プロフィール~日本代表の思い出~
2011年01月08日 (土)大学三年生の春のリーグ戦は、早稲田に連勝するなど、好調のうちにおえることができました。実は、僕には利き腕とは反対の左肩に脱臼癖があり、ひどいときにはくしゃみをしただけで外れてしまうという状態でした。このシーズンも、序盤、試合中に脱臼に見舞われ、外れ方がひどく神宮球場から救急車で病院に直行ということもありました。もう、手負いのライオンみたいなものです。脱臼をしないよう、毎試合テーピングでぐるぐる巻きにして、それでもマウンドにあがりました。われながら、投球には鬼気迫るものがあったのかもしれません。
そんな姿が目に留まったのか、毎夏開かれる、日米の学生選抜による選手権大会のメンバーに選ばれました。東大のみならず、国立大学からは初めての選抜でした。
メディアでも話題になり、ある新聞のインタビューに、
「高校時代の胸のマークがNIIGATA、大学に入ってからはTOKYO、そして今度はJAPAN。いやあ、気分がいいですね」と
生意気なコメントを吐いたりしていました。
でも、大会では活躍はできませんでした。アメリカ選抜とは7試合を戦い、4勝3敗と勝ち越して終えることができたのですが、僕の出番は、一度の中継ぎで、打者2人だけ。それも四球とヒットと、ひとつのアウトもとれませんでした。ヒットを打たれた相手というのが、当時UCLAの主軸だったマーク・マグワイア選手。後に大リーグのカージナルスなどで活躍し、シーズン70本塁打という当時の大リーグ記録を打ち立てた選手です。
でも、この思い出は今もいろんなところでネタに使わせてもらっています。マグワイア選手には、実はレフトポールをはるかにこえる打球を打たれていました。マウンドから見ると、完全にやられたと思ったのですが、あまりに飛距離が出て見失ったのか、審判のコールは「ファウル」。気を取り直して投じた次の球をレフト前に運ばれました。単打なら上出来、とその時は思ったものです。今もそのことを振り返り、アメリカ勤務中などには、「あのマグワイアを、レフト前ヒットに押さえた男です」と自己紹介し、笑いをとったものです。
当時の日本代表メンバーには、ヤクルトなどで長距離砲としてならした明治の広澤克実、広島などで主軸を打った法政の小早川毅彦、阪神の名セカンドとなった日大の和田豊などがいました。大半がプロへ進んだそうそうたるメンバーで、今も、自分がその端くれにいたことが信じられない気分です。
投稿者:大越健介 | 投稿時間:11:41