の手から引き離されました。預けられた先は、当時北京大学教授だった松村正之とその妻・ちかの家です。松村の屋敷では、朝、目を覚ますと必ず中国人医師がべツドヘ来て脈をとるという、何不自由ない、温室のような生活を送っていました。
★育った環境からごく自然に国際政治評論の道へ
父と母の日中友好への努力もむなしく、日本は太平洋戦争へと突入し、私は6歳のとき、松村の父母とともにあわただしく日本へ引き揚げてきました。そして、松村の父母の故郷である山梨県甲府市に落ち着いたのです。
北京のお屋敷暮らしとはうって変わって、そこでの生活は素朴でつつましく、大自然の中でのびのびと過ごすことができた私は、病弱だった北京での日々がウソのように、すっかり日に焼けた健康児になりました。戦争で食料は欠乏していましたが、松村の父は畑を借り、自分でそれを耕してジャガイモを育てていたので、家族が空腹を感じることはありませんでした。
あるとき、甲府の町が絨毯爆撃の標的となり、市街の大半が一夜にして廃墟と化すというできごとがありました。私の家は幸い被災を免れましたが、焼夷弾がパラパラと降ってくる恐怖は、今もはっきり覚えています。そして8月15日、避難していた薄暗い土蔵の中で玉音放送を聞いたときの、身の引き締まる思いは今も忘れられません。小学校2年のことでした。
終戦の直前、母・中島成子は、延安に野営する毛沢東のもとへ馬を走らせていました。そして、延安に到着するとまもなく、日本の無条件降伏という悲しい知らせを受け、そのまま戦犯容疑で獄中に入れられました。日中両国の平和のために東奔西走していた母にとって、容疑の晴れるのをじっと待つ日々は、どれほど辛かったことでしょう。・・・以下略・・・p202
●『闇の世界権力をくつがえす日本人の力』 <了>
中矢伸一「大霊脈を読んで」のある読者の観想〜内容の追求が乏しい?
http://ameblo.jp/maeni76pop/entry-11420624671.html
明治天皇と田布施システムの妄想
http://ameblo.jp/ici05876/entry-11781774952.html
明治維新は無血革命だったか
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3194
2015/3/22
落合莞爾(おちあい かんじ)
1941年、和歌山市生まれ。東京大学法学部卒業後、住友軽金属を経て経済企画庁調査局へ出向、住宅経済と社会資本の分析に従事し、1968年〜69年の『経済白書』の作成に携わる。その後、中途入社第1号として野村證券に入社、商法および証券取引法に精通し、日本初のM&Aを実現する。1978年に落合莞爾事務所を設立後は経営・投資コンサルタント、証券・金融評論家として活躍。日本および世界の金融経済の裏のウラを熟知する人物として斯界では著名な存在である。
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-758.html
京都御所で発見されたロスチャイルド家と酷似した紋章が見つかった。恐らく左はヨシュアのシンボルの一角獣で右がユダのシンボルの獅子だろう。それは清涼殿で見られる。エフライムとユダが一本の木になるように管理人はエルサレムのために祈っています。
ハンギョレ新聞〜明治天皇の孫という寸劇
http://hiro-san.seesaa.net/article/250626011.html
大霊脈という本が届いた
http://hiro-san.seesaa.net/article/250625957.html
孝明天皇毒殺説
http://tatsmaki.at.webry.info/200511/article_4.html
以下はフルスロットル 煩悩くんより
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-date-201203.html
「質問」
評論家・落合莞爾の「疑史 堀川辰吉郎と閑院宮皇統」によれば、孝明帝は下記の「堀川戦略」を立てられたそうですが、これは本当ですか?
・六条堀川の日蓮宗本圀寺の境内に秘かに堀川御所を設ける。
・孝明帝は時期を見計らって崩御を装い、そこに隠れる。
・皇太子・睦仁親王は遁世して堀川御所に隠れ、新天皇には南朝系人物が入れ替る。
・孝明帝の女官らの多くは新天皇に仕えず、堀川御所に入る。
・公家と少数の女官らが皇居で新天皇に仕える。
・この事態に対応するため、新天皇の宮廷を改革して女官を遠ざけ、閑院宮皇統の徳大寺実則が側近として近侍し、事情を知るごく少数の武官が侍従として警護する。
(回答)
ありえそうな話です。というのも鹿島説では岩倉具視が手引きして長州下忍の伊藤博文が厠で惨殺したとありますが、岩倉も一応公家であり、中の下の公家(羽林)ではあるが、摂関家をトップとした公家ヒエラルキーの中で果たしてそこまで大胆なことをするか? 鹿島説の怪しい部分です。鹿島説はメーソンに属する西園寺が盛んに流した話ではないだろうか。実際、伊藤博文を暗殺した安重根はそれ(天皇惨殺)を暗殺の理由として口にしていますが、本当に暗殺したのは欧米勢力です。安重根はJFKのオズワルドと同じ役割を与えられていたと思われる。つまり、陽動及び隠蔽です。それ以外にも堀川御所説が妥当と考えられる話として、世間ではキワモノ扱いされている堀川辰吉郎の子・中丸女史は明らかに残置国家・北朝鮮や公安とも親密であり、間違いなく背後にヤタガラスが憑いていると思われます。若き頃、世界要人とのインタビューが可能だったのも裏天皇を奉じる皇統奉公衆が裏で手配したのだろう(笑)。
明治天皇と田布施システムの妄想という記事がありました
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3193
堀川辰吉郎の正体 その1からお読みください
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/955.html
読まれましたら.....堀川辰吉郎と閑院宮皇統 その1からお読みください。紹介しました「大霊脈」に書かれていた明治天皇(大室寅之佑)のご落胤ではなかったことがよくわかります。
明治天皇遷都の様子ですが行った先は千代田城〜旧江戸城大奥(現皇居)〜女官(侍妾)たちは京都に残ったそうですから典侍や権典侍たちは一体どこから調達したのか疑問の残るところです。女官とは侍妾のことですが恐らく管理人のパラノイアによると天皇のお気にの千種任子(ことこ・花松典侍)だけ京都に残し堀川を産ませたのではないかと思っています。基本的に4人の典侍以外はセックスをしてはならないというのは建前であり実際は男女の関係はそうなってはいないのです。明治天皇の孫と自称する中丸薫氏は「私の母は千種任子で父は堀川辰吉郎」と公言しているようですが生前堀川が全ての資料を託した「いのちの会」によると中丸薫と堀川辰吉郎は一切関係がないとのことです。しかしそれは国内での話。
Wikiによれば「日本赤十字の看護師として大陸に渡り、満洲事変から日中戦争時期に抗日兵士の帰順工作を行ったという中島成子の娘として中国で生まれる。父親は明治天皇の隠し子を自称する堀川辰吉郎と主張している。ただし中島成子の夫は中国人の韓景堂であり、中島も韓又傑、韓太太(「太太」とは中国語で“奥様”)と呼ばれていた。薫の父親が堀川辰吉郎とする説の信憑性には大いに疑問が残る」と〜堀川氏のもうひとりの娘は中国の財閥として知られる張群氏の長男に嫁いでいるので信ぴょう性は全くない。ただしこれは血流からの話で生前堀川は海外で数百人の庶子を造った話もあり中島成子も侍妾であったとすれば話はわかりやすいがこれはパンツの中の話で追求はできない話だ。本人がそう言っているので多分そうではないでしょうか。一つ言えることは中丸薫氏が堀川辰吉郎と千種任子との間の子ではないことは決定的だろう。第一堀川辰吉郎の超美男子からあのドブスが生まれるはずはないし最一鼻が全く違う。
大文字で転載
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3187
『中丸薫は成子の4番目の子だった〜後日辰吉郎が明治四十三年から紫禁城に住んだと聞いて、肯綮に当たる感がした。韓叉傑(成子)盧溝橋事件の直前に紫禁城で出産したというのもまた奇異ではあるが......』とある。中丸薫の母は中島成子であり父は堀川辰吉郎と断定はできないが否定もできない。これが明治天皇の孫と自称するやや複雑な物語である。ただ一つの間違いは堀川辰吉郎が明治天皇(大室寅之佑)の皇子ではなかったという事実である。
注:紫禁城とは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E7%A6%81%E5%9F%8E
それに関する記事
http://blog.goo.ne.jp/palinokuni/e/e4407a0ac88d1466c04e8f2983b9ac5f
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その1
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/353.html
左の目次にカーソルを乗せクリックすると記事を見ることができます。
堀川辰吉郎と閑院宮皇統 その1
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/952.html
裏天皇の正体 その3
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/10/002608.html
やはり落合莞爾氏の記事がベースになっているようです
疑史(第七十回) 清朝宝物の運命(3)
世界近現代史における満洲(現在は中華人民共和国の東北地区)の意義について本稿が述べた先月号に、奇しくも山浦嘉久(『月刊日本』論説委員)も之に触れている。三月二十六日の韓国海軍哨戒艇「天安」の沈没事件に関して国際軍民合同調査団が発表した「百三十トン級の小型潜水艇から発射された大型魚雷による」との見解に対し、「北朝鮮がその種潜水艇を保有しているとしても、かかる大型魚雷を発射するのは不可能で、人間魚雷か某国の最新技術を使うしかない」との某軍事筋の指摘を挙げつつ、真相不明のこの事件により、アメリカの国際戦略が一歩進んだと説いた(『満州のイスラエル−誰が「天安」を沈めたか−』)。
確かに、国際軍民合同調査団が事件の元凶と看倣した北朝鮮では、事件直後の五月に金正日総書記が倉皇として訪中し最新鋭戦闘機の供与など軍事援助を要請したが、拒否された。また、北朝鮮が韓国に向けて頻りに事件の合同調査を呼び掛けているのも、不意討ちをした側としては極めて不目然な対応というしかない。因みに、第三国のロシアも真相不明との立場で、韓国との合同調査を望んでいることも、事件の複雑さを暗示している。
ところが、真相不明の本事件により自国の安全保障の切実さを眼前に見せ付けられた日本では日米軍事同盟上の懸案たる普天間問題が一瞬で吹き飛び、従来標榜してきた下級メーソン的夢想が破綻した鳩山首相は辞任を余儀なくされた。逆に韓国では、北朝鮮の関与を疑問視する声が高まって対北強硬路線の李明博政権が統一地方選で敗北し、米朝野合に対する現政権の障碍性が大幅に減じることとなった。米朝野合の目的は、謂うまでもなく中華帝国の封じ込めにあるが、その先に「新満洲国」の建設という遠大な計画があり、中東問題の根本的解決としてイスラエル共和国の満洲移設を果たすための橋頭堡が北朝鮮だと、山浦は説くのである。
日本陸軍の「河豚(ふぐ)計画」は、欧州のユダヤ難民を満洲に迎え、以てソヴィエト・ロシアに備えることを目的としたが、結局実行に至らず、欧州のユダヤ難民は、バルフォア宣言によりパレスチナの地を与えられて現在のイスラエル共和国を建てた。そこが原住アラブ族の居住地だったために生じたパレスチナ問題は、時間の経過とともに悪化するばかりである。翻って「河豚計画」を診れば、当時の北満黒龍江省の地は元来満洲族の土地で原住人口が少なく、漢族の移住者も未だ希薄であった。
満洲政権が当地に漢族を移住させたのは、やはり帝政ロシアに備える住民の壁を意図したものだから、当地に新イスラエルを建てる計画は、パレスチナヘの強制的移住に比べて格段の合理性があった。要するに「河豚計画」とは、満族政権に替わった日本が、漢族に加えてユダヤ族をも誘致しようとした案である。今日の論者は「河豚計画」を日本陸軍の立場からのみ論ずるが、根底にグレイト・ゲーム即ち地政学的発想があるのは当然のことで、しかも一神教内の対立を絡めた発想者は、どうみても海洋勢力の本宗たる在英ワンワールド以外には有り得ない。
在英ワンワールドの傘下で世界政略の一翼を担った明治日本は、東アジアにおける対露防衛を担当し、日清・日露両戦役で見事その重責を果たした迄は良かったが、その後は海洋勢力内での軋轢が生じ、米英両国と対立することとなった。折から重工業化に向けて進み出した日本資本主義は、地下資源が豊富な満洲を自家薬籠化することを熱望する一方、農業社会からの脱皮の過程で発生する過剰人口を送りこむ植民地の必要を感じていた。由来、交易と投資を以て植民地を商業主義的に間接統治する海洋勢力の本筋に対し、大量の殖民により原住民を同化・消滅せしめ、その土地を奪って直接支配するのが大陸勢力の伝統的戦略で、その本宗がロシアと黄河流域の農牧勢力である。日本が満鉄によって南満洲を間接統治したのは、海洋勢力の本家イギリスのインド支配に範を採ったもので、児玉源太郎の命により其の青写真を描いたのが上田恭輔であった。
台湾政策においても、総督制による植民地制を採りながら現地民の甘薯栽培を保護したのは、そもそも台湾政策の根本を建てた高島鞆之助と樺山資紀が、在英ワンワールドの伝令使・杉山茂丸を通じて海洋勢力的統治策の根本を理解していたからであるが、その知識と知恵が朝鮮半島経営には生かされなかった。原因は幾つかあるが、一つは朝鮮総督府を独占した長州陸軍閥の総帥たる山県有朋が、親露的かつ親大陸勢力的性格が濃かったことであろう。之が陸軍の悪しき伝統となり、満洲事変後の満洲政策を左右して、石原莞爾が折角建てた海洋勢力的構想を変改・破壊してしまったのである。
時制を辛亥革命に戻す。時の陸軍参謀総長・奥保鞏大将(小倉)が、長州人事により翌年一月に長州の長谷川好道大将に交替した。参謀次長・福島安正中将は信州人だが長州閥に近く、部下で欧米情報と支那情報を管轄する第二部長が肥前出身の宇都宮太郎少将であった。近来発表の『宇都宮太郎曰記』が明らかにしたのは、明治三十年大尉参謀の宇都宮が、来るべき曰露戦に備うべく高島鞆之助中将を参謀総長に就ける目的で、橋口勇馬大尉と「起高作戦」企て、陸士四年先輩(旧制三期)の上原勇作大佐に協力を仰いだ事である。下って明治四十四年八月、参本第二部長・宇都宮少将は、長州人ながら陸軍改革に熱心な陸士一年後輩の田中義一少将と組んで上原陸相の実現を図り、ほぼ成功を信じていたものの、寺内陸相が側近の石本新六を陸相に就けてしまう。ところが石本が急死、いよいよ上原に陸相の座が回ってきた四十五年四月、宇都宮は、同志で親友の上原が陸相に就き陸軍が長州支配を脱したと歓喜の声を挙げている。
『宇都宮太郎曰記』の解題で桜井良樹(*『日記−2』の解題者)は、「宇都宮は、上原の政治的参謀の位置にあった」とするが、それ以上立ち入らないのは学校史学の限界であろう。宇都宮が上原の股肱として尽したことは、上原系事業のミノファーゲン製薬が、後に子息・宇都宮徳馬に与えられたことでも分るが、その宇都宮にして、高島鞆之助と上原勇作との間の極秘関係をどの程度まで知っていたのか、分らない。ともかく『宇都宮太郎曰記』の明治四十五年一月分は、前月号で述べた第一次満蒙独立運動を、当時の陸軍参謀本部が工作していたことを如実に示し、二月二曰には不曰蒙古へ派遣される旧友・守田利遠大佐が来宅し、宇都宮は任務の大体を告げたとある。参謀次長・福島安正の関東都督転任が四月二十五曰に決まり、二十二曰(*5月22日)にその赴任を新橋駅に見送った宇都宮に、福島は「西国寺首相から、蒙古の事は自分が一切処理するようにとの内訓を受けた」と伝えた。満洲の事は当然関東都督の管轄だが、蒙古のことは参謀本部が直接経営する方が良いと考えていた宇都宮も、政府の方針には従うと決めた。
六月八曰、宇都宮は上原陸相を訪れ、「満蒙における承認条件の最低限(支那分割私案の追加条項)及び満蒙探検隊につき」具申し、同時に満蒙探検に派遣する曰野強中佐に任務の概要を与えた。これより前の五月二十一曰、参謀本部は歩兵中佐・曰野強を、蒙古人の宗社党領袖・升允の許に密派することを確定し、その後宇都宮は曰野に何回も会い、重要な訓示を秘密裏に与えたことが分る。
九月二十一曰(*二十日)、倉知外務次官を訪れた宇都宮は、満蒙事業につき交渉し、対支那処置に及んだ後、関東都督府事務所を訪れ満蒙処分案につき意見を述べた。内容は、既に上原陸相に提出したもので、満蒙における我が地歩を進めることと、鄭家屯(タイシャポー)事件の賠償と死傷損害に対する相当の処置の必要を述べた。同二十八曰、関東都督福島安正中将から第一次満蒙独立運動中止の命令が突然下り、奉天特務機関長・高山大佐は同曰付で守田大佐に更迭された。中止の理由を福島は、外交上の必要から蒙古工作中止の閣議決定がなされたと説明したが、宇都宮曰記には何の記載もない。革命直後は粛親王を担いで満蒙独立を画策した参謀本部も、中華民国の分割を嫌う英国の意志が外務省から伝わってくると、粛親王の計画は時に利あらずとの見方が生じ、折しも張作霖が奉天の軍権を握ったのを奇貨とし、之を支援して裏面から操縦しようとの発想が芽生えて奉天派を成した。
昭和40年10月28日 中国大使館において署名(孫科氏と....魏道明大使)
孫文から受け継がれた神盤
神盤に祈りを込める高松宮殿下
(前列右より)堀川氏,ルーズベルト大統領夫人,カーペンター芳子さん
(後列右より)湯川スミ女史,ミス仙台,ミス日本(山本富士子さん),ミス東京,湯川秀樹博士〜堀川辰吉郎の息女芳子さんが嫁いだアメリカのカーペンター家は大資産家だったそうです。もうひとりの息女弘栄さんは永野ファミリーの長男と結婚。もうひとりの娘は中国の財閥として知られる張群氏の長男に嫁いでいる。
若かりし頃の堀川辰吉郎(前列左)後ろにいるのは育ての母堀川千代さんか?
画像は中矢伸一著「大霊脈」より拝借
京都皇統の中心で皇室外交を実践していた堀川辰吉郎は、弱冠にして孫文の秘書となったが、一方では張作霖にも慇懃を通じ、子息・張学良と義兄弟の盟を交わした。孫文の漢族自立革命と、醇親王の張作霖利用による満洲保全策は、どちらも満漢分離を前提としたもので、本来少しも矛盾しない。そこで醇親王は、極秘扱いの「乾隆秘宝」の存在を辰吉郎に明かし、両人は之を張作霖の軍費に充てることを決断した。時期は恐らく大正三〜四年ころである。
折から民国では北洋軍閥の総帥・袁世凱が権力を掌握し、帝政を復元して自ら皇帝に即こうとしたので宗社党と関東軍内の旅順派を剌激した。袁世凱は五年六月六日に急死するが、裏では孫文革命党を支援する辰吉郎の手が動いたと言われている。
大正五年年末から六年初にかけて、張作霖が奉天北陵の秘納庫を襲い「乾隆秘宝」を強奪したことが演出されたが、強奪でない証拠は、接収が七回に分けて行われ、満鉄調査役兼総裁特別秘書・上田恭輔がその都度立ち会っていることである。上田は接収の都度、満鉄製図技師の三井良太郎に四百五十点もの古陶磁の克明な絵を描かせたが、強奪ならばそんな悠長なことをする筈がない。絵を描く時間が必要で、接収に七日も掛けたのである。
大正三年以来大連に住んでいた大谷光瑞師が、手下の上田恭輔に立会を命じたわけで、目的は「乾隆秘宝」の中でも価値の高い古陶磁のカタログ作成と、「乾隆秘宝」の預け先となった張作霖の監視であろう。大谷光瑞師は西本願寺の実質法主ながら、京都皇統の辰吉郎を補佐する立場として、この工作を企画したのである。張作霖が強奪した形の「乾隆秘宝」の中の「奉天古陶磁」を、上田恭輔が寄生先の満鉄を利用して倣造を始めたのは接収直後の大正六年で、九年春になり関東軍参謀長・浜面又助が倣造陶磁を関東軍の戦略として利用することを立案した。六年に粛親王と宗社党を担いで第二次満蒙独立事件を企てた関東軍旅順派は、粛親王に対して戦費補償の責任を負い、その履行に腐心した浜面が、たまたま満鉄の倣造工作を知り、それなら宗社党にも幾分か権利があると考えて、倣造工作の分け前に与ることを陸軍中央に具申した。
参謀総長・上原勇作も表向きは賛成したらしく、九年春に陸軍中央で正式に認可されたが、奉天派の上原参謀総長は、奉天特務機関を新設して腹心の貴志彌次郎少将を機関長に補し、張作霖との懇親と「奉天古陶磁」の換金による張作霖の軍資金作りを命じた。その際、個人付特務の吉薗周蔵に、浜面案の妨害を秘かに命じたのは、浜面の真の狙いが倣造品よりも「奉天古陶磁」そのものにあると察したからと考えられ、元々は光瑞師の示唆ないし要請と思われる。
清朝宝物の運命 (4)
ごく最近のことに、「乾隆帝が奉天に隠した宝物は堀川辰吉郎が秘かに買い取った」と聞いた。情報源は「その筋」というしかないが、その売主を二代目醇親王、時期を大正三〜四年頃とするのは、私(落合)の推測である。清朝末期の光緒帝は明治四十一年十一月十四日に不審な崩御を遂げるが、最高実力者西太后(一八三五〜一九〇八)も翌日に他界し、次の皇帝に四歳の溥儀が即位して宣統帝と称し、皇帝の実父で光緒帝の弟・西太后の甥に当たる醇親王が監国摂政王に就いた。清朝の軍権を掌握した醇親王は、戊戌変法の際に西太后に与して兄光緒帝を裏切った袁世凱を四十二年正月に罷免、四十四年五月には軍機処を廃止して責任内閣削を実施し内閣を組織した。辛亥革命が始まると、醇親王は隆裕太后(光緒帝の皇后)の命令により全権を袁世凱に譲らされ、十一月十六日付で袁世凱内閣が成立する。
イギリスを初め列強は、孫文革命政府のナショナリズムがもたらす排外主義を畏れて、北洋軍閥の総帥袁世凱の保守性に期待した。列強の輿望を感じ取った袁世凱は、自分と反目する醇親王が実権を握る清朝を見切り、清朝政府と南京臨時政府の間に立って妥協を成立させた。条件は、宣統帝の退位と自らの南京臨時政府大統領就任で、宣統帝と醇親王には革命後も安全を保障し引き続き紫禁城の居住を認める優待条件を示した。この案を醇親王は受け入れ、軍事力に不安を抱えた南京臨時政府も従わざるを得ず、宣統帝は明治四十五年(大正・民国元年)二月を以て退位し、以後も満族皇帝として紫禁城に住むこととなり、醇親王はその後見役となった。同年一月に南京で臨時大統領に就任した孫文は前述の条件に従い、三月その地位を袁世凱に譲る。
清室の中心は明治四十一年末以来醇親王であった。従って四十二年に、訪日途上の英国元帥キッチナーに北京で宣統帝の名で桃花紅合子を賜ったのも、奉天宮殿で江豆紅太白尊を贈呈したのも、すべて醇親王の計らいである。義和団事変の後、ドイツ公使殺害の謝罪使としてドイツに渡った醇親王は、世界の大勢すなわちワンワールドの存在と意志を知って帰国し、開明思想に基づいて清朝の政体を立憲君主制に移行させたが、時既に遅かった。これより前、保守思想の権化西太后も漸く清朝倒壊の時機を覚り、腹心袁世凱を通じて日本皇室に今後の満洲経略を諮ったが、明治皇室も政体桂太郎内閣も敢えて対応を避け、京都皇統の堀川辰吉郎にすべてを委せた。清朝の中心醇親王は明治十六年生まれで辰吉郎より三歳年下に当たる。同世代の両人はワンワールドに対する認識を共有することからも見識相通じて、爾後の満洲経略を練った。四十二年に中島比多吉が紫禁城に入って溥儀の傳役となり、翌年には辰吉郎が紫禁城の小院に寓居を構えるが、すべて醇親王の計らいであることは言うまでもない。
粛親王と蒙古族升允が率いた保皇宗社党は、清国領のうち中華本部(プロパー・チャイナ)を中華民国に残し、満蒙地域を分離させる方策を定めたが、彼等の満蒙独立運動を支援したのが陸軍参謀本部と関東都督府陸軍部(関東軍)であった。海洋勢力の本宗イギリスが清国旧領の分割を望まなかったためか、革命政府は孫文の民族主義には背馳する大漢族主義を国体に選んだので、新生中華民国は清国と変らぬ複合民族国家に停った。しかも国家支配層が満族旗人から漢族軍閥に交替したために軍事的にも国家的統一を欠く羽目になり、各省の治安は自立割拠した地方軍閥に依存せざるを得ず、北京政府を守れるのは清朝以来の北洋軍閥しかなかった。要するに中華民国の政体は、帝政でも共和政でもなく、割拠した軍閥による一種の封建政体であった。これらはやがて北京(華北)・広東(華南)・泰天(満洲)の三大地域覇権に収斂して二十世紀の三国時代を現出し、国共内戦を経て国家統一を実現するが、その原動力は何であったのか。一般には、中華民族主義が本来統一国家を悲願としていたと説かれるが、さんざん苦労して実現したものは、近代ナショナリズムの原則とは全く異なる複合民族国体である。識者が、中華思想究極の理想たる大一統(中華文明に因るワンワールドの実現)へのベクトルを指摘し、その序曲としての国内統一と説くのには、やや肯綮に当たる部分もある。私(落合)自身は、この問題はワンワールドの世界経略を抜きにしては考察不可能と思うが、目下それ以上の想像を慎んでいる。
民国初年、醇親王から乾隆帝の泰天秘宝の存在を明かされた辰吉郎は、西本願寺法主・大谷光瑞師管理下の国体資金を用いて早速買い取った。目的は国事に用いるためで、代金はおそらく、革命後不如意になった醇親王と宣統帝の諸用に供されたのであろう。わが皇室にとって清室所蔵の古陶磁が単なる隣国の珍玩でなかったことは、辛亥革命の直後、泰天宮殿内磁器庫の清朝陶磁が放出されるとの風説を聞いた外務大・臣内田康哉が、「その筋において購入の意志あり。価格などを探れ」との訓電を奉天総領事・落合謙太郎に発した事で分るが、乾隆秘宝はそれよりも更に重大な意味を有していたのは論を挨たない。
関連記事:乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む
http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2014-01-18
辰吉郎と光瑞師は、買い取った乾隆秘宝中の「奉天古陶磁」をネタに、二つの作戦を建てた。一つは換金して奉天の新興軍閥張作霖の軍資金とすることである。大正三年に奉天の軍権を掌握した張作霖は、丹波皇統奉公衆の出口清吉が明治三十年代から親日傾向に誘導してきた緑林の頭目で、之を養成して奉天に親日的覇権を維持するのが日満合作の基本的戦略であるが、兵器近代化の資金が日本からの援助であることを隠蔽するために、張作霖が自力で乾隆秘宝を強奪した形を装うこととした。そこで張作霖に、大正五年末から六年二月に掛けて七回に亘って宝物強奪(真相は移管)をゆっくり実行させることとし、その都度光瑞師は配下の上田恭輔を立ち会わせた。満鉄調査役兼総裁特別秘書の上田は、満鉄製図工の三井良太郎に命じて、「奉天古陶磁」を一点ずつ測量した上で克明に写生させた。中身は乾隆帝の思いが籠もる清初三代の御窯倣古品が多かったが、それらと唐三彩を除いた伝世の古陶磁四百五十点の図譜を三井は作成した。「奉天古陶磁」を紀州徳川家に嵌めこむ商談を基本任務とする上田が、取り敢えず商品カタログとして作った三井図譜は、実質的寄託先の張作霖を監視するための管理資料としても必要だったのであろう。もう一つは「奉天古陶磁」の報道である。その真の目的を、ワンワールドの文化戦略と推定する理由は、事後的に報道工作に多くの白樺派と共産主義の文化人が関わっているからで、彼らがワンワールドの末端であることは言うまでもない。
洪憲皇帝に就こうとした袁世凱は五年六月に急死する。これを中矢(伸一)は辰吉郎の工作と謂うが、頗る肯繁に当たる。南方革命派の孫文とも奉天覇権の張作霖とも昵懇だった辰吉郎が、愛新覚羅氏に代って帝政を維持せんとした袁世凱を排除するのは当然である。張作霖による仮装強奪は、袁の死を待って実行されたが、倣造計画は既に袁の生前に始まっていた。そう見る理由は、上田が五年春に支那陶磁研究の必要を説く論文を『明治紀要』に発表しているからで、上田は仮装強奪の直後、満鉄試験場内に窯を作り、京都から名工・小森忍を招いて倣造を始めた。
大正九年春、関東車参謀長・浜面又助少将が上田恭輔と組み、関東軍として満鉄窯の倣造工作に参加する計画を具申した処、陸軍中央から許可が下りた。浜面の目的は、粛親王に対する戦費補填の資金捻出にあると観るのは、満蒙独立運動の戦費を一人で工面した粛親王に対して関東軍が補償責任を負っていたからである。ところが、陸軍中央の一人上原勇作参謀総長は、九年五月に紀州藩士・貴志彌次郎少将を奉天特務機関長に任じ、張作霖との懇親と上田がもたついている紀州家商談の促進を命じた。同時に個人付特務の吉薗周蔵を奉天に派遣し、貴志の支援と浜面・上田の倣造工作妨害を命じた。これはおそらく、上原のワンワールドでの同志である光瑞師から内密の依頼を受けたものであろう。関東軍を倣造工作に巻き込んだ上田は気付かなかったが、光瑞師は浜面の真意を「倣造品でなく本物の売却金にまで粛親王を与らしめること」と看破った。関東車の介入が計画全体に齟齬を来たす怖れを感じた光瑞師と上原参謀総長は、表向き諒承しながら裏面で妨害に出たのものと思われる。
満鉄倣造品の出来栄えについて吉薗周蔵は、大正九年の『周蔵手記』では、「小森の手腕により本物そっくりに出来た」と感心しているが、後年には「上田・小森の作品はどうやら本物になれないらしい」との記述に変わる。これが真相で、倣造工作は結局成功しなかった。九年夏奉天に来た吉薗周蔵が大金を持っていると知った上田は、倣造窯を私営化する資金を作るため、三井図譜を五千円で周蔵に売却する。いずれ再製作すれば良いとの考えであったが、あに図らんやとうとうその機会に恵まれなかった。上田が後年しばしば周蔵を訪れて三井図譜の借覧を求め、買い戻し話まで切り出すのは、小森の倣造品を本物に近づけるためには三井図譜を必要としたからである。
貴志彌次郎の苦心が実り、紀州家に秘宝が渡ったのは、貴志が中将に進級して下関要塞司令官に転じた大正十三年であった。奉天兵工廠増強のための資金需要が膨らんだ張作霖には結局七百五十万円が渡されたが、紀州家は二百五十万円しか負担できず、残りは光瑞師所管の国体資金で賄われた。当初醇親王に渡した代金と合わせると、国体資金の出椙総額は五百万円を遥かに超え、それを回収するため、光瑞師は「奉天古陶磁」の多くを秘かに売却した。現在世界各地の美術館が、世界の秘宝とか中華文明の精髄として展示する逸品の大多数は、この時に光端師が売却した品である。残った名品を、光瑞師は戦後の日中国交回復に役立てようとしたが、病没のため果たせなかった。
粛親王らの満蒙独立運動に対し、醇親王が同調しなかった理由について、学校史学で教える処は、満族の漢族化か進み漢族社会を出る気概に欠けたとする。要するに民族的自覚の喪失と解して、満族を「亡国之民」視するのであるが、私見は、実情はその逆ではないかと疑う。つまり清朝二百七十年の間に、満族の一部が将来の漢族自立を見通して漢族社会に秘かに浸透し隠れた支配階級を形成したので、今さら漢族社会を脱却して新国家を建てるのを徒労の暴挙と考えたからではないか。「満漢通婚が許された明治三十五年以後の僅か十年ではあり得ない・・」との批判に対しては、そのずっと以前から満族の漢族進入が進んでいたとする仮説である。
南北戦争後に出来た黒人国リベリアに帰ったアフリカ系米人も、先次大戦後に悲願が叶ったイスラエル共和国に遷ったユダヤ族も全体の少部分で、多数は現住社会に根差して新社会を望まない。被圧迫民にしてこれだから、清国の支配階級満族が漢族自立後について全然無策であったとは思えない。
一応リンクとして......あくまで参考です
裏天皇の正体 その1
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/09/002604.html
裏天皇の正体 その2
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/09/002607.html
裏天皇の正体 その3
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/10/002608.html
裏天皇の正体 その4
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/10/002615.html
裏天皇の正体 その5
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/10/002616.html
上のリンクで裏天皇の正体 その6 その7 その8 その9が抜けていました
裏天皇の正体 その6
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/12/2645.html
伏見宮海外ネットワークはここを参照(その6)
裏天皇の正体 その7
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/12/2669.html
裏天皇の正体 その8
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/01/2646.html
裏天皇の正体 その9
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/01/2647.html
なぜか10〜13がなくて
裏天皇の正体 その14
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/03/2713.html
裏天皇の正体 その15
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/03/2715.html
裏天皇の正体 その16
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/05/2716.html
目次
第1部 奇兵隊天皇と防長卒族(明治大帝は周防の地から;大室天皇はなぜ田布施にいたのか;卒族たちの憧れは奇兵隊天皇;壬申戸籍とは何か)
第2部 薩摩藩と白山伯(幕末の怪火・倒幕論の火元;新政体の起案者;大政奉還は慶喜が進めた)
第3部 維新の裏方となった有栖川宮(龍馬の黒幕・尾崎三良の正体;有栖川宮と小栗忠順と二人の尾崎)
【商品内容】
京都皇統代の加勢舎人からの仄聞──
●護良親王の血を引く大室家を「玉」として周防国熊毛郡に匿った。
●熊毛郡麻郷の佐藤甚兵衛に命じて大室家を保護させていた。
●大室家を守るため、興正寺の別院を田布施に設けていた。
●吉田松陰の実家の萩の杉家は、大室寅之祐を世に出す役目を担っていた。
●半島渡来民との混血・長州卒族の武士身分の悲願を明治維新に込めていた。
──大室天皇説論争についに終止符が打たれる!
【目次】
第1部 奇兵隊と防長卒族
第一章 明治大帝は周防の地から
大室天皇説の衝撃
しだいに明らかになる「堀川政略」
清華三条家と土佐藩主山内家
安政大獄は井伊と水戸の大芝居
大室寅之祐の氏姓鑑識
大室家は護良の末裔で女系は名和氏
伊東巳代治は寅之祐の従弟
巳代治の母は大室スへの妹
フルベッキ写真と大室寅之祐
フルベッキ写真が撮った真実
第二章 大室家はなぜ田布施にいたのか
鞠府に匿われた大室家
日本分裂の危険を孕む大内軍閥
興良親王の周防入り
麻郷大室家を巡る民間伝承
福尾教授の大室天皇説
三浦芳聖の北陸朝廷説
大室家を保護した佐藤甚兵衛とは
南朝真宗興正派と麻郷西円寺
西円寺スㇸの素姓
第三章 卒族たちの憧れ奇兵隊天皇
防長卒族・陪臣の士族組み入れ
防長の地は多々良氏の本拠
大内氏の滅亡
史書が眼を逸らす半島民の渡来
大内氏の傭兵となった村上海賊
防長卒族・陪臣の淵源
士族・卒族・臣隷(陪臣)
明治三年の族籍分類
奇兵隊は奉公人に戦功を与える目的
卒族振興を策した吉田松陰
戊辰戦争は片八百長
第四章 壬申戸籍
下級武士史観がそもそもの誤り
明治二年十二月二日の族籍令
族籍調査と編籍の実施
明治五年に新「士族」が誕生
両公爵の族籍
身分捏造を護った皇国史観
雑種とは何か?
雑兵とは何か?
奇兵隊創設と「戊辰の役」の目的
維新後に違いが現われた薩長の個性
第2部 大政奉還の実相
第五章 幕末の怪火・倒幕論の火元
幕末→維新の決定的転換点
明治維新を実際に采配したのは
江戸幕府最後の問題
薩摩藩の外交を主導した者
怪人モンブラン伯爵と妖僧カション神父
池田使節団の本当の目的
白山伯、薩摩使節と幕府使節に同時接近
白山伯の持ちかけた琉球国の万国博出展
カション神父と万国博幕府使節
白山伯、琉球国の万国博事務総長に就く
フランスお政の高級娼館
白山伯の本当の年譜とウラ噺
第六章 新政体の起案者
「船中八策」は公武和一論
倒幕必至論の中岡慎太郎と首鼠両端の龍馬
倒幕密勅の裏側
大政奉還の刻迫る
尾崎三良に借りた「新政府綱領八策」
尾崎三良の政体案
龍馬手を拍って喜ぶ
尾崎構想が岩倉の正体を暴露
岩倉具視の本当の役割
小栗はなぜ抗戦を叫んだか
第七章 慶喜と大政奉還
大政奉還を渇望していた慶喜
渋沢栄一の衷情が滲む『慶喜公伝』
公議政体の具体像に悩んだ慶喜
下士卒族が時代の覇者に
啐啄同時で成功した明治維新
「堀川政略」の幕末工程を進めたのは誰か?
慶喜の排除を主張した維新三傑
生きていた三条実萬
中山忠光の朝鮮渡海
ウラ天皇が明治維新を仕切った
永世親王伏見殿がウラ天皇
建武政権に始まる政治的八百長
伏見殿の直臣水戸徳川家の素姓
水戸家と池田家を結んだ熊沢蕃山
水戸斉昭と三条実萬が「堀川政略」を進めた
第八章 龍馬の黒幕は尾崎三良
龍馬と尾崎三良の不思議な接点
政商は文筆が苦手
政商と法制官僚
龍馬の暗殺は誰が?
尾崎三良が帯びた密命
尾崎原案の背後の人影
第九章 二人の尾崎と有栖川と小栗忠順
二人の尾崎
尾崎三良は仁和寺宮の密子
三良の母桃華子は拝領妻
憲政の神様尾崎咢堂
大隈・小栗連合の証人矢野文雄
尾崎咢堂の資金源は渋沢栄一
小栗が大隈と矢野を結ぶ民主派トライアングル
民主派トライアングルのどえらい財源
尾崎テオドラは有栖川の血筋
有栖川宮の真相
有栖川を尾崎両家に入れた
なぜ新皇統が周防国熊毛郡田布施郷から出る必要があったのか、なぜ興良親王の子孫が田布施に置かれて大室流皇統とされたのかを説明し、「明治天皇すり替え説」を結論づける。
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-513.html
大室寅之祐と田布施
『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』(落合莞爾 成甲書房)だが、第T部「奇兵隊天皇と防長卒族」を漸く読み終えた。第T部の内容は、大室寅之祐(明治天皇)の遠祖が大塔宮(護良親王)であること、さらには田布施の謎、すなわち卒族の存在を浮き彫りにしたもので、息を呑んだ読者も多かったことだろう。
管理人注:大塔宮政略
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/3176
ついでに........
裏天皇の正体 その16
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/05/2716.html
現在通読中の第U部は明治維新の原動力となった、薩長藩閥のもう一方の雄藩・薩摩を取り上げている。本業に追われているので、第U部を読了するのは今週末になりそうだが、この後の展開が今から楽しみである。
ところで、通読中の第U部に落合さんの著した『南北朝こそ日本の機密』(成甲書房)に対して、以下のような批判があったという。
「南北朝なんて、そんな下らないモノをテーマにせず、小栗上野介のような面白いモノを書け」『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』p.133
2015/3/22
関連記事:大塔宮政略
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/3176
明治天皇の系譜は一応こうなっている
http://www.geocities.jp/japanischekonigsfamilien/japan/122.html
明治天皇は中山慶子が鍵
http://ameblo.jp/64152966/entry-11373379484.html
『さらに鬼塚氏は興味深いことを書いている。
明治天皇の生母とされる中山慶子(つまり孝明天皇の種をもらった女性)の墓が東京・文京区の豊島ケ岡墓所にある。ところがこの明治天皇の生母の墓を、明治天皇を始め皇族まで誰も参拝に行っていないのだという。現在の中山家当主は、鬼塚氏の問い合わせに「生母に関しては箝口令がしかれていて、一切答えられない」と言ったそうだ。これはつまり、明治帝がやはり孝明天皇と中山慶子の子ではないことの証明である』.....当たり前ですね,孝明天皇は生きていたのです。つまりすべて孝明天皇の陰謀だったということでした。じゃんじゃん!!
南北朝時代 (日本)
日本における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、日本の歴史で、皇室が南北2つに分裂した時代である。一般的には鎌倉時代の後で、元弘の変や建武の新政も南北朝時代の事件として含まれる。正確には、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に皇室が合一するまでの時代を指す。これは室町時代の初期に当たる。
この時代の朝廷には、南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在する。それぞれ正統性を主張した。南朝を正統とする論者は「吉野朝時代」と称する(→南北朝正閏論)。後述のように皇室は南朝を正統としている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29
南北朝の天皇 をご覧ください(Wiki元記事)
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-751.html
疑史 第68回 ★清朝宝物の運命 落合莞爾
前月まで二回に亘り奉天宮殿の清朝秘宝について述べたが、実はこの他に、成立の経緯を異にする宝物が奉天にあった。それは乾隆皇帝が極秘に隠匿秘蔵した数千点に及ぶ各種美術品で、成立の時期を「四庫全書」が完成した乾隆四十七(一七八二)年と推定する根拠は、乾隆帝がこの年に奉天に文遡閣を建て、宮殿の改装など大工事を行っているからである。つまり、奉天宮殿の大工事に紛れて宮殿外の数か所に宝物の秘納庫を設けられたものと推量するのである。
正確な場所は分からないが、天正五年暮れから六年二月にかけてその宝物を接収した奉天省長兼督軍の張作霖が、一部を奉天軍司令部(張氏帥府)に移したものの、残りを北陵内の番小屋に保管していたことから見て、秘納庫は元々広大な北陵の中に、数か所に分けて設けられていたものと思う。奉天北陵は清朝第二代皇帝皇大極の廟所であって、清朝時代には番兵が常駐して厳しく警護していた。例えば紀州藩が下津長保寺を、金沢藩が卯辰神社を重代の宝物の秘庫としたように、秘宝の隠し場所は古今東西に亘り、古社寺と相場が決まっているが、蓋し北陵は宝物隠匿に最も相応しい施設であった。
宝物の倉庫として既に奉天宮殿を利用しているのに、乾隆帝がわざわざ隠し蔵を設けた理由を、皇帝が漢族意識に染まったからだと吉薗周蔵は説明している(『周蔵手記』)。則ち、表面に見せる何倍もの財貨を隠す漢族富豪の風習として、貴重な財物は絶対他人に見せないが、それにも法則がある。所有財物を四級に分け、A級は存在さえ絶対に見せない。B級は、普段は隠しておき必要に応じて敵の上使(交渉相手)にやや見せる。相手に褒めさせて強引に押し付けるという巧妙な贈賄が目的である。C級は日頃から応接間に飾り、D級のごときは居間に転がしておいて、客の目に留まったら躊躇なく与える。清朝の支配者満洲族も永年漢族に囲まれて暮らす裡に漢族の気質に染まり、紫禁城にはC級を日常に飾り、B級を秘蔵し、A級宝物にあっては存在そのものを隠す癖が付いたと云うのである。
大正九年七月奉天に派遣された吉薗周蔵に上記の説を吹き込んだのは、既に紹介した満鉄総裁秘書の上田恭輔であった。それを聞いた周蔵が、漢族特有の財貨隠匿習慣だけに絞ったのは説明として不完全で、その根底にある面子―メンツー意識を知らねば、完全な理解は無理だろう。識者によれば、面子意識の本質は、極度に形骸化された虚栄心が漢族の根底的行動規範として固定したものらしい。虚栄心には様々な形態があるが、その最たるものは磊落を気取る事で、要するに吝嗇の謗りを受けたくなく、その結果として「他人に所有物を褒められたら無条件で与えよ」との行動規範が固定化したが、形骸化した虚栄心に過ぎず、本音は与えたくない。そこで、絶対に他人に与えたくないA級品は、その存在を隠すことで、規範と本音の矛盾を回避したわけである。乾隆帝の如く一天万乗の主であっても、意識が漢族化したからには、その根底的行動規範に従わざるを得ず、因って自らA級品を選んで泰天城に送り、厳重に隠匿した。上田のそんな説明を、周蔵は単純化して理解したのである。
乾隆帝の奉天秘宝は、A級品ばかりであるから、愛親(新)覚羅氏の中でも本流しか存在を知らされていなかった。明治四十四年、辛亥革命の結果清朝が倒壊した時、その存在を知っていたのは幼帝溥儀の実父・醇親王と僅かの側近だけであった。前年紫禁城に入り、内廷の小院に住んでいた堀川辰吉郎がその存在を告げられたのは、愛親覚羅氏の本貫の地たる満洲(清朝の東三省)の宗主権を確保するための原資として、その活用を委ねられたのである。
既に観たように、奉天宮殿と熱河避暑山荘の清朝什宝は革命直後、早くもその処置が列強の関心を呼び、陶磁器と文遡閣の書籍に対してはわが皇室も取得希望を漏らしたが、大正2年に大総統・袁世凱が国務総理・熊希齢に命じて北京に移送させ、終に放出しなかった。乾隆帝の奉天秘宝がその間も奉天北陵に静まり返っていたのは、それだけ秘密が保たれていたのである。大正三年欧州大戦が勃発、日本の対華二十一箇条要求や袁世凱の帝政復帰工作が進む中で、堀川辰吉郎の命を受けた大谷光瑞が、乾隆秘宝を用いた工作を秘かに立案していた。
この辺で堀川辰吉郎の正体を明かさねば、本稿はもはや諸賢に認めて貰えまい。辰吉郎は明治十三年、孝明帝の血統を享けて京都の堀川御所に生まれた。明治二年、西郷・吉井・大久保の薩摩三傑が宮中改革を図り、孝明帝の女官を京都に留めたことは周知であるが、その女官たちは、維新後も京都堀川御所に住した京都皇統に仕えたのである。堀川御所は明治天皇の行在所を名目に設けられた施設で、堀川通り六条の日蓮宗本圀寺旧境内にあった。足利尊氏の叔父・日静上人が鎌倉本勝寺をこの地に移し、皇室鎮護の霊場として本国寺と称したが、水戸光圀により本圀寺と改めたこの名刹は昭和四十六年に山科区に移転したが、旧境内は実に広大で、現在の西本願寺もその一部を割譲されたものである。堀川御所は昭和三年に廃止されたと聞くが、皇統の本拠としての意義を果たし終えたからであろう。
注:長州ファイブ(通称マセソンボーイズ)
http://bakumatsu.org/events/view/400
彼ら5人はジャーディン・マセソン経由で英国へ渡るがその裏にはライオネル・ロスチャイルドがいたのです。そして山口県田布施町(朝鮮人部落)の伊藤博文を初代総理大臣にしてゆきます。それが勝者の歴史の始まりでした。
管理人注:ジャーディン・マセソンの関連記事
http://yaplog.jp/kenchicjunrei/archive/161
京都皇統の中核的人物として生まれた辰吉郎は、井上馨の実兄・重倉の籍に入ったが、生地に因み堀川姓を称した。(重倉については未詳だが、玄洋社員と聞く)。幼くして玄洋社に預けられた辰吉郎は、上京して学習院に入る。皇族・華族の子弟教育の機関で一般民の入学を初等科に限っていた学習院に入学したことは、辰吉郎の貴種たるを暗示する。明治三十二年、清国の革命家・孫文が日本に亡命した時、その支援を図る玄洋社は、実質社主・杉山茂丸の計らいにより、弱冠辰吉郎を孫文に付して、その片腕とした。
ここに至り、杉山の本性も明かさねばならぬが、茂丸は実は福岡藩主・黒田長溥の実子で、島津重豪の実孫に当たるが、長溥が実子・茂丸を杉山(竜造寺氏の男系)の籍に入れながら、藤堂家から養子を迎えて黒田家を継がせた深謀遠慮を解くには紙面がない。ともかく、常に伴う辰吉郎を日本皇子と称したことで、孫文の清人間に於ける信用が俄かに高まったのである。
杉山は玄洋社の石炭貿易を通じて、明治二十五年から上海の英国商人と相識り、在英ワンワールド勢力の実体を深く認識し、海洋国日本としては彼らとの提携に賭ける他ない事を覚り、以後は彼らの意向を日本政界に伝達すべく、渾身の力を注いでいた。近世史は、地政学でいう海洋勢力大英連邦と大陸勢力露西亜帝国によるグレート・ゲームの展開に他ならず、玄洋社の孫文支援は、海洋勢力の元締めたる在英ワンワールドの意向に沿うものであった。日清・日露の戦争も正にその一環で、海洋勢力の戦略上其の不可避なることを知る杉山は、ややもすれば非戦主義に傾く長州閥を調略・分断し、これも在英ワンワールドの薩摩支社となっていた薩摩閥の三巨頭、松方正義・樺山資紀・高島鞆之助を側面支援して開戦に踏み切らせたのである。
愛親覚羅氏が日本に接近するのは、日本の実力を目の当たりに見た日露戦争の後である。接近は西太后の側近・袁世凱を通じて行われたが、東京皇室は固より、政体・桂太郎内閣も敢えて対応を避けたのは、東京皇室と京都皇統の間に国務分担の密約があり、皇室外交と国際金融は京都皇統の分野だったからである。愛親覚羅の意を受けた杉山は、明治四十三年に辰吉郎を紫禁城に送り込むが、前年には中島比多吉が紫禁城に入り、幼帝溥儀に仕えて事前準備をしていた。
辰吉郎を盟主と仰ぐ京都皇統の芯核は孝明帝の祖父・光格帝由来の宮中勢力で、光格帝と実賛同血統の鷹司家を始めとする旧堂上の一部である。之に加えて、孝明帝の皇妹・和宮が将軍・家茂(紀州慶福)に降嫁した公武合体に発する紀州藩・会津藩の勢力もあった。辰吉郎傘下の実行部隊は玄洋社だけではなく、京都に根拠を張った寺社勢力がそれで、東西本願寺が当時の棟梁格であった。外郭の中で、最も強大な勢力は前述の薩摩ワンワールドで、在英海洋勢力の支部として杉山茂丸の指示に従いながら、辰吉郎の経綸を実行していた。また丹波大江山衆は、光格帝の実母・大江磐代(大鉄屋岩室氏)に由来する禁裏の外郭で、亀岡穴太村の上田吉松を頭として江戸時代から禁裏の諜報に携わっていたが、多くは玄洋社に誘われて満洲に渡って馬賊となり、或いは清国本部に潜入して国事に備えていた。彼らが創めた大本教が、玄洋社と並んで辰吉郎支援の実行部隊となり大正時代には民国内に実質支部の紅卍会を建て、辰吉郎はその日本総裁となる。
上田吉松と結んで大本教を開いた綾部の出口ナヲの次男・清吉は、高島鞆之助の計らいで近衛に入隊し、日清戦争後の台湾土民平定に参加したが、凱旋中の輸送船上で蒸発し、北清事変で軍事探偵・王文泰として手柄を挙げた後、満洲に渡って馬賊に投じた。この王文泰が馬賊仲間で三歳年下の張作霖を指導し、親日に誘導して日本陸軍の支援を取り付け、満洲の覇王に養成するのである。堀川辰吉郎は辛亥革命後、しばしば満洲に赴いて張作霖と慇懃を通じ、長子・学良と義兄弟の盟約を交わしたと謂う。
辰吉郎は、漢族自立を図る孫文、満洲保全を望む愛親覚羅氏の双方と親しく交わったが、その立場に毫も矛盾はなかったのは、蓋し双方とも満漢分離で一致していたからである。革命後の中華民国が民族独立に傾かず、旧清国領を保全して多民族の合衆国となった理由は良く解らないが、やはり在英ワンワールドの意向であることは間違いない。粛親王の宗社党と結び、満蒙独立を図った陸軍内の大連派は、このために大きく当てが狂ったのである。新生中華民国が群雄割拠となったのを国情の必然と覚った袁世凱は、共和政は不可能として帝政復帰を図るが、これを孫文にとって重大な障害と観た辰吉郎は、革命党に手を回して大正五年に袁を毒殺させたと聞く。袁の暗殺に先立って、乾隆秘宝を用いた張作霖支援を企てていた辰吉郎は、西本願寺の実質的法主・大谷光端を語らい、秘宝中でも価値の高い歴代の古陶磁を用いた作戦を立てさせた。大正三年から大連に移り現地の文化人を配下に収めた光端師は、満鉄秘書役・上田恭輔に古陶磁研究を命じ、これを受けた上田は大正五年の春、『明治紀要』に「支那陶磁ノ研究ヲ薦ム」を発表した。
宗社党の満蒙独立運動を支援した大隈内閣が、袁世凱の急死と同時に方向を転換し陸軍内大連派に撤兵を命じたのは、在英ワンワールドの意向に基づくものと思われる。そのため、粛親王と宗社党を支援していた日本陸軍内の大連派には、彼らの損害を補填すべき義務が生じ、参謀本部支那課長の浜面又助大佐は、その財源探しに四苦八苦していた。在英ワンワールドの戦略に従う辰吉郎は、張作霖を地方政権として育成し、満洲を特殊地域化する戦略を立てた。張作霖が乾隆秘宝を接収したのは大正五年十二月で、大連派に対するジェスチュアとして、秘宝強奪の形を取った。
明治末期、海洋勢力と大陸勢力の地球的規模の角遂、即ちグレートゲームが織り成す世界史は、従来両勢力の緩衝地帯であった中近東を統治していた中世帝国オスマン・トルコの解体に向かっていた。複合民族国家オスマン・トルコの支配階級はトルコ種で、スラブ・アラブ・イランなどの諸種族を統治していたから、海洋勢力の本宗イギリスは、民族自決を標榜してこれら諸民族にオスマン・トルコからの独立をけしかけ、封建領主に対する露骨な軍事援助により、多くの民族国家を樹立せしめた。
同じく複合民族国家の大清帝国は、支配階級は満族及び縁戚関係にある蒙古族であったが、領土領民の大部分は漢土漢族であった。客家の孫文が革命を指導し漢土(中華本部)における漢族の自決を実現したが、旧清国はあたかも乗っ取り合併によって成立した企業集団を再分割するにも似た状況となり、漢族自治から排除される側の満蒙族の故地と人民に付する統治権の帰趨が問題となった。
矢田行蔵・『満蒙独立秘史・紀州出身軍人の功績』によると、辛亥革命から三ヶ月経った明治四十五年の初春、北京では川島浪速が粛親王を擁し、満蒙を打って一丸とする新国家建設の計画を建て、蒙古王族のカラチン王やバリン王と往来して議を進めていた。粛親王の義弟カラチン王の所論は、「元来蒙古は支那の一部ではない。清朝そのものから恩顧を被った為、その統治に服したのであって支那の国家そのものとは何らの関係はない。今、清朝が亡びた以上、蒙古は当然支那とは関係なしに、独立すべきものである。しかしながら、蒙古にはその実力がないから、日本の支援によって、それを実現しなければならない。仮に民国が満洲朝廷を倒して、漢人の土地を快復するのは当然とするも、その為に蒙古まで自国の領土と見るようなことは、丁度他家の遺産を自分の所有とするも同然で、甚だしい誤りと云わねばならない」と謂うもので、パリン王も之に共鳴し、また自領が満州に接していたヒント王も同様であった。
海洋勢力の傘下に入り、大陸勢力の本宗たる帝政ロシア及び黄河流域勢力に対抗して極東の確保を担った日本は、漢族革命後に対処するため同年一月、参謀本部が高山公通大佐を参本付に補して北京に派遣すると、川島浪速が上の計画を明かしてその賛意を取り付けた。ここに日本は、中近東におけるイギリスの相似象を成すこととなったのである。高山大佐の指揮下に入った多賀宗之少佐と松井清助大尉は、宣統帝の熱河蒙塵の噂を聞き、身柄を途中で奪取して満蒙新国家の君主と仰ぐ計画を立てたが実行できず、代案として世襲親王家の粛親王を二月六日に旅順に落とし、之に応じて奉天将軍兼東三省総督・趙爾巽が起つことになった。高山大佐は参謀本部次長・福島安正中将に、
「粛親王兄弟は満洲蒙古において勤皇軍を起し、祖先の地に拠り他日民国の離散するを待たんとす。この北方に興る一国は一に我国の援助によるに至らんとす。右につき内地当局にたいし適当の御尽力ありたし」
と打電したので、福島次長は高山らを奉天に移転させて、配下の人数も増やした(これを以って奉天特務機関の嚆矢となす)。漢族の養子だが祖先が満族の趙爾巽は、国体護持を主張して清朝支持を明確にし、歩兵統領・張作霖・呉俊陞に命じて革命派と対立させ、満洲の革命派をほとんど消滅せしめた。
ところが二月十二日宣統帝が退位し清朝が崩壊すると、趙爾巽は機敏に袁世凱支持に回り、新政府の奉天都督(東三省総督の後身)に就いた。呉俊陞・張作霖も軌を一にして、袁世凱と趙の新体制を支持したので、粛親王・川島らは一挙に孤立した。
北京では松井清助大佐と木村直人大尉が蒙古独立工作を画策していた。カラチン王・パリン王・ヒント王ら蒙古王族を主体にして蒙古軍を結成し、日本から運んだ武器で蜂起させ、各王の領地を中華民国政府から独立させて新政権を建てる計画で、新たに派遣された貴志彌次郎中佐が多賀少佐と協同して日本での武器調達を担い、松井が武器の秘密輸送計画を練り、これに日本人馬賊薄天鬼(益三)が加わった。五月二十五日に武器輸送を開始し、支那荷馬車四十七台からなる輸送隊が、松井大尉の指揮下で薄天鬼に護衛されて公主領を出る。多賀少佐も追って公主領を出発、途中奉天に立ち寄り、高山大佐と貴志彌次郎中佐に会って画策した。
しかしながら、松井らの軍事行動は早くも民国官憲の注意を引き、奉天都督・趙爾巽の知るところとなった。蒙古独立軍は、趙都督武力阻止命令を受けた鄭家屯の歩兵統領・呉俊陞とタイシャポーで衝突し激戦となるが、奮闘空しく松井たちは民国官兵に捕縛される。この時貴志と高山が時計その他貴重品を売り払って仕入れた阿片を賄賂にして、ようやく簿天鬼たち捕虜を救出することができた。銃殺寸前九死に一生を得た松井らは六月二十六日生還し、その後も独立工作を続けたが、九月二十八日に関東都督・福島安正中将から突然中止の命令が下り、奉天特務機関長・高山大佐は同日付で守田大佐に更迭された。中止の理由を福島は、外交上の必要から蒙古工作中止の閣議決定がなされたと説明した。
以上が第一次満蒙独立運動(タイシャポー事件)のあらましであるが、陸軍中央が突然中止命令を出した背景について、巷間数説ある。
その一は、漢・満・蒙の一体国家を望んでいた英国が満蒙独立を妨げるため誘導したもので、日本政府日英同盟の下で海洋勢力(在英ワンワールド)の指揮に従わざるを得ず、支那通軍民の活発な活動も政府の外交方針に影響を与えることはなかったと謂う。
その二は、陸軍中央が革命政府を支持しており内政干渉を避けたとの説であるが、革命により漢族主権を恢復した中華本部の安定が海洋勢力にとって望ましいにしても、元来中華本部に含まれない満蒙の独立は漢族自立にはむしろ資する筈で、その点で肯い難い。さらに日本政府が日露協商に向けてロシア側に配慮したとの説は一応理に適うにしても、所詮イギリスの意向を無視して出来ることではない。
注目すべきは、海洋勢力は当時から満洲をユダヤ族究極の安住の地として予定しており、その大目的のために日本の関与による満蒙独立を排除したと謂う説で、その後イギリスがバルフォア宣言によりパレスチナにユダヤ国家を作ったのを見ると、あながち否定できない。
高山は独断専行の咎めを受けて同年九月、歩兵第二連隊長として内地に召還され、多賀少佐が残って(表向きは九月付で福州駐在)蒙古諸王との連絡に任じた。多賀は辮髪に支那服を纏って賀忠良と名乗り、その後も大正二年十月から数ヶ月の第三連隊付少佐以外は、漢土に常在して軍政官や軍事顧問を務めた。正にアラビアのロレンスの相似象である。
手元に、昭和九年頃に作成された『粛親王家對川島家事件概略』と題する文書があるが、書き出しは「明治四十四年清国の崩壊により、故粛親王は難を旅順に避け、密かに清朝の再興を謀りたり。大正四年に至り、当時の総理大臣・大隈伯の斡旋により、大蔵喜八郎男より金百万円を借りて、いわゆる蒙古軍事件を起したりしが、不幸にして失敗に終れり。その後日本国軍部より粛王府に更に軍事費補償の意味で五十万元を支給せり」とある。
第二次満蒙独立運動は大正四年、袁世凱の帝政復帰に反対する大隈内閣の方針を受けて、川島浪速が企てたもので、関東都督府陸軍部(後の関東軍)をはじめ、現役・予備役の軍人と民間の志士浪人が多数加わっていた。入江種矩大尉指揮の下に粛親王の第七王子・金璧東を奉じる馬賊隊が、打倒袁世凱の義旗を挙げる一方、青柳勝敏大尉が蒙古の英傑パプチャップの軍政を指導して満洲に侵入、その虚に乗じて木澤暢大尉が一挙奉天城を占領するという計画で、これに先立って、袁世凱と通じる奉天督軍・張作霖の暗殺を予備役少尉・三村豊と民間志士伊達順之助・志賀友吉が企てたが、失敗した。
挙兵に先立つ六月六日の袁世凱の突然死により、大隈内閣は方針を一変して満蒙独立計画の中止を命じたが、パプチャップの蒙古義軍は既に活動を開始していた。七月二十二日に内蒙古の突泉県で洮南鎮守使・呉俊陞
麾下の民国官軍と衝突した蒙古義軍は、以後連日の戦闘の末、八月十四日に郭家店を占領したが、日本政府の変心により、進退窮まるに至った。参謀本部は閣議決定を受けて、蒙古軍を無条件で撤兵させるため、支那課長・浜面又助大佐を急遽現地に派遣した。孤立無援となり武器もない蒙古義軍を素手で放置すれば、帰還の途上で民国官兵により殲滅されるのは必至と見た浜面大佐は、職を賭し独断を以って砲四門と小銃二千四百挺を義軍に与える。九月二日に郭家店を出発した蒙古義軍は、途中民国官兵と戦いながら林西城に至り、十月六日熱河都督麾下の林西鎮守使軍と交戦するが、この戦闘においてパプチャックが戦死し、第二次満蒙独立運動は終わりを告げた。
この混乱の中、八月付で西川乕次郎少将に替わって歩兵二十五旅団長・高山公通少将が関東都督府参謀長に補せられた。関東都督は二年前に福島安正から中村覺に交替したが、関東都督府を策源地として粛親王と同心の上満蒙独立運動を推進した彼らは旅順派と呼ばれた【先月号で大連派としたのは誤り】。浜面又助もその一人で、七年七月付で高山に替わって関東都督府参謀長となる(八年四月に関東軍参謀長と呼称変更)。
『粛親王家對川島家事件概略』には、満蒙独立運動の結果、粛親王府に残ったのは、政商大倉喜八郎からの資金と陸軍機密費を合計した百五十万円から諸費を差し引いた四十五万円であった。粛親王側ではこれを年八分で満鉄に預ける案を立てたが、川島浪速が反対し実弟の鉱山事業に投資すると称して費消してしまう。これを座視できない関東軍参謀長・浜面又助は、粛親王ら宗社党の支援のために関東軍で裏金を作った。大正八、九年頃、関東庁殖産課長・黒崎貞也とともに関東軍司令官・立花小一郎に談じて賛同を得たうえ、司令官より関東長官・林権助に商談して貰い、大連の土地五万三千坪を粛親王に貸下げ、その又貸しで親王に利益を得せしめるに至った経緯が述べられている。
粛親王を担いだ旅順派に対して、張作霖を支援したのが奉天派である。奉天派の頭領は明治四十五年四月から十二月まで陸相に就いた上原勇作で、一年余の病臥の後大正三年四月に教育総監、四年二月に参謀総長と陸軍の中枢にいた。上原が奉天派たる所以は高島鞆之助の後を継いで在英ワンワールド薩摩支部のグランド・マスターであったことにある。実効支配に重きを置く国際法からして国際社会が認めた民国政府を混乱させるのは得策ならずとする外務省も奉天派に与した。
上原の上には京都皇統の堀川辰吉郎が居たのだが、それを知る者は極めて少ない。辰吉郎は、光緒帝の実弟で宣統帝溥儀の実父・醇親王と秘かに結んでいて、ここから「乾隆秘宝」問題が生じて、大正九年奉天特務機関長・貴志彌次郎少将が活躍するのだが、今月の紙数は尽きた。
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